artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

KAC Performing Arts Program / LOVERS

会期:2016/07/09~2016/07/24

京都芸術センター[京都府]

裸体の男女のパフォーマーたちが、白く広がる床のエッジの上を歩み、駆け抜け、抱きしめる仕草をし、すれ違いと抱擁を繰り返しながら、背後の闇へ消えていく。電子的だがリリカルな音響と、ささやき声。故・古橋悌二のソロ・ワーク《LOVERS─永遠の恋人たち》(1994)は、極めて美しく静謐な映像インスタレーション作品である。本作には国内外に複数のヴァージョンが存在するが、2001年のせんだいメディアテーク開館記念展の際に再制作されたヴァージョンは、機材の劣化により、展示不可能な状態にあった。
これを受けて、古橋の卒業校である京都市立芸術大学の芸術資源研究センターでは、2015年度に、高谷史郎を中心とするダムタイプのメンバーの協力のもと、《LOVERS》の修復を行なった。今回の展示では、修復された《LOVERS》とともに、修復の関連資料も合わせて展示。筆者はこの修復関連資料の展示に関わっているが、その過程で見えてきた2つの点から本展を記述したい。
1点めは、映像、音声、コンピューターなどを用いて時間的な鑑賞経験をもたらすタイムベースト・メディア作品の修復における「オリジナリティ」の問題である。複数のヴァージョンが(再)制作され、過去の展示歴において、展示空間のサイズの揺れ(理想的には10m四方/実際には8m~14m四方が許容範囲)や天井から投影されるテクストの有無が見られたように、《LOVERS》という作品の物理的現われは常に揺らぎの中にあった。また、機器の技術的進歩が作品の美的質に関わってくる場合もある。制作当時は技術的限界だったプロジェクターの解像度や輝度の低さは、現在、技術的には改善可能だが、当時の「不鮮明な暗さ」「映像身体の亡霊的な質」を作品の美的質としてどこまで保持すべきかという問題がある。
さらに、今回の修復作業では、故障した機器の交換やアナログ映像のデジタル化に加え、本作をコンピューター上の仮想空間で再現する「シミュレーター」が制作された。《LOVERS》における各パフォーマーの映像の動きはコンピューターで制御されているため、映像を解析・数値化した情報を確認し、作品を動かしているプログラムを検証する作業が必要だからだ。このシミュレーターには、「Actual」と「Ideal」の2種類が存在する。「Actual」は、現行の《LOVERS》におけるパフォーマーの実際の動きを再現するもの。 一方、「Ideal」は、古橋が編集したヴィデオに基づき、彼が制作時に思い描いていたであろう理想的な動作をシミュレートするもの。それぞれの動きをグラフ化したタイムラインでは、「Actual」と「Ideal」の2本の線はわずかなズレを見せているが、その意味するところは大きい。「実現されなかった理想状態」を仮想空間で再現可能にし、視覚化して記録できることで、将来的な修復や再制作において、どちらに参照・準拠すべきか? という「オリジナル」概念の所在や有効性についての問いを提起するからである。


古橋悌二《LOVERS―永遠の恋人たち》展示風景
撮影:表恒匡

2点めは、「生身の身体による一回性の出来事としてのパフォーマンスをどう記録/再現するか」という問題である。今回の企画では、ダムタイプの過去作品の上映会(とりわけ《LOVERS》とほぼ同時期に制作されたパフォーマンス公演『S/N』(1994年初演))、《LOVERS》の展示、「シミュレーター」の展示、という3つが平行的に存在したことが大きい。それは、身体性が縮減されていく過程として記述できる。
『S/N』と《LOVERS》は、古橋のHIV+感染を基軸に、エイズ、セクシュアリティ、情報化と身体といった政治性に加えて、パフォーマーたちの身体がボーダー=境界線上を行き交い、背後の闇へと身を投じる構造においても共通点を持っている。「私は夢みる 私の性別/国籍/血/権威/恐怖が消えることを」というテクストが流れ、「外国人」と表示されたパスポートコントロールのモニターに映された女性が、「友達をつくるため、愛し合うためにはこんなものは要らない」とパスポートを破り捨てる『S/N』においては、終盤、壁の上で服を脱ぎ捨てたパフォーマーたちが壁の向こうへ身を投じる行為は、強制的な排除の執行であり、あるいはあらゆるボーダー=境界の向こう側への、身を賭した命懸けの跳躍である。弾丸のように高速で投影されるテクスト、つんざく爆音、歓喜と悲鳴の祝祭の中で進行する『S/N』に対して、《LOVERS》は極めて静謐で親密に、観客の身体と思考に対峙する。それは、パフォーマンス作品の時間的・空間的有限性や祝祭性を、記録映像とは別のかたちで抽出・変換して「再生」させているとも言える。
ほぼ等身大でプロジェクションされる身体、空間全体を包む全方位へのプロジェクション、背景のブラックアウトによる展示室の物理的な壁の消滅、そしてセンサーの作動により、古橋の映像が観客の動きに反応して振り向くインタラクティブ性。 これらの特質によって、《LOVERS》は身体的に経験されるのであり、単に映像インスタレーションというより、舞台上のパフォーマンスの「再現」に近づく。私たちは、振り向いた古橋と視線を交わし、彼が目の前で自分自身/他のパフォーマー/空虚を抱きかかえながら、背後の闇に倒れていく様を目撃するかのように感じる。しかしその感覚が幻影にすぎないことは、展示室中央のタワーに搭載された剥き出しのプロジェクターが視界に入る度に、その眩しい光に目を射抜かれる度に、そして機器の作動音が聴こえる度に、露呈される。人工的な装置によって、観客と映像身体は擬似的な交感を親密に交わし合うと同時に、絶対的に隔てられてもいる(そして「シミュレーター」の仮想空間においては、観客の身体はもはや存在せず、ただ神の視点があるのみである)。
ここで、シミュレーターとの比較によって逆照射されるのは、《LOVERS》における観客自身の身体性である。すべてを俯瞰する神の全能の視点とは異なり、現実の物理的空間で展開する《LOVERS》では、観客は四面で同時に生起する出来事すべてを一望できない。白い正方形の床のエッジを歩き、駆け抜け、逆走し、交差し合うパフォーマーの動き、その360度で展開されるさまざまな運動の交錯に誘導されるように、私たちの眼だけでなく身体が動き出し、空間内を歩き回るようになる。そのとき、四角い正方形の床は「舞台」に変容し、そのアクティングエリアの上を歩くのは、身体的存在として覚醒された私たち観客なのだ。スクリーンやモニターを見つめて没入する受動的な鑑賞者から、身体的に覚醒された体験者へ。同時にここでは、「見ること」をめぐる反転が起こっている。観客は、「舞台」を取り囲むエッジを歩くパフォーマーから(擬似的に)見つめ返され、その眼差しを全身で受け止めるのだ。
しかし、能動的な身体として要請された観客は、天井に設置されたセンサーの感知域内にいることで、監視され、動きを「制限」されることになる。センシングの範囲に抵触すると、「DO NOT CROSS THE LINE OR JUMP OVER」の円形を描くテクストに足元を包囲されるのだ。パフォーマーたちの身体をスキャンするように追いかける、「fear」と「limit」の2本の線。「censor/sensor(検閲/センサー)」のズレと重なり合い。《LOVERS》の構造は、四方の壁に映像を投射する中央のプロジェクター・タワーがパノプティコンの監視装置を想起させるように、監視の権力を濃厚に匂わせながら、その反転の企てへと向けられている。私たちに要請されているのは、受動的な傍観者ではなく、また神の全能的な視点に身を置くのでもなく、この隔たりを跳び越え(JUMP OVER)、来るべき誰かを待ちながら両手を広げる他者たちと抱擁し合う想像力の強度である。それはまた、物理的な/想像的な差異の境界線によって分割され、ますます細分化されていく社会に対する批評となる。

2016/07/09(土)(高嶋慈)

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林勇気 個展「Image data」

会期:2016/06/25~2016/07/30

ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]

ここ半年間、個展・グループ展への参加が相次ぎ、精力的に新作を発表している林勇気。最新作《image data》が展示された個展は、デジタルデータとしての映像の成立条件や非物質性、受容や消費のあり方に対する意識をより先鋭化させたものとなった。
冒頭、壁面いっぱいに投影された映像には、海辺、花畑、バーベキュー、ドッグフードのパッケージ、パスタ、飲食店、公園、ビルや雑踏など、ごく平凡で、アマチュアが撮影したと思しき写真が、脈絡は不明なまま、一枚ずつ映される。すると画像は無数の小さな四辺形に切り取られ、回転ドアのようにクルクルと回転し始める。x軸(横軸)とy軸(縦軸)の平面上にのみ存在するデジタル画像に、架空の奥行(z軸)を与えて、それぞれ異なる回転速度を与えて回転させると、どんなアニメーションが生成するだろうか。目をチカチカさせるような黒い穴の点滅によって、デジタル画像は物質的な厚みも奥行きも一切持たないことが露呈する。やがて、それぞれの画像は切り抜かれた無数の断片に分解し、混ざり合い、見えない中心軸の周りを高速で旋回し始める。ブラックホールを連想させる宇宙的な光景とその終焉は、匿名的な画像が日々膨大に生み出され、ネットを介して共有され、消費されていく巨大な墓場を思わせる。
このように、デジカメや携帯電話で手軽に撮影されたデジタル画像の受容や消費のあり方についての意識は、作中で使用された画像の選択方法にも明らかだ。ここでは、インターネットの画像検索において、「イメージの誤訳」として表示された「エラー」画像を順番に拾い上げていくという「エラーしりとり」の手法が採られている(例えば、検索ワードに「犬」と打ち込んで、機械的な誤訳で表示された「ドッグフード」の画像を見つけると、次は「ドッグフード」と打ち込み、紛れ込んだ「パスタ」の画像を拾うといった具合である)。見たい画像を効率よく探すための画像検索システムにおいて、通常は価値のない「エラー」と見なされ、無視される画像たち。それらを拾い上げ、映像作品の中で「再生」させて束の間の命を与えつつ、切り刻んで闇の中に葬り去る林の手つきには、デジタルデータとしての映像の軽さや儚さに対する両義的な眼差しが感じられる。
その姿勢は、「待機画面」のままのブルーのモニター画面が対置されることによって、即物的なレベルで補強されている。それは、「接触不良」のアクシデントといった現在時における潜在性かもしれず、「データの破損・劣化」「データの保存形式の旧式化」といった未来の展示における可能性かもしれないのだ。


《image data》展示風景
撮影:田中健作

2016/07/02(土)(高嶋慈)

プレビュー:Art Court Frontier 2016 #14

会期:2016/08/20~2016/09/24

ARTCOURT Gallery[大阪府]

「Art Court Frontier」は、キュレーター、アーティスト、ジャーナリスト、批評家などが1名ずつ出展作家を推薦し、関西圏の若手作家の動向を紹介する目的で2003年に始まったアニュアル企画。2015年からは、作家数を約10名から4名に絞ることで、各作家の展示スペースが拡大され、ショーケース的な紹介から一歩進んで、4つの個展が並置されたような充実感が感じられるようになった。
筆者は、今年の推薦者として本企画に関わっており、2016年6月15日号と2015年7月15日号の本欄で取り上げた、写真家の金サジを推薦させていただいた。彼女が近年取り組む「物語」シリーズの作品が、2回の個展を経てどう深化した姿を見せるのか、期待がふくらむ。他の出展作家(括弧内は推薦者)は、迫鉄平(表恒匡:フォトグラファー)、水垣尚(堀尾貞治:アーティスト)、鷲尾友公(北出智恵子:金沢21世紀美術館学芸員)。写真、映像、インスタレーション、絵画や立体と表現媒体もさまざまな4名を通じて、何が見えてくるだろうか。

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2016/06/27(月)(高嶋慈)

プレビュー:わたしは、春になったら写真と劇場の未来のために山に登ることにした

会期:2016/08/26~2016/08/28

アトリエ劇研[京都府]

京都を拠点に活動する同世代の演出家と写真家、それぞれ2組が、演劇/写真/ダンスの境界を交差させ、対話を通じた共同制作を行なう2本立ての企画。2013年~15年に毎年開催されたDance Fanfare Kyotoでの「×(カケル)ダンス」(御厨亮企画)で試みられた、異ジャンルのアーティストによる共同制作を引き継ぐ試みである。
「身体の展示」として展覧会も行なうダンサー・振付家・演出家の倉田翠(akakilike)は、「家族写真」というフォーマットを足がかりに、セルフ・ポートレイトを中心に制作する前谷開と組む。一方、俳優の言葉と身体の関係性に取り組む演出家・和田ながら(したため)と、写真イメージと物質の関係性を考察する守屋友樹は、ある「登山の経験」の共有をパフォーマンスに仕立てる予定。前谷は、カプセルホテルの内部の壁に落書きしたドローイングとともに撮った全裸のセルフ・ポートレイトや、同居人の後ろ姿になりすまして撮ったポートレイトなど、「私性」の中に身体的行為の痕跡やフィクショナルな要素を混在させた写真作品を制作している。また、守屋は、ある固有の山や岩が写真という媒介を経ることで、形態や色彩といった視覚的情報に置換され、布やネオン管といった物体/光を用いた見立てへと空間的に増殖していくような展示をつくり上げている。それぞれに身体性や空間性への意識を見せる2人の写真家が、演劇やダンスの時空間とどう関わり合うのか、期待される。

2016/06/27(月)(高嶋慈)

鈴木理策写真展「水鏡」

会期:2016/04/16~2016/06/26

熊野古道なかへち美術館[和歌山県]

田辺市美術館から、熊野の山の中へ分け入り、熊野古道なかへち美術館へ。妹島和世+西沢立衛/SANAAによる美術館建築は、展示室の外側をガラスの壁が取り囲み、鬱蒼とした山や川辺を眺めながら、回廊のように一周することができる。
こちらでは、鈴木理策の「水鏡」シリーズの写真と映像作品を展示。写されているのは、睡蓮の浮かぶ水面や、緑深い森の中の池や湖だ。上下反転した鏡像として、現実世界の像を複製する水面。イメージを写しとる皮膜としての、写真との同質性。そこには、シンメトリックな構造のみならず、水面上に浮かぶ睡蓮/空や樹木が写り込む水面=鏡面/水面下に沈んだ情景、さらに手前に写された木の枝や幹、といったさまざまな階層構造が出現する。加えて、浅い被写界深度とピントの操作により、手前に存在する睡蓮はぼやけて実体性を失う代わりに、鮮明に写された水面の反映像がむしろクリアな実体性へと接近する。こうした虚実の撹乱は、森の中の樹木が映り込んだ水面が、風の揺らぎによってブレることで、凸面鏡のように歪みながら現実の光景と浸透し合う写真によって完遂される。
こうした鈴木の写真では、「見る」ことが対象の全的な統一をもたらすのではなく、むしろ「見る」ことによって次々と分裂が引き起こされていく。そこでは、咲き誇る爛漫の桜や緑深い森の中の水辺といった極めてフォトジェニックなモチーフは、徹底して人工的な知覚世界を露出させるための口実/生け贄として捧げられているのだ。それは写真を見る経験において、視覚的酩酊の快楽や没入感を与える一方で、「見る」主体について問い直す醒めた姿勢を差し出している。私たちは、審美的な相を通過して、「美しい日本の原風景」といった被写体に付着した意味や物語性を振り払いながら、「見ること」をめぐる問いへと漸次的に接近するのだ。

2016/06/25(土)(高嶋慈)

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