artscapeレビュー
宇留野圭「Keyway」(BankART Under 35 2023)
2023年10月01日号
会期:2023/07/06~2023/07/23
BankART Station[神奈川県]
立方体の三つの小さな木造の部屋がワイヤーとバネとトラス状の構造物で支えられている。中位の部屋には白い樹脂でできた骨のようなものが天井から吊られていて、そこそこ大きな衝撃音を立てながらモーターで振れ回る。その白い物体の重量感と動きの激しさで作品全体が左右に揺れ続けていた。振動は不規則で、見始めてからの数分間は近付くことが憚られるほどだ。
展覧会名である「Keyway」とは、機械の部品と部品を結合するために掘られた溝、「キー溝」「接合歯形」と「鍵の行く先」のことを指すとハンドアウトにあった。会場にある作品たちは、何らかの技術を表象したり、技術そのものを提示したりするというよりは、「機械」という言葉がどこかしっくりくる。
美術史家のアンドレアス・ブロックマンは、21世紀は「機械」の時代ではないと断りを入れたうえで、20世紀の芸術における「機械」が何であったのかを振り返っている。ここでの機械とは、ジョルジョ・アガンベンによる次のような装置概念を援用したものだ。
「私は文字通り、生き物の身振り、行動、意見、言説を捉え、方向付け、決定し、傍受し、モデル化し、制御し、確保する能力を何らかの形で持つものを装置と呼ぶことにする」
。アガンベンの解釈では、装置は社会的実践の空間を「道具、物、小道具、粗品、そして様々な技術」で埋め尽くし、主観性は「装置」の産物として現われるのである 。そして、本稿にとって重要な「機械」のことを、ブロックマンは「主体」と同じく「装置」の産物であり、主体によって名付けられ、構築されたものなのだという。主体(通常、自らを「生き物」と認識する)は、機械が外部にあり、他者であるかのように語るが、それは主体の技術上のドッペルゲンガーであり、装置の働きの補完的な産物なのだと
。20世紀のなかで目立つことも定まることもなかった「マシン・アート」をブロックマンはこうまとめている。マシン・アートはマシン(それらを構築する装置の前に主体が設置するスクリーン)を構築し、それらを明確にするものであり、マシン・アートの作品は、装置を当然視せず、問題視するよう促すものであり、マシンとアートの出会いは、奇妙さ(と親しみ)、距離(と近さ)、拒絶(と愛、または親密さ)によって特徴付けられると
。例えば本作がマシン・アートだとして、問題とする「装置」は何なのだろうか。舞台美術のシミュレーションとして存在する《17の部屋 - 耳鳴り》(2021)も、「密室」として現われる《密室の三連構造》(2021)も
、壁ひとつで隔てられた、放置された空き家の連なりのようだと思った。経済学者の大泉英次は、イギリスなど他国と比較して、日本の住宅はスクラップ&ビルドを前提とし続けてきたため「既存住宅の流通市場が成長、発達する余地はまったくない」と言う
。戸建住宅も舞台美術と同様に、ある一定の役目を終えた部屋を引き継ぐ者は誰も存在しない。転売するにも、貸し出すにも需要が見込めない部屋たちはこの20年で2倍となり、300万戸を超え、その多くは物置きとして放置されている。空き家は防災性・防犯性を低下させ続け、埃と虫の死骸が積み重なり、衛生面も悪化していくのだ 。《17の部屋 - 耳鳴り》には監視カメラがいくつも設置されている。そのカメラが映すのは、清掃されることもない空間だが、その監視能力に防犯性の向上が仮託されているかのようだし、パイプオルガン状になった空調により不穏な音が響く状況は、いまにも倒壊しそうな風の抜けを感じる。
しかし、そんな部屋の壁の向こう側には清潔感のある静謐な白い部屋が端正に並んでいる。先ほどまで見ていた、壁も床も照明もまちまちだった思い思いの部屋とは異なり、こちらは規格化されていて、まるで既存住宅が一斉に集合住宅へ建て直されたかのようだった。
本展ではほかにも作品が展示されていたが、今回取り上げた2作品は、行き場のない既存住宅を抱えスクラップ&ビルドを描く機械でもあるのだろう。ゆえに、これらの部屋の鍵の行方といえば、解体されるその日まで誰かの家で使われずにしまわれているか、管理会社の棚の中で次の居住者を待ちわびているはずだ。
公式サイト:https://www.bankart1929.com/u35/
2023/07/23(日)(きりとりめでる)