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美術 |
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保坂健二朗/ほさかけんじろう・東京国立近代美術館研究員 |
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「生きる」展 |
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2008年に注目する作家/展覧会とその理由 |
まずはなによりも横浜トリエンナーレ。国際展の多くが個性をいかに確立するか、いささか浮き足だった感じで模索しているなか、美術館キュレーターとして名高い水沢勉をディレクターに据えたことで一石が投じられるのではと期待する。
次にアジアのコンテンポラリー・アート関連。国際交流基金と美術館との共催によって、中国現代美術の展覧会(国立新美術館、国立国際美術館など)と「エモーショナル・ドローイング」展(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)が開催される。手前味噌めくが、後者は評者が企画に関わっているもの。広義のドローイングを、アジアを中心にして紹介し、「アート」「エモーション」「周縁性」といった問題を、多角的・複合的に考えてみたいと思っている。秋に森美術館で開催されるインドの現代美術展も、ポスト中国を求めるアート・シーンのなか、じつにタイムリーな開催で楽しみである。
またアジアの美術館館長が集う会議の第三回目が、東京と大阪とで開催されることも付言しておこう。これまで、中国(北京)、シンガポールという、国際経済のなかで注目度の高い──そしてまた文化によるプレゼンスの上昇に自覚的な──国で行なわれてきたあとでの開催。日本の文化行政の手腕が問われるだろう。
最後に、個人的な研究の関心から。生誕100年となる2009年に向けて、フランシス・ベーコンの展覧会が本年末よりテート・ブリテンで開催される。しかもこの展覧会は、マドリッドのプラド美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館へと巡回する。20世紀を生きた芸術家の回顧展がこのクラスの美術館を三つも巡回するかたちで開催されるのは、きわめて珍しい。むろんプラドなどでベーコンが紹介されるのは、彼が西欧の美術史を参照していればこそと言える。しかしその一方で、ベーコン作品の価格が高騰してしまった今日では、そうしたリーディング・ミュージアムでないとその回顧展を開催できなくなってしまったのだろうかと、美術館人としては不安になってしまうのである。 |
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2008年に期待するムーヴメントとその理由 |
ムーヴメントという、一過性を思わせる言葉で呼ぶのは憚られるが、アウトサイダー・アートへの関心が深まるのではと期待している。
昨年は、広義のアウトサイダー・アートをとりあげる展覧会が目立った。しかもそれは、東京都庭園美術館他でのアルフレッド・ウォリス展や、小出由紀子事務所での「松本国三」展のような個展のスタイルに限られない。横須賀美術館の開館展となった「生きる」展など公立美術館での展覧会で、他のアートとの間に引かれてきた境界線を越えてアウトサイダー・アートが含まれるケースが増えてきているのだ。
またその重要性なり可能性なりを検証するイヴェントも少なくなかった。たとえば社会福祉法人のアトリエインカーブが電通との共催で開催した展覧会とトーク・ショー。あるいは多摩美術大学芸術人類学研究所がダウン症の人たちの創作活動をサポートするアトリエ・エレマン・プレザンと進めている「ダウンズタウン・プロジェクト」の第一回シンポジウムを(貸し会場としてではあるが)東京都現代美術館で開催したことなどだ。これらはさまざまな組織が協同している点に特徴がある。2006年に創設されたアートミーツケア学会が2007年度総会を、BankART1929 Yokohamaで開催したことも加えておいてよいだろう。
問題は、こうした動きを周囲がいかにサポートできるかにある。そして実際、政治の領域でそうした議論が進んでいる。昨年は、文部科学省と厚生労働省とにおいて、次官級の勉強会、副大臣を交えた懇談会が開催された。むろんこうした動きが突発的に起こったはずはなく、たとえば近江八幡のボーダレス・アートミュージアムNO-MAの地道な(けれど野心的な)活動があってこその変化だろう。彼らはローザンヌのアール・ブリュット・コレクションと三年間の交流事業を行なっていて、そのひとつとして開催されるのが「アール・ブリュット──交差する魂」展である。それは本年、北海道立旭川美術館から始まり、NO-MA、松下電工汐留ミュージアム(東京)とほぼ半年をかけて巡回する。この機会に、さらなる議論が生まれることを期待する。
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2007年に記憶に残った作家、美術館、書物、論文、発言など |
まずは訪れることのできた欧米の展覧会から3つあげよう。
1──パリ国立図書館(フランソワ・ミッテラン)で開催されていた「アントナン・アルトー」展」(11月7日〜2月4日)。演劇、文学、詩、美術批評、そして素描、と多岐にわたる才能を余すところなく見せていいた。その多様性は、むろんアルトーの仕事の内実ゆえだろうが、それだけでなく、BNF(フランス国立図書館)の完全主義に与るところも大きいと見た。
2──フィンランド第三の都市エスポーに2006年秋に開館した近代美術館は、企画展を打つ際に、できうる限り近代美術と現代美術を並行して開催するようにしていて、現代美術では、とりわけメディア・アートに力を入れている。開館展のシリン・ネシャットに続き、2007年はじめには、ロシア出身で現在はニューヨークに拠点を置く「イゴール&スヴェトラナ・コピスチアンスキー」の個展を開催することで、彼らの関心が、「中心」ではなく「周縁」にむしろ向けられていることを明示した。ヘルシンキのキアスマ(こちらは国立の現代美術館)が、やや保守的な傾向を強め牽引力を失いつつあるなかで、存在感を強めつつある。
3──アメリカ・ヒスパニック・ソサエティでの「フランシス・アリス ファビオーラ」展」。ディア・アート財団がソサエティと共同で開催した、いかにもディアらしいプロジェクトである。アリスが集めた、聖人ファビオーラのコピー(原画は失われている)を大量に展示。人々の想いは表象を超えることを雄弁に証明していた。
国内に眼を移すと、前半期は、国立国際美術館、西宮市大谷記念美術館、和歌山県立近代美術館の三館でほぼ同時に開催された藤本由紀夫展がいまだ記憶に新しい。旧作/新作、個展/二人展とさまざまな比較が可能になったことで、藤本の長所だけでなく短所も明らかになっていた。後半期は、入善町の発電所美術館で開催された内藤礼の「母型」展を挙げたい。「祈り」など宗教的雰囲気におもねることなく成立する作品をつくりえた点において、新境地を見せていた。
若手の個展では、セルフプロデュースという独自の手法で魅せた「Project N30──田尾創樹」(東京オペラシティ アートギャラリー、2007年7月21日〜10月14日)と、オーソドックスな肖像画ながら、「雰囲気」を見せることに成功していた「夏目麻麦」展(ギャラリー椿、2007年7月18日〜7月31日)をよく覚えている。
そして最後に五島美術館で開催された「蒼海 副島種臣 全心の書」展を挙げておかなければなるまい。種臣のような存在が、「近代美術館」と呼ばれる場所できちんと取り上げられていない事実を、批判的に再検討する必要があると痛感させられた。前衛的だからというわけだけでない。むしろ、芸術と政治と自由という問題を再確認するためにだ。 |
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