artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

アピチャッポン・ウィーラセタクン アートプログラム〈中・短編集〉

会期:2016/05/07

シネ・ヌーヴォ[大阪府]

タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作映画「光りの墓」公開に伴い、中・短編を上映するプログラム。『Worldly Desires』(2005)、『エメラルド』(2007)、『My Mother’s Garden』(2007)、『ヴァンパイア』(2008)、『ナブアの亡霊』(2009)、『木を丸ごと飲み込んだ男』(2010)の計6作品が上映された。
ラインナップからは、1)「反復構造とズレ」、2)「記憶」、3)「光(の多義性)」という、ウィーラセタクンの映画/映像作品に通底するキーワードを抽出することができる。まず、1)「反復構造とズレ」の明白な志向が見て取れるのが、中編の『Worldly Desires』。ポップソングのミュージックビデオを夜の森で撮影する女性歌手とダンサーたち、愛し合う男女の逃避行を描く劇中劇、それを撮影するクルーの会話、という3つのパートが交互に描かれる。3パートとも鬱蒼と茂る森の中で進行するが、同じ場所で起きた出来事なのか、それぞれの関係性はどうつながっているのかは曖昧だ。女性歌手とダンサーたちは、まばゆい照明を当てられて目鼻立ちが曖昧に溶解し、夢の中の光景のようにおぼろげながら、何度も同じ歌とダンスを繰り返す。また、森の中を駆け落ちする男女のシーンは、前半と後半で繰り返されるが、後半では女性が男性の手を振り払い、一人で森をさ迷う。反復構造が差異をはらむことで、異なる物語を分岐させていく手法は、長編映画『世紀の光』においても顕著である。同一性と差異の重なり合った世界は、記憶違い、日常世界とよく似た夢、平行世界、前世/現世の輪廻など、さまざまな想像をかき立てる。
また、2)「記憶」を扱う作品として、『エメラルド』が挙げられる。閉鎖されたバンコクのエメラルド・ホテルの室内を映す映像に、中年女性と若い男性が会話する声がオーバーラップする。無人の室内を綿毛か羽根のように舞う、白い物体。中年女性の声が語る、遠い初恋の記憶。香りを嗅ぐと前世の記憶が見えるという花の話。部屋を漂う白い物体は、語りの進行とともに密度を増し、ピンクやブルー、緑に色づいていく。それは歳月を物語るホコリを思わせるとともに、場に降り積もった記憶の断片や、浮遊する無数の霊魂のようにも見えてくる。そして、ベッドに亡霊のように浮かび上がる誰かの顔。それは寝顔なのか死に顔なのか。生(性)と眠り、死が重なり合う場所としてのホテルの部屋、その閉じられた空間の濃密性のなかに、染み付いた匿名的な記憶が降り積もり、あるいは語りの声によって解き放たれていくかのようだ。
3)「光(の多義性)」は、『ナブアの亡霊』において、重層的な光の交錯として現われる。蛍光灯に照らされた夜の草地。爆撃か花火のような激しい稲妻が落ちる大地。稲妻の炸裂は、画面内のスクリーンに映し出され、入れ子構造を形づくる。スクリーンの前に若者たちが現われ、火のついたボールでサッカーに興じ始める。夜の闇に火の粉をまき散らしながらバウンドする火球は、人魂を思わせる。そしてゲームの盛り上がりとともに、スクリーンに燃え移る火。一方、燃え尽きたスクリーンの背後では、プロジェクターの光がむき出しになり、バチバチという音とともに激しく明滅する。稲妻の映像は炎という現実の光に飲み込まれて消滅したが、スクリーンを失ってもなお、生き物のように明滅し、映像とは純粋な光にほかならないことを主張する。照明や光源、花火などの人工的な光と、稲妻や炎といった自然界の光。霊魂など神秘的存在のメタファーとしての光。映像を生み出す光。そこに含まれる、かつての光景の記憶。「光」の多義性が重層的に重なり合い、眩暈を起こすほど美しい作品である。

2016/05/07(土)(高嶋慈)

イシャイ・ガルバシュ、ユミソン「Throw the poison in the well」

会期:2016/04/30~2016/05/08

Baexong Arts Kyoto[京都府]

Baexong Arts Kyotoを運営するアーティスト、ユミソンと、イスラエル出身でベルリン在住の写真家、イシャイ・ガルバシュの二人展。出身地も年齢も異なる二人だが、「親世代がジェノサイドの生き残りである」という共通の出自を持つ。負の記憶の継承と共有の(不)可能性、親子関係がはらむ心理的葛藤、個人の生と民族の歴史の交差について言及するそれぞれの過去作に加え、2ヶ月の滞在制作において共同制作された新作《Throw the poison in the well》が発表された。
イシャイ・ガルバシュの《The Number Project》は、ナチス政権下でユダヤ人強制収容所に収容された母親が、腕に入れ墨で刻印された囚人番号を、自身の腕に焼きごてで刻印して、痛みとともに継承するというもの。数字とアルファベットが刻まれた金属片をガスバーナーであぶり、顔をしかめながら自身の腕に焼き付けていく記録映像と、生々しい傷痕が癒えていく様子を毎日1枚ずつ、101日間にわたって撮影した写真が展示されている。「A2867」といういびつな数字が、赤く血でにじみ、かさぶたになり、はがれ、ゆっくりと薄れて読めなくなっていく過程が、ドキュメントとして示される。母親の身体に刻印された番号を、痛みとともに「私」の身体に受け入れ、「私のこの身体」に起きた出来事として反復・引き受けようとすること。それは、民族の受難の物語への回収を拒み、「母と私」という極私的な関係性に留まりながら身体的に継承しようとする身振りである。それはまた、個人を匿名性へと暴力的に押しやった番号が、個人の生の証として取り戻されるという逆説を帯びてもいる。しかしその番号が薄れていく様子は、時とともに傷が癒えていく過程であるとともに、迫害の歴史が忘却されていくプロセスの可視化をも思わせる。ガルバシュの鮮烈な作品は、傷口を押し開きながら縫合するような両義性をはらんでいる。
また、ユミソンの《It Can’t Happen Here.》は、1948年の済州島四・三事件(韓国軍などによる島民虐殺事件)の生き残りである父親が語った記憶と、自身が罵声を浴びせられたヘイトスピーチの体験、父親との葛藤などを、父親の視点から仮構的に綴り直したテクストである。ただし、固有名や具体的な日付と場所を剥ぎ取られて抽象化されることで、話者の「I」は、不特定多数の他者を受け入れる場所となり、記憶と現在時の思索が行き来するなかに、体験の過酷さは詩的なモノローグとして語られる。
一方、ガルバシュとユミソンの共同制作《Throw the poison in the well》は、ともにジェノサイドの生き残りを親に持ち、民族の被傷性にどう向き合うかをそれぞれの視点で考える二人が、「井戸に毒を流す」行為を京都市内の市街地や河川で擬似的に再現するパフォーマンスの記録である。タイトルが示唆するのは、1923年の関東大震災の際、「朝鮮人が井戸に毒を流している」などのデマによって引き起こされた朝鮮人虐殺事件だ。だがこのパフォーマンスで二人は、社会的に排除され憎しみの対象となる「魔女狩り」の「魔女」役を押し付けられたことを糾弾するのではなく、むしろその役割を引き受けてフィクションとして演じてみせることで、「被害者の歴史」を訴えるという政治的正しさに陥ることを回避し、シンプルな行為がもたらす想像の回路を開いていた。
静かな住宅街で、個人宅の軒下に置かれた防火用のバケツに、二人がそっと入れるのは、小さな唐辛子である。その鮮烈で美しい赤。その行為は、むしろそっと贈り物を置いていくような、慎ましやかな贈与のようにも見える。一方、京都市内を流れる鴨川に「唐辛子を流す」行為は、河川敷という空間の公共性や開放感とあいまって、穢れや厄を依代(よりしろ)である人形に託して海や川に流す祭礼行事を想起させた。それは人を殺す「毒」ではなく、社会の底に澱のように溜まった「毒」を、身代わりとして流し、浄化しようとしているようにも見えるのだ。異質な他者への憎しみや排除が社会的不安や混乱の中で暴走し、肥大化した妄想が集団的につくりあげた「架空のテロ」の恐怖。その模倣行為が、憎しみの浄化行為として希望に満ちたものに変わる瞬間を、アートに成しえることとして差し出していた。


左:Yishay Garbasz & Yumi Song《make the poison 9771》
右:Yishay Garbasz《The Number Project》

2016/05/06(金)(高嶋慈)

アピチャッポン・ウィーラセタクン「世紀の光」

会期:2016/04/30~2016/05/20

シネ・ヌーヴォ[大阪府]

タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編映画「世紀の光」(2006年)の日本初公開。
軍隊を辞めて病院に再就職しようとする青年医師と、面接にあたった若い女性医師の会話。同じエピソードが、前半は緑豊かな農村部の病院を舞台に、後半は近代的な都会の病院を舞台にして繰り返される。よく似ているが細部や固有名が微妙に食い違うエピソードの反復は、カメラアングルの差異という映像のトリックを境にして、女性視点の物語と男性視点の物語へとそれぞれ分岐していく。前半では、窓の外で樹々が風に揺れ、アマチュアの歌手でもある歯科医は治療中に歌を披露し、牧歌的な雰囲気のなか、女性医師の恋愛の進展が描かれる。一方、後半では、青年医師の恋愛も描かれるものの、地下の病棟には軍関係者のみが収容され、義手や義足の工房部屋にはノイズと煙が立ち込め、真っ白でクリーンな建物の中を不穏な空気が浸透していく。
前半/後半ともに俳優は衣装を変えて同じ役を演じ、似たような会話が反復され、病院の敷地内にある仏像が再び映し出されるが、背景が異なっている。開放感ただよう緑の敷地内と、近代建築の直線的なスロープが横切る空間。時空を超えて反復しながらも、完全に同一には重なり合わない、平行世界のような物語。夢を見ていたのか、あるいは記憶違いを思わせる反復とズレは、相似形を描く夢と現実、記憶と現実のどちらにも定位できない感触を呼び起こす。あるいは、劇中で「前世と現世」「現世と来世」について語られるように、この反復とズレは、地方と都会という空間的な差異ではなく、近代化・都市化される以前の前世の光景と、管理と資本主義が浸透した現在=現世とを描いているのかもしれない。そして、朝の公園でジョギングや体操をする人々が映し出され、「目覚め」「夢からの覚醒」が示唆される。恋愛の成就や気持ちのすれ違いを繰り返しながら、彼らはいくたびも転生し、あるいはその輪廻自体が壮大な夢だったのだ。だとすれば、それは誰が見ていた夢なのだろう。

2016/04/30(土)(高嶋慈)

アピチャッポン・ウィーラセタクン「光りの墓」

会期:2016/04/09~2016/05/06

テアトル梅田[大阪府]

タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの最新作。出身地であるタイ東北部イサーンを舞台に、寓話めいた物語が緩やかに進行し、政治批判の暗喩と、光と風にあふれた穏やかな詩情が共存する。
廃校になった学校を改装した病院に、原因不明の「眠り病」にかかった兵士たちが収容されている。事故で足に障害を抱え、松葉杖をついた中年女性のジェンが、ボランティアで兵士たちの世話をしている。窓の外の元校庭では、軍の管理下でショベルカーが地面を掘り返している。病室には、「アフガン帰還兵にも効果があった」と医師が説明する奇妙な柱状のライトが運び込まれ、緑、赤、ブルー、ピンクと幻想的に色を変える光が、植物状態で昏睡する兵士たちの治癒にあたる。しかしSF的な装置の傍らでは、死者の霊や他人の夢と交信できる霊的な世界が広がっている。ジェンの前に現われた2人の若い女性は、自分たちは古いお堂に祀られている王女であると言い、「病院の下には古代の王たちの墓があり、彼らは眠る兵士たちの生気を吸い取って今も戦い続けている」と告げる。そして、ジェンが息子のように世話する若い兵士イットは、死者の魂と交信できる女性の身体に眠りのなかで入り込み、彼女の身体を媒介として、かつての王宮の豪華な室内へと案内する。しかし、そこは破壊された偶像が横たわるだけの林であり、何もない空虚が広がっている……。
(元)学校、病院、軍隊というラインは、「規律化され集団的に管理される身体」を強く意識させる。過去の栄華の痕跡もない、「不在の王宮」の虚構性。冗談めかして「スパイじゃないの?」と口にする人々。映画館では、国王をたたえる歌と映像が流れる際に人々は起立するが、スクリーンには何も映らない。これらは、タイの政治的現状への批判を示唆する。治療に用いられる光と、映画館で人々が見つめる光。兵士たちの「眠り病」は、現実からの逃避や感覚の麻痺を思わせるが、それは逃走であり闘争でもある。兵士イットは、身体と意識を何者かに拘束されつつも、夢のなかで意識を自由に飛ばし、傷ついた孤独な者に癒しと覚醒の方法を授けることができる。しかし、見開かれて虚空を凝視する目は、戦慄的な覚醒とも、魂を抜かれた半睡状態ともつかない。軍のショベルカーは、地面を掘り返しているのか、何かを埋めて隠蔽しようとしているのか。「目覚めたい」というジェンに、「僕は眠っていたい」と答えるイット。夢の中と現実、重なり合わない世界にそれぞれ生きる2人は、シャーマンの身体を媒介にしないとつながることができない。世界は至るところで傷と綻びに満ちているが、だからこそ同じくらい深い恩寵で満たされてもいる。

2016/04/27(水)(高嶋慈)

ひらいゆう写真展「休眠メモリー」

会期:2016/04/19~2016/05/01

アートスペース虹[京都府]

フランス在住の写真家、ひらいゆうの個展。鮮烈にして夢幻的な色彩のなかに、悪夢と現実の輪郭が溶解したような光景が出現する。「マダムアクション」のシリーズは、男児向けのマッチョな男性フィギュア(アクションマン)に化粧を施して「女装」させ、フォーカスをぼかして接写することで、生きた人間のポートレートのように写し取った写真作品である。カーニバルの仮装やドラァグ・クイーンのように見える彼ら/彼女らは、儚くも妖しい美しさをたたえている。一方、風景写真のシリーズ「BLUEs」では、夜明けとも黄昏ともつかない、薄明のブルーが浸透した世界を、ライトの人工的な灯が照らし出す。ブルー/赤やオレンジという色彩の対比のなかに、夜/昼、夢や記憶のなかの光景/現実の風景、人形/人間、男/女、といういくつもの境界が揺らぎ合う。とりわけ、印象的な「赤」という色は、血や内臓など生々しい生理的感覚を呼び起こすとともに、網膜内の残像として感じる光のように、非実体的な浮遊感を帯びている。
また、ベルギーのモンスという、第一次世界大戦の戦禍を受けた街で撮影した映像作品も出品されている。暮れゆく、あるいは明けていく空。記憶のなかの闇を照らす象徴のようなロウソクに、顔の見えない兵士の写真がオーバーラップする。墓石の立ち並ぶ墓地の光景。威嚇するような表情の、サルの剥製の頭部。その両目のイメージは、車のヘッドライトと思しき二つの円と重なり、地面に散った無数の花びらへと連鎖していく。圧縮され重なり合った時間と、反復され引き伸ばされた時間。不可解な夢やフラッシュバックのような映像の連なりのなか、覚醒したいくつもの「目」が、闇や夢のなかからこちらを眼差していた。

2016/04/23(土)(高嶋慈)