artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

Art Court Frontier 2016 #14

会期:2016/08/20~2016/09/24

ARTCOURT Gallery[大阪府]

Art Court Frontierは、キュレーター、アーティスト、ジャーナリスト、批評家などが1名ずつ出展作家を推薦し、関西圏の若手作家の動向を紹介する目的で2003年に始まったアニュアル企画。筆者は、今年の推薦者として本企画に関わり、2016年6月15日号と2015年7月15日号の本欄で取り上げた、写真家の金サジを推薦させていただいた。本評では、「写真」をめぐる対照的なアプローチとして、金サジと迫鉄平を取り上げる。
金は、近年精力的に取り組んでいる「物語」シリーズから計7作品を出品している。血や炎の色をした赤い衣装をまとい、骨盤の骨を冠にかぶり、溶岩とつながったへその緒を手にした、性別が曖昧な巫女。セミの抜け殻の山から生え出た、一輪のハスの花。白いチマチョゴリに鮮やかな紐が映える3人の老女。切られた首から花を生み出すニワトリ。血の付いた斧を持ち、荒縄や紙垂(しで)のようなもので頭部を覆われた、半人半神の男。鳥の巣の奥に輝く、子宮へつながる裂け目。これらの、人間/神/獣、性別、生死の境界が混ざり合い、謎と象徴性を合わせ持ったイメージは、汎東洋的とも言うべき混淆的な世界を形づくる。金によれば、直感的なイメージや夢、かつて読んだ物語の記憶などが混ざり合った、自身のための「創世の物語」であり、叙事詩のように壮大な「物語」からワンシーンずつ写真化しているという。構想中の約1/3を作品化したばかりだという「物語」の全貌がこれから楽しみだ。
照明を浴びて暗い背景から浮かび上がる、正面性の強い彼らの姿は、マットな質感のプリント技法とあいまって、西洋の宗教絵画を思わせる。だが、絵画的な見かけを偽装することで、「写真」であることの生々しさがいっそう際立つ(とりわけ、老婆の皮膚に折り畳まれるように刻まれたおびただしい皺や、男性の身体に女性的なメイクがのっているという違和感は、絵画では表現しにくいだろう)。金は、虚構を実在化させる写真という装置の力を借りて、「架空の創世記」という内的なイマジネーションの世界を受肉化させるのだ。それらは極めて個人的なことを語るとともに、ディアスポラとしての生や歴史に触れながら、現在も人々の拠り所として存在する「巫女(ムーダン:巫堂)」の民俗文化ともつながっている。そこではまた、絵画的構図を模したピクトリアルな写真や、民族誌の記録写真といった複数の「写真」の歴史が含み込まれてもいる。


金 サジ「物語」シリーズより 2016
デジタルプリント、アルミマウント
100 × 80 cm
撮影:表 恒匡
提供:ARTCOURT Gallery

一方、迫鉄平は、街頭で撮影した映像作品と写真作品を出品。映像作品では、固定フレームで撮影された数分ほどの街頭ショットが淡々と流れ続け、凍結されず流れていく弛緩した時間のなか、写真の「決定的瞬間」が解体されていく。一方、写真作品では、商品スタンドにズラリと掛けられたサングラスの一つひとつの面に、カメラを構えた迫自身が微妙にズレながら写し出され、どこかの商業ビルの多面体の鏡でできた壁には、エスカレーターやポスターの像が幾重にも分裂・反射しながら万華鏡のような像を結ぶ。迫は、鏡やガラスの反映や反射を取り込むことで、写真は統一的な像を結ぶのではなく、むしろ裂開し続ける表面であり、同一性を撹乱させる複数性や分裂性であることを自己言及的に提示している。


迫鉄平 (左より)《Roll With It》《Images, Upside Down》《Lag Sunglasses》 2016
インクジェットプリント
95 × 63.3 cm
撮影:表 恒匡
提供:ARTCOURT Gallery

2016/08/20(高嶋慈)

VvK Programm 16「赤い車が走り抜ける」

会期:2016/07/30~2016/08/07

KUNST ARZT[京都府]

VvK(アーティストキュレーション)の16回目は、中山和也のキュレーションによる企画。「ギャラリーの内部空間には一切作品を置かず、通りに面したギャラリーの窓から見える景色が作品鑑賞の場となる」というシンプルなルールだけが出品作家に課せられている。普段はモノと視線で充満した空間が空白化され、ギャラリーの窓は「外の景色を見る」という機能を取り戻すとともに、内と外、ギャラリー内部と路上、美術と日常の公共空間を媒介する装置となる。「ギャラリーの中に作品を置いてはいけない」というルールに素直に反応すれば、窓が切り取る景色のどこかに作品を仕込まねばならないからだ。あるいはこのルール自体をどう読み替え、逸脱するかが作品成否のカギとなる。
出品作品は、3つの軸に大別することができる。1)「窓」という物理的装置への介入、2)「窓」を介した視線の反転、3)現実空間とそこに内在する社会的ルールへの介入。まず、1)「窓」という装置への介入については、藤本由起夫の《there》とインテクストの《red car》が挙げられる。藤本の《there》は、玄関ドアのドアスコープに使われる魚眼レンズを窓辺に吊るして覗かせることで、中山によって決められた「窓というフレーム」の中に、もうひとつの眼差しのフレームを介入させるというもの。また、外山央、真下武久、見増勇介によるグループ・インテクストは、それぞれがデザイナーやプログラマーとして活動するなかで共有する興味や問題を取り上げ、文字、印刷、コミュニケーションについて考察する作品制作を行なっている。出品作《red car》は、窓ガラスに赤い文字で「CAR」と刻印することで、窓を開け閉めするたびに「赤い車が走り抜ける」という、ささやかだが詩的な想像力に満ちたものだ。
2)「窓」を介した視線の反転については、井上祐希《パラオからギャラリー監視》と小宮太郎《垂直で水平な風景(を撮る)》が挙げられる。井上の作品は、日本の真南に位置するパラオにギャラリーの椅子を持ち込み、会期中の開廊時間、その椅子に座って、海の彼方にある日本の方角を見つめ続けるというパフォーマンス。パラオは太平洋戦争の激戦地のひとつだが、戦後はリゾート地として「楽園」のイメージを付与されてきた。パラオから日本を「見つめ返す」井上のパフォーマンスは、占領地/楽園のリゾートという日本からの一方的な眼差しを反転させると同時に、「作品を見る」観客が「見られている」という眼差しの主客の反転を引き起こす。一方、小宮の作品は、ギャラリーの窓枠や壁、床、展示台、クーラーや電源コンセントにいたるまで、実寸大の模型をつくってさまざまな場所に設置し、「(フェイクの)ギャラリーの窓が切り取った風景」とともに写真に収めている。一見リアルなギャラリーの窓の向こうに突如出現する、住宅街、美大の制作室、松林と湖。よく見ると、展示台や壁には、その時々に「展示中」だった作品の複製が掛けられ、フェイクとリアルが奇妙に同居する。
3)現実空間とそこに内在する社会的ルールへの介入を行なったのが、中山和也《ピンクの川》と中本結《the vending machine is singing on the street》。中山の作品は、対面したビルのベランダや、建物どうしの隙間の細い路地に「ピンク色の柄のモップ」を3本立てかけたもの。無断の設置だが、会期中、モップは撤去されず、ずっと立てかけられたままだったという。「グレーゾーン」である空間や悪意のない清掃用具という絶妙なチョイスによって、建物の所有者と賃貸住人、隣人どうしの間で空間の所有権をめぐる暗黙の了解を浮かび上がらせる。一方、中本の作品は、街頭の自販機のジュースを、左右対称や交互など「美的な」ルールで並び替えたもの。こちらは業者に協力を依頼し、共犯関係に基づくが、商品の陳列という消費社会のルールに介入し、一時的な書き換えを行なっている。
このように本展は、展示空間から物理的な作品を消去することで、物理的な実体のみがアートの本質ではなく、むしろ作品を触媒に引き起こされた思考や想像力で充満する場であることを浮き彫りにしている。同時にそこでは、ギャラリーの「窓」という物理的/制度的なフレームが、「見ること」を批判的に問い直すとともに、外部の社会や公共空間と接続し、接触を引き起こす比喩的な「通路」としても機能していた。

2016/08/07(高嶋慈)

LISTEN リッスン

会期:2016/07/30~2016/09/02

第七藝術劇場[大阪府]

「聾者(ろう者)の音楽」を映像的に追究したドキュメンタリー映画。BGMや環境音も排した無音の映画であり、言語は手話と字幕のみ。手話は聾者にとっての言語だが、手指の動きに加えて、顔の表情、単語どうしの繋がりや間、テンポ、呼吸など複合的な要素が組み合わさることで、「声質」ならぬ「手質」が宿るのではないか。とりわけ、本作にも登場する「手話詩」(手話単語をベースに、ある単語の形から別の単語に変わるあいだに意味の連続性を持たせつつ、形の変化や拡張を加えたり、手型の位置や場所による押韻を行ない、視覚的に表現する)の表現者のように、熟達した聾者の手の動きには、意思伝達を超えた強弱・緩急などの抑揚や感情の揺らぎが胚胎し、「声」が「歌声」へと変化するように、音楽的な要素が存在するのではないか。そうした問題意識から、「聾者にとっての音楽」の映像化を目指す聾の映画監督・牧原依里が、聾の舞踏家・雫境(DAKEI)の協力とともに制作したのが本作。出演者15名は、日本手話を主たる言語とする聾者であり、舞踏家や「手話詩」の表現者、聾の劇団員から、バレエ経験者、舞台経験のない人までさまざまだ。ソロ、デュオ、複数人のアンサンブルの合間に、手話による彼らの語りが挿入される。「自分の中にずっと音楽があった」「手話そのものが心地よい音楽を奏でていると感じる時がある」「激しく木々を揺らす風を見ると、鳴っている音が分かる。夕陽が照らす光景を見て、イマジネーションの言葉が浮かび、私だけの歌をつくる」「見知らぬ人の発するオーラを見ると、自分の身体が突き動かされる」。
日常的に手話を使用する彼らの表現は、とりわけ指の動きの繊細さが際立つ。また、異なるシーンでも、「その人の身体の中にあるリズム」のストレートな表出によって、同一人物であると分かる。繊細な指先と全身で感情を表現する激しさの同居が圧倒的な、海辺の女性。花ひらくつぼみや風のそよぎを表現する少女。「手話詩」で「四季」の情景や移ろいを表現する男性。断片化された手話のコラージュを共鳴させ、「合奏」を紡ぐ6人の男女。心臓の鼓動のリズムを相手に渡し、呼吸を合わせながら変奏させていくカップル……。これらは、日本語の歌詞に手話を対応させた従来の「手話歌」のように、聴者にとっての音楽を置き換えたものではない点で、「聾者にとっての音楽とは何か」というアイデンティティの探求であると言える。
ただし、「無音の映像化」には両極面があるのではないか。生の舞台で見せるのではなく、「映像化」することのメリットとして、繊細な指先の動きや表情のクローズアップに加え、海辺や大樹など自然の波動を感じさせる風景を舞台装置として切り取ることが可能になる。一方で、「無音の映像」は聾者の知覚する世界そのままだろうか。ここには、彼らが「音楽のようなもの」を感じ、感情が動かされると語る、風の揺らぎや生身の肉体の発するオーラ、すなわち皮膚感覚の共振が欠けている。この映画を見る聴者は、「音のない世界」を疑似体験できても、聾者の知覚世界そのものを体験することはできない。接近しようとすればするほど、むしろ埋められない差や距離が露わになる。
音をシャットダウンすることで、むしろ際立つのは、運動の視覚性の純粋な抽出である。光が明滅するようにひらひらと舞う、素早い手の動き。空間のなかに裂け目や空隙を探しながら縫い合わせるように、新たな空間を切り開くように、何かに逆らって、あるいは身を委ねて流れるように、指先の震えが空気を震わせ微細な階調をつくり出していく。時間の展開のなかに、リフレインや変奏、アンサンブルの重層性が加わることで、無数の動きが引き出され、重ね合わせられていく。『LISTEN リッスン』を体験しているうちに感じたのは、「音(音楽)がない」のではなく、むしろ「音(音楽)が付けられていたら邪魔だ」という逆説的な確信である。
ここに至って、ダンスと音楽の同根性が開示される。ダンスは音楽であり、音楽はダンスである。あるグルーヴの胎動を感じれば、そこに「音楽」を感じうるし、何らかの情動的な要素が見る者に感じ取られることで、「身体を動かすこと」は「ダンス」と呼ばれるようになる。おそらく両者の根源は繋がっていて、耳で聴覚可能な要素で切り取れば「音楽」、身体の運動(フォルムとその変形)という視覚的要素から見れば「ダンス」と呼称されているにすぎない(従って、ダンスは「音楽」を内包しており、優れたダンサー/表現者の身体にはそのことが宿っている。たとえ微細な動きであっても、それは音の伝播のように空気を伝わって見る者の皮膚感覚を振動させ、思わず身体が動いたり、心が動かされるのだ)。
逆に言えば、本作は、無音=視覚性のみを切り取り、聴覚可能な「音」から「音楽」を切り離すことで、「音楽」の核を掴み出してみせると同時に、「ダンス」に内在する「音楽」との同根性を浮かび上がらせ、ダンスが純粋な身体の運動のみに完全には還元できないことを照射している。この地平においては、聾者/健常者という区別は存在しない。

2016/08/07(高嶋慈)

感覚のあそび場─岩崎貴宏×久門剛史

会期:2016/07/26~2016/09/11

京都芸術センター[京都府]

日用品を解体・再構築して繊細なオブジェをつくり、見立てを駆使して意味やスケール感の転倒をはかる岩崎貴宏と、音や光といった現象をモノや空間と組み合わせ、時空間をそっと揺さぶるようなインスタレーションを手がける久門剛史の2人展。
岩崎の《アウト・オブ・ディスオーダー(コラプス)》は、綿棒、歯ブラシ、タオル、モップなど「白い清掃用具」を組み合わせて、植物が生い茂る野原の中に「壊れた送電塔」が佇む風景のジオラマをつくり上げている。不気味な樹海のように繁茂する植物群、壊れて放置されたままの送電塔…。福島第一原発周辺地域を否応なく連想させるこの風景は、病的な白さで覆われている。その「白」は、原子力エネルギーの「クリーンさ」への皮肉とも、「汚染の除去」を待つ土地への示唆とも受け取れる。また、壁面に展示された《コンステレーション》は、一見すると、夜空にきらめく無数の星の美しい写真に見えるが、白い光の粒をルーペで拡大して見ると、コンビニやファーストフード店、クルマのメーカー、大手小売チェーン店の極小のロゴが混ざっている。小麦粉やベビーパウダーがバラ撒かれてできた一つひとつの点は、民家の灯りだろうか。「夜の日本」を上空から俯瞰した電力消費図が、極めて美しい星空の光景とのダブル・イメージとして重ね合わせられている。
一方、久門の《after that.》は、鏡面でできた時計盤を何十個も組み合わせてミラーボールを形づくり、光の反射が空間全体に乱舞する幻想的なインスタレーション。動かないはずの部屋そのものが回転し、あるいは足元の床がぐるぐると回っているような錯覚に全身が包まれる。また、和室を使った《Quantize #6─明倫小学校 和室─》では、ライトの明滅や、雨音や鈴虫の鳴き声などの音響的仕掛けが施されることで、室内/外の境界や時間感覚を撹乱させ、空間内に独自のリズムが息づいていく。
見立てや擬態といった空想的な手法によって、電力の消費という問題を日常生活へ直結させる岩崎と、「いまここ」の確かさを揺るがし、複数の知覚的現象へと開いていく久門。想像力のそれぞれのありようが対照的に示された展示だった。

2016/07/31(日)(高嶋慈)

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プレビュー:S/N×ガールズ・アクティビズム パフォーマンス『S/N』記録映像上映&トーク

会期:2016/09/10~2016/09/11

同志社大学 寒梅館 クローバーホール[京都府]

7月、古橋悌二《LOVERS》の展示期間中に行なわれたダムタイプの作品上映会で、『S/N』(1994年初演)を見逃した方へ。ゲイや障碍者といったマイノリティの問題を扱っていると考えられることが多い『S/N』だが、記録映像の上映と合わせたトークでは、「女性のセックスワーカー」「パスポートコントロールを受ける日本人女性」が作中に登場することに焦点を当て、「女性」という視点から『S/N』を考える予定だという。弾丸のように繰り出されるテクストの投影、モノローグ/ダイアローグの挿入など、情報量の多さとあいまって、見る度に新たな思考を触発する『S/N』とともに拝聴したい。

2016/07/31(日)(高嶋慈)