2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

柿喰う客『御披楽喜』

会期:2019/09/07~2019/09/08

出石永楽館[兵庫県]

天才彫刻家・蛇ノ目梯の十三回忌。最後のゼミ生13人が集ったそこで明かされたのは、彼が莫大な遺産と遺言状を遺していたという事実だ。なぜいまさら。蛇ノ目の望みは長生きならぬ「長死に」。彼の作品がその死後も世界に影響を与え続けること。遺産は蛇ノ目と彼の功績としてのゼミ生たちの作品を展示する美術館を建てるためのものだった。

[撮影:igaki photo studio]

殺人事件でも起きそうな、極めてミステリ的設定だ(実際、蛇ノ目は殺されているのだが、それは前作『美少年』の話であって今作には関係がない)。引き込まれる導入部に続いて、ゼミ生たちがここに至るまでの過去が語られる──のだが、物語らしきものは結末に至ってなお、ほとんど何をも開示しない。なんせ60分しかない上演時間に13人、蛇ノ目を加えれば14人もの登場人物それぞれのエピソードが詰め込まれているのだ。各々のキャラは立ちすぎるほどに立っているが、そこに物語の入り込む余地はほとんど残されていない。

たとえば東京都庁の前で全裸で放尿する女。現代のマリアを自称し想像妊娠する女。知的障害を持ち、塗り絵以外に何もできないがその塗り絵には9000ドルの値がつく男。才能を持ちながら貧困で餓死する男。アート業界に顔がきくことを買われて広告代理店に就職する男。そして原発マネーで建てられる美術館。エトセトラエトセトラ。PC(ポリティカル・コレクトネス)などクソ食らえと言わんばかりの悪意とアイロニー。

[撮影:igaki photo studio]

[撮影:igaki photo studio]

ところで、一部のジャンプ漫画、たとえばある時期からの久保帯人『BLEACH』や吾峠呼世晴『鬼滅の刃』は、「敵」も含めて登場する人物一人ひとりの過去に強くフォーカスをあて、それぞれのエピソードを開示する。これによってそれぞれのキャラクターは作品を貫く物語にのみ奉仕するわけではない人物として独立性を獲得しているようにも思えるが、結果として主筋は遅延され、いつまでも完結しない(などということはもちろんないのだが)。というよりも主筋こそがむしろ、無数のキャラクターを存在させるために利用されている気配すらある。奇妙な反転。

ゼミ生のほとんどは芸術家としては大成しない。蛇ノ目の「物語」に寄生することで辛うじて彼らは「存在」することができる。だから物語は終われない。本作のタイトルでもあるおひらきとはつまり空虚さの開示でしかない。ひとりを除く登場人物には「閉じる」を意味する名前が与えられている。破局を避けるために内に篭り続けること。空虚の高速回転。だが劇場の扉が開けば芝居はおしまいにならざるを得ない。

翻って現代の芸術はどうか。一糸乱れぬ演技とそれとは裏腹の濃いキャラクターで舞台に立つ俳優たちは、空虚を空虚として、しかし同時にエンターテイメントとしても提示してみせた。作・演出の中屋敷法仁のアイロニカルな視線と悪意はそのまま、現代の芸術と作家たちにも向けられている。


柿喰う客:https://kaki-kuu-kyaku.com/
第0回豊岡演劇祭:
https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/

2019/09/07(山﨑健太)

青年団『東京ノート・インターナショナルバージョン』

会期:2019/09/06~2019/09/08

城崎国際アートセンター ホール[兵庫県]

第0回豊岡演劇祭のオープニング演目として青年団『東京ノート・インターナショナルバージョン』が上演された。『東京ノート』は1995年に岸田國士戯曲賞を受賞し、その後も日本のみならず世界中で上演されてきた平田オリザの代表作。これまでにも台湾、タイ、フィリピンのそれぞれで現地の劇作家・俳優・スタッフとともに『台北ノート』『バンコクノート』『マニラノート』と題された現地版が制作されている。「インターナショナルバージョン」にはこの3カ国に加え日本、韓国、アメリカ、ウズベクスタンの俳優が出演しており、七つの言語でセリフが発せられる上演となった。

[写真:igaki photo studio]

近未来の東京にある美術館のロビーを舞台に、そこを行き来する人々の人間模様を描いた『東京ノート』。「インターナショナルバージョン」では登場人物の配置と戯曲の大筋はそのままに、2034年の東京を想定し、登場人物のバックグラウンドが多様化している。オリジナルは日本人同士の立場や考え方の違い、あるいはそれらへの無自覚を描き出すものだったが、「インターナショナルバージョン」では「国」も異なる人々とのやりとりがそこに加わる。例えば、平和維持軍に参加することにしたというフィリピン人・マニー(マンジン・ファルダス)に対し、たまたま居合わせた無関係の日本人・橋爪(前原瑞樹)が「Not to war.」と声を上げる場面は、オリジナルにも存在した日本人同士のそれ以上に緊張感を孕んだものに私には感じられた。橋爪が声を上げられたのは同行者である在日韓国人・寺西(鄭亜美)がフィリピン語を解したからなのだが、複数の言語が交わされ、誰が何語を解するかわからないという状況は、また別種の緊張を不意打ちのようにその場にもたらすことになる。

[写真:igaki photo studio]

ところで、「インターナショナルバージョン」には新たに追加された(=オリジナルには存在しなかった)登場人物がひとりいる。学校の課題で「英語で二十人と話さなきゃいけない」という中学生(井垣ゆう)だ。明らかに日本人である登場人物にさえ「日本人の方ですか」と律儀に確認を取り、そのたびに「はい」「じゃあ、いいです」と繰り返されるやりとりは笑いを誘い、地元の中学生のキャストへの抜擢と相まって平田流の「サービス」とも感じられるが、しかし彼女の存在は2034年の日本の状況を鋭く抉り出す。いちいち確認しなければわからない程度には、日本にいる人々のバックグラウンドが多様化しているのだ。

もちろんこれは作中の2034年に、あるいは人種・国籍に限られる話ではない。たとえば「オリジナルの登場人物は日本人のみ」というのも、作中に国籍への言及がない以上、実は私の思い込みにすぎない。『インターナショナルバージョン』にはロシア系日本人と在日韓国人の登場人物がいる。「日本人の方ですか」という不躾にも感じられた(というのは、実際のところある人が英語を話すかどうかと何人であるかはもちろん関係がないからだ)唐突な問いかけは、しかし翻って私のなかにも確実にある「偏見」を突くことになった。この「インターナショナルバージョン」は2020年2月に東京・吉祥寺シアターでも上演される予定だ。


青年団:http://www.seinendan.org/
第0回豊岡芸術祭:https://toyooka-theaterfestival.tumblr.com/

2019/09/07(山﨑健太)

温泉ドラゴン『渡りきらぬ橋』

会期:2019/06/21~2019/06/30

座・高円寺1[東京都]

日本初の女性劇作家・長谷川時雨を描いた本作。異なるいくつかの時代を切り出し場面を構成することで、変わりゆく状況とそれでも変わらない時雨の思いを描き出す原田ゆうの戯曲が巧みだ。

時雨(役名は本名のヤス/筑波竜一)の周囲には文学仲間を中心にさまざまな人物が集うが、その態度は男女ではっきりと対照をなしている。そもそも最初の夫である水橋新蔵(内田健介)からして根っからの放蕩者であり、次に深い仲になった中谷徳太郎(祁答院雄貴)とは文学活動を共にするも喧嘩別れしついに夫婦とはなれなかった。彼女が才能を見出しデビューのために手を尽くした三上於菟吉(阪本篤)は年下の夫となるも、売れてからは芸者遊びのための待合で原稿を書く始末。寄り添い続けることの叶わない男たちに対し、時雨の周囲には岡田八千代(いわいのふ健)や生田春月(東谷英人)ら多くの女性が文学仲間として集う。しかし彼女たちもまた、男との関係をうまく結べずにいるのであった。死者として現われたときに時雨の相談役となる樋口一葉(蓉崇)の言葉を借りるならば、「苦しさの中に人生はあり」「煩わしくて恨めしくて寂しい恋こそ、本当の恋」だ、と言ってよいものか。

時はまさに『青鞜』が生まれた、日本において女性の権利が意識されだしたばかりの時代であり、男たちの女への態度と、女性による文学運動の立ちゆかなさは別個の問題ではない。三上は女遊びに明け暮れながらも時雨とは別れず、時雨が創刊した『女人藝術』を金銭的に支え続けもするのだが、赤字続きの雑誌に対し、つい「おやっちゃんの道楽にとことん付き合うつもりだよ」と本音を口にしてしまう。時雨が己の人生を懸けてきた文学を「道楽」と言ってのける三上。両者の認識の差が残酷に浮かび上がるこの場面にこそ、本作のテーマは凝縮されていると言ってよい。男の援助は尊大な感情に支えられたものでしかなかった。男女間の思いと文学に懸ける思いとが綯い交ぜとなって浮かび上がる感情は切なく苦い。

しかしそれだけに、全キャスト男性での上演という演出(シライケイタ)には疑問を呈さざるをえない。俳優たちの演技は素晴らしかった。だが、全キャスト男性での上演は、舞台から女性を排除し、男性によって女性に声を与え(てや)るという選択にほかならない。それは戯曲の内容を裏切っている。もちろんそのような意図はなかったのだろう。だが無意識にであれそれは、男が稼いだ金によって女に居場所を与え(てや)るという三上の行為と意識の反復となってしまっている。

本来的には、女性の声を男性が代弁しても問題ないと見なされるべきなのだろう。当事者しか声を上げられないのはそれはそれで問題である。だがいまだ男女差別甚だしい日本において、圧倒的優位に置かれている男性が女性の置かれている状況を描く場合、より一層の繊細さと謙虚さをもって創作にあたる必要があるのではないだろうか。


公式サイト:https://www.onsendragon.com/13

2019/06/27(山﨑健太)

木村悠介/サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/20~2019/06/24

SCOOL[東京都]

『わたしじゃない』はサミュエル・ベケットの後期戯曲作品のなかでも特に奇妙な作品である。登場するのはひたすらにしゃべり続ける「口」と、それに対峙し無言のままに言葉の奔流を浴びる「聴き手」だけ。「口」は文字どおり口だけが宙に浮かぶよう指定されていて、一方の「聴き手」は黒い布に全身が覆われその正体は杳(よう)として知れない。「口」の断片的な語りに耳を澄ませば、ひと言も口をきくことのできなかったある人物が、ある日、突如として言葉の奔流に襲われたという物語が辛うじて聞き取れる。観客は目の前の「口」こそがその人物なのではと思うのだが、「違う! 彼女よ!」という「口」の激烈な言葉は、それが自らの物語であることを否定しようとする。

『わたしじゃない』の上演では、「口」だけを舞台上に登場させるために、俳優の口以外の部分を布などで覆う方法が採られることが多い。だが、今回の演出を手がけた木村悠介は、自身が独自に発見した技術だという「箱なしカメラ・オブスキュラ」を用い、言葉を発する俳優の口元だけを映像として壁面に投影する方法を採用した。結果、セリフを発する俳優は自らの口の映像と対峙するかたちとなり、あたかも「口」と「聴き手」の一人二役を演じているかのような状況が出現していた。戯曲にも「口」と「聴き手」は同一人物なのではと思わせるような記述があり、木村の演出はそれを文字通りに成立させるものとしても興味深かった。

今回の公演には4人の俳優による四つのバージョンがあり、私はそのうち増田美佳と三田村啓示による上演を見たのだが、特に興味深かったのが三田村による上演だ。男性による上演は『わたしじゃない』という作品に対しいままでに思いもよらなかった解釈を可能にした。「口」の語りが、Male to Femaleのトランスジェンダーによる切実な存在証明として響いたのだ。

Male to Femaleというのは身体的な性は男でありつつ女の性自認を持つ人を指す言葉である。「口」の語りに登場するかつて言葉を持たなかった人物というのは、男性の身体に抑圧された内なる女性だったのではないか。周囲に認知してもらえなかったからこそ自らが、しかし「彼女」という三人称の下で=外からの名指しとしてその存在を語るしかなかったのではないか。「口」しか存在しないのは、身体こそが「彼女」の存在を覆い隠してきたからではないか。「違う! 彼女よ!」という激烈な否定はむしろ、自身の存在を肯定するための悲痛な叫びだったのではなかったか。

なぜ「口」は語り続けるのか。なぜ「彼女」の物語であることにこだわるのか。なぜ「口」だけなのか。なぜ「彼女よ!」と否定するのか。語る身体が女性である限りにおいて、これらの疑問に対する答は得られない。だが語る身体が男性に置き換えられた途端、すべてがあまりに腑に落ちはしないだろうか。この解釈が唯一の正解であるというつもりはないが、これまでに見た『わたしじゃない』のなかでもっとも胸に迫る上演となった。


公式サイト:http://scool.jp/event/20190620/


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木村悠介演出作品 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』|高島慈(artscapeレビュー 2019年8月1日号)

2019/06/24(山﨑健太)

屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』

会期:2019/06/14~2019/06/16

SCOOL[東京都]

屋根裏ハイツは中村大地が演出を務める演劇カンパニー。2013年の設立以降、仙台を拠点に活動してきたが、現在は活動の中心を東京に移している。利賀演劇人コンクール2019では『桜の園』の上演で中村が優秀演出家賞一席を受賞しており、名実ともに若手注目カンパニーのひとつとなっている。

『寝床』は同性カップルの内見、引きこもりがちらしい娘とその母の朝のやりとり、孤独死したらしき人物の部屋を清掃する業者、部屋を退去する直前の老夫婦の様子を描いた四つの場面で構成されている。

© 本藤太郎

© 本藤太郎

物語上は直接の関係はないと思われる四つの場面だが、いくつかの仕掛けによってゆるやかにつながってはいる。ひとつはすべての場面が同じ3人ないし2人の俳優(村岡佳奈、渡邉時生、安藤歩)によって演じられるということ。場面の切り替わりも明示されないため、観客の多くは場面が切り替わってからしばらくしてようやく、演じられているのが先ほどまでとは異なる場面であることに気づいたのではないだろうか。異なる場面で演じられる異なるはずの人物は、しかし地続きに演じられる。

地続きなのは俳優だけではない。会場であるSCOOLという雑居ビルの一室もまた、舞台美術などで覆われることなく、むき出しのまま(当然のことだが)つねにそこにある。いずれの場面も俳優と公演会場という同じ現実をベースとしてつくられている。

© 本藤太郎

各場面の設定にも共通点を見出すことができるだろう。同性カップル、引きこもり、孤独死した人物と特殊清掃業者、記憶の覚束ない老人。彼らはいずれも、現在の日本においては残念ながら周縁的な地位に置かれている人々だということができる。そしてタイトルが暗示する孤独死のモチーフ。カップルを案内する不動産管理会社の人間はそこが事故物件であることを告げ、体液の流れ出す夢を見た娘はそのまま孤独死した人物として業者によって搬出されていく。最後の場面にこそ死のモチーフは登場しないものの、老人がもっとも死に近いことは確かであり、彼らが去った舞台は空っぽのまま幕を閉じる。通底する孤独と死の気配。

だがもちろん、屋根裏ハイツは周縁に置かれた人々をひとまとめに扱っているわけではない。彼らはそれぞれに違った個人であり、それぞれに異なる悩みや希望を抱えているだろう。その違いを踏まえてなお、そこにないはずの/あるかもしれないつながりを仮構してみせるのは、彼らがそこにこそ演劇的想像力の可能性を見ているからなのではないだろうか。あるいはそれは単に、ここで描かれる世界もまた、私が生きるそれと同じ世界なのだという身も蓋もない事実を突きつけているだけのことなのかもしれないが。屋根裏ハイツの次回公演『私有地』は11月28日(木)から、同じくSCOOLで上演される。

© 本藤太郎


屋根裏ハイツ:https://yaneuraheights.wixsite.com/home

2019/06/16(山﨑健太)

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