2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

新宅加奈子「I'm still alive」

会期:2018/06/26~2018/07/01

KUNST ARZT[京都府]

背中、肩、腕、胸、顔や髪の毛に至るまで、裸の全身に極彩色の絵具をまとった写真が並んでいる。接写された皮膚の表面は、たった今流れた鮮血のようにテラテラと光り、あるいは乾いて凝固し、爬虫類の皮や鱗をまとったかのような複雑な肌理を獲得している。上半身をフレーム内に収めた写真では、胎児のように丸めた背中に腕を回し、自らの身体を抱きしめるようなポーズが取られている。新宅加奈子は、自身の裸に絵具をまとう行為を作品化する作家であり、自分が「今ここにいる」現実感が希薄化してしまう恐怖を取り除き、生の実感を取り戻すための「儀式」として行なっているのだという。会場では、写真作品の展示に加え、毎日約4時間、裸身に絵具をまとい続けるパフォーマンスが行なわれた。日が経つにつれ、床には身体から滴り落ちた絵具が堆積し、作家が不在の時間帯は、椅子の座面や絵具の上に残された足跡が、身体がそこにあった痕跡を物語る。

新宅の作品は、美術史的にはボディ・アートの文脈に接続可能であるとともに、「身体表面に絵具をまとう」行為を全身へと拡張させることで、自らの身体をメディウムに、絵画/彫刻という制度的な弁別を撹乱ないし無効化させる行為であるとも言える。だが、「I'm still alive」というタイトル(生存証明としてこの文言の電報を作品化した河原温を想起させる)が示すように、生の実感や実存の切実な回復、とりわけ外界との界面である皮膚と物質との接触を通じた儀式的行為という点で想起されたのは、塩田千春の初期作品《Bathroom》(1999)である。これは、浴槽に浸かった塩田が泥で身体を洗い流し続けるパフォーマンスを記録した映像作品である。汚れを洗い流し、清めようとする行為それ自体が汚濁を増幅するというジレンマが提示され、行為の反復が、洗い流す/汚すという正反対の行為の決定不可能性を強調する。

一方、数時間に及ぶ新宅のパフォーマンスにおいては、行為の反復性よりも、濡れて乾くまでの「時間的持続」が重要な要素なのではないか。生の実感を回復させるために身体表面に塗られる絵具は、おそらく、自傷行為で流れる鮮血の代替物である。何かに耐えるように、うずくまった姿勢で座り続ける新宅の身体の表面では、擬似的に開かれた傷口から流れ出た鮮血=絵具が滴り落ち、色が混ざり合い、ゆっくりと乾き、ひび割れながら、かさぶた=傷口を覆って外界から保護する被膜としてのもう一つの「皮膚」を形成していくのだ。傷口から流出した血がやがて身を守る外殻へと変成すること。その時間の持続に耐えること。彼女のパフォーマンスを見る私たち観客も、性別や人種、生物の種さえも超えたような「新たな皮膚」の生成過程に、痛みの感覚とともに立ち会うのだ。


2018/06/30(土)(高嶋慈)

平田オリザ『日本文学盛衰史』

吉祥寺シアター[東京都]

高橋源一郎の小説を原作とした平田オリザの演出による演劇『日本文学盛衰史』を見る。数多くの文豪が次々に登場するため(俳優も性別を超えて、役をかけ持ちしたり、最後は胸に名札をつけていた)、最初は誰が誰なのかを把握できず、とまどうが、現代にも射程を伸ばしながら、日本近代文学史の諸問題を考えさせる内容だった。すなわち、明治期の文学者が言文一致を模索し、内面を発見する一方で、国家と言語の関係を意識した歴史を、和風建築の料亭で開催された4人の葬儀を通じて、ポストモダン的に検証していく(ラストは駆け足で、AIが小説を執筆するようなSF的な未来予測も!)。これまでとは異質の語りと身ぶりを演劇において提示したチェルフィッチュの『三月の5日間』も引用されるなど、笑わせるシーンも少なくない。それにしても、原作に込められた濃密な情報量と、さまざまな参照群を演劇化する平田の手腕は見事である。

われわれが当たり前だと思っている、小説という形式や世界の認識。それが近代においてどのように生成したかは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』などでも論じられたテーマだが、小説や演劇という方法によっても実験的に表現可能であることに驚かされた。特に演劇はライブであるからこそ、いままさに起きている日々の時事問題も組み込みながら、随時、台詞を改変していく(例えば、開演前のナレーションにおける「日本大学盛衰史」という読み違え)。現在、日本の政治は、言葉と文書を徹底的に軽く扱い、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』のような事態がリアルに進行している。そうしたタイミングだからこそ、いま「日本文学盛衰史」が演じられることに大きな意味があるはずだ。ところで、この演劇を見ながら、やはりまったく新しい経験をすることになった日本近代建築でも同じようなことができないかと考えさせられた。

2018/06/23(土)(五十嵐太郎)

akakilike『家族写真』

会期:2018/06/22~2018/06/24

d-倉庫[東京都]

akakilikeはダンサー・演出家の倉田翠とテクニカルスタッフのユニット。本作は倉田と写真家・前谷開との共同制作企画として2016年に初演され、今回は初演の出演者にダンサー・佐藤健大朗を加えての「再演」となった。

舞台装置は会議室で使うような折りたたみ式の長机のみ。出演者のうち年長の(ように見える)男女(筒井潤と寺田みさこ)と年少の(ように見える)男女(前谷開と迫沼莉子)が机を囲む。筒井の「もしな もし もしやで お父さんが 死んだらやけどな」という言葉が4人が家族であることを示唆するが、それでは左右の壁際で彼らを見つめる若い男女(竹内英明と倉田)は誰だろうか。筒井がしきりに自らの死を語ることもあり、竹内と倉田は父亡きあとの、成長した子供たちのようにも見える。食卓を囲む家族は在りし日の回想だろうか。本作において言葉を発するのは筒井だけで、しかもそれはほとんどが保険金の話だ。彼らの動きや立ち位置は交錯していき、ひとつの解が与えられることはない。

[撮影:平澤直幸]

彼らは一人ひとりばらばらに踊り続けるが、「家族写真」を撮る瞬間だけは揃ってポーズを取る。家族であることを保証する唯一の瞬間。家族として共有できる記憶は個人の記憶の一部にすぎない。自分以外の家族がどのような思いを抱いているかを知る術などない。前谷は上演中、家族写真以外にも無数の写真を撮る。終演後のロビーや写真集で見ることのできるそれらの写真では、自らシャッターを切った前谷だけがこちらを見据えている。前谷の「家族」の記憶は他の出演者には共有されない。

ひとつの家族の記憶として見るならば互いに矛盾するかのような場面によって『家族写真』は構成されている。近親相姦的な欲望の発露にも見える暴力的な、あるいは苦しみもがくような動きも多い。前谷に首を絞められた倉田が吐血する場面さえある。それらは「家族」が本来的に孕む不穏さなのかもしれない。寄り添う共同体で個人はぶつかり合い軋みをあげている。

[撮影:平澤直幸]

[撮影:前谷開]

公式ページ:https://akakilike.jimdo.com/works/家族写真/

2018/06/22(山﨑健太)

犬飼勝哉『木星のおおよその大きさ』

会期:2018/06/20~2018/06/25

こまばアゴラ劇場[東京都]

「宇宙は社会の縮図である」とキャッチコピーを掲げた犬飼勝哉が全七場の連作で描くのは〈(株)ジュピター〉を取り巻く人間模様。意味のない会話や冗長な社交辞令が延々と続くなかに社会/会社が抱える「おかしさ」が浮かび上がる。

例えば女性への偏見。第一場「木星の日面通過」では女性社員(深澤しほ)が喫煙所にたむろする男性社員への不満をだらだらと口にするのだが、彼女もまたさりげなくタバコを取り出し、男性社員のひとり(前原瑞樹)はそれに引いてしまう。女性はタバコを吸わない、あるいは吸わないでほしいという勝手なイメージを押しつける男性は少なくない。第二場「木星からの物体X」には取引先の女性(西山真来)に対し「てっきり、男性の方だと思ってまして」「やはり女性の方だと」などと連発する男性社員(浅井浩介)が登場する。誇張されたやりとりは笑いを生むが、これらが偏見に基づくセクハラであることは言うまでもない。

女性/男性への固定観念を持っているのは登場人物だけではない。描かれる「あるある」のなかには女性社員同士のランチタイムの駆け引きや男子トイレでのマウントなども含まれている。観客もまたそれらを「あるある」だと認識しているからこそそこに笑いが生じるのであって、それに気づくとはたしてこれは笑ってよいものかと考えてしまう。

一歩引いた場所から人間社会にアイロニカルな視線を投げかけている者もいる。「個体増殖のしかたが、少し複雑すぎる」などと人間を揶揄する串田(本橋龍)が観客に自ら説明するところによると、彼はその見た目とは異なり「およそ2万年前に、この星に落下してきた」「いまあなたが見ているモノに見える」生命体らしい。それはもちろん俳優としての宣言でもあるわけだが、しかし観察者を装う彼が誰よりも他人の視線によって自らのありようを規定されてしまっているというのも皮肉な話だ。アイロニカルな視線は「観客」にも向けられている。

[撮影:冨田粥]

公式サイト:http://astronautsboard.com/

※本文中の出演者名に誤りがありましたので、2018年7月4日、修正いたしました。謹んでお詫び申し上げます。

2018/06/21(山﨑健太)

ダダルズ#1『MからSへ』

会期:2018/06/16~2018/06/18

新宿眼科画廊スペースO[東京都]

他者との関係を「うまく」結ぶことのできない人々。そのあまりの「うまくいかなさ」に笑ううち、いつしか私は居心地の悪さを感じていた。

『MからSへ』に登場する3人はそれぞれに弱さを抱えている。同僚(永山由里恵)の財布から金を抜き取る女(大谷ひかる)。発覚し返金を求められ、それに応じようとはするものの、期日までに満額を用意することができない。女はあろうことか二、三度会ったことがあるだけの男(横田僚平)を、事情を知らせぬままに同僚との待ち合わせの場所に同席させ、その場で借金を申し込む。男は男で、無職であるにもかかわらず親に頼るから問題ないとそれを引き受けてしまう。同僚は納得がいかず食い下がるが、いたたまれなくなった女は2人を残してその場から逃げ出してしまう。

女はどうしようもない人間だが、それはまさにどうしようもないこととしてある。女はおそらく、盗みを働こうとも、借金を踏み倒してやろうとも強くは思っていない。誘惑に負け、プレッシャーに負け、嫌なことからただ逃げたいという消極的な意志があるだけだ。女もそれを自覚していて、だからこそお金を「返さないかもしれません」「先に謝っておきます」などと口走る。それもまた弱さの表われでしかないのは言うまでもない。

男は男で、端から見れば意味不明な言動をしばしば取り、円滑に会話をこなすことができない。その反動のようにして、たかられているとわかっていても女に金を貸してしまう。そんなものでも関係を求めてしまう。唯一「まとも」なのが同僚の女だが、彼女は順序立ててものごとを説明することが苦手で、そんな自分が許せない。失敗を許せない弱さは正論を振りかざすというかたちで他人に向かう。

大石恵美の戯曲と演出、それに応える俳優の演技が描き出す彼らの弱さは極めて解像度が高い。裁きも許しも啓蒙もなく、淡々と観客の前に投げ出されるそれ。観客に求められているのは、ただそれに付き合うことだ。

公式ページ:https://twitter.com/dadaruzu_net

2018/06/18(山﨑健太)

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