artscapeレビュー

2019年06月15日号のレビュー/プレビュー

ファーミ・ファジール+山下残『GE14』

会期:2019/02/16~2019/02/17(Kosha33)

Kosha33/こまばアゴラ劇場[神奈川県/東京都]

2018年5月9日、マレーシアでは1957年にイギリスから独立して以来初めての政権交代が起きた。そしてアーティストであるファーミ・ファジールは国会議員となった。タイトルはこの第14回総選挙(general election)を指すものだ。本作は振付家・演出家の山下残が友人であるファジールの選挙活動に「オブザーバー」として付き添った日々の記録映像の上映と、ファジール自身による生の政治演説の二つのパートで構成されている。

記録映像は山下の弁士めいた(しかしゆるい)語りとともに上映されるのだが、マレーシアの選挙に関しては部外者の山下の「無責任さ」も手伝って(なにせ盛り上がらない選挙戦に退屈した山下は敵陣に遊びに行きさえするのだ)、観客に野次馬的スタンスで楽しむことを許していたように思う。一方、アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」(日本でも『Baling』『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』などが上演されている)のメンバーでもあるファジールは芸術を通して政治に関わり続け、ついには国会議員となった。この対比はファジールの演説によってより鮮明となる。

©Miki Kanai

横浜公演では映像上映のあと、路上に設置されたテントを囲む「集会」のかたちでファジール(とゲストの灰野敬二)の演説が行なわれた。ファジールの演説の熱とは裏腹に、私がそこで感じたのはある種のうつろさだった。そこにいるのは私の国の政治家ではない。いまここでマレーシアの政治家の演説を聞いている私はなぜ、たとえ選挙期間中であっても日本の政治家の路上演説を聞くことを(おそらく決して)しないのだろうか。

本作に限らずレクチャー・パフォーマンスと呼ばれる作品は史実をはじめ政治的題材を扱っていることが多く、それゆえか(というのもおかしな話だが)つくり手の立ち位置が見えないことがままある。政治的態度を明確にせよということではない。だが内容と同等かそれ以上に、どんな人物がどのようにそれを語っているのかは作品/観客にとって重要なはずだ。そこにこそ「政治」がある。そうでなければ文字情報として「勉強」すればよい(もちろんいずれにせよ発信源は重要なのだが)。山下はマレーシアにおける自らの傍観者的な立ち位置をはっきりと示したうえで、自身の体験した状況そのものを日本に移植してみせる。日本でマレーシアの政治家の演説に耳を傾ける観客ははたして何者か。

(こまばアゴラ劇場での東京公演では演説→映像上映と順序が変更されていた。劇場内での演説では後半は担えないという判断だったのではないかと推測するが、背景が十分にわからない状態であの演説を聞く観客はなかなかしんどかったのではないだろうか。作品全体の導入として初当選を果たしたマック赤坂をめぐるやりとりなどがあり(統一地方選直後の上演だったのだ)、それはそれで彼我の差を意識させるには効果的だったが、それでも残念ながら私には横浜での上演ほどクリティカルなものとしては響かなかった。)

©前澤秀登

横浜公演(TPAM2019):https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=ge14
東京公演(こまばアゴラ劇場):http://www.komaba-agora.com/play/7967

2019/02/17[横浜]/2019/04/28[東京](山﨑健太)

Penelope Skinner『Angry Alan』

会期:2019/03/05~2019/03/30

SOHO THEATRE[ロンドン]

Angry white male(怒れる白人男性)という言葉がある。差別され抑圧されてきた女性や非白人による権利回復のための運動に対して異議を唱える男性を指す言葉で、逆ギレする男たち、というニュアンスで使われる。whiteという単語が含まれてはいるものの、このような現象はもちろん欧米に限られたものではない。

Angry Alanはこのangry white maleを主題としたひとり芝居。作・演出のPenelope Skinnerは1978年生まれのイギリスの劇作家で、本作は2018年にエディンバラ・フェスティバルのフリンジに参加しFringe First Awardを獲得した後、現在も各地で上演が行なわれている。

Donald Sage Mackay演じるロジャーは人生のあらゆることが「うまくいっていない」。妻とは別れ息子とも疎遠。仕事も好きではなく、いまのガールフレンドはあろうことかフェミニズムに目覚めつつある。そんな折、ロジャーはAngry Alanなるサイトとその運営者と出会い、「男性の権利」を主張する思想に傾倒していく。

作中に登場する「男性の権利」運動をめぐる言説(使われているYouTubeなどの素材は実在のものらしい)はまさに「逆ギレ」としか言いようのない代物だが、ロジャー自身はどこか憎めない人物としても描かれている。Angry white maleは単に糾弾の、あるいはブラックな笑いの対象としてあるのではない。思想の偏向は彼を取り巻く寄る辺なさが招いたものだ。巧みに演じられる中年男性の悲哀、笑えない滑稽さに付き合ううち、やがて悲劇的な結末が訪れる。

息子・ジョーから久々に「会って話したい」と言われたロジャーは、あらためて理想の「父と息子」となるべく、ふたりでハイキングに出かける。だがそこでジョーが打ち明けたのは彼が自身を男と自認しておらず、ジェンダーに縛られない生活をしたいと思っているということだった。ロジャーはそれを受け入れられず、ジョーを拒絶し置き去りにしてしまう。そして響き渡る一発の銃声──。

後味の悪い結末だ。自業自得、なのだろうか。あるいは因果応報か。戯曲はここで終わっているのだが、私が見た上演ではこのあとにロジャーが前妻とともにジョーの手術の結果を待つ場面が追加されていた。いずれにせよ、ロジャーは「反省」することになるのだろう。しかしその「反省」をもたらすのが親子の絆というきわめて保守的な価値観である/でしかなかったことに釈然としないものを感じもしたのであった。物語の構造上、ジョーの死はロジャーの「反省」の契機として「利用」されていると言ってよい。ならばジョーは、そのような価値観に二度殺されたことになりはしないだろうか?

公式サイト:https://sohotheatre.com/shows/angry-alan/

2019/03/05(山﨑健太)

ホエイ『喫茶ティファニー』

会期:2019/04/11~2019/04/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

2018年に上演した『郷愁の丘ロマントピア』が第63回岸田國士戯曲賞最終候補作に選出されたホエイ。新作の舞台はレトロなアーケードゲームの卓が残る古びた喫茶店だ。初めて店を訪れたらしい男(尾倉ケント)は連れの女(中村真沙海)からマルチ商法まがいの「ビジネス」に誘われている。女の上司(斉藤祐一)、男の友人(吉田庸)らも合流し、「ビジネス」の話を進めようとするうち、男女がともに在日コリアンであることが明らかになり──。

「正義」や「常識」は相対的なものであり、多くの人がそれを「正しい」と信じているという程度のことでしかない。茶碗をめぐるマナーひとつとっても韓国と日本とでは違いがあり、それがときに摩擦やイジメを生む。物語の主軸をなすのは在日コリアンの置かれた困難な状況とその抜け出しがたさだが、それらを生み出す構造は世のあちこちに見出すことができる。

「詐欺してますよね」「だまされてますよ」とマルチ商法であることを指摘し「人助け」をしようとした女性客(赤刎千久子)が逆に店から追い出されてしまう場面が印象的だ。そこでは彼女の言動は「正義」とは見なされない。直前に彼女がいかに自らが「正当な」日本人であるかを説明していたことも影響したのかもしれない。「ビジネス」に望みをかけ、何とか現状を打破しようとする人々にとって、彼女の言葉は邪魔なものでしかない。

©三浦雨林

ところで、これまでのホエイのほとんどの作品では、ある意味で「学芸会」的ともいえる簡素な舞台美術が採用されてきた。そこにはないものを「見る」ための想像力を刺激する戦略としてだろう。しかし今作では「リアルな」喫茶店のセットが組まれている。しかも、照明こそ換わるものの、喫茶店以外の場面もそのセットのままで演じられるのだ。このことは何を意味しているのだろうか。

見えていないものを想像することはもちろん重要だ。だがそのためには、そもそも自分には見えていないものがあるのだという自覚がなければならない。友人の出自、異性の抱える困難、あるいは自国の歴史。それが遠い外国のことであれば「知らない」と自覚することは比較的容易、かもしれない。だが、目の前に「見えているもの」があればその分だけ、その向こうに「見えていないもの」があることは想像しづらい。喫茶店のかたちで観客の目の前にはっきりと存在する「今ここ」とは異なる位相で語られるエピソードは登場人物には「見えていないもの」として、観客にのみ開示される。

作品のほとんど最後に至ってさりげなく、物語上は特に意味のないかたちで「クノレド」という単語が登場するのも示唆的だ。なるほど、本作は在日コリアンを中心とした物語だったかもしれない。だがその向こうには無数の同型の、同時にまったく違った問題がある。そもそも在日コリアンについてだって私はロクに知ってはいないのだろう。「知っている」ことの安全圏の外側を、私は想像し続けることができるだろうか。

©三浦雨林

公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/
ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』レビュー:https://artscape.jp/report/review/10142986_1735.html

2019/04/21(山﨑健太)

新聞家『屋上庭園』

会期:2019/04/26~2019/04/30

つつじヶ丘アトリエ[東京都]

新聞家はこれまで、村社祐太朗自らが戯曲を執筆・演出し上演してきた。既存の戯曲を用いて一般に開かれた公演を行なうのは今回が初めてだ。「一般に開かれた」とわざわざ断ったのは、そもそも村社演出による『屋上庭園』(作:岸田國士)は利賀演劇人コンクール2018で上演され奨励賞を受賞した作品であり、今回の上演はその改定再演だからだ。利賀演劇人コンクールで上演された作品がほかの場所で「再演」されることはそれほど多くないのだが、コンクールの成果を広く問う意味でもこのような「再演」には大きな意義があるだろう。

村社の「戯曲」はほぼ散文といってよい形式をとり、その上演に一般的な意味での会話はない。言葉は決して難解なわけではないが容易には意味が取りづらく、しかしそこが魅力でもある。上演においては俳優が他者としての言葉と対峙する様がクローズアップされ、それを観る私もまた、そのような態度を要請される。一方、『屋上庭園』は(およそ100年前に書かれた戯曲ではあるが)平易な言葉で紡がれる会話劇だ。同じ新聞家名義での公演とはいえ、両者の上演は相当に異なるものになるだろう、と思っていた。

だが考えてみれば、他者としての言葉に対峙するという意味では俳優の営為に違いはない。戯曲自体の言葉の質の違いを別にすれば、『屋上庭園』の上演から受けた印象は、新聞家のこれまでの作品のそれと驚くほど変わらなかった。『屋上庭園』という戯曲とそこに書き込まれた人々のことがこれまでにないほど「よくわかる」とさえ思わされたのは、新聞家が「他者」と徹底して向き合ってきたことを考えれば至極当然だったのかもしれない。

人の出入りや金の受け渡しなど、戯曲に書き込まれた必要最低限の動きこそ実行されるものの、演技はいわゆる「リアリズム」からはほど遠く、4人が寄り添い同じ方向を向いて立ち尽くす(記念写真を撮るかのような)状態が基本となる。その視線の先には透明のアクリルボードのようなものがあり(美術:山川陸)、そこには俳優たちの姿もうっすらと映り込んでいただろう。この配置自体、2組の夫婦が/夫と妻とが、互いに己を映し合う『屋上庭園』の構造、そして新聞家の実践それ自体を可視化するようでもある。

横田僚平、那木慧、菊地敦子、近藤千紘の4人の俳優の演技はきわめて解像度の高い「リアル」な情感を私のうちに呼び起こした。男女の配役はそれぞれダブルキャストになっており、2×2で4パターンの配役があったらしい。自身が見た回の配役こそが最適解であると思わされたが、おそらくいずれのパターンも等しく精度の高い、しかしそれぞれに異なった「リアル」を感知させる上演だったのだろう。一見したところ抑制されているように見える俳優の発話や挙動が、それゆえむしろ微細な差異を際立たせる。観客はそうしてそこにある「テクスト」とそれぞれに対峙する。新聞家の実践が決して特殊なものではなく、むしろ演劇原理主義的な側面を持つものであることをあらためて確認できたという点においても(それはつまり演劇の原理(のひとつ)をあらためて確認することでもある)有意義な体験だった。

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©三野新

©三野新

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

公式サイト:https://sinbunka.com/

2019/04/26(山﨑健太)

ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

会期:2019/04/27~2019/04/28

グランシップ 映像ホール[静岡県]

本作はコンゴ東部紛争についての「裁判」をめぐるドキュメンタリー映画である。「裁判」とカッコで括ったのは、それが本物の、つまり法的拘束力を持った公的なものではなく、ミロ・ラウらによって立ち上げられた模擬法廷におけるものだからだ。「演劇だから語り得た真実」という原題にはない副題はこの事実を指す。複雑に入り組んだ利害関係を背景に、語られることも裁かれることもされてこなかった紛争の現実。ラウは関係者に「演劇作品への参加」を呼びかけることで「真実」を明らかにする機会をつくり出した、らしい。

不勉強な私には大変勉強になる映画だった。紛争がレアメタル資源をめぐって引き起こされたものである以上、それは日本に住む私とも決して無関係ではない。この映画を見た程度で紛争の複雑な背景のすべてを理解することはできないが、たとえばスマートフォンの普及の裏でこのような事態が引き起こされていることは広く知られるべきであり、その意味で今後も上映が望まれる作品である。

映画『コンゴ裁判』より

しかし、本作を観終えた直後の私は物足りなさを感じてもいた。ラウの演劇作品の多くは過激とも言えるかたちで現実と虚構=舞台上の「現実」を突き合わせることで、観客にあらためて現実と向き合うことを迫る。たとえばこの8月にあいちトリエンナーレで上演される『5つのやさしい小品』はベルギー・ゲントの劇場CAMPOによる委嘱作品で、オーディションによって選ばれた地元の子どもたちが、90年代に起きた少女監禁殺害事件を「再演」するという作品だ。それと対峙する観客の内部に強烈な感情、あるいは倫理的な問いが喚起されるであろうことは想像に難くない。だが、『コンゴ裁判』という映画からは、そのような演劇の力を感じることができなかったのだ。

この物足りなさは、映画内である謎が解消されていないことと通じている。そもそも彼らはなぜ、加害者の自覚があるにもかかわらずノコノコと「法廷」に現われたのか。演劇だと思っていたから? たしかにそういうことになっている。だが、それはほとんど何も説明していないのと同じである。関係者たちが出廷を承諾するまでの過程がスクリーンに映し出されることはない。ラウの手練手管は伏せられている。結果として、この映画から演劇という嘘のありようはほとんど消去されていたように思われる。

たしかに、当事者にとって法的拘束力の有無は大きな違いだろう。そのような条件においてしか動かすことのできなかった現実があることもわかる。だが実のところ、法廷が本物であるか否かは、少なくともこの映画にとっては重要ではなかったのではないか。それを開くことさえできたならば、法廷が本物であったとしても、映画としての『コンゴ裁判』はほとんど変わらなかったのではないか。

考えてみればそれも当然だろう。ラウの目的は、まずはコンゴの現実を動かすことにあり、そして映画を見た人間を動かすことにあったはずだ。演劇はあくまでそのための道具でしかない。だから、物足りないという感想は、持てる者の側にいる私の傲慢だ。見るべきものをはき違えてはならない。

映画『コンゴ裁判』より


公式サイト:http://festival-shizuoka.jp/program/the-congo-tribunal/
『コンゴ裁判』アーカイヴサイト:http://www.the-congo-tribunal.com/


参考

コンゴ動乱:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E5%8B%95%E4%B9%B1
第一次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
第二次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

2019/04/27(山﨑健太)

2019年06月15日号の
artscapeレビュー