2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:黒沢美香追悼企画 美香さんありがとう

会期:2017/11/12~2017/12/30

横浜市大倉山記念館 ホール、d-倉庫、アップリンク渋谷[神奈川県、東京都]

昨年12月1日に逝去した黒沢美香の一周忌を記念した追悼企画。「日本のコンテンポラリーダンス界のゴッドマザー」とも称され、80年代から日本のダンスを牽引してきたその特異な足跡を、作品上演と記録映像の上映会によって振り返る。11月には、「ルール」の縛りと即興性の高さの双極の狭間で展開される2作品『一人に一曲』と『lonely woman』が横浜市大倉山記念館 ホールにて上演される(『一人に一曲』では、無記名のカセットテープをくじ引きで選び、出てきた曲を一人ずつ踊りきるというルールが課せられる。『lonely woman』は、「ダンサーは立ったその場を動いてはならない」というルールの下、横一列に並んだ3人のダンサーが30分間即興で踊る作品)。12月には、80年代から作りためた小品集「ダンス☆ショー」がd-倉庫で上演され、アップリンク渋谷では選りすぐりの記録映像が一挙上映される。なお、この企画は、黒沢が1985年に立ち上げた「黒沢美香&ダンサーズ」の最後の活動となることが予定されており、貴重な上演機会となるだろう。

公式サイト:http://mdancers2017.wp.xdomain.jp

関連レビュー

NEWCOMER SHOWCASE #4 黒沢美香振付作品『lonely woman』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/09/30(土)(高嶋慈)

プレビュー:「ダンスアーカイヴプロジェクト作品 4都市巡回公演」(神戸公演)

会期:2017/11/18

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

「ダンスアーカイヴプロジェクト」は、日本現代舞踊のアーカイヴ資料の収集整理に加え、次代への継承とさらなる創作の土台の構築も含めたダンスアーカイヴの可能性を探求するプロジェクトである。アーカイヴ資料を駆使してダンス作品の創作や展示を行ない、その今日的価値を提示している。
本公演は、札幌、神戸、埼玉、高知の4都市を巡回するうちの神戸公演。A・Bプログラム計3作品が上演される。Aプログラムの川口隆夫『大野一雄について』は、大野の踊る姿を実際には見たことがないという川口が、大野の代表的な3作品『ラ・アルヘンチーナ頌』『わたしのお母さん』『死海』の映像記録を緻密に分析し、振付を厳密に模倣して再現する作品。2013年の初演後、国内外で再演を繰り返してきた。筆者は2015年の京都公演を実見したが、伝説化したダンスを「いま・ここ」に鮮やかに受肉化しつつ、メタ的な仕掛けを駆使して「大野一雄」の脱神話化を図り、大野一雄という固有の強烈な肉体を離れても、その「振付」の強度の持続は可能かという問いを提示するものだった(詳細は下記の関連レビューをご覧いただきたい)。
Bプログラムでは、岡登志子『手術室より』と大野慶人『花と鳥』が上演される。前者で参照される『手術室』は、日本モダンダンスのパイオニア、江口隆哉と宮操子の初期の代表作。マリー・ヴィグマンに師事していた江口と宮が1933年にドイツで初演し、翌年の帰国公演で当時27歳の大野一雄を感動させた。しかし、この作品について残されているのは、一枚の舞台写真と江口の語った言葉のみ。「再演」がおそらく不可能なこの作品を、江口と宮がヴィグマンから学んだ本質が何だったかを探り、日本人による最初期のモダンダンスを演繹的に再構成する。また、大野慶人『花と鳥』は、コラージュ的な構成の中に、大野慶人の舞踏家としての個人史と大文字の「舞踏」の歴史が交錯するような作品。大野一雄『死海』初演(1985)にあたり土方巽が大野慶人に振り付けた作品、細江英公が監督し、土方と大野慶人が出演した短編映画『へそと原爆』(1960)の上映、大野一雄の『ラ・アルヘンチーナ頌』冒頭のシーンを当時の衣装と音楽を用いた再現、そして大野慶人自身の振付作品で構成される。
プログラム全体を通して、「大野一雄」を一つの軸に、舞台芸術における継承のあり方やアーカイヴの活用の可能性について考える機会となるだろう。

関連レビュー

川口隆夫ソロダンスパフォーマンス『大野一雄について』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/09/30(土)(高嶋慈)

大駱駝艦・天賦典式 創立45周年『擬人』

会期:2017/09/28~2017/10/01

世田谷パブリックシアター[東京都]

大駱駝艦の舞台には、文明論を語るという特徴がある。現代社会のありさまとは何か、そこで人間はどう変容しているのか、そうした問いを大づかみで捉え、客席に投げかける。日本のコンテンポラリーダンスが「日常」に自分の座を据えてきたのと比べると、文明論的な視点はダイナミックに映る。文明を語ることで、まるでハリウッドあるいはネット配信のSF映画のようなエンターテインメントへと接近するのも面白い。舞台の冒頭、2列で横並びになった踊り手たち10人ほどが、顔を観客に向けてしゃがむ。すると、「カクッ、カクッ、カクッ」と小刻みに首を傾ける。時計の秒針のような規則性は、その身体が「作り物(人造人間)」つまり「擬人」であることを示唆する。その規則性が全身におよび、歩く姿もカクカクしている。そこで生じるシンプルな動作の反復は、GIFが作るループのような独特のグルーヴを生み出す。大駱駝艦が得意とする群舞は、こうした「人間に似たロボットの跋扈する世界」を描くのに効果的だ。舞台中央には、KUMA(篠原勝之)制作の樹木が一本立っている。幹はときどき青く光る。生命が機械化した世界の象徴だ。「擬人」たちはガラスケースに陳列されている。両腕に長い金属の義手を着けた女が彼らに合図を送る。すると、彼ら擬人は上半身をむき出しにして回転しながら動き出す。その動作も繰り返されることで、奇妙なグルーヴ感が生まれてくる。麿赤兒は、打ち捨てられたはずのダッチワイフ型の人形に紛れて、樽に入った状態で現れる。怯えたような表情が、麿独特のテンションを引き出す。その後、両手両足を鎖で繋がれたフランケンシュタインみたいな男(村松卓矢)も現れると、ゴジラを彷彿とさせるような大声で吠える。男は、サーカスの支配人?らしき人間(KUMA)に操られている。麿扮する人物もこの人物に囚われるが、最後に、自分の鎖を巻きつけ、形勢が逆転したところで、スクリーンに「つづく」と文字が出て本作は終了。最近映画の世界では二部作形式のものがあるけれど、まさにそうした作りで、翌週上演の後編『超人』に続く。

2017/09/28(木)(木村覚)

ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭

会期:2017/09/09~2017/09/24

旧郷小学校 ほか[京都府]

京都府北部の日本海に面する京丹後市を舞台に、「音」にまつわる表現に焦点を当てた芸術祭。「音」を主軸に、現代美術、音楽、サウンド・アート、ダンスなどの領域を横断して活躍するアーティスト計12名が参加した。2014年に続き2回目となる今回は、ローカル鉄道を舞台としたオープニング・パフォーマンス、廃校舎での展覧会、音を手掛かりに古い町並みを歩くサウンド・ワークショップなど、サイトスペシフィックで多彩なプログラムが展開された。
私が実見したのは、廃校舎を会場とした展覧会「listening, seeing, being there」とクロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」。前者の展覧会では、「音」を聴く体験や周囲の環境を取り込んで成立する作品など、感覚を研ぎ澄ませて味わう繊細な作品が多い。とりわけ、木藤純子の《Sound of Silence “Mの風景”》が秀逸。灯台の内部のようにぐるりと階段が続く部屋に案内され、真っ白い段の途中に一人立つと、部屋の灯りが消される。暗闇に目が慣れてくると、足元の階段が一段、また一段と、闇のなかにぼうっと仄かな光を放ち始める。おそらく蓄光塗料で描かれているのだろう、絡み合う草花のような繊細なイメージが闇に浮かぶ。上昇する階段に促されて視線を上げると、高みの壁にかけられていた白いキャンバスは薄いブルーの光を放ち、屋外からはピチピチという鳥の囀りが聴こえてくる。先ほどまでただの白い壁だった空間が一気に開け、物質性を失い、無限の空あるいは海の透明な青い光へと通じている。肉体が滅び、意識だけになった存在が彼岸へ続く階段を昇ろうとしている……そんな錯覚さえ起こさせるほどの、宗教的で濃密な体験だった。


「古代の丘のあそび 91’ 93’ 96’ 資料展示」会場風景

また、なぜ京丹後の地で「音」の芸術祭なのかという疑問に答えるのが、アーカイブ・プロジェクトの一つ、「古代の丘のあそび 91’ 93’ 96’ 資料展示」。90年代に3回開催された芸術祭「古代の丘のあそび」では、国内外のアーティストが丹後に集い、地域の人々の協力を得て交流した様子が、記録映像や各種資料によって提示された。丹後は、日本のサウンド・アーティストの草分けである鈴木昭男が、日本標準時子午線 東経135度のポイントで耳を澄ますサウンド・プロジェクト「日向ぼっこの空間」を1988年に行なった場所であり、以後、30年に渡る鈴木の活動拠点となってきた。クロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」では、豪商の元邸宅でのダンスパフォーマンスに始まり、海に面したロケーションで、鈴木がガラスチューブで自作した楽器を即興演奏した。刻々と暮れてゆく空の表情と相まって、忘れられない時間となった。


クロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」

公式サイト:http://www.artcamptango.jp/

2017/09/24(日)(高嶋慈)

福留麻里『抽象的に目を閉じる』

会期:2017/10/27~2017/10/28

cumono gallery[京都府]

ダンスを踊る体は、踊りの祝祭性に熱くなって、非日常へと飛んでしまい、我を忘れがちだ。けれども福留麻里の体は、舞台に立っていながら、目を瞑り、耳をすまし、目をすます。彼女の体につられて、観客のぼくも耳をすまし、目をすましてしまう。踊る体は現実を生きている。その体は、踊っている時間以外にも生きている。福留は観客に、録音した言葉で囁きかける。自分はどこに暮らしているのか、住まいから5分ほどで着く川までの道がどんなであるか、そこから3時間かけて首くくり栲象の庭劇場まで自転車で訪ねたこと、首を吊るパフォーマンスの後、首くくり氏から食事を振舞ってもらったことなどを、福留は声にする。声はいまここにないものを舞台に召喚する。その声と踊る身体とが二つ、舞台に並び立っていて、決して重なることはないけれども、反り返ったままでもなく、響き合う。踊りはそうして現実から乖離せずに、でも、ダンスの独特な抽象性を保ったまま、舞台を満たす。福留のダンスは相変わらずとびきりで、素早く時間をちぎってはすぐに貼り付ける。それは、剣術の使いが、刀を抜いたかと思ったら、もう既に仕事は終わっていた、みたいなことだ。カワサギがいると思ったら消え、消えたと思ったら魚を仕留め飛び去ってしまった、みたいなことだ。具体的には、ある運動のベクトルが推し進められている最中で、別の運動が唐突に差し込まれるといったもので、その目くらましが引き起こす眩暈に、ぼくは何よりダンスを感じる。環境に高感度で応答しながら、ダンサーの身体は内的な対話にも忙しい。けれども、それが濁っていなくて、澄んでいて、美しい。そんなダンスなのだった。

2017/09/23(土)(木村覚)

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