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[新春企画]アート・ヴュー 2008
美術、写真、映画、建築、デザイン、演劇、ダンスなど、各ジャンルの批評家、ライター、作家らが、2007年を振り返りながら2008年注目のアートシーンを展望します。2月1日号まで随時更新!
映画
大久保清朗/おおくぼきよあき・映画研究
正典とアナーキズム――2007年の映画をふりかえる
文学や絵画など他の芸術分野と較べたとき、映画に欠けているものは何か。正典(カノン)である、というのがポール・シュレイダーの解答である。『タクシードライバー』の脚本家としても知られるこのアメリカの映画監督は、英文学者ハロルド・ブルームのベストセラー『西欧の正典』の方式に準拠しつつ映画史の正典づくりに没頭する。その方式とは、西欧文学の古典を、金・銀・銅の3つのランクに分け、各位20ずつ列挙するというものである。結局挫折に終ったこの試みの顛末を、シュレイダーは、アメリカの映画批評誌「フィルムコメント」(2006年9-10月号)に投稿した。

映画評論家の蓮實重彦が、シュレイダーのこの無謀な試みに触れたのは、去る8月31日に東京国立近代美術館フィルムセンターで開かれた「全国コミュニティシネマ会議2007年」でのことである。副題どおり、ここでの問いは、「映画史のカノン化は可能か?」であった。「『モンゴメリー・クリフ(ト)問題』について」という奇妙な題目は、シュレイダーの下で働いていた某助監督が、かの、1950年代のハリウッドの俳優を知らず、のみならず姓を、「クリフ(崖)」と聞き違えてしまい、「それは誰ですか?」ではなく、「それはどこにあるのですか?」と問い返したことに由来する。21世紀のアメリカの映画人にとってすら、僅か半世紀前のスターさえすでに忘却に瀕している。それはカノンの不在によるのではないか、といわけである。
講演の詳述はひかえるが、蓮實が指摘するように、現在、「無数の映画のなかで迷うことより、限られた映画で安心したいと思う人が多い」ことは確かだろう。ともあれ確実にいえるのは、こうした要求が「正典が必要である」というシュレーダー的な判断──すなわち映画的知識が崩壊しつつあるという認識──を共有しているということである。ここ数年の映画的事業(映画祭の特集上映、刊行物など)が映画人の追悼に捧げられているのも理由のないことではない。たしかに海外ではエドワード・ヤンが、イングマール・ベルイマンが、ミケランジェロ・アントニオーニが、我が国では佐藤真が、田中徳三が亡くなった。だがそうした死がことさら痛切なものとして報じらるのは、正典の存在せぬ危うげな場所で、逝去した彼らの作品がいつまで存続するのか、という漠たる不安によるものだろう。本邦における「映画検定」などもこの潮流と無関係ではない。

正典をめぐる動きが一方にあるとしたら、アナーキーとしかいいようのない運動もまた存在する。2007年は、インターネットの動画配信の飛躍的に拡大した年でもあった。YouTubeが開発されたのは2005年のことだが、2006年に開発されたニコニコ動画が本格的に運用されたのは翌2007年のことになる。そこで映画は、匿名の投稿者によって、断片化され、数多の「動画」のひとつとして配信されている。放送されたばかりのテレビアニメや、MADと呼ばれる二次創作群のなかで、ゴダールやストローブ=ユイレの作品もまた存在している。それが誰によって発信されているのか、いつそれが抹殺されるのかわからないままに。
2008年は、映画の父デヴィッド・ウォーク・グリフィスが、処女作『ドリーの冒険』を発表してから100年になる。動く映像が「映画」として、新たな時代を迎えた年であるといえる。正典とアナーキズムのあいだで、映画は、第二の世紀に入ろうとしている。
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