2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

屋根裏ハイツ『パラダイス』

会期:2021/02/05~2021/02/09

STスポット[神奈川県]

『パラダイス』(作・演出・音響:中村大地)は『私有地』(2019)に続く屋根裏ハイツの「シリーズ:加害について」の第二弾。人口減少と高齢化の結果、老人ホームのような機能も担うようになった郊外の団地を舞台に描かれる日常の風景から浮かび上がるのは、分かちがたく触れ合い溶け合うケアと加害の境界領域だ。

住民の憩いの場となっているらしき集会室。職員の高知(村岡佳奈)がいるところに住民の沢崎(瀧腰教寛)がやってくる。二人のやりとりから沢崎には認知症のような症状があるらしいことが窺われる。さらに住民の清水(和田華子)がやってくる。どうやらその朝、清水の部屋の隣に住む遠藤さんという寝たきりだった住民が入院していったらしい。遠藤の世話をしていた子の「ケイさん」は2日前から行方不明のようだ。清水が出て行ってしばらくすると高知は、昼食を食べ損ねているので食べに行きたい、その間、沢崎がここにいるつもりなら鍵をかけさせてもらいたいと言い出す。ケイのことがあったので、一部の住民には安全のため、集会室の利用の際に職員の送り迎えをつけることになった、そのことはまだ決まったばかりで周知はされていないのだが、ひとまずの暫定的な措置として、万が一のことがあるといけないので、自分がいまここを離れるにあたって鍵をかけておきたいのだ、と。沢崎は了承し、高知は昼食のために出て行く。沢崎がひとりでいる間に住民の日高(村上京央子)が集会室を訪れ、鍵がかかっていることに驚く。沢崎は事情を説明しようとするがうまく伝えられず、日高は高知を呼びに行く。戻ってきた高知の説明で日高は一応は納得するが、沢崎に改めて確認すると沢崎は鍵を閉められていたこと自体忘れてしまっている。沢崎は煙草を吸いに出ようとするが、ふと「ひとりで、行っていいの?」と高知に問いかけ、高知とともに出て行く。

集会室に鍵をかけた高知の行為はケアか加害か。日高はそれを一旦は加害だと判断し、事情を聞いてケアであったことを了解しつつ、同時に釈然としない様子でもある。事情の有無にかかわらず、行為の内実は変わらない。自由を奪う行為は加害であり、同時にケアともなり得るという現実があるだけだ。では、高知が昼食を抜けばよかったのか。しかしそれは高知に対する束縛、加害ではないだろうか。鍵をかけて昼食にいくという選択は、自他のケアを秤にかけた高知の落としどころだったはずだ。

作品の冒頭、外で遊ぶ子供たちを見た沢崎と日高は「学校無いのかな」「保育園の子かも」「先生とかいないっぽいですけど」と言葉を交わす。ふたりの「心配」もケアの一種だが、それは束縛や禁止へとエスカレートする種ともなり得る。どこまでが妥当なケアか。高知は保育園で使われる散歩用の子供を載せる台車を見る度に「ドナドナ」の歌を思い出し、運ばれる子供たちが「自由がない動物みたいに見える」のだと言う。小学校の塀と刑務所の塀の違いは何か。無用心だからと鍵のかかっていない部屋から財布と携帯を勝手に持ち出すことは犯罪か。「健康に悪いから」と煙草を禁止することはできるか。散りばめられたエピソードがケアと加害の違いを問う。その問いは老人ホームや病院といった場所をも射程に収めるものだろう。

鍵をかけて出て行った高知と鍵もかけずに出てったケイさん。果たしてどちらが「正しかった」のか。鍵がかかっていたら遠藤さんは人知れず亡くなっていたかもしれない。鍵のかかった集会室で沢崎は突然倒れてしまったかもしれない。沢崎が高知とのやりとりを忘れてしまったせいで、高知は何らかの責任を問われることになったかもしれない。無数の「かもしれない」と折り合いをつけ続ける作業としてしかケアはなし得ず、しかしそこにどのような「かもしれない」があり得たかを第三者が推し量ることは難しい。断罪はなおのことだ。

『とおくはちかい(reprise)』とも共通する、他者の事情を十分には知り得ないというテーゼは、本作では上演の構造としても採用され、観客にも体感されるものとなっていた。沢崎がひとりになると、集会室に保管されていたケイさんの電話に着信があり、沢崎はそれに出てしまう。沢崎はその後、およそ20分にわたりケイさんの友人の久保田(宮川紗絵)と電話越しに会話をし続けるのだが、久保田の言葉は劇場にいる観客には聞こえない部分も多い。実は、この電話越しの会話は音声のみのオンラインパフォーマンスとしてリアルタイムで公開もされており、それを聞くと(あるいは公開されている上演台本を読むと)久保田がどのような言葉を発していたかを知ることができる仕組みになっている。しかしそこにも、通話中に久保田に話しかけたはずの「同居人」の声は入っていない。「観客」が全てを知ることはできない。

『パラダイス』の最後の場面はこうだ。清水と日高が集会室で話し込んでいると沢崎が外を通りかかる。「どこいくんだろう」と気にする日高は「わたしも行ってみようかな」と言う。「沢崎さん見がてら」「何処もいかないなら、戻ってくればいいし」と二人は出て行く。


公式サイト:https://yaneuraheights.net/
『パラダイス』上演台本:https://yaneura-heights.blogspot.com/2021/02/blog-post.html


関連レビュー

屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月01日号)
屋根裏ハイツ『ここは出口ではない』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月01日号)
屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年11月01日号)

2021/02/09(火)(山﨑健太)

円盤に乗る派『流刑地エウロパ』

会期:2021/02/06~2021/02/08

BUoY[東京都]

『流刑地エウロパ』は円盤に乗る派の前身にあたるsons wo:が「最後の公演」として2018年に上演した作品。今回は初演のキャストから山村麻由美が小山薫子へと変わり、それ以外はキャスト(キヨスヨネスク、佐藤駿、田上碧、畠山峻、日和下駄)も戯曲も会場(BUoY)も変わらず、しかし3年の時を経ての再演となった。

戯曲には「正気を保つ」、「全ては明るい、全ては清潔だ」、そしてTLC“Waterfalls”と、円盤に乗る派として上演することになる作品のタイトル(『正気を保つために』『清潔でとても明るい場所を』『ウォーターフォールを追いかけて』)を示唆し、あるいは「僕は目の前に、空飛ぶ円盤があったら迷わず乗りたい」と団体名を予告するようなキーワードも散りばめられている。その意味で「sons wo: 最後の公演」にはすでに「未来」としての円盤に乗る派の可能性が埋め込まれていた。2018年の私にとって知るはずのない未来であったそれは2021年の私にとっては既知の過去となった。しかしもちろんまだ見ぬ未来も埋め込まれているかもしれない。

「演劇をやっていていつも思うんだけど、本番がいちばん演劇ではない、通り過ぎてしまった記憶、まだ見ない何かの方が演劇みたいに見える」。『流刑地エウロパ』で唯一明確な名前を与えられた登場人物であるハレヤマ天文台は言う。私にとって『流刑地エウロパ』の再演は初演の記憶とともにあり、目の前で上演されつつある演劇へのまなざしは同時に過去へも向かう。舞台の三方を囲む配置の客席で、私はちょうど初演のときに座った席と向かい合う位置に座ることになった。記憶のなかで『流刑地エウロパ』を観る過去の私は未来=現在の私に視線を向けている。再演を観ることで思い出される初演の記憶は捏造され、過去と未来に挟まれるようにして立ち上がる上演が演劇としてそこにある。

[撮影:濱田晋]

ハレヤマ天文台という、明らかに作・演出を担当するカゲヤマ気象台のもじりである登場人物名が示唆するように、『流刑地エウロパ』はある種のパラレルワールドを扱っている。冒頭、オという記号めいた名前を与えられた登場人物のひとりは「地球を平面だと本気で思っている人たち」の集う「地球平面協会」の存在に触れ「なんというか本気になれば何でも信じられるんだなと思いました」と言う。どこからか聞こえてくる声(それは舞台上に登場する俳優たちの声のようだ)の語りによれば、木星の衛星エウロパに流刑された大犯罪者ケニー・G(ゴジマ)の生死を確認するため、探査隊タイタニックゴウが地球から木星へと旅立ってから2年が経つらしい。作品の中盤でまず明らかになるのは、その世界では「人間が二つの場所に同時に存在できる」テクノロジーが開発されており、登場人物たちは「あるいはエウロパへ向かい、あるいはこうして地球に残っている」ということ。だが、ピクニックに出かけた登場人物たちは土中からエウロパに流刑されたはずのケニー・G(ゴジマ)の日記を掘り出してしまう。そこには「俺はいくつもの森を抜け、沼を渡り、星の見えない暗い空間を何年間も進んで、(上演の日付)まで到達して戻ってきた」と記されていた。

[撮影:濱田晋]

[撮影:濱田晋]

結末に至り、冒頭で地球平面協会のことを話していたオは、ケニー・G(ゴジマ)と思しき男と邂逅したときのことを語る。ケニーによれば「やつら」によって1993年の9月にエウロパに地球がインストールされ、「その日にこの世界は始まった」のだという。「ここはずっとエウロパだった」。「真実」が露わになり、二つの世界が重なり合う。だがもちろん、ここがエウロパならば「本当の地球」がどこかにあるということになる。「きっと今ごろ、もう一人の私たちは、地球に帰り着いて、家族か、友達かに会って、ゆっくりお茶でも飲んでいるのかもしれない」。

「あの世界」「この世界」と分かたれた世界の足元は案外脆く、科学に裏打ちされた「たしからしい」世界も暫定的なものでしかない。科学とはその定義からしてそういうものだ。土中から見つかった日記のように、新たな発見は世界の「真実」を書き換える。

ハレヤマ天文台は言う。「だからと言って何かが変わるわけじゃなくって、僕たちは僕たちで、なんとか家に帰って、僕はちょうど演劇をやりたくなっているので、またみんなを集めて、まず話し合いからやろうと思います」。

既知となり過ぎ去った過去と未知としてこれから来る未来。テクノロジーの進歩をまたずとも人間はすでに二つの世界を生きていて、二つの世界を生きるしかない。

[撮影:濱田晋]


公式サイト:https://noruha.net/


関連レビュー

円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年11月15日号)
円盤に乗る派『正気を保つために』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年08月01日号)
KAC Performing Arts Program『シティⅠ・Ⅱ・Ⅲ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年02月01日号)

2021/02/08(月)(山﨑健太)

プレビュー:東日本大震災と向き合う舞台作品4本──『福島三部作』『消しゴム山』『光のない。─エピローグ?』『是でいいのだ』

会期:2021/02~2021/03

[神奈川県/東京都]

東日本大震災から10年。関連する舞台作品が相次いで上演される。

TPAM2021でTPAMディレクションとして上演されるDULL-COLORED POP『福島三部作』(作・演出:谷賢一)は2018年に第一部が先行上演され、2019年に三部作として初演、2020年には第二部が第23回鶴屋南北戯曲賞を、三部作として第64回岸田國士戯曲賞を受賞した作品。福島県双葉町を舞台に住民たちが原発誘致を決定するまでを描く第一部『1961年:夜に昇る太陽』、かつて原発反対派だった男が賛成派として町長となり、そしてチェルノブイリの原発事故に直面する第二部『1986年:メビウスの輪』、被災者への取材で語られる無数の言葉とテレビスタッフの葛藤が観客をも揺さぶる第三部『2011年:語られたがる言葉たち』。三つの時代、半世紀にわたる物語はひとつの視点からの断罪を許さない。科学技術への期待と人間の欲望、職業倫理とひとりの人間としての意志、積み上げてきた時間と来るべき未来。善悪では割り切れない人間の葛藤がそこにはある。

『福島三部作』は2月12日から14日、KAAT神奈川芸術劇場で上演。劇場上演に先がけて9日から12日にはオンライン配信も予定されている。膨大な注釈が付された『戯曲 福島三部作』(而立書房)も併せて読みたい。

同じTPAMのフリンジプログラムではチェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』が上演される。『消しゴム山』は、作・演出の岡田利規が岩手県陸前高田市で津波被害を防ぐための高台の造成工事によって人工的に造りかえられていく風景を目撃したことをきっかけに構想されたのだという。津波という自然災害で壊滅した街並みと、人間の都合で書き換えられる風景。岡田は『現在地』(2012年初演)、『地面と床』(2013年初演)、『部屋に流れる時間の旅』(2016年初演)と東日本大震災をきっかけに顕在化した価値観の相違や対立を描いてきた。『消しゴム山』はさらに、人間中心の世界観の外側へと目を向けようとする。瓦礫の山にも似た舞台美術は美術家・金氏徹平の手によるもの。モノに埋もれ、なかばそれらと一体になりながらそこに立つ俳優の姿は、不可解なこの世界に生きるしかない私の似姿かもしれない。あうるすぽっとで2月11日から14日まで。ライブ配信とアーカイブ配信も予定されている。

シアターコモンズ'21では高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』が上演される。今回の上演はフェスティバル/トーキョー12でPort B『光のないⅡ』として上演された作品のリクリエーション。高山はオーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と福島第一原発事故への応答として発表した『光のない。』の続編として執筆した戯曲(白水社から刊行されている戯曲集『光のない。』[林立騎訳]には「エピローグ?[光のないⅡ]」として収録)を、東京電力本社ビルの立つ新橋駅周辺を舞台とするツアーパフォーマンスとして構成した。スタート地点は福島第一原子力発電所と同じ1971年に開業したニュー新橋ビル。12枚のポストカードとラジオを手に新橋駅周辺を巡る観客は、新橋と福島との距離に対峙することになる。今回のリクリエーションは10年という「距離」とも否応なく向き合うものになるだろう。

「距離」というテーマはVR作品や鍼を用いたセラピーパフォーマンスなど、シアターコモンズ'21のほかのプログラムとも共振する。フェスティバル/トーキョー12当時の、そして現在はシアターコモンズのディレクターである相馬千秋によるキュレーション・コンセプト「孵化/潜伏するからだ」は観客に個々のプログラムを超えた更なる思考を促すものだ。シアターコモンズ'21は2月11日から3月11日まで開催。高山明/Port B『光のない。—エピローグ?』 は3月4日から3月11日まで。すでに満席となっているようだが増席の可能性も検討されているとのこと。

3月11日から15日にかけては三鷹SCOOLで小田尚稔の演劇『是でいいのだ』が上演される。『是でいいのだ』は2016年初演、2018年以降は毎年3月に再演されている小田の代表作。東京で被災したと思われる5人の登場人物が自らの体験をときに自虐的なユーモアを交えながら淡々と語る。劇的なことは起こらない。「自らの人生の境遇や環境を受け入れて前に進むこと」を描いたというこの作品はしかし、等身大であるからこそ観客に10年前の自身の体験を思い出させ、現在の自らを省みる契機となり得る。

それぞれに異なるやり方で東日本大震災や福島第一原発事故と向き合う四つの作品。いずれも再演だが、そこに舞台芸術のひとつの意義がある。作品に刻印された初演当時の記憶。時を経て作品と向き合う自分の、社会の変化。あるいは作品自体の変化。繰り返し上演される舞台芸術は、そのたびにつくり手と観客の現在地を問い続ける。


DULL-COLORED POP『福島三部作』:https://www.tpam.or.jp/program/2021/?filter=.tag--fukushima-trilogy
チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』:https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=53
高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』:https://theatercommons.tokyo/program/akira_takayama/
小田尚稔の演劇『是でいいのだ』:http://odanaotoshi.blogspot.com/2021/01/20213.html


関連レビュー

小田尚稔の演劇『是でいいのだ』/小田尚稔「是でいいのだ」|山﨑健太:フォーカス(2020年04月15日号)
没入するモノたち──チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』|池田剛介:フォーカス(2019年10月15日号)

2021/02/01(月)(山﨑健太)

ほろびて『コンとロール』

会期:2021/01/19~2021/01/21

下北沢OFF・OFFシアター[東京都]

ほろびては劇作家・演出家・俳優の細川洋平が主宰するカンパニー。2020年2月・3月に上演された『ぼうだあ』は大きな注目を集め、その後、期間限定で同作の映像と戯曲も公開されていた。4月には俳優の三浦俊輔がメンバーに加入。本作は細川のソロ・カンパニーから体制変更後、初の公演となる。

テレビゲームをしているうるい(藤井千帆)と永端(三浦俊輔)。うまくプレイできないうるいに永端は横からああしろこうしろと口を出すが、うるいは聞く耳を持たず気ままにゲームを楽しんでいる。プレイヤー交代。今度は永端が(腕前を自画自賛するような蘊蓄を垂れながら)プレイするが、うるいは退屈そうだ。しかしある瞬間、永端が握るコントローラーによって操作されるキャラクターの動きに連動し、うるいの体が彼女の意思とは無関係に動き出してしまう。どうやらそのコントローラーには近くにいる人間の体を自在に操作する力があるらしい──。

[撮影:渡邊綾人]

[撮影:渡邊綾人]

一方、カフェにいる男女。スーパーの店長であるイマミチ(松浦祐也)はアルバイトのしすく(鈴政ゲン)に契約の打ち切りを告げる。どうやら経営が思わしくないらしい。笑顔で話を聞いていたしすくだったが、突然泣き崩れてしまう。「生きていけない」「アンタが私と妹を路頭に迷わせるんだ」と責め立てるしすくに「いつも楽しそうだから、ほんとはお小遣い稼ぎくらいに思ってた」「うっかり」「知らなかったから」と言うことしかできないイマミチ。やがて「うちに来るのがいいと思う」としすくを抱きしめ──。

[撮影:渡邊綾人]

男たちが他人の生殺与奪の権利を図らずも得てしまうところからはじまる二つの物語はある日、イマミチとその弟カワハギ(細井じゅん)、しすくとその妹カコ(宮城茉帆)が同居するマンションの一室に、隣室に住む永端がコントローラーを持って闖入してきたことによって陰惨な監禁暴行事件へと展開していく。コントローラーを使ってイマミチたちを操り、自分自身やお互いを傷つけ合わせる永端。爪を剥がれ、腱を切られ、電気ショックを与えられ、指を折られ。痛みは抵抗する気力を削ぎ、イマミチたちはやがてコントローラーなしでも永端の指令に従うようになっていく。カワハギは片手片足が動かなくなり、カコは4本の指を折られ、しすくは永端に弄ばれ、そしてイマミチは息を引き取る。いつまでも続くかと思われた暴力の時間は、隣の部屋で同じように監禁されていたらしいうるいが外の世界へと出て行く決意をすることでようやく終わりを迎えるのだった。

[撮影:渡邊綾人]

[撮影:渡邊綾人]

陰惨な事件を起こした「犯人」は間違いなく永端だが、彼は自らの手を一度も汚していない。暴力を振るったのは監禁されていたイマミチたち自身であり、その意味では被害者は残らず加害者でもある。目を背けたくなるような暴力は事件を特別な、私とは無関係なもののようにも見せる。しかし、強者は自ら手を汚さず、立場の弱いもの同士が互いを攻撃し合う構図は、程度の差こそあれ、現代日本を含め古今東西あらゆるところで見られるものだ。

ところで、「犯人」たる永端さえいなければこのような事件は起きなかったのだろうか。永端の言葉はそれを否定する。「他でもないコントローラーに操られていただけなんだからなにひとつ俺に責任はない」。イマミチたちに対する絶対的な支配を可能としたコントローラーの存在は、それを使う側であるはずの永端をも操っていたというのだ。もちろんこれは卑劣な言い逃れだが、同時に、力というものの本質を表わしている。そう言えば、永端はコントローラーの力に気づいた当初、自らの体を進んでうるいの操作に委ね、「楽しかった」「すごい充実感」と言っていたのだった。それがどちらの側であれ、力に身を委ねることの快楽というものはたしかに存在する。

この行動は自らの意思によるものではない、という言い訳が人間を残虐にすることは心理学的実験によっても歴史的な事実によっても証明されている。大義名分を掲げることにも同じような効果があるだろう。あなたのため、国のため、あるいは作品のため、芸術のため。支配をめぐる構造は演劇という形式とも不可分に結びついている。演出家と俳優、俳優と役、俳優の意思と体。苛烈な暴力を舞台上に出現させているのは誰の意志か。

[撮影:渡邊綾人]

永端と暮らす部屋から逃げ出したうるいは裸足で走り続ける。透明なロープ状のものがうるいの体に絡みつき、その場に縛りつけようとするが、彼女はそれを振りほどき、やがて舞台と客席とを仕切る枠組みを越える(美術:西廣奏)。自分を縛る環境から逃れ出ることは容易ではなく、そもそも自分が環境に縛られていること自体を認識できない場合も多い。客席を正面から見据える彼女の目はこう問うているようだ。暴力を許していたのはほかならぬお前ではなかったかと。

本作は春ごろに配信が予定されている。

公式サイト:https://horobite.com/

2021/01/20(水)(山﨑健太)

篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演『5×5×5本足の椅子』

会期:2020/11/22~2020/11/23

オンライン

篠田千明『5×5×5本足の椅子』は「ダンサーであるアンナ・ハルプリンの『5本足の椅子』(1962年)のダンススコアをもとに、篠田が2014年に制作/発表したパフォーマンス作品『5×5 Legged Stool』をオンラインで展開するもの」(YCAMホームページより)。5×5×……と5が累乗されていくタイトルからは、『5本足の椅子』を原典に、自らの創作が2次創作、3次創作としてあるのだという篠田の意識が読み取れる。興味深いのは、2次創作にあたる『5×5 Legged Stool』がオンサイト=3次元で上演されたのに対し、3次創作にあたる今作がオンライン=2次元の画面上で上演されている点だ。

『5×5 Legged Stool』はダンススコアをもとにはしているものの、もともと「戯曲ではないものから演劇を起こすシリーズ『四つの機劇』のひとつとして」上演された「演劇作品」であり、今作の冒頭でも篠田はこの取り組みが「演劇」としてあるという主旨の発言をしている。ここで「演劇」という言葉は広義での「戯曲」の「上演」、2次元に記録された情報の3次元への展開プロセスを指している。オンライン演劇は演劇か、という問いに答えるためにはまず演劇を定義する必要があるが、この定義に則るならば今作は紛うことなき演劇であると言えよう。

上演は篠田による導入に続き、実際にスコアからダンスを起こすプロセスへと進む。まずは福留麻里がスコアに記された5人のダンサーのうちひとりの動きを舞台上で「再現」。画面上には福留のダンス映像に加えて、ハルプリンのスコアとそれに対する福留の解釈を言語化した字幕が表示されているのだが、これは福留のダンスが「戯曲」の「上演」であることを改めて可視化し、観客と共有するためだろう。あらゆる戯曲がそうであるように、ハルプリンのスコアもまた「上演」のすべてを厳密に規定しているわけではなく、演出家や俳優・ダンサーの解釈が入り込むことで「上演」は立ち上がる。

画面上にはスコア、字幕、ダンス映像が並び、観客は結果としての上演(=ダンス)だけでなくスタート地点(=スコア)から結果に至る過程(=字幕)までをも同時に見渡すことになる。……というのはあくまで概念的な解釈に過ぎない。実際の上演において、観客がこれらの情報のすべてを同時に把握することはほとんど不可能だ。情報量が多すぎる。にもかかわらず、画面上の情報量はますます過剰になっていく。さらに2人のダンサー(ちびがっつ!とryohei)が「再現」に加わるからだ。しかも彼らは福留とは別の空間で踊っており、それぞれのダンス映像は画面上の異なる三つのウインドウに示されている。このとき、「上演」の場たる二次元の画面は、上演の構成要素がさまざまな記号として配置し記述されるダンススコアの平面とほとんど見分けがつかないものとなっている。

こうして、二次元のダンススコアは三次元の時空間へと展開し、再び二次元の画面上へと圧縮される。上演台本という言葉があることからもわかるように、戯曲と上演の関係は必ずしも一方通行なわけではない。広義での「二次創作」は新たな原典となり、さらなる二次創作の契機となる。

上演はさらに、ハルプリンの研究者やハルプリンのワークショップを体験したダンサーへのインタビュー映像を交えた、篠田によるレクチャー・パフォーマンスへと移行する。インタビューで語られる上演の様子は別ウインドウで「再現」映像としても流される。楽屋のモニターで舞台の様子を見ていた、という証言に合わせて映し出されるモニターを見上げるダンサーの後頭部。だが、その顔が映し出された瞬間、私は時空が歪んだような感覚を覚えることになる。そのダンサーが、先ほどまで別ウインドウでパフォーマンスを進行していた篠田その人だったからだ。

もちろんそれは、あらかじめ録画されていた映像に過ぎない。だが、あらかじめ録画されていたのはどちらの映像なのか。司会進行の篠田か、それともダンサーとしてパフォーマンスをする篠田か。私が現在だと思い込んでいたものは、篠田の分裂とともにずるりと画面の中に引き込まれる。過去と現在は画面上で等価なものとなり、「戯曲」と「上演」はメビウスの輪のように絡みあう。

最後のパートでは、観客がバーチャルな上演空間に集い、スコアの指示を自ら実践する。観客は「Hubs」というサービス上のVR空間に自らのアバターをつくり出し、ワームホールのような球体(時空の歪み!)を通ってバーチャルな舞台に上がる。スコアの指示を再解釈した、観客が実践すべきインストラクションは「写真を撮る」こと。撮られた「写真」は空間に浮かぶようなかたちですぐさまその場に表示される。二次元の画面上に仮構された三次元の空間は、こうして再び二次元へと圧縮されていく。画面=空間に並ぶ無数の写真。だがそれは決して空間を埋め尽くすことはない。二次元と三次元の往復運動が生み出す無限の余白。演劇はそこに広がっている。


篠田千明『5×5×5本足の椅子』トレーラー


公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2020/the-5-by-5-by-5-legged-stool/
篠田千明Twitter:https://twitter.com/shinchanfutene
広報用ビジュアルデザイン:植田正


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篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演『5×5×5本足の椅子』|高島慈:artscapeレビュー(2020年12月15日号)

2020/11/22(日)(山﨑健太)

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