artscapeレビュー
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声
2021年06月15日号
会期:2021/04/03~2021/07/04
山口情報芸術センター[YCAM][山口県]
シンガポールを拠点とするアーティスト、ホー・ツーニェンの新作《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》は3対6面のスクリーンとVRによって構成されるインスタレーション。そこで扱われるのは哲学者の西田幾多郎や田辺元を中心に形成され、1930年代から40年代の日本の思想界で大きな影響力を持った「京都学派」の哲学者に関連するいくつかのテクストだ。
会場は「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」の四つの空間に分かれており、観客は最初の三つの空間でそれぞれ一対の映像を鑑賞したあと、「座禅室」でのVR体験に臨む。「座禅室」は蝶番のような役割を果たしており、VR空間内にはもうひと組の「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」が待っている。観客はスクリーンで鑑賞した映像のなかにVRを介して入っていくことになる。
「座禅室」でヘッドマウントディスプレイを装着し床に座った観客はまず、VR空間内の「座禅室」へと誘われる。そのまま動かずにいると「座禅室」の風景が続くが、座ったまま身動きすると空間は「左阿彌の茶室」へと移り、立ち上がればゆっくりと「空」へと上昇、横たわれば「監獄」へと沈んでいく。観客の動きや姿勢が空間の移動をもたらし、その移動する先々で観客は哲学者たちの「声」に耳を傾ける。
「声」といってもそれは哲学者たちの肉声ではなく、彼らが遺したテクストを現代の人間が読み上げたものだ。現実空間の「左阿彌の茶室」「監獄」「空」ではそれぞれ、VR空間で読み上げられることになるテクストの背景が説明されているのだが、それらはすべて、声と字幕による次のようなナレーションで始まる。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」。
一体どういう意味だろうか、と思っている間に説明は「この作品では、アジアにおける日本の軍事行動が激化した1930年代から40年代にある日本の知識人グループが生み出したいくつかの理論的テクストを舞台に上げます。読んでいただくのは」と続き、どうやらこれを聞く「私」(?)は何らかのテクストを読むことになっているらしいことが了解される。「左阿彌の茶室」で重なり合う2枚のスクリーンではそれぞれ1941年に西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高によって実施された座談会「世界史的立場と日本」と西田幾多郎『日本文化の問題』が、「監獄」で背中合わせになった2枚のスクリーンでは三木清『支那事変の世界史的意義』と戸坂潤『平和論の考察』が、向かい合う2枚のスクリーンによって構成される「空」では田辺元『死生』が「読んでいただく」テクストとして示され、それぞれの背景の説明が続く。
なぜテクストを読むのかという疑問に答えは与えられぬまま、観客は「左阿彌の茶室」から「監獄」を経て「空」へと至り、「座禅室」のVRで哲学者たちの「声」を聞くことでようやく、自分がこれまで聞いてきたものが「声優」への指示だったのではないかと思い当たる。「左阿彌の茶室」「監獄」「空」の映像作品はその意味でも「座禅室」のVR作品の「背景」を見せるものになっているのだ。そう考えると、現実の「座禅室」で観客が見るべきものはVRではなく、ヘッドマウントディスプレイを装着して現実を遮断し、VRに没頭して奇妙なふるまいを見せるほかの観客の姿なのかもしれない。
スクリーンの「左阿彌の茶室」「監獄」「空」で指示されるテクストは(スクリーンでは「左阿彌の茶室」に登場した西田幾多郎『日本文化の問題』がVRでは「座禅室」で読み上げられることを除けば)、VR内のそれぞれ対応する空間で読み上げられているのだが、しかし同時に、観客の立ち位置は奇妙にスライドし、二重化されることになる。当然ながら、実際には観客はそれらのテクストを読み上げることはなく、聞き手の位置に留め置かれるからだ。
聞き手といってもその内実はさまざまだ。「監獄」で観客は独房に横たわり隣室から聞こえてくるらしい二人の哲学者、三木と戸坂の声に耳を傾ける囚人となる。「空」に昇った観客はモスグリーンの機体に赤いモノアイの(量産型ザクを思わせる)ロボットの群に囲まれ、気づけばその一体となって同じ方向へと向かっている。学徒動員が拡大されようとするなか京都帝国大学の公開講座として実施された田辺元『死生』を聞くうち、ロボットの機体はゆっくりと分解していき、私の(機)体もまた、宙に舞う塵のように消えていく。
「左阿彌の茶室」での観客は座談会「世界史的立場と日本」に速記者として立ち合った大家益造の立場に置かれ、卓上の紙に筆記をしている(ように観客が手を動かす)間は座談会の声が聞こえてくる。だが、その手を止めると、今度は大家自身が1971年になって発表した歌集『アジアの砂』から引用された短歌を読み上げる声が聞こえてくる。読み上げられる短歌のなかには戦時を振り返ったものも多く含まれており、戦争を正当化しようとする「世界史的立場と日本」との対比は痛烈なアイロニーをなす。
映像作品のなかには『アジアの砂』に関する情報も含まれているため、短歌を聞く観客はすぐにそれが大家自身の「声」だと気づくことになるだろう。だが奇妙なことに、作中で大家に「声」を提供した「声優」に「この作品に声を貸してくださることに感謝します」という言葉が捧げられることはない。そもそも、大家はすでに速記者として自らは沈黙し、哲学者たちの言葉を届けるというかたちで「声を貸し」ている。「声を貸」すものは自らの言葉を奪われるのだ。では、この作品に立ち会い現在を生きる観客はどうか。
さて、この作品には「声」を提供しながら謝辞を捧げられていない人物がもうひとりいる。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」と語る当の本人である。文脈を考えればこれは作家自身の言葉だが、それが観客に届くまでには翻訳者と「声優」が介在している。透明化されたその存在は、しかし言うまでもなく「透明」ではあり得ないということも指摘しておかなければならないだろう。作家の来日が不可能になったためフルリモートで制作されたという《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》には、さらに多くの「透明」な存在が介在している。
公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2021/voice-of-void/
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