2020年01月15日号
次回2月3日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ウィリアム・マルクス『文学との訣別──近代文学はいかにして死んだのか』

訳者:塚本昌則

発行所:水声社

発売日:2019/03/20

ここのところ、ウィリアム・マルクス(1966-)の著作の刊行が続いている。具体的には、一昨年の『文人伝』(本田貴久訳、水声社、2017)を皮切りに、今年に入ってからは本書『文学との訣別』と『オイディプスの墓』(森本淳生訳、水声社、2019)の2冊が立て続けに翻訳・刊行された(さらに付け加えるなら、同じ版元から昨年刊行された三浦信孝・塚本昌則編『ヴァレリーにおける詩と芸術』にもこの人物のヴァレリー論が収録されている)。今年4月にコレージュ・ド・フランス教授に選出されたこの比較文学者の書物が、こうして立て続けに日本語で読めるようになったことをまずは喜びたい。

本書『文学との訣別』は、近代ヨーロッパで生じた「文学」の拡張・自律・凋落の過程を、数々のエピソードとともにたどった魅力的な書物である。著者は、文学を同時代の社会状況に還元する単純な社会反映論からも、同じくその不変性を無自覚に措定する文学論からも等しく距離を取り、「文学」がこの間に被ってきた変遷をあくまでも具体的な場面に即して跡づける。18世紀末のヴォルテールの凱旋を象徴的な始まりとする文学への崇拝は、19世紀における大衆からの断絶を経て、20世紀に急速な価値の下落をみるに至った──おそらくこうしたストーリー自体は、さして新味のあるものではない。しかし、本書の何よりの美点は、文学の「自律性の獲得」(第3章)や「形式への埋没」(第4章)といった各場面を、さまざまな作家を例に綴っていく明晰かつ魅力的な文体にこそあるだろう。近代の文学史、ひいては芸術史の流れをあらためて振り返りたいと考える読者にとって、おそらく本書は最適な書物のひとつである。

2019/07/22(月)(星野太)

ミヤギフトシ『ディスタント』

発行所:河出書房新社

発売日:2019/04/20

現代美術家・ミヤギフトシ(1981-)の「デビュー作」と銘打たれた本書には、ミヤギが2017年より雑誌『文藝』に発表してきた「アメリカの風景」「暗闇を見る」「ストレンジャー」という三篇の小説が収録されている。それぞれの語りの視点こそ異なるが、その中心にいるのは、沖縄に生まれ、大阪の専門学校を経て、ニューヨークの大学で写真を学ぶ若きアーティスト志望の男性だ。これまでのミヤギの作品、とりわけ「American Boyfriend」というシリーズに触れたことがある者にとって、これらがいわゆる「私小説」のたぐいであることは一読して明らかだろう。

美術家による小説作品、というのは過去にも例がないわけではない。古くは「尾辻克彦」のペンネームで芥川賞を受賞した赤瀬川原平のような例もあれば、近いところでは『この星の絵の具』という三部作の自伝小説を刊行中の小林正人のような例もある。しかし、ミヤギフトシという作家にかぎって言えば、ここ数年の小説への進出はなかば必然的な流れであったのではないか、と思わせるところがある。というのも、ミヤギがこれまで発表してきた作品は、《The Ocean View Resort》(2013)や《花の名前》(2015)のような映像作品であれ、《Bodies of Water》(2014)や《How Many Nights》(2017)のようなインスタレーションであれ、映像・音楽・写真・オブジェ等の組み合わせにより立ち上がる、詩情あふれる物語性をつねに伴っていたからだ。

しかしそれゆえに、と言うべきか、本書を「現代美術家による小説作品」と形容することには一種のためらいもある。というのも、すでにみずからの青春の記憶を「American Boyfriend」というシリーズに託してきたこの作家の小説を、いわゆる通常の「私小説」と同一視することは不適切であるように思われるからだ。

本書『ディスタント』に収められた三作品は、さきにも触れたような語り手や一人称の変化をはじめ、隅々まで周到に書かれた見事な小説だ。しかしそのような印象のいくばくかは、作者自身の個人的な遍歴や、過去に公にされてきたこの作家の仕事を知っていることに由来しているのかもしれない(少なくとも本書が、美術家としてのミヤギフトシの作品をなかば前提としていることは明らかであるように思われる)。だとするなら、この小説はミヤギの「American Boyfriend」というプロジェクトの一部をなしていると考えるほうが、おそらく適切だろう。少なくとも筆者はこの小説を、映像作品、インスタレーション、トークイベントをはじめとする複数の形態を取ってきた、同シリーズの新たなる一歩として受け取った。先述のように、美術家が小説家として筆を執ること自体は過去にも例がないわけではない。だが、もともと現実と虚構のあわいを行くような作品を手がけてきたこの作家を知る者にとって、本書の占める位置はきわめて複雑なものとならざるをえない。率直に読めば、この物語はミヤギフトシが東京で美術家としての活動を始めるまでの、いわば前史に相当する。しかしそれは、いったいどこまでが「本当のこと」なのか──。いずれにせよ、これまでの「私小説的な」作品の上に重ねられたこの「私小説」の存在が、この作家が構築してきた作品世界をよりいっそう豊かなものにしていることは確かである。

2019/07/22(月)(星野太)

マルク・アリザール『犬たち』

訳者:西山雄二、八木悠允

発行所:法政大学出版局

発売日:2019/05/20

本書の著者マルク・アリザール(1975-)は、これまでポンピドゥー・センターやパレ・ド・トーキョーをはじめとする文化施設で、おもに現代美術に関連する仕事に従事してきた異色の哲学者である。ここ数年は本格的に執筆活動に転じ、『ポップ神学』(2015)、『天上の情報科学』(2017)、『クリプトコミュニズム』(2019)といったユニークな著書を立て続けに発表している(いずれも未邦訳)。とくに本書『犬たち』(2018)は、150頁ほどの小著でありながら、その主題の近づきやすさもあってか、フランス本国で大きな話題を呼んだ。後述するようにけっして易しい内容ではないものの、原書の売り上げは、哲学書としては異例の1万部に達したという。

そんな本書は、人間にとって犬という存在がいかに重要なものであるかを論じる、哲学的動物論である。本書を構成する各章では、クリフォード・シマックのSF小説『都市』や、フランツ・カフカの未完の短編「ある犬の探求」、ジル・ドゥルーズやダナ・ハラウェイによる犬をめぐる哲学的考察、さらにはディズニーの『わんわん物語』やエルジェの『タンタンの冒険』のような子供向けの作品までもが、次々と呼び出される(ちなみに本書には狛犬や忠犬ハチ公も登場する)。そればかりではない。はじめに見たこの著者の経歴から予想されるように、古典絵画(デューラー、ヴェロネーゼ、ベラスケス……)から現代美術(ジャコメッティ、ヘルマン・ニッチュ、ピエール・ユイグ……)に至るまで、芸術作品における犬の表象がふんだんに参照されていることも、本書の大きな特徴である。

著者アリザールの基本的な考えを要約するなら、ほかならぬ「犬」こそがわれわれ人間を作り出したのだ、ということになる。とりわけ、犬の人間に対する信仰が、人間の神に対する信仰と相同的であり、「犬、人間、神のあいだで互いに模倣し敵対し合う三角関係」こそ、「私たちが犬たちと結ぶ愛と憎しみの近代的な関係」の起源である、という一節などは印象的だ。より平たくいえば「神に愛されたいと望むように、私たちは犬を愛し始めた」のであり、一神教とともに「私たちは犬をもうひとりの自分として扱い始め」、それによって「幸福な愚か者という犬の近代的な形象が現れたのだ」(39-40頁)。

前出のハラウェイに代表されるように、犬が人間とともに進化してきた動物である、ということはこれまでにもしばしば言われてきた。アリザールもまたそれに同意するのだが、彼はそこから一歩すすんで、犬が人間の「誕生」に果たした役割を次のように言い表わしている。曰く「人間はある他の動物から進化した動物ではありえず、二つの動物のあいだでつくり出された関係の産物」にほかならない。そうだとするなら、「まさに自分の主人を発明した・・・・・・・・・・ことこそが、犬がおこなった真に決定的なこと、つまり犬の謎なのだと言わなければならないのではないだろうか」(77頁)。

以上のような明快な立場とは裏腹に、本書の道程はけっしてなだらかではない。挙げられる事例の多さに比して、ごく圧縮された短い考察をテンポよく繰り出す本書の文体は、おそらくそれなりに読者を選ぶものであるように思われる(商業的な成功を収めた哲学書の常として、フランス語で書かれた本書のレビューのなかには、絶賛に混ざってそれなりの数の呪詛が見受けられる)。また、犬にまつわる挿話を世界の神話、宗教、文学から幅広く渉猟する本書の拡がりは、著者が犬の美徳として挙げる「頑固さ」と「繊細さ」を、読者に対してもただしく要求することになろう。その道行きを助けてくれるのが、本書のほぼ全頁に見える充実した訳註である。原著には図や註のたぐいはいっさい見当たらないが、その不便を補うべく、本書にはいたるところに適切な図版と側註が添えられている。それらを導きの糸として、著者が十分に掘り下げていない犬をめぐるさまざまなトポスを開拓するのも、本書の楽しみ方のひとつであるだろう。

2019/06/09(月)(星野太)

筒井宏樹編『スペース・プラン 鳥取の前衛芸術家集団1968-1977』

発行所:アートダイバー

発売日:2019/04/15

スペース・プランとは、谷口俊(1929-)、フナイタケヒコ(1942-)、山田健朗(1941-)らによって結成された鳥取の芸術家集団である。1968年の「脱出計画No.1 新しい芸術グループ結成のために」という檄文をもって活動を開始したこの集団は、68年から77年にかけて、県内で計13回の展覧会を実施した。そのなかには、当時アメリカで勃興して間もないミニマリズム的な様式が数多く見られる。のみならず、その発表の場に選ばれた鳥取砂丘や湖山池青島での野外展示も、当時としてはきわめて先進的な試みであったはずだ。にもかかわらず、ほぼ一貫して鳥取を舞台としたこの芸術家集団の活動は、これまで専門家のあいだでもほとんど知られていなかった。その彼らの活動に光を当て、長期にわたる調査を経て本書を世に送り出したのは、ひとえに編者である筒井宏樹(鳥取大学准教授)の功績である。

本書の元になったのは、昨年鳥取で開催された展覧会「スペース・プラン記録展──鳥取の前衛芸術家集団1968-1977」(2018年12月7日(金)〜19日(水)、ギャラリー鳥たちのいえ)である。この展覧会は、前述のように一般には(あるいは専門家のあいだでも)知られざる存在であったスペース・プランの活動を紹介した、世界でもはじめての展覧会だった。筆者は幸いにしてこの展覧会を実見することができたが、2週間弱の会期のうちに、遠方から足を運ぶことのできた来場者はごく一握りだったのではないか。そうした事情も勘案すれば、同展に出品された多くの記録が、こうして一冊の図録としてまとめられたことの意義はかぎりなく大きい。

しかしそもそも、今あらためてスペース・プランという半世紀前の芸術家集団に注目する意義とは何なのか。そう訝しむ読者には、まずは編者による序論「スペース・プランとその時代」(6-11頁)の一読をすすめたい。そこでは、この地方の芸術家集団がなぜ68年という早い時期にミニマリズムへと接近しえたのか、そして、いかなる経緯により69年の鳥取砂丘での展示が可能になったのかが客観的な裏づけとともに語られる。なかでも、美術家・福嶋敬恭(1940-)を媒介とした、京都の「北白川美術村」とのつながりは興味深い。美術コレクターのジョン・パワーズの導きで64年に渡米した福嶋は、同地で兆しつつあったミニマリズムの萌芽をその目に収めている。その福嶋の中学時代の美術教師であったのが前述の谷口俊であり、その実弟が、同じくスペース・プランのメンバーであった福嶋盛人(1941-)であったというわけだ。北白川で聞いた福嶋の話に大きな衝撃を受けた谷口は、68年に《BLUE MEDIA》というミニマリズム的な作品を発表する。スペース・プランはこれを機に結成され、以後10年におよぶ数々の野外展示が実現されていった。

以上のエピソードは、関係者の多くが存命であるがゆえに可能になった、戦後美術の一側面を示す貴重な証言であろう。これ以外にも本書は、ひとりの研究者がいなければ確実に埋もれていたであろう、数々の貴重な資料に満ちあふれている。地方の前衛芸術家集団の再評価、ということで言えば、今から数年前に行なわれた「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」(国立国際美術館、2016-2017)を連想させなくもない。その「THE PLAY」展と同じく本書のデザインを手がけた木村稔将は、スペース・プランにまつわる雑多な写真や文書を巧みに配することで、忘却からかろうじて救い出された過去の記録に新たな生を与えている。現代美術における「地域性」や「コレクティヴ」があらためて問いただされる昨今の状況に鑑みれば、本書の刊行はまことに時宜を得たものであると言えよう。

2019/06/01(土) (星野太)

中島那奈子・外山紀久子編著『老いと踊り』

発行所:勁草書房

発売日:2019/02/20

野心的な論集である。本書『老いと踊り』の主題は、その簡素なタイトルがこれ以上なく適切に伝えているが、その背後に控える問題は複雑かつ重層的だ。そこでこの場では、おもに編者のひとりである中島那奈子の序章「老いのパフォーマティヴィティ」に即して、本書が射程に収める問題系をなるべく遺漏なく紹介しておきたい。

まず、ごく一般的な前提として、現代社会が過去経験したことのない規模で「老い」の問題に直面していることは衆目の一致するところだろう。とりわけ日本は、65歳以上の人口が約28%を占めるという超高齢化社会を迎えている。こうした時代状況のなかで、経済学や社会学のみならず、哲学をはじめとするヒューマニティーズの領域でも「老い」についての考察が着々と進められている(たとえばヌスバウムや鷲田清一)。そのうえで中島は、ダンス研究において老いの問題を主題化することに伴うパラダイム・シフトとして、さしあたり「技術的転回」(老いと生政治)、「美学的転回」(老いとアブジェクション)、「芸術的転回」(東西の舞いと踊りの相違を含む横断的アプローチ)の3つを挙げる(なお、丸括弧内のフレーズは筆者の観点からの概括である)。とくに最後の点に関しては、コンテンポラリー・ダンスを牽引してきたジャドソン教会派のダンサーの高齢化という個別的な事情にも触れられており、ここだけでも多くの示唆に富む。各分野の理論的な動向にも十分に目配りのきいた、文字通り本書の基調をなすイントロダクションである。

以上に象徴されるような主題の広がりが、本書をそれぞれ異なる関心をもつ読者に送り届けることに成功している。つまり、昨今ますます喫緊の課題となりつつある「老い」そのものに関心を寄せる者、あるいは従来の社会では周縁に置かれていた「老い」の美学的ポテンシャルに期待を寄せる者、さらには(コンテンポラリー・ダンスを中心とする)芸術ジャンルとしてのダンスにおける老いと表現の関係に関心を寄せる者——。読者はそれぞれの関心に応じて、全12章からなる各論にアクセスすることができるだろう。

他方、通読してやや気になったのは、本書の各論が、しばしば同じ話題や対象をめぐって旋回していたことだ。むろん「老いと踊り」というテーマに真摯に向き合おうとするとき、大野一雄、ピナ・バウシュ、イヴォンヌ・レイナーといった表現者たちの実践を抜きにすることはほとんど考えられない。だが、各論の事例がこれらの人々に集中することの意味は、おそらくまた別途考えられるべきだろう。若く屈強な身体を前提とする西洋の「踊り」と、伝統的に高齢者の身体を尊重する日本の「舞い」を比較対照するという視点についても、おそらく同様のことが言える。その意味でいえば、「番外編」と銘打たれたもうひとりの編者・外山紀久子による最終章「旅立ちの日のための「音楽」(ダンスも含む)」は、かならずしも踊りに照準を合わせたものではないものの、ファイン・アートの外にあるさまざまな芸術的実践に光を当てることで、本書のさらなる「先」を垣間見せるものであった★1

いずれにせよ、ダンスにかぎらず、芸術一般における「老い」の問題が未開拓の領域であることに変わりはない。本書は、編者たちの類稀なパトスによって、その未踏の領野を果敢に切り開くことに成功している。


★1──いくぶん個人的な註記になるが、筆者がこのようなことを考えた理由としては、かつてアーティストのミヤギフトシとの対話のなかで、ヴォルフガング・ティルマンスの個展「Your Body is Yours」(国立国際美術館、2015)における、アーティスト本人の(!)不格好なダンスを写した映像作品が話題になったことが関係しているように思われる。この話題は『美術手帖』2015年11月号における2人のクロスレビューがそれぞれ「老い」の問題を扱っていたことを直接的なきっかけとし、後に次のトークイベントへと結実している。星野太×堀江敏幸×ミヤギフトシ「老い、失われる記憶と生まれる物語」(VACANT、2016年11月27日)。

2019/05/14(火)(星野太)

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