2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学──混合の形而上学』

翻訳:嶋崎正樹

発行所:勁草書房

発行日:2019/08/30

本書の著者エマヌエーレ・コッチャ(1976-)は、イタリアに生まれ、現在はパリの社会科学高等研究院(EHESS)で教鞭を執る哲学者である。もともとは中世哲学の専門家として『イメージの透明性(La trasparenza delle immagini)』や、『天使(Angeli)』(ジョルジョ・アガンベンとの共編)をはじめとするさまざまな仕事を手がけてきたが、ここ数年は本書『植物の生の哲学』(2016)や『変身』(2020)をはじめとする、より一般的なテーマの著書により注目を集めている。昨今のコロナウィルス問題をめぐって、『リベラシオン』をはじめとする複数の媒体にコメントを寄せていることからも、同時代の哲学者としてのコッチャの知名度がうかがえるだろう。

さて、本書『植物の生の哲学』については、いくつかの紹介の仕方が考えられる。まず、人間および動物を中心としてきた従来の「生の哲学」に対する何らかのオルタナティヴを模索する読者にとって、本書の議論は大いに示唆に富むはずである。むろん哲学だけではない。生物学をはじめ、およそ「生」に関わるあらゆる学問において周縁に置かれてきた「植物の生」について新たな認識を得たいと願う読者にとって、本書は格好の入口となるはずである。

しかし本書の射程はそれにはとどまらない。著者コッチャの立場は、これまで相対的に軽んじられてきた「植物の生」を尊重しよう、といった程度の「穏当な」ものではないからだ。著者によれば、植物はこの世界にある生のうち、もっともラディカルな形態であるという。なぜか。それは植物こそが、人間や動物よりもはるかにこの世界に「密着」しており、周囲の環境と「溶け合って」いるからである。ゆえに「植物は、生命が世界と結びうる最も密接な関係、最も基本的な関係を体現している」(6頁)。

こうした見通しのもと、本書では植物における運動や四肢の不在が、まるごと肯定的なものとして捉えなおされることになる。植物は動物のように行為によって、あるいは人間のように意識によって、この世界に変化をもたらすのではない。むしろ植物は世界に「浸ること(immersion)」によって、さまざまな生が混合する環境そのものを作り上げている。植物に着目することではじめて見えてくるこの「混合の形而上学」こそ、コッチャが本書において提唱する新たな自然哲学なのだ。

つまるところ本書が提案するのは、呼吸、流体、混合といったキーワードをもとに世界を捉える、壮大なコスモロジー(宇宙論)であると言ってよい。本文の記述そのものは一貫して軽やかだが、全体に散りばめられた註の端々からは、同時代の思想的潮流──たとえば思弁的実在論──への容赦のない批判も垣間見える。本書の最終章(第15章)が唐突に哲学論によって締めくくられているのも、故なきことではない。「植物の生」をめぐる哲学は、最終的に、われわれの従来の思考の枠組みそのものの転換をともなわざるをえない──いくぶん簡略的なかたちながら、本書はそのようなところにまで届く、遠大な問題系を描出している。

2020/06/01(月)(星野太)

パオロ・ダンジェロ『風景の哲学──芸術・環境・共同体』

訳者: 鯖󠄀江秀樹

発行所:水声社

発行日:2020/02/20

イタリアの美学者、パオロ・ダンジェロ(1956-)が「風景」を論じた哲学書。本書の訳者あとがきによれば、著者ダンジェロはヘーゲルやシェリングといったドイツ・ロマン主義の思想から出発し、1990年代から現在にいたるまで、近現代哲学、視覚芸術、環境美学などをめぐる数々の著書を発表してきたという(本書が初の邦訳である)。

本書は全体で九章からなり、映画(第二章)、現代美術(第三章)、環境美学(第四〜六章)、法制史(第七章)といった複数の分野を横断しつつ「風景(paesaggio)」の問題が論じられる。ここではそのすべてにふれることは不可能なので、分量的にも内容的にも本書の中心をなす「風景の哲学のために」(第一章)から、本書をつらぬく基本的なスタンスを紹介しておくにとどめたい。

何気なく本書を手にとった読者は、一読して、その問いの所在がどこにあるのか、いささか判然としない印象を受けるかもしれない。著者ダンジェロは、哲学者ヨアヒム・リッターの古典的文献「風景」(1962)をはじめ、過去に風景をめぐって書かれてきたさまざまな文献を博捜しつつ、これを絵画、環境、歴史、感情、アイデンティティといった複数のキーワードに絡めて論じる。そのため著者その人の立場が見えにくくなっていることも事実だが、私見では、以上のようなトピックの広がり自体が、何よりも著者の「風景の哲学」にたいするスタンスを表わすものである。

どういうことか。ダンジェロが指摘するように、従来の「風景の哲学」においては、その経験を性急に「絵画」や「環境」に還元する姿勢が見られた。前者の立場は、風景を描いた絵画──ないしそれを写した写真や映画──こそが現実の風景の見方を規定する、というパラドクスに依拠している。言うなればこれは、著者も引用するオスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という有名なパラドクスによって特徴づけられるものである。他方、後者の立場は80年代に台頭した環境美学などに見て取れるものであり、美学者アレン・カールソンが唱える風景の「環境的パラダイム」がこれに相当する。これも「風景=絵画」論とはまた異なるしかたで、風景をめぐる錯雑な経験を──自然科学の対象としての──「環境」に還元するものだと言えよう。

ひとつはっきりしているのは、本書でダンジェロが批判をむけるのが、こうした還元主義的な風景論であるということだ。そのなかで比較的好意的に取り上げられるのが、ゲオルグ・ジンメルが風景の統一基盤として名指した「気分」、そしてヘルマン・シュミッツやゲルノート・ベーメといった現象学者たちによる「雰囲気」をめぐる議論である。それによれば、「主体と客体の邂逅によって成立」する「半−モノ(semi-cose)」としての雰囲気こそ、私たちの風景の知覚を特徴づけるものである(63頁)。

とはいえ先述のように、本書では、風景をめぐる多様な経験を特定の理論に落とし込むことにはたえず警戒が払われている。本書後半において、風景をめぐる議論が法、国家、農業の問題にまで広げられていくさまには、いささか散漫な印象を抱くかもしれない。しかし風景を美学的に考察するということは、私たちが風景を「認識論的な経験」や「純粋に五感的な経験」とは違ったかたちで、すなわち感情、記憶、アイデンティティといったさまざまな構成要素に依拠しながら経験しているという事実から出発することにほかなるまい(24頁)。本書はその企図を、たんなる理念としてではなく、まさしく記述のレヴェルで示している。

2020/04/07(火)(星野太)

井上雅人『ファッションの哲学』

発行所:ミネルヴァ書房

発行日:2019/12/30

ファッションの「哲学」というそのタイトルに違わず、全体を通して非常に大きな問いに貫かれた一冊である。デザイン史・ファッション史・物質生活史を専門とする著者が、これまで執筆してきた文章をもとに書き下ろしたという本書は、平易な語り口ながら、ファッションをめぐる諸問題にきわめて有益な視座をもたらしてくれる。

本書の序文である「ファッションという哲学」において、著者はのっけから「ファッションとは、衣服のことではない」と断言する。それは「ものの見方、あるいは、世界の捉え方」であり、さらに具体的に言いかえるならば、「身体」と「流行」との関わりによって、「私たち自身や、私たちを取り巻く世界が、日々変化していくという世界観である」という(i頁)。

力強い言葉である。続けて著者の言葉を借りると、「ファッションの哲学」とは、「人間がどのように身体と付き合い、自分を取り巻く世界を把握し、自分自身を形成し、世界と関係しているかについての理解の仕方」のことである(ii頁)。端的に言えば、本書が謳う「ファッションの哲学」は、人間が姿をもった物体・・・・・・・としてどのように存在しているか、という問いに関わっている。著者が言うように、いわゆる「おしゃれ」に関心があるか否かを問わず、いかなる人もこの世に姿なく存在することはできない。その意味で、いかなる人間もファッションと無縁ではいられない──これは、きわめて説得力のある議論である。

従来の「ファッションの哲学」は、その国内におけるパイオニアであるところの鷲田清一をはじめ、しばしば「現象学的」と称されるような身体論に依拠することが多かった。それに対して本書が採用するのは、歴史的な事象に依拠した豊富な事例と言説である。それぞれ、コミュニケーションとしてのファッション(第1章)、身体とファッション(第2章)、物質文化史におけるファッション(第3章)、ビジネスとしてのファッション(第4章)、日常的な実践としてのファッション(第5章)といった多彩な切り口から、数多くの知見が導き出される。章のなかでも話題は次々と切り替わり、読者は必然的にリクルートスーツ、ミニスカート、コルセットなどをめぐるそれぞれのトピックについて、みずから思考をはじめるよう迫られる。

はじめにも述べたように、著者の語り口はきわめて平易であり、ほとんどの読者は本書を難なく読み通すことができるだろう。かといってそれは、本書が専門的な内容を欠いていることを意味しない。ここまで述べてきたような本書の性格は、リーダビリティへの配慮から意識的に選ばれたものであり、個々のトピックに関心をもった読者は、巻末の注から参考文献にアクセスできるよう、しかるべく工夫もされている。冒頭の大きな問いの設定にくわえて、全体に行きわたるそのような美点からも、ゆくゆくは文庫のようなかたちでの普及が望まれる一書である。

2020/04/04(土)(星野太)

ロドルフ・ガシェ『脱構築の力──来日講演と論文』

編訳者:宮﨑裕助

発行所:月曜社

発行日:2020/01/31

2014年11月、ニューヨーク州立大学バッファロー校の哲学者ロドルフ・ガシェ(1938-)が来日し、国内の複数の大学で講演を行なった。評者もそのいくつかに参加したが、ハイデガーやアーレントの精読を通じて一見ささやかな、しかし内実としては大胆かつスリリングなテーゼを打ち出していくその講演スタイルは、昨今の学術的な催事においてすっかり失われた光景であるように思われた。

その来日講演の原稿を再録し、関連するいくつかの論文を収めたものが本書『脱構築の力』である。本書は大きく前・後半に分かれ、第Ⅰ部「デリダ以後の脱構築」にはデリダとアメリカ合衆国におけるその受容を論じた「脱構築の力」「批評としての脱構築」「タイトルなしで」の3篇が、そして第Ⅱ部「判断と省察」にはアーレント論「思考の風」とハイデガー論「〈なおも来たるべきもの〉を見張ること」の2篇が収められている。「批評としての脱構築」(1979)と「タイトルなしで」(2007)をのぞく3本の日本講演は、来日後に上梓された英語の著書にそれぞれ組み込まれているようだが、それでもこれらが日本語オリジナル論集として1冊にまとめられたことの意味は小さくない。それはなぜか。

本書の「はじめに」から、ガシェが脱構築について述べた印象的な一節を引いてみよう。それによれば、主著『鏡の裏箔──デリダと反省哲学』(1986[未訳])や本書所収の「批評としての脱構築」をはじめとする「これらの著作のすべてにおいて」論じられているのは、脱構築とは「どんなテクストにも無差別に適用できるような文芸批評の方法」ではなく、「テクストの自己反照性や自己言及性を論証するというよりも、反照作用の可能性と不可能性の条件として当の反照作用から逃れるものへの探究に存している、紛れもなく哲学的なアジェンダを伴ったアプローチなのだということである」(9-10頁)。

この一節に端的に示されているように、ガシェは脱構築をたんなる「文芸批評の方法」として受容する──とりわけアメリカを中心に広まった──趨勢に抗い、あくまでそれを「哲学的なアジェンダを伴った」アプローチであることを訴える。そして、デリダその人の思想を(俗流の)「脱構築」と同一視することに明確に反対する著者の関心は、デリダにおける「思考」の特異なステータスへとむかう。それをひとつの問いのかたちで練り上げるとすれば、デリダにとって「思考するとはどういうことなのかを浮き彫りにすること」(11頁)こそが、ここでのもっとも重要な課題となるだろう。先にふれたアーレントの「判断」やハイデガーの「省察」をめぐる論文もまた、こうした「思考」の問題の延長線上にある。むろん、ガシェがデリダと二者の議論を同一視しているわけではないが、著者が「批判的警戒」と呼ぶもの(デリダ)と、アーレントおよびハイデガーの議論(「判断」および「省察」)は、その問題意識においてたしかに通底している。

対象とするテクストの綿密きわまりない解読に支えられた各論文は、読者にもそれなりの粘り強さを要求する。ホメロスやカントの言葉にあるように(第4章「思考の風」)、たしかに思考は「風」に擬えられるほど「迅速」で「非物質的な」ものである。しかしその──アーレントによれば「破壊的な」(187頁)──思考を伝達可能なものとしてくれるのは、「迂遠」で「物質的な」テクスト以外にあるまい。いずれにせよ、そうしたことへの連想をうながすガシェの日本講演が、5年あまりの時を越えて書物のかたちで刊行されたことを喜びたい。

2020/02/11(火)(星野太)

宮﨑裕助『ジャック・デリダ──死後の生を与える』

発行所:岩波書店

発行日:2020/01/24

博士論文を元にした前著『判断と崇高──カント美学のポリティクス』(知泉書館、2009年)に続く、宮﨑裕助(1974-)の2冊目の単著。著者がこの10年間、雑誌や論集に発表してきたデリダ論に加筆修正を施し、それに「生き延び」ないし「死後の生」という統一的なテーマを与えたのが本書である。

ここ数年、日本語でもようやくデリダについての充実した研究書が読めるようになった(亀井大輔『デリダ──歴史の思考』[法政大学出版局、2019年]、マーティン・ヘグルンド『ラディカル無神論──デリダと生の時間』[吉松覚・島田貴史・松田智裕訳、法政大学出版局、2017年]など)。しかしその反面、いまなおコンスタントに翻訳が続けられているデリダの著書は(おもに金額的に)一般の読者には入手しづらい状況にあり、世代を近しくするドゥルーズやフーコーとくらべると、若い読者にとってはいささか接近しがたい印象があるように見える。たとえばここ数年だけでも、講義録『獣と主権者』(西山雄二ほか訳、白水社)や論文集『プシュケー──他なるものの発明』(藤本一勇訳、岩波書店)といった待望の邦訳が成ったが、大部であり複数刊にまたがるという事情もあってか、いまひとつ読書界からの反響に乏しい。加えて、これまでに翻訳されたデリダの主著がほとんど文庫になっていないことも、大きな問題である。

そうした状況のなか現われた本書は、後期デリダについての入門的な内容を含み、同時に昨今の研究動向を踏まえた本格的な研究書でもあるという点で、画期的なものである。前述のように、過去に発表された学術論文が元になっているだけに議論の水準は高い。しかし同時に各章で扱われるのは、国家、労働、友愛、家族といった、われわれの多くにとって身近な──少なくとも馴染みのある──主題ばかりである。著者は、デリダの迂回に迂回を重ねた議論をただこちらに投げ出すのではなく、先に挙げたようなテーマをめぐる核心的な問いを「デリダとともに」立てつつ、それを「デリダとともに」よりふさわしいかたちで練り上げる。デリダに深く精通しながら、まったくデリダ的ではないその論述のスタイルが、読者をテクストのより適切な理解へと導いてくれるだろう。

なかでも、本書においてもっとも興味深いテーマは、著者がデリダから引き出してくる「生き延び(survie)」の思想であろう。序論において適切に示されているように、デリダの晩年にとりわけ顕著になるこの「生き延び」の思想は、直接的にはベンヤミンの翻訳論に遡ることができる。詳細は本書の記述に譲るが、そこで繰り返し強調されているように、ここでいう「生き延び」ないし「死後の生」とは、あくまでも言語によって媒介されるかぎりでの「生」の姿であり、その思想は実存的ないし生物学的な含意をもった(いわゆる)「生の哲学」とはまったく異なるものだ。いまなお編纂の途上にある生前の講義録や、それに関わる国内外の研究状況を見据えつつ、デリダを通じて本書が示すのは、そうした有機的ならざる「生」をめぐる刺激的な洞察なのである。

2020/02/11(火)(星野太)

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