artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
松本雄吉×林慎一郎「PORTAL」
会期:2016/03/12~2016/03/13
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇4本目。
大阪の「衛星都市」である豊中に暮らす林慎一郎が、豊中の街に取材して書いた脚本を、維新派の松本雄吉が演出。空間の奥行や配置が瞬時に入れ替わる舞台転換、光と影の幻想的な世界を立ち上げる照明、リアルタイム/バーチャルな仮想世界を投影する映像、といった舞台演出が圧巻。また、ヒップホップユニット・降神のMCである志人が繰り出すラップ調の台詞の疾走感、韻を踏んだリズミカルな文体に加え、要所要所で「コロス」としてリズミカルな発話と身振りを同調させた俳優たちがアクセントを打ち、音楽劇の様相を呈している。
舞台は、古い市街地とニュータウンに分断され、国道に沿ってどこまでも膨張を続ける郊外都市の姿を、さまざまな人物の点描的なシーンを積み重ねて描いていく。老朽化した「文化住宅」に住む孤独な男、所在なげな主婦、シネコンの親子連れ、道路交通情報を伝えるアナウンサー、国道をバイクで疾走する女、学習塾の教師たち、シャッター商店街、地図作成業者、スマホのGoogleマップを使用して現実の市街地を舞台にプレイする拡張現実陣取りゲーム「ingress」のプレーヤーたち(エージェント)、……。カビの生えたような文化住宅に住む男は、変質者の隣人や在日外国人への嫌悪をあらわにし、飛行機が街の上空を通り過ぎるとき、爆音で聴こえない街に向かって叫ぶ。「お前ら、この街と一緒に腐っちまえ」。閉塞感に覆われた街に穴を爆破し、出口をつくりたいという男の妄想は、壁に穴を開けて空間を飛び越えるパズルゲーム「PORTAL」や「ingress」に興じる人々へとリンクする。一方、街を歩きまわる地図作成業者にとっての「100万分の1」「5万分の1」といった地図の縮尺は、新装開店したパチンコ店内に流れるMCがうたう「勝敗の確率」へとスライドされる。この「パチンコの玉」は、孤独な男が妄想の中で撃つ銃弾とのダブルイメージを形成する。また、男が妄想の中で街に穿つ「穴」は、ある夫婦が興じる「福笑い」や、のっぺらぼうの体に7つの「穴」を開けてやったら死んでしまったという中国の神様「渾沌」の神話ともリンクし、街全体が巨大な「顔」「人格」をもつ、壮大な「創世記」の神話的ビジョンへと結実する。
シーンの点描をつなぐ、いくつものメタファーやダブルイメージを鮮やかに駆使することで、現実/仮想、住人/通過者、地上/俯瞰、ミクロ/マクロのさまざまな視点が交錯し、現実の地図の上に、架空の地図や記憶の中の地図が重層的に重ね合わせられていく。舞台装置は、スケール感や抽象度の変化に応じて、複数の相を見せて展開する。碁盤目状のグリッドが刻まれた床面と、中央を稲妻のようにジグザグに横切る線。それは、国道や川といった具体物を表象するとともに、文化住宅が象徴する旧市街地/スタバやシネコンのあるニュータウンとの境界、現実と仮想空間との境界を示す。ミクロな日常の世界が壮大な宇宙や神話的世界と結びつき、街の膨張が宇宙の膨張と重ね合わせられていく終盤、居場所を求めてさ迷う人々の中にあって、「おかえり」と夫を出迎える妻の描写にはやや時代錯誤を感じたが、日常の肯定が根底にあるのだろう。疾走感あふれる台詞、音楽的な発話、イメージの多重露光的な重ね合わせによって、観劇後、現実の街の見え方を変えさせるパワーを放っていた。
2016/03/13(日)(高嶋慈)
チョイ・カファイ「ソフトマシーン:スルジット&リアント」
会期:2016/03/11~2016/03/13
京都芸術センター 講堂[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇3本目。
ベルリン在住のシンガポール人アーティスト、チョイ・カファイは、同時代のアジア諸国のダンサー・振付家へのインタビューを通して、アジアにおけるコンテンポラリー・ダンスについてリサーチするプロジェクト「ソフトマシーン」を継続的に展開している。2012年より開始されたこのリサーチ・プロジェクトでは、これまでに88人のダンサーや振付家、キュレーターへのインタビューが行なわれ、ビデオ・アーカイブを構築している。二本立て公演である本作も、このリサーチ・プロジェクトの一環として上演された。二本とも、出演者のダンサーとともにカファイ自身も舞台に上がり、ダンサーへのインタビューや記録映像を交えた、半ばドキュメンタリー、半ばレクチャー形式の上演であった。
まず、一本目の「ソフトマシーン:スルジット・ノングメイカパム」では、種々のインド伝統舞踊や武道を習得したインド出身の若手コンテンポラリー・ダンサーである、スルジット・ノングメイカパムが召喚される。この作品は、「ヨーロッパで上演するために、カファイとスルジットが一緒につくっている途中のダンス作品」のワーキングプロセスを実際に実演する、というものだ。カファイはスルジットに、これまで経験したさまざまな種類のダンスをやってみせるよう、指示を出す。スルジット自身の振付によるコンテンポラリー・ダンス作品の一部、インドの複数の地域の伝統舞踊、武道の動き。そこへ、「インドの古典舞踊とコンテンポラリーを融合させた」として世界的な評価を得る振付家やカンパニーの特徴的な動きや、インド製ミュージカル映画・ボリウッドのダンスまでが投入される(「グローバル市場での成功例」として)。
複数の文脈のダンスを(脈絡なく)接合させ、「それじゃあヨーロッパの観客には分からないよ」と何度もダメ出しを入れるカファイ。そのやり取りはギャグすれすれで、どこまで本気か分からない。むしろ浮かび上がるのは、カファイからスルジットへの、すなわち振付家からダンサーに対して一方的に行使される権力関係である。だがそれはいったい、誰の欲望なのだろうか? おそらくそこには、(名前と風貌から察するに中華系で)シンガポール出身、現在はドイツ在住のカファイ自身の立ち位置も影を落としている。「アジアのダンス」という欧米のマーケットや観客の期待に応えながら、自身の位置を思弁的に相対化すること。したがってカファイの試みは、スルジットという器に内包された複数の身体的記憶を開示しながら、自己言及的なメタダンスにならざるをえない。カファイの狙いは、「作品の完成そのもの」よりも、2人のやり取りを通して浮かび上がる、アジアにおけるコンテンポラリー・ダンスを取り巻く諸問題─伝統舞踊とコンテンポラリー、近代的国民国家に内包された多様な地域性、欧米と非欧米の非対称性、芸術的戦略とエキゾチシズム、グローバルなアート市場、といった問題を照射することにある。
一方、二本目の「ソフトマシーン:リアント」では、ジャワの伝統舞踊をマスターしたインドネシア出身のダンサー、リアントが召喚される。冒頭、ゆったりとした音楽に合わせ、美しい衣装をまとい、優美で官能的な仮面舞踊を披露するリアント。舞踊が終わって仮面を取り、自分のダンス経歴について語りながら、化粧を落とし、女性の伝統衣装を脱いで普段着に着替えると、見知らぬ青年が現われた。「2003年に東京に移住し、ジャワの古典舞踊のカンパニーをつくった。でも今は、コンテンポラリー・ダンスもやっている。2つは全く違う考え方や踊り方だから、両者の間について探り始めた」と言うリアント。そして彼が、「私にとって、コンテンポラリー・ダンスにはジェンダーは存在しない」と言うとき、彼自身のプライベートな問題が、ジェンダーと古典舞踊、ジェンダーと文化、そしてコンテンポラリー・ダンスはそれらを相対化しえるのかという、より大きな枠組みへと接続される。「仮面」を取り、「化粧」を落とし、「着替え」を観客の目の前で行なうという演出も、表層から次第にリアント自身に迫っていく仕掛けとして効果的に機能していた。中盤に流れたドキュメンタリー映像では、ジャワ古典舞踊の教室での稽古風景や発表会の様子に加えて、息抜きに新宿のゲイサウナに通っていることが映し出される。
そして圧巻の終盤。暗転と立ち込めるスモーク。何も見えないくらいの暗闇の中から、蠢く黒い物体がおぼろげに姿を現わし始めた。真っすぐに浮き上がった背骨、肩、水平に伸びた両腕。それが、何も身にまとわずに立つリアントの後ろ姿だと了解するのに、少し時間がかかった。
目の前で、黒光りする肩甲骨が、見たことのない生き物のように動いている。磔刑像を裏側から見ているようなポーズ。両腕の先が、S字形を描いて緩やかにくねり始める。ブレもたじろぎもしない体幹の強靭さと、優美に艶かしく動く繊細な手首と指先。ひとつの身体の中に、男性性と女性性、鋼鉄のような強さとしなやかな流動性が同居する。リアントという身体と思考が圧倒的な強度で凝縮された、永遠のように長い瞬間だった。
2016/03/12(土)(高嶋慈)
地点「スポーツ劇」
会期:2016/03/05~2016/03/06
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇2本目。
「光のない。」(2012年初演)に続く、地点×三輪眞弘によるイェリネクの戯曲の上演第2弾。
「血管が破裂する、パパー!」「スタートです」「赤と緑のチョークで星印を描いてチーム分け」「いつだってプレイ」。そう、試合は既に開始されている。選手入場のパレードも華やかなファンファーレもない。プレイ=スポーツの試合/演劇/テクストとの遊戯的な戯れ、という多義性が告げられる。複数のスポーツの「舞台」を組み合わせた、奇妙な舞台空間が広がっている。部分的な要素は見知っているが、全体としては見たことのない空間。バレーボールやテニスのネット、サッカーの緑のピッチ、スキーのジャンプ台。7名の俳優たちは何度も急勾配の斜面を駆け上がり、転げ落ち、ネットに激突し、反復横跳びを繰り返し、激しく突き飛ばし合い、倒れ込む。
断片的な、抽象的な、比喩的な、官僚的な、卑近なほど日常的な、寓話の一部のような、扇動的な、自嘲的な、異議申し立てのような、嘆願するような、過剰なまでの言葉の奔流が、圧倒的な量とスピード感で肉体から放たれる。脈絡や整合性を欠き、ときに同時多発的で、言いよどみや反復を繰り返し、単線的には進まない声と時間。語り手と声の一致は解体し、無数の異質な声が溢れかえる。モノローグの並置、つまり多声と多層構造によってしか語れないこと。「スポーツ劇」の主旋律は、ナショナリズムや戦争の代替装置としてのスポーツ批判と、家族との愛憎関係である。最愛の息子を失った母親の嘆き。シュワルツェネッガーに憧れてボディビルダーの鍛錬に励む青年は、「強い肉体」の獲得によって母親に愛されることを望んでいる。ナチスに協力したため強制収容所行きを免れた、イェリネク自身の父親に対する告発。神経を病んだ父親を精神病院に追いやった母親との確執。それらは、父親を殺害した母殺しを実行するギリシャ悲劇の登場人物、エレクトラに重ね合わせられ、古代ギリシャに端を発するオリンピックにおけるスポーツ選手=兵士について語られる。「ママ」への憎しみは、取り替えがきかず、スター選手のものとは程遠い肉体を自分に与えた憎しみ、変更不可能な起源への憎しみでもある。肉体改変への強い願望と、同一化の絶望的な不可能さ。「強い健康な身体」への脅迫観念と男性中心主義。メディアを通して神格化されるスポーツ選手と、ヘラクレスなど神話上の英雄。栄光と名誉に包まれた死。「国家のために死んだ」栄誉ある兵士たちの死。メディアの中で反復される死。スペクタクルとして上演され続ける死。俳優たちは、激しいつばぜり合いを繰り広げるサッカー選手よろしく突き飛ばし合って倒れ、頭上を戦闘機の轟音がかすめる度に倒れ、発話を終えると力尽きてくずおれていく。
ここで浮かび上がるのは、スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」という同質性である。有象無象の声、死者の声、引き受けきれない声たちの重み、「わたし(たち)」の不透明性が、俳優たちの滑らかな発話に負荷をかけ続け、どもり、言いよどみ、穴あき状態にちぎれた発話をもたらす。それは言語からの物質的な抵抗であるとともに、「自然な発話」とは程遠い、地点独特の発話─不自然なアクセントや分節化、音響的な発話や変速によって、「声」を一方的に所有・簒奪しないという倫理的な態度表明の遂行でもある。一方で、言葉遊びの挿入によってイェリネクのテクストと遊戯的に戯れ、変形させることによって、テクストの重みを解体しようとする抵抗が果敢に試みられる。ボディビルダーに励む青年は、マッチョポーズをキメて叫ぶ。「動きをうまくできターミネーター」「カーミ、神、カーミネーター」。死者への償いは、「もうはちきれんバカ、バカ、ばかりに」なっている。戦争責任、トラウマと精神分裂、家庭のTVの中に映る戦争、管理される身体、群衆心理の形成と「よそもの」の排除。
俳優たちは倒れ込んではゾンビのように何度でも起き上がるが、それでも供給できる身体の資源は限られている。次第に、緑の人工芝の平和なピッチが、死体の折り重なる戦場と多重化して見えてくるのだ。突き飛ばされて痛めた部位を大げさに指差し、相手のファールを取ろうとするサッカー選手の姿は、戦場で倒れた兵士と見分けがつかなくなる。しかし、ゲームの虚構性と現実の戦闘とを判別不可能にするものこそ、TVに流れる映像ではないか。メディアによって虚構化される現実。いったいなぜ、そして誰と、彼ら俳優たちは「戦って」いるのか。試合終了=終幕が一向に見えない中で、私たち観客はうすうす気づき始める。なぜ舞台前面にネットが張られているのか。なぜ緑のピッチが真ん中で途切れているのか。そしてなぜ、客席と舞台双方を見下ろす二階ボックス席に、「コロス」としての合唱隊がいるのか。なぜ合唱隊は、カラフルなチアスティック(スポーツの応援棒)=サイリウム(アイドルなどのオタ芸で振られる光る棒)=警棒を振って音を出しているのか。
彼ら合唱隊こそが、2時間に及ぶ、高密度の発話を発射し続ける俳優と無言のまま座席に身体を拘束された観客との「戦い」を高見から「応援」する「観客役」であったのだ。こうした「合唱隊」の身体性に対する意識は、舞台前面の床下に寝転び、裸足の足だけを舞台上に露出させて「転がる死体」を物理的に表象させた「光のない。」においても共通している。ただし「スポーツ劇」においては、合唱隊は硬直した足以外を床下に潜り込ませて視覚を遮断された状態ではなく、俳優VS観客の(しかし圧倒的に非対称な)対峙の光景を、高見から見守り、全貌を見渡せる特権的な位置にいる。しかし、私たち観客が客席に拘束された不自由な身体を引き受け続けざるをえないように、彼ら合唱隊もまた、音楽監督の三輪眞弘によって設定されたルールに従い、外部からプログラムされた身体の非自律性を引き受けねばならない。私たち観客には不明の「ルール」に従って、合唱隊は敬礼のように棒を掲げ、笛のように吹き、足踏みで盛り上げ、かすかに漏れる息の音で「君が代」の旋律をきれぎれに奏でるのだ。ここで、軍隊のように整然と規律化された合唱隊の身体が表象するのは、軍隊やマスゲームと、スポーツの応援やアイドルのオタ芸の身体との同質性である。
地点はこれまで、「CHITENの近現代語」においては、「わたしたち」の共同体の基底にある言語(日本語)を内部から解体することを企て、「ファッツァー」においては、「戦争」というモチーフを扱いながら、音と拮抗する身体の強度をつくり上げてきた。そして本作では、スポーツ/戦争/演劇における「身体の資源化」という同質性を俎上にのせるとともに、(メディアを経由して)スペクタクルを欲望する観客との「対戦」の構図を文字通り劇場空間に持ち込んだ。地点の舞台演出はしばしば、「観客」の身体的存在を(承認の署名を記す前に)勝手に「借景」に仕立て上げ、「あなたたちも共犯者なのですよ」という挑発を仕掛けてくる。「CHITENの近現代語」の幕切れで、観客に向かって俳優たちが浴びせる「拍手」と「ブラボー」、「コリオレイナス」で政治家に扇動される民衆との重ね合わせ。
では私たち観客には、抵抗する術はもはや残されていないのだろうか。幕切れの直前、俳優の安部聡子は嘆願するような声で呼びかける。「静寂を、ものともせず」(註:戯曲の翻訳(抄)では「静寂、物音もせず」と記されているが、私には「静寂を、ものともせず」と聞こえ、決意表明のように感じられた。聞き間違いかもしれないが、この受容体験自体が、「日本語」
2016/03/05(土)(高嶋慈)
ダヴィデ・ヴォンパク「渇望」
会期:2016/03/05~2016/03/07
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇1本目。
背丈より高い、2mほどの壁が半円形状に弧を描いている。金屏風のようにまばゆく輝く壁は、開演と同時に照明が切り替えられ、冴え冴えとした銀色に変わる。すると男が一人、現われた。ダイバースーツを思わせるゴムっぽい素材の黒い服。その上に、無言のまま開いた口からヨダレが滴り落ち、幾本もの筋をつくる。ガッゴッ、ズゥー、ズルズルズル……。うがいやゲップ、咀嚼のような耳障りな音が喉から漏れる。誇張というよりは、顔全体の筋肉が無理やり動かされているかのように、大きく歪む表情。登場した男女2名ずつのダンサーたちは、原始的な言語のような音を漏らし、笑い合い、唾をかけ合い、奇妙な会話を交わしているようにも威嚇し合っているようにも見える。痙攣した笑いが全身へと波及し、硬直した手足を引きつらせる。その様子を、壁から上半身を出した女性と男性が、彫像のように冷ややかに、黙した番人のように見守っている。
動物化した非理性的な状態は、相手の目玉や手足に食らいつくような仕草や、鳥のような鳴き声を発しながら、はだけた乳房を手で捏ねくり回すなど、発情期の動物の異性アピールのような仕草へと発展する。性愛への示唆は濃厚だが、どこかコミカルだ。剥き出した腹をパン、パン、パンとぶつけ合って奇妙なスキンシップを交わし、向き合った身体を密着させ、互いの尻の肉をつかみ合う。男女かまわず交わされるキスは、愛撫というより、互いの口から相手を食い合い、むさぼり尽くそうとしているように見える。性愛と食人。その境界は、人間と動物の境界と同様、ひどく曖昧だ。やがて彼らは全員、尻を剥き出しにしたまま、組んずほぐれつの行為を繰り広げ、「観察者」あるいは「番人」然として外部からの眼差しのフレームを体現していた男女2名まで飲み込んでしまう。気がつくと、壁の上には剥き出しの尻が二つ乗っかっているのだ。即物的な「肉」の提示と、それへの渇望。理性の番人が不在のまま、舞台上の4名は泣き、叫び、痙攣したように笑い、動物の鳴き声や咆哮を上げ、遂には自慰や性交、出産を擬似的にパフォームする。
終盤では、互いのエネルギーを消尽し尽くしたかのように無人になった空間が、激しいビートに合わせて強まっては弱まる照明に照らされる。呼吸や脈動を思わせる有機的な光の明滅。私たち観客もまた、得体の知れない巨大な生き物に食べられて体内に取り込まれた感覚に襲われた。ガァー、ゴッゴッ、ヅルヅルヅル、ピィ~ピピピピ、アァ~、ギャァー……。言葉にならない無数の声だけが、残響のようにいつまでも耳の奥にこだまする。それは本能に回帰した叫びなのか、言葉=理性を奪われた叫びなのか。何が彼らをそのように変容させたのか。説明が一切ないことが、見る者の想像力をかき立てる。
理性的な言語を話すことを封じられた「口」。しかし発話への従属・拘束を解かれた「口」の運動が、全身へと波及するさまざまな動きを引き出していく。通常のダンス作品では前景化されることのない「口」をムーブメントの基点に据える、つまり「口」の物理的・身体的前景化によって、音やヨダレが内部から漏れる開口部、泣く、笑う、叫びや恐れといった根源的な感情の表出、食物の摂取、性愛行為、といった発話以外の機能が最大限に提示される。声や感情を外へと吐き出す開口部であるとともに、異物を内部へ取り込むための器官でもある「口」。その怪物性。ペルソナとしての顔の表面に開けられた「口」は、食物の摂取を通して性的エネルギーを充填させる、こんなにも猥雑で貪欲な器官なのだ。そこでは、互いを貪り合うようなキスが象徴するように、食人も性愛も、相手の肉体の所有・同一化への欲望という点では同質である。その欲望が、内部/外部、自/他の境界を脅かす侵犯へと向かうからこそ、文化的な「タブー」が発生する。本作は、「口」という普遍的でシンプルな器官から出発して、理性的な言語の発話を封じることで、逆説的にその豊かな運動や音響性を示すとともに、タブーとその侵犯という人類学的な射程を、ダンス=身体の芸術として浮かび上がらせていた。
2016/03/05(土)(高嶋慈)
プレビュー:林勇気「電源を切ると何もみえなくなる事」
会期:2016/04/05~2016/05/22
京都芸術センター[京都府]
パソコンのハードディスクに大量にストックした写真画像を、1コマずつ切り貼りして緻密に合成することでアニメーションを制作する映像作家、林勇気。緻密な作業の膨大な積み重ねによって制作される作品は、個人の所有する記録媒体やネット上の共有空間に日々膨大な画像が蓄積され、共有され、消費されていくというメディア状況を可視化するとともに、ポスト・インターネット時代の知覚や身体感覚についての問いを投げかけている。「電源」をキーワードにした本個展では、電源を切る行為によって消滅してしまう、映像という非物質的なメディウムの存在的な危うさに注目する。それはまた、電源のON/OFFという行為の身体性と映像との関わりを再考する機会にもなるだろう。
2016/02/29(月)(高嶋慈)