artscapeレビュー

かもめマシーン『もしもし、シモーヌさん』

2021年10月01日号

会期:2021/09/10~2021/09/14

公衆電話[任意の場所]

かもめマシーンによる「電話演劇」第2弾として『もしもし、シモーヌさん〈公衆電話ver.〉』(構成・演出:萩原雄太)が上演された。第1弾では『もしもし、わたしじゃないし』としてサミュエル・ベケット『わたしじゃない』を「電話演劇」へと翻案したかもめマシーン。今回の台本はフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユのテキスト(『重力と恩寵──シモーヌ・ヴェイユ「カイエ」抄』『ロンドン論集とさいごの手紙』『ヴェイユの言葉【新装版】』『シモーヌ・ヴェイユ選集Ⅱ──中期論集:労働・革命』より抜粋)をコラージュしたもので、観客は公衆電話を通じて彼女の言葉に耳を傾けることになる。

本作はもともと『もしもし、シモーヌさん』として豊岡演劇祭2021フリンジへの参加を予定しており、そこでは「建築家・白鳥大樹によってこの作品のために製作された『電話ボックス』」の中から「観客が俳優に電話をかけ、一対一で語られるシモーヌ・ヴェイユの言葉に耳を澄ませる、という内容を計画」していたのだという。だが、兵庫県への緊急事態宣言の発出に伴い演劇祭と公演は中止に。今回は、任意の公衆電話から「上演に参加」することができる〈公衆電話ver.〉が上演されることになった。

上演への参加を申し込んだ観客には、参加方法が記された紙と2枚のテレホンカードが送られてくる。観客はそのテレホンカードを使い、指定された時間に任意の公衆電話から指定された番号に電話をかけ、上演に参加する。私が高校生だった頃にはそこらじゅうにあった公衆電話も携帯電話の普及とともにその姿を消し、いまや公的な施設などを中心にごく少数が残るのみである。上演に参加するためにはまず、適当な公衆電話を見つけておかなければならない。池袋駅周辺でいくつか当たりをつけ、池袋西口公園の隅に二つ並んだ電話ボックスの片方から電話をかける私は、何か後ろ暗い取引に関わっているような気分になる。

数度のコールの後、「もしもし」と応じる女の声(清水穂奈美)。見知らぬ声は奇妙な親密さを滲ませる一方、「たましいの自然の動きはすべて、重力に似た法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される」と語り出される言葉はどこか説教のようだ。やがて「私は」と語り手が姿を覗かせると声はその響きを変える。「私は、頭痛の発作がひどくなると、他の人のちょうど同じ部分を殴りつけて、痛い目に合わせてやりたいと強く思った。重力に、屈してしまった」。「重力」という言葉から判断するに話題はかろうじてつながっているようではあるが、それは説教ではなく、むしろもはや罪の告白に似ている。だが、聞き手としての私はそこに必要とされていないようでもあり、ならばそれは本当の意味での告白ではないのかもしれない。

「一月のち、一年のちに、わたしたちはどんなふうに苦しんでいるでしょうか?」という言葉は2021年の東京に生きる私の状況と奇妙に重なって聞こえる、と、思った次の瞬間、ジリリリリと受話器の中で電話のベルが鳴りはじめる。「もしもし」と応じる女の声はフランクだがフィルターを通したように遠く、私は受話器を握りながらにして通話の外へと追い出されたような心地になる。女は1934年12月の「工場日記」を読み上げはじめる。音響的な加工が施された声はもはや通話を装うことをやめており、私は宛先不明の日記の言葉を延々と聞き続ける。工場の賃金労働で擦り切れていく人間性。やがてツーツーツーと回線が切れたことを告げる音。通話は再び私のもとに戻ってきたらしい。女の声は続く。

説教と告白を行き来しながら声は語りを続けるが、その調子は必ずしも語られる内容と一致しているわけではなく、両者は互いを侵食し合うかのようにして聞き手としての私の立場をも危うくする。私はどのような資格で彼女の言葉を聞いているのか。「この叫びになんの意味もない。誰にも聞かれてはならない」「私、私、私、私、もしもし」。切実さが頂点を迎えたと思うと不意に再び声に親密さが宿る。「わたしたち」「わたしと、あなた」という言葉でようやく私は存在を認められたような気持ちになる。語られる「私とあなた」の罪と罰、償いと救い。「神よ、どうか私を無とならせてください」。

最後のパートは父母への手紙、いや留守番電話だろうか。「もしもし、お父さん、お母さん」とはじまるそれは親密さと愛に溢れているが、そこに私の居場所がないのは明らかだ。私は置き去りにされ、やがて電話は切られる。

一方的に話し続ける声に耳を傾ける私は間違い電話を受けているような、自分はこの声を聞いていてよいのだろうかという不安を覚える。一方で、説教と罪の告白はいずれも声に耳を傾けることを聴者たる私に迫るが、池袋の雑踏で受話器からの声にのみ集中し続けることは難しく、そのことに私は後ろめたさを覚える。ここは私の居場所ではないという気持ちと、話を聞かなければという気持ち。引き裂かれながら、それでも私は、予告された30分の上演時間のあいだ、受話器からの声に耳を傾け続けた。かつてこれほどまでに長く誰かの話を聞き続けたことがあっただろうかと思いながら。


[撮影:山﨑健太]



かもめマシーン:https://www.kamomemachine.com/

2021/09/11(土)(山﨑健太)

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