2023年02月01日号
次回2月15日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』

発行所:新潮社

発行日:2021/02/25

本書のもとになったのは、2019年からおよそ1年半にわたって『新潮』に書き継がれたエセーである。そのタイトルに違わず、著者がこれまでに行った「さびしい町」をめぐって書かれた文章だが、その内容はよくある旅行記のたぐいとは一線を画している。

著者・松浦寿輝(1954-)のこれまでの仕事を多少なりとも知る読者であれば、本書に登場する地名にヨーロッパ以外の町が多数含まれていることに、いささか意外な心持ちがするだろう。パリ十五区、ヴィル=ダヴレー、シャトー=シノンといったフランスの地名も登場しないわけではないものの、むしろ本書の大半は、イポー(マレーシア)、ニャウンシュエ(ミャンマー)、長春(中国)、江華島(韓国)といったアジアの国々の地名で占められている。加えて、上野や中軽井沢といった著者の生活圏と結びついた地名もあれば、過去に作家・研究者として滞在した北米のタクナ、ドーチェスターといった地名もある。本書では、これら数々の「さびしい町」でのエピソードとともに、著者の公私にわたる記憶がさまざまに綴られる。「わたしが行ったさびしい町」というだけあって、ひとつひとつの町に、何か大きな特徴があるわけではない。むしろ本書の読みどころは、そうした町の名前に結びついた、著者その人の個人的な記憶にある。

いささか回りくどい言い方になるが、本書がありふれた旅行記のたぐいと一線を画している理由は、ここに書かれたことが、それぞれの「町」について何か有益なことを教えてくれるわけではないからだろう。先にも書いたように、本書において印象的なのは、それぞれの町を訪れたときの著者の心境や、その時々の人生の濃淡が、ちょっとした昔話のように現われては消えていくことだ。ものによっては半世紀以上前の記憶もあるのだから、それはいつも鮮明なものであるとはかぎらない。いや、たとえ比較的近い時期のものであっても、著者の記憶は全体的にどうも心もとない。

そのようなとき、本書では著者がウィキペディアなどで「調べてみた」事実がしばしば挟み込まれる。わざわざそんなことを書く必要はないではないか、と思うむきもあるかもしれない。だが、むしろ本書の叙述において肝要なのは、そうした「経験」と「情報」の隔たりであると言えるだろう。考えてみれば、ここに登場する「さびしい町」での記憶のほとんどは、iPhoneもGoogleマップもなかった時代のそれである。対して、いまや当地の情報を手繰り寄せようとすれば、さしたる労力もなく、いくらでもそれを手元に呼び出せる時代になった。しかし、往時の経験がGoogleマップの客観的な情報に還元されることはないし、ましてそのとき自分がいかなる心境にあったかという実感は、とうてい復元しえるものではない。のちに著者が詩集のタイトルに掲げるほどに想像力を掻き立てられたというソウルの「秘苑(ビウォン)」が、Googleの検索結果ではあえなく焼き肉屋のサイトに押しのけられてしまうという挿話(185頁)も、ユーモラスでありながらそこはかとない悲哀をさそう。

本書で幾度も吐露される「さびしい町」への偏愛は、この著者の熱心な読者にとってさほど意外なものではないだろう。また、「さびしさ」そのものをめぐる著者その人の考えも、後半にむかうにつれ次第に明らかになっていくにちがいない。とはいえ、そうした堅苦しいあれこれは措くとしても、本書はとにかくめっぽう面白い。これが凡百の旅行記と一線を画すということはすでに述べたとおりだが、「ナイアガラ・フォールズ」と「タクナ」の章で綴られるアメリカ横断旅行のエピソードや、「アガディール」の章での命からがらのモロッコ旅行など、読みどころを挙げていけばきりがない。ここに漂っているのは、やはり個人的な回想を多分に含んだ旧著『方法序説』(講談社、2006)などよりもはるかに優しい雰囲気であり、かつて著者の文体の特徴をなしていた厳しい断言は、ときおり括弧のなかで控えめに呟かれるのみである(14、23頁など)。そうした文体上の変化は、著者がこれをはっきり「余生」や「老境」の認識と結びつけていることと、おそらく無縁ではないだろう。

2021/04/05(月)(星野太)

石松佳『針葉樹林』

発行所:思潮社

発行日:2020/11/30

2019年に第57回現代詩手帖賞を受賞した石松佳(1984-)による第一詩集。2021年3月には本書によって第71回H氏賞を受賞しており、第一詩集としては異例なことに、発売から半年を待たずして初版分は完売している。

じっさい本書を手にとってみると、ここに収められた作品が、多くの読者を魅了するのも大いに頷ける。ひとつひとつの詩が浮かび上がらせる情景は、よくある散文的フィクションの陳腐さからも、不必要に凝った現代詩の晦渋さからも、はるかに遠いものである。ひとことで言えば、ここにある言葉にはいっさい無理がない。本書を評するあれこれのなかに、「軽やかさ」や「まぶしさ」といった形容がしばしば見られる理由も、おそらくそのあたりに見いだされるだろう。

若干ながら、具体的な作品にも立ち入ってみたい。本書の栞で松下育男が書いているように、この詩集ではまず何よりも直喩のめざましさが際立っている。たとえば次のような一節。「ひとつの精神に対して、身体は買い物籠のように見透かされていたかったのだが。今日は茄子が安いよ、と言われて、手に取る」(「梨を四つに、」)。いささか無粋な説明を加えるなら、この一節の驚きは、前半で「身体」の喩えとして登場した「買い物籠」が、後半の買い物の情景でとたんに実体に転じている──ように読める──ことにある。前出の松下が評するように、ここには「喩えるものが喩えられるものと同じ濃さで現れてくる」、あるいは「喩えたものが喩えられたものの現実を、そのまま引き継いでしまう」という奇妙な世界が立ち現われている(松下育男「直喩と透明と小さな差異」本書栞)。

しかし、これらの作品においてもっとも特徴的なのは、むしろ先の一節に典型的に見られるような、ごく小さな接続語(「……のだが」)を介した不意の飛躍ではないだろうか。同じ「梨を四つに、」という作品は次のように始まっている──「梨を四つに、切る。今日、海のように背筋がうつくしいひとから廊下で会釈をされて、こころにも曲がり角があることを知った。そのひとの瞳には何か遠くの譜面を読むようなところがあり、小さな死などを気にしない清々しさを感じたために無数にある窓から射し込む陽光が昏睡を誘ったけど、それはわたしの燃え尽きそうな小説だった」(30頁)。

見てわかるように、後半に進むにつれて、ひとつひとつのセンテンスが長くなっている。ここには「会釈をされて、」「誘ったけど、」といった順接・逆接による情景のスイッチがあるが、その前後はおよそ論理的に繋がっているようには見えない。とはいえこれを一読してみたとき、この前後の流れがまったく連続性を欠いたものであるとも思えない。先に「ここにある言葉にはいっさい無理がない」と言ったのは、つまりそういうことである。これはおそらく、「背筋」「会釈」「曲がり角」、あるいは「死」「陽光」「燃え尽きそうな」といった言葉のふくらみが、論理とは異なるゆるやかな連続性を保っているからだろう。ただしそれは単語の羅列ではなく、あくまでも「……して、」「……けど、」のような接続語をともなった文章のかたちで連鎖するのだ。

いったんそのような目で眺めてみると、本書所収の詩篇のいたるところで「……して、」「……けど、」のような接続表現がやたらと目立つことに気づくだろう。これらは文法的な説明としては接続語ということになるのだろうが、同じく栞で須永紀子が指摘するように、これらの語彙を順接や逆接といった単一の機能に還元することは、実のところむずかしい(須永紀子「喩がひらく詩」本書栞)。この「……して、」「……けど、」のような比喩ならざる比喩、ごくわずかな一、二音節からなる接続語こそが、本書の見事な直喩の数々を、その根底において支えている当のものではないだろうか。

2021/04/05(月)(星野太)

須藤健太郎『評伝ジャン・ユスターシュ──映画は人生のように』

発行所:共和国

発行日:2019/04/25

本書『評伝ジャン・ユスターシュ』は2019年4月に刊行された。いまだ謎の多いフランスの映画作家についての──日本語では初となる──モノグラフであり、昨年(2020年)の表象文化論学会賞、渋沢・クローデル賞奨励賞を立て続けに受賞した。末尾の謝辞にある通り、本書は2016年にパリ第三大学に提出された著者の博士論文(Jean Eustache : génétique et fabrique)がもとになっている。その学術的な達成がいかほどのものであるかは、その華々しい受賞歴が示す通りだ(いずれも選評がオンラインで公表されている)。だが、本書はすぐれた学術書であると同時に(あるいはそれ以上に)、ユスターシュの映画を愛する者にとって、あるいは映画一般に関心を寄せる者にとって必携の一冊である。刊行後すでにさまざまな媒体で取り上げられているが、著者とほぼ世代を同じくする人間として、いくぶん個人的な回想も交えつつ本書を紹介することにしたい。

現在、ジャン・ユスターシュ(1938-81)という作家について、いったいどれほどのことが知られているだろうか。約3時間半におよぶユスターシュの長篇『ママと娼婦』(1973)が日本で初めて劇場公開されたのは1996年のことである。その後、2001年には特集上映「ジャン・ユスターシュの時代」がユーロスペースで開かれ、『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『ママと娼婦』『ぼくの小さな恋人たち』『不愉快な話』『アリックスの写真』の6作品が上映された。その後、幻の作品『ナンバー・ゼロ』が発見され、2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されたことは大きな話題となった。その後、わたしの知るかぎり、ユスターシュの映画がまとまって上映される機会はしばらくなかったが、2019年にはふたたびユーロスペースとアンスティチュ・フランセ東京で特集上映が行なわれた。本書『評伝ジャン・ユスターシュ』の刊行計画も、この特集上映と同時進行で進められていたという(第11回表象文化論学会賞「受賞者コメント」より)。

ユスターシュはわずか2本の長篇映画と、数本の中篇映画・ドキュメンタリー作品のみを残して、1981年11月に拳銃自殺した。初長篇『ママと娼婦』は1973年のカンヌ国際映画祭で複数の賞を受賞するなど批評的な成功を収めたが、つづく『ぼくの小さな恋人たち』(1974)は公開当時にかならずしも好評をもって迎え入れられたわけではなかった。何より、後述する複雑な権利問題により、ユスターシュの死後に生まれた世代がその作品を実見できる機会はきわめて乏しかった。東京都内にかぎって言えば、2001年の特集上映以来、前述の2本の長篇が上映される機会はままあったため、その限られた機会に劇場に足を運んだ者も多かったはずである。本書はまず、そうしたユスターシュの映画に魅了された観客にとって待望の一冊として現われた。

本書は、ユスターシュの作品について、現在アクセスしうるあらゆる資料と、関係者への膨大なインタビューをもとに書かれた、きわめてスリリングな一書である。ユスターシュという作家をめぐる今日の評価は揺るぎないものであるが、先に挙げたような制約もあって、実際にその作品に接するには大きなハードルがある。それもあってか、42歳で亡くなったこの映画作家に捧げられた書物は、仏語や英語でもけっして多いとは言えない。まして、これだけ多くの関係者にインタビューを行ない、各作品の制作背景をはじめとする事実を明らかにした書物は、おそらく今後も存在しえないだろう(なぜなら本書の調査・執筆時においてさえ、すでに鬼籍に入っていた者が少なくなかったのだから)。

さらに言えば、読み物としても非常に魅力的な本書は、ユスターシュの映画にふれたことのない読者をも、大いに興奮させることだろう。先述したように、ユスターシュの作品は、日本で一時期発売されていた──現在では入手困難な──DVD-BOXを除けば、いっさいソフトになっていない。しかしその一方で、現在ではそのほとんどが英語字幕つきでYouTubeにアップされている。こうした奇妙な状況の中心にいるのが、現在ユスターシュの作品の権利をもつ次男ボリス・ユスターシュである。本書では、この次男のみならず、『ナンバー・ゼロ』の被写体であるユスターシュの祖母オデット・ロベール(第二章)、『ママと娼婦』の登場人物マリーのモデルであり、初号試写の直後にみずから命を絶ったカトリーヌ・ガルニエ(第七章)、『不愉快な話』をはじめとする数作品に出演するなど、公私ともにユスターシュの重要な友人であったジャン=ノエル・ピック(第八章)など、この映画作家の周囲にいた人物たちに次々と輪郭が与えられる。

本書は「ジャン・ユスターシュの伝記」ではなく、あくまでその「作品の伝記」であると著者は言う(12頁)。ユスターシュは「カメラが回れば、映画はひとりでにできあがる」として、映画における「作者」の概念を否定した。これはこれでひとつの美学であろうが、しかし少なくとも文章の場合、そこでは一定のオートマティスムに基づく映画よりもはるかに「作者」の介入が必要とされることは言うまでもない。この「作品の伝記」という困難な試みを可能にしているのは、ほかでもなく、この著者の堅実かつ魅力的なエクリチュールである。

★──このあたりの詳しい事情については、須藤健太郎×廣瀬純の対話「ジャン・ユスターシュとは誰か? 人生は映画のように[前篇]」(『Digging Deep|共和国のウェブマガジン』2019年11月12日公開)を参照のこと。

2021/02/08(月)(星野太)

蓮實重彦『言葉はどこからやってくるのか』

発行所:青土社

発行日:2020/10/30

本書は、蓮實重彦の著書のなかでもいささか特異な印象を与える。この1936年生まれの著者がこれまで上梓してきた書物は、単著・共著・編著などをあわせてゆうに100冊を超えるが、本書はそれらとまぎれもなく通底する一書であると同時に、そのいずれにも似ていない。本書の主題は、映画でも、文学でも、はたまたそれ以外の何かでもない。厳密にはそのいずれでもあるのだが、まず本書に収められたテクストが、特定の分野や領域に集中してはいないということをはじめに確認しておきたい。

本書は全Ⅲ部からなる。本書のメイン・パートである第Ⅰ部には、2016年の「三島由紀夫賞受賞挨拶」にはじまり、同年の『新潮』に掲載された受賞記念インタビュー「小説が向こうからやってくるに至ったいくつかのきっかけ」、2003年の『ユリイカ』のロラン・バルト特集に収められたインタビュー「せせらぎのバルト」、同じく2004年の『ユリイカ』を初出とするインタビュー「零度の論文作法」、さらには1992年のAny会議(湯布院)で発表されたド・モルニー論「署名と空間」、そしてさらにさかのぼること1989年の共著『書物の現在』所収のインタビュー「『リュミエール』を編集する」の6篇が収められている。

このように、時代もテーマも多種多様であるが、それは本書の成立経緯じたいが「著者自身が好んでいながら、まだどの書物にも収録されていないあれこれのテクスト」(334頁)を集めたものであるという事情に拠っている。しいていえば、これらはいずれも「語りおろし」を初出とするという点では共通している。「署名と空間」のみ、かぎりなく論文に近い講演原稿であるが(初出は『Anywhere』NTT出版、1994)、これもやはり、ある特殊な状況において発せられたパフォーマティヴな言葉であるという意味では性格を同じくしている。また、大学行政についての話題が中心である第Ⅱ部も、リベラルアーツや映画をめぐる第Ⅲ部も、時々の求めに応じてなされたインタビューであるという点では第Ⅰ部と相違ない。その意味で、本書所収のテクストは緩やかな統一をみせているとも言えよう。

しかし、著者が過去にそのような書物を発表してこなかったわけではない。はじめに、本書が「いささか特異な印象を与える」と言ったのは、第Ⅱ部に収められたテクストの性格に拠るところが大きい。ここに収録されている「「革命」のための「プラットフォーム」」と「Sustainability」は、いずれも著者が東京大学総長という立場で行なった公的なスピーチであり、なぜこれらが本書の収録テクストとして選ばれたのか、という疑問は残る。しかも、これらはすでに『私が大学について知っている二、三の事柄』(東京大学出版会、2001)という単著に収められており、「まだどの書物にも収録されていない」テクストというわけでもない。したがって、おそらくこの二篇は、続く「「AGS」をめぐる五つの漠たる断片的な追憶」というテクストの関連で再録されているのだろう、というのが自然な推論である。不思議なことに、この後者のテクストを収めているという──「初出一覧」(337頁)に挙げられた──文献『AGSの記録』(東京大学AGS推進室、2020)は、これを書いている時点では一般に公表された形跡はなく、おそらく存在するにしても広く流通している媒体ではないのだろう。東京大学が海外の諸大学と結んでいるAlliance for Global Sustainabilityを意味するらしいこの「AGS」というプラットフォームをめぐって書かれたこの回想録に、著者がいかなる思い入れを持っているのか──こればかりは、それぞれの読者がテクストの端々から想像するほかない。

いずれにしても、あるときは『伯爵夫人』(新潮社、2016)により三島由紀夫賞を受賞した小説家として、あるときは『季刊リュミエール』(筑摩書房、1985-88)の編集長として、またあるときは東京大学総長(1997-2001)として、それぞれ異なる立場のもとで書かれた(語られた)これらのテクストが、いずれもめっぽう面白いものであることには心底驚かされる。本書のあちこちを開くたびに評者の脳裏をよぎったのは、これほど読み手の意表をつく言葉がいったい「どこからやってくるのか」という、ただしく本書の表題にもなっている問いであった。

2021/02/08(月)(星野太)

小林康夫『《人間》への過激な問いかけ──煉獄のフランス現代哲学(上)』

発行所:水声社

発行日:2020/09/30

長年にわたり、フランスの思想や文化と密接な関わりを持ちつづけてきた著者が、20世紀後半のフランス哲学を「人間」へのラディカルな問いとして総括した書物。その上巻にあたる本書では、おもにバルト、フーコー、リオタールの三者について過去に発表された時評的な文章が集められている。

本書は三部からなるが、第I部「フランス現代哲学の星雲」が、本書全体の導入にあたる。そこには、著者が80年代以降に著した数本の概説的なテクストが配されているのだが、それら「《人間》の哲学」や「《ポスト・モダン》の選択」──ともに初出は1987年──こそが、本書のトーンを決定していると言っても過言ではない。本書の表題に含まれる「人間」という言葉が重要な意味を担うのも、まずはそこにおいてである。

著者によれば、20世紀後半のフランス哲学をあえてひとつの言葉によって特徴づけるなら、それは最終的に「人間」という言葉へと帰着する。これは、いささか驚くべきテーゼだろう。というのも、ひじょうに大まかに言って、実存主義のあとに台頭した構造主義──およびポスト構造主義──には、むしろ既成の意味での「人間」を後景に追いやることによって展開してきたというイメージがあるからだ。「構造」にせよ「記号」にせよ「テクスト」にせよ、そこで探求されていたのは個々の主体に回収されることのない非人称的な次元であり、その意味で「人間」は世界の中心からの退位を余儀なくされていたとも言える。

しかし著者は、グザヴィエ・ティリエット(1921-2018)がメルロ=ポンティに捧げた「人間の尺度(la mesure de l’homme)」という表現に合図を送りつつ、そこで問われていたのは、あくまで「人間」をめぐる問いにほかならなかったと指摘する。なるほど、かつて「構造」や「記号」や「テクスト」といった合言葉のもとでなされてきた探求は、「人間」からその明証性を剥奪する営みと地続きであったと言ってよい。しかし同時にそれは、「現に生き呼吸している具体的な人間の尺度」をけっして忘れることがなかったし、超越的なものの探求においてなお「具体的な人間に注がれる眼差し」を手放すことがなかった(29頁)。本書のひとつの読みどころは、いまだフランス現代哲学が導入・紹介される途上にあった1980年代に、すでにそうしたことを指摘している著者の慧眼にある。

第I部と同じく、第II部(バルト、フーコー)、第III部(リオタール)も、著者の旧稿を新たに構成しなおしたものが大部分を占める。そのため著者の世代の仕事を追ってきた者にとって、そこにさほどの新しさは感じられないかもしれない。だが、70、78年の二度のフーコー来日に立ち会った著者の回想、さらにフランスおよび日本で行なわれたリオタールとの濃密な対話をはじめとして、ここには彼らのいまだ知られざる表情がある。そして、これまで単行本に未収録であったこれら数々のテクストから見えてくるのは、半世紀にわたりフランス哲学の「隣人」でありつづけてきた著者の「冒険」の軌跡である。あるいは本書の表現に拠るなら(8頁)、ここに読まれるのは、フランス現代哲学という星雲の「客観的なマップ」などではなく、むしろひとつの「内部観測」にほかならない。その意味で本書は、著者が言うところの「パッションに貫かれた《人間》」(29頁)が示しうる、ひとつのモデルでもあろう。

2020/12/03(木)(星野太)

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