2023年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

星野太のレビュー/プレビュー

ジェニー・オデル『何もしない』

翻訳:竹内要江

発行所:早川書房

発行日:2021/10/05

アーティストのジェニー・オデルが、本書『何もしない方法(How to do Nothing)』の原型となる講演をEyeo Festivalで行なったのは2017年のことである。その後、本書は2019年に書籍として書き下ろされ、かのバラク・オバマの目にとまることになる。その高評価とも相まって、同書は『ニューヨーク・タイムズ』をはじめ、数多くの媒体で取り上げられるベストセラーとなった。

本書が人々の関心を集めた最大の理由は、そのテーマのもつ時宜性と、語り口のユニークさにあると言えるだろう。本書の問題意識は、「われわれは注意経済(アテンション・エコノミー)からいかに距離を取ることができるか」という問いにほとんど還元されると言ってよい。事実、日本語では省略されてしまっている原書の副題は「注意経済への抵抗(Resisting the Attention Economy)」である。つまり、日々インターネットの記事・広告・SNSなどから垂れ流されてくる情報の氾濫からいかにして身を守るべきか、というのが本書の基調をなす問題意識なのだ。しかしそれと同時に、著者は「TwitterやFacebookをやめるべきだ」とか「スマートフォンを手放すべきだ」といった安易な「デジタル・デトックス」がなんの解決にもならないということを早々と指摘する。肝要なのは、そうした一見わかりやすい解決策に飛びつくことではなく、われわれの「注意」のありかたそのものを変えていくことなのだ──本書を通して、著者が一貫して唱えているのはそうしたことである。

本書『何もしない』がよくある巷の啓蒙書と異なるとしたら、それはアーティストである著者ならではの具体的な経験が広く散りばめられているからだろう。同書の論述はけっして一本道ではなく、そこでは現在と過去、理論と実践、作品と日常がいたるところで絡まりあっている。そこに登場するエピソードのなかには、オデルその人の作品や実践のみならず、彼女が教鞭をとるスタンフォード大学での学生とのやりとりや、家族やパートナーとのささやかな出来事も含まれる。また、1960年代に生じたコミューン運動への批判的なまなざし(第二章)や、彼女の論旨を補強するピルヴィ・タカラや謝徳慶といったパフォーマンス・アーティストの作品(第三章)も、それぞれ興味深いものである。かたや、全体にわたり参照される哲学・文学作品のなかには過去にさんざん使い回され、いくぶん摩耗したものも含まれるが(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』、ハーマン・メルヴィル『代書人バートルビー』、レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』など)、広範な読者を想定した一般書としては致し方のないことかもしれない。

いずれにせよ、本書のスタンスに注目すべき点があるとすれば、それは「注意経済」に覆い尽くされた日々の生活を惰性的に受け入れるのでも、反対にそこからの安易な離脱を説くのでもなく、そのなかで何とかやっていくためのヒントを具体的に示しているところだろう。オデルが言うように、いまのわれわれに必要なのは、みずからの注意をコントロールするための「継続的なトレーニング」である(154頁)。そのさい著者が何度も引き合いに出すのは、地元オークランドのバラ園やバードウォッチングだが、既述の通り、それはかならずしもわかりやすい「自然回帰」を志向するものではない。情報テクノロジーからの完全な離脱がもはや現実的ではない現下の状況において、本書は「第三の空間」(121頁)や「コンテクストの回復」(268頁)が、そこからの脱出口となりうることを指摘する。それを、理論/実践いずれかの一辺倒ではなく、両者を縫い合わせるかたちで──しかも、あくまでユーモラスに──示した本書の提言は、たしかに一読に値するものでる。

★──Eyeo Festivalは、コンピューター・テクノロジーに関心を寄せるアーティスト、デザイナー、コーダーらを対象とするカンファレンス。年一回、ミネアポリスのウォーカー・アート・センターで行なわれる。2017年のオデルの講演の動画は以下のURLで公開されており、講演の書き起こしもmediumのブログで読むことができる。https://vimeo.com/232544904(2022年2月6日閲覧)

2022/02/07(月)(星野太)

川野里子『新装版 幻想の重量──葛原妙子の戦後短歌』

発行所:書肆侃侃房

発行日:2021/08/01

葛原妙子(1907-1985)は、戦後日本の短歌界のなかでも突出した歌人のひとりである。本書はつい先ごろ刊行された『葛原妙子歌集』(書肆侃侃房、2021)の編者も務めた著者・川野里子による、この歌人についての充実した評論である。本書はもともと2009年に本阿弥書店から刊行されたものだが、このたび前掲の『葛原妙子歌集』と同じ版元から復刊の運びとなった。

本書『幻想の重量』はすでに10年以上前の書物になるが、全十章、補論、インタビューからなるその内容はいささかも古びておらず、葛原妙子の生涯と作品についてきわめて多くのことを教えてくれる。それは本書において、①葛原の短歌そのものの鑑賞・批評、②葛原の実人生をめぐる評伝、③葛原が身を置いていた戦後の短歌界の状況整理が、それぞれ絶妙なバランスで織り交ぜられているからだろう。全体として本書は、これまで葛原の形容として用いられてきた「幻視の女王」「魔女」「ミュータント」といったさまざまなクリシェに抗いつつ、ある新しい「葛原妙子」像を示すことに成功している。そのさい、必然的に葛原その人の実人生が問題にされることも多いのだが、かといってしばしば言挙げされるその個性的な言動が殊更に強調されるのでもなく、あくまで作品の鑑賞・批評に主眼がおかれていることも特筆すべきである。

そのなかで、個人的に注目したいのは葛原妙子と塚本邦雄の比較論である。しばしば戦後最大の歌人として並び称されるこの二人は、むろん類似する問題意識を抱えていたとはいえ、その作風にはすくなからぬ違いもあった。これまで葛原は、塚本とともに「難解派」と一括りにされ、前衛短歌運動の「伴走者」や「倍音的存在」(133頁)と見なされるなど、その類縁性ばかりが強調されるうらみがあった。だが、本書第五章「前衛短歌運動との距離」は、葛原・塚本のそれぞれに対する発言や、その周囲の状況を注意ぶかく拾っていくことで、「反写実」という点では一致しながら、韻律や喩法といった技術論をめぐって、葛原と塚本、さらには前衛短歌運動とのあいだにすくなからぬ距離があったという事実を鮮やかに示してみせる。

そしてもうひとつ、本書がもっとも力を注いだと思われるのが、戦後短歌における「女性」の問題である。それはかならずしも、葛原が昭和24(1949)年創刊の『女人短歌』に関わっていたという一事に起因するものではない。女人短歌会のメンバーであるなしにかかわらず、戦後の短歌界における女性たちの不遇が、本書では当時のさまざまな資料を通じて明らかにされる。とはいえその目的は、たんに当時の男性歌人による無理解や抑圧を指弾することにあるのではない。そこでは、倉地與年子、中城ふみ子、森岡貞香らとの関わりを通して、葛原妙子をはじめとする戦後の女性歌人による抵抗と連帯の諸相が立体的に示されていくのである。

さらに前述の問題は、戦後短歌において語り落とすことのできない「戦争体験」の問題にも大きな視点の転換を迫るだろう。とりわけ、戦前・戦中を豊かな家庭の主婦として過ごした葛原は、戦後の作品において同時代の悲惨な現実との乖離を指摘されることもあった。しかし本書は、この歌人に刻まれた戦争の刻印を、作品批評を通じてするどく浮き彫りにしている。とりわけそれは、従来もっぱら「男」の視点から記述されてきた戦争体験を「女」の側から語りなおそうとする、第二章「『橙黄』誕生」や第三章「身体表現と戦後」において、より普遍的な問題へと転じている。そのように考えてみると、本書の副題にみえる「戦後短歌」の言葉も、たんなる時代区分として選ばれたものではないと思わされる。本書は、葛原妙子を通じて「戦後短歌」そのものの風景を書き換えようとする、きわめて野心的な試みなのである。

2021/12/06(月)(星野太)

髙山花子『モーリス・ブランショ──レシの思想』

発行所:水声社

発行日:2021/09/30

モーリス・ブランショ(1907-2003)がこの世を去ってまもなく20年になるが、この間、本国フランスはもちろん日本でも、この謎めいた作家・批評家をめぐってさまざまな研究書や論文が公にされてきた。ここではさしあたり、郷原佳以『文学のミニマル・イメージ──モーリス・ブランショ論』(左右社、2011)、クリストフ・ビダン『モーリス・ブランショ──不可視のパートナー』(上田和彦ほか訳、水声社、2014)をその代表的なものとして挙げておこう。また、『謎の男トマ[一九四一年初版]』(門間広明訳、月曜社、2014)、『終わりなき対話』(湯浅博雄ほか訳、全3巻、筑摩書房、2016-2017)、『文学時評1941-1944』(郷原佳以ほか訳、水声社、2021)をはじめとするブランショ本人のテクストも、この期間を通じて陸続と訳出されている。

そうした一連の流れのなかにある本書は、ブランショの膨大なテクストを「レシ(récit)」というキーワードひとつによって論じきったものである。「レシ」とは、基本的に「物語」という日本語に対応するフランス語だが、ブランショはこの言葉をいくぶん特殊な意味で用いたことで知られる。では、その内実はいかなるものであり、なおかつブランショその人のなかでいかなる変遷をみたのか──それこそが、本書を牽引する最大の問いである。

前述のように、フランス語の「レシ」はふつう「物語」を意味する。しかしブランショのテクストにおいて、それは「出来事そのもの」という意味を与えられたり、場合によっては「歌」や「叙事詩」を含む広範な対象を指すために用いられたりもする。わけても、1960年代のブランショにおける「レシ」とは、論証的な言語とは異なる非論証的な言語──ないし「非連続の連続」──として特徴づけられるものであった。本書は、こうしたブランショの「レシ」の思想の核心と変遷を、おおむね時代順にたどることで明らかにするものである。その読解の対象は、『謎のトマ』をはじめとするブランショその人の作品と、カフカをはじめとするほかの作家を論じた文芸批評の双方にまたがっている。

一読者として興味をひかれたのは、ブランショにおけるこうした「レシ」の思想が、ひとりの作家のモノグラフであることを超えて、今後どのような視界を開いてくれるのかということだ。本書そのものは、学術的な作法に則って書かれた堅実な研究書であり、その目的はあくまでもブランショにおける「レシ」の思想を明らかにすることにある。他方、著者も序章で書いているように、この言葉はポール・リクール(『時間と物語』)やジャン=フランソワ・リオタール(『ポスト・モダンの条件』)らのテクストにしばしば登場するキーワードでもあり、ここから「物語=レシ」の概念を軸としたフランス現代思想史を夢想することも不可能ではない。そのためのさまざまなヒントが、本書の端々には散りばめられている。全体を通して、博士論文をもとにしているがゆえの生硬さは否みがたいが、これまで思想的なキーワードとして論じられることの少なかった「レシ」という言葉に光を当てたところに、本書の最大の美点があると言えるだろう。

2021/12/06(月)(星野太)

Vincent Zonca, Lichens. Pour une résistance minimale

発行所:Le Pommier(Paris)

発行日:2021/01/20

本書のタイトルにある「lichen」(仏語)とは、日本語における「地衣類」に相当する言葉である。これは、菌類と藻類が共生してできた複合生物のことであり、生物学的には前者の菌類に分類される。現在、地衣類は世界で約2万種あるとされており、なかには「……コケ(ゴケ)」という名称をもつものも多いのだが、厳密には蘚苔類(コケ植物)とは別物である。

この「地衣類」といういささか聞き慣れない言葉を表題にもつ本書は、フランスの出版社ル・ポミエの叢書「共生(Symbiose)」の一冊として今年(2021年)のはじめに刊行された。この叢書は、哲学者ミシェル・セール(1930-2019)の『自然契約』に着想を得たシリーズであり、まだ立ち上がったばかりではあるものの、今後のラインナップが大いに期待される。本書の著者ヴァンサン・ゾンカ(1987-)は、現在はブラジルのフランス大使館に勤務するかたわら、独立した作家・研究者としても執筆を行なっている(本書がはじめての著書である)

本書によると、地表における地衣類の割合は、およそ8%にもおよぶという。にもかかわらず、普段われわれがその存在に目をむけることは稀である。かれらはわれわれの世界の「周縁」にいるのであって、薬や食料、あるいは顔料として用いられるわずかな例外を除けば、何らかの有意な「目的」に転用されることもほとんどない。本書の副題にある「最小の抵抗にむけて(pour une résistance minimale)」という表現には複数の含意があるが、そのひとつが、もっぱら「開発」や「搾取」の発想に根ざしたグローバル資本主義への抵抗であることは注目されてよいだろう(pp. 274-276)。

しかし何よりも、地衣類の最大の特徴は、はじめにも述べたような菌類と藻類の共生関係にこそある。著者によると、生物学において「共生」という現象が厳密に定義されたのは1877年のことだというが、これはほかならぬ──共生体としての──地衣類の発見をきっかけとしていた(p. 222)。本書でもたびたび紹介されるように、以来この生物は科学者のみならず、「共生(symbiose)」──ないし「寄生(parasitisme)」──について考えるためのさまざまなきっかけを思想家たちに提供してきた。本書もまた、そうした過去の言説に立脚しつつ、「人新世」の時代における共生の問題をあらためて俎上に載せた、詩情豊かなエセーとして一読に値するものである。

本書が対象とする文化領域は多岐にわたる。過去、何らかのかたちで地衣類についての記述を残したカイヨワやバシュラールのような思想家をはじめ、ユゴーやユイスマンスといった作家、あるいはエドゥアルド・コーン(『森は考える』)やアナ・L・ツィン(『マツタケ』)のような人類学者の言説、さらには地衣類をテーマとする詩篇や美術作品の紹介も豊富である。著者ゾンカは、これまでフランス、スイス、フィンランド、日本をはじめとする世界各国の研究機関を訪問してきており、本書では自然科学を土台とした生物学的考察も疎かにされていない(著者が管理するInstagramのアカウントでは、フランス、ブラジルのものを中心とするさまざまな地衣類の写真を目にすることができる)。

なお、本書には『植物の生の哲学』(嶋崎正樹訳、勁草書房、2019)によって知られるようになった哲学者エマヌエーレ・コッチャ(1976-)が短い序文を寄せている。昨今、世界的に「植物の哲学」が活況を呈している様子は本邦でも知られるとおりだが(黒田昭信「他性の沈黙の声を聴く──植物哲学序説」『現代思想』2021年1月号、フロランス・ビュルガ『そもそも植物とは何か』田中裕子訳、河出書房新社、2021)、本書はそうした現代思想の流れにも棹さしつつ、植物ならぬ「地衣類」という小さくも大きな生命に光を当てた、いまだ数少ない領域横断的な試みである。

★──出版社の本著の著者紹介の項を参照。https://www.editions-lepommier.fr/lichens

関連レビュー

エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学──混合の形而上学』|星野太:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

2021/09/27(月)(星野太)

納富信留『ギリシア哲学史』

発行所:筑摩書房

発行日:2021/03/20

本書の著者・納富信留(1965-)は、これまで『ソフィストとは誰か?』(人文書院、2006[ちくま学芸文庫、2015])や『プラトンとの哲学』(岩波新書、2015)といった、専門的な知見に裏打ちされた好著を次々と世に送り出してきた。共同で責任編集を務めた『世界哲学史』(全8巻+別巻、ちくま新書、2020)のインパクトも記憶に新しいが、本書『ギリシア哲学史』はたった一人で執筆された、約750ページにもおよぶ古代ギリシア哲学の通史である。

まず手始めに第I部「ギリシア哲学史序論」に目を通してみれば、本書がどれほど画期的な一冊であるかはすぐにうかがい知れるはずである。このテーマについてはすでに膨大な研究成果があるだけに、たいていの通史はごく一通りの説明に終始するか、せいぜい著者が得意とする領域の知見を二、三、披露して終わってしまいがちである。しかし本書においては、どの章節もごく最近の研究成果を踏まえたうえで書かれているということが、その揺るぎない筆致の端々からうかがえる。

本書の構成についても簡単に見ておこう。さきほども話題にした第I部は二つの序章からなる。まず序章1「ギリシア哲学とは何か」では、そもそもの「ギリシア哲学」をめぐる一般的な解説がなされ、これから記述される「ギリシア哲学史」の外延が過不足ないかたちで示される。つづく序章2「ギリシア哲学資料論」では、写本の伝承や校訂テクストをはじめとする基本事項が手際よくまとめられており、こちらも──とりわけ初学者にとって──きわめて有益である。

本編は、第II部「初期ギリシア哲学」と第Ⅲ部「古典期ギリシア哲学」に大きく分かれ、あわせて32の章からなる。第II部の「初期ギリシア哲学」では、タレス、アナクシマンドロス、ピュタゴラス、パルメニデスといった、イオニアおよびイタリアにおける「哲学の誕生」が、その社会的背景とともに論じられる。また第Ⅲ部の「古典期ギリシア哲学」では、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される、古典期アテナイにおける哲学者たちの学説が幅広く紹介される。内容は明快このうえなく、それぞれの典拠も註にかなり細かく顕示されているため、ここから難なくほかの文献にアクセスすることもできる。本書が、初学者と専門家のどちらにとっても必携であるのは、ひとえにこうした理由による。

ここまで見てきたように、本書は手元において事典的に用いることもできるが、もちろん前から順番に通読するという読みかたも十分に可能である。なかでも、本書のひとつの大きな読みどころとなるのが「ソフィスト」の扱いであろう。古代ギリシアにおける職業的知識人であったソフィストは、基本的には哲学史の正道から排除されることが常であった。より正確に言えば、ヘーゲル以来、ソフィストはこれまでの哲学史のなかにもその存在をみとめられてはいたが、そこではもっぱら「哲学者ソクラテス」対「有象無象のソフィスト」という、否定的な扱いがつきまとってきたのである。本書第III部Bパートにあたる「ソフィスト思潮とソクラテス」は、こうした表層的な見かたに一石を投じ、ソクラテスを同時代のソフィスト思潮のなかに位置づけた、とくに興味深いパートである。

なお、以上のことは、本書が示す歴史区分にとっても小さくない意味をもっている。本書の前半部にあたる「初期ギリシア哲学」は、従来「ソクラテス以前(Pre-Socratic)」の哲学と呼ばれることが珍しくなかった。しかしこの呼称は、昨今の研究成果によってその不正確さがたびたび指摘され、むしろいまでは本書が採用する「初期ギリシア哲学(Early Greek Philosophy)」という呼称のほうが一般的になっている。これだけでなく、本書が示す「ギリシア哲学史」は、過去の通念をくつがえすさまざまなアップデートに満ちている。日本語におけるギリシア哲学史のスタンダードとして、今後長く読まれるべき一冊である。

2021/09/27(月)(星野太)

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