artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

今井祝雄「クレジオ、耕衣、九条」

会期:2016/05/12~2016/06/19

+1art[大阪府]

今井祝雄は、「具体美術協会」に1972年の解散時まで参加し、制作初期の1960年代には白いレリーフ状の造形作品、1970年代~80年代半ばにかけては写真や映像を用いたコンセプチュアルな作品、80年代以降は主にパブリックアートを手がけるなど、多岐にわたる制作を行なっている。本展では、ル・クレジオの著作、永田耕衣の俳句、憲法第九条の条文をそれぞれ用いた、文字による作品群が紹介された。
改行のない文章がページ全体を埋め尽くすル・クレジオの『物質的恍惚』から、3ページを刷り重ねた作品と、永田耕衣の俳句を五・七・五の3分節に分解し、一文字ずつずらして三原色で刷り重ねた版画作品。ここでは、文字は、意味を伝達する透明な媒体と、物質的な抵抗との間で明滅している。「読めない文字の集積」のなかに、紙に印刷された文字の視覚的構造や、詩句の音律的構造が浮かび上がる。
一方、憲法第九条を用いた作品では、活版印刷で刷られた約120字の条文が、重ね刷り、ずらし、反転、エンボスによる凸凹、フロッタージュなど、さまざまな解体の操作を施されて提示される。ここで文字は、意味伝達の透明な媒体ではなく、視覚性へと解体されながら、紙の表面の凸凹という触覚的な出来事として経験される。それらは、コンクリート・ポエトリーへの接近とともに、条文を美的なものへと変質させる脱政治性を帯びながらも、黒く刷られた条文の上から黒く塗り潰した表面は、墨塗りの機密文書や存在の抹殺を思わせる。また、活版印刷で型押しされた条文のうち、漢字部分の地を黒くこすって浮かび上がらせた作品では、「国際平和」「誠実」「希求」、「戦争」「武力」「行使」「永久」「放棄」といった漢字が浮かび上がる前半の第一項と、「陸海空軍」「戦力」「保持」、「交戦権」「認」といった漢字が浮かび上がる後半の第二項とでは、正反対の意味に分裂したようにも見えてくる。また、鏡に左右反転して記された条文は、読もうとする観客自身の姿をも映し出し、見ること/読むことの主体性について改めて問う。
それらは、活版印刷という廃れ行く技術を用いて印刷されることで、紙に凹凸とともに印刷された文字が持つ手触りを感じさせるとともに、近代の成立基盤のひとつである印刷技術と情報の大量伝達、国民国家の成立、憲法と政治主体などについても想起させるスケールを備えていた。

2016/05/28(土)(高嶋慈)

ハイバイ「おとこたち」

会期:2016/05/14~2016/05/15

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

残業漬けのブラック企業を辞め、紹介予定派遣で「クレーム処理」に従事する独身男性。正社員で出世も家庭も順調に見える既婚男性。性欲を持て余し、不倫に走るアルバイト男性。酒乱が原因で、TVスターから転落する男性。「おとこたち」では、高校の同級生だった4人がカラオケや居酒屋に集って近況報告し合うという形をとりながら、24歳から82歳までの四者四様の人生が、約2時間に圧縮して語られる。「笑えない」現実が、ギャグ混じりのハイスピードで次々と繰り出されていく。格差社会、クレーム処理の過酷さ、ゆとり世代の部下と通じないコミュニケーション、不倫、アルコールや新興宗教への依存、家庭内暴力、家庭での疎外感、定年退職後の燃え尽き症候群、家族のガン闘病、そして痴呆……。
だが、本作を観劇して気になったのは、そうした「(男性視点による)現代社会問題の羅列」ではない。そこに既視感はあっても、リアルな感触が立ち上がることはなく、「ヒト科オトコ類による、性欲期から死期までの大河ドラマ」とチラシには謳われているものの、むしろ時間的厚みの欠如こそが本作の根幹にあると思われる。本作を特徴づけるのは、「リアルな現代社会問題の提示」よりも、1)「(肯定的な)自己イメージによって外見が規定される、ゲームの仮想空間的な全能感」、2)「無時間性、時間の遠近感の喪失」、3)「カラオケルームという没入空間」である。
まず1)について。「30~40代の俳優が、老けメイクに頼らずに、60代、70代、80代を演じる」という演技設計は、「82歳という実年齢/まだ40歳そこそこの若さだという思い込みのギャップ」という、痴呆による時間感覚の混乱や現実認識のズレを表わすためのトリックとして効果的に機能する。冒頭、30~40代の「外見」に見合った言動をとる主人公は、自分は「まだ40代そこそこ」だと信じて疑わず、「あなたは82歳ですよ」と言う周囲の介護職員との会話が噛み合わない。そこへ「よう!」と現われる友人。彼もまた若くはつらつとした姿で、次々と集まった4人はカラオケではしゃぎ、近況報告が再現ドラマ風に演じられ、デジタル数字でカウントされる年齢とともに、どんどん年を取っていく。だがここで奇妙なのは、時間的厚みがなく、どの年齢を切り取っても「鬱屈した平成の今」の断面が金太郎飴のように現われることだ。(本作の初演は2014年だが)、2016年を「82歳の現在」とするならば、彼は1934年生まれであり、戦前に少年期を過ごし、30~40代は高度経済成長期の真っ只中、バブルを経て不況に差しかかった頃に退職という人生を送るはずだ。しかし本作からは、彼らを取り巻く社会や時代の変化、年月の厚みは見えてこない。彼らはスタート地点からすでに「格差社会を生きる平成の20代」であり、「平成」の父親の悲哀や老いの問題が、時間の遠近感を喪失したまま、次々と貼り付けられていくのだ。
このような、2)「無時間性、時間の遠近感の喪失」と、デジタル数字の表示に従ってステータスが変わるように年齢がスイッチする感覚は、どこかゲームの仮想空間を思わせる。その象徴的装置が、3)「カラオケルームという没入空間」であるだろう。高速で「人生」を振り返ったあと、前かがみの姿勢で記憶も足取りもおぼつかない「82歳」であることを再度突きつけられる主人公。だが、冒頭のシーンが反復され、「よう!」と再び友人が現われると、たちまち空間はカラオケルームへと変貌する。「追い駆けて 追い駆けても つかめないものばかりさ」というサビの歌詞の、CHAGE&ASKAのヒット曲「太陽と埃の中で」の熱唱。マイクさえ握ってチャゲアスを熱唱すれば、「青春のあの頃」に瞬時に立ち戻れるカラオケルームは、外部が消失した、心地よく没入できる逃避装置である。だが、「現在の82歳」が戻ろうとする「30代」は、結婚できない派遣労働者であり、「現在の30代」がシミュレートする「老後」は、「痴呆を生きるおひとりさま」だ。時間の厚みのなさは、オルタナティブな未来像も描けない閉塞感と通底する。そのどこへも行けない閉じた時空間こそ、本作が露呈させる絶望である。


左から用松亮、菅原永二、松井周、平原テツ 撮影:引地信彦

2016/05/15(日)(高嶋慈)

金サジ「STORY」

会期:2016/05/03~2016/05/15

アートスペース虹[京都府]

昨年の個展に続く、「物語」シリーズの写真展。緻密に構成された鮮烈なイメージで綴られる、「架空の創世の神話」の新たなページが、一枚、また一枚と繰り広げられた。生/死、人間/動物、動物/植物、人間/神、男性/女性といった境界が混ざり合う中に、東アジアの各地域の神話や民話、祭礼、美しい衣装、象徴的な事物が混淆的に混じり合い、作家自身の見た夢や空想が織り交ぜられて、多層的なイメージへと結晶化する。
クマの頭部と美しいチマチョゴリを着た少女の身体が融合した像は、作家の直感的なイメージに基づくというが、実際に朝鮮半島の建国神話には、熊が人間の女性に変身して古代の王を産んだという伝説が存在する。人間と動物の融合は、ベールをかぶり、豚の鼻をもつ女性像へと受け継がれる。暗闇に浮かぶ月に根を張った巨大な五葉松は、宇宙樹のようにそびえ立つが、枝の先端は白く枯死し、骨を思わせる。神聖な動物として神格化される鹿の体からは、色とりどりの花が生い茂り、自然の神秘的な力の具現化や、生命をことほぐかのようだが、ひときわ鮮やかなピンクの花をつけたハナズオウの木は、ユダが首を吊った木として不吉な意味も持つ。さまざまな読み解きを誘うこれらのイメージは、黒い背景から浮かび上がるように照明を当てられ、西洋古典絵画の肖像画や宗教画を思わせる荘厳さを帯びている。あるいは、正面性が強く様式化されたポートレイトは、「架空の共同体の祭礼を記録した民族誌の記録写真」を思わせる。
今回の「物語」シリーズの展開では、さまざまな境界や複数の文化の有機的な融合、単一の起源を喪失した汎東洋的な神話世界、実在の神話や民話と個人的なフィクションの混淆、「死」「生」「女性」を連想させる象徴性の高いモチーフ、西洋古典絵画への参照といった特徴に加えて、「女性と生殖」というキーワードが浮上している。《子宮への出入口》と題された一枚では、鳥の巣の中に女性の黒髪が敷き詰められ、無数の露の玉が極小の卵のように輝き、巣の真ん中には子宮へと続く割れ目が口を開けている。また、《巫女(火を用い作成した刃で隔てる)》では、赤い衣装をまとった巫女が、冷えて固まった溶岩と繋がった、へその緒のような白く長い紐を持つ。手にした刃で、母体=溶岩=循環する生命エネルギーの根源との繋がりを断ち切り、新たな命をこの世に送り出す役割を司っているのだろうか。骨盤の白い骨を冠のように頭上にのせた巫女は、しかしよく見ると、男性的な顔立ちをしており、濃い化粧の下の性別は分からない。金サジの作品世界では、「巫女」とは必ずしも女性ではなく、男女の性別を含め、あらゆるものに超越的な存在であるのかもしれない。
「巫女(ムーダン:巫堂)」はまた、架空の存在ではなく、現在も人々の心の拠り所として存在し、金自身の祖母もかつて巫女業に従事していたことがあったという。現在も巫女を生業とする人々や、かつて従事していた祖母の話を聞く過程を経て制作される作品は、作家の内的なイマジネーションの中に、オーラル・ヒストリーの要素を含んでもいる。それは祖母や母から娘へ、といった個人の記憶の家族史であるとともに、国家、民族、近代、戦争、アイデンティティに関わるディアスポラの歴史でもあり、占いやお祓い、医療やセラピー、歌や踊りといった芸能など、複数の職能を持っていた巫女の歴史とも繋がっている。そうした、複数の水脈との繋がりから「物語」シリーズの作品を捉えることは、表面的なイメージの鑑賞を超えて、より豊かな受容経験を開くだろう。

2016/05/15(日)(高嶋慈)

宮岡俊夫 個展「名前を奪われた風景」

会期:2016/05/10~2016/05/15

KUNST ARZT[京都府]

樹木の茂る田園風景、草地の向こうに見える家屋、川、無人のプール。宮岡俊夫が描くのは、匿名的で平凡な風景に見える。だがそれらは、二重、三重の手続きを介して絵画化されている。まずそれらは、宮岡自身が直接目にしたものではなく、雑誌の写真やインターネット上の画像に基づいている。さらに、元の写真や画像を180度反転させて描くことで、対象の再現よりも、色面やコンポジション、塗りの方向性や絵具の物質的厚みを意識した、抽象度の高い画面に仕上がっている。また、白く塗られた「余白」の存在は、画面上のコンポジションの一要素として機能するとともに、「矩形に切り取られた風景」を強調し、カメラのフレームや誌面のレイアウトを想起させ、「二次元のイメージ」に過ぎないことを露呈させる。
こうした宮岡の絵画は、上下反転した自作を偶然目にしたことから抽象絵画を開始したというカンディンスキーの半ば伝説的なエピソードや、雑誌の誌面レイアウトをひとつのイメージと捉えて絵画化したリヒターを連想させる。また、宮岡の絵画では、キャンバスの裏面に引用元の画像が貼られていることから、河原温の「Today」シリーズ(「日付絵画」)が想起される。河原の「Today」シリーズでは、その日滞在した国の言語表記で記された日付の刻印が、画家の生存の証となるとともに、封入された新聞がその日世界で起きた出来事を記録し、個人的営為と絵画の延命と社会的次元(時に世界史的文脈の大事件)との接続が起こっていた。
宮岡の場合、写真や画像を180度反転させて描く行為は、抽象への傾斜の操作だけにとどまらない。180度反転したイメージ、つまり水面に映った反映像を描くという意味で、水面=スクリーンに映る風景という二重性を帯びるのだ。その風景は、雑誌やインターネットに掲載された画像という、大量生産され、共有・拡散され、たちまち消費されていく束の間の存在である。特にネット上の匿名的な画像は、容易に共有可能な反面、いつ削除されるかも分からない、不安定で儚いものだ。宮岡の試みは、そうした儚い画像を絵の具によって物質化する行為であるとともに、膨大な情報の海に埋没して消えゆく元の画像を裏に貼って保存することで、アーカイブを埋め込まれた絵画であるとも言えるだろう。

2016/05/15(日)(高嶋慈)

アピチャッポン・ウィーラセタクン『真昼の不思議な物体』

会期:2016/05/08~2016/05/13

シネ・ヌーヴォ[大阪府]

『真昼の不思議な物体』(2000)は、タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編初監督作品。年齢、境遇、場所もさまざまなタイの人々が、ある物語をバトンのように受け渡しながら口述で語り継いでいくプロセスと、その「再現」映像が、モノクロの映像で綴られる。次の語り手に受け渡される度に、思わぬ方向へ展開・分岐していく物語。整合性という点では破綻しているが、本作を見て感じるのは、サーフィンのような心地よい浮遊感だ。冒頭、車窓の風景を捉えるカメラは、都市の高速道路から下町の市場を抜け、住宅地を行商する女性が即興的に語り出す物語からスタートする。足の悪い車椅子の少年と若い女性の家庭教師。白昼、突然倒れた家庭教師のスカートから転がり落ちた「不思議な物体」。その正体や変容は次の語り手の想像に自由に委ねられ、象使いの少年、村の老婆、中年女性のグループ、にぎやかな小学生たち、手話で会話する女子学生たち……と語り手が交替するごとに、宇宙人の登場するSF、村人による鬼退治、メロドラマ、子どもを誘拐して都会へ逃げる逃避行などとさまざまに変容していく。
口承による物語伝達を記録したモノクロフィルムという性格は、文化人類学におけるフィールドワークの記録としての民族誌映像のパロディを思わせる。さらに、語られた内容を演劇仕立てで「再現」する場面が挿入されたり、「カメラのフレーム外部」から聞こえる音声が侵入することで、カメラの客観性への疑義やフレームの虚構性が示される。だが、ウィーラセタクンの狙いは、ドキュメンタリーの真正性や民族誌映像の客観性への批評にとどまるものではないだろう。テープレコーダーから流れる声に耳を傾け、語り手や演じ手を見守る「観客役」がいることは、演出や虚構性の露呈という側面とともに、口承伝達における「声を媒介とした時空間の共有」という側面を示している。物語の始まりさえも他者に明け渡し、首尾一貫した整合性を手放す代わりに、生き生きとした有機的な語りの力を映画に取り戻し、活性化させることが賭けられているのではないか。ウィーラセタクンの他作品においても、歌や語りの声が宿す魔術的な力は、しばしば象徴的・効果的に取り入れられている。吟遊詩人や口承伝達においては、「聞き手」の存在や願望が強く作用し、時に物語の流れや登場人物の性格・動機付けを変えてしまうほどの力を持つ。そうした即興性と双方向性に開かれた語りの持つ有機的な力を、映画に取り込んで活性化させること。そこでは、語り手の物語と聞き手の願望、映画と演劇、ドキュメンタリーとフィクション、フレームの内と外の境界線は、流動的に揺らぎ溶解している。エンドクレジットで朗々と流れる男性の詠唱は、本作が希求する魔術的な声と即興的な生成の力を象徴的に示していた。

2016/05/13(金)(高嶋慈)