2018年06月15日号
次回7月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

鳥公園「鳥公園のアタマの中」展

会期:2018/02/27~2018/03/04

東京芸術劇場 アトリエイースト[東京都]

鳥公園・西尾佳織の6本の戯曲を西尾を含めた5人の演出家がそれぞれ演出し、リーディング公演として(台本を手に持ち、それを読み上げるかたちで)上演するという今回の企画。ただし、演出家と俳優はその日の朝からリハーサルを始め、稽古のほとんどの時間は一般に開かれた状態で行なわれる。公演後には西尾と俳優や演出家とのトークもある。創作のプロセスをそのまま見せるという意味で、会場の名前でもある「アトリエ」での作業を見せる試みと言えば近いだろうか。

しかし、創作のプロセスを開示することに、あるいはたった1日しか稽古していないリーディング公演を上演することにどのような意味があるのだろうか。私のように演劇そのものに興味がある人間、あるいは自らも創作に携わる人間にとっては有意義かもしれないが、そうでない人々はこの取り組みに何を見ればよいのだろうか。

27日に上演された『カンロ』(演出は西尾)の初演は2013年。複数の視点から見た現実や夢、妄想が溶け合うような上演のあり方はそれ自体が作品の魅力をなしている一方、舞台上で何が起きているかを完全に把握することを難しくしている印象もあった。ところが今回のリーディング公演では戯曲の構造がはっきりと見えた。戯曲の複数のレイヤーが、俳優の立ち位置や移動によってはっきりと可視化されていたからだ。トークで聞いたところによれば、それは演出の西尾の指示によるものでなく、俳優が自発的に動いた結果なのだという。

ここに示されているのは、戯曲を上演するという行為には、俳優が(あるいは演出家が)戯曲と向き合い思考するプロセスが含みこまれているという当たり前の、しかし忘れがちな事実だ。稽古がそうだというだけでない。繰り返される上演もまた、本来的には思考のプロセスとしてあるはずだ。観客もまた、舞台上の俳優たちと場を共有し、ともに思考する時間を過ごす。であるならば、よい上演の条件とは何だろうか。

公式サイト:https://www.bird-park.com/

2018/02/27(山﨑健太)

シアターコモンズ ’18 マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター「バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章」

会期:2018/02/24~2018/02/25

港区立男女平等参画センターリーブラ、リーブラホール[東京都]

ファイブ・アーツ・センターは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブであり、メンバーのマーク・テは演出家、キュレーター、研究者と複数の顔を持つ気鋭のアーティストである。2016年に横浜と京都で上演された『Baling(バリン)』は、植民地支配からの独立をめぐる内戦の和平会談を記録に基づいて「再演」しつつ、映像作家やアクティビストでもある出演者たちによる個人的な語りや検証を加えることで、公に語られずにきたマレーシアの現代史を掘り起こし、相対化を試みる秀逸な作品だった。本作も同様にドキュメンタリー演劇の手法を用いつつ、「過去」ではなく「(かつて想像された)未来」へとベクトルを変えている。俎上に載せられるのは、1991年にマハティール政権が提唱した国家プラン「ワワサン2020(ビジョン2020)」。2020年までにマレーシアの経済成長と先進国化の実現を謳うこのプランの下で、出演者たちは子供から大人へと成長した。

舞台は、彼らの個人的な経験のエピソードを織り交ぜつつ、この成長過程をなぞるように展開する。「クアラルンプール2020」と書かれた未来都市のポスターがスクリーンに大写しになる。当時13歳だった出演者は、学校の生徒たちが国旗を描くマスゲームの練習に駆り出された記憶を語る。視察に来た首相と目を合わせようと、精一杯の笑顔でポンポンを振る生徒たち。その懸命な無邪気さを、勇壮な行進曲をバックに出演者たちは再現してみせる。次のシーンで彼らは、空き缶やペットボトル、ビニールシートを古典舞踊の衣装のように身にまとい、輝かしい躍進について口々に話す。ハリボテの神々が語る、経済成長と速度の夢。だが彼らはゴミのような素材でできた「衣装」を脱ぎ捨て、床に叩きつけて暴れ始める。舞台奥のDJブースにいた男性が、自身の留学体験を語り出す。企業の奨学金を得てアメリカの大学に進学し、帰国後はエンジニアとして雇用される契約で、未来は保証されていたこと。しかし実際はパンクロックに染まって帰国したこと。ペットボトルや空き缶を叩きつけて破壊する出演者たちは、若者の反骨精神を体現する。散らかった残骸だけが後に残る。


© Masahiro Hasunuma


そして、「国家改革2050」のプログラムが新たに発表され、未来は延期された。出演者たちは残骸を拾い上げて組み立て、積み木遊びに興じ始める。秩序の回復と都市の成長の示唆。しかし延期された未来に、彼らは自身の未来像を投影できない。そして、足元の四角い芝生が、「ダタラン・ムルデカ(独立広場)」に見立てられて語られる。そこはさまざまな記念パレードや国家的な行事が執り行なわれるスペクタクルの空間であり、英国旗が下ろされた歴史の象徴的空間であり、「公共の空間」でありながら集会の禁止などさまざまな規制が課された権力と監視の空間でもある。背後のスクリーンに、10万人が参加した2012年のデモの映像が映される。公正な選挙、教育の無償化、直接民主制を訴える「オキュパイ・ダタラン」に参加し、広場にプロテスト・テントを張ったことを語る男性。別の出演者たちは芝生のシートの下に潜り込んで這いまわり、地面を不安定に流動化させる。警察が張った立ち入り禁止のテープを「国家が自身のパブリック・アートを作った」と詩的に表現する彼らは、「独立広場のオルタナティブな使い方」を口々に語り始める。「私は、独立広場がどんなダンサーも使えるリハーサル場であることを望む」「この国の行方不明者が追悼される場であることを望む」「雑草が生い茂る場所であることを望む」……。


© Masahiro Hasunuma


それは、政治に別の政治で対抗するのではなく、詩的な想像力を武器に対峙しようとする、軽やかかつ強靭な姿勢だ。床の芝生は剥がされ、丸められて墓石のように置かれ、そこにロウソクの灯が添えられる。そして、「都市の中にもう一つの都市」を束の間出現させた広場の占拠は、「オルタナティブな都市」の想像をかき立てていく。「国家を持たない都市」「マレーに生まれた者がイスラムを抜ける選択肢を持つ都市」「女性の快楽のための都市」「壁に描かれている未来を消す都市」「人々が代表されえない都市」……。それは闇に包まれた追悼の中で、かすかな希望のように灯される言葉だ。遊戯的な所作も相まって、舞台上に一瞬、開放的な風が吹き抜けていったように感じられた本作。それは、「演劇」という形式を借りて、世界中に無数に存在する「公共の広場」に向けて、誰のための空間なのかを再考し、再想像するためのレッスンであり、「シアターコモンズ」というコンセプトにまさに相応しい作品だったと思う。

公式サイト:http://theatercommons.tokyo/


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2018/02/25(日)(高嶋慈)

劇団ドクトペッパズ『うしのし』

会期:2018/02/23

国立オリンピック記念青少年総合センター 第1体育室[東京都]

「牛の死」を描いた本作は手のひらサイズの人形によって上演される人形劇だ。糸で繰られる老人と老いた牛は老いを映すようにふるふると震える。老い、死に近づくほどに私たちは自らの体を思うようには動かすことができなくなり、それは物体としてのあり様を露わにしていく。

舞台となる空間の大きさは5メートル四方ほどもあるのだが、老人の家と畑は空間の前面に置かれた30センチ四方ほどの二つの台の上にあり、牛とともに畑仕事に勤しむ老人はその小さな世界で充足している。しかし牛の死がその世界の終わりを告げる。唯一の伴侶を失った老人は呆然と座り込む。ふと見ると、引くもののない牛車がするすると進んでいく。追いかける老人。牛車ははるか先へと進みゆき、老人は気付けば何もない真っ白な雪原にひとり取り残されている。広大な世界に放り出された老人の人形はより一層小さく見える。

と、真っ白な雪原は一瞬にして、色とりどりの花が咲き乱れる桃源郷へと変わる。そこにあの牛が酒を運んでくる。再会を祝し盃を干す。花びらが舞い、次の季節が訪れる。青々と茂る稲に風が吹き渡り雲が流れる。いつしか牛は再び去っている──。

広大な世界のなかで個々の命は圧倒的に孤独で小さい。誰が死のうと季節はめぐる。だが、その死の一つひとつはめぐる自然の理へと組み込まれている。死を通して世界の大きさに触れる彼らの手つきは温かい。ほとんどの演出効果が人力によっていることも大きいだろう。台詞らしい台詞はない。「おーい」と牛を呼ぶ老人の声。牛の鳴き声。舞う花びら。ばらんでできた稲が吹く風に立てるパタパタという音。それぞれが確かにそこにあることを確かめるようにして上演は進む。小さな人形と広い空間の対比、一瞬で季節が変わる舞台美術など、人形劇ならではの手法と仕掛けが鮮やかに作品の主題を浮かび上がらせていた。

本作は劇団ドクトペッパズのレパートリーのひとつであり、夏にも上演が予定されている。

公式サイト:http://dctpeppers.wixsite.com/mysite

劇団ドクトペッパズ『うしのし』ダイジェスト版:https://www.youtube.com/watch?v=uFYLQdK4fnQ

2018/02/23(山﨑健太)

「せんだい・アート・ノード・プロジェクト」第2回アドバイザー会議

会期:2018/02/12

せんだいメディアテーク[宮城県]

せんだいメディアテークにて、アートノードのアドバイザー会議に出席した。この日は2017年度の活動と2018年度の計画が報告され、川俣正の貞山運河にかける「みんなの橋」の進捗状況(ちょうど7階にて展示中だった)、藤浩志による「雑がみプロジェクト」、東北リサーチとアートセンター(TRAC)のイベント、複数の企画者によるTALKシリーズなど、多様なプロジェクトが動いていることがうかがえる。もっとも、メディアとしてのタブロイド紙やホームページなどを閲覧しないと、それぞれの企画の参加者に対し、これらが全体としてアートノードという枠組のアイデンティティをもっていることが理解しにくいのではないかと思った。こうした疑問に対して、せんだいメディアテークはあえてそれでよいと考えている。すなわち、もともと全国で乱立する芸術祭とは一線を画するべく、特定の期間に展示とイベントが集中させて、ピークをつくる方法を避け、リサーチをベースにした複数のプロジェクトがいつも同時進行しているスタイルを選んだからだ。

会議の終了後は、TALKシリーズを運営した7名による総括の公開会議が行なわれた。いわば反省会をかねたメタ・イベントなのだが、予想以上に参加者が多く、市民の関心の高さを感じた。これも改めてギャラリー、古書店+カフェ、舞台制作などを営むメンバーが一堂に会して、全体を俯瞰すると、アート、音楽、文学、映画、民俗学など、多様なジャンルのイベントがあちこちの場所を活用しながら開催されていたことがわかる。おそらく、それぞれの個性的な企画者に参加者もついていると思われるが、アートノードを契機にして、普段は聴講しなかったようなタイプのトークにどれくらい足を向けたのかが興味深い。それこそが結節点としてのアートノードである。もちろん、企画者同士が同じ場を共有し、交流することも、これまであまりなかったから、まずはその第一歩となった。


展示風景

川俣正「みんなの橋プロジェクト」(左)と「みんなの船」(右)の構想模型

2018/02/18(日)(五十嵐太郎)

ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』

会期:2018/02/11~2018/02/18

KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ[神奈川県]

国際舞台芸術ミーティングTPAMでシンガポール出身の映画作家/ヴィジュアルアーティストであるホー・ツーニェンの「自動化された影絵劇」、『一頭あるいは数頭のトラ』が「上演」された。東南アジアにおける人間とトラの関係を中心に置いた本作。“We are tigers, weretigers.”(我らはトラ、トラ人間だ)と歌うCGのトラの姿はユーモラスだが、構成は複雑かつ巧みだ。

観客は向かい合った二つのスクリーンに挟まれて作品を鑑賞する。二つのスクリーンを一度に視界に収めることはできない。観客は狭間に立ちながら、同時に二者択一を迫られる。鑑賞は常に、背後にもう一方の気配を感じながらのことになるだろう。そちらは映像を投射するプロジェクターの置かれた、つまり、起源の方向でもある。この構図は物語内でも反復される。トラ人間は月光を受けて真の姿を現わすが、月光は太陽光の反射でしかない。月と向き合うトラ人間の背後には、真の光源たる太陽が隠れている。

[撮影:前澤秀登]

作品を通して、起源は常に相対化、複数化されていく。それが最高潮に達するのが、スクリーンの背後から影絵芝居の人形が現われる瞬間だ。光の像たる映像に対し影絵は影の像であり、両者はともに光によってかたどられながら、その表裏は逆転した関係にある。光源は人形を挟んだ向こう側だ。観客がそれまで見ていたものは裏側に過ぎないのかもしれない。いや、この言い方も正確ではない。それが影絵芝居であるならば、観客の位置はそのままでいい。だが、人形がスクリーンなのだとしたら? 観客は向こう側に映る絵を見る術を持たない。複数の光源は複数の視点の存在を暗示する。そういえば、screenという単語には目隠しという意味もあった。

ホー・ツーニェンはこれまでにも同じモチーフを使った作品を繰り返し発表してきている。それもまた、起源を複数化する行為だ。複数の作品の記憶は鑑賞者の中で混じり合い、また新たな起源を創造するだろう。一頭のトラの背後には、複数のトラが潜んでいる。

[撮影:前澤秀登]

One or Several Tigers ( 2017 ) by Ho Tzu Nyen, courtesy of the artist

公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2018/?program=one-or-several-tigers
参考URL(映像):https://aaa.cdosea.org/#video/w

2018/02/18(山﨑健太)

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