2018年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Re-search and Re-direction: かかわりの技法 関連上演 かもめマシーン『俺が代』

会期:2018/06/30

京都芸術センター[京都府]

ピッピッピッピッという時報が規則的な音を刻む。1人の女性が客席の間から現われ、舞台奥へ進むと、厳粛な宣言でも始めるように、姿勢を正し、朗々とした声を発し始める。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、……」。戦後に制定された「日本国憲法」の基本的理念が述べられる「前文」である。

かもめマシーンの『俺が代』は、日本国憲法の抜粋(前文、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」(いわゆる第九条)、第三章「国民の権利及び義務」、第十章「最高法規」)をベースに、1947年当時の文部省による教科書『あたらしい憲法のはなし』、「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の演説、そして憲法草案の審議を行なった憲法改正特別委員会での芦田均の演説を「台本」として用いる演劇作品である。日本国憲法とそれにまつわる複数のテクストや演説は、俳優の清水穂奈美によるソロパフォーマンスとして演じられる。舞台中央に設えられた正方形の舞台装置には水が張られ、枯れ木のようなオブジェが立っている。彼女はそれに相対し、あるいは逡巡するように周囲をぐるぐると回りながら、抑揚や感情の濃度を自在に変化させ、憲法や演説の言葉を現実空間のなかに身体化させていく。一語一語の意味を噛みしめるように、慎重に重々しく発語される前文。一転して、同時期に巷に流れていたヒット曲「東京ブギウギ」をバックに発される『あたらしい憲法のはなし』は、いきなり感情のトップギアに入る。泣き叫び、狂ったように身もだえするその様子は、民主的な憲法を得た喜びを狂喜さながら全身で体現するようにも、敗戦の傷や痛みに引き裂かれているようにも見える。「老婆心ながら」と前置きし、新憲法の理念の崇高さとそれを守る困難さを訴える尾崎行雄の演説のくだりでは、腰をかがめ、緩慢な動作で、老人の口調の演技がなされる。しかし、演説が次第に熱を帯びるとともに、その口調はリズミカルなラップ調に一転し、「お前たちは国家を背負って立つ抱負がない」と挑発するようにたたみかける。このように本作の前半では、憲法や政治家の演説を「いかに出力のモードを変えて発語できるか」が実験的に繰り出され、「憲法の脱ニュートラル化」が図られる。


[写真:前谷開]

ここで、同様に現行の日本国憲法を上演台本に使用し、旧憲法や日本の現代史に関わる演説や小説などをコラージュして用いた演劇作品として、地点『CHITENの近現代語』が想起される。地点のこの作品では、5~6名の俳優がそれぞれの発語パートを分担/分断し、あるいはユニゾンで発語することで、ポリフォニックな多声構造と音響的解体によって声の多層化と分裂が企てられていた。それは、「臣民/国民」として数値に回収され、「単一の声」へと統合されることに対する演劇的な抵抗である。

対して『俺が代』では、後半に最大の仕掛けが用意されている。冒頭の日本国憲法前文が再度繰り返されるのだが、「国民」という単語を「俺」に、「諸国民」を「あいつら」「みんな」に変換して読まれるのだ。緊張した面持ちで、水の中に足を踏み入れ、象徴化された「木」を見つめる俳優。次第に高ぶり出す感情。「俺は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、俺と俺の子孫のために、あいつらとの協和による成果と、俺の国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が俺に存することを宣言し、この憲法を確定する……」。続くオリジナルの部分では、「俺」が、テロや戦争、非人道的な圧制、自由主義経済によって、世界各地で殺され続けていることが述べられる。「俺」の自由と生命、尊厳がいとも容易く踏みにじられる現実だからこそ、「俺は、俺の名誉にかけ、全力でこの崇高な理想を達成することを誓う」ことが最後に悲痛な宣言として発される。


[写真:前谷開]

『俺が代』は、日本国憲法という「書かれたテクスト」において、「国民」として抽象化・一般化された存在を、再び一人称単数形すなわち一人ひとりの「個人」として取り戻し、「個人の考えるべき問題」に引き寄せる試みである。その奪還の作業を身体的な発語を通して行なう点に、本作が示す「演劇」の可能性がある。「日本国憲法」は、個人による発語として「上演」されねばならない──ここに、本作の優れてクリティカルな政治性がある。清水の圧倒的なパフォーマンスの力が、それを支えている。だがここで、「俺」という言葉は「ひたむきな熱さや決意の強さ」を示す一方、日本語固有のジェンダー的なコノテーションがべったりと貼り付いていることに注意しよう。ニュートラルな「私」とは異なり、マッチョな「強い男性性」が付与された発語主体に限定してしまう。そうした「俺」という一人称を、あえて女性の俳優に発語させることで、言語(日本語)が内包するジェンダー的な偏差を撹乱し、内破しようとすること。ここに、(上記の政治性とは別種の)本作におけるもうひとつの戦略的な政治性がある。

関連レビュー

地点『CHITENの近現代語』|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/06/30(土)(高嶋慈)

プレビュー:したため#6『文字移植』

会期:2018/08/11~2018/08/14

こまばアゴラ劇場[東京都]

「したため」は、京都を拠点に、演出家の和田ながらが主宰する演劇ユニット。和田は、2015年に創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5で最優秀作品賞を受賞、2018年に「こまばアゴラ演出家コンクール」で観客賞を受賞するなど、気鋭の演出家である。2016年初演のしたための代表作『文字移植』が、待望の再演とともに初の東京公演を果たす。ドイツ語と日本語を往還しながら創作する小説家、多和田葉子の初期短編『文字移植』を演劇、すなわち俳優の身体へと「移植」した本作は、美術家の林葵衣による優れた舞台美術の力とあいまって、テクストが内包する諸要素―翻訳の(不)可能性、異言語への越境、言語の物質的抵抗、それに伴う身体的苦痛や違和、ポストコロニアリズム、男性中心主義への批評―を鮮やかに浮かび上がらせた。また、『文字移植』の姉妹編とも言える『ディクテ』では、コリアン・ディアスポラの作家テレサ・ハッキョン・チャによる、多言語と多様な文体のコラージュからなる実験的なテクストを上演台本に用いて、同様の主題群にさらなるアプローチを試みている。『ディクテ』という、難解かつ「言語(母語の使用)」「他者を体内に容れる」という演劇にとって本質的な問題をはらんだテクストを通過したしたためが、どのように深化した再演を見せてくれるのか、非常に楽しみだ。


公式ページ:http://shitatame.blogspot.com/

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したため#4『文字移植』|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/06/30(土)(高嶋慈)

新宅加奈子「I'm still alive」

会期:2018/06/26~2018/07/01

KUNST ARZT[京都府]

背中、肩、腕、胸、顔や髪の毛に至るまで、裸の全身に極彩色の絵具をまとった写真が並んでいる。接写された皮膚の表面は、たった今流れた鮮血のようにテラテラと光り、あるいは乾いて凝固し、爬虫類の皮や鱗をまとったかのような複雑な肌理を獲得している。上半身をフレーム内に収めた写真では、胎児のように丸めた背中に腕を回し、自らの身体を抱きしめるようなポーズが取られている。新宅加奈子は、自身の裸に絵具をまとう行為を作品化する作家であり、自分が「今ここにいる」現実感が希薄化してしまう恐怖を取り除き、生の実感を取り戻すための「儀式」として行なっているのだという。会場では、写真作品の展示に加え、毎日約4時間、裸身に絵具をまとい続けるパフォーマンスが行なわれた。日が経つにつれ、床には身体から滴り落ちた絵具が堆積し、作家が不在の時間帯は、椅子の座面や絵具の上に残された足跡が、身体がそこにあった痕跡を物語る。

新宅の作品は、美術史的にはボディ・アートの文脈に接続可能であるとともに、「身体表面に絵具をまとう」行為を全身へと拡張させることで、自らの身体をメディウムに、絵画/彫刻という制度的な弁別を撹乱ないし無効化させる行為であるとも言える。だが、「I'm still alive」というタイトル(生存証明としてこの文言の電報を作品化した河原温を想起させる)が示すように、生の実感や実存の切実な回復、とりわけ外界との界面である皮膚と物質との接触を通じた儀式的行為という点で想起されたのは、塩田千春の初期作品《Bathroom》(1999)である。これは、浴槽に浸かった塩田が泥で身体を洗い流し続けるパフォーマンスを記録した映像作品である。汚れを洗い流し、清めようとする行為それ自体が汚濁を増幅するというジレンマが提示され、行為の反復が、洗い流す/汚すという正反対の行為の決定不可能性を強調する。

一方、数時間に及ぶ新宅のパフォーマンスにおいては、行為の反復性よりも、濡れて乾くまでの「時間的持続」が重要な要素なのではないか。生の実感を回復させるために身体表面に塗られる絵具は、おそらく、自傷行為で流れる鮮血の代替物である。何かに耐えるように、うずくまった姿勢で座り続ける新宅の身体の表面では、擬似的に開かれた傷口から流れ出た鮮血=絵具が滴り落ち、色が混ざり合い、ゆっくりと乾き、ひび割れながら、かさぶた=傷口を覆って外界から保護する被膜としてのもう一つの「皮膚」を形成していくのだ。傷口から流出した血がやがて身を守る外殻へと変成すること。その時間の持続に耐えること。彼女のパフォーマンスを見る私たち観客も、性別や人種、生物の種さえも超えたような「新たな皮膚」の生成過程に、痛みの感覚とともに立ち会うのだ。


2018/06/30(土)(高嶋慈)

平田オリザ『日本文学盛衰史』

吉祥寺シアター[東京都]

高橋源一郎の小説を原作とした平田オリザの演出による演劇『日本文学盛衰史』を見る。数多くの文豪が次々に登場するため(俳優も性別を超えて、役をかけ持ちしたり、最後は胸に名札をつけていた)、最初は誰が誰なのかを把握できず、とまどうが、現代にも射程を伸ばしながら、日本近代文学史の諸問題を考えさせる内容だった。すなわち、明治期の文学者が言文一致を模索し、内面を発見する一方で、国家と言語の関係を意識した歴史を、和風建築の料亭で開催された4人の葬儀を通じて、ポストモダン的に検証していく(ラストは駆け足で、AIが小説を執筆するようなSF的な未来予測も!)。これまでとは異質の語りと身ぶりを演劇において提示したチェルフィッチュの『三月の5日間』も引用されるなど、笑わせるシーンも少なくない。それにしても、原作に込められた濃密な情報量と、さまざまな参照群を演劇化する平田の手腕は見事である。

われわれが当たり前だと思っている、小説という形式や世界の認識。それが近代においてどのように生成したかは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』などでも論じられたテーマだが、小説や演劇という方法によっても実験的に表現可能であることに驚かされた。特に演劇はライブであるからこそ、いままさに起きている日々の時事問題も組み込みながら、随時、台詞を改変していく(例えば、開演前のナレーションにおける「日本大学盛衰史」という読み違え)。現在、日本の政治は、言葉と文書を徹底的に軽く扱い、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』のような事態がリアルに進行している。そうしたタイミングだからこそ、いま「日本文学盛衰史」が演じられることに大きな意味があるはずだ。ところで、この演劇を見ながら、やはりまったく新しい経験をすることになった日本近代建築でも同じようなことができないかと考えさせられた。

2018/06/23(土)(五十嵐太郎)

akakilike『家族写真』

会期:2018/06/22~2018/06/24

d-倉庫[東京都]

akakilikeはダンサー・演出家の倉田翠とテクニカルスタッフのユニット。本作は倉田と写真家・前谷開との共同制作企画として2016年に初演され、今回は初演の出演者にダンサー・佐藤健大朗を加えての「再演」となった。

舞台装置は会議室で使うような折りたたみ式の長机のみ。出演者のうち年長の(ように見える)男女(筒井潤と寺田みさこ)と年少の(ように見える)男女(前谷開と迫沼莉子)が机を囲む。筒井の「もしな もし もしやで お父さんが 死んだらやけどな」という言葉が4人が家族であることを示唆するが、それでは左右の壁際で彼らを見つめる若い男女(竹内英明と倉田)は誰だろうか。筒井がしきりに自らの死を語ることもあり、竹内と倉田は父亡きあとの、成長した子供たちのようにも見える。食卓を囲む家族は在りし日の回想だろうか。本作において言葉を発するのは筒井だけで、しかもそれはほとんどが保険金の話だ。彼らの動きや立ち位置は交錯していき、ひとつの解が与えられることはない。

[撮影:平澤直幸]

彼らは一人ひとりばらばらに踊り続けるが、「家族写真」を撮る瞬間だけは揃ってポーズを取る。家族であることを保証する唯一の瞬間。家族として共有できる記憶は個人の記憶の一部にすぎない。自分以外の家族がどのような思いを抱いているかを知る術などない。前谷は上演中、家族写真以外にも無数の写真を撮る。終演後のロビーや写真集で見ることのできるそれらの写真では、自らシャッターを切った前谷だけがこちらを見据えている。前谷の「家族」の記憶は他の出演者には共有されない。

ひとつの家族の記憶として見るならば互いに矛盾するかのような場面によって『家族写真』は構成されている。近親相姦的な欲望の発露にも見える暴力的な、あるいは苦しみもがくような動きも多い。前谷に首を絞められた倉田が吐血する場面さえある。それらは「家族」が本来的に孕む不穏さなのかもしれない。寄り添う共同体で個人はぶつかり合い軋みをあげている。

[撮影:平澤直幸]

[撮影:前谷開]

公式ページ:https://akakilike.jimdo.com/works/家族写真/

2018/06/22(山﨑健太)

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