2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

青年団リンク ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』

会期:2018/01/11~2018/01/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

ホエイという名前は「ヨーグルトの上澄みやチーズをつくるときに牛乳から分離される乳清」に由来し、「何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたい」と付けられたという。『珈琲法要』『麦とクシャミ』に続く北海道三部作の第三部となる今作の舞台は夕張市。ダム湖を望む駐車場に集うのは、夕張の炭鉱で働いていた老人たちだ。かつて彼らはダム湖に沈んだ街に住んでいた。恋愛、結婚、年中行事、炭鉱事故、転職、引っ越し。昔話が過去の情景を呼び起こし、決して平坦とはいえない彼らの半生が描き出される。必死で生きてきた彼らの現在は苦い。若者に子供をつくれと言えば産む気にならない社会にしたのはあなたたちだと返される。国のエネルギー政策やダム建設計画に翻弄され、やがては住む場所を追われた彼ら。悪いのは誰か。そして歴史は繰り返す。


[撮影:田中流]

山田百次の演出は観客を共犯者に仕立て上げ、客席の安全圏から引きずり出す。ほとんど素舞台と言っていいほどシンプルな舞台美術も、いつの間にか本編に入っている前説も、あるいはナレーションを交えつつ自在に年齢を行き来する俳優の演技も、すべてが「これは演劇だ」ということを主張し続ける。俳優たちはみな巧みだが、舞台上の「リアル」はときに学芸会のように不完全だ。観客の想像力がそれを補填し完成させる。観客は登場人物の人生を、彼らに起きる不条理を、舞台上に出現させる片棒を担ぐ。炭鉱事故の場面で劇場を覆う暗闇がゾッとするほど恐ろしいのは、私が事故の「共犯者」だからであり、同時に私も「そこ」にいるからだ。

ホエイは史実を取材し、歴史の中で忘れられてきた人々や事実に光をあてる。それは同時に、いまだ光があてられぬままの人々に思いを馳せる作業でもあるだろう。すべてを知ることはできない。すべてを想像することもできない。それでも、なけなしの想像力にできることはあるはずだ。


[撮影:田中流]

公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/

2018/01/14(山﨑健太)

東京芸術劇場『池袋ウエストゲートパーク SONG&DANCE』

会期:2017/12/23~2018/01/14

東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]

脚本・作詞に柴幸男(ままごと)、演出に杉原邦生(KUNIO)、振付に北尾亘(Baobab)と小劇場の気鋭と若手俳優を起用した本作は、20年前の石田衣良の小説を、現在の日本を映し出す舞台へと見事に生まれ変わらせた。

タカシ(染谷俊之)率いるG-Boysと京一(矢部昌暉)率いるレッドエンジェルスの対立が激化する池袋。トラブルシューターのマコト(大野拓朗)は抗争を止めるべく奔走する。柴の脚本は原作から恋愛要素を削ぎ落とし、本筋であるG-Boysとレッドエンジェルスの対立に集中した。原作の印象はそのままに、僅かな変更で作品の今日性を際立たせる手つきが見事だ。原作同様、作品の終盤ではG-Boysとレッドエンジェルスとの対立が仕組まれたものだったことが明らかになる。汚い大人たちに利用され、マスコミに踊らされる子供たち。本来ならば彼らが憎しみ合う理由はなかったはずだ。杉原の演出もまた、柴の力点変更を巧みに可視化する。主要登場人物を演じる俳優以外は、G-Boysとレッドエンジェルスの両方を演じるのだ。青か赤かというチームカラーの選択はささいな偶然に過ぎない。もしかしたら彼らは逆の色をまとい、向こう側にいたかもしれない。そこに本質的な違いはない。「やつらが」「やつらが」と彼らは相手を糾弾するが、「やつら」に果たして実体はあるのか。しかしひとたび血が流されてしまえば対立は激化し、憎しみは増していく。止めるためには誰かが痛みを引き受けるしかない。

チームカラーで統一した衣装はアンサンブルキャストを集団として提示し、立場の交換可能性を暗示する。だが、彼らは体型にせよダンス的バックグラウンドにせよ、一人ひとりが極めて個性的で、それぞれがそれぞれに集団に埋没しない魅力を放っていた。集団に飲み込まれず、個人としてあり続けること。集団としてではなく、独立した個人として対峙すること。彼らが体現していたのは、そんな倫理だったのかもしれない。


[撮影:渡部孝弘]

公式サイト:http://www.geigeki.jp/performance/theater163/

2018/01/05(山﨑健太)

プレビュー:地点『正面に気をつけろ』

会期:2018/02/26~2018/03/11

アンダースロー[京都府]

地点が自分たちで改装した稽古場兼劇場である京都のアンダースローにて発表する新作。戯曲は新進作家の松原俊太郎によるものであり、昨年4月にKAAT神奈川芸術劇場で上演した『忘れる日本人』に続き、2度目のタッグを組む。また、地点のレパートリー作品であるブレヒトの『ファッツァー』をはじめ、『ミステリヤ・ブッフ』『ロミオとジュリエット』『どん底』でも音楽を担当したバンド「空間現代」が参加する。松原の今回の戯曲は、ブレヒトの『ファッツァー』をモチーフに書かれたコラージュ的な作品であり、地点との相性はもちろん、「空間現代」のエッジの効いた音響空間とどう切り結ぶのか、期待される。言葉、音、身体運動が多方向に疾走しつつ衝突し合う、意味内容の豊穣な破綻が充満した空間の、その先へ。

2017/12/25(月)(高嶋慈)

青年団リンク キュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』

会期:2017/12/14~2017/12/24

アトリエ春風舎[東京都]

歴史は繰り返す。それが真実だとして、なぜ歴史は繰り返してしまうのか。

青年団リンク キュイは劇作家、演出家の綾門優季が主宰するユニット。公演ごとに綾門が劇作、あるいは演出のどちらかを担当し、もう一方には公演によって異なる作家を迎えるスタイルがユニークだ。2016年にはチェルフィッチュ/岡田利規『現在地』を綾門演出で上演している。今作では綾門の戯曲を劇団・お布団の得地弘基が演出した。

夜の公園、高速バス、大学構内、喫茶店。四つの場面で繰り返される理不尽な暴力と無差別殺人。いずれにせよ登場人物たちは皆殺しにされ、そして何事もなかったかのように次のターンが始まる。舞台上に投影される1-1、4-2という数字が示すように、ある種のゲームのように場面はループし、彼らはその都度殺される。繰り返しに気づいた男はそこから抜け出そうと試みるが——。


[撮影:大橋絵莉花]

登場人物たちが繰り返しから抜け出すことは原理的に不可能だ。彼らの運命はあらかじめ戯曲に書き込まれている。行為とともに読み上げられるト書きが、それがあらかじめ定められたものでしかないことを強調する。観客は舞台上の理不尽を客席から安全に眺める。あるいは、客席に縛り付けられ、見るに耐えない暴力を見続けることを強制される。

なるほど、演劇やゲームでは理不尽な暴力が繰り返される。理由はいらない。では現実は? やはり暴力は偏在し、延々と繰り返されている。登場人物の一人は金属バットを振るいながらこう言う。「ほら、ちゃんと見てなかったでしょ。ちゃんと見てないから、こうなるのに」。あるいはこう。「自分がふるっている暴力も、まるで他人のものみたいだね。他人の受けた暴力は」。殺され続ける彼らの命は軽く扱われているのだろうか。そうかもしれない。だが私たち観客は軽々と殺され続ける彼らをそれでも見続けなければならない。見るに耐えない現実から目をそらさない、そらさせないこと。そうして倫理はかろうじて始まる。


[撮影:大橋絵莉花]

公式サイト:https://cuicuicuicuicui.jimdo.com/

2017/12/24(山﨑健太)

新国立劇場『かがみのかなたはたなかのなかに』

会期:2017/12/05~2017/12/24

新国立劇場[東京都]

子供向けの演劇と言われてどんな作品を思い浮かべるだろうか。新国立劇場が再演に値すると見なした本作の物語はこうだ。

部屋で孤独に出兵のときを待つ兵士・たなか(首藤康之)。単調に繰り返す日々の中、彼は鏡に映る自分の分身・かなた(近藤良平)を友人として見出す。さらに彼らはピザを届けに来たこいけ(長塚圭史)を家に招き入れ、その分身・けいこ(松たか子)と四人で時間を過ごす。だが、たなかとかなたは二人とも「女性らしい」けいこを気に入ってしまい取り合いに。女性なのに「男みたい」なこいけを、こんな奴はいらぬと崖から海に突き落としてしまう。二人はけいこをめぐって決闘をするが、自分の分身を思い切って殺すことができない。そこで二人は妙案を思いつく。ノコギリを持ち出した彼らはけいこを真っ二つにし、仲良く二人で分け合うのだった。そしてたなかは戦場へと旅立っていく——。


[撮影:宮川舞子]

鏡がモチーフの本作には、鏡映しにシンクロするダンスや回文の歌詞・台詞など、単純に楽しい要素がふんだんに盛り込まれている。登場人物、特に女装の長塚が演じるこいけはとびきりチャーミングだ。楽しげな雰囲気で舞台は進む。だが、登場人物たちのむき出しの欲望は不穏な展開を呼び込み、そのチャーミングなこいけは物語から排除されてしまう。あれ? そんなことになっちゃっていいの?

子供たちが疑問を持たなければこの作品はPC的にアウトな単なる猟奇殺人ものになってしまう。重要なのはこいけのキャラクターだ。こいけが魅力的だからこそ、彼女が「男みたい」だと排除されてしまう展開に対する疑問が、さらには男らしさや女らしさといった常識に対する疑問が生まれてくる。自ら作品の要を引き受け、その役割を十二分に果たしたこいけこと長塚に惜しみない拍手を送りたい。

キレイゴトばかり並べていては、人は問うことをしなくなる。舞台は現実を映し出す鏡だ。人のふり見て我がふり直せ。残酷な出来事が鏡の向こうで留まるように。

[撮影:宮川舞子]
[撮影:宮川舞子]

公式サイト:http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009659.html

2017/12/23(山﨑健太)

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