artscapeレビュー
フランソワーズ・ダステュール『死──有限性についての試論』
2023年12月15日号
翻訳:平野徹
発行所:人文書院
発行日:2023/10/30
哲学にとって「死」は最大のテーマのひとつである。というのも、あらゆる人間に等しく訪れるものでありながら、けっして一人称的には経験しえないただひとつのものが、自分の死であるからだ。死を経験するとき、そこにおのれの意識はすでにない。わたしたちが死について知っているすべてのことは、ほかの人間、ほかの生物を通じて得られた二次的なものでしかない。このような対象を前にして、哲学が語りうることは何だろうか。宗教的な語りとも、生物学的な語りとも異なる、いかなる語りがそこでは可能だろうか。
むろん、古来より死についてはさまざまなことが書かれてきた。そうした過去の言説もふまえながら、この問題に正面から取り組んだのが本書『死──有限性についての試論』である。著者フランソワーズ・ダステュールは1942年生まれのフランスの哲学者であり、独仏の現象学をおもな専門としている。まず強調しておきたいのだが、彼女にとって死をめぐる省察はけっして余技に属するものではない。ダステュールの著作一覧には、本書のほかに死をテーマとする専門書が数冊、および子どもを対象とする、同じテーマについての平易な入門書がある(邦訳『死ってなんだろう。死はすべての終わりなの?』伏見操訳、岩崎書店、2016)。ここからわかるのは、ハイデガー、フッサール、メルロ゠ポンティらについて数多くの書物を著してきたこの哲学者にとって、死が一貫して問われるべきテーマでありつづけてきたということだ。
あらかじめ注意をうながしておくと、本書は死をめぐる包括的な哲学史ではない。ダステュールがこのテーマに取り組むにあたってもっとも頻繁に依拠するのが、著者が一番の専門とするマルティン・ハイデガーである。より積極的に言えば、死をめぐる本書の立場は、ハイデガーの思想を展開するかたちで練り上げられたものだと言ってよい。その核心をもっとも端的な言葉で言い表わすなら、おおよそ次のようになる──すなわち、死という乗り越え不可能な出来事に臨むことでのみ、われわれの生の可能性は開かれるのだ、と。
このような考えには、実のところ、まったく意外性はないだろう。あらゆる人間が、ただひとりの例外もなく固有の生をもつのは、われわれがみな死すべき存在であるからだ。人間は、理念としての永遠性や不変性とは無縁な存在であるからこそ、逆説的におのれの生を唯一無二のものとすることができる。ハイデガーこそは、こうした「死すべき存在」としての人間に、もっとも積極的な意味を与えた哲学者にほかならなかった。
ダステュールにおいても、死はけっして否定的なものとはみなされていない。むしろ、死はわれわれが世界へと開かれることを可能にする、唯一無二の地平である。とはいえ、こうした結論だけならば、前掲の子どもむけの本を読んでもそう変わりはないことになる。むしろ本書の読みどころは、そうしたありきたりの結論ではなく、その過程で示される著者の繊細な筆運びにあると言ってよい。例えば、通常「死にむかう存在(être pour la mort)」と訳されるハイデガーのSein zum Todeは、「死にかかわる存在(être relatif à la mort)」とすべきだと著者はいう(151頁、註25)。なぜなら、人間を前者のように──死に「むかう」存在として──捉えることは、死が悪しきものであるという一面的な見かたを暗黙のうちに前提してしまうからだ。こうしたケースに見られるように、本書は、古今のさまざまなテクストを誠実に読みなおすことで、死をめぐるわれわれの思索をより深いところにいざなってくれる。
なお、昨今では死をめぐる思索が「後景に退いている」(9頁)という指摘に、評者もまた同意するものである。もちろん、死が人間にとって縁遠いものになったわけではまったくない。だがその一方、「終活」にまつわるさまざまなビジネスの存在が雄弁に物語るように、われわれの社会生活においては、個々の実存的な死もまたすでに産業的なサイクルのなかに取り込まれている。そのような現代にあって、死が「忘却のなかに落ちこんでいる」(284頁)という著者の実感は広く共有されているにちがいない。全体を通じてきわめて専門的な議論からなる本書が、現代の生のありようをめぐる身近な問題意識に支えられていることは、やはり特筆しておきたい。
2023/12/11(月)(星野太)