artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

納富信留『ギリシア哲学史』

発行所:筑摩書房

発行日:2021/03/20

本書の著者・納富信留(1965-)は、これまで『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006[ちくま学芸文庫、2015])や『プラトンとの哲学』(岩波新書、2015)といった、専門的な知見に裏打ちされた好著を次々と世に送り出してきた。共同で責任編集を務めた『世界哲学史』(全8巻+別巻、ちくま新書、2020)のインパクトも記憶に新しいが、本書『ギリシア哲学史』はたった一人で執筆された、約750ページにもおよぶ古代ギリシア哲学の通史である。

まず手始めに第I部「ギリシア哲学史序論」に目を通してみれば、本書がどれほど画期的な一冊であるかはすぐにうかがい知れるはずである。このテーマについてはすでに膨大な研究成果があるだけに、たいていの通史はごく一通りの説明に終始するか、せいぜい著者が得意とする領域の知見を二、三、披露して終わってしまいがちである。しかし本書においては、どの章節もごく最近の研究成果を踏まえたうえで書かれているということが、その揺るぎない筆致の端々からうかがえる。

本書の構成についても簡単に見ておこう。さきほども話題にした第I部は二つの序章からなる。まず序章1「ギリシア哲学とは何か」では、そもそもの「ギリシア哲学」をめぐる一般的な解説がなされ、これから記述される「ギリシア哲学史」の外延が過不足ないかたちで示される。つづく序章2「ギリシア哲学資料論」では、写本の伝承や校訂テクストをはじめとする基本事項が手際よくまとめられており、こちらも──とりわけ初学者にとって──きわめて有益である。

本編は、第II部「初期ギリシア哲学」と第Ⅲ部「古典期ギリシア哲学」に大きく分かれ、あわせて32の章からなる。第II部の「初期ギリシア哲学」では、タレス、アナクシマンドロス、ピュタゴラス、パルメニデスといった、イオニアおよびイタリアにおける「哲学の誕生」が、その社会的背景とともに論じられる。また第Ⅲ部の「古典期ギリシア哲学」では、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される、古典期アテナイにおける哲学者たちの学説が幅広く紹介される。内容は明快このうえなく、それぞれの典拠も註にかなり細かく顕示されているため、ここから難なくほかの文献にアクセスすることもできる。本書が、初学者と専門家のどちらにとっても必携であるのは、ひとえにこうした理由による。

ここまで見てきたように、本書は手元において事典的に用いることもできるが、もちろん前から順番に通読するという読みかたも十分に可能である。なかでも、本書のひとつの大きな読みどころとなるのが「ソフィスト」の扱いであろう。古代ギリシアにおける職業的知識人であったソフィストは、基本的には哲学史の正道から排除されることが常であった。より正確に言えば、ヘーゲル以来、ソフィストはこれまでの哲学史のなかにもその存在をみとめられてはいたが、そこではもっぱら「哲学者ソクラテス」対「有象無象のソフィスト」という、否定的な扱いがつきまとってきたのである。本書第III部Bパートにあたる「ソフィスト思潮とソクラテス」は、こうした表層的な見かたに一石を投じ、ソクラテスを同時代のソフィスト思潮のなかに位置づけた、とくに興味深いパートである。

なお、以上のことは、本書が示す歴史区分にとっても小さくない意味をもっている。本書の前半部にあたる「初期ギリシア哲学」は、従来「ソクラテス以前(Pre-Socratic)」の哲学と呼ばれることが珍しくなかった。しかしこの呼称は、昨今の研究成果によってその不正確さがたびたび指摘され、むしろいまでは本書が採用する「初期ギリシア哲学(Early Greek Philosophy)」という呼称のほうが一般的になっている。これだけでなく、本書が示す「ギリシア哲学史」は、過去の通念をくつがえすさまざまなアップデートに満ちている。日本語におけるギリシア哲学史のスタンダードとして、今後長く読まれるべき一冊である。

2021/09/27(月)(星野太)

脇坂真弥『人間の生のありえなさ──〈私〉という偶然をめぐる哲学』

発行所:青土社

発行日:2021/04/30

「こんなことはありえない」──おそらく誰もが、大なり小なりそうした感覚に襲われたことがあるはずだ。それは、いま目の前にある現実がにわかには受け入れがたい、こんなことはとうてい信じられない、という「非現実の感覚」(229頁)である。もちろん「こんなことはありえない」という言葉は、思いもよらぬ幸運に恵まれた人の口から放たれることもあろう。しかし概して言えば、この「ありえない」という感覚、すなわち「なぜ──ほかの誰でもなく──それは〈私〉に到来しなければならなかったのか」という問いをもっとも強く誘発するのは、いわゆる「不幸」の経験をおいてほかにない。

本書が問題とするのは、この何とも言葉にしがたい感覚である。「人間の生は ありえない ・・・・・ 。これを感じさせるのは不幸だけだ」──本書のタイトルは、直接的にはこのシモーヌ・ヴェイユの言葉に由来する。1935年、当時25歳だったヴェイユは、それまで勤めていた高校での哲学教師の仕事を休職し、未熟練工として8ヶ月間、金属加工の仕事に従事した。この経験がヴェイユにもたらした衝撃の大きさは、のちの書簡やテクストからも存分にうかがい知ることができる。なかでも、工場での経験を通じて「人間が物になる」という「不幸」ないし「奴隷状態」に打ちひしがれたヴェイユが残したのが、この「人間の生はありえない」という言葉であった(229頁)。

ヴェイユのこうした言葉を、たんなる個人の感傷として片づけるのはたやすい。事実、ヴェイユに対して周囲から寄せられた反応は、おおよそこの類いのものであったようだ。しかし本書の著者は、これをたんなるナイーヴな感慨として切り捨てることも、そこから人間の「不幸」一般をめぐる理論を打ち立てることもしない。田中美津やシモーヌ・ヴェイユ、あるいはエンハンスメントの倫理やアルコール依存症からの回復を導きとして本書が執拗に問いかけるのは、ある極限的な経験のなかで到来する「なぜ〈私〉なのか」という問いである。

巻末の「初出一覧」を見るとわかるように、本書は著者の過去20年以上におよぶ息の長い思索がもとになっている(284-285頁)。そこで論じられるテーマは、時代ごとに一見ばらばらなようでいて、「なぜ〈私〉なのか」という問いにおいて驚くべき一貫性をみせている。くわえて強調しておきたいのが、ごく整然とした理路のもとに書かれているにもかかわらず、本書が問題をただ抽象的な次元で論じる哲学的「偶然」論とはまったく異なる手触りをもっていることだ。そもそも、この「なぜ〈私〉なのか」という──すぐれて実存的な──問いは、それを説得的な「理論」に仕立てあげようとすればするほど、それぞれに固有の現実から乖離していくことをまぬがれない。本書はそのことにきわめて自覚的であり、各章の端々では、ある個別的な生の苦闘をどこまで普遍的な理論へと開くことが可能か、という逡巡自体が問題とされている。ここには、どうあっても別様ではありえなかった「生」の光輝と汚辱がたしかに書き留められている。これだけでも十分に驚くべきことである。しかしなおかつ著者は、その特殊性をいたずらに神秘化して押し黙らせるのではなく、その繊細な思索によって、個々の特殊な生を救済するための努力をやめない。特殊性と普遍性の架橋の不可能性を自覚しつつ、なおもそれを記述すること──わたしはこれが、哲学になしうる最大の仕事のひとつだと思う。そして本書は、それに成功したごく例外的な作品たりえている。

2021/07/22(木)(星野太)

ツヴェタン・トドロフ編『善のはかなさ──ブルガリアにおけるユダヤ人救出』

翻訳:小野潮
発行所:新評論

発行日:2021/07/15

戦後フランスで活躍した思想家ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)は、もともとブルガリアに生まれ、大学卒業後にフランスに移住し、生涯をそこで過ごした。そのトドロフも数年前にこの世を去ったが、かれが1999年に編纂した書物が、このほど日本語に翻訳された。それが本書『善のはかなさ──ブルガリアにおけるユダヤ人救出』である。

本書は、第二次世界大戦中のブルガリアの政治状況をめぐる、このうえなく貴重なドキュメントである。1941年、当時のブルガリア王国はドイツ・イタリア・日本の枢軸国に加わった。それと前後して、ナチスドイツの圧力のもと、ブルガリアでも反ユダヤ的な政策が取られるようになる。その最たるものが1941年1月21日に公布された「国民保護法」である。

しかし結果的に、ブルガリアのユダヤ人は誰一人として収容所に送られることはなかった。これは言うまでもなく、当時のヨーロッパにおいて「類を見ない」(ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』[1963])ことであった。本書は、その経緯と、それがいかにして可能になったのかを示す資料集である。その立役者としては、代議士ディミタール・ペシェフ、国王ボリス三世、ブルガリア正教会ステファヌ主教をはじめとする複数の人物が浮かび上がる。しかしトドロフが言うように、この出来事の背後にいたのは、たったひとりの「至上の英雄」ではなかった。そのような結果がもたらされたのはいくつかの複合的な理由によるものであり、とりわけそれは、つねに歴史に翻弄されてきたこの国の類稀な「良心」に支えられていた、というのがトドロフの考えである(62-63頁)。

いまからおよそ20年前、トドロフがどのような使命感から本書を編纂したのか、いまとなってはその意図を推し量るほかない。本書のタイトルは若干わかりにくいのだが、ここでいう「善のはかなさ(fragilité du bien)」とは、むろん善の無力さのことではなく、それが脆弱でありつつも可能であることの謂いである。編者とはいっても、本書におけるトドロフの解説は最小限に抑えられており、かわりにさまざまな立場の人間が残した当時の文書が大半をしめる。これらの資料は、戦時中、誰がどのような立場で何を行ない、何を行なわなかったのかをまざまざと伝えている。ごくありきたりなことを言うようだが、本書の一読を通じてあらためて痛感させられるのは、後世に事実を歪みなく伝えるための「公文書」の重要性である。

2021/07/19(月)(星野太)

アラン・コルバン『草のみずみずしさ──感情と自然の文化史』

翻訳:小倉孝誠、綾部麻美

発行所:藤原書店

発行日:2021/05/30

著者アラン・コルバン(1936-)は現代フランスを代表する歴史家のひとりである。とくに今世紀に入ってからは『身体の歴史』(全3巻、2005/邦訳:藤原書店、2010)や『感情の歴史』(全3巻、2016-17/邦訳:藤原書店、2020-)をはじめとするシリーズの監修者として広く知られている。表題通り「草」をテーマとする本書もまた、著者がこれまで中心的な役割を担ってきた「感情史」の系譜に連なるものである。

本書の特色は、その豊富なリファレンスにある。原題に「古代から現代まで(de l’Antiquité à nos jours)」とあるように、本書にはおもに思想・文学の領域における「草」をめぐる記述がこれでもかというほどに詰め込まれている。同時に歴史家としての慎ましさゆえか、個々の文献に対するコメントは最小限に抑えられている。それゆえ、コンパクトな一冊ながら、本書は西洋世界における「草」をめぐる言説の一大カタログとして読むことができる。

本書のもうひとつの特色は、イヴ・ボヌフォワ、フィリップ・ジャコテ、フランシス・ポンジュをはじめとする現代詩人の言葉がふんだんに登場することだろう。「草」というテーマから、読者はウェルギリウス(『牧歌』)、ルソー(『孤独な散歩者の夢想』)、ホイットマン(『草の葉』)をはじめとするさまざまな時代の古典を思い浮かべるにちがいない。しかし意外なことにも、本書で紹介される著者たちのなかには、20世紀後半から現代にかけての作家・詩人が数多く含まれている。コルバンのこれまでの仕事から、本書もまた「草」をめぐる「さまざまな感情の歴史(histoire d’une gamme d’émotions)」と銘打たれてはいるが、個人的にはこれを「草の文学史」をめぐるガイドブックとして読むことをすすめたい。

いっぽう、ここでいう「草」があくまで西洋のそれに限定されていることは、本書の訳者が早々に指摘する通りである(「小倉孝誠「本書を読むにあたって」)。ただしそれは、本書の別の慎ましさを示すものでこそあれ、その瑕疵となるものではいささかもない。

2021/07/19(月)(星野太)

朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』

写真:花代

発行所:河出書房新社

発行日:2021/01/30

本書のもとになったのは、1955年創刊のタウン誌『銀座百点』に2015年から2017年にかけて連載されたエッセイである。「あとがき」によると、はじめは歌舞伎の演目をめぐる連載の依頼だったそうだが、打ち合わせの過程で「演目が一行でも出てくればよい」ということになり、結果的に周囲のさまざまな出来事を綴ったエッセイになったとのことである。本書の端々には歌舞伎の演目が──しばしば唐突に──出てくるのだが、その背景にはこうした微笑ましい理由があるようだ。

そんな一風かわった経緯をもつ本書だが、やはり現代有数の小説家の手になるだけあって、唸らされる掌篇がいくつもある。ひとつ2500字ほどの短いエッセイのなかで、時間や空間が目まぐるしく入れかわるにもかかわらず、そこに唐突な飛躍や断絶はほとんど感じられない。それはおそらく、ここに読まれる言葉の連なりがほとんど小説のそれであるからだろう。世の平凡なエッセイと較べてみれば一目瞭然だが、どこを読んでも場面や状況を表現する言葉がこのうえなく精緻であり、結果ほとんどフィクションに近い没入感をもたらしている。そしてときおり差し挟まれる花代の写真が、読者をわずかに現実へとつなぎとめる紐帯として機能する。

先にも書いたように、本書はいわゆるエッセイ集であるには違いないのだが、それでも一冊の書物としての「流れ」が際立っており、なおさらそれが小説めいた印象を増幅する。本書の導入部で目立つのは幼少期の記憶だが、中ほどの「一番街遭難」や「チグリスとユーフラテス」では配偶者との(つまり、どちらかと言えば近過去の)記憶がしばしば呼び出され、それが後半の「プールサイド」や「夢のハワイ」で、ふたたび幼少期の記憶と交差する。こうした異なる時空の合流と分岐が、各々のエピソードをさらに印象深いものにしている。

これらのエッセイのほとんどは、何かを「思い出す」ことに費やされている。数日前、数ヶ月前のような比較的近い過去から、大学生であった十数年前、さらには生まれて間もない数十年前にいたるまで、著者はおのれが経験したありとあらゆることを思い出し、書いている(あるいは「プールサイド」における誕生した日の光景のように、そこにはおのれがじかに経験していないことも含まれる)。かたや、それに対する現在の感慨、あるいは不確かな未来の展望について書くことは、ここでは厳に慎まれているかのようだ。それがなぜなのかはわからない。ふたたび「あとがき」から引くと、本連載を愛読していた読者が、著者をはるかに年配の人物だと想像していたというエピソードは興味ぶかい。これらを書いているあいだ、「思い出の薄い幕」をめくりつづけているようだった、と著者は言う(241頁)。本書を読みながら脳裏をよぎったのは、まさしくそうした「薄い幕」の「めくり方」がきわめて巧みであるということだった。過去を思い出すことと、それについて書くこと──いずれも一筋縄ではいかないこれらの営為の、すぐれて繊細なかたちがここには結晶している。

2021/06/07(月)(星野太)