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2018年08月01日号
次回9月3日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

KAC Performing Arts Program 2017/ Contemporary Dance ワークショップ&ディスカッション『ダンスの占拠/都市を占めるダンス』

会期:2018/03/24

京都芸術センター[京都府]

「都市におけるダンス」をテーマに、ダンスやダンサーを取り巻く現在の状況を再認識し、課題や展望を話し合う、ワークショップとディスカッションのプログラム。ほぼ丸一日にわたって行なわれたディスカッションの6つのセッションのうち、筆者は、手塚夏子のお話とワークショップ「フォルクスビューネの占拠にいて考えたこと」、「ダンサーが手を組むこと~労働としてのダンスと、互助組織、ネットワーク」、「若手ダンサーが求める課題と環境、そして機会」、「ダンス/地域/都市/社会/世界」の4つを聴講した。

まず、1つめのセッションでは、ダンサーの手塚夏子が、昨年ベルリンの劇場フォルクスビューネが占拠された現場での体験談を話した。ワークショップのようなものや炊き出しも行なわれ、現場は殺気立つというより穏やかな雰囲気だったというが、そこには、「対立の歴史が長いからこそ、運動を静かに続けることで対話を持続させよう」という静かな熱があるのではと手塚は話す。占拠事件の直接的なきっかけは、劇場総監督を25年間務め、実験的・問題提起的なアプローチで知られる演出家のフランク・カストルフが退任し、後任に元テート・ギャラリーの館長クリス・デーコンが着任したことで、これまで同劇場が培ってきた演劇文化や批判精神が失われるのではという反発が起こったことにある。手塚はさらに、「無骨ながらも創造的な街だったベルリンが、ジェントリフィケーションにより変容していくことに対する怒りも背景にあったのではないか。自分のアートが商品としてどう価値づけられるかという方向にアーティストの意識が変わっていくし、そうした意識のアーティストが入ってくる。60年代のジャドソン教会派のように、『タダ(に近い)場所』があることが重要。商品価値ではなく、何が自分たちのリアリティかを模索できる場所からこそ、何かが生まれる可能性がある」と話した。

「ダンサーが手を組むこと~労働としてのダンスと、互助組織、ネットワーク」のセッションでは、ダンサー・振付家の伊藤キムが、「ダンサーや振付家の労働組合をつくる」提言を行ない、議論の中心となった。プロデューサーや有名振付家など力のある相手に対し、ダンサーが個人でギャラなどの交渉に臨むことは難しいが、組合をつくって団体で交渉すればどうかという提言だ。そのためには、ダンサーは「踊りたいから踊る人」ではなく、職業人としての自覚を持つ必要があると訴えた。会場からも活発な意見が出され、演劇批評の藤原ちからは、俳優や制作者の労働環境問題についても触れつつ、「労働の対価として認められたものだけがアートなのか。今の日本社会や行政が求めるものという枠でアートをはかれるのか。アートの自律性についても丁寧に議論していくべきだ」と述べた。また、舞踊史研究者の古後奈緒子は、フランスの大学のカリキュラムを紹介し、労働基準法や契約の結び方についても教えること、ダンス史をきちんと学ぶことで自作の歴史的位置付けについて語れるように教育がなされていることについて話した。

最後のセッション「ダンス/地域/都市/社会/世界」では、神戸のNPO DANCE BOXのディレクター横堀ふみが、多文化が混淆する町の中にある劇場としての取り組みを紹介した。また、JCDN(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の佐東範一が、「踊りに行くぜ!」などのネットワーク整備や制作支援活動、震災を契機に始まった東北地方の芸能との交流をはかる「習いに行くぜ!」や三陸国際芸術祭の取り組みを紹介した。会場からの発言を交えてのディスカッションでは、公共ホールとの連携のあり方、「観客」の想定や育成、助成金頼みの体質からどう脱却するか、「コミュニティダンス」など地域で生まれるダンスのニーズなど、多岐にわたる論点が提出された。

若手、中堅、ベテランと層の厚いダンサーに加え、制作者やプロデューサーが集まって話し合い、刺激を与え合う貴重な機会だった。また、DANCE BOX(神戸)やJCDN(京都)など中間支援を行なう団体は関西に多い。こうした機会が今後も継続され、シーンの活性化につながることを願う。

2018/03/24(土)(高嶋慈)

BRDG vol.5「Whole」

会期:2018/03/16~2018/03/18

studio seedbox[京都府]

「BRDG」は、俳優・演出家の山口惠子と舞台制作者の川那辺香乃が2011年に立ち上げたユニットであり、本作は、京都という街の「ローカルな国際性」を演劇化するBRDGのシリーズ第3弾になる。

冒頭、床の上に置かれたヘッドホンから、演出と構成を手がける山口の声が流れてくる。「……海外に何らかのルーツを持つ7人の女性にインタビューを行ない、『声』を集めました。ヘッドホンから流れる声を聴いて、復唱してください」。舞台上にポツンと置かれたヘッドホンをおずおずと手に取る女優。彼女は、借り物の衣服を身に着けるように、やや居心地悪そうにヘッドホンを装着すると、聴こえてくる誰かの語りを自身の声を通して「再生」させ始める。「楽器を弾く仕草やリズムの中に、朝鮮半島の文化が身体に染みついていると感じる」と語る声。ヘッドホンを外して、その仕草を想像するように腕を動かし、自身の身体を他者の記憶にあてがうように動かす女優。声は途中でブツ切れになるが、また別の声がヘッドホンを介して次々と聴取/再生されていく。ロシア人の両親の下、日本で生まれ育ち、日本人としてのアイデンティティと見た目のギャップに悩むという声。母語の違いから、両親とは完全に理解し合えないという孤独感。あるいは、一方的に押し付けられる「ハーフ」像に対する違和感や苛立ち。戦後の京都でヤミ米を売っていたというコリアン女性や、タレントビザで来日し、ショービジネス界で働いていたフィリピン女性。1世にあたる彼女たちに対し、より若い世代の女性は、初めてフィリピンに里帰りした経験の珍しさを語る。遠い親戚に会いに、船に乗って川を下り湖へ。語る身体の上に、水泡のような光が投影され、染め上げていく。

OHPを用いて、めくるめく光と色彩が織りなすライブドローイングを行なう仙石彬人による美術が効果的だ。指紋や水面の波紋のような形象、枝分かれした川にも毛細血管にも見える細い線は、身体を微視的に精査するスコープのようでもあり、身体の内外にある無数の(境界)線を想起させる。白く光る線のもつれ合いは、読めない言語で書かれた文字の痙攣的な連なりにも、張り巡らされた鉄条網のようにも見える。そして、自分は「複雑」と思っていたが、アメリカ留学で多文化の出自が当たり前の環境に触れることで相対化されたというラストの語りでは、幾多の色彩がマーブル状に混ざり合いながら流出し、虹の光彩が花開いていく。

本作が秀逸なのは、「ドキュメンタリー」を基盤にしつつも、ヘッドホンという装置を巧みに使うことで、「声の一方的な簒奪」という暴力性を回避している点である。取材で録音した本人の声をそのまま流すのではなく、「再現」として演じるのでもなく、「ヘッドホン」という媒介を挟むことで間接性や距離感が発生し、「私のものではない誰かの声であること」が常にメタメッセージとして差し出されるのだ。それは同時に、「演劇」の原理や「俳優」の存在論的問いをも照射する。俳優とは、自分のものではない誰かの声を流し込まれる器であり、代替してしゃべる存在である。冒頭、「演出家の指示」を「絶対的な声」として流してみせた山口は、ドキュメンタリーがはらむ権力性と演劇の原理的構造の双方に対して極めて意識的である。

だが、本作は、そうした自省的な思考とともに、演劇的なある種の跳躍へと到達することに成功していた。「7人の女性へのインタビュー」と明言されてはいるものの、それぞれの語りは始まりと終わりの境界が曖昧で、聴いているうちに複数人の記憶が融解していくような感覚に陥っていく。あるいは、一人の女性が思い出すままに、若い頃、老年、あの土地、この土地でのことを語り、一人の人生の物語のようにも思われてくる。そして終盤、女優がいつの間にかヘッドホンを外して語っていることに気づいた瞬間、枷が外れたようで解放的に感じられた。流れてくる声に身を委ねていられることは、拘束や重しであるかもしれないのだ。その解放の瞬間はまた、俳優の身体を今まで通過していったいくつもの声が、体内で混ざり合い、濾過され、もう一つの別の声となって外に出された瞬間でもあった。





[Photo by Koichiro Kojima]

2018/03/16(金)(高嶋慈)

インダハウス・プロジェクツno.1『三月の5日間』

会期:2018/03/15~2018/03/24

ベルリン・セミナーハウス[神奈川県]

岡田利規の戯曲『三月の5日間』のラスト近く、女が道端で野糞をしているホームレスを犬と見間違え、そのことに衝撃を受けて嘔吐するという場面がある。山縣太一演出の『三月の5日間』を観ながら、この場面のことを思い出していた。あるいはこの場面を演じる「男優」が、直後に「女性用のリップクリームを出して、唇に塗」るというト書きのことを。身体と意味との間に生じる裂け目が強烈に気持ち悪い。

山縣が演出する作品では、俳優の発話と身体の動きとの間に大きなギャップがあるように見える。より正確に言えば、それぞれが別のラインによって、しかし強烈にコントロールされているように。しかしそもそも、発話と動作が一対一で対応している人間などいない。すべてを意識的に制御することなどできないほど無数のラインによって身体は動かされている。太一メソッドと呼ばれる技法が試みるのは、可能な限り細分化された多くのライン(そこには目や耳といった受容器官も含まれる)を俳優の意識の支配下におき、それぞれに別系統の命令を走らせることだ。

そのように私には見える。と言わなければならないのは、観客たる私は俳優の内部で起きていることを知る術を持たないからだ。言葉の向こうに立ち上がる異形の身体。言ってしまえばそれは単なる体の動きにすぎない。だが、得体が知れないがゆえに、言語化され得ない何かがそこに漏れ出ているようにも見える。イラク戦争の開戦を尻目にラブホに連泊する男女の言葉は軽薄だ。だがその身体が湛える何かは軽薄なだけでなく凶暴で張り詰めている。あるいはそれは、2018年から彼らをまなざす俳優/観客の、2003年という劇中の現在には存在しない感情にさえ見える。見えないはずのものが見えてしまう。

私は山縣の演出する作品がいつも薄っすら怖い。舞台上の俳優たちを見るうちに、私もベロリと剥かれているような気がしてくるからだ。恐怖に魅入られた私は俳優たちから目を逸らせない。

[撮影:三野新]


公式サイト:https://bellringsseminarhouse.tumblr.com/

2018/03/16(山﨑健太)

名取事務所『渇愛』

会期:2018/03/09~2018/03/18

下北沢B1[東京都]

美術教師のジェソプ(渡辺聡)は妻・ソヨン(森尾舞)と息子・ヒョンス(窪田良)と暮らしている。ある日、家を訪れた息子の友人・ジンギ(西山聖了)を見たソヨンは、「彼はかつて堕した子供の生まれ変わりだ」と言い出し、両親のいない彼を養子に迎える。ジンギに異常な愛情を注ぐソヨン。その愛情は一線を越える。母と交わるジンギの姿を目撃したヒョンスは彼を刺してしまう。母とジンギは出ていき、絶望したヒョンスは自ら命を絶つ。ところがその後、ソヨンは詐欺罪で投獄されてしまう。彼女もまた、ジンギに騙されていたのだった──。

韓国の劇作家・金旼貞(キム・ミンジョン)が実際の事件をもとに書いたという本作。一連の事件は、ジンギを殺そうと彼の部屋で待ち受けるジェソプによる断片的な回想のかたちで語られる。ジンギという「怪物」を中心に置いたサイコスリラーと思われた物語はしかし、徐々に現代版ギリシャ悲劇とでもいうべき様相を露わにしていく。短い場面を巧みにつなぐ寺十吾の演出が見事だ。

この物語がより悲劇的なのは、それがすでに起きてしまった出来事だからだ。シャーマンの一種「ムーダン」の家系に生まれたソヨンはかつて、ムーダンになるのが自分の運命であり、逆らえば家族に不幸が訪れるとジェソプに訴えていた。だが彼は世間から忌み嫌われるムーダンになる必要はないと彼女を説き伏せてしまう。結果から見れば、彼女の予言は正しかったと言うほかない。彼は起きることがわかっている悲劇を反芻する。そこに彼の意志が介入する余地はない。

それでもなお、悲劇は彼の選択を映したもので、だからこそこれは悲劇なのだ。ジェソプはさまざまな面でソヨンを抑圧していた。子供を堕したのも、ジェソプに十分な稼ぎがなかったからだ。ジンギは家族を狂わせたが、状況を準備したのはジェソプ自身だ。ジェソプは最終的に、ジンギを殺人犯に仕立てあげようと自ら喉を搔き切る。彼の命を奪うのは砕け散った鏡だ。

[撮影:坂内太]

公式サイト:http://www.nato.jp/index.html

2018/03/15(山﨑健太)

地点『正面に気をつけろ』

会期:2018/02/26~2018/03/11

アンダースロー[京都府]

地下茎のようにコードが絡まり合った電球が、天井から無数に垂れ下がる。電球の一つひとつには、ミニチュアの日の丸が2本、ハの字を描くように取り付けられている。それは、万歳のポーズで国旗を上げたまま落下していく人の形にも、頭上から降り注ぐ焼夷弾の雨のようにも見える。上下の平衡感覚も時間感覚も変調をきたしたこの奇妙な空間に、継ぎ接ぎの軍服のような衣装をまとい、頭に包帯を巻いた者たちが、重く疲れた身体を引きずりながらやってくる。「早く祀ってくれ」「俺たちはこの国をつくった社会に殺された」「生きているのか死んでいるのか分からない」と口々に叫び、嘆願し、文句を垂れ、観客を煽ろうとする彼らは、「英霊たち」であるようだ。本作を地点のレパートリー作品として書き下ろした松原俊太郎は、第一次世界大戦中の脱走兵を描いたブレヒトの戯曲『ファッツァー』を、現代日本に設定を変えて翻案した。


[撮影:松見拓也]


劇の進行につれ、彼らの「声」には「英霊」だけでなく、波にさらわれたことを語る「津波の死者たち」も混ざっていることが分かる。「私たちは既に死んだのに、何かを産み出せるなんてすごいじゃない」──ここに至り、英霊/津波の死者たちはともに、「私たち」つまり「国家」によって搾取され、二重の意味で犠牲者であるという同質性が開示される。執拗に繰り返される「参ったなー」という台詞と、こめかみに指を当てる仕草。その仕草は、何かを懸命に思い出そうとしているようでもあり、敬礼にも見え、ピストル自殺も仄めかす。反復は意味の固定に向かうのではなく、解釈の多義性を増幅させていく。そして「忘却」こそが、繰り返される台詞と身振りの執拗な反復を生んでいるのだ。だから、亡霊たちの過剰なまでの饒舌さは止むことがない。

壁際に沿って蠢き、痙攣し、寄りかかり合い、もつれ合う「彼ら」の身体と客席との間には、銀色に光る浅い溝が塹壕のように横たわっている。その「塹壕」を彼らの一人が越え出ると、コンビニの入店チャイムのような音とともに、赤い警報ライトが明滅する。その場違いな組み合わせは、「日常」と「戦争」、資本主義と国家的欲望としての戦争が結び付く回路を示唆し、震撼させる。また、「支配するものと支配されるもの」の関係について語る彼らは、数字のカウントを繰り返しながら、数で分割していく統治と管理の論理について語る。そして終盤、気をつけるべき「正面」とは前から来るもの、つまり「未来」であることが告げられる。

現状批判の一点に終始したきらいはあるものの、地点の『ファッツァー』をはじめ過去数作で音楽を担当したバンド「空間現代」が弾丸のように繰り出す予測不可能な音響と相まって、凄まじいテンションと熱量を抱えたまま疾走した作品だった。


[撮影:松見拓也]

2018/03/11(日)(高嶋慈)

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