2022年08月01日号
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artscapeレビュー

池田修を偲ぶ6日間「都市に棲む―池田修の夢と仕事」

2022年07月01日号

会期:2022/06/14~2022/06/19

BankART Station[神奈川県]

これはレビューで扱うネタではないかもしれないが、いちおう記録として書いておきたい。

横浜のBankART1929代表の池田修が急逝したのは3月16日の早朝。前日の夜、仕事中に倒れ、病院に運ばれて翌朝息を引き取った。直接の死因は小脳出血だが、ずいぶん前から心臓を患い、5年前ほどから人工透析を受けていたので、いずれこうなることはみんな覚悟していたが、こんなに急だとはだれも思わなかった。その晩、ごく親しい人たちが何人か集まり、葬儀のことや偲ぶ会について、またBankARTのこれからについて話し合った。新代表は、これまで副代表を務めながら最近はアート活動に専念していた細淵太麻紀が復帰し、横浜市の創造都市推進部長を務めた秋元康幸が副代表に就いた。横浜市との連携が不可欠なBankARTにとっては最強の人材だ。

葬儀については、池田は知人や関係者が多いうえ、コロナが収束していないため、参加を親族と身近な友人十数人に絞って横浜市内で執り行なった。偲ぶ会については、池田は最近、自分の本を今年の誕生日(6/14)に出したいという希望を持っていたので、そこに追悼文を加えた『池田修の夢十夜』(BankART、2022)の出版記念を兼ねた会にすることになった。ただし、葬儀と同じ理由で1日に集中させず、6日間に分散させることに。会場には幼少からBゼミ、PHスタジオ、BankARTまで故人の軌跡を追い、併せてトリビュート展として約50人による追悼作品を展示した。だからこの1週間は「池田祭り」「池田ウィーク」だった。彼は自分が主役になることを嫌がったけど、にぎやかなことは好きだったからきっと許してくれるだろう。

偲ぶ会の初日は、40年来の付き合いのある川俣正、山野真悟、村田の3人による思い出話。2日目は石内都と柳幸典による対談。3日目は牛島達治や開発好明ら10組を超すアーティストによる連続トークとパフォーマンス。4日目は池田の原点ともいうべきBゼミ時代の話。5日目は秋元、佐々木龍郎、曽我部昌史による建築・都市関連の鼎談。そして最終日は「これからどうなるBankART」のキックオフとして、北川フラムと川俣の講演に加え、主に横浜の関係者約20人による連続トークという構成。登壇者は総勢約50人、参加者はのべ1,700人に及んだ。

この6日間に多くの発言者が共通して述べたことを挙げると、池田はいつもBankARTにいた、プライベートがなかった、裏方に徹していた、転んでもただでは起きなかった(ピンチをチャンスに変えた)、よく怒鳴っていた、よく怒鳴られた、でも笑顔に救われた、文句はいうけど結果を残した、厳しいながらも優しかった、アーティストの面倒見がよかった、アートを横浜に根づかせようとした、これからのBankARTが心配、横浜の芸術文化がなくなるかもしれない、だから彼の意思を引き継いでいかなければいけない……。

これらを総合すれば、具体的になにをやった人かはわからないまでも、どんな人物であったかは容易につかめるだろう。登壇した50人の発言にほぼ矛盾はなく、明確にひとりの人物像が浮かび上がってくる。これは当たり前のようだが、考えてみれば稀有なことではないか。「藪の中」ではないが、ひとりの人間には多様な面、秘密の顔があるもので、50人が証言すれば矛盾だらけの人間像が浮かび上がるはず。ところが彼は見事に「池田修」という一個の人物に結像する。つまり彼には裏がなく(それはプライベートがないことに通じる)、表一面だけで生きてきたということだ。これが今回いちばん驚いたことかもしれない(そんなことに驚くぼくのほうがおかしいのか?)。



3日目「アーティストからみた池田修」に登壇するアーティストたち。左端は守護霊の池田修氏(パネル)[筆者撮影]


6日間の話を聞いて思ったことを2点ほどしたためておきたい。

彼はBゼミを出てからの人生の前半をPHスタジオのリーダーとして(1984-2006)、後半をBankART1929の代表として(2004-22、ただし最初は副代表)として活動してきた。このPHからBankARTへの移行を、アーティストからキュレーター(またはオルタナティブスペース運営)への「転身」と見る向きもあるが、それは違う。そもそも彼はPHスタジオを結成したときから個人としての表現活動を封印し、匿名性のなかの創造活動に身を捧げてきた。だからPHスタジオの作品はあっても、池田修の作品はない。そのPHの集大成ともいうべきプロジェクトが、広島県の灰塚ダムで10年以上かけて行なわれた「船をつくる話」(1994-2006)だ。池田は、というよりPHはここで、地域のためになにをすればいいのかを考え、国や自治体と交渉し、地域の人たちとともにプロジェクトを推進した。その振る舞いはアーティストというより、すでにコーディネーター、ネゴシエーターの様相を呈していた。

このプロジェクトが山場を迎えようとするころ、名古屋港の倉庫をアートセンター化する計画に関わり、それが頓挫したころ、横浜で2つの歴史的建造物を創造活動に活用するコンペに応募し、入選したという経緯がある。ある意味、名古屋のリベンジを横浜で果たしたともいえるが、匿名性のなかで地域のために創造活動を推進していくという姿勢は、PH時代から変わっていないというか、むしろ徐々に強化されてきた傾向といえる。だからPHスタジオからBankARTへの移行は、転身というものではなく、ごく自然な、必然的といってもいい流れであったと思っている。

もう一つ、PHスタジオからBankARTへの移行を決定づけた横浜市との関係について。池田は横浜のコンペに参加する際、しきりに「創造都市構想」について賞賛し、「よくできたコンペだ」「答えは募集要項に書いてある」と語っていた。つまり創造都市構想について理解し、募集要項をよく読めば、求められている「解」が出てくるというのだ。おそらく自分ほど創造都市構想に共感し、それを実現できる人間はほかにいないだろうくらいの自負を抱いたはず。だから彼のプランは採用されて当たり前、むしろ、もう一つ採用されたSTスポットと共同で運営しなければならなくなったことを不満に感じていたに違いない。それほど創造都市構想は池田の考えにぴったりフィットした。いや、正確にいえば、創造都市構想は池田のこれまでの考えをさらに押し広げてくれる可能性を示唆した、というべきかもしれない。

BankART設立後は、創造都市のレールを敷いた横浜市参与の北沢猛に心酔し、その理念をみずからの血肉としていく。だから逆に、市がその構想に反するような方向に行こうとすると彼は猛反発した。このへんのハンパない情熱と粘り強さは多くの人が証言している。しかし、これを推進した中田宏市長が辞め、北沢氏と川口本部長が相次いで死去し、担当部署も担当者も変わって、創造都市の理念は徐々に薄められていく。そのなかで最後まで、文字どおり命を賭けて流れに抗ったのが池田だった。市の職員でもない彼が、横浜市のだれよりも横浜の芸術文化について真剣に考えていたといわれるのは、彼にとっても歯がゆいことだったに違いない。さて、これからどうする? 


ウェブサイト:http://www.bankart1929.com/ikedaosamu/index.html

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2022/06/19(日)(村田真)

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