artscapeレビュー
三木清、大澤聡編『三木清文芸批評集』
2018年02月01日号
発行所:講談社
発行日:2017/09/09
昨年、三木清(1897-1945)の著作が立て続けに刊行されたのは印象的な出来事であった。そこには『人生論ノート』のようなベストセラーや、晩年の遺稿『親鸞』なども含まれるが、そのなかでひときわ輝きを放っていたのが、大澤聡の編集による講談社文芸文庫刊の三部作である。先行する『教養論集』(1月刊)、『大学論集』(4月刊)に続く本書『文芸批評集』の刊行をもって、同三部作は昨年9月に完結をみた。
いわゆる京都学派のメンバーとして知られる三木清は、パスカル研究をはじめとする哲学的な業績によって知られる一方、文芸批評にも多大な精力を注いだ。その背後には当人の内発的な動機もあろうが、それ以上に外的な事情が関わっている。1930年に治安維持法で逮捕・検挙され、大学の辞職を余儀なくされた三木は、同年以降、文芸誌や新聞をみずからの主戦場とすることになった。それが後年の三木の著述スタイルに及ぼした影響については、小林秀雄との関係を論じた本書解説に詳しい。
肝心の内容だが、まず強調しておくと、本書はたんなる過去の歴史的資料として読まれるべきものではない。とりわけⅠ「批評論」とⅡ「文学論」にまとめられたテクストは、いずれも批評や文学をめぐる原理的な洞察に満ちており、平易な文体によって綴られたその内容はいまなおアクチュアリティを失っていない。
例えば巻頭を飾る「批評と論戦」(1930)を見よう。「批評」は一方的でありながらも「何等かの程度で相手を認めようとする」のに対し、「論戦」は双方的でありながら「どこまでも相手を排撃しようとする」。「批評と論戦とはこのように区別されるけれども、現実に於ては多くの場合二つのものは混合されるか或いは混同されるかしている」。そのような認識のもと、批評を論戦に変えることを戒め、あくまでもそれを相互批評に導くことの必要性を説く三木の主張は、いまなお(あるいはSNSが普及した現代においてこそ?)傾聴に値するものである。
また「通俗性について」(1937)の冒頭には次のようにある。「評論、文学、また哲学においても、もっと一般人に分り易いものにするということが問題になっている。いわゆる通俗性の問題である」。これもまた、現代においてなお解決をみない切実な問題のひとつであろう。三木はこうした「通俗性」の要求がともすれば「俗悪」に流れ、著者固有の文体・思想を喪わせてしまう危険性を指摘するいっぽう、「自分の文体を放棄する」ことが「真の文体」の発見には必要である、というより高次の指摘を付け加えることを忘れない。三木にとっては、分かり易さを求める読者への迎合(=俗悪)も、それに無闇に抵抗する著者の姿勢(=モノローグ)も、共にしりぞけるべきものである。通俗性を歴史的・時代的に規定される「大衆」の問題として読みかえ、そこに来るべき民衆(大衆)の姿を想像する三木の姿勢は、私たちが何度でも立ち戻るべきものであるだろう。
2018/01/22(月)(星野太)