artscapeレビュー
クリストフ・メンケ『力──美的人間学の根本概念』
2022年10月15日号
翻訳:杉山卓史、中村徳仁、吉田敬介
発行所:人文書院
発行日:2022/07/30
「力(ちから)」というシンプルかつ控えめな表題に反して、本書は、きわめて複雑かつ野心に満ちた書物である。本書は、18世紀ドイツにおける「美学(Ästhetik)」という学問領域の誕生に新たな視座を導き入れるとともに、それを近代的な「主体性」の誕生をめぐるエピソードとして(再)評価する。著者によれば、美学とは、近世においてすでに生じていた「主体」の概念とは異なる「真に近代的な主体性概念が養成される場」であったという(8頁)。これが本書の第一のテーゼをなす。
以下では本書の「序言」や「訳者解説」を手がかりとしつつ、その大まかな道筋をたどっていくことにしよう。クリストフ・メンケ(1958-)は現在フランクフルト大学で教鞭をとる哲学者であり、『芸術の至高性──アドルノとデリダによる美的経験』(柿木伸之ほか訳、御茶の水書房、2010)をはじめとする数多くの著書がある。本書『力(Kraft)』(2008)はそのメンケの5冊目の単著であり、これ以後も『芸術の力(Die Kraft der Kunst)』(2013)をはじめとする比較的近いテーマの仕事を公にしている。
さて、そのメンケの見立てによれば、美学こそは「真に近代的な主体性概念」が養成される場である、ということだった。そのような「主体性」とは、具体的にはいかなるものなのか。ごく簡潔に要約してしまうと、それは(1)当の主体によって意識的に制御された次元と、(2)そこからはみ出す、無意識的で制御不能な次元の拮抗のうえに成り立つような「主体性」である。そしてこの(1)が「能力(Vermögen)」に、(2)が「力(Kraft)」に相当すると言えばわかりやすいだろう。ようするに、ここで言う「近代的主体性」とは、意識と無意識、理性と非理性といったお馴染みの対立によって構成される主体であると考えておけばよい。
ここでいったん用語の整理をしておくと、この「能力」と「力」の共通の土台となるものを、メンケは「威力(Macht)」と呼んでいる。つまり、あらゆる人間には「威力」というものがそなわっているのだが、あるときはそれが「能力」として、またあるときは「力」として発現するということである。すこしわかりにくいが、本書を読みすすめるにあたり、この三つの概念の相関を押さえておくことは有益である。
さて、そのうえで整理を続けるなら、前者の「能力(Vermögen)」とは「威力がとる特殊な形態のうち、規範的かつ社会的な実践の参加者として主体を定義するような形態」のことである(10頁)。つまり「能力」とは、人間の社会的な規範意識を醸成し、それによって社会参加を可能にするものだと言ってよいだろう。これに対する「力(Kraft)」とは、むしろ「戯れとして展開されるような作用の威力」であるという(10-11頁)。つまりそれは「能力」とは違って、ある表現を生み出しては解消し、ある表現を超克してはそれを別の表現へと変貌させる、そうした遊戯的な作用のことである。
この「能力」と「力」は、どちらか一方が──主体の「威力」として──正しく、どちらか一方が誤っているということにはならない。ある見方をすれば、この二つの威力は互いを補完しながら「弁証法的統一」へと至る、と言うことができる(=「能力の美学」)。しかしべつの見方をすれば、この二つの威力はあくまで解消不可能な「逆説」を構成していると言うことも可能である(=「力の美学」)。そして本書の最大の野心は、18世紀から19世紀にかけての美学理論の展開を、この「能力の美学」と「力の美学」の相克として語りなおすところにあるのだ。
本書は、美学の創始者バウムガルテン(1714-1762)を「能力の美学」に、そして哲学者ヘルダー(1744-1803)を「力の美学」に割り振ることで、こうした遠大な理論形成史、ないし学問伝承史を提示する。巻末の「訳者解題」(杉山卓史)が適切に示すように、第2章のバウムガルテン論が「能力の美学」の誕生、第3章のヘルダー論が「力の美学」の誕生をめぐるものだとすると、第1章、第4章はそれぞれの背景を論じたものとして、第5章(カント論)、第6章(ニーチェ論)はこの二つの美学の対決の帰趨を論じたものとして読むことができる。各章の議論はそれなりに専門的だが、本書を通読した先には、美学と近代的主体性の関係をめぐるまったく新たな認識が得られるはずである。
2022/10/06(木)(星野太)