2019年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

前田英一『Every day is a new beginning』

会期:2018/09/05~2018/09/07

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

ダンサーと現代音楽家のセッションに加え、本物の物理学者が「出演」し、素粒子物理学の研究が舞台上で同時進行するという、異色の舞台公演。ダムタイプの舞台作品に出演し、パフォーマーとして活動する前田英一が初めて演出を務めた。

舞台奥には、人の背丈を超える高さの巨大な黒板が壁のように設置されている。ふらりと登場した男性(理論物理学者の橋本幸士)が、ブツブツと呟きながら、黒板にチョークで物理の数式やグラフを一心に書きつけていく。「ニュートリノ、重力波、電磁波」といった単語が辛うじて聞き取れ、「宇宙空間で起こった物理現象が地球に到達してどう影響を与えるか」についての壮大な思考実験が繰り広げられているようだ。黒板の両脇には2人の音楽家が配され、ピアノとパーカッション(ヤニック・パジェ)、アコーディオン・シンセ(ryotaro)のライブ演奏とともに、前田を含む4名のダンサーがシンクロした反復的な動作に従事し始める。思考に没頭する物理学者、厳密に振付けられた反復運動を同調させるダンサーたち、電子的に増幅された音を紡ぎ出す音楽家。舞台上には3つのレイヤーが同時進行的に共存する。


[Photo: SAJIK KIM]

とりわけ、同じ舞台空間上に、手前のパフォーミングエリア/奥の思考空間というレイヤーの共存ないし対比をもたらすのは、ダンサーと物理学者、それぞれが従事する行為の質的差異である。直線的な手足の動き、機械的な反復性、そのユニゾンは、これらが「厳密に振付けられた動き」であること、その再現可能性を強調する。一方、巨大な黒板=普段の研究環境に向かう物理学者は、台本として決められた数式をただ反復的に再現するのではなく、今まさにライブで思考中なのであり、再現不可能な、一種の即興的なパフォーマンスに従事しているとも言える。その、目に見えない物理法則や作用についての抽象的思考の痕跡は、情報量が圧縮された数式として可視化され、上書きされては消えていく。一方、ダンサーの身体は、目に見える運動の軌跡を刻一刻と空間のなかに刻んでいく。

「重力」や「引力/斥力」といった力の作用を印象づける小道具も登場する。例えば、暗闇を照らすランプを挟んで相対する2人のダンサーのシンクロした動きは、輝く恒星の周囲を旋回する2つの惑星を思わせる。脚立の上から落とされるボールは、無数の放物線を描いて飛び回る。終盤、湧き上がる雲や波のようにゆっくりと動かされる黒い風船の束は、空気の抵抗や微風のそよぎを伝えるとともに、破局的な終末が訪れた後の静寂のなか、新しい胎動の始まりを告げるようでもある。ライブ演奏の熱気とともに、詩的な連想を誘うイメージが次々と繰り出される舞台だった。



[Photo: SAJIK KIM]

ダンスと物理学という一見異色に思える取り合わせは、小道具を効かせた演出もあり、ダンスが地上の物理法則に抗えないこと、制約のなかにあるからこその自由を浮かび上がらせる。また、単に演出上の目新しさを狙うだけにとどまらず、「振付と即興」をめぐるより根源的な問いへと向かう可能性を秘めているのではないか。本作品は、ダンスにおけるこの問いの追求という点では物足りなさを感じたが、「研究が創造的行為であること」をまさに俎上に上げたという点では成功していた。

2018/09/07(金)(高嶋慈)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018

会期:2018/10/06~2018/10/28

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都府立府民ホール “アルティ”、元離宮二条城ほか[京都府]

9回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下「KEX」)。公式プログラムでは、12組のアーティストによる計15の公演や展示が行なわれる。

今年のKEXの大きな特徴は、「女性アーティストあるいは女性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループ」で構成されることだ。プログラムディレクターの橋本裕介によれば、「性およびジェンダーが文化的であるだけでなく、いかに政治的なものであるかへの問い」、さらに集団芸術としての舞台芸術と父権主義的な統率システムとの関係をめぐる問いが根底にあるという。加えて、「#MeToo」のムーブメントや性的マイノリティの権利擁護といった世界的動向、女性差別の事例が後をたたない国内状況への批判的視線も想起させ、極めてタイムリーかつ意義深いテーマ設定だ。

ただし、「女性アーティスト」という括りや「女性性」の強調は、一方で、男性/女性というジェンダーの本質論的な二分法の強化や再生産に結び付いてしまう可能性がある。そうではなく、「女性(性)」をめぐる考察を経由した先に、(ジェンダーに限らず)あらゆる本質論的なカテゴリーの無効化を見通せるかどうかが賭けられている。以下では、上演作品どうしの横の繋がりとして、筆者なりの視点から、いくつかポイントを抽出してみたい。

1)女性が(消費される客体としてではなく)「性」について主体的に語り、表現すること。ヘテロセクシャルな男性主体による社会通念や支配的規範からの脱却。

2011 年にフェスティバル/トーキョーとアイホール(兵庫)で『油圧ヴァイブレーター』を上演し、重機との妄想的な性愛をパフォーマンスに昇華させた作品で衝撃を与えた韓国のジョン・グムヒョンは、医療の教育現場で男性患者のダミー身体として使われる人形と「共演」する『リハビリ トレーニング』を上演する。無機的な人工物と生命、主体と客体の境界が曖昧に流動化していくなか、「モノ」としての身体に投影される欲望や反転した自己愛が剥き出しとなり、震撼させる作品になるだろう。

また、3度目の登場となるドイツの女性パフォーマンス集団She She Popは、老若男女の出演者と共演。自らの身体を「教材」とし、教師と生徒役を入れ替えながら「性教育の教室」を演じる『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』を上演する。

1975年の設立以来NYのアートシーンを牽引する劇団、ウースターグループは、1971年の女性の解放に関する激しいディベートを記録した映画に基づき、『タウンホール事件』を上演する。

気鋭の劇作家・演出家・小説家の市原佐都子/Qは、『毛美子不毛話』『妖精の問題』の代表作二本立てを上演する。時に観客の生理的嫌悪をかきたてるほど、動物的な欲望や性のメタファーを女性の視点から生々しく描写する作風が特徴だ。


ジョン・グムヒョン『リハビリ トレーニング』
[Photo by Mingu Jeong]

2)記憶の継承と他者への分有。フィクションとドキュメンタリーの交差によって可能となる語りを、舞台の一回性の経験として生起させること。山城知佳子、ロラ・アリアスに加えて、上述のウースターグループは1)と2)を繋ぐ存在と言える。

出身地の沖縄を主題に、パフォーマンス、写真、映像作品を制作する山城知佳子は、あいちトリエンナーレ2016で発表され、反響を呼んだ《土の人》を展示。また、同作から展開されるパフォーマンス作品を発表する。沖縄戦の記録フィルムにヒューマンビートボックスによる銃撃音がかぶさるシーンや、満開の百合畑で天に差し出された無数の手が拍手のリズムを奏でるラストシーンが、生身のパフォーマーにより演じられるという。映像から飛び出し、生の舞台空間へと展開する山城の新たな挑戦に注目したい。

また、2度目の登場となるロラ・アリアスは、現実とフィクションを交錯させ、ドキュメンタリー演劇の分野で活動している。上演予定の『MINEFIELD―記憶の地雷原』は、1982年、イギリスとアルゼンチンの間で勃発したフォークランド紛争/マルビナス戦争に従軍した元兵士たちが、映画セットを模した空間で、当時の記憶を再訪するという作品だ。



山城知佳子『土の人』
© Chikako Yamashiro, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

3)「ダンス」の領域の新たな開拓。

KEX 2014で『TWERK』を上演し、クラブカルチャーとクラシックバレエ、猥雑さと技術的洗練のめくるめく混淆を強烈な音響とともに刻み付けたセシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー。上演予定の『DUB LOVE』では、ダブ・プレートDJと共演し、強力な音響機構が刻むビートと拮抗する身体を提示する。

ダンサー、振付家の手塚夏子は、ダンス作品をアーカイブ化し、未来と他者へと手渡す「ダンスアーカイブボックス」に参加。手塚から「漂流する小瓶」としてのインストラクションを受け取って上演したスリランカのヴェヌーリ・ペレラ、韓国のソ・ヨンランとともにユニット「Floating Bottle」を結成し、KEXに参加する。ダンスのアーカイブ、再演と解釈といった問題に加え、西洋近代化がもたらしたさまざまな「線引き」への再考も視野に含むという。

また、ヴェネツィア・ビエンナーレ2018舞踊部門での銀獅子賞受賞など、世界的な注目を集めるマレーネ・モンテイロ・フレイタスは、ギリシア悲劇『バッコスの信女』をモチーフとしたダンス作品を上演する。

2度目の登場となるジゼル・ヴィエンヌは、暴力やドラッグをテーマとする作家デニス・クーパーによるサブテキストを、一言も言葉を発しないまま、15人のダンサーによるムーブメントに置き換えた『CROWD』を上演。激しい興奮と音楽にかき立てられた若者の群れの熱狂を通して、暴力とそれへの欲望が描き出される。


セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』
[Photo by Laurent Philippe / Divergences]

4)上演が行なわれる具体的で固有の「場所」への介入や読み替え。

昨年のKEXで、光と影による繊細な表現で魅了した田中奈緒子は、二条城の二の丸御殿台所にて、空間との対話を試みる。

また、自身の身体を素材としたパフォーマティブな作品を制作するブラジルのロベルタ・リマは、インスタレーション作品の展示空間でパフォーマンスを上演。計3回のパフォーマンスの度に、展示空間は姿を変えていくという。



田中奈緒子『STILL LIVES』
[Photo by Henryk Weiffenbach]

最後に、もちろん、ここで紹介したポイントは一つの観点にすぎないし、実際に上演を見た印象は異なる場合もあり、より豊かなものとなるだろう。多彩で刺激的なラインナップを観客それぞれの視点から見比べ、あなたなりのポイントを見つけだしてほしい。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

2018/09/03(月)(高嶋慈)

KAATキッズ・プログラム2018『ニューオーナー ─幸せを探して─』

会期:2018/08/04~2018/08/05

KAAT神奈川芸術劇場大スタジオ[神奈川県]

オーストラリアの劇団ザ・ラスト・グレート・ハントの新作の主人公は飼い主とはぐれてしまった犬・バーニー。ストリートで生き抜き、友と出会い、さらわれた友を助け出し、そして再び飼い主のもとへ帰ろうとする。パペットとアニメーションの組み合わせで描き出される冒険譚はチャーミングだ。

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2012」で『アルヴィン・スプートニクの深海探検』を観て以来、私はこの劇団の熱烈なファンである。同作は2016年には日本4都市ツアーを敢行。昨年はKAATキッズ・プログラムのひとつとして上演された。日本でも人気の演目だと言っていいだろう。同劇団の作品としてはほかに認知症の老人の世界を描いた『It’s Dark Outside おうちにかえろう』が日本で上映されている。共通するのは孤独とそこに寄り添う優しさだ。それは彼らがパペットを扱う手つきにも表れている。そこにある愛が、命を持たぬ人形に息を吹き込む。

本作の魅力はパペットと物語のチャーミングさだけではない。アニメーションとの組み合わせによる表現の多彩さが作品世界を大きく広げ、物語の展開とともに「次はどうなるのだろう」と観客を惹きつけ続ける。可変式の舞台はバーニーが走り出すのに合わせてワイドスクリーンのように横幅がグッと広がったりする。見える風景の変化は走り出したバーニーの体感と呼応するかのようだ。アニメーションの背景はスピードに乗って次々と後ろに流れていく。夜の街、屋根の上をバーニーが疾走する場面はそれだけで楽しい。真上からの俯瞰視点や奥行きの表現も自由自在。表現の多彩さはそのままバーニーのアクションの多彩さであり、バーニーのチャーミングさはより一層増すことになる。

ザ・ラスト・グレート・ハントの作品はどれも「こんな表現があったのか」という驚きに満ちている。孤独に世界と対峙し、そこに喜びを見出すこと。そう、世界はこんなにもワクワクするものだった。



公式ページ:http://www.kaat.jp/d/newowner
『アルヴィン・スプートニクの深海探検』トレイラー:https://www.youtube.com/watch?v=8ye1KF9HBzM
『おうちに帰ろう It’s Dark Outside』トレイラー:https://www.youtube.com/watch?v=u0qDI-Mm9PA

2018/08/04(山﨑健太)

亜細亜の骨×亜戯亜 共同企画『同棲時間 The Brotherhood』

会期:2018/08/02~2018/08/05

シアターモリエール[東京都]

散らかった部屋を片づけるひとりの男。そこへスーツを着た男がやってくる。どうやら二人は兄弟らしい。と、弟が兄に強引にキスをする。弟は関係を続けようと迫り、兄はこんな関係は普通じゃないとそれを拒もうとするが、結局はずるずると身を任せてしまう──。

本作は、アジアの演劇交流を目的とする日本の団体「亜細亜の骨」と台湾の劇団「亜戯亜」との共同企画だ。台湾の気鋭の劇作家・林孟寰(リン・モンホワン)が描くのは兄弟間での同性愛。腹違いの二人は互いの存在を知らないままに日本と台湾でそれぞれ過ごし、兄弟と気づかずに関係を持ってしまう。父の葬式で思いがけず顔を合わせた二人は、そこで初めて真実を知る。日本人になろうとしてなりきれず、台湾に戻った兄弟の父と、日本に妻子を持ちながら台湾の男と関係を持ってしまう兄。兄弟の関係に日本と台湾との関係が影を落とす設定が巧い。遺品が片づけられていくにつれて語られる兄弟と父の過去。部屋が片づいたそのとき、二人は歩む道を決めることになる。

LGBTを扱った作品としてもさまざまなことを考えさせられる。たとえば作中には、女性への性転換手術を受けている最中のサルサという人物が登場する。サルサと弟は互いに惹かれ合うが、ゲイの弟はサルサが性転換することを望まない。二人の心はすれ違い、「変わらなくていい」という弟の言葉がサルサを揺さぶる。

この作品が娯楽作品としてよくできていることは極めて重要だ。禁断の愛と三角関係。ベタベタのメロドラマ。サルサと弟との間にある複雑さでさえ、メロドラマをメロドラマたらしめるために機能している。しかしだからこそ観客はお勉強としてではなく登場人物たちに興味を持つことができる。固定観念を問い直すことは芸術の重要な役割だが、端から観客に拒絶されてしまうのでは意味がない。LGBTを扱うにせよ国際関係を扱うにせよ、このレベルの娯楽作品が増えることはより多くの人の興味関心を呼ぶことにつながるだろう。

[写真:横田敦史]

公式ページ:https://2018asianrib.stage.corich.jp/
林孟寰インタビュー:https://courrier.jp/news/archives/129459/

2018/08/04(山﨑健太)

ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』

会期:2018/08/03~2018/08/04

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

昨年のKYOTO EXPERIMENT 2017での上演が中止となり、約1年後に実現した神戸上演でやっと見ることができたダンス作品。なぜ神戸で上演されたかというと、昨年5月に神戸のDANCE BOXにて滞在制作を経た作品だからだ。ダレル・ジョーンズは、アメリカの黒人やラテン系のゲイカルチャーの中で発展した「ヴォーギング」というダンスのスタイルを取り入れ、身体表現を通して自身のセクシャル・アイデンティティや抑圧のメカニズムについて問うてきたダンサー、振付家である。「ヴォーギング」の名称は、ファッション雑誌『ヴォーグ』のモデルのようにポージングを決めながら踊ることに由来する。本作『CLUTCH』でも、DJが刻むビートの高揚に合わせ、ジョーンズは同じく黒人の出演者2名とともに、蠱惑的なポーズを取り、あるいはランウェイを歩くモデルのように腰をくねらせながら高速でターンを決めてみせる。中盤では弁髪のように垂れ下がったカツラを装着し、トランスの集団的な高揚とも威嚇し合う獣ともつかない、ヘッドバンキングを繰り出す。

ただ表面的にクラブカルチャーを取り入れたというのではなく、ある種の両義性、メタフォリカルな戦略性、そして「儚さの美学」があることが特徴だ。蠱惑的なポーズや肢体を見せつけるようでいて、その身体は同時に硬い防御の殻を纏っている。見る者の視線を吸い寄せながら、欲望の眼差しをはね返す鎧のような緊張感が常に漂う。闘争的であり、解放感にも満ちている。その両義性は、例えば、途中で彼らが身に着ける「何重ものメタリックなバングル」に象徴的だ。暗転した暗闇の中でバングルがカチャカチャと硬質な金属音を響かせる時、それは鎖や手枷のような拘束具を想起させる。一転して明るい照明が付くと、彼らの激しい動きに合わせてキラキラと光を放ち、魅了する装身具となる。とりわけ終盤にかけては、ゲイのアーティストの多くに共通してみられる「儚さの美学」が感じられ、繊細にして強い印象を残した。高いヒールのサンダルを履いた相手の足を愛撫するようにゆっくりと持ち上げると、ヒールに付けられたクリスタルパーツが足の動きに合わせて光を放ち、ミラーボールに包まれた空間へと変貌する。ペットボトルを股間にあてがい、ぶちまけた水を相手に飲ませるラストシーンは、露骨なメタファーの中に、水しぶきに反射した光が見せる幻想的な美しさが同居する。彼らはその粒立ちの光をひと時浴びて祝福的な空間に浸された後、再び暗闇の中へと姿を消していった。



[Photo: junpei iwamoto]

2018/08/03(金)(高嶋慈)

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