artscapeレビュー

映画美学校アクターズ・コース『シティキラー』

2020年04月15日号

会期:2020/03/05~2020/03/10(公演中止)

アトリエ春風舎[東京都]

『シティキラー』(作・演出:本橋龍)は映画美学校アクターズ・コース2019年度公演として2020年3月5日から10日にかけて上演される、はずだった。私は上演されなかったこの作品の関係者として、「無観客」で行なわれたゲネプロの現場に立ち会った。

会場入口の螺旋階段を下りると、多くの人が集まった空間が映し出された古いテレビが受付に続くドアの上方に据えられている。それは劇場の内部、舞台と客席の様子を中継した映像なのだが、そのことに気づいたのは会場に入ってからだった。ドア付近からは劇場の内部は見渡せず、ゲストハウス風に設えられたアトリエ春風舎の様子も普段とはまったく違っていたので、それが劇場内部を映したものだとは気がつかなかったのだ。だから、それが中継ではなく録画だったとしても私にはわからない。私は私のいる「今ここ」からしかものごとを見ることができない。

舞台は東京から離れたどこかのゲストハウス。ヤマミ(近藤強)が脱サラして始めたそこヤマミ荘には若者を中心にさまざまな人が集い、長期滞在する者や繰り返し訪れる者、はては移住してきた者までいる。ライブや演劇もできるスペースを備えるそこは地元の人々の交流の場にもなっているようだ。

©︎かまたきえ

「シティキラー」というのはもし地球に落ちればひとつの都市を破壊してしまうほどの大きさの隕石のことで、2019年7月頃に地球はそのシティキラーとすれ違っていた、と上演版映像の冒頭で本橋は説明する。同じような説明は劇中でもなされ、「私たちはそのことを知らなかった」と語られる一方で「遠い向こうの島」に流れ星が落ちるのが目撃される場面もある。ヤマミ荘の近くにあるクレーターは比較的最近(およそ300年前)の隕石によってできたらしい。

私がいる「今ここ」とは別の、私がいない、ことによると人間さえいない「今ここ」がある、あった、あるだろうということ。隕石や万年雪の存在が示すその事実。テーブルの上では上演が始まる前からずっと、惑星をかたどったオブジェが運動を続けていた。冒頭でヤマミ荘にやってくるコイシ(綾音)と入れ違うようにネムリ(井上みなみ)は東京に戻るが、それでもヤマミ荘の時間は続き、東京に戻ったネムリの時間も続く。彼女は東京に戻ることを冗談めかして「死ぬ」というが、もちろん彼女が死んだあとも、『シティキラー』が終わったあとも時間は続く。

©︎かまたきえ

2時間の舞台作品を15分×8回の連続ドラマへと構成し直した『シティキラーの環』(編集:和久井幸一、以下『環』)には『シティキラー』本編の映像だけでなくそのオフショット、美学校で学び公演に向けて準備を進める俳優たちの姿を捉えたドキュメンタリーパートが挿入されている。映画美学校のある渋谷のスクランブル交差点にネムリの格好で立つ井上は、果たしてどちらとしてそこに立っているのだろうか。街頭ビジョンには「新型コロナウイルス」の文字が見える。

本橋はしばしば、異なるはずの二つの時空間をひとつの同じ時空間に重ね合わせて観客に提示する手法を用いる。演劇の制約を逆手に取り、「ひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている」人間の姿を浮き彫りにする巧みな演出だ。一方で映画は、ばらばらの時空間で撮影された素材を巧みに組み合わせることで一貫したひとつの世界をつくり出す。ところが、『環』ではむしろ、それが完結したひとつの物語世界などではないことが積極的に示されている。画面にはしばしば、画面の外の客席に座る本橋や、撮影しているカメラマンの姿までもが映り込んでいるのだ。

つまり、『環』は全体が『シティキラー』上演の(あるいは映像制作の)ドキュメンタリーとしてつくられているということだろうか。だが、カメラマンなど「余計なもの」が映り込んでいないショットも同じくらいあるのだから話は一筋縄ではいかない。切り返した先にいるはずのカメラマンがいない場面もあり、それはつまり、その部分はカメラマンが映っていない別撮りのカットにわざわざ差し替えられているということだ。

©︎かまたきえ

演劇における本橋の手法は裏返しで映像へと適用されている。例えば第2環でマコト(中島晃紀)がモリコ(宇都有里紗)に告白する場面。二人の背中越しに夜景を思わせる幻想的な光が見えるのだが、カットが切り替わると二人は座卓の上に立っていて、その周囲にはヤマミ荘の仲間たちが座り込んでいる。ひとつの世界に見えるものは、バラバラの視点を持つ者が集まることで紡がれていく。

鳥によって結ばれる二つのエピソードが印象的だ。森(?)で鳥に遭遇したオヤカタ(廣田彩)は「ここってどこですかね」と問いかける。その先にいるのはしかし、ウズベキスタンからヤマミ荘にやってきたシトラ(淺村カミーラ)の姿だ。彼女は何か言葉を返すが、それは日本語でも英語でもなく(ロシア語らしい)、オヤカタは「鳥語だからわかんねえ」とぼやく。

続く場面ではヤマミ荘で飼育されている鶏がシメられる。ワルというその鶏の名前は、ほかの鶏をいじめることから付けられたものらしい。母親(山田薫)と共に移住してきてヤマミ荘の近くに住んでいるアサト(秋村和希)は初めて鶏をシメる。その夜、実は中学のときにいじめられていたのだと彼は母親に告げる。鳥との遭遇から鳥をシメるまでの一連の流れはその後、夢のなかでの出来事のようにかたちを変えてもう一度繰り返される。だが、そこで吊るされシメられるのはワルではなく「誰か2」(百瀬葉)と呼ばれる存在だ。『環』にはその瞬間を彼女の視点から見た、首すじをカッターナイフで切りつけるアサトの姿を正面から捉えた映像も差し込まれている。

オヤカタと鳥=シトラの、ワルとアサトの、あるいは私と誰かの世界は違っている。それでもネムリの言葉を借りれば「いろんな者たちがすれ違って、すれ違って、すれ違って、かろうじてこうしてある」。学校は、劇場は、そのことを学ぶ場所だ。この作品は、映画美学校アクターズ・コースという俳優養成講座の修了公演として上演が予定されていた。

©︎かまたきえ


映画美学校:http://eigabigakkou.com/
『シティキラー』上演版映像:https://youtu.be/_aHAiDaLFBI
『シティキラーの環』第1環:https://youtu.be/eNWh038oOoU


関連記事

ウンゲツィーファ『転職生』 │ artscapeレビュー(2018年04月01日号) | 山﨑健太

2020/03/04(水)(山﨑健太)

2020年04月15日号の
artscapeレビュー