2020年01月15日号
次回2月3日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』

発行所:イースト・プレス

発行日:2019/01/20

ブロガー・文筆家として活動する木澤佐登志(1988-)のデビュー作である本書への反響は、刊行から約4ヶ月が経った現在においても止む気配がない。おそらく本書をまだ手に取っていない読者のなかにも、ウェブ上で「加速主義」や「ヴェイパーウェイブ」についての著者の記事を目にしたことのある者は多いだろう。これらはいずれもオンラインの『 現代ビジネス』に掲載されたものであり、ここから本書に誘導された読者も少なくないはずだ。

先のウェブ記事と同様のジャーナリスティックな文体で書かれた本書は、「ディープウェブ」および「ダークウェブ」と呼ばれる、ネット上の特定領域に対するありがちな誤解を解くことから始まる。ディープウェブとは、Googleをはじめとする検索エンジンがインデックス化することのできない領域を指す言葉であり、これはインターネット上の全コンテンツの96%を占めるという。膨大な数字だと思われるかもしれないが、身近な例で考えてみても、WebメールやSNSの非公開アカウントなど、私たちはパスワードがなければアクセスできない「秘密」の領域をウェブ上に膨大に確保しているはずだ。これに対しダークウェブとは、俗に考えられるようなディープウェブのさらに「深い」領域などではまったくなく、TorやI2Pといった専用のブラウザやソフトウェアさえあれば、基本的には誰にでもアクセスできる。なおかつその規模も、ディープウェブに比べればさして大きなものではない。つまり、ディープウェブとダークウェブは「端的にいってまったく別の領域」であり、ディープウェブよりも深い領域にダークウェブという「不可視で広大な領域が広がっている」というイメージは「幻想」にすぎない、と著者は早々に指摘する(34頁)。

しかしそうは言っても、そうしたダークウェブのなかに、いわゆる「アングラ」な領域が数多く存在することもまた確かだ。先のような「都市伝説」を退けたうえで、本書の中盤では、犯罪やポルノの温床としての「ダークウェブ」のいくつかのケースと、その運営者たちが共有する思想的な背景、さらにはそれを取り締まる側との情報戦の一部始終が詳らかにされる。しかしそこでも終始一貫しているのは、アクセスした者の身元を秘匿する「暗号化技術」こそがダークウェブの核心であり、ゆえにそれはインターネットの黎明期から脈々と継承されてきた「自由」の思想を抜きに語ることはできない、という著者の構えである。

本書に対する書評・レビューのなかには、その内容に関する記述の偏りや誤りを指摘するものも少なくないが、それは同書のテーマを考えればやむをえないところもあるだろう。本書の意義は、ともすれば膨大な事例の紹介に終始しがちな「ダークウェブ」の一側面を書籍というパッケージによって切り取り、現時点におけるその姿を首尾よく凍結せしめたことにある。いまやすべてが現実と地続きになったかに見えるウェブ上にあっても、「アンダーグラウンド」な領域は確実に存在するし、その実相に近づくには、日進月歩を続ける暗号化技術についての知識が不可欠となる。その一端を垣間見せんとする本書は、昨今急速に失われつつある、かつての仄暗い「サブカルチャー」批評のエッセンスを継承している(のみならず、「補論1  思想を持たない日本のインターネット」では、その事実に対する俯瞰的な視点も確保されている)。

前述の『現代ビジネス』の記事のなかでもとりわけ人々の耳目を集めたのは、『ダークウェブ・アンダーグラウンド』の終盤で紹介される上海在住の思想家ニック・ランド(1962-)、および彼の「暗黒啓蒙(Dark Enlightenment)」というテクストを中心に広がる「新反動主義」との関係であった。そちらの記事を読んでから本書を手に取った読者は、これにまつわる記述の分量にいささか物足りなさをおぼえたかもしれない。しかし、どうやら著者はすでにこの問題にも本格的に取り組んでいるようだ。以上のような関心のもとに本書を手に取った読者には、間もなくの刊行が予告されている『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)との併読を勧めたい。

2019/05/14(火)(星野太)

高橋睦郎『季語練習帖』

発行所:書肆山田

発売日:2019/02/25

現代日本を代表する詩人・高橋睦郎(1937-)による俳句集。ただし、その体裁は一般的な句集とはいささか懸け離れている。本書には、「新玉」「薄氷」「師走」といった季語について書かれた短いノートに加え、各11句を単位とする項目が101篇、都合あわせて1111の句が収められている。もともと俳誌『澤』の連載として始まったこの試みは、和歌・連歌以来の伝統的な季語である竪題から始まり、回を追うにつれ、やがて横題を含めた季語全般を扱うものへと転じていったのだという。

それぞれの季語に対する註釈・所感は読み物としても楽しく、なおかつそれが豊富な作例を伴うことにより、創作ノートとしての趣も帯びる。表題の「練習帖」とはいかにも控えめな表現だが、古今東西の詩歌に通じたこの詩聖の世界の一端を垣間見るのに、これほど適切な形式もあるまい。80歳をこえてなお止むところのないその旺盛な詩作の源泉は、万事に対するその透徹したまなざしにある、ということが本書を読むとよくわかる。

2019/05/06(月)(星野太)

加地大介『もの──現代的実体主義の存在論』

発行所:春秋社

発行日:2018/12/25

名著『穴と境界──存在論的探究』(2008)の著者による、10年ぶりの新著。本書が答えようとするのは「ものであるとはいかなることか」という壮大な問いであり、そこではアリストテレスに端を発する「実体主義的存在論」の立場が擁護される。専門的な内容であるには相違ないが、全体の論証になんとか食らいつくことができれば、「もの」を中心に据えるこの存在論が個体・因果・時間などにまつわる形而上学的問題に「有効な見通しや解決を与えてくれる」(6頁)という著者の言葉も、説得的なものとして聞こえてくるに違いない。

本書のタイトルにある「もの(agents)」ないし「実体的対象」とは、「純然たる実体とは言えないかもしれない」が、「典型的実体の特徴を一定程度において共有する擬似的な実体」をもそのうちに含むものである。反対に、そこからはっきりと除外されるのは、「集合・数・命題などの抽象的対象」や「できごと・プロセス・事態・事実などの、いわゆる『こと』として総称されるような対象である」(335頁)。裏がえして言えば、本書における「もの」概念は、時空や素粒子のような「基礎的な物理学的対象」はもちろんのこと、穴や境界のような「擬似的物体」、さらには人物や精神のような「物体」とは言いがたい対象や、企業や国家のような「社会的・制度的対象」すら(原則的には)排除することがない(4頁)。

非常に興味深い想定ではなかろうか。繰り返すが、専門的な哲学書である本書は、あくまで形而上学的概念としての「もの」の解明の試みであり、それは私たちが用いる日常概念としての「もの」と必ずしも一致しない局面もあろう。また、本書の議論を理解するには、様相論やカテゴリー論で用いられる論理式にあるていど親しんでおくことが必要である。とりわけ前半の様相論が難関だが、存在論により関心のある読者は、いちど前著『穴と境界』に迂回してみるのもよいだろう。気の短い読者は、第6章「総括と課題」へ。そこでは「ものであるとはいかなることか」という問いに対する著者の回答が簡潔に述べられるとともに、ある著名な画家の残した作品(のタイトル)について、ひとつの形而上学的な解釈が示される。

2019/02/18(月)(星野太)

四方田犬彦『詩の約束』

発行所:作品社

発行日:2018/10/30

映画、文学、漫画をはじめ、およそあらゆる文化現象に通じた書き手として知られる四方田犬彦に「詩人」としての顔があることは、おそらくさほど知られてはいまい。昨年の暮れ、たまたま書店で見かけた本書に手が伸びたのは、詩集『人生の乞食』(2007)や『わが煉獄』(2014)の著者にして、詩誌『三蔵』の同人でもあるこの著者のまとまった詩論を読みたい、という潜在的な意識が働いていたからかもしれない(なお、本書は『すばる』における同名の連載を書籍化したものである)。

果たして、ペルシアの詩人ハーフィズをめぐるエピソードに始まる本書は、そうした期待にたがわぬ珠玉の読み物であった。この著者の本を読むときにつねづね感じることだが、ある些細なエピソードがいつしか作品論へと転じ、さらにそれが抽象的な思弁へと離陸していくその流れが、いつも本当に見事である。本書でもまた、西脇順三郎やエズラ・パウンドといったおなじみの詩人から、吉田健一やパゾリーニといった少々意外な人物まで、この著者ならではの大胆な飛躍と連想から、具体的な詩作品が次々と呼び出される。

本書に収められた18のエセーは、古今東西の具体的な詩をめぐって書かれていながら、いずれも個別の「詩論」に終始するものではない。むしろそこでは、朗誦、翻訳、呼びかけといった言語をめぐるあらゆる営みが、単なる抽象としてではなく、確固たる実体をともなった具体的な営為として浮かび上がってくる。「詩を生きるという体験」について書こうとした、というその言葉に偽りなく、著者の詩的遍歴がそのまま類稀な詩学として結実した一冊である。

2019/02/08(金)(星野太)

千葉雅也『意味がない無意味』

発行所:河出書房新社

発行日:2018/10/30

哲学者・千葉雅也による初の評論集。デビュー作である『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)にまとめられたドゥルーズ研究を除く、大小さまざまな論考が本書には収められている。その対象は美術、文学、建築から食やプロレスにいたるまで、じつに多様である。

著者は本書の序において、2016年までをみずからの仕事の「第一期」と総括する。博士論文を元にした『動きすぎてはいけない』をはじめ、著者はこの間『別のしかたで』(2014)、『勉強の哲学』(2017)、『メイキング・オブ・勉強の哲学』(2018)といった一般書、さらにはドゥルーズ以外を対象とする哲学論文や、広義の表象文化論に属する多彩なテクストを切れ目なく発表しつづけてきた。そのうち対話として残されたものは、同じく昨年刊行された『思弁的実在論と現代について──千葉雅也対談集』(青土社)にまとめられている。対する本書は、これまで書籍や雑誌に掲載された硬軟さまざまな論考から、選り抜きの23篇を集成したものだ。

本書の目次を一瞥してまず驚かされるのは、その多彩なトポスである。視覚芸術に限ってみても、フランシス・ベーコン、田幡浩一、森村泰昌、金子國義、クリスチャン・ラッセン……という並びは、「美術批評」に対してなんらかの予断をもつ者であれば、少なからず意表を突かれるものだろう。また、構成も特筆すべきである。凡庸な書き手ならば往々にしてジャンルで章を区切りがちなところを、本書は「身体」「儀礼」「他者」「言語」「分身」「性」という6つのテーマを設定し、それに即して先の23篇を按配する。これにより、ギャル男と金子國義(Ⅱ「儀礼」)、ラッセンと思弁的実在論(Ⅲ「他者」)、ラーメンと村上春樹(V「分身」)といった、通常であれば縁遠い(?)はずの対象が、奇妙な仕方で隣り合う。むろん、この構成が単に奇を衒ったものでなく、著者自身の一貫した関心を──あくまで事後的に──浮かび上がらせるものであることは、一読して理解されよう。

評者自身は、本書に収められたテクストのほぼすべてを初出で読んでいる。それゆえ、まずはこれらがあらためて一冊の単行本にまとめられたことを喜びたい(それは、これら珠玉のテクストが新たな読者を獲得するとともに、広く引用可能性に開かれていくことを意味する)。個人的な回想を挟ませてもらえば、本書に収められたもっとも古いテクストである「動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと節約」(2005)を、『Résonances』という学生論文集のなかに見つけたときの鮮烈な印象を、評者は今でもありありと思い出すことができる。のちの同名の著書を知る現在の読者は、その10年前に著されたこの短いテクストの存在により、著者の問いの驚くべき一貫性を目の当たりにすることになるだろう。そして、この10年余りの「第一期」の仕事を特徴づけるべく選ばれたキーワードこそが、表題の「意味がない無意味」なのである(本書序論「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」)。〈意味がある無意味〉から〈意味がない無意味〉へ、思考から身体へ、そして〈穴−秘密〉から〈石−秘密〉へ──それが、本書に与えられた輪郭ないしプログラムである。

以上の話に付け加えるなら、時期や媒体に応じて少なからぬ偏差を見せる、各テクストの「造形性」に目を向けてみるのもまた一興だろう。千葉雅也の読者は、その明晰かつ強靭な内容もさることながら、ルビや傍点をふんだんに駆使した独特な文体にいつであれ目を引かれるはずである。つねに明快な論理構造に独特のニュアンスを付与するその半−視覚的な言語実験は、「修辞性」というより、やはり「造形性」と呼ぶにふさわしい。その複雑な滋味を味わううえでも、アンソロジーの体裁を取った本書は好適である。

2019/02/01(金)(星野太)

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