artscapeレビュー
2018年02月01日号のレビュー/プレビュー
P to P GIFT 2018 ─Problem to Product Gift ─
会期:2017/11/30~2018/02/12
d47 MUSEUM[東京都]
「持続可能な開発目標(SDGs)」が2015年9月に国連で採択され、ここ最近、日本でも持続可能というキーワードが注目されるようになった。数年前に安倍政権が掲げ、多くの関心が寄せられている「地方創生」においても、持続可能が求められていると言っていい。本展はまさにそんな世情を汲んだ内容であった。d47 MUSEUMは工芸、食、ファッションなどさまざまな切り口で、47の展示台を使い、日本のものづくりを47都道府県均一に伝えるミュージアムだ。
本展では日本各地が抱える問題に対して、その土地らしい自然環境や特産物、人材などの資源や技術を使い、循環を考えた持続性のあるものづくりで解決に挑んだ事例が紹介されていた。展示台に載っているのは、その取り組みから生まれた製品である。なおかつその取り組みを発信するためのデザインの工夫があり、“ギフトになりうる製品”という選定基準まで設けられていた。各都道府県につきひとつとはいえ、正直、そんな優等生な製品が均等にあるものかと疑ってかかっていたが、実際に観てみて驚いた。ギフトという切り口だけあり、パッケージデザインがどれも優れていたからである。プロデューサーのような専門家が仲介している場合もあれば、つくり手自身が自発的に動いた場合もあるという。
例えば興味深い事例のひとつが、埼玉県秩父市で行なわれている「第3のみつ」づくりだ。それは植物の花蜜に代わり、カエデの樹液をはじめ、果実や野菜のジュースを蜂に食べさせる新たな養蜂のことで、日本国内で減少する蜜源を補えるばかりか、蜂を媒介に森林の環境づくりにも役立てられるという。その製品「秘蜜」を試食すると、林檎のジュースを食べさせた蜂の蜜には林檎の香りがほのかにし、そこに新たな価値と可能性を感じた。ものづくりを持続させるためには、最終的には製品が売れなければならない。そのためには土着性を生かしながらも、人々の生活に取り入れられるよう革新性や洗練性を高め、それを伝えるためのデザインが必要になる。そうした意識が、日本各地で根付きつつあることを実感できる展覧会であった。
2017/12/01(杉江あこ)
ゴッホ展 巡りゆく日本の夢
会期:2017/10/24~2018/01/08
東京都美術館[東京都]
またもやゴッホ展! 日本ではだいたい2、3年にいちど大規模なゴッホ展をやっている。こんな国ほかにないだろう。いっそゴッホ・トリエンナーレにしては? でもさすがに近年は単なる「ゴッホ展」では話題性に乏しいと感じたのか、「こうして私はゴッホになった」(2010)とか「空白のパリを追う」(2013)とか「ゴッホとゴーギャン」(2016)とか、なにかとテーマ性を持たせるようになってきた。てなわけで、今回は「巡りゆく日本の夢」と題して日本との関係に焦点を合わせている。これなら日本人の琴線に触れそうだ。といっても、ゴッホと日本とのつながりはひとつではなくいくつかある。まず最初のつながりは、いわずと知れた「浮世絵」からの影響だ。
ゴッホが故国のオランダ、ベルギーを経てパリに出たとき、2つの大きな出会いがあった。ひとつは印象派であり、もうひとつは浮世絵だ。この2つの出会いによって暗褐色だったゴッホの絵は劇的に明るくなる。特に浮世絵は「ジャポニスム」旋風が吹き荒れていた当時のパリでは安価で手に入れることができたので、ゴッホは模写するだけでなくみずから収集し、浮世絵展まで開くようになった。《花魁(渓斎英泉による)》は英泉の浮世絵を元に、原作にはない極彩色と厚塗りでゴッホらしさを出し、その周囲を縁どる水辺の風景にも別の浮世絵から引用したツルやカエルを赤茶色の輪郭線で付け加えている。もう見慣れてしまったが、冷静にながめればこんな奇っ怪な絵もない。《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ》は、片手にタバコ、脇にビールを置いた気の強そうなカフェの女主人を描いた肖像画だが、この店でゴッホは浮世絵コレクションを展示したという。右上に花魁らしき女性を描いた浮世絵が確認できる。
第2のつながりは、ゴッホの日本や日本人芸術家に対する憧れだ。パリの生活に疲れたゴッホは陽光あふれる日本を目指して、なにを勘違いしたのか南仏のアルルに移住し、そこでまたなにを勘違いしたのか、日本の芸術家のように愛にあふれた共同生活を送ろうと、画家たちに声をかける。ところがだれもゴッホの誘いに応じず、ようやくゴーガンが安い生活費につられて重い腰を上げたものの、これが最悪の結果をもたらすことになった。強烈な個性を持つふたりの芸術家は激しくぶつかり、ゴッホは精神に錯乱を来して共同生活はわずか2カ月ほどで破綻してしまう。このへんの事情は2年前の「ゴッホとゴーギャン展」に詳しい。結局ゴッホは自分のユートピア志向を未知の日本に託したかったのかもしれない。タイトルにある「日本の夢」とはこれを指す。
そして第3のつながりはゴッホの亡きあと、最期の地となったオーヴェール・シュル・オワーズへの日本人の旅だ。ゴッホが日本で人気を得るのは死後20年ほどたった大正時代、白樺派の文学者や美術家たちが画家や作品について紹介してから。渡仏した日本人の多くは当時まだ作品も関係者も残っていたオーヴェールに赴き、墓参りしたという。その芳名録3冊も出品されていて、1922年から39年までの17年間に前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三、斎藤茂吉、式場隆三郎、福沢一郎、高田博厚、北澤楽天ら計266人のサインがある。平均すると年間15人程度だから少ないようだが、まだ飛行機もパックツアーも、まして「アートツーリズム」なんてシャレた趣味もない時代に、はるばる極東の島国からパリ郊外の小さな田舎町まで「ゴッホ巡礼」に足を運んだということだけでも驚き。日本人のゴッホ好きはもう100年の歴史があるのだ。
2017/12/01(金)(村田真)
没後40年 熊谷守一 生きるよろこび
会期:2017/12/01~2018/03/21
東京国立近代美術館[東京都]
熊谷守一というと素朴な色と形の絵で人気があるが、そのシンプルな作風もさることながら、ザンギリ頭に白くて長いあごひげ、作務衣みたいな着物(カルサンというらしい)の飄々とした姿、「へたも絵のうち」のキャッチフレーズも相まって、いかにも世俗を超えた仙人のようなイメージを増幅させている。ぼくがその存在を知ったときにはすでに90歳を超えた高齢で、雲の上の人だった。ただしそれは70歳以上も年上の超俗老人だからであって、作品には憧れはなかったし、どうも好きになれなかった。それはいまあらためて考えてみると、形の簡略化が中途半端に感じられたからであり(当時はミニマルアートに憧れていた)、色彩が地味で日本的な暗さを嗅ぎ取ったからだと思う。果たしていま見ても同じように感じるだろうか? 若干コワイもの見たさ的な気分もあって見に行った。
初期のころの絵は、ひとことでいえば暗い。色も暗いが、テーマも暗い。ローソク1本のかすかな明かりのなかで描いた《蝋燭》など、もともと暗い上に絵具が黒変してわずかに顔が判別できるくらい。きわめつけは《轢死》で、電車に轢かれて横たわる女性を描いたらしいのだが、画面全体が暗褐色で具体的な形はまったく判別できないのだ。もう「闇夜のカラス」状態。いくら熊谷守一の作品だからといって、いくら衝撃的なモチーフが描かれていたからといって、こんな真っ暗な画面を美術館で見せていいものか。あるいは一種の抽象絵画として見るべきか。その後、画面は徐々に明るくなり、タッチは荒々しい表現主義的になり、モチーフもヌードと風景に絞られていく。が、次男が亡くなったときはその死に顔を素早く描き止めた《陽の死んだ日》を残している。戦後も長女の死に顔《萬の像》や、その遺骨を抱えた家族の肖像《ヤキバノカエリ》を制作するなど、意外にもその長い画業には死がときおり顔を出す。
熊谷を特徴づける赤茶色の輪郭線が表われるのは1930年ごろから。また、よく知られる平坦な色面によるシンプルな画面は40年代からで、そのころすでに還暦を超えている。不謹慎なことをいえば、もし空襲など戦渦に巻き込まれて亡くなっていたら、名もない画家のひとりで終わっていたに違いない。つまり熊谷が画家・熊谷守一になるのはじつに70歳近くになってからなのだ。出品リストを見ると油彩だけで200点も出ているが、うち4分の3は戦後、つまり60歳代後半以降の作品で占められている。これほど遅咲きの画家もめったにいない。ちなみに戦時中はなにをしていたかというと、もちろん出兵するには高齢すぎるし、画家としてもすでに引退を考えてもいい年だったので(なにしろ東京美術学校では青木繁と同級生)、戦争画も描かなかった(依頼がなかったのか?)。ではなにを描いていたのかというと、さすがにヌードは描けなかったのか、風景が多かった。とはいえほとんど人のいない不穏な風景画ばかりで、逆に戦争の時代だったことを予感させる。
後半の100点以上の大半は10号以下の小品で、しかも陳腐なガラスつきの額縁に入っているため、ズラッと並んださまはまるで売り絵のようだ。書や彫刻も出ている。書は軸装で、「無」「ほとけさま」「からす」などちょっとトボケた味を出していて、相田みつをを彷彿させる。彫刻も長さ20センチ程度の小品で、モチーフは横たわるヌードだが、なにか違和感があるのは、こんなちっちゃな彫刻なのに台座がついてるからだろう。どうも熊谷は額縁や台座抜きに絵画・彫刻は考えられなかったのではないか。そこがミニマルアートはおろか、抽象以前の旧世代の画家たるゆえんだろう。そんなわけで後半のシンプルな絵にはやっぱり惹かれないが、初期の「暗い絵」には少し心を動かされるものがあった。
2017/12/01(金)(村田真)
ジェニファー・ヒッギー「現代アートについて書く方法──その最前線と実践のためのヒント:『frieze』誌エディトリアル・ディレクターによるレッスン」
会期:2017/12/07
東京藝術大学[東京都]
美術ジャーナリズムの世界に足を突っ込んでもう40年になる私ですが、恥ずかしながらいまだにどうやって書いたらいいのかわからず、いつも四苦八苦している。そんなときに『美術手帖』元編集者の川出絵里さんから、東京藝大で『frieze』誌エディトリアル・ディレクターのジェニファー・ヒッギー氏による「現代アートについて書く方法」と題する公開レクチャーがあると聞き、なにかヒントを見つけられるかもしれないとワラにもすがる気持ちで参加した。もちろん川出さんの東京藝大助教デビューを盛り上げたいとの思いもあったが、そんな必要もないほど大教室は満杯で、こんなに「現代アートについて」書く人、書きたい人がたくさんいたのかとライバルの多さに不安になったものだ。
『frieze』は1991年にロンドンで創刊された「コンテンポラリー・アート&カルチャー・マガジン」で、ぼくは書店や図書館で立ち読みならぬ立ち見(図版だけね)しかしたことないが、90年代のYBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)をはじめアートの最新動向を斬新なエディトリアルで紹介し、急伸してきたメディアで、近年はアートフェアやアカデミーの運営にも手を染めているのは知られたところ。気になるのは、公明正大であるべきジャーナリズムに携わりながらアートマーケットを動かしていることだが、日本でも評論家がギャラリーを運営したり、ジャーナリストが作品をつくったりしている例もあるし、ま、ギョーカイの活性化という意味では許されるか。
講義はまず川出さんがここに至るまでの経緯を語り、スカイプを通してヒッギーさんがさまざまな批評家の言葉を引用しながら持論を展開していくかたちで進められた。ぼくなりに噛み砕いていうと、美術批評家になって得することは、おもしろいアーティストに出会えること、それによって世界が広がること。悪いことはアーティストからうらまれること、いちど始めたら死ぬまでやめられないこと、その割りに金持ちになれないので別の仕事もしなければならないことなど。批評家の守るべきルールは、好きでもないアーティストについて書かないこと(書いたものは後々まで残る)、美術作品と同じくらい読者の心を動かすこと(なんらかのレスポンスを喚起させること)、英語で1000語(日本語だと4000字くらい?)以上書かないこと(だれも読まないから)、かしこそうにふるまうな、ジャーゴン(定型表現、専門用語)は避けろ、簡潔に、明快に……。はっきりいってぼくでも知ってること、やってることばかりではないか。なのになぜぼくは大成しないのかというと、ここが日本だから需要が少ないし、アートに対するリスペクトもないからではないか。と社会のせいにしたくもなるが、でもやっぱり向こうでも美術ジャーナリズムだけで食っていくのは至難の業という。結局どうすりゃいいんだ!?
2017/12/07(木)(村田真)
THE ドザえもん展 TOKYO 2017
会期:2017/12/02~2018/12/12
eitoeiko[東京都]
森アーツセンターギャラリーの「THEドラえもん展 TOKYO 2017」の向こうを張った岡本光博の個展。岡本といえば昨秋、沖縄で《落米のおそれあり》と題するシャッター画が住人の反対に遭い、非公開になったことが記憶に新しい。沖縄の米軍問題でもキャラクターの著作権問題でも、とりあえず果敢に切り込んでいく姿勢は高く評価したい。てことで「ドザえもん」だが、個展のチラシには青く膨れ上がった水死体が池に浮かんでる写真を使用。出品作品は大小さまざまなキャラクター商品を2つに割ってうつぶせ状態にしたもので、2頭身用の青い棺桶まで用意するという周到さ。もちろん「THEドラえもん展」に選ばれなかった腹いせに急ごしらえしたものではなく、1992年の大学の卒業制作のときにつくって以来4半世紀を超える片思いの歴史があるそうだ。なんだかんだいいながら、やっぱ愛が感じられるよね。
2017/12/07(木)(村田真)