artscapeレビュー

東京芸術祭ファームFarm-Lab Exhibition パフォーマンス試作発表『「クィア」で「アジア人」であることとは?』

2022年10月15日号

会期:2022/10/07~2022/10/09

東京芸術劇場ロワー広場[東京都]

芸術にできることは何か。東京芸術祭ファームFarm-Lab Exhibition パフォーマンス試作発表『「クィア」で「アジア人」であることとは?』にはこの問いに対する力強い、そして切実なひとつの答えがあった。芸術には、声を奪われてきた者たちがそれを取り返すことを、そしてその声を響かせ見知らぬ誰かの耳へと届けることを可能にする力がある。

東京芸術祭ファームはアジアの若いアーティストの交流と成長のためのプラットフォームであったAPAF(Asian Performing Arts Farm、アジア舞台芸術ファーム)を前身とし、2021年にスタートした人材育成と教育普及の枠組み。その一環であるFarm-Lab Exhibitionは「アジアを拠点に活動する若手アーティストが、文化、国籍やバックグラウンドが様々に異なるメンバーとクリエーションを行い、東京芸術祭やアジア各地での上演を目指したワークインプログレスを発表する創作トライアルプログラム」だ。今年は日本を拠点とする(そして私が参加する)y/nと日本以外のアジアを拠点とする3人のアーティストによる『Education (in your language)』と、フィリピンを拠点とするセリーナ・マギリューと日本を拠点とする3人のパフォーマーによる『「クィア」で「アジア人」であることとは?』の2作品が上演された。セリーナ・マギリューは昨年、同じ東京芸術祭ファームのAsian Performing Arts Campというプログラムに参加していたことから今回のFarm-Lab Exhibitionへの参加が決まったということで、東京芸術祭ファームにおける人材育成の取り組みが単発で終わるものではなく、長期的な視野に立って企画されていることが窺える。

トランスピナイ(=トランスジェンダーのフィリピン人)の俳優、パフォーマンスアーティスト、アクティビストであるセリーナ・マギリューが掲げたコンセプトは「QUEER ASIA(クィア・アジア)」。「西洋の二元的な性の概念とは異なる、アジアにおけるクィアのアイデンティティを、私たちの手に取り戻す必要」があると語るマギリューは日本拠点のパフォーマーとの共同制作の過程で日本の昔話に着目した。例えば「かぐや姫」のかぐや姫(ノマド、𠮷澤慎吾)や「花咲かじいさん」に登場する犬・シロ(葵)。両者は物語上、きわめて重要な存在であるにもかかわらず物語のなかでその内面が語られることはない。繰り返し語られてきた物語において声を奪われてきた者たちの声を取り返し、物語を語り直すこと。規範から逸脱するものを抑圧する社会で、自らもまたクィアとして生きるパフォーマーたちが自身の声を発し、自らの視点から社会を語り直すこと。二つの語り直しが重ね合わせられ、パフォーマンスは立ち上がっていく。


[撮影:松本和幸]


今回は創作トライアルということでクリエイション期間も短く、上演された作品は完全なものではなかったのだが、それを差し引いても「かぐや姫」と「花咲かじいさん」という二つの物語の接続は甘く、「私はこの世界を、この人生をありのままの自分として生きたい」「私は、男でも女でもない」などといった台詞はあまりに直接的だ。作品としての(あるいは芸術としての?)クオリティは必ずしも高かったとは言えない。しかしそれでも、この作品が上演されたことには大きな意義がある。


[撮影:松本和幸]


東京芸術劇場ロワー広場という誰でも出入り自由な空間で上演されたこの作品は、いわゆる劇場の閉ざされた空間での、作品を観たいと自ら望んでやってきた観客だけに見せることを前提としたものではない。もちろん、クィアとして生きるパフォーマーが自身の声を発する姿は(あるいは客席にいたかもしれない)同じくクィアとして生きる人々に力を与えるものであっただろう。パフォーマー自身もまた自らの声を発することによってエンパワーされていたかもしれない。しかしそれ以上に重要なのはこの作品が、例えばクィアという言葉も知らない(かもしれない)通りすがりの人に、そのようにいまこの世界を生きている人がいるのだという事実を、その声を、その言葉を、生身のパフォーマーの存在を通して知らしめるものになっていたという点だ。地下の広場で発せられた声は吹き抜けを通して上階にも響き、それを聞いた人々の一部は少しのあいだ足を止め、パフォーマーに目を向けその言葉に耳を傾けていた。本当に声を届けるべき相手は客席の外側にいるのだ。

声を上げることは難しい。これまで声を奪われてきた者たちにとってはなおさらだ。例えばSNSやデモなどを通じて声を上げることは(残念ながら)現状では攻撃される危険と隣り合わせの行為となっている。開かれた空間で上演されたこの作品においても、パフォーマーたちの負担は相当なものだっただろう。だがそれでも、舞台作品の上演という設えには声を上げる者の危険を少しだけ減じ、あるいは言葉を聞く者の警戒を幾分か和らげる作用があったはずだ。現実を変革するための手段としての芸術。今回の創作トライアルで提示されたその可能性の先に見える景色はどのようなものになるだろうか。


[撮影:松本和幸]



『「クィア」で「アジア人」であることとは?』:https://tokyo-festival.jp/2022/program/fle-serena
東京芸術祭ファーム:https://tokyo-festival.jp/tf_farm/

2022/10/09(日)(山﨑健太)

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