artscapeレビュー

2023年02月15日号のレビュー/プレビュー

文化村クリエイション vol.2 相模友士郎『ブラックホールズ』

会期:2022/12/23~2022/12/25

なら歴史芸術文化村 芸術文化体験棟ホール[奈良県]

傾斜した板に観客が身体をもたせかける、特殊な「スタンディング観客席」でダンスを鑑賞する『エイリアンズ』(2019)。舞台上に並んだ鉢植えの植物と、照明と音響の変化だけを見せる『LOVE SONGS』(2019)。演出家の相模友士郎は近作において、観客の身体への負荷、「身体と視線の固定」の強調、出演者不在、不動の物体/舞台上で流れる「時間」の可視化など、「観客の身体や視線も含め、何が舞台空間を構成し、支えているのか」を問う実験的な作品を上演してきた。

本作は、招聘アーティストがリサーチを経て作品を発表する「文化村クリエイション」の第2弾。ツアー、レクチャーパフォーマンス、「出演者不在の上演」を組み合わせた参加型の作品だ。そして後述するように、ある種の極北を指し示す作品である。

10名の観客はまず、相模に案内され、昨年3月にオープンしたなら歴史芸術文化村の建物の中を回る。子ども用ワークショップスペース、山や池の見えるテラスを経て、相模が滞在制作に使ったスタジオへ。前半は、相模自身が制作動機やリサーチ内容について語る、一種のレクチャーパフォーマンスの時間を過ごす。不眠に悩んだ経験から「睡眠」をテーマにリサーチを開始したこと。覚醒時は自分の身体の輪郭をクリアに意識しているが、睡眠時はゆるい網目のニットのようにその輪郭に穴が空き、外部から何かが侵入してくること。無意識は見えない領域でつながり合っていて、地下茎でつながる竹林に似ていること。



[撮影:守屋友樹]


「地下の見えない領域」の話は、「奈良では地面の下に色々埋まっているので、土地を買うのも博打」という話を介して、古墳のリサーチに展開する。相模が話す対照的な2つの古墳は、「演劇」「舞台」についてのメタ的な語りでもある。盛土が失われたため、巨石でできた石室が剥き出しの石舞台古墳は、人気観光スポットだが、「墓」としては機能していない。一方、巨大な前方後円墳である行燈山古墳は、「神聖な中心」を覆い隠しつつ、結界と視線の誘導という空間の演出によって、「見えないからこそ、“内部に石室がある”実在性を信じさせる」ことで、「墓」として機能し続けている。そのとき、「墓石」は視線の客体ではなく、見ている自分自身の中にある、と相模は語る。



[撮影:守屋友樹]


その後、階段を下り、搬出入の車両が荷物を積み降ろすトラックヤードへ案内されると、舞台の幕が上がるように巨大なシャッターが昇降する。そしてバックヤードを通り、地下のホールの薄暗い舞台上へ。土が敷き詰められ、発掘現場のような起伏の上を、ライトが催眠的なリズムで揺れている。しばらくして幕が開くと、客席の空間にはベッドが用意され、横たわるよう相模に指示される。「今から『ブラックホールズ』の上演を始めます」「だんだん暗くなります。ごゆっくりお休みください」という演出家の声。上演時間の「最後の30分」は、文字通り「眠る」ための時間にあてられる。暗闇のなか、すぐに何人かのイビキが聴こえてきたが、「誰かが階段を上り下りする足音」が断続的に流れ、私は眠ることができなかった。「物音に遮断されつつ、知らない他人と同じ空間で眠(ろうとす)る」経験は、入院や夜行バスを思い出させたが、避難所を想起した人もいたかもしれない。



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]


少人数でのツアーとレクチャーパフォーマンスという時間を共有した後、知らない他人と同じ空間(劇場という公共空間)で眠れるか? 相模はここで、「演出とは、観客の身体や心理状態のコントロールである」ことを露呈させる。その極限状態が「眠ること」だ。「観客」として規律=訓練された身体が、「劇場空間で眠ること」への抵抗をいかに手放せるか?

これは「規範を破れという要請に従う規範的身体」というひとつの矛盾だが、ここにはさらにもうひとつの矛盾が発生する。睡眠とは意識を手放すことである以上、上演自体が知覚不可能な「ブラックホール」と化してしまうのだ。もし、観客10人が全員眠りに落ちたら、その状態こそが「完全な上演」なのか? そのとき、私たちの無意識が地下茎のようにつながり合った状態が「上演」されているのか? だが、その状態を誰も「意識的に」体験できない。「上演」自体を共有不可能で原理的に「鑑賞」不可能な「ブラックホール」と化す本作。それは、「30分」という始点と終点を伴う「切り取られ、分節化された時間」に局所的に発生して閉じていく、見えない「(複数の)穴」である。

そして、この時間の分節と支配は、演出家の手に握られている。「今から○○の上演を始めます」という「前説」、「上演開始」を告げる演出家の宣言こそが、時間を分節化し、「上演の時間」を存在させ始める。それは極めて行為遂行的な言葉であり、政治性を帯びている。多くの上演において、その言葉は上演の「外部」にあるように置かれ、政治性は覆い隠されている。だが、実はその言葉こそが「上演」を担保し、入れ子状に存在させていることを、本作は剥き出しにしてみせる。だから、上演の「中身」はもはや眼差されなくとも問題ない。ただ、時間を分節化し、支配する「演出家の宣言」だけがあればよいのだ。これは極北の宣言である。

なお、「出演者不在」でも、「演出家」さえ存在すれば、「上演」は成立できてしまうという構造は、同時期に「不在」バージョンとして再演された村川拓也『ムーンライト』でも共通しており、同公演評をあわせて参照されたい。


*公演内容の説明について一部訂正いたしました。(2023年2月21日編集部追記)


公式サイト: https://www3.pref.nara.jp/bunkamura/item/2023.htm

関連レビュー

村川拓也『ムーンライト』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年02月15日号)

2022/12/25(日)(高嶋慈)

磯和璉子「逢瀬」

会期:2022/12/27~2023/01/16

ニコンサロン[東京都]

ニコンサロンでは、時々ユニークな経歴の写真家の写真展が開催されるが、三重県出身の磯和璉子もそんなひとりである。磯和は1981年に留学のため渡米し、1983年からは、ニューヨークを拠点に、自然関係のドキュメンタリー映像を制作・配給する仕事にかかわった。2006年に帰国。ふとしたきっかけから写真撮影に目覚め、定期的に展覧会を開催するようになった。

今回の展示のテーマは「石」である。宮崎県、奈良県、群馬県、宮城県などの渓谷や採石場に足を運び、そこで目に止まった岩石にカメラを向けた。撮り方はストレートで、光や構図にこだわるというよりは、被写体のありようをそのまま受け容れ、抱き寄せるようにしてシャッターを切っている。それらの岩石が、どのようにその場所に姿をあらわしたのか、DMに使われた写真の結晶片岩といった名称も含めて、地質学的な知識もそれなりに身につけているようだ。だが、そのことにこだわるよりも、「石」との出会い=「逢瀬」を大事にし、あまり作為を感じさせないように撮影しようとする姿勢が一貫しており、心揺さぶる、強いパワーを放つ写真群となっていた。

カメラを通して「石」と向き合うことは、いまや磯和にとってライフワークになりつつあるのではないだろうか。「石」との対話から得るものが大きいことが、かなり大きめにプリントして展示された23点の出品作からしっかりと伝わってきた。この仕事はさらに続けていってほしい。豊かな膨らみを備えたシリーズとして成長していくことが、充分に期待できそうだ。


公式サイト:https://www.nikon-image.com/activity/exhibition/thegallery/events/2022/20221227_ns.html

2023/01/09(月)(飯沢耕太郎)

鈴木清「天幕の街 MIND GAMES」

会期:2023/01/04~2023/03/29

フジフイルム スクエア 写真歴史博物館[東京都]

1982年に自費出版で刊行された『天幕の街 MIND GAMES』は鈴木清の3冊目の写真集である。『流れの歌 soul and soul』(1972)、『ブラーマンの光 THE LIGHT THAT HAS LIGHTED THE WORLD』(1976)に続くこの写真集で、鈴木はそれまでのように自分でデザイン・レイアウトするのではなく、その作業を他者(グラフィックデザイナーの鈴木一誌)に委ねた。そのことによって、装丁、内容ともに前作よりも大胆で自由度を増したものになった。

今回、フジフイルム スクエア 写真歴史博物館で開催された本展には、同写真集に掲載された作品を中心に39点が出品されている。サーカス団の団員たちや彼らを取り巻く環境にカメラを向けた「サーカスの天幕」、たまたま知り合ったホームレスの男性との交友を軸にした「路上の愚者・浦崎哲雄への旅1979-1981」などの作品群を見ると、被写体との距離感を自在に調整しつつ、融通無碍にシャッターを切っていく鈴木ののびやかなカメラワークに、あらためて強い感動を覚える。鈴木はこの時期に、写真の選択、配置、テキストとの絡み合いなどにおける独自のスタイルを確立し、自費出版写真集という形態をほぼ極限近くまで突き詰めようとしていた。やがて鈴木一誌とのコラボレーションを解消し、ふたたび自身で写真集をデザイン、レイアウトしていく下地が、既にでき上がりつつあったことが伝わってきた。

会場には、彼が写真集の構想を固めるために制作した「ダミーブック」(手作りの見本写真集)も展示してあった。それらも含めて、生涯に8冊の写真集(1冊を除いては自費出版)を刊行した鈴木清の全体像を概観できる展覧会をぜひ見てみたい。そろそろ、その気運も高まってきているのではないかと思う。


公式サイト:https://fujifilmsquare.jp/exhibition/230104_05.html

2023/01/09(月)(飯沢耕太郎)

小平雅尋『杉浦荘A号室』

発行所:Symmetry

発行日:2023/01/09

小平雅尋の新しい写真集『杉浦荘A号室』のページを繰っていて、彼が東京造形大学の学生だった頃から私淑していた大辻清司の作品《間もなく壊される家》(1975)、《そして家がなくなった》(1975)を思い出した。同作品は、「大辻清司実験室」と題する連載の第11回目と12回目(最終回)として、『アサヒカメラ』(1975年11月号、12月号)に連載されたもので、大辻の代々木上原の古い家が取り壊されるまでのプロセスを淡々と記録したものである。小平もまた、長く住んだ世田谷区のアパートの部屋から移転することになり、その最後の日々をカメラにおさめようとした。部屋の中のさまざまな“モノ”の集積を、丹念に押さえていこうとする視線のあり方も共通している。

だが、小平の今回の作品は、彼自身の姿が頻繁に映り込んでいることで、大辻の旧作とはかなり印象の違うものになった。セルフタイマーを使った画像から浮かび上がってくるのは、まさに「写真家の日常」そのものである。撮影やフィルムの現像などの作業のプロセスを、これだけ見ることができる写真シリーズは、逆に珍しいかもしれない。それに加えて、窓の外の庭にカメラを向けて写した植物や小鳥の写真が、カラー写真で挟み込まれている。写真集の最後のあたりには、結婚してともに暮らすことになる女性の姿も見える。大辻の作品と比較しても、より「私写真」的な要素が強まっているといえそうだ。

小平の前作『同じ時間に同じ場所で度々彼を見かけた/I OFTEN SAW HIM AT THE SAME TIME IN THE SAME PLACE』(Symmetry、2020)は、それまでの抽象度の高いモノクローム作品の作家という彼のイメージを覆す意欲作だった。今回はさらに、プライヴェートな視点を強めて、新たな領域に出ていこうとしている。写真家としての結実の時期を迎えつつあるということだろう。

関連レビュー

小平雅尋『同じ時間に同じ場所で度々彼を見かけた/I OFTEN SAW HIM AT THE SAME TIME IN THE SAME PLACE』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年12月15日号)

2023/01/10(火)(飯沢耕太郎)

村川拓也『ムーンライト』

会期:2023/01/12

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

出演者の逝去を受け、「主人公不在」という異例の形式で「再演」されたドキュメンタリー演劇。村川拓也の演出作品『ムーンライト』は、70代の視覚障害者の男性、中島昭夫と村川の対話の合間に、「ピアノの発表会」が挿入される構造である。青年時代にピアノを習い始めた動機、同じ頃に発症した目の病気、娘のために買ったピアノ、中島自身の子ども時代、母親の思い出、ベートーヴェンの「月光」に惹かれた理由……。村川に質問を投げかけられた中島が語る、人生を彩った楽曲が、複数の演奏者によってピアノ演奏されていく。この作品は2018年に京都で初演、2020年に東京で再演されたが、2021年に中島が急逝したため、2022年の札幌公演は、主人公がいない「不在」バージョンとして上演された。本公演も同様の形式である。「不在」は村川作品の重要なキーワードのひとつだが、「主人公不在」という新たなバージョンは、単に現実的な要請にとどまらず、『ムーンライト』という作品の射程をより多角的で豊かに拡張していた。特に要となるのが、後述するように、「マイク」の秀逸な演出が示す、ドキュメンタリー演劇それ自体へのメタ批判である。

舞台上には、下手にグランドピアノ、中央と上手に2脚の椅子が向かい合って置かれている。村川が登場し、作品の経緯を説明し、「中島さんはいないが、作品の構成は変えず、できるだけ前と同じように上演したい」と述べる。「では、中島さん、どうぞ」という村川の声。やや長い「空白の間」は、白杖をついた高齢男性が舞台上をゆっくりと歩んでいく時間を想像させる。村川は、対面の無人の椅子に白杖を立てかけ、座面にマイクを置く。そして、もう1本のマイクを握った村川から、目の前の「中島さん」に向けて質問が投げかけられていく。



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]


「今、客席はどんな感じで見えていますか?」「……」「あ、ほとんど見えていないんですね」。冒頭のこのやり取りは、「中島には観客が見えていない/観客には彼が見えている」という、初演バージョンでは存在した視線の非対称性を解消してしまう。それは、観客かつ晴眼者という二重の視線の特権性を手放しながらこの場に立ち会うことを意味する。また、「中島の回答の不在」は、「記憶の想起」という本作の核を二重化して強調する。初演では、村川のインタビューを受ける中島は、「過去を思い出しながら、現在時において語る」という二重化された時制のなかにいた。さらに本公演では、(筆者のように)初演を見た観客は、「中島が初演で何を話していたか」を思い出そうと、「初演時の記憶」を召喚して空白を埋めながら観劇することになる。

もちろん、初演を見た観客はすべての会話を記憶しているわけではないし、初演を見ていない観客もいる。だが、本作の構造が「モノローグ」ではなく「村川との対話」であること、さらに「中島が視覚障害者であること」により、中島の語りはまったくのブラックボックスではなく、ある程度輪郭を保って保存・伝達される。ここに「不在」バージョンの成立の鍵がある。村川は、対話相手の言葉を繰り返す「ミラーリング」のテクニックをしばしば駆使し、要所要所で「話の流れの整理」をし、「では、いま話してもらった○○の曲を演奏してもらいます」といった「進行役」を務める。また、背景のスクリーンには、中島の自宅のピアノ、子ども時代や大学生の頃の写真が投影されるのだが、「何が写っているか」が「見えない」中島に対し、村川は視覚イメージを「言葉」に置き換えて伝達するからだ。



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]


このことは逆説的に、「ドキュメンタリー演劇」を自己批判する事態へと変貌する。「インタビューに基づき、本人が出演して自身の言葉で語る」ものであっても、舞台上のやり取りは原理的に「何度でも再現可能」で「編集・再構成されている」ことをさらけ出すのだ。「中島が質問に答えて話している時間」を「適切に」取る村川は、「そこに中島がいる」フリでふるまう「演技」と区別不可能になっていく。また、しばしば質問から「脱線」してしまう中島に対して「○○の話はもういいので」と遮り、「ナマの会話では予測不可能なはずの脱線のコントロール」さえも「再現」してみせる。「ドキュメンタリー演劇」も「演劇」である以上、再現可能性と演出家のコントロール下に置かれていることの露呈。この原理的枠組みの強調により、「何が話されたか」は相対的に軽くなっていく。その極点としての「出演者の消去」がここに露出する。

「出演者不在」でも、「制御する演出家」さえいれば「ドキュメンタリー演劇」は上演できてしまうという暴力性。だが、村川は、この暴力性や権力性に対し、終盤の「マイクの仕掛け」により、極めて自覚的かつ誠実に向き合ってみせる。青年時代に目の病気を発症し、同年代で聴覚に障害を抱えたベートーヴェンに対して同じ苦悩を抱えた者どうしとして惹かれ、特に「月光」の曲が弾けるようになりたいと思ってピアノを習い始めた中島の人生。その語りの合間に、中島の娘、母親、ピアノ教師の役を務める女性たちが登場してピアノ演奏を披露する。そして終盤、中島自身による「月光」の演奏が『ムーンライト』のハイライトだ。「不在」バージョンでは、「白杖をもつ中島の腕」に手を添えた村川がゆっくりと舞台を横切り、ピアノの椅子に白杖を立てかけると、中島が演奏した「月光」の録音が流れる。だが、「演奏」は何度も途中でつっかえ、止まってしまう。「74歳になり、記憶が衰え、ここまでしか弾くことができない」と弁明する中島の録音音声が流れる。



[撮影:麥生田兵吾(umiak)]


「不在」バージョンで唯一、「中島の声」が流れるこのシーンの最大のポイントが、「マイク」である。村川がマイクをピアノの椅子の上に置くと「中島の声」が流れる。ここで重要なのが、「中島が座っていた空白の椅子」に置かれたマイクBではなく、「村川自身が使っていたマイクA」であることだ。これは、演出家が握っていた「発言権・発言能力」の譲渡である。もし、単純に「マイクBをピアノの椅子に置くと中島の声が流れる」のであれば、それまでが「声の封印」という暴力的事態だったことの露呈にしかならないからだ。

1ヵ月前に再演された村川の『Pamilya(パミリヤ)』も、同様に「マイク」の戦略的な使用により、「日本社会で不可視化された要介護の認知症高齢者の声」が、外国人介護士との擬似家族的で親密な関係の中で確かに存在したことを、「抑圧と不在化」を潜り抜けた先に、倫理的態度とともに提示していた。本作でのマイクの転倒的な使用もまた、ドキュメンタリー演劇における演出家の倫理的態度の表明である。舞台上のやり取りが演出家によってどれほど「再構成」されていようとも、ここで中島が語ることは、「彼の記憶力の限界」すなわち「演出家・村川の支配できない領域」が存在することを示す。「途中でつっかえ、それ以上曲を弾けないこと」も含めて、「中島の人生で流れた時間の堆積」の尊厳を否定せずに示すこと。出演者の「不在」によって、『ムーンライト』という作品の輪郭はむしろクリアに浮かび上がったといえる。

なお、「出演者不在」でも、「演出家」さえ存在すれば、「上演」は成立できてしまうという構造は、同時期に上演された相模友士郎『ブラックホールズ』でも共通しており、同公演評をあわせて参照されたい。


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/96108/

関連レビュー

文化村クリエイション vol.2 相模友士郎『ブラックホールズ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年02月15日号)
地域の課題を考えるプラットフォーム 「仕事と働くことを考える」(その2) 村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年01月15日号)

2023/01/12(木)(高嶋慈)

2023年02月15日号の
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