2019年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

akakilike『家族写真』

会期:2018/06/22~2018/06/24

d-倉庫[東京都]

akakilikeはダンサー・演出家の倉田翠とテクニカルスタッフのユニット。本作は倉田と写真家・前谷開との共同制作企画として2016年に初演され、今回は初演の出演者にダンサー・佐藤健大朗を加えての「再演」となった。

舞台装置は会議室で使うような折りたたみ式の長机のみ。出演者のうち年長の(ように見える)男女(筒井潤と寺田みさこ)と年少の(ように見える)男女(前谷開と迫沼莉子)が机を囲む。筒井の「もしな もし もしやで お父さんが 死んだらやけどな」という言葉が4人が家族であることを示唆するが、それでは左右の壁際で彼らを見つめる若い男女(竹内英明と倉田)は誰だろうか。筒井がしきりに自らの死を語ることもあり、竹内と倉田は父亡きあとの、成長した子供たちのようにも見える。食卓を囲む家族は在りし日の回想だろうか。本作において言葉を発するのは筒井だけで、しかもそれはほとんどが保険金の話だ。彼らの動きや立ち位置は交錯していき、ひとつの解が与えられることはない。

[撮影:平澤直幸]

彼らは一人ひとりばらばらに踊り続けるが、「家族写真」を撮る瞬間だけは揃ってポーズを取る。家族であることを保証する唯一の瞬間。家族として共有できる記憶は個人の記憶の一部にすぎない。自分以外の家族がどのような思いを抱いているかを知る術などない。前谷は上演中、家族写真以外にも無数の写真を撮る。終演後のロビーや写真集で見ることのできるそれらの写真では、自らシャッターを切った前谷だけがこちらを見据えている。前谷の「家族」の記憶は他の出演者には共有されない。

ひとつの家族の記憶として見るならば互いに矛盾するかのような場面によって『家族写真』は構成されている。近親相姦的な欲望の発露にも見える暴力的な、あるいは苦しみもがくような動きも多い。前谷に首を絞められた倉田が吐血する場面さえある。それらは「家族」が本来的に孕む不穏さなのかもしれない。寄り添う共同体で個人はぶつかり合い軋みをあげている。

[撮影:平澤直幸]

[撮影:前谷開]

公式ページ:https://akakilike.jimdo.com/works/家族写真/

2018/06/22(山﨑健太)

犬飼勝哉『木星のおおよその大きさ』

会期:2018/06/20~2018/06/25

こまばアゴラ劇場[東京都]

「宇宙は社会の縮図である」とキャッチコピーを掲げた犬飼勝哉が全七場の連作で描くのは〈(株)ジュピター〉を取り巻く人間模様。意味のない会話や冗長な社交辞令が延々と続くなかに社会/会社が抱える「おかしさ」が浮かび上がる。

例えば女性への偏見。第一場「木星の日面通過」では女性社員(深澤しほ)が喫煙所にたむろする男性社員への不満をだらだらと口にするのだが、彼女もまたさりげなくタバコを取り出し、男性社員のひとり(前原瑞樹)はそれに引いてしまう。女性はタバコを吸わない、あるいは吸わないでほしいという勝手なイメージを押しつける男性は少なくない。第二場「木星からの物体X」には取引先の女性(西山真来)に対し「てっきり、男性の方だと思ってまして」「やはり女性の方だと」などと連発する男性社員(浅井浩介)が登場する。誇張されたやりとりは笑いを生むが、これらが偏見に基づくセクハラであることは言うまでもない。

女性/男性への固定観念を持っているのは登場人物だけではない。描かれる「あるある」のなかには女性社員同士のランチタイムの駆け引きや男子トイレでのマウントなども含まれている。観客もまたそれらを「あるある」だと認識しているからこそそこに笑いが生じるのであって、それに気づくとはたしてこれは笑ってよいものかと考えてしまう。

一歩引いた場所から人間社会にアイロニカルな視線を投げかけている者もいる。「個体増殖のしかたが、少し複雑すぎる」などと人間を揶揄する串田(本橋龍)が観客に自ら説明するところによると、彼はその見た目とは異なり「およそ2万年前に、この星に落下してきた」「いまあなたが見ているモノに見える」生命体らしい。それはもちろん俳優としての宣言でもあるわけだが、しかし観察者を装う彼が誰よりも他人の視線によって自らのありようを規定されてしまっているというのも皮肉な話だ。アイロニカルな視線は「観客」にも向けられている。

[撮影:冨田粥]

公式サイト:http://astronautsboard.com/

※本文中の出演者名に誤りがありましたので、2018年7月4日、修正いたしました。謹んでお詫び申し上げます。

2018/06/21(山﨑健太)

ダダルズ#1『MからSへ』

会期:2018/06/16~2018/06/18

新宿眼科画廊スペースO[東京都]

他者との関係を「うまく」結ぶことのできない人々。そのあまりの「うまくいかなさ」に笑ううち、いつしか私は居心地の悪さを感じていた。

『MからSへ』に登場する3人はそれぞれに弱さを抱えている。同僚(永山由里恵)の財布から金を抜き取る女(大谷ひかる)。発覚し返金を求められ、それに応じようとはするものの、期日までに満額を用意することができない。女はあろうことか二、三度会ったことがあるだけの男(横田僚平)を、事情を知らせぬままに同僚との待ち合わせの場所に同席させ、その場で借金を申し込む。男は男で、無職であるにもかかわらず親に頼るから問題ないとそれを引き受けてしまう。同僚は納得がいかず食い下がるが、いたたまれなくなった女は2人を残してその場から逃げ出してしまう。

女はどうしようもない人間だが、それはまさにどうしようもないこととしてある。女はおそらく、盗みを働こうとも、借金を踏み倒してやろうとも強くは思っていない。誘惑に負け、プレッシャーに負け、嫌なことからただ逃げたいという消極的な意志があるだけだ。女もそれを自覚していて、だからこそお金を「返さないかもしれません」「先に謝っておきます」などと口走る。それもまた弱さの表われでしかないのは言うまでもない。

男は男で、端から見れば意味不明な言動をしばしば取り、円滑に会話をこなすことができない。その反動のようにして、たかられているとわかっていても女に金を貸してしまう。そんなものでも関係を求めてしまう。唯一「まとも」なのが同僚の女だが、彼女は順序立ててものごとを説明することが苦手で、そんな自分が許せない。失敗を許せない弱さは正論を振りかざすというかたちで他人に向かう。

大石恵美の戯曲と演出、それに応える俳優の演技が描き出す彼らの弱さは極めて解像度が高い。裁きも許しも啓蒙もなく、淡々と観客の前に投げ出されるそれ。観客に求められているのは、ただそれに付き合うことだ。

公式ページ:https://twitter.com/dadaruzu_net

2018/06/18(山﨑健太)

九条劇『ウリハラボジ』

会期:2018/06/16~2018/06/17

Books×Coffee Sol.[京都府]

浜辺ふうによるソロの演劇ユニット「九条劇」の第一回公演。在日コリアンが多く住む京都の東九条で生まれ育ち、日本人だが幼いころから朝鮮半島の文化に囲まれて暮らしてきた浜辺自身の自伝的な語りが、愚直なまでにストレートかつパワフルな一人芝居として上演された。本作の根底にあるのは、「家族」と「アイデンティティ」という大きな2つのテーマだ。タイトルの「ウリハラボジ」は、朝鮮語で「うちのおじいちゃん」という意味で、1987年に初演された同名のマダン劇(朝鮮半島の伝統的な仮面劇の要素を取り入れた演劇形式)の作品タイトルでもある。在日一世である「おじいちゃん」の語りを通して、孫が歴史と自身のルーツを知っていくという内容だ。

一方、今回の浜辺版の「ウリハラボジ」では、幼い頃から可愛がってくれた「自慢の祖父」が、「最も近しい他者」として立ちはだかる。幼少期より多文化共生教育の環境で育ち、朝鮮半島の打楽器「チャンゴ」を習い、在日コリアンが多く通う中学校で在日の歴史についての授業を受けて憤り、「正しい歴史を学んで正しい日本人になろう」と決意した正義感の強い子供だった「私」。だが、親友が高校進学を機に日本に帰化すると知り、「本名で暮らせる社会にしようと願ってたのに」とショックを受ける。民族やアイデンティティの問題について葛藤を抱えるなか、祖父が何気なく発した差別的な言葉。それは「私」の心に修復不可能な傷を残し、大好きだった祖父に隔たりを感じながら生きることになる。韓国留学を経て、祖父の介護とともに同居生活が始まるが、根本的な和解に至る対話関係を築けないまま、祖父は亡くなった。チャンゴやパンソリの披露とともに、浜辺演じる「私」がラストで一気に心情を吐露するシーンは圧巻だ。「祖父の言葉になぜあんなに傷ついたのか。友人じゃなくて、私のアイデンティティが傷つけられたんだと分かった」「チャンゴのリズム、パンソリのこぶし、朝鮮半島の文化は私の身体に染みついている」「私はこんな人間だと、大事なことを祖父に伝えられなかった。許してあげられなくてごめん」「親友に対して、彼女のアイデンティティは『在日』だと決めつけていた。何を大切にするかはその人自身が決める。他人に証明する必要はない」。

ここで、差別的な言葉を発した「祖父」=「最も近しい他者としての家族」は、内なる他者すなわち無意識に差別を内面化している存在として読むことができるだろう。そうした内に抱え込む他者とどう向き合うのか。パワフルな身体パフォーマンスの力とともに、真摯に取り組んだ浜辺の「九条劇」が、自伝的要素の強い語りの昇華を経て、これからどう深化していくのか、非常に楽しみだ。


[撮影:中山和弘]

2018/06/17(日)(高嶋慈)

いまいけぷろじぇくと第7回パフォーマンス・デュオ公演『ずれる、ずらす、ずらされる』

会期:2018/06/16

SCOOL[東京都]

いまいけぷろじぇくとは作曲家兼パフォーマーの今村俊博と池田萠による現代音楽のユニット。2014年以降、半年から1年に1回のペースで公演を続けている。

二人が「演奏」する作品の多くはダンスや演劇などのパフォーミング・アーツに近しい。私はその演奏を見ながら、地点東京デスロックcontact Gonzo、あるいはベケットといった名前を思い浮かべていた。今回演奏された作品のなかにはダンサーの岩渕貞太に「作曲」を委嘱したものもあり、二人のレパートリーとなっている。

今回はゲストパフォーマーに梅棒の野田裕貴を迎え、6人の作曲家による6曲を演奏した。ボイスパフォーマンスもあればチャンスオペレーションによる演奏もあり、バラエティに富んだ作品はそれぞれに興味深かったが、ここでは身体を酷使する今村・池田作品を紹介したい。

今村作曲の「数える人V」では二人の奏者が交互に馬跳びをし合う。奏者は自分が跳んだ回数をカウントしているのだが、それぞれ自分が跳んだ回数をカウントしているため、二人の唱える数字は一致したりひとつズレたりしながら、カウントは50まで続く。単調な繰り返しと疲労、微妙な数字のズレが奏者のミスを誘う。

池田作曲の「いちご香るふんわりブッセ/うさぎのまくら クリーム金時」は枕草子を暗唱する奏者にもう一方の奏者がコンビニスイーツを食べさせ続けるという作品。食べさせられる側はその都度、商品名を口にしなければならない。私が見た回はチョコケーキとプリンクレープ、もちもちスティック(?)にオレンジジュースという組み合わせだった。演奏はすべてのスイーツを食べ切るまで続く。

二人の取り組みの第一義は音楽を問い直すことにあるのだろうが、身体に負荷をかけることで演奏に揺らぎをもたらす手法は、演劇やダンスにも応用可能な思考をはらんでいる。さらなる思考の交流のなかから未知の音楽が、演劇が、ダンスが生まれることを期待したい。

公式ページ:https://goo.gl/1py5Fu

2018/06/16(山﨑健太)

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