2019年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』

会期:2018/07/06~2018/07/09

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

ミュンヘンの劇場・カンマーシュピーレからレパートリー作品の委嘱を受けた岡田利規が同劇場の俳優とともにつくり上げた本作は、能の形式に乗っ取り、「六本木」「都庁前」と題された二番の能と、その間に上演される狂言「ガートルード」によって構成されている。「六本木」には飛び込み自殺をした金融マンの亡霊が、「都庁前」には都議会で「お前は子ども産めないのか」と野次を浴びた女性議員の生霊(彼女は「フェミニズムの幽霊」と呼ばれる)が登場し、現代日本に対し警鐘を鳴らすような内容となっている。

いずれも現在の日本の現実を元に書かれた作品であることは明らかだが、忘れてはならないのは、この作品がドイツの劇場のレパートリーとしてつくられたものだという点だ。『新潮』7月号に掲載された戯曲はもちろん日本語で執筆されているが、それは客席の多くをドイツ人が占めるであろう劇場での、ドイツ語を話す俳優による上演を想定したものなのだ。日本でのギリシャ悲劇の上演のようなものだろうか、と考えてゾッとした。

ギリシャ悲劇が描くのははるか昔、いまはもうない「国」での出来事だ。レパートリーとして今後も上演されていくはずの『NŌ THEATER』が、そのようなものとして受け取られる日が来ないとは言い切れない。それどころか、すでにして多分にフィクショナルなものとして受け取られている可能性もある。

ドイツから来た俳優たちが演じる「日本」は、確かに日本で起きた出来事を元にしてつくられたもので、それは日本に生きる私には現在形のストレートな糾弾として響いた。しかし同時に、ドイツ語で演じられる「日本人」はあからさまにフィクショナルでもあり、発せられるドイツ語が日本語話者に向けられたものではないことも確かだ。『NŌ THEATER』という作品それ自体が、あらかじめ過去からの亡霊として書かれているのではないか。そんな予感に、作品に漂う滅びの気配がよりいっそう身に迫るものとして感じられた。

[撮影:井上嘉和]

公式ページ:https://rohmtheatrekyoto.jp/program/7856/

2018/07/08(山﨑健太)

ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』

会期:2018/07/06~2018/07/08

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

ドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレに招聘され、日本人演出家として初めて、3シーズンにわたるレパートリー作品の演出を務めた岡田利規(チェルフィッチュ主宰)。現地に滞在し、カンマーシュピーレ専属の俳優陣やスタッフとつくり上げた『NŌ THEATER』(2017年初演)が京都で上演された。タイトルに「NŌ(能)」とあるように、未練を抱え成仏できない「幽霊」の語り、「シテ」「ワキ」「地謡」の役割を明確に振り分けた構造からなる本作は、能という演劇形式を現代的に高度に洗練させて抽象化しつつ、現代日本社会の病魔を提示する。

1本目の演目「六本木」では、かつて投資銀行のディーラーだった男が、バブル経済とその破綻、長期化する不況、リーマン・ショックの余波へとなすすべなく崩壊する日本経済の一端を担ったことを悔いて自殺し、「希望のない若さ」をもたらした罪の許しを乞うため、一人の青年の前に「幽霊」となって登場する。短くコミカルな「狂言」を挟み、2本目の演目「都庁前」では、2014年の東京都議会での女性差別的なやじ問題に端を発して出現するようになった「フェミニズムの幽霊」と、抗議行動として都庁前に立ち続ける女が登場。別の青年と対話を交わし、日本社会に蔓延る女性蔑視を糾弾する。



「六本木」[撮影:井上嘉和]

抽象度の高い舞台美術の作品が多い岡田にしては珍しく、舞台美術は極めて精巧に組まれ、舞台上に東京の地下鉄のプラットフォームが出現する。中央のベンチでストリートミュージシャンのように演奏するのは、現代音楽家の内橋和久。古典的な能の囃子と同様、同じ舞台空間上でライブ演奏する内橋が奏でるダクソフォンの幽玄な音色は、イエローやグリーンに変幻する照明の効果ともあいまって、「幽霊」の出現を音響的に告げる。また、「駅員」と「地謡」の2役を兼ねる女優が歌うような節回しで発声する、ドイツ語の音楽的な響きも魅力的だ。俳優の所作は厳密にコントロールされ、不動に近いほどに抑制されているが、「幽霊」の身体は次第に見えない圧を高めていくような運動を始め、台詞と乖離した身体運動の浮遊感が、見る者の平衡感覚を揺るがしていく。彼らの遺した未練や怨念は、浄化されず地下空間に吹き溜まる一方、「グローバルな金融システム」の象徴たる森タワーや「いきり立つ逸物」に例えられる都庁ビルは、地上の支配者のごとく監視塔のようにそびえ立ち、重くのしかかる。「ワキ」役の青年たちは、いったんは幽霊の棲む地下の異界に下降し、「シテ」の幽霊の聞き役を務めた後、舞台奥の階段を昇って再び地上世界へと戻る。この階段は能舞台において此岸と彼岸を橋渡しする「橋掛かり」の装置を思わせ、「鏡板」に見立てられた「液晶ディスプレイ広告」には「松」のイメージが映し出される。



「都庁前」[撮影:井上嘉和]

このように、『NŌ THEATER』では、随所に「能」との接続を示唆する仕掛けが施されている。古典芸能である「能」の構造や意匠を散りばめつつ、現代日本社会への自己批評をテーマとすることで、エキゾティズムの陥穽に陥ることを巧妙に回避する──ここには、岡田の演出家としてのバランス感覚が見てとれる。ドイツ語圏のみならず、イランやレバノンなど非欧米圏各地から演出家が招かれるミュンヘン・カンマーシュピーレにおいて、戦略的な演出設計だと言えるだろう(同じく「幽霊」が登場するチェルフィッチュの過去作品『地面と床』(2013)や『部屋に流れる時間の旅』(2016)において既に「能」の形式は導入されていたが、本作はより徹底化が図られている)。それは、ミュンヘンの観客には、「古典のエッセンスと現代社会批評の融合」としてアピールし、日本国内での上演においては、「ドイツ人俳優がドイツ語で演じ、日本語字幕を通して観劇する」という間接的な迂回路を取ることで、ドメスティックで生々しい問題の直接性は緩和される。私たちは、「息苦しい現実」を一種の緩衝材として間に挟まれたレイヤー越しに眺めることで、ほどよく距離を取って見ることができる。それは、「現実の異化」という演劇のもたらす作用のひとつだ。だが、資本主義に侵食された公共空間に代わってここでは、液晶広告に輝く「松」のイメージが終始、「日本」という記号を「商品」として宣伝し続けていたことも事実である。

公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/program/7856/

2018/07/07(土)(高嶋慈)

庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」

会期:2018/06/28~2018/07/01

森下スタジオ[東京都]

森下スタジオにて、庭劇団ペニノの『蛸入道 忘却ノ儀』を観劇する。『地獄谷温泉 無明ノ宿』の全体がぐるぐると回転する2階建ての温泉宿の舞台もすごかったが、今回も期待をまったく裏切らない大胆な空間が出迎える。もはや舞台上のセットと観客席の境界が曖昧になり、両者を含む全体が統一されたデザインだった。すなわち、鞘堂形式によって寺院風の空間を挿入しており、観客の座る場所の背後もお堂の内部という見立てなのである。また蛸風に変形した花頭窓が並ぶのだが、観客が手伝うことによって、その開閉を行なう。蛸にちなむことから、当然、イメージ・カラーは赤である。道内のインテリアや照明、また観客が寄進(?)して俳優が着用する衣装も同じ色だ。中央の檀が、2間×2間なのが、やや不自然だと思っていたら、なるほど、合計で8本の柱である。言うまでもなく、蛸の足の数から間取りが決定されたものだ。

おそらく、消防への配慮と熱の対策のために、天井の一部をあけていることを除けば、劇場ではなく、完全にお堂の内部である。細かく細部を観察すると、曲線的な肘木なども通常のものとは意匠が違っており、芸が細かい。ここで観客が目撃するのは、セリフや筋立てのあるドラマではない。「蛸教」とでもいうべき、擬似宗教の儀式に同席するような異様な体験に否応なく巻き込まれる。観客も手で音を出しながら、儀式の一部となるのだ。同じ経文を反復しながら、音楽や身体の動きが変わることによって、差異をうみだし、やがて熱が堂内に広がり、本当に温度が上昇していく。実際、仏教の声明やキリスト教の聖歌など、宗教は音楽性を帯びていくのだが、それを追体験するような場だった。これを限りなくリアルなものとするために、拡大された舞台美術が、劇場の空間を書き換えている。なお、個人的に興味深いのは、奥に聖なる場があるのではなく、天理教の甘露台のように、信者が中心を囲む形式が採用されていることだった。

2018/07/01(日)(五十嵐太郎)

Re-search and Re-direction: かかわりの技法 関連上演 かもめマシーン『俺が代』

会期:2018/06/30

京都芸術センター[京都府]

ピッピッピッピッという時報が規則的な音を刻む。1人の女性が客席の間から現われ、舞台奥へ進むと、厳粛な宣言でも始めるように、姿勢を正し、朗々とした声を発し始める。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、……」。戦後に制定された「日本国憲法」の基本的理念が述べられる「前文」である。

かもめマシーンの『俺が代』は、日本国憲法の抜粋(前文、第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」(いわゆる第九条)、第三章「国民の権利及び義務」、第十章「最高法規」)をベースに、1947年当時の文部省による教科書『あたらしい憲法のはなし』、「憲政の神様」と言われた尾崎行雄の演説、そして憲法草案の審議を行なった憲法改正特別委員会での芦田均の演説を「台本」として用いる演劇作品である。日本国憲法とそれにまつわる複数のテクストや演説は、俳優の清水穂奈美によるソロパフォーマンスとして演じられる。舞台中央に設えられた正方形の舞台装置には水が張られ、枯れ木のようなオブジェが立っている。彼女はそれに相対し、あるいは逡巡するように周囲をぐるぐると回りながら、抑揚や感情の濃度を自在に変化させ、憲法や演説の言葉を現実空間のなかに身体化させていく。一語一語の意味を噛みしめるように、慎重に重々しく発語される前文。一転して、同時期に巷に流れていたヒット曲「東京ブギウギ」をバックに発される『あたらしい憲法のはなし』は、いきなり感情のトップギアに入る。泣き叫び、狂ったように身もだえするその様子は、民主的な憲法を得た喜びを狂喜さながら全身で体現するようにも、敗戦の傷や痛みに引き裂かれているようにも見える。「老婆心ながら」と前置きし、新憲法の理念の崇高さとそれを守る困難さを訴える尾崎行雄の演説のくだりでは、腰をかがめ、緩慢な動作で、老人の口調の演技がなされる。しかし、演説が次第に熱を帯びるとともに、その口調はリズミカルなラップ調に一転し、「お前たちは国家を背負って立つ抱負がない」と挑発するようにたたみかける。このように本作の前半では、憲法や政治家の演説を「いかに出力のモードを変えて発語できるか」が実験的に繰り出され、「憲法の脱ニュートラル化」が図られる。


[写真:前谷開]

ここで、同様に現行の日本国憲法を上演台本に使用し、旧憲法や日本の現代史に関わる演説や小説などをコラージュして用いた演劇作品として、地点『CHITENの近現代語』が想起される。地点のこの作品では、5~6名の俳優がそれぞれの発語パートを分担/分断し、あるいはユニゾンで発語することで、ポリフォニックな多声構造と音響的解体によって声の多層化と分裂が企てられていた。それは、「臣民/国民」として数値に回収され、「単一の声」へと統合されることに対する演劇的な抵抗である。

対して『俺が代』では、後半に最大の仕掛けが用意されている。冒頭の日本国憲法前文が再度繰り返されるのだが、「国民」という単語を「俺」に、「諸国民」を「あいつら」「みんな」に変換して読まれるのだ。緊張した面持ちで、水の中に足を踏み入れ、象徴化された「木」を見つめる俳優。次第に高ぶり出す感情。「俺は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、俺と俺の子孫のために、あいつらとの協和による成果と、俺の国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が俺に存することを宣言し、この憲法を確定する……」。続くオリジナルの部分では、「俺」が、テロや戦争、非人道的な圧制、自由主義経済によって、世界各地で殺され続けていることが述べられる。「俺」の自由と生命、尊厳がいとも容易く踏みにじられる現実だからこそ、「俺は、俺の名誉にかけ、全力でこの崇高な理想を達成することを誓う」ことが最後に悲痛な宣言として発される。


[写真:前谷開]

『俺が代』は、日本国憲法という「書かれたテクスト」において、「国民」として抽象化・一般化された存在を、再び一人称単数形すなわち一人ひとりの「個人」として取り戻し、「個人の考えるべき問題」に引き寄せる試みである。その奪還の作業を身体的な発語を通して行なう点に、本作が示す「演劇」の可能性がある。「日本国憲法」は、個人による発語として「上演」されねばならない──ここに、本作の優れてクリティカルな政治性がある。清水の圧倒的なパフォーマンスの力が、それを支えている。だがここで、「俺」という言葉は「ひたむきな熱さや決意の強さ」を示す一方、日本語固有のジェンダー的なコノテーションがべったりと貼り付いていることに注意しよう。ニュートラルな「私」とは異なり、マッチョな「強い男性性」が付与された発語主体に限定してしまう。そうした「俺」という一人称を、あえて女性の俳優に発語させることで、言語(日本語)が内包するジェンダー的な偏差を撹乱し、内破しようとすること。ここに、(上記の政治性とは別種の)本作におけるもうひとつの戦略的な政治性がある。

関連レビュー

地点『CHITENの近現代語』|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/06/30(土)(高嶋慈)

プレビュー:したため#6『文字移植』

会期:2018/08/11~2018/08/14

こまばアゴラ劇場[東京都]

「したため」は、京都を拠点に、演出家の和田ながらが主宰する演劇ユニット。和田は、2015年に創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5で最優秀作品賞を受賞、2018年に「こまばアゴラ演出家コンクール」で観客賞を受賞するなど、気鋭の演出家である。2016年初演のしたための代表作『文字移植』が、待望の再演とともに初の東京公演を果たす。ドイツ語と日本語を往還しながら創作する小説家、多和田葉子の初期短編『文字移植』を演劇、すなわち俳優の身体へと「移植」した本作は、美術家の林葵衣による優れた舞台美術の力とあいまって、テクストが内包する諸要素―翻訳の(不)可能性、異言語への越境、言語の物質的抵抗、それに伴う身体的苦痛や違和、ポストコロニアリズム、男性中心主義への批評―を鮮やかに浮かび上がらせた。また、『文字移植』の姉妹編とも言える『ディクテ』では、コリアン・ディアスポラの作家テレサ・ハッキョン・チャによる、多言語と多様な文体のコラージュからなる実験的なテクストを上演台本に用いて、同様の主題群にさらなるアプローチを試みている。『ディクテ』という、難解かつ「言語(母語の使用)」「他者を体内に容れる」という演劇にとって本質的な問題をはらんだテクストを通過したしたためが、どのように深化した再演を見せてくれるのか、非常に楽しみだ。


公式ページ:http://shitatame.blogspot.com/

関連記事

したため#4『文字移植』|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/06/30(土)(高嶋慈)

文字の大きさ