2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

鈴木安一郎「原生林から来たきのこたち」

会期:2017/11/01~2017/11/25

さんしんギャラリー 善[静岡県]

きのこに対しては並々ならぬ愛着があるのだが、「きのこの写真」については以前から不満があった。どうしても図鑑的に情報を満遍なく伝えようという傾向が強く、表現としての面白味に欠けるところがあると思えていたのだ。だが、静岡県三島市のさんしんギャラリー 善で開催された鈴木安一郎の個展を見て、「きのこ写真」にも新たな流れができつつあるのではないかと感じた。
静岡県御殿場市在住の鈴木は、平面作品を中心に制作するアーティストだが、きのこ愛好家、研究家としてもよく知られた存在である。近年は、富士山麓の森をテリトリーとして、さまざまなきのこをテーマにした作品を発表し続けている。今回の展覧会には、森のきのこを「普通に」撮影した作品のほか、色のついた紙をバックにきのこたちをクローズアップでカメラにおさめ、大きくプリントしたシリーズと、夜にきのこをライトで照らし出して撮影したシリーズが出品されていた。
そのなかでも、特に「夜のきのこ」のシリーズが素晴らしい。森の深い闇を背景に浮かび上がるホコリタケやドクツルタケやムラサキフウセンタケの姿は幻想的で、不思議な生きものがうごめいているように見える。きのこが本来備えている魔術的な妖しさが、ありありと浮かび上がってきていた。このシリーズは、ぜひ写真集としてもまとめてほしいものだ。きのこはそれ自体があまり大きくないし、光線の状態がよくない場所に生えていることが多いので、写真の被写体としてはけっこう難しい。だが、撮り方、見せ方の工夫次第では、もっといろいろな魅力を引き出すことができそうだ。

2017/11/12(日)(飯沢耕太郎)

六田知弘「記憶のかけら Shards of Memory」

会期:2017/11/03~2017/12/02

知半庵[静岡県]

静岡県・大仁の知半庵は、江戸後期に建造された菅沼家の住宅を改築したユニークな展示スペースである。国登録の有形文化財に指定されている建物と、その周囲の環境を活かして、2007年から不定期的に「知半アートプロジェクト」の催しが開催されている。その第8回目にあたる今回、初めて写真作品の展示が実現した。
奈良県出身の六田(むだ)知弘は、ロマネスク美術などの撮影で知られる写真家だが、今回は屋内で東日本大震災の被災地で撮影した「モノの記憶」のシリーズを、野外では国内外の石の写真による「イシの記憶」のシリーズを展示している。カラー写真の「モノの記憶」は1.1×1.5メートルに大きく引き伸ばされたボロボロの本の写真をはじめとして、津波によって「非日常」のオブジェと化したさまざまなモノたちが、写真家の視点と呼応するように床に散りばめられていた。一方、「イシの記憶」は、トタン板やアクリル板にプリントされたモノクロームの石の写真が、裏庭の樹木に掛けられたり、地面に置かれたりして展示されている。こちらはむしろ目に馴染んだ「日常」の眺めが、あるべき場所から切り離されることで異化されていた。その「非日常」と「日常」を行き来する体験が、家族の記憶が畳み込まれた知半庵の空間で増幅され、観客に心地よい波動として伝わってきた。
これまで、音楽やパフォーマンスの上演を中心に企画されてきた「知半アートプロジェクト」に、写真という新たな要素が加わったのは、とてもよかったと思う。やや行きにくい場所ではあるが、一見の価値がある。次回の企画も楽しみだ。

2017/11/12(日)(飯沢耕太郎)

鈴木ノア「道化の森が眠る頃」

会期:2017/11/07~2017/11/19

Roonee 247 photography[東京都]

プラチナ・プリント、サイアノタイプ、ゴム印画法といった、いわゆる「古典技法」に対する関心が高まりつつある。いうまでもなく、その背景にあるのは、デジタル化によって撮影やプリントのプロセスが簡略化されたことに飽き足らなく思っている人が増えているということだろう。さまざまな手法を使って、銀塩写真をクオリティの高い画像に置き換える「古典技法」は、手間はかかるが、出来上がった時の喜びは大きく、しかもデジタル写真では難しい深みや手触り感のある作品を得ることができる。今回の、東京・小伝馬町のギャラリー、Roonee247で個展を開催した鈴木ノアもそのひとりで、彼女が使っているのは、日本では大正~昭和初期に流行したブロムオイル印画法だ。
ブロマイド印画紙の画像をいったん漂白して、レリーフ状になった画面に、絵具を筆で叩きつけるようにして付けていくこの技法は、相当高度なテクニックが必要だが、鈴木はほぼ完璧にその技術を習得している。とすると、次に必要なのは、どうしてもクラッシックな雰囲気になりがちなブロムオイル作品を、なぜいま制作しなければならないかという動機づけをもっと明確にし、「何をどう見せるのか」をさらに絞り込んでいくことだろう。今回展示された17点のなかでは、水面に波紋が広がる場面や、カラスを写しこんだ作品に、不可思議な「道化の森」を立ち上げようとする、独自の視点と切り口が備わっているように感じた。そのあたりをさらに深く探求して、よりスケールの大きな作品世界をつくり上げていってほしい。ブロムオイル印画法では、かなり大きな作品をつくるのも可能なはずなので、サイズをもっと大きくしてみることも考えてよいかもしれない。

2017/11/08(水)(飯沢耕太郎)

「鏡と穴─彫刻と写真の界面 Vol.5 石原友明」

会期:2017/10/28~2017/12/02

gallery αM[東京都]

光田ゆりのキュレーションによる連続展「鏡と穴─彫刻と写真の界面」も5回目を迎えた。これまではギャラリーの空間全体を使ったインスタレーション的な展示が多かったのだが、今回の石原友明展では、壁面に平面作品が、床には立体作品が整然と並んでいる。だが内容的には、写真と彫刻という異質なメディアの結びつき方がスリリングで、かなり面白い展示が実現していた。
石原は1980年代からセルフポートレート作品を繰り返し発表してきたが、今回もそのテーマを追求している。「透明な幽霊の複合体」(5点)は、自分の髪の毛をスキャニングし、キャンバスに紫外線硬化樹脂インクで拡大プリントした作品で、その質感の、グロテスクなほどの生々しさがただごとではない。一方、立体作品の「I.S.M」(2点)は「3Dプリンターを使った立体セルフポートレート」で、発泡スチロールを貼り重ねて、彼の身体の輪切りを再構築している。もうひとつ、「透明な幽霊の複合体」の制作過程の副産物というべき、皺くちゃにした髪の毛の画像のプリントを、広げてアクリルケースに収めた作品があり、こちらも銀塩写真の印画紙そのものの物質感がうまく活かされていた。
石原はもともと写真と現代美術の融合を推し進めてきた先駆者というべきアーティストのひとりである。その彼がいまなお写真に並々ならぬ関心を寄せ、「断片化されたからだを寄せ集めてひとつの体を作りだそうとする」ことに執着し続けているのがとても興味深い。その探求の作業は、これから先も多様な作品群として結実していくのではないだろうか。

2017/11/08(水)(飯沢耕太郎)

態度が形になるとき ─安齊重男による日本の70年代美術─

会期:2017/10/28~2017/12/24

国立国際美術館[大阪府]

1970年以降の現代美術の現場を撮り続けてきた写真家、安齊重男の初期作品に絞った回顧展。いま「現場」「作品」「回顧展」といった言葉を出したけれど、ためらいながら使っている。というのも、例えば「現場」という言葉を「作品」に置き換えてもいいのだが、そうはいいきれない事態がまさに70年代から始まろうとしていたからであり、そのことに初めて自覚的に向き合った写真家が安齊さんだったからだ。なんのことかわかりにくいが、要するに被写体となる作品が非物質化し始めたということだ。それを象徴する出来事が、安齊さんの写真家デビューとなった「東京ビエンナーレ70〈人間と物質〉」展だった。
いまや伝説的なこの展覧会では、いわゆる絵画や彫刻の展示はなく、当時としてはまだ珍しかったインスタレーションやパフォーマンスが繰り広げられた。それらの「作品」の多くはその場で発想され、会期が終われば解体されてあとに残らないため、制作から展示までのプロセスも記録する必要があった。つまり「作品」を撮るというより、「現場」を押さえる感覚だ。しかもそうした「作品」はいつ、どこから、どのように撮ったかで見え方、捉え方が異なってしまうため、写真家が作品をどのように解釈し、どれだけ理解したかが問われることになる。その点、安齊さんは写真家になる前は作品をつくっていたこともあって、作者側の視点で作品を解釈することができ、多くのアーティストの信頼を勝ち得ることができた。
では、それらの写真は安齊さんの「作品」といえるのか。もちろん単なる記録写真でも多かれ少なかれ「作品」といえるが、特に安齊さんの場合は彼自身の解釈が大きく加わるため、ほかの記録写真に比べて「作品」度が高いといえるだろう(でも美術館が所蔵する場合「作品」だと高くつくから「資料」扱いにされる、と聞いたことがある)。そして、そうした安齊さんの「作品」を集めたこの展覧会は、安齊さんの「回顧展」であると同時に、安齊さんの解釈を通して見た「日本の70年代美術」の回顧展ともいえるのだ。ああ少しすっきりした。
被写体となったのは、李禹煥、高松次郎、菅木志雄、吉田克朗、原口典之ら、もの派とその周辺の作家が大半を占めている。とりわけ菅が多いのは、彼自身の創作の思考過程をたどるようなパフォーマンスをしばしば披露していたからだろう。ところで、安齊さんの写真は圧倒的にモノクロームのイメージが強い(もちろんカラーもたくさんもあるが今回は出ていない)が、70年代の美術も全体に色彩も形態も抑制的で、しかももの派以降新たな光が見出せないという意味でも、ぼくのなかではほとんどモノクロームに近い。まさに安齊さんのモノクロ写真は70年代の美術状況をそのまま反映しているように思えるのだ。というか、じつはぼくの70年代美術のイメージが多分に安齊さんの写真によって色づけ(モノクロなので色抜きか)されているのかもしれない、とふと思った。

2017/11/08(水)(村田真)

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