artscapeレビュー

王欽『魯迅を読もう──〈他者〉を求めて』

2023年02月15日号

発行所:春秋社

発行日:2022/10/19

本書のタイトルを見たとき、いくぶん意表を突かれる思いがした。「魯迅を読む」ではなく、「魯迅を読もう」である。このタイトルは、文字通りに取れば、読者に対して「ともに」魯迅を読むことをうながしているかに見える。事実そうなのだろう。だが、「魯迅を読もう」というこの誘惑の背後には、もうすこし複雑なコンテクストが畳み込まれているように思える。

魯迅(1881-1936)と言えば、日本への留学経験もある、中国近代文学におけるもっとも重要な作家である。したがって、中国語や日本語のみならず、英語でも魯迅についての書物や論文のたぐいは豊富にある(個人的にも、魯迅を専門とする英語圏の研究者にはこれまで数多く会ってきた)。さながら日本における夏目漱石のごとく、中国の近代文学を話題にするうえで、およそ魯迅を避けて通ることなどできない。これはいまや世界的な事実である。

ひるがえって、いまの日本語の読者のあいだに、魯迅を読もうという気運はどれほどあるだろうか。日本とも縁浅からぬこの作家への今日的な無関心が、著者をして本書を書かしめた最大の要因であるように思われる。

むろん、過去には竹内好の仕事をはじめとして、日本語で読める魯迅のすぐれた訳書・解説書は現在までに数多く存在する。だが、本書の著者である王欽(1986-)のアプローチは、これまでに存在した魯迅の解説書とはいくぶん毛色を異にするものだと言えよう。著者は中国・上海に生まれ、ニューヨークで学業を修め、現在では東京で教鞭をとる研究者である。つまり本書は、中国語を第一言語とし、英語圏の批評理論にも精通した著者が、あえてみずから日本語で書いた本なのである。

本書は、魯迅の『阿Q正伝』をはじめとする小説から雑文にいたるまでの全テクストを視野に収めた、堅実な解説書である。ただし、そこでは中国語や日本語による文献に交じって、ベンヤミン、ド・マン、デリダを援用しながら議論を進めるくだりが散見される。こうした批評理論を噛ませたアプローチには賛否あるだろうが、すくなくとも今日の英語圏における魯迅の読まれかたとして、本書のような「釈義」(11頁)による方法はむしろ王道に属するものであるように思われる。

個人的には、『村芝居』『凧』『阿金』といった比較的マイナーなテクストを論じた後半の議論を興味ぶかく読んだ。全体的に、編集の目が行き届いていないがゆえの誤字脱字も散見されるが、本書のようなすぐれた書物が日本語で著されたことの意義は、それを補って余りあろう。本書の読後、きっと読者は魯迅を「読もう」という気にさせられる──その点において、本書の目論見は十分に達成されているように思われる。

2023/02/09(木)(星野太)

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