2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

SPIELART マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』

会期:2017/10/28~2017/10/31

Gasteig Black Box[ドイツ]

2020年、我が国は素晴らしい国になっているだろう。政府は遠大な目標を掲げ、子供たちに来たるべき未来都市を描かせる。輝かしき夢。その一部となることは誇るべきことだ。そう信じられていた。だが2016年、政府は新たに2050年に照準を合わせたビジョンを掲げる。2020年のことなどなかったかのように──。マレーシアの話だ。ミュンヘンで開催される国際舞台芸術祭SPIELARTで初演を迎えたマーク・テの新作ドキュメンタリー演劇は、政府の掲げた2つのビジョンを題材とする。

クアラルンプールを拠点に活動するマーク・テは演出家、キュレーター、研究者、アクティビストと多くの顔を持つアーティスト。日本でも2016年に『Baling(バリン)』が横浜と京都で上演されている。社会的問題を大きな枠組みとして扱いながら、そのなかにいる個人に焦点をあてる手つきは本作にも共通している。

本作に登場する4人のパフォーマーは皆、1996年に政府が発表した2020年への国家的ビジョンWawasan 2020のパラダイムの下で育ってきた。未来都市を描いた絵が表彰されることは、マスゲームを視察する大統領と視線が合うことは素晴らしいことだった。その先には輝かしい未来が待っているのだから。自らの体験を語るパフォーマーたち。だが政府は何食わぬ顔で目標を延期する。Transformasi Nasional 2050? その頃にはもう60歳じゃないか! 夢見た未来は奪われた。

公共の場である広場にテントを建てて占拠する反政府デモは、大地を自らの下に取り戻すための営みだ。Tomorrow belongs to us. パフォーマーたちは足元の人工芝を剥がし、むき出しになった床面に小さなライトを置いていく。灯る明かりは人々の描く夢だ。未来を描くことは個人の手に取り戻さなければならない。本作が個人史に焦点をあてているのはそのためだ。個人の夢の先にこそ、望ましい国の未来が待っている。

ロマンチックに過ぎるだろうか? そうかもしれない。だが日本人は、いや、私はきちんと夢を見られているだろうか?

本作は2018年2月から3月にかけて開催されるシアターコモンズの一環として来日する。プログラムの詳細は12月下旬公開とのこと。




マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』
SPIELART 2017 // Mark Teh – VERSION 2020 // Interview und Porträt:https://youtu.be/nTgDi8BIpUk
公式サイト:
http://spielart.org/programm/all/?no_cache=1&vid=284&L=1
シアターコモンズ’18:http://theatercommons.tokyo/

2017/10/30(月)(山﨑健太)

プレビュー:岸井戯曲を上演する in OSAKA #0

会期:2017/12/27

阿倍野長屋[大阪府]

劇作家、岸井大輔の戯曲を上演する企画。岸井の戯曲は、台詞やト書のある台本のようなものではなく、インストラクションや命題のようなものの提示や、詩や散文的な文章である点が大きな特徴だ。「岸井戯曲を上演する」という企画は、横浜のblanClassで2016年9月から2017年7月まで、10カ月にわたって行なわれた。毎月、何組かの演劇、美術、ダンス、音楽など異ジャンルの人が同じ戯曲をそれぞれ上演し、終演後に話し合うというもので、「上演する」ことを通して対話の場が生まれることを広く「劇」と捉えた企画であった。
今回の「岸井戯曲を上演する in OSAKA #0」では、関西を拠点とする6人の演出家やダンサーたちが、それぞれ別の戯曲を選び、上演する。伊藤拓也(演出家)、劇団「うんなま(演出:繁澤邦明)」、住吉山実里(ダンサー)、古川友紀(ダンサー)、向坂達矢(演出家、「京都ロマンポップ」主宰)、和田ながら(演出家、「したため」主宰)という顔ぶれも興味深い。会場は、大阪の下町にある古民家、阿倍野長屋。ブラックボックスの劇場でなく、生活空間と地続きの上演空間、複数のジャンルの表現者による上演を通して、「演劇」の条件や拡張、身体と言語の関係について考える機会となってほしい。
公式サイト:https://takutakuf.wixsite.com/kishii-jouen-zero

2017/10/30(月)(高嶋慈)

村川拓也『インディペンデント リビング』

会期:2017/10/27~2017/10/29

京都府立府民ホール“アルティ”[京都府]

ドキュメンタリーの手法を持ち込んだ演劇作品で世界的にも注目を集める演出家、村川拓也。KYOTO EXPERIMENT 2017で上演された新作『インディペンデント リビング』のテーマは日本/中国/韓国だ。村川は各国で介護や介助の仕事に携わる人間を舞台に上げることで、そこにある普遍性と、同時に存在する断絶とを鮮やかに浮かび上がらせた。

作品の枠組みは村川の代表作である『ツァイトゲーバー』と共通している。舞台に上がったヘルパーが、観客から募った女性の「被介助者」役を相手に自身の普段の仕事の様子を再現する。「被介助者」は基本的には力を抜いてされるがままでいるよう指示されるが、上演中に3度、好きなタイミングで自身の願いを声に出して言うことができる。『ツァイトゲーバー』に出演するのが日本人のヘルパー1人だけだったのに対し、本作では中国→韓国→日本の順に各国1人ずつのヘルパーが介護の様子を再現してみせる。この順で2周し、最後に再び中国人のヘルパーによる再現が行なわれたところで作品は終わる。

作品を通して素朴なレベルで感じられるのは、ヘルパーの仕事、被介助者の生活は、どの国でもさほど変わらないのだということだろう。ヘルパーが交代しても被介助者(役の観客)が替わらないことでその変わらなさは強調される。

一方、ヘルパーと被介助者役の観客との間には鋭い断絶も生じている。被介助者役の観客が自身の願いを口にしても、ヘルパーがそれに反応することはない。現実にあり得るコミュニケーション不全が極端な形で暴露される瞬間だ。さらには言語の壁もある。被介助者役として舞台に上がった観客が中国語も韓国語も解さない場合(多くの場合がそうだろう)、彼女は自分に語りかけるヘルパーの言葉を理解できない。劇場の中で唯一、字幕を十全に読むことができない彼女だけがヘルパーの発する言葉から疎外されているのだ。

普遍性と断絶は異なるレイヤーにありながら、どちらも舞台に上げられた観客の存在を軸に見出される。そこにこの作品の巧みさと、日中韓というテーマへの応答を見出すことができるだろう。




村川拓也『インディペンデントリビング』
Photo by Kai Maetani
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2017/program/takuya-murakawa/

2017/10/28(土)(山﨑健太)

contact Gonzo『訓練されていない素人のための振り付けコンセプト』

会期:2017/10/28~2017/10/29

BUoY北千住アートセンター[東京都]

トヨタコレオグラフィーアワード2014で披露された作品を含む、今回の上演作品は3部に分かれており、それぞれ「001/重さと動きについての習作」「002/速度と動きについての習作(改定)」「003/角度と動きについての習作(新作)」と名付けられている。トヨタでも見た「001」は、メンバーのひとりが床に仰向けになると、もうひとりはその上に乗る。さらにその状態で、乗っている方がリュックに入れていた本を寝そべるメンバーの腹の上に積み上げたり、自転車の車輪を回したり、照明のスイッチも握っていて、暗転したりする。暗転すると、舞台奥にある小屋から3人目のメンバーが出てきて横笛を吹く。明転した瞬間に小屋に戻り戸をぴしゃりと閉める。もちろん、ポイントは仰向けで踏み潰されているメンバーの苦しみで、悶絶の声はマイクで拾われ、ハアハア言う声が増幅されている。彼にはさらにもうひとつのタスクが課せられている。ネジを少し離れたスネアドラムに向けて投げ、ドラムを鳴らすこと。胸と下腹部のあたりに乗った足の位置がずれるたびに、観客までも悲鳴を上げてしまう。終始、仰向けのメンバーが被っている過酷な試練に目が離せない。彼が喘ぐたび、爆笑が会場を取り巻く。一つひとつはほとんど関連のない、多数の要素が舞台に撒き散らされる。そこがコンタクト・ゴンゾの一種の美学なわけだけれど、観客は暴力的な試練に爆笑し、ぴしゃりと閉められる戸にクスクス笑う。これは何かに似ている。それがより鮮明になったのは「002」のなかでだった。「002」では、20メートルの直線をゆっくりと20分かけてメンバーたちが進んで行く。その彼らに、20メートル先から手動の狙撃機が狙いを定めており、1分毎にみかんの砲弾が飛ぶ。狙撃機は予想を凌駕するスピードと威力でメンバーをかすめ、後ろの壁に激突した。狙撃機とメンバーとは徐々に距離を詰め、最後は距離ゼロの状態でメンバーの腹に直撃して終わる。この残酷な肉体の祝宴には見覚えがある。1980年代のテレビのなかで、たけし軍団がビートたけしから被ってきた、あの試練だ。『風雲!たけし城』も思い出す。あの肉体の残酷ショーは、いまやテレビでは封印されており、見ることはない。禁断の果実を齧るように、観客は「ヤバイもの」を見る快楽で、炸裂するみかんの汁を浴びながら、爆笑を繰り返す。現在の舞台芸術の使命のひとつは、テレビにはない、こうした空気を読まずに平然と行なわれるおかしなことを観客に体験させるところにあるのだろう。「003」は、横笛担当のメンバーの体に角材を押し付けると、ひとりの観客を舞台空間に招き、角材の反対端を観客の体に沿わせ、じっとしてもらうところから始まった。次々と観客は手招きされ、二人一組で角材の両端を挟む。そうした枝があちこちで広がり、角材とひとが交互に挟まったオブジェが組みあがり、増殖してゆく。ほぼ全員がオブジェのパーツになったあたりでカウントダウンが始まった。「ゼロ」を合図に、体を緩め、全員の角材が床に落ち、激しい音を立てた。さっきまで爆笑していた観客=傍観者が、ほぼ全員客体化させられたわけだ。この「003」にはあからさまな暴力は表われない。だが「司令」そのものが、一種の暴力であることを、観客は体験した。

2017/10/28(土)(木村覚)

猿とモルターレ アーカイブ・プロジェクトin大阪

会期:2017/10/28~2017/10/29

FLAG STUDIO[大阪府]

『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)は、「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作されるパフォーマンス作品。2013年の北九州、2015年の仙台公演を経て、2017年3月に大阪で上演された(大阪公演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
筆者は、今回の「アーカイブ・プロジェクトin大阪」の第1日目に参加。3月の大阪公演の記録映像を皆で鑑賞したのち、作品の感想や「継承」について参加者同士の対話を重視しながら議論を深めていく「てつがくカフェ」が開催された。一般的に、公演からそれほど間を空けずに記録上映会が行なわれることは少ない。もちろん「生の舞台」の体験は何ものにも代えがたいが、舞台の記録映像はあくまで補完的な役割であって、記録以上の積極的な意味が付与されることは少ないと言えるだろう。今回の企画の優れた点は、単なる記録映像の上映で終わらず、「てつがくカフェ」とセットで開催されたことだ。舞台を見た直後であれば、「このシーンに感動した」「あのシーンの意味は何か」というように感想や意見が作品内部に収束しがちだ。しかし、映像の場合、良い意味で距離を置いて客観的に見ることができ、さらに対話の場を通して、作品の外縁にある問題へと意識を向け、観客が主体的に考えるきっかけが開かれる。
また、記録映像の撮影と編集を担当した、映像作家の小森はるかの功績も大きい。小森の映像編集の優れた点は、舞台を見ている時の感覚に近いことだ。アップやカット割りを多用した場合、視覚的効果は増すが、「舞台上で実際に流れていた時間の持続性」が絶ち切られて削がれてしまい、「映像を見ている」感覚が増幅する。しかし小森は、基本的には引き気味の固定カメラで撮影した映像を、時間の持続性を寸断せずに要所でカット割りを挟むため、時間の流れに身を委ねながら見ることができる。かつ、袖や舞台奥から撮影した映像を挿入するなど、客席からは不可能なアングルも時折差し挟まれ、空間的な把握が補強される。舞台芸術と記録映像、アーカイブのあり方はさまざまに議論されているが、今回のように映像作家と協同する方法は、「記録映像」のあり方や質について考える際に有効なのではないだろうか。

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