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クリスチャン・ボルタンスキー ─ Lifetime

2019年02月15日号

会期:2019/02/09~2019/05/06

国立国際美術館[大阪府]

1960年代後半の初期作品から最新作までを紹介する、国内初の大規模な回顧展。とは言え、年代順に展開を見せる、テーマ毎のグルーピングで区切るといったオーソドックスな構成ではなく、作家自身が「展覧会をひとつの作品として見せる」とチラシなどに明記されているように、会場全体がひとつの巨大なインスタレーションとも言える展示になっている。独立した小部屋に展示された作品もあるが、作品どうしは密に隣接し、ライトの光が別の写真作品の表面に反射し、心臓の鼓動音や風鈴、クジラの鳴き声を模した音響が空間を包み込み、他の作品の領域を浸食する。このように、互いの領域を音や光が干渉、浸食し合う展示構成は、意図的なものだろう。会場入り口には闇に青く輝く「DEPART(出発)」の文字が、出口には赤く輝く「ARRIVEE(到着)」の文字が電球で掲げられ、亡霊たちの蠢く闇の世界をさながら胎内巡りのように歩き回る体験だ。

20世紀半ばの典型的なブルジョワ家庭の家族写真をグリッド状に並べた《D家のアルバム、1939年から1964年まで》。子どもたちのポートレートを複写して引き伸ばし、遺影を思わせるそれらの写真とライトや錆びた金属の箱を祭壇風に組み合わせた《モニュメント》のシリーズ。新聞の死亡告知欄に掲載された顔写真を複写し、壁を覆い尽くすように並べた《174人の死んだスイス人》。同様の顔写真を、錆びた金属箱の表面に貼り付けて大量に並べ、引き取り手のない遺骨や遺品の保管庫を思わせる《死んだスイス人の資料》。大量に吊るされた、あるいは小山のように積み上げられた古着。死神、ドクロ、死の天使、吊られた遺骸を思わせるイメージが浮遊する影絵のシリーズ。磔刑のようなポーズで壁に掲げられたコートは青い電球に縁どられ、その幻想的な光は、遺骸を覆うシーツのように薄布をかけられた女性の顔写真の作品《ヴェロニカ》を包む。この「胎内巡り」で頭によぎるのは、顔貌を「デスマスク」として引き剥がす写真、死体の代替物としての写真や古着、大量死の記録の(不)可能性、遺品保管所、アーカイブという装置(の擬態)、死の舞踏、祭壇、「ヴェロニカ、磔刑像、トリプティック」などキリスト教美術の引用、といったキーワードである。



クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》1986 作家蔵
[© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Photo © The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner] 無断転載禁止

展覧会初日のトークは開館前に長蛇の列ができ、会場内もかなりの混雑。越後妻有アートトリエンナーレや豊島での制作発表、あるいは自然環境に置かれた風鈴が死者の霊の到来のように音を鳴らす《アニミタス》のシリーズは日本人の死生観と相性がよいからか、ボルタンスキーの人気や知名度の高さがうかがえる。だが、「アジア」の地での回顧展を見て、改めて感じたのは、「ホロコースト」という主題、キリスト教美術と密接に結びついた「死」の表象系、アーカイブやミュージアムといった保管装置の擬態、つまり「ヨーロッパ」の文脈性の強さである。



クリスチャン・ボルタンスキー《保存室(カナダ)》1988 イデッサ・ヘンデルス芸術財団、トロント
[© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Ydessa Hendeles Art Foundation, Toronto, Photo by Robert Keziere] 無断転載禁止

ボルタンスキー作品の本質は、「死者への敬虔な哀悼」を装いつつ、「脱け殻の皮膚」としての古着や「写真=デスマスク」の量的過剰さによって、固有性を奪っていく暴力性にあると筆者は考えている。とりわけ写真の二次使用における固有性の剥奪の「操作」は徹底しており、固有名を消去され、複写された顔写真は輪郭が曖昧に融解し、目鼻は虚ろに空洞化し、あるいは大量に並置されることでグリッドの網のなかに均質化していく。それは、単独かつ固有の「死者」ではなく、常に複数形の「死者たち」なのだ。

だがそれは、「個人の死」を「死者の集合体」へと統合して均していく装置、例えば靖国神社の遊就館に「祭神」として祀られた、壁を覆う大量の戦没者の写真とどう違うのか。もちろん、ボルタンスキーの場合、父がナチスの迫害を受けたユダヤ系という出自も大きく関わっている。だが例えば、日本人作家が「ヒロシマ」の犠牲者のポートレートを用いた作品を制作しても「鎮魂の表現」として(国内では)問題視されないが、他のアジア諸国の作家が「侵略戦争や政治的闘争の犠牲者」のポートレートを作品に使用すれば、「政治的」というレッテルを貼られ、拒絶反応を引き起こすだろう。「写真(ポートレート)」は現実的なコノテーションを含む以上、(被写体の/作家自身の)人種、国籍、宗教といったポリティカルな要素と完全には切り離せない。「ホロコーストの表象」という「遠い事象」として納得するのではなく、「私たち」の(そしてそこに横たわるさまざまな境界線の)問題へとどう引き付け、反転させて考えることが可能なのか。「死者の記憶の追悼」の(演出された)崇高さに浸るのではなく、「展示装置」と政治性、「死(者)」の領有という倫理的な問題など、考えるべき課題を後に残す展示だった。

2019/02/09(土)(高嶋慈)

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