2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

「プレイヤー」

会期:2017/08/04~2017/08/27

シアターコクーン[東京都]

前川知大による作なので観劇した「プレイヤー」@シアターコクーン。椅子だけが並べられたシンプルな舞台に、ときおり部屋そのもの(!)が出入りするセット。死者の記憶を共有するものたちが、「プレイヤー」として彼らの声を再生してしまう演劇を練習するというメタ的な設定である。だが、それはやがてすでに亡くなっていた脚本家の未完成の台本と、それを演じる俳優の関係と重なっていく。最後は『リング』のように、死と伝染の話となり、恐ろしさを感じる作品だった。

2017/08/09(水)(五十嵐太郎)

ヨコハマトリエンナーレ2017 「島と星座とガラパゴス」

会期:2017/08/04~2017/11/05

横浜美術館、横浜赤レンガ倉庫1号館、横浜市開港記念会館、ほか[神奈川県]

「ヨコハマトリエンナーレ」(以下、ヨコトリ)といえば、2014年に行なわれた前回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」を思い出す。美術家の森村泰昌をアーティスティック・ディレクターに迎えた同展では、まるで美術界の流行に背を向けたように硬質な、お祭り騒ぎやアート・ツーリズムや市場原理とは対極の価値観を打ち出した。「そうか、ヨコトリは逆張りで行くのか。それなら存在意義がある」。当時そのように理解した筆者にとって、今回の最大の関心は、ヨコトリがどのような路線を取るのかだった。今回は一人のディレクターを立てず、三木あき子、逢坂恵理子、柏木智雄が共同でディレクションする形式を取った。テーマは「島と星座とガラパゴス」。従来の国際的枠組みが揺らぐ一方、SNS等の発達で大国や中央集権の論理に抗う小さな共同体が現われて、世界が島宇宙化している。その孤立した島宇宙を接続していくことで、新たな可能性が開けるのではないか、ということだ。各会場を巡って感じたのは、まさに島宇宙のごとく多様な作品が並んでいること。記者発表時に逢坂は「個展の集合体」と述べたが、まさにその通りだ。今回のヨコトリはテーマを打ち出すのではなく、現場での議論を促し、そこから何が生まれるのかを見守っているよう。つまり芸術祭をプラットフォームとして再定義したということか。最後に個々の展示で筆者のお気に入りを挙げる。横浜美術館の、カールステン・ヘラー、トビアス・レーベルガー、アンリ・サラ&リクリット・ティラヴァーニャのチーム、風間サチコ(日本)、ブルームバーグ&チャナリン(南アフリカ、英国)、ワエル・シャウキー(エジプト)、ザオ・ザオ(中国)、横浜赤レンガ倉庫1号館の、小沢剛(日本)、クリスチャン・ヤンコフスキー(ドイツ)、宇治野宗輝(日本)、ドン・ユアン(中国)が素晴らしかった。

2017/08/03(木)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00040923.json s 10138519

新聞家『白む』

会期:2017/07/20~2017/07/25

Buoy[東京都]

北千住の古いマンションの地下に降りる。コンクリートむき出しの会場に、円陣状の客席。扇風機が回る。クーラーなし。ペットボトルをもらって汗を拭う。村社祐太朗の演劇の特徴に毎回会場が変わるということがある。いわゆる劇場は用いない。美術ギャラリーなどが多い。環境は作品を変える。村社はそのことに自覚的だ。新聞家の劇は、そのデリカシーゆえに、演劇でありながら、絵画に見えたり、彫刻に見えたりする。会場が美術ギャラリーだからだけではなく、観客の「見ること」へ向けた作術が繊細であるが故のこと。例えば1年前の『帰る』では、ソファーに座る二人の男女が近代の肖像画のように見えた。絵画か彫刻のように見える演劇は、見ることの集中度が高くなり、見入ってしまう。今作は様子が違っていた。円陣状の客席に混じって、俳優も同じパイプ椅子に座り、座りながら話を始める。俳優の3人は1人ずつしばらく喋ると、交代する。内容は家族や恋人との思い出。思い出はレストランの名前とメニューとともに語られる。高級レストランもあれば、ファミレスも出てくる。誰かと食べた思い出。記憶にとどめられない分量の語りを観客は聞き続ける。古いマンションの片隅でしかも円陣の輪の中で聞いていると、まるで住民の管理組合の会議でメンバーの話に耳を傾けているような、なんというべきか「車座」感が出てくる。役者たちは絵画でも彫刻でもなく、生身の人間として「居る」、その感じが今作では強調されていた。そういえば、受付時に、赤い干しトマトが振舞われ、口にすると甘く、酸っぱい味がした。その経験を会場の観客たちは共有しているのだった。筆者は時間が取れず参加できなかったが、観客全員と行なう意見会も新聞家恒例の趣向で実施されている。ひとの話を聞き、自分の感想も語り、交互にそれが行なわれるという意見会で起きることは、上演中、役者と観客との間で起きている交感とさして変わらない、ということなのかもしれない(上演後も残れたらよかった)。であるならば、村社は、「話すこと」と「聞くこと」というきわめて基本的な、演劇的であり社会的でもある状況へと観客の意識を向けようとしている。ここに新聞家の真髄がある。それがはっきりとした。

2017/07/25(火)(木村覚)

シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』

本書は、フランスが日本のアヴァンギャルドである舞踏をどう受容したのかを解き明かす。1978年、室伏鴻がカルロッタ池田と上演した『最後の楽園』と芦川羊子と田中泯のパフォーマンスによってフランスに「舞踏」が輸入され、引き続いて大野一雄や山海塾などの踊りが紹介されると、フランスにいわば舞踏ブームが起こった。このインパクトが今日の舞踏の世界的な広がりを生み出し、舞踏はもはや日本のものではなく、世界的な前衛芸術となった。本書はそうした舞踏を受容する流れが「誤解」に基づくものであったと説く。著者シルヴィーヌ・パジェスによれば、誤解の最たるものは舞踏を「ヒロシマ」に直結させる類いの言説であり、誤解としての受容の歴史が暴かれてゆく。その点は興味深いのであるが、舞踏とは何かを解く際に、パジェスは土方巽のテキストにほとんど触れない。このことが気になる。実は土方巽の舞踏をめぐるテキストは、サルトルやバタイユなど、フランス現代思想の影響が強く感じられるところがあり、日仏の思想的交流の歴史として語る余地のあるテーマでさえある。その点にパジェスの考察が向かうことはない。とても残念だ。そもそも日本において舞踏を学ぼうとするならば、研究者、批評家であれダンサーであれ、まずは土方のテキストに触れ、あの独特なうねるような文体に舞踏を見るものだ。何より「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」というメッセージに、自分なりの解釈を試みずして、舞踏にアクセスできたとは考えないだろう。その点で、日本において舞踏とは、踊りであると同時に土方の思想であり、言語との格闘の成果であった(どの舞踏家も自分の話術あるいは文体をもっているのもその証左といえよう)。そうした点を無視して、土方やその後の世代の言語的取り組みの厚みが「ヒロシマ」というイメージにすり替えられてしまった歴史が、「フランスの舞踏」史ということになるのだろうか。土方巽ら舞踏家のテキストの受容をめぐる考察が読みたかった。あるいはテキストの受容などほとんど起こらなかったのだろうか。巻末の参考文献表をみると、日本語の研究書、論文、批評文は掲載されていない。その無視と一種の驕りが、舞踏を受容する世界的な姿勢であるとするならば、出汁の効いていない蕎麦が「Soba」として異国の日本料理店で振舞われるように、誤解に満ち核心を欠いた「Buto」が、世を席巻することだろう。
ネガティヴなことを書いたが、本書はそもそもフランス舞踊史のなかで、舞踏がどのような影響を与えたのかを伝えるものであった。1980年代当時のフランスで、彼らが否定していた表現主義的で、身振りを重視したモダンダンスの価値を気付かせたのが舞踏だった、とパジェスは理解する。舞踏はかつての「幽霊の美学」を蘇らせた。なるほど、そうした舞踏の読み取りは、単に誤解と切り捨てることのできない、舞踏の潜在力を引き出す解釈と捉えるべきかもしれない。 パジェスはパリ第8大学舞踊学科准教授。本書は著者の博士論文(2009年)をベースにしている。


シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』(パトリック・ドゥヴォス監訳、北原まり子、宮川麻里子訳、慶應義塾大学出版会、2017)
Sylviane Pagès, Le butô en France, malentendus et fascination, Centre national de la danse, 2015

2017/07/25(火)(木村覚)

手塚夏子『漂流瓶プロジェクト第一弾 ~それは3つの地点から始まる~』

会期:2017/07/21~2017/07/23

STスポット[神奈川県]

「漂流瓶」とは、手塚夏子が誰かに委ねる指示書(振付のスコア?)のこと。手塚本人、韓国のYeongRan Suh、スリランカのVenuri Pereraの3人が指示書に従ったパフォーマンスを上演した。指示書には5項目の指示がある。そこでは、西欧近代化の影響を受け価値観の変動があったと自認する非西欧の作家に、価値観の変動が起きた以前の文化的な行為を取り上げ、実演してもらい、そこでの深い反省を経て、ゴールとして現代の芸能や祭りを構想するまでのプロセスが要請されている。「漂流瓶」とはつまり、手塚によるパフォーマンスのアイディアのアーカイヴ化であり、それを他者に委ねるという意味でアーカイヴの活用の試みであり、西欧近代化に巻き込まれた非西欧の国の文化を再考し、再構築を目指すチャレンジのことである。
手塚は綱引きの綱を体に巻きつけ登場、綱の反対の先には萩原雄太(かもめマシーン)がいて、「どうしたらまっとうな大人になるよう子どもを教育できますか?」などといった「成熟(西欧的価値の香りが漂う)」をめぐる問いかけを手塚にし続ける。手塚は途中から、言葉が飲み込めないようになって、何度も吃り始める。手塚が綱を思いっきり引っ張ると、萩原は舞台に現れ、観客も巻き込んだ綱引き大会になった。YeongRanのパフォーマンスは、より本格的に観客参加型で、観客は席を立つよう指示されると、韓国、日本、アメリカ合衆国、イスラエルの旗を渡され、質問に従って、旗を上げ下げするよう求められる。質問は、どの国が一番好きか、どの国が一番民主的だと思うか、など。好きな国別に分かれて、リーダーを決め、リーダーが質問を受けると、その回答に指示できるか、旗を振って答える、なんて場面にまで進むと、観客は「旗を振ること」「リーダーを作る、それを支持(非支持)すること」などの意味に自問自答するようになる。Venuriは、スリランカが極めて「弱い」パスポートの国で、また他国のビザの獲得が非常に困難であり、ゆえに「ビザ・ゴッド」に祈りを捧げることが流行っていると観客に説明すると、伝統的な祈祷の儀式をベースにしているらしい「ビザ・ゴッド」への祈りの儀式を実演した。3作家のパフォーマンスを見て「スコア」の可能性にあらためて気づかされた。スコアは民主的だ。誰でもアクセスでき、誰でもスコアの力を借りて、感性的で知的な反省の機会を得ることができる。しかも、観客の参加を促すパフォーマンスの形式では、観客もまた傍観者ではいられずに、何かの役割を生きることになる。こういう民主的なアイディアの実践に、観客の側が習熟する先に何か新しい未来的な上演の空間があると思わされる。「道場破り」と称した、ダンスの手法の交換を実践し、交換した手法で対決する企画を行なったこともある手塚夏子らしい挑戦だ。第二弾にも期待したい。

2017/07/21(金)(木村覚)

文字の大きさ