artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

キュンチョメ『女たちの黙示録』

会期:2022/02/19~2022/02/27

※配布型作品

シアターコモンズ'22の演目のひとつであるキュンチョメ『女たちの黙示録』は「キュンチョメが異なる立場や背景を持つ女性たちの声に耳を澄ませ、そこから生み出された予言」が鑑賞者に送り届けられる配布型の作品。観客は郵送あるいはシアターコモンズ会場での受け取りを指定し、受け取った作品を自宅などさまざまな場所で「鑑賞」することになる。なお、本作は3月末まで鑑賞可能だが、以下では内容に触れているため注意されたい。

郵送方式を選択すると、やがて黒い段ボール箱が送られてくる。箱を開けると中には銀のリボンで口を閉じられた濃紺の袋。2月中旬という季節柄、バレンタインのプレゼントを連想しつつ袋を開けるとフォーチュンクッキーが7つ入っていた。ひとつ割ってみると中の紙片には電話番号が記されている。電話をかけるとコール音の後、女声を思わせる合成音声が物語を語り出す。

私が最初に聞いた物語は「女たちの黙示録その13 宇宙介護支援センター」と題されていた。「人生の最後を宇宙で過ごしてみませんか」とはじまるこの物語では、宇宙で余生を過ごそうとする富裕層の老人と、その世話をするために宇宙放射線で命を削って働く貧困層の姿が描かれる。宇宙には介護士たちを弔うための天使像が建てられ、やがてそれらの天使像が降り注ぎ地球は滅亡することになる。

「黙示録」のタイトルの通り、語られるのはいずれも「終わりの物語」となっているのだが、「女たちの」という冠にふさわしいのは「その3 クジラと呼ばれた女」だろう。ロシアではヤギ、フランスではウサギ、ポーランドではウシ等々、世界各国で侮蔑の意味を込めて動物の名で呼ばれてきた女たちは本物の動物となり去っていき、そして世界は滅びることになる。

抑圧され発することのできなかった声が体内で石となり人を殺す「その4 声が石になるとき」、人工知能が世界の終わりをもたらす「その7 完璧な宗教」と「その23 0.0001秒のいたずら」、眠りを求める地球が人間を排除しようとする「その17 不眠症の地球」、実験用マウスと人間の立場が逆転する「その26 ネズミの演説」。電話をかける私はそのたびに異なる世界へと接続し、異なる声が語る異なる世界の終わりの物語を聞く。物語の終わりとともに通話は途絶し、「プー、プー」という終話音はまるで電話の向こうの世界が消滅してしまったかのような寒々しさを感じさせる。

ところで、この黙示録はなぜフォーチュンクッキーの形式で届けられたのだろうか。「黙示録」的なものを有する宗教の多くにおいて、そこで描かれる世界の終わりは唯一絶対のものとしてあるだろう。あるいは、実際に世界が終わることがあるならば、その終わり方は結果としてひとつに収斂するのかもしれない。だが、まだ終わっていないこの世界において、そのあり得る終焉はひとつではない。複数形の黙示録は、宗教の権威性を担保するための唯一の真実、逃れられぬ未来としてではなく、あり得る終わりを回避するための、外れるべき予言として届けられているのだ。

ランダムに封入された(と思しき)予言はランダムに開封され、電話を通して個々の鑑賞者の耳に届く。ごく個人的な体験となる予言の聴取はしかし、いつかどこかでほかの誰かと共有される体験でもあるだろう。予言に無限のバリエーションがあるとは思えず、ならば同じ番号の予言を共有する誰かがいるはずだからだ。一方、ランダムな数字の並びは、私には知ることのできない世界の終わりがあることも告げている。そこには誰にも知ることのできない世界の終わり、欠番の予言さえも含まれているかもしれない。

『女たちの黙示録』の意義はむしろ、このようなかたちで起動する想像力の方にこそあるように思われる。フォーチュンクッキーが入っていた袋には「これは終わりの物語です。同時に、はじまりでもあります。」と記されたタグが付されていた。語られる世界の終わりは多様だが、いずれも現代社会の問題をほとんどあからさまに映した寓話となっており、そこに託されているものは明らかだ。私という個人が抱え、あるいは関わることができる問題は現代社会で起きているさまざまな問題のごく一部に過ぎない。だが、その問題を共有する誰かはきっとどこかにいる。そしてまた、目の前にいる誰かは私とは別の問題を抱えているだろう。それを知ること、そのような想像力を起動させること、そして何より、予言を語る者の声に耳を傾けること。それこそが世界の終わりを回避するための第一歩となるはずなのだ。


キュンチョメ『女たちの黙示録』:https://theatercommons.tokyo/program/kyun-chome/

2022/02/20(日)(山﨑健太)

ほろびて『苗をうえる』

会期:2022/02/16~2022/02/23

下北沢OFF・OFFシアター[東京都]

なるべくならば人を傷つけずに生きていきたい。だがそんなことは不可能だ。それでも「生きていく以上、人を傷つけてしまうことは仕方がない」と開き直ることはしたくない。自分が人を傷つける可能性に誠実に向き合い生きていくことは、どのように可能だろうか。

家を分断する境界線に人を操るコントローラー。ほろびての作品は現実世界にひとつだけSF的な設定を導入するところから始まることが多い。だがそれは決して非現実的な物語を意味するものではなく、むしろ、現実のある側面に具体的なかたちが与えられ可視化されたものとしてある。

『苗をうえる』(作・演出:細川洋平)は卒業を間近に控えた高校生・鞘子(辻凪子)の左手がある朝、刃物になってしまうところから物語が始まる。それでも何事もなかったかのように高校に行こうとする鞘子に母・間々(和田瑠子)は絶対に家から出ないよう言い置いて介護の仕事へと出かけていく。仕方なく鞘子がひとり留守番をしていると母の恋人である青伊知(阿部輝)が金の無心にやってくるが、鞘子は左手の刃物で誤って青伊知を傷つけてしまう。一方、間々が介護に通う家には認知症のまどか(三森麻美)とその孫・宇L(藤代太一)が暮らしている。平均的な大人よりも大きいくらいの体を持つ宇Lはまだ小学5年生なのだが、どうやら学校には行っておらず、まどかとともに日々を過ごしているらしい。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


さて、鞘子は青伊知やコンビニの店員、そして宇Lをうっかり傷つけてはしまうものの、この物語のなかではそれ以上の大事には至らない。事件を起こすのは青伊知であり宇Lの方だ。金に困った青伊知はたまたま出会ったまどかから金のありかを聞き出し、家に忍び込む。だが、金を盗み出そうとしたところを宇Lに見つかった青伊知はそれでも金を返そうとせず、激昂した宇Lは青伊知の腕の骨を折ってしまう。ところが、青伊知を自分の夫だと思い込んでいるまどかは宇Lを「悪魔!」と罵り、平手打ちをくらわせるのだった。鞘子は偶然その場に居合わせ一連の出来事を目撃する。


[撮影:渡邊綾人]


この物語において「悪」はどこにあるのだろうか。もちろん、金を盗もうとした青伊知は「悪」いのだが、青伊知はまどかの前で半ば独白のように「俺、、、まともに働けない」「俺、健康に見える?」とこぼしていた。青伊知が働くことに何らかの困難を抱える人間なのであれば、鞘子の「働いてください」という言葉も青伊知には辛く響いただろう。鞘子は知らず知らず青伊知を傷つけていたことになる。しかし、金をせびる青伊知の存在が間々と鞘子の生活を脅かすこともまた事実なのだ。

一方、間々は鞘子が生まれたことをきっかけに更生したと語るが、母子家庭の生活は厳しく、鞘子は大学の費用を自分で工面しなければならない。宇Lもまた、かつては庇護者だったはずのまどかの存在に縛りつけられているといえるだろう。では誰が「悪」いのか。「悪」が存在するとすればそれは社会的な支援の不十分さのはずだが、家族として結びついた人々が悪意なく互いを損なってしまう現状がここにはある。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


登場人物のなかでは鞘子と宇Lだけが自分が他人を傷つける力を持っているのだということを自覚している。左手が刃物になってしまった鞘子は言うまでもないが、宇Lもまた、容易に他人を傷つけてしまう恵まれすぎた体格の持ち主だ。しかも、宇Lのなかには生まれてくるときに死んでしまった双子の兄弟・宇Rがいて、極度の乱暴者だという彼が表に出てこないように努力をしているらしい。一方、大人たちもまた、誰もが誰かを傷つけているが、それは鞘子と宇Lのように身体的な力によるものではない。社会に組み込まれた大人たちはより複雑な、ときに自覚のないかたちで他人を損なっている。

この物語は、鞘子が刃物となった左手とともに、それでも社会に出て生きていくことを間々に宣言する場面で終わる。一連の出来事を経て、鞘子は刃物の左手を持つことの意味を受け入れる。冒頭の場面で鞘子は、間々に指摘されながらも自身の左手が刃物になっていることになかなか気づけなかった。自分の存在が他人を傷つける可能性を直視することは難しい。だからこそ、自身の左手に宿る刃物を、自らの手が無垢ではないことを受け入れ前を向こうとする鞘子の強さは胸を打つ。


[撮影:渡邊綾人]


芸術の道を志す鞘子の姿には、『苗をうえる』のつくり手である細川たちの姿も反映されているだろう。宇Rの名前がウランに由来するものだということを考えれば、この物語で描かれている「他人を傷つける可能性」が人間に限定されたものでないことも明らかだ。芸術やあらゆる技術もまた、つねに誰かを傷つける可能性を孕んでいる。それは避けられない、一回一回誠実に向き合っていくことしかない問題なのだ。苗を育てるという鞘子の宣言には、それでもその手で未来を紡ぐのだという意志が込められている。舞台の手前に目を向ければ、そこに植えられたいくつもの植物は、白い紙を切ることでかたちづくられたものだった。刃物の使い道は人を傷つけることだけではない。


ほろびて:https://horobite.com/


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2022/02/19(土)(山﨑健太)

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』

会期:2022/02/11~2022/02/27

こまばアゴラ劇場[東京都]

世界が大きな問題に覆われるとき、個々人が抱える個別の問題は存在しないことにされてしまう。大事の前の小事? だがそうまでして守られるべき世界とは何なのだろうか。お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』(作・演出:得地弘基)は個人と世界の対立を、あるいは「世界」と「世界」の対立を描き出す。そうして描き出される世界のあり方は、あまりに現実に似ている。

2021年11月にワーク・イン・プログレスが上演された本作。今回の本公演では上演台本をブラッシュアップしたうえで配役を一新、一部の登場人物はダブルキャストで演じられ、基本の筋は同一ながらワーク・イン・プログレスとは大きく異なる印象の作品に仕上がっていた。私が観劇したのはBキャストだが、以下では演じた俳優の名前を「役名(Aキャスト/Bキャスト)」のかたちで記載していく。


[撮影:三浦雨林]


作品の冒頭、『ハムレット』をベースに「《吸血鬼》、《人狼》、《幽霊》、《人造人間》、そして《人間》」という「五つの病を寓意化した種族」が生きる世界を描いたこの物語は「一つの架空の症例」であり「一つの箱庭」であること、そして「『現実』もまた箱庭の一つ」であることが宣言される。美術家・中谷優希による舞台美術はこの宣言に呼応するものだ。舞台の左右と奥の三方を囲む半透明のカーテン。その外側は俳優や小道具の待機場所になっていて、俳優はカーテンの間を通って舞台中央の演技空間へと出入りする。舞台正面上部にも同じ半透明の布が文字幕のように吊るされ、プロセニアムアーチのような正面を形成している。そこは病室であり診察室であり、そして同時に劇場でもある。舞台中央には点滴が吊るされているが、その先につながれているはずの患者の姿はなく、チューブの先からは液体が滴っているのみ。患者は回復したのか、あるいは、つながれているのはこの世界だということだろうか。


[撮影:三浦雨林]


物語の前半では王子ハムレット(高橋ルネ)が叔父であり自らの主治医でもあるクローディアス(永瀬安美/黒木龍世)を疑い、彼が犯した犯罪を暴こうとする。大まかには原作に沿った筋立てだが、本作では亡くなっているのは父王ではなく母ガートルード(宇都有里紗/緒沢麻友)であり、クローディアスは彼女の主治医でもあった。城には幽霊(当然ガートルードの幽霊である)の噂が流れ、街では吸血鬼の城と呼ばれているらしい。近辺には人狼の森なる場所もある。

やがて、レアティーズ(海津忠/橋本清)が実は人狼であること、ホレイショー(大関愛)がクローディアスによって造られた人造人間であることなどが明らかになり、ホレイショーとクローディアスは国王に遣わされた国家警察特任捜査官フォーティンブラス(宇都/緒沢)によって罪人として捕らえられてしまう。このとき、さらに衝撃の事実として、父王とガートルードが吸血鬼であり、血のつながらない叔父であるクローディアスは彼らの治療をしていたのだということが明かされる。つまり、ハムレットその人もまた吸血鬼だったのだ。そうして世界は転覆する。

疫病が蔓延した街はフォーティンブラスらによって南北に分断され、境界には壁が建設される。健康でないものは南側へ送られ、観客はカーテンの向こう側へとひとりずつ消えていく登場人物たちを見送ることになる。だが、カーテンの向こうは現実だったはずでは? 見送る観客のいる「こちら側」はいったいどこにあるのだろうか。


[撮影:三浦雨林]


こうして、物語の後半では吸血鬼、人狼、人造人間、そして幽霊は健やかでない者として一緒くたにまとめられ、それぞれが抱えていたはずの問題は後景に退いてしまう。それどころか、吸血鬼は存在しないということが国によって「決定」され、国にとって都合の悪いその存在は隠蔽されることになる。物語の冒頭には、例えば「ひとつは、吸血鬼。太陽を憎み、人の生き血を吸う、夜の王さまです」といった具合で、それぞれの種族の紹介が置かれていた。五つの種族の紹介は「そして、人間。わたしたち、あなたたち、のような、普通の人々です」と締め括られる。ところが物語の終盤では、すべての種族が「わたしたち、あなたたち、のような、普通の人々です」と紹介されるのだ。この言葉が持つ意味は両義的だ。性質によってむやみ人を分かつことは差別につながりかねないが、違いに目を向けないことで問題自体がないことにされることもままあることだからだ。

すべてが済んだ最後の場面。原作とは異なり、この作品においては唯一の健やかなる者だったオフィーリア(新田佑梨)が診察を受けている。彼女はカーテンの向こうに誰かの叫びを聞いた気がするが、飲み忘れていた薬を飲むと叫び声はもう聞こえない。だが、遠く響く声に耳を塞ぐことが果たして治療の名に値するだろうか。しかしそうして彼女の世界の平穏は保たれているのだ。


[撮影:三浦雨林]


これまで、演劇を使って思考実験を突き詰めるような作品を上演してきたお布団/得地だが、本作では確固たる物語の力を示してみせた。だがその分、本作では思考実験的な側面がやや控えめだった点は物足りなくもある。次作ではさらなる進化を見たい。


お布団:https://offton.wixsite.com/offton
お布団Twitter:https://twitter.com/engeki_offton


関連レビュー

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月15日号)

2022/02/12(土)(山﨑健太)

KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』

会期:2022/02/03~2022/02/17

シアタークリエ[東京都]

ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲をさまざまな演出家が上演するKERA CROSSのver.4として『SLAPSTICKS』が上演された。同作はNYLON100℃ 2nd SESSIONとして1993年に初演された作品。これまでに鈴木裕美が『フローズン・ビーチ』を、生瀬勝久が『グッドバイ』を、河原雅彦が『カメレオンズ・リップ』をとベテランが演出を担当してきたこのシリーズだが、今作では若手を起用しロロの三浦直之が演出を担った。ロロの旺盛な活動と並行して、海野つなみのマンガを原作とした朗読劇『逃げるは恥だが役に立つ』の脚本・演出や松本壮史監督の映画『サマーフィルムにのって』の脚本など活動の幅を広げている三浦だが、自分以外の劇作家の戯曲の演出を手がけるのは今回が初となる。

かつて「チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートンの三大喜劇王を全員ワキに廻した」こともある喜劇俳優ロスコー・アーバックル(金田哲)。ある事件をきっかけに映画界から排斥されてしまった彼の映画のリバイバル上映を企画するビリー(小西遼生)は、配給会社で働くデニー(元木聖也)に当時の思い出を語りはじめる。時は1939年から1920年へ。喜劇俳優を目指す若き日のビリー(木村達成)はマック・セネット(マギー)のスタジオで助監督として働いていた。ある夜、ビリーがスタジオで独りフィルムを編集していると憧れの女優メーベル・ノーマンド(壮一帆)が現われる。恋仲だったセネットのスタジオを去って以来、高まる人気とは裏腹に彼女の出演作への評価は低調だ。精神的に不安定な状態にある彼女はその日もコカインをキメているようで──。人々を笑顔にするサイレント・コメディ。しかしその裏には過酷な現実がある。つくり手たちは体を張り、心をすり減らしている。


[写真提供:東宝演劇部]


着ぐるみ的なスーツを着てファッティ(デブくん)ことアーバックルを演じた金田が出色。2003年再演版では古田新太が喜怒哀楽もあらわにひとりの人間としてのアーバックルを演じていたのに対し、金田版アーバックルは飄々とすっとぼけた演技を貫き、現実でもサイレント・コメディの世界を生きているかのような人物として造形されていた。いかにも喜劇俳優然としたメイクの施された顔とハリボテの体も非現実感を強調する。シリアスな場面でも軽やかさを失わないアーバックルだが、だからこそそこには哀愁が寄り添う。時折見せる軽快な動きも楽しい。桜井玲香はビリーの初恋の人・アリスという振り幅の大きい役を巧みに演じ、ベテランのマギーはサイレント・コメディの空気感を牽引して頼もしい。喜劇俳優というハマり役を得たロロ俳優陣(亀島一徳、篠崎大悟、島田桃子、望月綾乃、森本華)も大舞台で生き生きとして見えた。


[写真提供:東宝演劇部]


[写真提供:東宝演劇部]


映画業界の光と影。フィクションと現実のギャップは歪みを生む。劇中でその極点として描かれているのが女優ヴァージニア・ラップ(黒沢ともよ)の死だ。彼女はアーバックルの主催するパーティーで何者かに暴行され、その4日後に亡くなってしまう。容疑者として逮捕されたアーバックルは裁判で無罪を勝ち取るものの人気は地に落ち、映画業界からはほとんど追放状態となる。

釈放され、「酒だって飲む、クスリもやる、人も殴る。だけどね、映画を創れなくなるようなヘマはしない」「映画が創れなくなるなら、死んだ方がマシです」と語るアーバックルの映画への思いには胸を打たれる。一方で、それでも他者を踏みつけにするアーティストがいくらでもいる現実を知ってしまっている現在の私に、その言葉は虚しくも響くのだった。


[写真提供:東宝演劇部]


リバイバル上映によって/戯曲に書かれることによって/戯曲が上演されることによって再び光があてられるアーバックルとは対照的なのがラップの存在だ。この戯曲において彼女はアーバックルに「仕事の相談」を持ちかけ、そして何者かに殺されるためだけに登場させられている。ラップは被害者であるにもかかわらず彼女自身に落ち度があったかのような中傷を受け、しかしもちろん反論の機会が与えられることはない。ラップは被害者としても死者としても、そして登場人物としても言葉を奪われている。

三浦の演出はそのことを告発するものだ。死者となり物語から退場させられたラップは幽霊のような存在としてその後もしばしば舞台上に登場する。誰にも言葉を聞いてもらえないままに舞台を彷徨うラップ。戯曲には存在しないラストシーンでもラップは独り舞台に現われ、改めて何事かを語るが、ここでも彼女に声は与えられない。言葉を奪われそれでも何かを語ろうとする彼女の顔がスクリーンに大写しになり、そして舞台は幕となる。

声を奪われたラップの存在は、この戯曲においてあまりに多くのネガティブなイメージを背負わされた女たちを代表するものでもあるだろう。性的に消費され、首の骨を折り、薬物中毒となり、嘘を吐き、自ら命を絶つ女たち。それらの幾分かは時代背景を反映したものでもあるだろうが、男たちに与えられた役割との差は歴然だ。彼女たちもまた声を奪われた存在だ。

だが、三浦のやり方はいささかマッチポンプめいても見える。あるいはこれが純然たるフィクションであればこのようなやり方も(それが最善だとも思えないが)あり得たかもしれない。しかしこの戯曲は史実に基づいて書かれたものであり、ラップは現実に存在した人間だということを忘れるわけにはいかない。セカンドレイプがあったこと自体もまた史実だとはいえ、劇中で行なわれるセカンドレイプと現実におけるそれとの間にいかほどの違いがあるだろうか。戯曲が上演されるたび、ラップの尊厳は傷つけられる。女たちの声が奪われていることを指摘するだけではラップへのセカンドレイプは購えない。

声を奪われた彼女たちを演じる生身の人間である俳優もまた、舞台上で自らの言葉を発することは許されていない。だから、問いは観客である私の側へ、現実の側へと投げかけられる。お前はどうするのかと。


KERA CROSS ver.4『SLAPSTICKS』:https://www.tohostage.com/slapsticks/
ロロ:http://loloweb.jp/

2022/02/03(木)(山﨑健太)

笠木泉『モスクワの海』

会期:2022/01/15~2022/01/22(※戯曲無料公開期間)

笠木泉が主宰する演劇ユニット・スヌーヌーの2作目として昨年末に上演された『モスクワの海』が第66回岸田國士戯曲賞の最終候補作品にノミネートされた。遊園地再生事業団、「劇団、本谷有希子」、ミクニヤナイハラプロジェクト、はえぎわなどの演劇作品や冨永昌敬監督、中村義洋監督らの映画作品で俳優として活躍する笠木は劇作家としても活動しており、2017年に脚本家・鈴木謙一らのユニットであるラストソングスに提供した『家の鍵』は第6回せんだい短編戯曲賞にも最終候補作品としてノミネートされている。アラビア語でツバメを意味する名を持つスヌーヌーでは笠木自身が演出も手がけ、2018年に踊り子ありのひとり芝居としてvol.1『ドードー』を上演。『モスクワの海』は当初は2020年12月にvol.2として上演を予定をしていたもののコロナ禍の影響で延期となり、2021年12月、1年越しでの上演が実現した。実は私はその上演については観ることが叶わなかったのだが、公演は好評を博し、その後、2022年1月15日から22日までの1週間、希望者にpdfファイルを配布するかたちで戯曲が公開された。本稿は(上演の記録写真こそ掲載されてはいるが)その戯曲のレビューとなる。


[撮影:明田川志保]


主な舞台は川を挟んで「東京の隣」にある街。「急行が止まるし、南武線も走っているから、人はそこそこいるけど、ごった返すかというと、そうでもない」駅から徒歩5分の住宅街にある「二階建ての、古くて、ちいさな一軒家」。そこに住む女1(高木珠里)はあるとき庭でふいに立ち上がれなくなってしまう。たまたま通りがかった女2(踊り子あり)は「手を、貸しましょうか」と申し出るが女1は「大丈夫です!」と頑なで──。

拒絶された女2は一度は立ち去るものの戻り、改めて手を差し伸べ、しかしその手を借りず自力で立ち上がった女1が家の中に戻るのを手伝い、彼女を病院へ連れて行くためのタクシーを呼ぼうと通りへ出る。劇中の時間で起きるのはたったこれだけ、10分程度の出来事だ。


[撮影:明田川志保]


見ず知らずの人に助けの手を差し伸べるのは案外難しい。ふいに声をかけられた側も警戒する。二人の間には門扉の柵という物理的な障壁もある。「見えているのに、助けられない」。だがそれでも女2は文字通りの障壁を乗り越え、少しだけ女1の側に踏み込む。女1の拒絶を思えばそれは余計なお世話だったのかもしれないが、そうして足を踏み入れた家の中の様子から女2は少しだけ女1のことを知ることになる。パン、せんべい、バナナの皮、割り箸が刺さったまま干からびたサトウのごはん、そこだけがきれいに拭かれた仏壇、民生委員の電話番号が書かれたメモ、溜まった郵便物。それは女1の人生のごくごく一部でしかないが、その一部ですら、加藤伸子という彼女の名前と90歳という年齢すら、女2が踏み込まなければ知り得なかったものだ。それは観客にとっても同じことだ。舞台上にはほとんど何もなく、伸子を演じる高木は90歳ではない。想像力には限界がある。


[撮影:明田川志保]


ところで、伸子には息子がいる。息子を演じる松竹生は最初から舞台上にはいるのだが、ときおり伸子と言葉を交わしたりはするものの、どういう人物なのかはなかなかはっきりしない。やがてわかってくるのは、それがフジオという名の彼女の息子であり、しかし長年引きこもっていた彼はいまはもうその家にはいないということだ。(基本的には)母親である彼女にだけ見えている息子の姿は、女2が伸子の方に一歩を踏み出そうとしたその一瞬だけ女2にも見えるようになり、彼女は少しだけフジオと言葉を交わす。

フジオはなぜいなくなったのか。53歳のある日、フジオは突然、バイトの面接のために新宿に向かう。「きょうは、気分がいい」からと家を出たフジオは結局、新宿に行くことはできなかった。川の近くの公園でフジオが思い出すのは同級生と、そこで通り魔事件を起こし自ら命を絶った、何年も引きこもっていたという自分と同い年の犯人のことだ(それは実際に起きた事件である)。「みんな、忘れてしまっただろうか」。

渡り鳥の声が「来週汚染水が放出されるよ」と告げる。高校生のフジオはまだ学校に通っていたらしい。フジオはそのときから借りっぱなしになっていたレコードや雑誌をかつての同級生に返そうとする。それはチェルノブイリ原発事故の年のものだ。そういえば、伸子が立てなくなったのは、どこか遠くで「どーん!」という音がした直後のことだった。ひとりの人間がふいに立てなくなることと歴史的な大事故。遠い両者はしかしどこかでつながっている。


[撮影:明田川志保]


[撮影:明田川志保]


バイトの面接に行けず、橋の上から川面を眺めていたフジオは、やがてそこから落ちてしまう。「彼は、確かにいろいろあるけどさ、ちょっとふらっとしただけなんだ。薬をちょっとだけ飲みすぎて、ふらっとしただけなんだ。今、今だけなんだ! この瞬間、そうなってしまっただけなんだ!(略)だから、これは、事故なんだよ」。渡り鳥たちの声は悲しくも優しい。集まった鳥たちは落下するフジオを助け、そして彼もまた鳥たちとともに飛び立っていく。その後に描かれる久しぶりの帰宅の場面は、現実か、それとも伸子の空想だろうか。

もしかしたらフジオは救われなかったのかもしれない。だが、伸子の「その瞬間」には女2がいた。遠い悲劇に直接できることはなくとも、想像の及ばないことがあろうとも、そばにいるというそれだけのことで救われる何かがあり、そこからはじまる何かもある。この戯曲はそのことをささやかに、しかし力強く肯定しようとするものだ。


[撮影:明田川志保]



スヌーヌー『モスクワの海』:https://snuunuumoscow.amebaownd.com/
スヌーヌーTwitter:https://twitter.com/snuunuu

2022/01/20(木)(山﨑健太)