2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ツヴェタン・トドロフ編『善のはかなさ──ブルガリアにおけるユダヤ人救出』

翻訳:小野潮
発行所:新評論

発行日:2021/07/15

戦後フランスで活躍した思想家ツヴェタン・トドロフ(1939-2017)は、もともとブルガリアに生まれ、大学卒業後にフランスに移住し、生涯をそこで過ごした。そのトドロフも数年前にこの世を去ったが、かれが1999年に編纂した書物が、このほど日本語に翻訳された。それが本書『善のはかなさ──ブルガリアにおけるユダヤ人救出』である。

本書は、第二次世界大戦中のブルガリアの政治状況をめぐる、このうえなく貴重なドキュメントである。1941年、当時のブルガリア王国はドイツ・イタリア・日本の枢軸国に加わった。それと前後して、ナチスドイツの圧力のもと、ブルガリアでも反ユダヤ的な政策が取られるようになる。その最たるものが1941年1月21日に公布された「国民保護法」である。

しかし結果的に、ブルガリアのユダヤ人は誰一人として収容所に送られることはなかった。これは言うまでもなく、当時のヨーロッパにおいて「類を見ない」(ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』[1963])ことであった。本書は、その経緯と、それがいかにして可能になったのかを示す資料集である。その立役者としては、代議士ディミタール・ペシェフ、国王ボリス三世、ブルガリア正教会ステファヌ主教をはじめとする複数の人物が浮かび上がる。しかしトドロフが言うように、この出来事の背後にいたのは、たったひとりの「至上の英雄」ではなかった。そのような結果がもたらされたのはいくつかの複合的な理由によるものであり、とりわけそれは、つねに歴史に翻弄されてきたこの国の類稀な「良心」に支えられていた、というのがトドロフの考えである(62-63頁)。

いまからおよそ20年前、トドロフがどのような使命感から本書を編纂したのか、いまとなってはその意図を推し量るほかない。本書のタイトルは若干わかりにくいのだが、ここでいう「善のはかなさ(fragilité du bien)」とは、むろん善の無力さのことではなく、それが脆弱でありつつも可能であることの謂いである。編者とはいっても、本書におけるトドロフの解説は最小限に抑えられており、かわりにさまざまな立場の人間が残した当時の文書が大半をしめる。これらの資料は、戦時中、誰がどのような立場で何を行ない、何を行なわなかったのかをまざまざと伝えている。ごくありきたりなことを言うようだが、本書の一読を通じてあらためて痛感させられるのは、後世に事実を歪みなく伝えるための「公文書」の重要性である。

2021/07/19(月)(星野太)

アラン・コルバン『草のみずみずしさ──感情と自然の文化史』

翻訳:小倉孝誠、綾部麻美

発行所:藤原書店

発行日:2021/05/30

著者アラン・コルバン(1936-)は現代フランスを代表する歴史家のひとりである。とくに今世紀に入ってからは『身体の歴史』(全3巻、2005/邦訳:藤原書店、2010)や『感情の歴史』(全3巻、2016-17/邦訳:藤原書店、2020-)をはじめとするシリーズの監修者として広く知られている。表題通り「草」をテーマとする本書もまた、著者がこれまで中心的な役割を担ってきた「感情史」の系譜に連なるものである。

本書の特色は、その豊富なリファレンスにある。原題に「古代から現代まで(de l’Antiquité à nos jours)」とあるように、本書にはおもに思想・文学の領域における「草」をめぐる記述がこれでもかというほどに詰め込まれている。同時に歴史家としての慎ましさゆえか、個々の文献に対するコメントは最小限に抑えられている。それゆえ、コンパクトな一冊ながら、本書は西洋世界における「草」をめぐる言説の一大カタログとして読むことができる。

本書のもうひとつの特色は、イヴ・ボヌフォワ、フィリップ・ジャコテ、フランシス・ポンジュをはじめとする現代詩人の言葉がふんだんに登場することだろう。「草」というテーマから、読者はウェルギリウス(『牧歌』)、ルソー(『孤独な散歩者の夢想』)、ホイットマン(『草の葉』)をはじめとするさまざまな時代の古典を思い浮かべるにちがいない。しかし意外なことにも、本書で紹介される著者たちのなかには、20世紀後半から現代にかけての作家・詩人が数多く含まれている。コルバンのこれまでの仕事から、本書もまた「草」をめぐる「さまざまな感情の歴史(histoire d’une gamme d’émotions)」と銘打たれてはいるが、個人的にはこれを「草の文学史」をめぐるガイドブックとして読むことをすすめたい。

いっぽう、ここでいう「草」があくまで西洋のそれに限定されていることは、本書の訳者が早々に指摘する通りである(「小倉孝誠「本書を読むにあたって」)。ただしそれは、本書の別の慎ましさを示すものでこそあれ、その瑕疵となるものではいささかもない。

2021/07/19(月)(星野太)

朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』

写真:花代

発行所:河出書房新社

発行日:2021/01/30

本書のもとになったのは、1955年創刊のタウン誌『銀座百点』に2015年から2017年にかけて連載されたエッセイである。「あとがき」によると、はじめは歌舞伎の演目をめぐる連載の依頼だったそうだが、打ち合わせの過程で「演目が一行でも出てくればよい」ということになり、結果的に周囲のさまざまな出来事を綴ったエッセイになったとのことである。本書の端々には歌舞伎の演目が──しばしば唐突に──出てくるのだが、その背景にはこうした微笑ましい理由があるようだ。

そんな一風かわった経緯をもつ本書だが、やはり現代有数の小説家の手になるだけあって、唸らされる掌篇がいくつもある。ひとつ2500字ほどの短いエッセイのなかで、時間や空間が目まぐるしく入れかわるにもかかわらず、そこに唐突な飛躍や断絶はほとんど感じられない。それはおそらく、ここに読まれる言葉の連なりがほとんど小説のそれであるからだろう。世の平凡なエッセイと較べてみれば一目瞭然だが、どこを読んでも場面や状況を表現する言葉がこのうえなく精緻であり、結果ほとんどフィクションに近い没入感をもたらしている。そしてときおり差し挟まれる花代の写真が、読者をわずかに現実へとつなぎとめる紐帯として機能する。

先にも書いたように、本書はいわゆるエッセイ集であるには違いないのだが、それでも一冊の書物としての「流れ」が際立っており、なおさらそれが小説めいた印象を増幅する。本書の導入部で目立つのは幼少期の記憶だが、中ほどの「一番街遭難」や「チグリスとユーフラテス」では配偶者との(つまり、どちらかと言えば近過去の)記憶がしばしば呼び出され、それが後半の「プールサイド」や「夢のハワイ」で、ふたたび幼少期の記憶と交差する。こうした異なる時空の合流と分岐が、各々のエピソードをさらに印象深いものにしている。

これらのエッセイのほとんどは、何かを「思い出す」ことに費やされている。数日前、数ヶ月前のような比較的近い過去から、大学生であった十数年前、さらには生まれて間もない数十年前にいたるまで、著者はおのれが経験したありとあらゆることを思い出し、書いている(あるいは「プールサイド」における誕生した日の光景のように、そこにはおのれがじかに経験していないことも含まれる)。かたや、それに対する現在の感慨、あるいは不確かな未来の展望について書くことは、ここでは厳に慎まれているかのようだ。それがなぜなのかはわからない。ふたたび「あとがき」から引くと、本連載を愛読していた読者が、著者をはるかに年配の人物だと想像していたというエピソードは興味ぶかい。これらを書いているあいだ、「思い出の薄い幕」をめくりつづけているようだった、と著者は言う(241頁)。本書を読みながら脳裏をよぎったのは、まさしくそうした「薄い幕」の「めくり方」がきわめて巧みであるということだった。過去を思い出すことと、それについて書くこと──いずれも一筋縄ではいかないこれらの営為の、すぐれて繊細なかたちがここには結晶している。

2021/06/07(月)(星野太)

山田広昭『可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル』

インスクリプト

発行日:2020/09/25

ここ数年のことと言ってよいと思うが、「贈与」をテーマとする日本語の書物が相次いで刊行されている。いくつか挙げていくと、岩野卓司『贈与論』(青土社、2019)、湯浅博雄『贈与の系譜学』(講談社、2020)などが、その代表的なものとみなしうる。むろん、その背後にある著者たちの思惑はさまざまだろうが、これらの書物が好意的に受容される土壌として、どこまでいっても「等価交換」の論理につらぬかれた資本主義への根本的な不信感があるように思われる。そうした一連の新刊書のなかで、ひときわ目をひくのが本書『可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル』である。

本書は、文化人類学者マルセル・モース(1872-1950)の名前をタイトルに掲げている。そこから読者は、すぐさまモースによる『贈与論』を思い浮かべるだろう。いまからおよそ100年前に登場したこの古典もまた、21世紀に入ってから新たに三つの(!)訳書が現われるなど、やはり大きな注目を集めてきた。本書『可能なるアナキズム』において、モースの『贈与論』がその中心をなしていることは表題からも容易に想像できる。しかし本書において真に注目すべきは、しばしば見過ごされてきた人類学者モースのもうひとつの大きな関心、すなわち社会主義へのコミットが大きく取り上げられていることにある。

著者の見立てはこうである。モースは1890年代から1930年代にかけて『社会主義運動』『ユマニテ』『ル・ポピュレール』をはじめとする社会主義系の雑誌に膨大な数の論説記事を書いていた。しかも、その総数の約3分の2にあたる110本あまりが、『贈与論』が構想・執筆された1920年代前半に発表されている。まさしくこの事実が、モースの『贈与論』における「倫理に関する結論」を理解する鍵になると著者は言う。『贈与論』は、いわゆる「未開社会」の贈与システムを明らかにした社会人類学の書として「のみ」読まれるべきではない。なぜなら、モースはこの人類学的研究を通じて、同時代の西欧社会にも適用可能なひとつの「倫理」を示そうとしたからだ──これが本書の基本的な認識である(8-9頁)。

そこから本書は、モースが示そうとした「贈与のモラル」の内実を徹底的に明らかにする。その対象は『贈与論』をはじめとするモースのテクストにとどまらない。モースの叔父であったエミール・デュルケムはもちろんのこと、ワルラスおよびマルクスの経済理論、さらには柄谷行人、デヴィッド・グレーバーをはじめとする後世の理論を縦横無尽に渉猟しつつ、『贈与論』というこの短くも豊かな論文の謎が次々と浮き彫りにされていくさまを、読者は目にすることになるだろう。そしてもっとも瞠目すべきは、著者がモースの思想を最終的に「アナキズム」へと結びつけていることにある。

本書第一章で指摘されているように、モースはおのれと同時代のアナキズムについて、一貫して否定的な構えを崩さなかった。しかしその一方で、これまで少なからぬ人々が、当のモースの思想のなかに新たなアナキズムの姿を見いだそうとしてきたことも事実である。昨年の急逝が惜しまれたデヴィッド・グレーバーもその一人だった。本書はグレーバーの力強い筆致に見られる「勇み足」(24頁)を糺しつつ、モースにおける「贈与のモラルを内包した交換様式」──これは柄谷行人の語彙で言えば「交換様式D」に相当する──のうちに「可能なるアナキズム」の姿を見いだそうとする。そこに、読者を爽快な気分にさせるようなわかりやすい結論はない。最終章の筆致が典型的に示すように、ここに読まれるのは、理想と現実の狭間にあってけっして安易な結論にいたることのない、共同性をめぐる粘り強い思考の記録である。

2021/06/07(月)(星野太)

松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』

発行所:新潮社

発行日:2021/02/25

本書のもとになったのは、2019年からおよそ1年半にわたって『新潮』に書き継がれたエセーである。そのタイトルに違わず、著者がこれまでに行った「さびしい町」をめぐって書かれた文章だが、その内容はよくある旅行記のたぐいとは一線を画している。

著者・松浦寿輝(1954-)のこれまでの仕事を多少なりとも知る読者であれば、本書に登場する地名にヨーロッパ以外の町が多数含まれていることに、いささか意外な心持ちがするだろう。パリ十五区、ヴィル=ダヴレー、シャトー=シノンといったフランスの地名も登場しないわけではないものの、むしろ本書の大半は、イポー(マレーシア)、ニャウンシュエ(ミャンマー)、長春(中国)、江華島(韓国)といったアジアの国々の地名で占められている。加えて、上野や中軽井沢といった著者の生活圏と結びついた地名もあれば、過去に作家・研究者として滞在した北米のタクナ、ドーチェスターといった地名もある。本書では、これら数々の「さびしい町」でのエピソードとともに、著者の公私にわたる記憶がさまざまに綴られる。「わたしが行ったさびしい町」というだけあって、ひとつひとつの町に、何か大きな特徴があるわけではない。むしろ本書の読みどころは、そうした町の名前に結びついた、著者その人の個人的な記憶にある。

いささか回りくどい言い方になるが、本書がありふれた旅行記のたぐいと一線を画している理由は、ここに書かれたことが、それぞれの「町」について何か有益なことを教えてくれるわけではないからだろう。先にも書いたように、本書において印象的なのは、それぞれの町を訪れたときの著者の心境や、その時々の人生の濃淡が、ちょっとした昔話のように現われては消えていくことだ。ものによっては半世紀以上前の記憶もあるのだから、それはいつも鮮明なものであるとはかぎらない。いや、たとえ比較的近い時期のものであっても、著者の記憶は全体的にどうも心もとない。

そのようなとき、本書では著者がウィキペディアなどで「調べてみた」事実がしばしば挟み込まれる。わざわざそんなことを書く必要はないではないか、と思うむきもあるかもしれない。だが、むしろ本書の叙述において肝要なのは、そうした「経験」と「情報」の隔たりであると言えるだろう。考えてみれば、ここに登場する「さびしい町」での記憶のほとんどは、iPhoneもGoogleマップもなかった時代のそれである。対して、いまや当地の情報を手繰り寄せようとすれば、さしたる労力もなく、いくらでもそれを手元に呼び出せる時代になった。しかし、往時の経験がGoogleマップの客観的な情報に還元されることはないし、ましてそのとき自分がいかなる心境にあったかという実感は、とうてい復元しえるものではない。のちに著者が詩集のタイトルに掲げるほどに想像力を掻き立てられたというソウルの「秘苑(ビウォン)」が、Googleの検索結果ではあえなく焼き肉屋のサイトに押しのけられてしまうという挿話(185頁)も、ユーモラスでありながらそこはかとない悲哀をさそう。

本書で幾度も吐露される「さびしい町」への偏愛は、この著者の熱心な読者にとってさほど意外なものではないだろう。また、「さびしさ」そのものをめぐる著者その人の考えも、後半にむかうにつれ次第に明らかになっていくにちがいない。とはいえ、そうした堅苦しいあれこれは措くとしても、本書はとにかくめっぽう面白い。これが凡百の旅行記と一線を画すということはすでに述べたとおりだが、「ナイアガラ・フォールズ」と「タクナ」の章で綴られるアメリカ横断旅行のエピソードや、「アガディール」の章での命からがらのモロッコ旅行など、読みどころを挙げていけばきりがない。ここに漂っているのは、やはり個人的な回想を多分に含んだ旧著『方法序説』(講談社、2006)などよりもはるかに優しい雰囲気であり、かつて著者の文体の特徴をなしていた厳しい断言は、ときおり括弧のなかで控えめに呟かれるのみである(14、23頁など)。そうした文体上の変化は、著者がこれをはっきり「余生」や「老境」の認識と結びつけていることと、おそらく無縁ではないだろう。

2021/04/05(月)(星野太)

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