2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ファーミ・ファジール+山下残『GE14』

会期:2019/02/16~2019/02/17(Kosha33)

Kosha33/こまばアゴラ劇場[神奈川県/東京都]

2018年5月9日、マレーシアでは1957年にイギリスから独立して以来初めての政権交代が起きた。そしてアーティストであるファーミ・ファジールは国会議員となった。タイトルはこの第14回総選挙(general election)を指すものだ。本作は振付家・演出家の山下残が友人であるファジールの選挙活動に「オブザーバー」として付き添った日々の記録映像の上映と、ファジール自身による生の政治演説の二つのパートで構成されている。

記録映像は山下の弁士めいた(しかしゆるい)語りとともに上映されるのだが、マレーシアの選挙に関しては部外者の山下の「無責任さ」も手伝って(なにせ盛り上がらない選挙戦に退屈した山下は敵陣に遊びに行きさえするのだ)、観客に野次馬的スタンスで楽しむことを許していたように思う。一方、アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」(日本でも『Baling』『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』などが上演されている)のメンバーでもあるファジールは芸術を通して政治に関わり続け、ついには国会議員となった。この対比はファジールの演説によってより鮮明となる。

©Miki Kanai

横浜公演では映像上映のあと、路上に設置されたテントを囲む「集会」のかたちでファジール(とゲストの灰野敬二)の演説が行なわれた。ファジールの演説の熱とは裏腹に、私がそこで感じたのはある種のうつろさだった。そこにいるのは私の国の政治家ではない。いまここでマレーシアの政治家の演説を聞いている私はなぜ、たとえ選挙期間中であっても日本の政治家の路上演説を聞くことを(おそらく決して)しないのだろうか。

本作に限らずレクチャー・パフォーマンスと呼ばれる作品は史実をはじめ政治的題材を扱っていることが多く、それゆえか(というのもおかしな話だが)つくり手の立ち位置が見えないことがままある。政治的態度を明確にせよということではない。だが内容と同等かそれ以上に、どんな人物がどのようにそれを語っているのかは作品/観客にとって重要なはずだ。そこにこそ「政治」がある。そうでなければ文字情報として「勉強」すればよい(もちろんいずれにせよ発信源は重要なのだが)。山下はマレーシアにおける自らの傍観者的な立ち位置をはっきりと示したうえで、自身の体験した状況そのものを日本に移植してみせる。日本でマレーシアの政治家の演説に耳を傾ける観客ははたして何者か。

(こまばアゴラ劇場での東京公演では演説→映像上映と順序が変更されていた。劇場内での演説では後半は担えないという判断だったのではないかと推測するが、背景が十分にわからない状態であの演説を聞く観客はなかなかしんどかったのではないだろうか。作品全体の導入として初当選を果たしたマック赤坂をめぐるやりとりなどがあり(統一地方選直後の上演だったのだ)、それはそれで彼我の差を意識させるには効果的だったが、それでも残念ながら私には横浜での上演ほどクリティカルなものとしては響かなかった。)

©前澤秀登

横浜公演(TPAM2019):https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=ge14
東京公演(こまばアゴラ劇場):http://www.komaba-agora.com/play/7967

2019/02/17[横浜]/2019/04/28[東京](山﨑健太)

スペースノットブランク『原風景』

会期:2018/12/18~2018/12/22

高松市美術館 講堂[香川県]

『原風景』は高松市の開催する高松アーティスト・イン・レジデンス2018に選出されたスペースノットブランク(小野彩加と中澤陽、以下スペノ)と俳優の西井裕美が高松市に49日間滞在して制作した「作品」。「作品」とカッコに括ったのは『原風景』が展示と上演のふたつのパートからなり、しかも展示の大部分を占めるのは高松市で絵を描き、写真を撮り、立体物を作る活動をしている「市民」の作品だったからだ。

スペノの作品は、おそらくそのほとんどがドキュメンタリー的手法によって作られている。上演において語られるのは、作品に参加した人々のそれまでの体験を言語化し編集することによって生まれた言葉だ(少なくともそのように聞こえる)。ここにおいてドキュメンタリー的という言葉は、演劇的、あるいは舞台芸術的というのとほとんど同義である。上演は、多くは稽古という名で呼ばれる時間の先にしかない。現在は過去の集積の上にあり、あるいは現在のなかに過去は折りたたまれている。

そうであったということはそうでしかなかったということではあっても、必然だったということではない(展示されていたワークショップの成果物、参加者の各々が家から会場までの経路を一枚の巨大な模造紙に書き込んだものはそのことを端的に示しているとも解釈できる)。だから、スペノの言葉はわかりやすい物語を紡がない。わかりやすい物語は複雑な時間のあり方を縮減してしまう。彼らが語る、易しいはずの言葉(なぜならそれらは生活のなかにあったものだから)は謎めいた魅力を称え、同時に幾分かとっつきづらい。

その点において、滞在制作という形式はスペノに向いている。上演において語られる言葉のバックグラウンドが、観客と作り手とのあいだで大なり小なり共有される可能性が高まるからだ。わからなければならないというわけではもちろんない。だが「わかる」ことから広がる未知の世界は大きい。



[© Kenta Yamazaki]



[© Yuka Kunihiro]

今作で西井によって語られる言葉は彼女自身のものでもスペノのふたりのものでもなく、今回の展示に参加した高松のアーティスト=「市民」から引き出され、編まれたものだ。彼らの名前は「原作」としてクレジットされ、その言葉の一部は作品とともに展示=上演会場に展示されてもいる。つまり、上演への入り口はさまざまなレベルで用意されている。作品を出展した者、その周囲の人々、出展者とは関係のない高松市周辺の人々、あるいは私のように「外」から訪れた者。いずれも展示を入り口に西井によって語られる言葉=世界に触れ、あるいは上演後に展示に触れることでその先に広がる世界を見ることができる。

アーティスト・イン・レジデンスへのスペノの選出は慧眼というほかない。これまでにもぺピン結構設計やブルーエゴナクなどを選出してきた高松アーティスト・イン・レジデンスは、今後も注目すべき枠組みと言えるだろう。



[© Yuka Kunihiro]

スペースノットブランク:https://spacenotblank.com/

2018/12/21(金)(山﨑健太)

The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源』

会期:2018/12/11~2018/12/16

アーツ千代田3331 B104[東京都]

The end of company ジエン社の第13回公演『ボードゲームと種の起源』は同タイトル・同モチーフ・同設定のもと、2018年12月の「基本公演」と2019年5月の「拡張公演」の二つのバージョンが上演された。こちらは「基本公演」のレビューとなる。

物語は新作ゲームの開発にいそしむボードゲーム作家の男・中大兄(寺内淳志)と、彼の(近親相姦的愛情を寄せ合っているらしい)妹・個子(名古屋愛)、同棲している(しかし恋人ではない?)女・ニホエヨ(沈ゆうこ)、そして新たにやってきたボードゲーム妖精を自称する女・チロル(高橋ルネ)の4人の関係の(ほとんど停滞と見紛うばかりの)変化を描くものだ。

本作では家族、あるいはそれ未満の男女の関係を舞台=フィールドとし、それを成立させているルールの再検討が行なわれる。新作ゲームのブラッシュアップとコミュニティ(男女の関係)のあり方の問い直しが劇中で並行して進んでいく趣向だ。舞台美術もボードゲームの盤面を模している。中央に置かれたテーブルの周囲の床には四つの長方形に区切られたスペースがあり、それぞれがひとつの部屋を意味しているらしい。劇中に登場する『魔女の森に座る』が正しい椅子に座ることを目指すゲームであったことを考えれば、登場人物たちは自分たちの「正しい場所」を探して試行錯誤しているのだと言うことができるだろう。ただし、『魔女の森に座る』には後から来た者に場所を明け渡さなければならないという理不尽な、しかし現実を映したものでもあるルールがある。全員が「正しい場所」に収まることは果たして可能なのか。

© 刑部準也

© 刑部準也

場所の占有というモチーフは前作『物の所有を学ぶ庭』から引き継がれたものであり、同時に、ジエン社が一貫して描いている震災後の世界において(いや、もちろんそれらの問題は震災以前からあり、多くの闘争がなされてきたことは言うまでもないが、改めて)避けては通れない問題系である。

ところで、私はこの作品を観ながら、また別のゲームを思い浮かべていた。複数の女性キャラクターの中から意中のひとりを落とすことを目指す、いわゆるギャルゲーだ。設定の異なる複数の女性が選択肢として用意されているところなどそっくりである。なるほど、たしかに本作には既存の家族のあり方への問いが含まれている。だがそれは、どこまでいっても中大兄に都合のいいものに過ぎない。椅子取りゲームに参加するのは女たちだけだ。男の居場所は保証されている。

劇中で「ホモ」という(基本的には蔑称として機能してきた)言葉が特に回収されることなく使われていたことも気になった。ルールの再検討が異性愛男性を中心とした価値観のもとに行なわれるならばそんなものに意義はない。基本公演は現代日本の宿痾をそのまま映し出していた。だからブラッシュアップされたゲームは『魔女の森を出る』と名づけられ、ニホエヨは出ていく。さて、本作はどのように「拡張」されるのだろうか。

© 刑部準也


公式サイト:https://elegirl.net/jiensha/

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The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源・拡張版』|山﨑健太(2019年07月01日号artscapeレビュー)

2018/12/14(山﨑健太)

ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』

会期:2018/11/17~2018/11/26

早稲田小劇場どらま館[東京都]

高校演劇のフォーマットにのっとった「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」シリーズ7作目。冬休みの図書室。ビーチ(端田新菜)は「好きな人ができたとき用のためのラブレター」を書くため、愛の言葉を収集している。それに付き合う親友の水星(大石将弘)は彼女に思いを寄せているようだ。ふらりと入ってきた太郎(篠崎大悟)はビーチの姉・海荷のかつての恋人で、まだ失恋を引きずっている。太郎は映画を撮るからと水星の兄・楽(本作には姿を見せないが過去作では同じく大石が演じていた)に呼び出されたのだが彼はなかなかやって来ない。楽の恋人・朝(島田桃子)は「イブなのに」と腹を立てつつ楽しそうだ。まだ来ぬ恋、過ぎ去りし恋。現在形の片思い両思い。

[撮影:三上ナツコ]

「まなざし」というシリーズのテーマは、しばしば恋愛というかたちで作中に表われる。だがそこに同性異性の区別はなく、それが自然なこととして描かれている。たとえば1作目では、将門という人物が太郎のことを好きかもしれないということがサラリと語られていた。本作で大石将弘が演じる水星は楽の「妹」だ。彼女はスカートこそ着用しているもののカツラを被っていたりはせず、見た目としてはほぼ「男性」である。彼女は「男性的な」見た目の女性なのかあるいはトランスジェンダーなのか。だが作中にそのあたりの言及は特にない。つまり、戯曲としては水星を「女性」が演じる選択肢もあるところに、三浦はあえて大石をキャスティングしたことになる。もちろん、男女どちらが演じてもいいし、見た目が「男性的」であっても「女性的」であってもいいのだ。説明もいらない。本当は、必要なのは理屈ではない。

何かしら望ましくない状況があったとき、その解決には二つの方法がある。ひとつは問題提起。もうひとつは、あるべき姿を当たり前の「空気」としてつくり上げてしまうこと。「いつ高」シリーズが高校生に捧げられている意味は大きい。

[撮影:三上ナツコ]

「いつ高」シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/

2018/11/22(山﨑健太)

砂岡事務所プロデュース 音楽劇『Love's Labour's Lost』

会期:2018/11/17~2018/11/25

CBGKシブゲキ!![東京都]

『恋の骨折り損』として翻訳されているシェイクスピアの喜劇がFUKAI PRODUCE羽衣の糸井幸之介の演出・音楽で音楽劇として上演された。今作は糸井にとっての初の商業演劇演出作品となる。

学問に打ち込むため女人禁制の誓いを立てた王ファーディナンドとその友人の3人の貴族。しかしそこにフランス王女と3人の侍女が訪れ、4人の男はそれぞれに恋に落ちてしまう。抜けがけとその発覚、そして女性陣との恋の駆け引きがドタバタと展開する。

[砂岡事務所提供/撮影:中村彰]

バカバカしい戯曲だ。率直に言って退屈(失礼!)ですらある。似たような場面の繰り返しも多く、そのまま上演するのでは間がもたないだろう。しかし今回の上演では、物語としては退屈な繰り返しは音楽によって構造的必然性を与えられ、俳優たちに順に見せ場をつくる装置としてうまく機能していた。セリフが音楽に乗せて発せられる場面も多いためテンポもいい。「音楽劇」という枠組があるところにこの戯曲が適当な作品として選ばれたのだろうと推測するが、「音楽劇」は『恋の骨折り損』を上演するのに最適な解のひとつであると思わされた。

俳優たちのコミカルな演技も(序盤こそ美男美女にこんなことさせて!と思ったものの)彼らの新たな魅力を引き出していたのではないだろうか。國立幸(WキャストのB)が演じた王女の嫌味ない意地悪さと、道化役のアーマードーをバカバカしい芝居のなかでも一際バカバカしく演じた谷山知宏の過剰さは特によかった。

しかし、ひとりの羽衣ファンとしては大いに物足りなかったのも確かだ。糸井と羽衣の妙〜ジカルは人生のバカバカしさと苦さを表裏一体に抉り出す。だからこそ笑えて泣ける。『恋の骨折り損』にあるのはバカバカしさだけだ。苦味が足りない。次に古典を上演する機会があれば(改作でもいい)ぜひそのポテンシャルを最大限に引き出す(あるいは糸井のまったく別の顔を引き出す)戯曲を選んでほしい。

[砂岡事務所提供/撮影:中村彰]

公式ページ:http://sunaoka.com/stage/LLL/

2018/11/21(山﨑健太)

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