artscapeレビュー
山﨑健太のレビュー/プレビュー
『風景』のつくりかた
会期:2021/09/28~2021/10/03
目黒区美術館区民ギャラリーB[東京都]
「『風景』のつくりかた」は東京藝術大学大学院美術研究科美術専攻先端芸術表現領域出身の大槻唯我、鈴木悠生、寺田健人の三人の写真家のアーティスト・コレクティブによる展覧会。会場で配布されたハンドアウトには「『風景』とは何か」という問いに続いて「身近で当たり前のものとして享受している現代の『風景』とはそもそも何か」「私たちは『風景』をどうつくっているのか」「写真として写しているものは何か」という三つの問いと、「地域社会や都市空間において人間の営為によって生じた痕跡を『まなざす』ことによって、新たな「風景」の獲得を試み」るという宣言が掲げられている。
大槻、鈴木、寺田の順に並ぶ展示空間は作家ごとに区切られており、突き当たりにある寺田の展示まで観た観客はそこで折り返し、再び鈴木、大槻の展示空間を通過して会場を出ることになる。
観客がまず、そして最後に再び目にする大槻唯我《Study of Abandoned Mines and Forests》(2020-)は、いまや国内ではひとつを除いてすべてが閉鎖された金属鉱山をテーマにした写真群。有害な排水を処理する鉱滓ダムや不要な土砂を捨てた堆積場、そして破壊された森の植生などを写した写真が並ぶ。「『風景』のつくりかた」と展覧会のタイトルが大きく記された入口を入ってすぐの展示が大槻のものであるインパクトは大きい。展示の冒頭から、都市部に住む私の生活こそが、私の目には入らないところでこのような「風景」をつくり出しているのだということが突きつけられ、展覧会のタイトルの意味するところについて改めて考え込んでしまった。
一転、鈴木悠生《TOKYO TRANSPARENT BOUNDARIES》で鑑賞者が目撃するのは、鈴木が「生まれ育ち日常を過ごす東京という都市の風景」。テーマは境界ということで、フェンスや道路、川、陸上競技のトラックなどの境界がある風景に、ところどころその風景のどこに「境界」があるのか判然としない写真も混じっている。例えばある写真では境界を形成していた樹木が別の写真では単に風景の構成要素の一部となるなど、写真間で連続したり変化したりする要素が「境界」とは何かという思考を誘う。鈴木の撮る都市の風景と大槻の撮る山間部の、都市からは排除された風景。その境界はどうつくられているのかなどとも思う。
展示空間最奥部の寺田健人の連作写真《New Shelter》はタイトルの通り公衆トイレをテーマにした作品。排泄、SNS、食事、クルージング。「公に開かれた私的空間」である公衆トイレを「様々な欲望の実践の場所」として捉える寺田の写真は、公衆トイレの外観やトイレ内部での行為、あるいはその痕跡を捉えたものだ。
一方、寺田の展示空間の中央に置かれた映像インスタレーション《Act in public toilet》は「①トイレに残された痕跡を写真で撮り収集家のように集め、②トイレに残された痕跡から浮かび上がる人物像を想像して演じるというパフォーマンス」を映したもの。映像が映し出されているディスプレイは四方をパーティションで囲まれていて、鑑賞者はトイレの個室を上から覗き込むようにして(展示の1枚目に置かれた写真のように盗撮めいたアングルから!)映像を鑑賞する。
映像は三種類あり、ひとつは男がトイレの個室で歯を磨いている映像。残る二つはともにトイレを掃除している映像で、一方はインスタライブとして配信されていたもののようだ。歯を磨く男はカメラを意識することもなく、まさに盗撮風の映像なのだが、トイレ掃除の映像については、途中まではやはり盗撮風に見せつつ、やがて男がカメラに向かってジェスチャーをして見せたりカメラの位置を調整したりすることから、それが「やって見せている」行為であることがわかる趣向になっている。インスタライブに関しては言わずもがな。男と鑑賞者との関係が映像によって少しずつ違っているのが巧妙だ。
《Act in public toilet》を見終え、再び《New Shelter》に戻ると、鑑賞者は二つのことに気づくことになる。ひとつは展示空間自体が《Act in public toilet》と入れ子構造をなすトイレの個室に見立てられていること(展示の壁面は公衆トイレのパーティションにそっくりである)。展示空間はアーティストの、そして鑑賞者の欲望の発露する空間でもある。もうひとつは、《Act in public toilet》に付されていたという説明に虚偽が含まれていたのではないかということだ。《New Shelter》には《Act in public toilet》のトイレ掃除の最中に撮られたと思しき写真が含まれており、ならばそれは、寺田自身がトイレに残した痕跡だということになる。そこでは痕跡=写真とパフォーマンスの因果が、そして見る/見せるの関係が寺田の説明とは逆転しているが、しかしそれが実際にトイレに残されていた痕跡なのか、それとも寺田が残した痕跡なのかを鑑賞者が判別する術はない。見ることと見せることの欲望は絡まり合っている。
大槻と鈴木の展示はそれぞれ単独ではやや物足りなくも感じ、寺田の展示についてはコンセプトに比して映像やインスタレーションの設えが十分には練りきれていなかったのではないかとも思う部分もある。だが、三つの展示は連なることで、欲望と見ること、視線をめぐるさまざまな思考を誘発する。私的な領域から再び外へと展示空間を逆戻りしながら見る写真に、私はまた異なる思考を誘われる。
鈴木悠生:https://www.yu-suzuki.com/
寺田健人:https://kentoterada.myportfolio.com/work
2021/10/03(日)(山﨑健太)
コトリ会議『スーパーポチ』
会期:2021/09/23~2021/09/27
こまばアゴラ劇場[東京都]
とぼけた演技と少し不思議な物語の背後に死の気配が充満し、時おり立ち上がる濃厚なエロスが生きることの滑稽と悲哀に触れる。コトリ会議のユニークな魅力はその飄々とした底知れなさにある。
実家で飼っていた犬・スーパーポチ(以下ポチ、吉田凪詐)が亡くなり、菫(三ヶ日晩)は恋人の登(まえかつと)とともに帰省する。兄の洋(山本正典)は妻の直生(花屋敷鴨)と戻ることのない旅に出るのだと自らの死を匂わせ、菫に実家を託そうとするが──。
作・演出の山本正典は当日パンフレットに「実家に帰りたいのですが、帰れないので、お芝居の中で帰省することにしました」と書いている。なるほど、菫は劇団をやっていて、去年は金沢でも公演をしたらしい。その経歴は確かにコトリ会議と、そして山本と重なっている。作中では語られない菫の名字も台本には山本だとはっきり記されてさえある。面白いのは、山本自身は劇中では実家に残った(そしてこれから出て行こうとしている)兄・洋を演じているという点だ。
『スーパーポチ』は一人一役を基本としながら、ときにひとりの俳優が複数の役を兼ね、あるいはある人物が別の人物と重ね合わせて描かれる。たとえば、ポチはぬいぐるみの体で舞台上に登場するのだが、それを操る吉田もまた、なぜか犬の着ぐるみを着ており、舞台上のポチはつねに二つの体を持った存在としてそこにいることになる。しかも、ポチの鳴き声は吉田によって演じられるのだが、人の言葉を話す場面に限っては、なぜかその声は直生役の花屋敷によって演じられるのだ。さらに、洋はかつて、ポチに自分の魂を乗り移らせるための魂継ぎの儀式(=首吊り)を試みたことがあったのだという。そのせいかどうか、ポチから受け取ったアンテナ(?)を装着した登は洋の記憶を語り出したりもする。直生はまた、登の自殺した母に似ているらしく、登は「お母さんて呼んでいい」などと言い出す。
かつての菫の担任であり現在も山本家に相談と称して入り浸る堂下先生(原竹志)も、最初は堂下先生に似たポチの葬儀の式場の人として登場し、その存在は最初から二重化されている。台本には一場面だけ堂下家での出来事が記された箇所があるのだが、堂下の妻と思われる女を花屋敷が、娘を三ヶ日が演じているため、観客である私にはそれはほとんど山本家の出来事のように見える。「名前を呼んで」と言う娘に堂下が答えないのだからなおさらだ。菫にキス以上のことをしたことがあるという堂下(=原)が菫(=三ヶ日)と親子を演じるこの場面は、二人の関係に一層の不穏さを付け加える。
こうして場面が積み重なり、エピソードが語られていくほどに、人物の輪郭は溶け出していく。洋と直生、直生と登、登と菫、菫と堂下。作中にはしばしば性行為、あるいはそれを思わせるエロティックな場面が挿入されるが、数珠のように連なり誰との行為であるかも不分明なそれは、どこか底の知れない、ほとんど恐怖と紙一重のエロスを立ち上らせるものとなる。
一体これは何なのだろうか。菫が帰省し、そして再び実家を出ようとするところまでを描いた『スーパーポチ』に物語的な展開は乏しい。堂下と菫との関係とも言えぬ関係が清算され、菫と洋とが和解する、その程度のものだ。個々のエピソードは互いのつながりがはっきりしないものも多い。積み重なるエピソードは人物の輪郭を溶かし、ただそれだけのために語られているかのようですらある。
ところで、死んでしまったポチは自ら「菫ちゃんの友達で バトミントン部のライバルで 赤ペン先生で ぬいぐるみで 地元の武将で ピアノで フィアンセで 弟で お姉ちゃんで 軍曹で 彼氏で 彼女で 憧れの先輩で コンクリートで 星の使いで 悪魔で うなぎで しらみ持ちで 残飯処理係で 相談相手で けんか相手で 一生大好き同士のスーパーポチだよ」と名乗る。菫とポチとの仲の良さを示す微笑ましいセリフはしかし、同時にポチがこの世界のあらゆるすべて、森羅万象に等しい存在であることをも示している、と言ったら言い過ぎだろうか。ポチは世界に遍在している。
菫は自らも旅に出る決意をすることで、兄夫婦が旅に出ることをようやく受け入れられるようになる。「私は北海道行くね」という菫に対してうっかり「じゃあ俺富士山行くよ」と言ってしまった洋からは死の気配は薄れている。洋の言うように「どっちも旅出たらどっかで会うかもしれない」が、しかしもちろん会わないかもしれない。それはつまり、別れがいつでも互いにとって永遠の別れであり得るということに向き合い、それを受け入れることだ。出会い、交じり合い、別れ、そうして菫たちもまた世界に遍在しながら生きていくのだろう。
コトリ会議:http://kotorikaigi.com/
2021/09/25(土)(山﨑健太)
かもめマシーン『もしもし、シモーヌさん』
会期:2021/09/10~2021/09/14
公衆電話[任意の場所]
かもめマシーンによる「電話演劇」第2弾として『もしもし、シモーヌさん〈公衆電話ver.〉』(構成・演出:萩原雄太)が上演された。第1弾では『もしもし、わたしじゃないし』としてサミュエル・ベケット『わたしじゃない』を「電話演劇」へと翻案したかもめマシーン。今回の台本はフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユのテキスト(『重力と恩寵──シモーヌ・ヴェイユ「カイエ」抄』『ロンドン論集とさいごの手紙』『ヴェイユの言葉【新装版】』『シモーヌ・ヴェイユ選集Ⅱ──中期論集:労働・革命』より抜粋)をコラージュしたもので、観客は公衆電話を通じて彼女の言葉に耳を傾けることになる。
本作はもともと『もしもし、シモーヌさん』として豊岡演劇祭2021フリンジへの参加を予定しており、そこでは「建築家・白鳥大樹によってこの作品のために製作された『電話ボックス』」の中から「観客が俳優に電話をかけ、一対一で語られるシモーヌ・ヴェイユの言葉に耳を澄ませる、という内容を計画」していたのだという。だが、兵庫県への緊急事態宣言の発出に伴い演劇祭と公演は中止に。今回は、任意の公衆電話から「上演に参加」することができる〈公衆電話ver.〉が上演されることになった。
上演への参加を申し込んだ観客には、参加方法が記された紙と2枚のテレホンカードが送られてくる。観客はそのテレホンカードを使い、指定された時間に任意の公衆電話から指定された番号に電話をかけ、上演に参加する。私が高校生だった頃にはそこらじゅうにあった公衆電話も携帯電話の普及とともにその姿を消し、いまや公的な施設などを中心にごく少数が残るのみである。上演に参加するためにはまず、適当な公衆電話を見つけておかなければならない。池袋駅周辺でいくつか当たりをつけ、池袋西口公園の隅に二つ並んだ電話ボックスの片方から電話をかける私は、何か後ろ暗い取引に関わっているような気分になる。
数度のコールの後、「もしもし」と応じる女の声(清水穂奈美)。見知らぬ声は奇妙な親密さを滲ませる一方、「たましいの自然の動きはすべて、重力に似た法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される」と語り出される言葉はどこか説教のようだ。やがて「私は」と語り手が姿を覗かせると声はその響きを変える。「私は、頭痛の発作がひどくなると、他の人のちょうど同じ部分を殴りつけて、痛い目に合わせてやりたいと強く思った。重力に、屈してしまった」。「重力」という言葉から判断するに話題はかろうじてつながっているようではあるが、それは説教ではなく、むしろもはや罪の告白に似ている。だが、聞き手としての私はそこに必要とされていないようでもあり、ならばそれは本当の意味での告白ではないのかもしれない。
「一月のち、一年のちに、わたしたちはどんなふうに苦しんでいるでしょうか?」という言葉は2021年の東京に生きる私の状況と奇妙に重なって聞こえる、と、思った次の瞬間、ジリリリリと受話器の中で電話のベルが鳴りはじめる。「もしもし」と応じる女の声はフランクだがフィルターを通したように遠く、私は受話器を握りながらにして通話の外へと追い出されたような心地になる。女は1934年12月の「工場日記」を読み上げはじめる。音響的な加工が施された声はもはや通話を装うことをやめており、私は宛先不明の日記の言葉を延々と聞き続ける。工場の賃金労働で擦り切れていく人間性。やがてツーツーツーと回線が切れたことを告げる音。通話は再び私のもとに戻ってきたらしい。女の声は続く。
説教と告白を行き来しながら声は語りを続けるが、その調子は必ずしも語られる内容と一致しているわけではなく、両者は互いを侵食し合うかのようにして聞き手としての私の立場をも危うくする。私はどのような資格で彼女の言葉を聞いているのか。「この叫びになんの意味もない。誰にも聞かれてはならない」「私、私、私、私、もしもし」。切実さが頂点を迎えたと思うと不意に再び声に親密さが宿る。「わたしたち」「わたしと、あなた」という言葉でようやく私は存在を認められたような気持ちになる。語られる「私とあなた」の罪と罰、償いと救い。「神よ、どうか私を無とならせてください」。
最後のパートは父母への手紙、いや留守番電話だろうか。「もしもし、お父さん、お母さん」とはじまるそれは親密さと愛に溢れているが、そこに私の居場所がないのは明らかだ。私は置き去りにされ、やがて電話は切られる。
一方的に話し続ける声に耳を傾ける私は間違い電話を受けているような、自分はこの声を聞いていてよいのだろうかという不安を覚える。一方で、説教と罪の告白はいずれも声に耳を傾けることを聴者たる私に迫るが、池袋の雑踏で受話器からの声にのみ集中し続けることは難しく、そのことに私は後ろめたさを覚える。ここは私の居場所ではないという気持ちと、話を聞かなければという気持ち。引き裂かれながら、それでも私は、予告された30分の上演時間のあいだ、受話器からの声に耳を傾け続けた。かつてこれほどまでに長く誰かの話を聞き続けたことがあっただろうかと思いながら。
かもめマシーン:https://www.kamomemachine.com/
2021/09/11(土)(山﨑健太)
神村企画《STREET MUTTERS #2》
会期:2021/08/06~2021/08/08
糸口[東京都]
「路上にある標識や表示を観察・採集し、その意味や指示を受け止め、それに従い自発的に動かされてみるダンス公演」《STREET MUTTERS #2》が上演された。振付・出演は神村恵と木村玲奈。会場となった「糸口」は振付家・ダンサーとして活動する木村が2020年から運営するスペースで、すでに複数のアーティストによる「こけら落としパフォーマンス」はウェブ上で公開されているものの、観客を入れての実地開催公演は本作が初めてとなる。
上演はおおよそ三部構成になっており、まずは壁面にさまざまな標識の画像が次々と投影されていく。なかには私が駅から「糸口」に至るまでに目撃したものも含まれており、それらは「糸口」周辺で採集されたものなのかもしれない。続いて、今回「スコア」として採用された三つの標識(トイレ、不法投棄厳禁、非常口)についての二人の会話。そして最後に三つの標識それぞれをスコアとするダンスという構成だ。観客の手元にはスコアとして三つの標識とともにそれぞれの標識から「読み取る指示」「振付」が記された紙も配布される。
標識を身体への指示とみなしそこからダンスを立ち上げる、というアイデアは、たしかに聞いてみればなるほどと思わされるものだが、しかし興味深いのは、取り上げられた三つの標識は標識としてのあり方がそれぞれに異なっている点だ。たとえば、トイレの位置を指し示すトイレの標識は、記号としてはステレオタイプな男女のヒトガタとして表象されており、実のところそれがトイレを指し示しているのだという理解は慣習的なものに過ぎない。一方、同じくヒトのかたちが描かれた非常口の標識は、一見してそれ自体が「外に出ること」を示していることは明らかであり、さらに「非常口」という文字も付されている。不法投棄厳禁の標識については記号的な要素はなく、「不法投棄厳禁」等々の文字が記されているのみだ。
こう考えてみると、トイレの標識には本来的には身体への指示というべきものは含まれていないのだが、神村と木村はそこから「二つのカテゴリーどちらかに自分を振り分け、もう一方についての想像力を停止させる」という指示を読み取る。振付は「排泄するためにトイレに向かう」「二つのカテゴリーのどちらかに入り、異物がいないか注意する」「もう一方についての想像力を停止させ、排泄する」「外に出て、もう一方についての想像力を取り戻す」となっている。これを見ると、(探していた)トイレの標識を見つけた後の行動を標識による指示として解釈していることがわかる。基本的にはトイレに行きたいからこそトイレの標識を探すのだということを考えると因果関係が逆転しているような気もするが、しかしもちろん標識を見たからこそトイレに行く気になるということもしばしばあり、意思はともかく行為には標識が先立っていることに変わりはない。抽象度の高い看板から立ち上がるダンスが現実での行為をなぞるような、ある意味で演劇的なものになっていた点も興味深かった。
不法投棄厳禁の標識から読み取られた指示は「表示を見たりゴミを捨てたりすることで、それを設置した人と間接的なコミュニケーションを取る」。振付は「表示を見ているというメッセージとしてゴミを捨てる」「表示の指示に従ってゴミを捨てたことを取り消す」「その二つを繰り返す」。上演ではゴミが入っていると思しきレジ袋を捨てては拾う行為を繰り返すのだが、一連の行為の速度が上がっていくと、捨てられたゴミが地面に着く前にキャッチされ、行為が文字通りキャンセルされるような事態が生じてくる。看板の設置にはおそらく不法投棄が先立っているように、禁止にはつねに禁止された当の行為が先立っている。ゴミ捨てという行為が宙づりにされるようなダンスは「禁止」の命令に内在する力学とそれが引き起こす運動を体現するものだ。
非常口の標識から読み取られた指示は「現在の場所にいたまま、いつか起こりうることや、ここではない場所を想像する」。振付は「A.リラックスして寝たまま危険を想像し、最小限の力でそれを避ける」「B.想像の中で外の世界へ行き、その想像が閉じたらさらにその外へ出ることを繰り返す(戸口→側溝の網→雑草→白線→歩道の緑→電線・空→団地→車・歩行者→屋根→押入れ→渓流)」。前二つの標識から読み取られた指示、そこから生まれた振付と比較するとグッと抽象度が増しているのがわかる。標識が示す「非常口から脱出する」という行為、そしてそこに至る事態が実現することは稀であり、多くの場合、それは想像されるに止まることになるだろう。だが、この標識から想像されるのはそれだけではない。標識は非常口の向こう側への想像力をも起動する。二つの想像は無関係なわけではないが、それぞれ半ば独立したラインとしてあり、2種類の振付はそれに対応している。上演されたダンスも振付の文言に対応して抽象度の高いものとなっていたが、糸口の出入口から外に出た二人は最後にゆっくりと標識と同じ出ていく人のポーズを取る。ダンスは再び標識に回収されつつ、観客の想像力は自分たちがこれから出ていくはずの外の空間に向かって開かれる。
さまざまな標識とそこから読み取られた指示・振付、そしてダンス。三者のあいだに生じる差異は、標識に対峙する私に身体と想像力のありようを精査するよう促す。それはつまり、生活空間に置かれた我が身のありようを振り返ることにほかならない。
神村恵:http://kamimuramegumi.info/
木村玲奈:https://reinakimura.com/
2021/08/07(土)(山﨑健太)
コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)
会期:2021/07/22~2021/07/25
東京芸術劇場シアターイースト[東京都]
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』、ショーケースのラストを飾ったのはコトリ会議。2007年に結成され関西で活動してきたコトリ会議は2016年にこまばアゴラ劇場で上演されたショーケース公演『対ゲキだヨ!全員集合』をきっかけに関東でも注目を集めて以降、毎年のように東京公演も実施している。作・演出の山本正典は2018年に第9回せんがわ劇場演劇コンクールで上演された『チラ美のスカート』で劇作家賞を受賞し、2020年には『セミの空の空』で第27回OMS戯曲賞大賞を受賞した。
『おみかんの明かり』は「ざくざく」と足を踏みしめる音(を口に出す女の声)ではじまる。懐中電灯を手に歩くその人物の姿は舞台奥の暗がりにあってよく見えない。故障のせいか電池切れか、ふいに懐中電灯の光は消えてしまい、それでも彼女は暗闇の中を必死に進む。やがて水辺に小さなオレンジの明かりを見つけた彼女は手を伸ばし「これが おみかんの明かり」とつぶやくのだった。
どうやら「おみかんの明かり」には死者を呼び出す力があるらしい。三途の川にも見える湖の向こう側に人影が浮かび上がる。水面を挟んで「こういっちゃん」「かなえさん」と呼び合うふたり。かなえ(花屋敷鴨)は「こっちへ来て」と呼びかけるが孝一(原竹志)は「ごめんだけれどそっちへ行けないんだ」と答えるばかり。泳げないかなえが覚悟を決めて湖に一歩足を踏み入れた瞬間、ホイッスルの音とともに銀河警察官・はさみ(三ヶ日晩)が現われる。はさみは「この湖に入るのは宇宙条例に反する」「死んだ人の顔を見るだなんて」「そんな破廉恥は禁止されてるよ」「生きてる人と死んでる人が触れてしまうと 地球が削れるかもしれないくらい 爆発するんだよ」と二人を諌めるが、かなえははさみの光線銃を奪い孝一とともに逃亡してしまう。
水辺に取り残されたはさみ。と、湖の向こうに人影が。それは帝国軍の任務で命を落としたカレンダー(まえかつと)だった。やがてはさみも堪えきれず、湖に足を踏み入れる。制止しようとするカレンダーと触れようとするはさみ。二人がまさに触れ合おうとしたその瞬間、遠く響く爆発音と降ってくる女の頭部。やがてひとり戻ってきた孝一にはさみは「ねえ死んだ地球人 この山を下りた方がいいわよ 私たちもうすぐ爆発するから」と告げるのだった。はさみとカレンダーは手を伸ばし合い、そして暗闇が訪れる。やがて再び「ざくざく」と足音が響き、「おみかんの明かり」へと手を伸ばす者の姿が──。
舞台いっぱいに広がる青い水面と周囲に広がる暗がり、そしてぽつんと灯る「おみかんの明かり」は、広い宇宙で生きている/死んでいる者たちの寄る辺なさを効果的に表わしていた。一方で、私が見た初日には空間に対する声の大きさ、あるいは出し方が十分にチューニングしきれておらず、コトリ会議の魅力が十分に発揮されていないと感じる場面もあった。
コトリ会議の作品ではしばしば、何気ない呼びかけや問いかけ、特に大きな意味を持つとは思えない単語が複数の人物のあいだで、あるいはひとりの人物によって繰り返し発せられる。繰り返しのなかで言葉がその響きを微妙に変えていく繊細さはコトリ会議の持ち味のひとつだが、その響きが聴き取られるためには発する側にも聴く側にもそれなりのチューニングが必要となってくる。悪ふざけめいたウンゲツィーファ『Uber Boyz』を観た後だったこともあり、私の側のチューニングも十分ではなかったのだろうとは思われるものの、コトリ会議の作品としては珍しく、繰り返しの声がうるさく感じられる瞬間があったのは残念だった。
今回の作品では言葉だけでなく劇中の出来事も繰り返され、そのことが人の弱さを際立たせる。地球人の犯した過ちを繰り返してしまう銀河警察のふたり。取り締まる側にも取り締まられる側と同じ弱さがある。だが、それは果たして本当に弱さだろうか。爆発してしまうとわかっていても手を伸ばしてしまうのは、むしろ思いの強さだろう。それを「弱さ」として取り締まらなければならないなら、不条理なのは世界の方ではないだろうか。
掲げられたタイトルゆえにショーケースを見ながら、そして見たあとも「弱さ」について色々なことを考えた。率直に言えば、私自身は「弱いい派」という括り、あるいはそう名指すことが引き起こす効果にはやや懐疑的である。「弱さの肯定」はその当事者が自分の存在を肯定するための、あるいは、弱さを否定する社会を変えていくための第一段階の処方としては必要であり有効なものだろう。だが、そうして肯定された弱さは容易に固定されてしまう。
徳永は「“その後”に出現した『弱いい派』について」(『現代日本演劇のダイナミズム』所収)で「『弱いい派』の特徴は、弱い立場の人々を当事者性で描くのではなく、当事者から見た社会、世界が描かれること」だと述べている。ここで「当事者性」は「被災者、被害者、弱者の置かれた状況や心情を想像する」ことを指す言葉として使われており、「当事者は、当事者性を取る人より、笑うのも泣くのも自由だ」と続く。だがこれは、当事者であるということが簡単に最強のカード、無敵の切り札へと裏返ってしまうということでもある。
そもそも、弱さというのは本当にその「当事者」に固定された性質なのだろうか。ある性質があったとき、それを「弱さ」と規定するのは周囲の環境であり社会のあり方である。もう一度言おう。弱さを肯定することはたしかに必要かもしれない。だが、自分が「弱さ」の側にいないとき(いやもちろんそのようなジャッジにこそ罠が潜んではいるのだが)、すでに「弱いい派」に出会ってしまった私が考えるべきことは、言うまでもなくその先なのだ。
コトリ会議:http://kotorikaigi.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 —かそけき声を聴くために—』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/
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2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)