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グレゴワール・シャマユー『人間狩り──狩猟権力の歴史と哲学』

2022年10月15日号

翻訳:平田周、吉澤英樹、中山俊

発行所:明石書店

発行日:2021/09/13

本書の著者グレゴワール・シャマユー(1976-)は、今日もっとも勢いのあるフランスの哲学者の一人だろう。シャマユーは、2008年の『人体実験の哲学』(加納由起子訳、明石書店、2013)、2013年の『ドローンの哲学』(渡名喜庸哲訳、明石書店、2018)、2018年の『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022)など、いずれも重要なテーマを扱った書物を次々と世に送り出してきた。なかでも、かれの2冊目の単著にあたる2010年の『人間狩り』は、思想的にも歴史的にも、きわめて広大な射程をもった書物のひとつである。

本書でシャマユーが照準を合わせるのは、「人間を狩る」という穏やかでないテーマだ。ただしこの「狩り」には、(獲物などを)「追いかける」という意味と、「暴力的に外に追いやる」という二つの含意がある(8頁)。この「追跡する狩り」と「追放する狩り」は一応は区別されるが、この二つの行為は根本ではつながっている。なぜなら、人間を動物のように追い回すことは、その人間があらかじめ公共の領域から追い立てられていることを意味するからだ。『人間狩り』は、そうした人間を人間ならざるものへと追いやる「狩猟権力」についての書である。

全12章からなる、本書の大まかなストーリーは次のようなものである。まず古代ギリシアにおいて、「狩猟権力」はポリスの市民が奴隷を力づくで調達・捕獲し、主人として彼らを支配するための権力として出現した(第1章)。次いでヘブライ=キリスト教の伝統において、「狩猟権力」はまずもって暴君が行使する「捕獲するための狩り」に相当したが(第2章)、同時にそれは、慈悲深いはずの「司牧権力」(フーコー)が行使する「追放するための狩り」でもあった(第3章)。

これら三つが「狩猟権力」の旧き形象であるが、時代とともに、この暴力的な権力は地球上のいたるところに広がる。周知のように、それはアメリカ大陸における「先住民狩り」であり(第4章)、アフリカにおける「黒人狩り」(第5章)である。また新大陸や植民地ではなく、西洋社会の内部に目を向けてみても、そこでは「貧民狩り」(第7章)や「外国人狩り」(第10章)といった暴力的営為が──警察権力の拡大とともに──連綿と続けられてきた。本書はこうして、古代から近代までの「人間狩り」をめぐる壮大な系譜学を描き出すのだ。

なかば当然のことではあるが、こうしたシャマユーの問題意識は、しばしばフーコーの権力論と比較され、それを継承するものとされてきた。その正否については本書の「訳者解題」(平田周)をはじめすでにさまざまな議論があるので、ここでは立ち入らない。だが、ここでひとつだけ触れておくことがあるとすれば、それは本書の驚くべき読みやすさにある。シャマユーの書物がきわめて「現代的」だと思わされるのは、フーコーをはじめとする先達の権力論に比べて、その論述スタイルがきわめて明晰であることだ。本書『人間狩り』や『ドローンの哲学』が英語圏で好評を得ていることからもうがかえるように、本書は簡潔にして要領を得た文体によって、歴史的にも理論的にも厚みのある「人間狩り」という主題に接近するための、格好の一冊になりえている。

2022/10/06(木)(星野太)

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