artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ガルギ・バタチャーリャ『レイシャル・キャピタリズムを再考する──再生産と生存に関する諸問題』

翻訳:稲垣健志

発行所:人文書院

発行日:2023/01/30

本書は、イギリスの社会学者ガルギ・バタチャーリャ(1968-)の初の邦訳書である。バタチャーリャの専門は人種およびセクシュアリティの諸問題であり、英語ではすでに10冊を超える編著書がある。本書『レイシャル・キャピタリズムを再考する』(原著2018年)は彼女の最新の仕事のひとつであるが、その内容に入っていく前に、いくつか前提を確認しておく必要がある。

まず、「レイシャル・キャピタリズム」といういささか聞き慣れない用語は、アメリカの政治学者セドリック・ロビンソンの『ブラック・マルクシズム』(1983)に由来する。これは、資本主義が生みだす社会構造には、必然的にレイシズムが浸透するという考えかたである。『レイシャル・キャピタリズムを再考する』の訳者解題(342-353頁)によれば、このロビンソンの議論は従来そこまで注目されてきたわけではなかった。だが、2020年のジョージ・フロイドの死をきっかけとしたBLM(Black Lives Matter)への関心の高まりもあり、このロビンソンの議論にも近年ふたたび注目が集まっているという。むろん本書はジョージ・フロイド事件よりも前に書かれたものであるが、『ブラック・マルクシズム』をはじめとするロビンソンの議論に新たな光が当てられるいま、本書をひもといてみるのは時宜に適ったことであろう。

そのうえで言うと、本書はそのタイトルが示すように、レイシャル・キャピタリズムを「再考する(rethinking)」試みである。つまりここでは、資本主義があらかじめレイシズムを構造化しているというロビンソン的なテーゼは、なかば暗黙の前提とされている。本書は、資本主義とレイシズムの複雑な関係をより精緻に──すなわち、一見レイシズムとは関係のないようなところにまで視野を広げて──検討するための試みなのだ。その点を見落としてしまうと、なぜ本書が、フェミニズムやエコロジーといった多種多様な問題に多くの頁を割いているのかがまったくわからなくなってしまうだろう。

ここではさしあたり、本書のイントロダクションとして書かれた「レイシャル・キャピタリズムをめぐる一〇のテーゼ」に即して、その要点のみを見ておきたい。ここで明示的にのべられているように、バタチャーリャが「レイシャル・キャピタリズム」と呼ぶもののなかには、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、あるいは年齢などを通じた「他者化」と「排除」の手法もまた含まれる(19-20頁)。つまり、問題は帝国主義の時代における奴隷貿易や、近代において黒人たちが被ってきた職業差別の話にとどまる(べき)ものではないのだ。昨今しばしば耳にする言葉でいえば、本書でバタチャーリャは「交差性(インターセクショナリティ)」とよばれる複合的な差別や抑圧の存在を明らかにすることによって、ロビンソンのレイシャル・キャピタリズム論を現代的にアップデートすることを試みているのだと言えよう。

以上のような複雑なコンテクストが畳み込まれているがゆえに、日本語で本書を読む読者にはまず「緒言」(小笠原博毅)と「訳者解題」(稲垣健志)に目を通すことを勧める。バタチャーリャが巧みな表現でのべているように、「利益を追求するために規定された人種的な略奪」は、それに関わるわれわれ全員を道徳的に退行させる(34頁)。その一方で彼女は、そのような信念を共有しない読者に対して、以上のような「道徳的な問題」を押しつけるつもりはない、とも言う。いくぶん逆説的なことながら、ここに読み取られる暗黙のメッセージは次のようなものであろう──それは、読者の信念がどのようなものであるかにかかわらず、現実に・・・、資本主義の根幹には人種的な略奪が存在するということだ。本書は、これまでそうした問題を考える必要すらなかった人たち──たとえば極東にいるわれわれ──にこそ、届けられるべき書物である。

2023/06/11(日)(星野太)

アンジェラ・マクロビー『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』

監訳:田中東子

発行所:花伝社

発行日:2023/02/25

「創造的(creative)」という言葉が、行政文書のなかに目につくようになって久しい。2004年に始まったUNESCOの「創造都市ネットワーク」はすでに20年弱の歴史をもつが、これにかぎらず、今日において「創造(的)」という言葉は、国家や企業が推進する事業に完全に絡め取られている。おそらく、ひろく芸術に携わる誰もがそのことに気づきながら、この言葉が行政やビジネスの論理に掌握される様子を、なすすべもないまま眺めている。

本書『クリエイティブであれ──新しい文化産業とジェンダー』の著者であるアンジェラ・マクロビーは、ロンドン大学ゴールドスミス校で長らく教鞭をとったカルチュラル・スタディーズの研究者である。ポピュラー文化やフェミニズム理論を専門とし、昨年には『フェミニズムとレジリエンスの政治──ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』(田中東子・河野真太郎訳、青土社、2022)が訳出されている。

おもにロンドンとベルリンを対象とする本書は、ファッション、音楽、現代アートをはじめとする文化的労働についての研究書である。とはいえ、ここに書かれていることは、すでに「やりがい搾取」という言葉が定着して久しい日本語圏の読者にとってみれば、ごく馴染みのある事象ばかりであるかもしれない。マクロビーが本書において明らかにしようとしているのは、つまるところ、ファッションやアートのような「創造的な」労働の領域において、いかに容赦ない「やりがい搾取」が行なわれているかということだからだ。日本では過去、アニメーション制作会社の低賃金が大きく取り沙汰されたことがあったが、これにかぎらず、ひろく文化にかかわる世界では、当事者の「熱意」や「やりがい」に支えられるかたちで、低賃金(ないし無給)の長時間労働が横行していることは周知のとおりである。

もちろん、そこには国や地域ごとの特殊事情がないわけではない。たとえば、イギリスでは1990年代後半に、当時の労働党首相トニー・ブレアによって「クール・ブリタニア」という政策が大々的に掲げられた。そこでは、まさに映画や音楽をはじめとする「クリエイティブ産業」が、国を挙げた国際戦略の中心に躍り出たのだ。本書が描き出すロンドンのクリエイティブ産業の状況は、こうした政府主導の戦略と切り離せない。

本書の議論はけっしてひとつに収斂するものではないが、そのなかでいくつか本質的と思われるものを挙げておこう。第一に、クリエイティブ産業における「やりがい搾取」には、明らかにジェンダー的な不平等がある。本書序文で著者が描き出す当事者たちのプロフィールも、その大半が若い──なおかつ、イギリスの外からやってきた──女性たちである(マクロビーは、労働環境をめぐる従来の左派の言説が、この男女の境遇の違いを見落としてきたことをくりかえし指摘する)。第二に、前述したような「やりがいのある仕事」の多くは、その華やかなイメージと裏腹に、不安定な雇用や不十分な保障と背中合わせである。そのため、クリエイティブ産業を推進する政策は、若者たちに「やりがいのある」仕事を供給するかに見えて、その実、社会福祉の切り下げを行なっているというのも正鵠を得た指摘である。

最後に、著者はバーミンガム学派が主導してきたカルチュラル・スタディーズ(CS)の伝統に連なる一人として、これまでCSが政治的抵抗の場として見いだしてきた文化的な諸領域が、いまや経営・起業的な関心から「創造性」を涵養するためのもっとも効果的な学問へと転じてしまっていることを率直に認めている。著者の言葉でいえば、CSはおのれの功罪を問うべき「再帰的なカルチュラル・スタディーズ」(23頁)へと歩みを進める段階に来ているのだ。ブルデューやベックの「再帰的な社会学」に倣ったこうした問題意識は、今日なんらかのかたちで文化と教育、あるいは文化の教育に携わるすべての人間によって、ひろく共有されるべきものだと言えるだろう。

2023/06/07(水)(星野太)

浅沼光樹『ポスト・ヒューマニティーズへの百年──絶滅の場所』

発行所:青土社

発行日:2022/12/26

本書のもとになったのは、雑誌『現代思想』に連載された「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」である(2020年1月号から2022年3月号まで)。本書の「あとがき」にあるように、連載時から大幅な加筆修正がなされているが、かくも壮大な思想史的試みが途絶せず一書にまとめられたことを、まずは言祝ぎたい。

本書の表題における「ポスト・ヒューマニティーズへの百年」とは、第二次世界大戦前から今日までの約一世紀にほぼ重なると見てよい。著者・浅沼光樹(1964-)は、思弁的実在論をはじめとする今日の現代思想──そこでは副題にもある「絶滅」が、ひとつの主要な問いを構成している──を論じるにあたり、まずはそこにいたるまでの思想の場面をたどることから始める。それが本書第一部「二〇世紀前半」の内容である。そこで論じられるヤスパース、ハイデガー、田邊元、ジャンケレヴィッチ、西田幾多郎、パースといった面々をつなぐひとつの固有名──それが「シェリング」である。

フリードリヒ・シェリング(1775-1854)は、カント、フィヒテ、ヘーゲルらと並び、ドイツ観念論を代表する哲学者のひとりである。弱冠15歳でテュービンゲン神学校に入学を許可され、卒業後まもなく幾冊もの著書を執筆、20代のはじめにはすでに大学の教壇に立っていたこの早熟の哲学者は、カントやヘーゲルに比べるとその一般的な知名度ははるかに劣る。しかし近年、専門家による地道な研究の甲斐あってか、このシェリングの哲学体系が新たに注目を集めつつあるのだ。

事実、今世紀に入ってからの現代思想は、さながら「シェリング・ルネッサンス」の様相を呈している。とりわけマルクス・ガブリエル(1980-)、イアン・ハミルトン・グラント(1963-)の2人をその代表格として、ここのところシェリング再評価の気運は留まることを知らない。本書の著者もまた、シェリングを専門とする研究者のひとりとして、現代において甦ったシェリングの思想をさまざまな仕方で「使用」していこうとする。このあたりの経緯は第二部「二〇世紀後半から二一世紀初頭にかけて」に詳しい。そこでは、ホグレーベ、ジジェク、ガブリエル、ドゥルーズ、グラントにおけるシェリングの(隠れた)影響が指摘され、現代思想におけるシェリングの重要性が(再)確認される。

その重要性とは、端的に言っていかなるものなのか。著者の見立てでは、カントからヘーゲルへといたるドイツ観念論の「ループ」のなかで、その中間にいるシェリングこそが、この終わりなきループからの脱出の鍵を握っている。ただし本書では、この仮説の証明にすべてが捧げられることはなく、むしろ19世紀から21世紀にかけてのさまざまな哲学者の仕事のうちに、このシェリングの隠れた痕跡が見いだされていくのだ。前述のように、ハイデガー、ジャンケレヴィッチ、ドゥルーズといった大陸哲学の重鎮たちはもちろんのこと、そこから時間的・地理的に隔たった京都学派(西田幾多郎、田邊元)や思弁的実在論(メイヤスー、ブラシエ)の面々についても、それは例外ではない。おそらくほとんどの読者にとって、近現代哲学におけるシェリングの存在感をこれほどまでに感じさせてくれる書物はかつてなかったのではないか──本書を読んでいると、そのように思わされる。

とはいえ、本書はシェリングやポスト・シェリングの哲学について、まとまった論証をおこなうといった性格の本ではない。平明な書きぶりながら、しばしば大胆な飛躍を厭わない議論の連続なので、読者はテンポよく移り変わる話題の節々から、自分で何らかの糸口を見いだすことが求められるだろう(とりわけ第三部「ニヒリズムの時代」にそれは顕著である)。いずれにせよ本書『ポスト・ヒューマニティーズへの百年』が、ガブリエルをはじめとする現代思想のルーツ(のひとつ)としてのシェリングへと赴こうとする読者に対し、さまざまな示唆を与えてくれるものであることは確かである。

2023/04/03(月)(星野太)

鳥居万由実『「人間ではないもの」とは誰か──戦争とモダニズムの詩学』

発行所:青土社

発行日:2023/01/07

かつて『遠さについて』(ふらんす堂、2008)で詩壇に颯爽と現われた鳥居万由実(1980-)による、日本近代詩の研究書である。時期としてはおおよそ第一次世界大戦後から第二次世界大戦までを対象に、左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎、高村光太郎、大江満雄、金子光晴らの作品が論じられる。

本書に即して言うと、これらの詩人のあいだにある共通点は「人間ではないもの」へのまなざしである。序章によれば、1920年代から1930年代後半というのは、詩のなかに動物や機械といった「人間ではないもの」の表象が「爆発的に登場した」時代であるという(14頁)。この言い方がひとつのポイントなのだが、ここでいう「人間ではないもの」とは、時には無力で小さな「昆虫」であり、時には哺乳類をはじめとする「動物」であり、またあるときには工場で騒音を発する「機械」である(ただし、本書は生物学的な分類にもとづき、昆虫も魚類も鳥類も哺乳類もすべて「動物」に括っている)。戦間期におけるさまざまな詩人の作品を「人間ではないもの」というキーワードによって新たに捉えなおしたところに、本書のオリジナリティがある。

だがそもそも、そのようなテーマを設定する理由とは何なのか。それは、当時の日本における「主体」の問題と分かちがたく結びついている。本書は大きく、モダニズム詩を論じた第一部(左川ちか、上田敏雄、萩原恭次郎)と、戦時期の詩を論じた第二部(高村光太郎、大江満雄、金子光晴)からなる。各章はいずれも独立した作家論として読みうるものだが、これらを束ねる大きなキーワードが「主体」であることは、本書の端々で明示される。著者の見立てでは、動物や機械が何らかの寓意や象徴をともなって登場するのは、「主体」がうまく機能していないとき、あるいは「主体」を離れたところから言葉が発せられるときである(16頁)。より平たく言えば、安定したアイデンティティをともなった「主体」が何らかの理由により揺らいでいるとき、あるいは国家などにより仮構された「主体」──たとえば「国体」──が批判されるべきものであるとき、動物や機械といった「人間ではないもの」が頻繁に登場してくる。おそらくそのように言えるだろう。

そのような全体像を確認したうえで言えば、本書の眼目は、やはり個々の作家論にある。なかでも「ジェンダー規範と昆虫──左川ちか」(第一部第一章)と「『人間ではないもの』として生きる──金子光晴」(第二部第四章)を個人的には興味深く読んだ。前者は、昨年『左川ちか全集』(書肆侃侃房、2022)が刊行されたばかりの詩人についての力強い論攷であり、後者は、戦時下の情勢に抵抗する姿勢を崩すことのなかった例外的な詩人における、さまざまな「非−人間」の表象を包括的にたどったものである(蛇足めいたことを付け加えれば、この「非−人間」のうちに「神」も含まれることがきわめて重要である)。かりに全体を束ねるコンセプトに引っかかるところがなくとも、冒頭に列挙した戦間期の詩人たちに興味のあるむきには一読を勧める。

2023/04/03(月)(星野太)

王欽『魯迅を読もう──〈他者〉を求めて』

発行所:春秋社

発行日:2022/10/19

本書のタイトルを見たとき、いくぶん意表を突かれる思いがした。「魯迅を読む」ではなく、「魯迅を読もう」である。このタイトルは、文字通りに取れば、読者に対して「ともに」魯迅を読むことをうながしているかに見える。事実そうなのだろう。だが、「魯迅を読もう」というこの誘惑の背後には、もうすこし複雑なコンテクストが畳み込まれているように思える。

魯迅(1881-1936)と言えば、日本への留学経験もある、中国近代文学におけるもっとも重要な作家である。したがって、中国語や日本語のみならず、英語でも魯迅についての書物や論文のたぐいは豊富にある(個人的にも、魯迅を専門とする英語圏の研究者にはこれまで数多く会ってきた)。さながら日本における夏目漱石のごとく、中国の近代文学を話題にするうえで、およそ魯迅を避けて通ることなどできない。これはいまや世界的な事実である。

ひるがえって、いまの日本語の読者のあいだに、魯迅を読もうという気運はどれほどあるだろうか。日本とも縁浅からぬこの作家への今日的な無関心が、著者をして本書を書かしめた最大の要因であるように思われる。

むろん、過去には竹内好の仕事をはじめとして、日本語で読める魯迅のすぐれた訳書・解説書は現在までに数多く存在する。だが、本書の著者である王欽(1986-)のアプローチは、これまでに存在した魯迅の解説書とはいくぶん毛色を異にするものだと言えよう。著者は中国・上海に生まれ、ニューヨークで学業を修め、現在では東京で教鞭をとる研究者である。つまり本書は、中国語を第一言語とし、英語圏の批評理論にも精通した著者が、あえてみずから日本語で書いた本なのである。

本書は、魯迅の『阿Q正伝』をはじめとする小説から雑文にいたるまでの全テクストを視野に収めた、堅実な解説書である。ただし、そこでは中国語や日本語による文献に交じって、ベンヤミン、ド・マン、デリダを援用しながら議論を進めるくだりが散見される。こうした批評理論を噛ませたアプローチには賛否あるだろうが、すくなくとも今日の英語圏における魯迅の読まれかたとして、本書のような「釈義」(11頁)による方法はむしろ王道に属するものであるように思われる。

個人的には、『村芝居』『凧』『阿金』といった比較的マイナーなテクストを論じた後半の議論を興味ぶかく読んだ。全体的に、編集の目が行き届いていないがゆえの誤字脱字も散見されるが、本書のようなすぐれた書物が日本語で著されたことの意義は、それを補って余りあろう。本書の読後、きっと読者は魯迅を「読もう」という気にさせられる──その点において、本書の目論見は十分に達成されているように思われる。

2023/02/09(木)(星野太)