artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
今井祝雄「Retrospective─方形の時間」
会期:2016/03/26~2016/04/23
アートコートギャラリー[大阪府]
1970年代半ば~80年代前半に制作された、今井祝雄の写真・映像・パフォーマンス作品を展示(再演)する個展。写真の多重露光、テレビ映像の再撮影、ビデオテープによる記録と身体パフォーマンスを行なっていたこの時期の今井の関心が、映像メディウムと物質性、時間の可視化、時間の分節化と多層化、映像への身体的介入、行為と記録、マスメディアとイメージの大量消費などに向けられていたことが分かる。
《時間のポートレイト》(1979)は、1/1000秒、1/30秒、1秒、30秒、60秒、600秒、1800秒、3600秒の露光時間設定でそれぞれ撮影したセルフポートレイトである。1/1000秒や1/30秒の露光時間では鮮明だったイメージが、次第にブレや揺らぎを伴った不鮮明なものになり、最後の3600秒(=1時間)の露光時間で撮られたポートレイトでは、タバコの光やサングラスの反射光が浮遊し、亡霊じみた様相を呈している。ここでは、秒という単位で分節化された時間が、段階的に幅を広げていくことで、ひとつのイメージに時間の厚みが圧縮され、時間の層が可視化されている。
また、「タイムコレクション」のシリーズ(1981)は、「7:10」「7:42」「9:54」など時刻表示のある朝のテレビ画面を、1分間以内に多重露光撮影したもの。1分という時間単位の間に放映された多様なイメージの積層化であるが、断片化した個々のイメージが重なり合って溶解し、人間の顔の輪郭が重なった事故現場(?)の映像とクラッシュするなど、お茶の間で日常的に受容している映像が、安定した知覚を脅かす不気味なものへと変貌していく。ファッション雑誌などに載った写真を15秒間ずつスライド投影し、画像の輪郭をなぞって抽出した線を描き重ねていく《映像による素描》(1974)と同様、マスメディアが大量生産するイメージの受容経験が、分節化した時間と行為の反復によって多重化/解体されている。
一方、今井が「時間の巻尺」と呼ぶビデオテープの記録性や物質性をパフォーマンスに持ち込んだのが、《方形の時間》(1984)と、初日に行なわれたその再演である。展示室の4m四方に設置された観葉樹に、撮影直後のビデオテープを手にした今井が巻き付けていく。そのビデオテープには、直前の作家の行為が記録されており、中央に置かれたブラウン管モニターに「中継」され続けるが、テープはリールに巻き取られることなくデッキから吐き出され、作家の手で四隅の観葉樹にぐるぐると巻き付けられていき、やがて黒い結界で囲まれた空間が出現する。フィルムと異なり、黒い磁気テープには記録された像が見えず、それは「物質」として立ち現われる。現在進行形の行為と一瞬遅れのディレイをはらむ記録が入れ子状に進行する時間と空間が、その黒いテープによって封じられていく。「製造停止となって久しい貴重な機材を入手できたことで可能となった」今回の再演・再展示は、テクノロジーの発展と表裏一体の技術的衰退という時間の流れとともに、アナログ機器ならではの「時間の手触り」を感じさせ、メディアの発展と知覚の変容(もしくは技術的衰退とともに失われてゆく知覚体験──低い解像度の粗い粒子という物質的肌理、ビデオテープ1本=「
2016/04/22(金)(高嶋慈)
ニュー“コロニー/アイランド”2~災害にまつわる所作と対話~
会期:2016/03/11~2016/06/26
アートエリアB1[大阪府]
会期中に熊本地震が起きたことで、よりアクチュアリティを増して体験された本展。東日本大震災の被災地となった故郷・陸前高田を撮影した畠山直哉の写真、阪神・淡路大震災から10年後の街を撮影し、風景の中の痕跡の(不)可視性を探る米田知子の写真、放射能汚染と食品の安全性について尋ねる買い物客と店員の会話を「再演」した高嶺格の映像作品など、アーティストによる表現物に加えて、仙台の「3がつ11にちをわすれないためにセンター」や女川の「対話工房」など、地域に根差した記憶や震災経験のアーカイブ活動が紹介されている。さらに、災害史や地質学の資料を合わせて展示することで、通時的な軸線と地球規模の視座へと拡がりを見せ、私たちの日常生活が、不可視だがつねに動き続けている不安定な岩盤の上に成立していることを改めて意識させる。
本展が秀逸なのは、展示会場を一軒家の間取りに見立てて、アーティストの作品、地域のアーカイブ活動、災害史や地質学の資料をその中に共存させている点だ。駐車場から始まり、実寸のスケールで仮設壁が立てられ、玄関のポーチ、子ども部屋、居間、台所、トイレ、浴室や寝室へと続く。ソファやベッドなどの家具や家電製品も実際に設置され、モデルルームのような空間だ。例えば、せんだいメディアテークがNPO法人20世紀アーカイブ仙台と協働して行なった「3月12日はじまりのごはん」は、震災後の最初の食事についての記憶を写真や文章で記録するプロジェクトだが、停電に対処した生活の知恵を綴った文章や炊き出しの様子の写真などが食卓や冷蔵庫に貼られ、生活空間に移し替えられることで、見る者の実感に訴えかける説得力を増している。
一方で、居心地よく設えられた室内空間の「外」には、「庭」に見立てた空間の中に、志賀理江子の写真作品「螺旋海岸」が展示され、異様な緊張感をもって対峙する。洞窟の内部や胎内を思わせる、あるいは神の宿る神聖な御座所のような白い岩。その白い塊は、新たな生命の宿りなのか体を蝕む浮腫なのか定かでない、下腹部の白い膨らみへとリンクする。無数の手に掲げられて浮遊する体と、葬送の儀式。オパールのように虹色の光を宿して輝く、鋭い動物の目の接写と思しきイメージは、星くずの散らばる無限大の宇宙空間を思わせるとともに、始源からこちらを見つめる巨大な目となって眼差しを差し返す。イメージの魔術的な連鎖を通して、生と死の循環、それを滞りなく行なうための祭祀、生命が自然の中へと還っていくことが幻視される。その展示はまた、畏怖を抱かせる自然の得体の知れない力が、人間の居住空間と扉一枚を隔てて蠢き、いつ「内部」へと侵入してくるか分からない存在であることを、無言の迫力でもって示していた。
2016/04/22(金)(高嶋慈)
still moving on the terrace
会期:2016/04/16~2016/05/29
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
数年後、JR京都駅の東側エリアへの移転が予定されている京都市立芸術大学。本展は「将来の移転のための予行演習」として、作品/作品以外のさまざまな物品の「梱包」と「移動」を行なうとともに、制度的な空間の「反転」「誤読」を仕掛ける試みである。
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAは、市街中心から離れた桂地区にある大学と異なり、京都市内中心部にあるサテライト的な展示施設である。本展では、通常のギャラリー入り口が封鎖された代わりに、事務スペースから入場して、バックヤードを通り抜け、倉庫の扉から通常の展示室へと至る導線が仕掛けられている。そこには、大学から運び込まれた無価値な石や備品が、丁寧に「梱包」された状態で置かれている。価値の反転は、展示室とバックヤードの空間的反転へと拡張し、ギャラリー空間には備品や展示台、カタログのストックなどが置かれ、「作品」は本棚や脚立などとともに薄暗いバックヤードに配置される。「学長室」の札が貼られたエレベーター内は、巨大な「工具箱」としてドリルや定規が壁に掛かる。ギャラリー内には仮設性を強調する小部屋がつくられ、大学所蔵の古美術品や民俗学資料が、入れ子状の空間に展示される。
このように本展では、「移動」という営為が、単なる物理的な移動に加えて、固定化された既存の秩序や価値観の撹乱・転倒を引き起こすという事態そのものを、建物全体を使って出現させている。では、移転の「本番」では、芸術大学という制度や機能に対して、どのように積極的な転換や読み替えが図られることになるのだろうか。現在の実践が、未来を動かす可能性となりうること。それは創造的な批評性のひとつの徴である。本展が、一過性のイベント的な試みに終わらず、未来の更新へとつながることを願う。
2016/04/17(日)(高嶋慈)
オーダーメイド:それぞれの展覧会
会期:2016/04/02~2016/05/22
京都国立近代美術館[京都府]
英語の展覧会タイトル「ORDER & REORDER CURATE YOUR OWN EXHIBITION」が端的でわかりやすい。所蔵品を用いた本展では、展覧会の入り口が2カ所用意され、観客は好きな方を選択できる。エントランスの吹き抜けから階段で展示室に上がる「ORDER(秩序)」を選ぶと、右回りの一筆書きの導線に沿って、11個のキーワードに仕切られた展示空間を順番に回れるようになっている。一方、エレベーターを使って展示会場に入る「REORDER(再配列)」を選ぶと、左、右、中央、どちらへも進める導線のない空間が現われ、仮設壁が立ち並ぶ迷路のような空間を進むことになる。
本展のもうひとつの特徴は、作者別、年代順、素材やジャンル毎といったオーソドックスな分類方法を採らず、11個のキーワードを設けて展示構成を行なう点であり、コレクションの再配列であるとも言える。11個のキーワードは、「Color/Monochrome」「Frame」「Object」「Money」「Readymade」「Beyond Order」「ID」「Play」「Body」「Still/Moving」「Reorder」。日本画と写真、写真と油彩画が並列化され、映像インスタレーションと静物画が対面する。一方、笠原恵実子や森村泰昌、デュシャンなど複数出品された作家の作品は、会場のあちこちに点在して置かれている。そこでは、隣接した/離れた作品どうしの関係性を読み解く知的な楽しみとともに、新たな「タグ付け」を増やすことで、さらなる再配列を呼び起こす流動性が潜在している。例えば、「REORDER」に配された都築響一の《着倒れ方丈記》の写真シリーズは、エルメスやマルタン・マルジェラ、アンダーカバー、ナイキといったファッションブランドによって自己のアイデンティティを規定する人々のポートレートであるという点で、「ID」のキーワードとも結びつく。一方、色とりどりの市販のマニキュアを、魅惑的な商品名のアルファベット順に並び替え、グリッド状のカラーチャートとして整然と並べた笠原恵実子の《MANUS-CURE》は、「Color/Monochrome」に配されているが、「REORDER」に組み込むことも可能である。さらに、「ID」に配されたクシシュトフ・ヴォディチコの映像インスタレーション《もし不審なものを見かけたら……》は、暗い展示室に縦長の4つの窓が開けられ、すりガラス越しに映る人々の行為を眺めているような作品である。談笑する2人、携帯電話で話す人、窓ガラスの掃除をする人、うろつく犬、メッカへの祈りを捧げる人……。話し声は頭上のスピーカーから途切れがちに聴こえるが、影絵のシルエットで映される彼らが何者であるのかはわからない。しかし不穏なタイトルは、彼らが不法移民であるかのような可能性をちらつかせる。不透明な「窓」という装置を通して平穏な日常風景と不穏さのあいだを不安定に揺るがせる本作は、「Frame」のキーワードとも接続可能であり、この接続によって「Frame」は絵画の額縁やカメラのフレーミングといった美術内部の文脈から、移民の排除や監視などの社会制度や規制をも含むようになり、より社会的な意味を帯びたものへと拡張していくだろう。
美術館は、秩序化されたコードに従って作品を収集・分類し、理想的なコレクションを目指して目録を埋め充実させていく使命を帯びているが、その現実的な現われとしては、テンポラルな流動性や仮設性を伴っている。またそれぞれの個別的な作品には、カテゴリーや分類化を逸脱するポテンシャルが内在しうる。その意味で、美術館のコレクションとは、完結することなく、無数の再接続や秩序の組み換えの可能性を秘めた巨大な資料体である。一つの作品を複数の文脈へと接続させていくこと、新たな作品の追加・参入によって、文脈自体が更新・書き替えられていくこと、貼られたリンクが固定的ではなく、動的な流動性を秘めていること。このように、既存の秩序の再配列やオルタナティブな展示の可能態を観客の想像力のなかで促し、逸脱と(再)接続、相対化によってつねに活性化され続ける有機的な場所としてコレクションを捉える視座を開くとともに、「美術館における主体は誰か(誰がありうるのか)」という問いを喚起させている点に、本展の優れた意義がある。
2016/04/17(日)(高嶋慈)
青木万樹子展「心を照らす」
会期:2016/04/09~2016/04/23
CAS[大阪府]
バーネット・ニューマンの連作《十字架の道行き》からインスピレーションを受け、20号キャンバスの絵画14枚が並ぶ。ただし時系列順の場面展開はなく、モチーフの色や形が連想的に変奏されながら、始めも終りもない流れの中に浮かんでいるような感覚を受ける。例えば、縦に真っ二つに切ったリンゴの断面の形は、手前に突き出された尻のエロティックな輪郭と呼応する。その曲線は、中国雑技団のようなブリッジのポーズで柔軟性を見せる人体の形象へと引き継がれる。モチーフの多くは、単純な形象ながら、ぼんやりと発光しながら背後の暗闇から浮かび上がるように描かれ、記憶や夢の中のイメージのように淡い光をまとっている。
図式的な見方をすれば、真っ二つにされたリンゴの断面は子宮を思わせ、真正面から描かれた牡鹿の角は男性器の暗喩であり、ベッドに横たわる人の上に浮遊するもつれ合った人体は性的な夢を暗示し、神前結婚式の花婿と花嫁の肖像が、その欲望の帰結として描かれる。しかしそれらは、私たちを脅かす抑圧された夢の昏(くら)さというよりは、暗闇を照らすほの明かりのように、生を祝福し肯定するような、柔らかな光に包まれている。
2016/04/16(土)(高嶋慈)