2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:BRDG vol.5「Whole」

会期:2018/03/16~2018/03/18

studio seedbox[京都府]

「BRDG」は、俳優・演出家の山口惠子と舞台制作者の川那辺香乃が2011年に立ち上げたユニット。山口は近年、「京都に住む異邦人」をテーマとし、インタビューを元に演劇作品を制作している。本作は、京都という街の「ローカルな国際性」を演劇化するBRDGのシリーズ第3弾。京都とフィリピンでのリサーチで集めた声と共に、多彩さを増す街の人物像を描くという。それは、国籍や地図上の線といった可視化された/想像上の分断線を融解させていくような作業となるだろう。OHPを用いて、めくるめく光と色彩が織りなすライブドローイングを行なう仙石彬人が手がける美術も注目される。また、会場の「studio seedbox」が位置する東九条が、多文化の共存する地域であることも、本作にとって大きな意味を持つだろう。京都では、昨年に約30年の歴史に幕を下ろしたアトリエ劇研など小劇場閉鎖が相次ぐなか、表現者たちの自主的な活動により、2階建ての元工場をリノベーションする新劇場「Theatre E9 Kyoto」の創設が予定されている。その創設までの空白期間を補うための場としてつくられたのがstudio seedboxである。ここからまた、新たな表現活動が生まれてくることを期待したい。

公式サイト:http://brdg-ing.tumblr.com/

2018/01/31(水)(高嶋慈)

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション

会期:2018/01/30~2018/02/04

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

チェルフィッチュの代表作『三月の5日間』(2004年初演)のリクリエーションの京都公演。

『三月の5日間』は、2003年3月のイラク戦争開戦前後の5日間、ライブハウスで出会ったゆきずりの男女が渋谷のラブホテルで過ごして別れるまでの話を軸に、周囲の若者たちのエピソードが交差する。日常からの一時的な逃避行先としてのラブホ、その対極にあるもう一つの非日常=戦争、デモの祝祭感、旅行先の外国の街のように新鮮な高揚感で変貌した渋谷、「この5日間が過ぎたら戦争も終わっているかも」という楽観的な願望。しかし奇跡的な時間の終わりとともに回帰すべき「日常」はすっかり変質し、路傍のホームレスが犬に見え、非人間化の幻視が嘔吐という生理的反応をもたらす。これらのことが、誰かから聞いた出来事を「伝聞」として間接的に語りながら、いつの間にかその「誰か」を演じている、という伝聞形式の語り/再現=表象の複雑な往還運動のうちに展開され、発話主体の境界を曖昧に融解させていく。それは、「演劇」という制度へのラディカルな疑義の提出でもあった。

今回のリクリエーション版の上演では、以下の改変点が見てとれる。1)20代前半の若い俳優陣の採用。2)計7人の俳優の男女比の逆転と発話の振り分けの変更。3)台本の改訂。初演版の特徴である過剰な冗長さを保持しつつ、例えば「~なんですけど、」という言い回しで統一するなど、整理がなされている。4)舞台空間の変更。何もないフラットな空間から、抽象的でシンプルな舞台美術が出現した。

ここで、1)「20代前半の俳優の採用」は、このリクリエーション版の意義について考える際の要となる。彼らは、2003年当時、6~12歳であり、「イラク戦争開戦時の時代の空気感や渋谷の若者像」を同時代的な感性として共有あるいは記憶すらしていない。これは、「戯曲に描かれた若者たちの設定年齢には近づく一方、出来事としての共有からは遠ざかる」というジレンマを戦略的に引き受ける選択である。俳優たちは、この距離感をアプリオリなものとして引き受けたまま上演に臨まねばならない。この距離感を、「2003年の渋谷の若者のリアル」に擬態することで埋め合わせるのではなく、距離として測定すること。それは、「自身が体験していない、誰かから聞いた話を伝聞形式で語る」というスタイルとより親和性が高い。こう考えると、2)「発話の振り分けの変更」は必然的な選択だったのだと納得がいく。例えば、顕著な変更として、初演版の冒頭では、「ミノベくん」についての語りを男優2人が行なっていたのに対し、リクリエーション版では女優2人が担う。初演版では、「語り手」と「演じられるキャラクター」との境界の曖昧さや発話主体の錯綜が企図されていた。しかし、リクリエーション版では、「俺」という一人称や下ネタ的な単語が女性の口から発せられるという違和感の効果により、「語り手」と「演じられるキャラクター」との弁別や乖離はよりクリアに示される。3)「言い回しの統一的な処理」がこの弁別をより補強する。

「直接的な体験としては知りえないこと」に対してどう接近していけるのか。もどかしさや見えない圧力が俳優たちの身体に負荷をかけ続ける。極めて緩慢な歩みで「再現」されるデモの様子。「床に引かれた白線テープ」はデモ隊が歩く横断歩道へと変貌するが、指で摘まみ上げる別の俳優によって「現実の物質であること」が露呈され、フィクションは解体される。また、ある一つのシーンが、一人の俳優の内の「間接的な語り/再現」の切り替えに加え、複数の俳優によって視点や細部の言い回しを変えて何度も変奏的に反復されることで、時間軸が前進と後退を繰り返し、リニアな秩序を撹乱させる。語り、身体運動、そして反復によって「物語の単一のフレーム」は生起すると同時に揺さぶられる。それは、「2003年3月の5日間」という局所的な時空間に再び強固な輪郭を与えるのではなく、個別性を少しずつ丁寧に剥ぎ取り、「現在との距離」へと変換していくのだ。

この距離を固定化されたものとして描出せずに、その都度の上演の時空間のなかで立ち上がらせること。その距離の不安定な現われと測定のうちに、「2003年」から変化したものとしなかったものを聞き取ろうとすること。そこに本リクリエーション版は賭けられている。


[© Misako Shimizu 撮影:清水ミサコ]

関連レビュー

チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション|山﨑健太:artscapeレビュー

2018/01/31(水)(高嶋慈)

粘土の味『オフリミット』

会期:2018/01/26~2018/01/28

京都芸術センター[京都府]

笑っていいのか笑えないのかの瀬戸際の不条理な世界を上演する「努力クラブ」主宰の劇作家で演出家の合田団地。一方、多和田葉子の小説やテレサ・ハッキョン・チャによる多言語の実験的テクスト『ディクテ』など、「戯曲」以外のテクストを上演台本として使用する「したため」主宰の演出家、和田ながら。京都を拠点に活動し、作風の異なる気鋭の2人が今回組んだユニットが、「粘土の味」である。合田の書いた戯曲に対し、和田は演出家としてどう応答するのか。

『オフリミット』は、積極的に生きることを放棄した男に起こる不条理ともラブコメともつかない物語だ。誰からも必要とされていないと厭世的になり、仕事も辞め、しかし絶望というには微温的な日常を引きずり、「貯金がなくなったら死のう」と思って公園のベンチに座り、日々をやり過ごす。そんな男に、自分も孤独だと言う女が声をかける。詐欺を心配する友人を尻目に舞い上がる男。デートで距離を縮めた後、女は「遠くへ連れてって」と頼み、二人は温泉のある海辺の町へ出かける。海を見ながら「死にましょう」と誘う女。だが、一夜が明けると女は失踪していた。失意のうちに元の町に戻った男の前に、今度は「妹」と名乗る女が現われ、「姉はいつも、突然行方をくらまし、男が追いかけてきてくれるか試している。私は姉の居場所を知っているから一緒に来て」とドライブに誘う。「姉への手土産」といってスイーツを物色するなど、男を焦らせたあげく、彼女は最後に言い放つ。「姉の居場所なんて知ってる訳ないじゃない。これから私とホテルへ行きません?」。発狂した男の声が暗転した闇のなかに響きわたる。


撮影:前谷開

ここで特筆すべきは、物語ではなく、小道具をメタフォリカルに駆使した和田の「演出」、とりわけ「マイク」の効果的な使用だ。舞台は劇中のストーリーと男のモノローグが交錯して進むが、「モノローグ」部分はマイクを通して発話される。厭世的な孤独感の激白が、本来はパブリックに声を届ける道具である「マイク」で発せられる逆説によって、「誰も彼に耳を傾ける者などいない」という孤独感が増幅される。だがそれだけではない。男のモノローグは、「自分が性技に長けている」台詞から始まる。その時、天井からするすると逆さまに降りてくるマイクは、明らかにペニスの代替だ。マイク=ペニスを撫でるように触りながら、性技について語り続ける男。だがそれは彼自身が告白するように、全て妄想でしかない。生きることに無気力で受動的な彼だが、マイクを介したモノローグの時だけは、口調も激しく、声も大きく響く。マイク=ペニスは、握りしめている間は彼に攻撃的な力を与えるが、実際にその力が外の世界に及ぶことはない。天井からコードが垂れ下がったままのマイクを持って右往左往する男の姿は、鎖か縄に繋がれた哀れな猿のように見える。さらにマイクは最終的に、彼を誘う女たちに奪われてしまう。


撮影:前谷開


和田の演出は、「女たちに残酷に翻弄され、破滅する男性主人公」という物語を、被虐的なロマンティシズムとして描くのではなく、「優柔不断で流されやすいだけの男と、それを滅ぼすのは女」という図式が内包するジェンダー的な偏差に対して密かな逆襲を仕掛けている。彼が発狂したのは「人間不信(女性不信)」に叩き落とされたからではなく、「マイク=ペニス=発話の主導権を奪われた」こと、すなわち自らの去勢に気づいたからではないのか。和田の演出は、物語の解釈をラディカルに書き換えてしまう。戯曲に埋め込まれたジェンダー的な偏差とファロセントリックな欲望を明るみに出した上で奪い返すという批評性でもって応答した和田は、「演出」が(戯曲への奉仕ではなく)クリティカルな営みであることを提示していた。

2018/01/28(日)(高嶋慈)

SCOOL パフォーマンス・シリーズ2017 Vol.6『高架線』

会期:2018/01/26~2018/01/29

SCOOL[東京]

私と関係したりしなかったりしながら、世界は常にそこにそれとしてある。そんな当たり前の、しかし確と実感することは少ない世界のあり方に、たしかな手応えをもって触れさせてくれるような舞台だった。

原作は芥川賞作家・滝口悠生の初の長編小説。脚本・演出は小田尚稔が手がけた。モノローグが連なって16年間の物語を紡ぐ原作は、観客に語りかけるようなモノローグを多用する小田の作風と相性がいい。原作の雰囲気をよく再現した舞台だったと言えるだろう。

西武池袋線東長崎駅徒歩5分、家賃3万のぼろアパート、かたばみ荘。そこに住む者はアパートを出るときには次の居住者を自ら連れてこなければならない。後輩・片川三郎に部屋を譲った新井田は数年後、三郎が失踪したと連絡を受ける。新井田にはじまり三郎の幼馴染の七見歩、その妻・奈緒子、三郎の後に入居した峠茶太郎、茶太郎の行きつけの店のマスター・木下目見、小説家を名乗る男・日暮純一、その妻・皆実と語り手はバトンタッチされ、話は互いに関係あったりなかったりしながら続いていく。

俳優たちは順に舞台に進み出てひとりずつ語っていく。自らの出番を終えた者は舞台奥に並べられた椅子に腰かけ、ときおり語り手に目をやったりはするもののただそこにいる。この仕掛けはシンプルだが効果絶大だ。物語は観客の目の前で紡がれる。俳優が観客と共有するSCOOLという空間に時間が堆積し、そこは「私たちの部屋」になっていく。

やがてかたばみ荘が取り壊されるそのとき、彼らはいよいよ一堂に会す。初めて彼ら全員が、いわば関係を持つ瞬間。つまり、舞台奥の椅子に控える彼らは、潜在する世界の可能性だったのだ。未来のある瞬間に、突如として私と関係を結ぶかもしれない世界の可能性。それが可能性のままだっていい。世界とはそういうものだ。だが、世界はいつも私に開かれている。

3月9日(金)からは同じSCOOLで小田尚稔の演劇『是でいいのだ』が上演される。


[撮影:前澤秀登]

2018/01/26(山﨑健太)

ダンスボックス・ソロダンスシリーズvol.2 寺田みさこ『三部作』

会期:2018/01/19~2018/01/21

ArtTheater dB Kobe[兵庫県]

「ソロダンス」によるフルレングス作品の上演をシリーズ化する企画、「ダンスボックス・ソロダンスシリーズ」の第2弾。今回、寺田みさこは、自身の振付作品の制作ではなく、「ソロダンスの振付を他の振付家に依頼する」ことを希望。国籍、世代、ダンスのバックグラウンドやキャリアが大きく異なる3名の振付家がそれぞれ寺田を振付けた3作品が上演された。

韓国の気鋭のダンサー、振付家のひとり、チョン・ヨンドゥは、ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスのバレエ音楽「Uirapurú」(1917)を使用した『鳥と女性、そして夜明けの森』を寺田に振付けた。不協和音や変則的な拍子が展開する楽曲のなか、寺田は一つひとつの音に身体をあてがうように、ゼロコンマ1秒以下の速度と精密さで全身を運動させ、深い森の奥深くに棲息する孤独で奇妙な美しい鳥へと変貌していく。一方、ブラジルの鬼才、マルセロ・エヴェリンは、過去3回のKYOTO EXPERIMENTで観客に突きつけてきた極限的な肉体や暴力性を封印し、静けさのなかに、身体から滲み出た情動が次第に空間を変質させていくような、静謐かつ力強いソロをつくりあげた。片手に握りしめた石を愛おしむような、あるいは我が身から引き剥がそうとするかのような、愛憎に満ちた寺田の動き。ある時は軽やかに宙に浮き、ある時は耐えがたい重荷となってのしかかる石と寺田の身体の間には、目に見えない繊細な緊張の糸が刻々と強度と粘度を変えながら張りめぐらされているようだ。


[Photo: junpei iwamoto]


一方、脱力的な笑いとともに「ダンサーの身体の駆使」を扱ったのが、contact Gonzoの塚原悠也による『ダンサーがチューイングガムを運ぶための3つのフェーズ(準備・移動・撤収)』。「準備」のフェーズでは、塚原や裏方スタッフが脚立、木箱、トランク、プロジェクター、ビデオカメラ、照明といったさまざまな機材や物品を舞台上に持ち込んで設置していく。積み上げた木箱どうしの間には板が橋渡しされ、寺田はガムを噛みながら、板の上をバランスを取りつつ渡っていく。口元にマイクが仕込まれているのだろう、くちゅくちゅという噛む音が響く。寺田が渡り終えた板と木箱は裏方スタッフによって取り外され、行く手には新たな橋=通路が次々と築かれていく。ここでは、「ガムを空間的に移動させる」というナンセンスな目的に、超絶技巧を持つダンサーの身体が従事させられているのであり、さらに「ダンサーの身体移動のためのナンセンスな装置」をつくるために労力が割かれている。同時に舞台上では、塚原がトランクから引っ張り出すガラクタが次々とベルトコンベヤーに乗せられていくという別の「移動」が同時進行し、壁のプロジェクションに実況中継で映されていく。「ダンサーの身体」という特権性を無効化しつつ、「ガムの移動」というナンセンスを起点に、寺田の身体、裏方スタッフたちの身体、塚原の身体、舞台上のさまざまな物品がそれぞれの目的や法則に従いつつ交通し合う複雑な場をつくり上げていた。

このように本公演は、運動の精密なコントロール、内に秘めた情動の表出、身体の駆使の動機付け(とその問い直し)という「振付」の多面的現われの中に、「寺田みさこ」という固有のひとつの身体が持つ可塑的な変容の振れ幅をも提示していた。

2018/01/20(土)(高嶋慈)

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