2022年11月15日号
次回12月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

libido:Fシリーズ episode:03『船の挨拶』

会期:2022/04/01~2022/04/10

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

libido:の所属俳優によるひとり芝居シリーズ「libido:F」が鈴木正也出演のepisode:03『船の挨拶』をもって完結した。古典落語をもとにした『たちぎれ線香』、筒井康隆の短編小説を演劇として立ち上げた『最後の喫煙者』と続いた同シリーズのラストを飾ったのは、1956年に三島由紀夫自身の演出によって文学座で初演された短編戯曲の上演だ。

舞台はある小さな島に立つ灯台の足もと、崖の上に立つ見張り小屋。そこに詰める灯台守の青年は、独り窓から海を眺め、船の通過を報告することを業務としている。船とのあいだに交わされるのは信号旗による儀礼的な挨拶のみ。そんな我が身を「若い身空をこの小さな島にとぢこもって」「俺は一体何なんだ?」と省みる青年は「船が、まつたく船がよ、ほんのちょつと、俺に感情を見せてくれたらなあ。ほんのちょっと、でいいんだ。好意ぢやなくたつていい。悪意だつて、はつきりした敵意だつて……。さうしたら! 俺と船とは、俺と太平洋とは、俺と世界とは、いつぺんにつながるんだが……」と夢想する。と、海峡の真ん中に停泊する見慣れぬ黒い船。甲板に出てきた水夫はどうやら見張り小屋に向けて銃を構えているらしい。それを見た青年は「狙へ」「射つんだ」と身を晒してみせる。応じるように放たれる銃弾。暗転した舞台から「待つてゐたものが、たうとう来たんだ」と途切れ途切れの声が聞こえ、やがて静寂が訪れる。


[撮影:畠山美樹]


演出の岩澤哲野は上演にあたってこの戯曲に二つのレイヤーを加えている。ひとつ目は、青年のモデルとなった灯台守に三島が宛てた手紙や回想録などに記された言葉。もうひとつは、もとは社員寮の一室であるせんぱく工舎F号室という場所でこの戯曲を上演しているという現実それ自体だ。言い換えれば、libido:版『船の挨拶』の上演には、戯曲というフィクションの前後にある取材/執筆と上演という二つの現実が折り込まれているのである。

冒頭、舞台奥の掃き出し窓から鈴木が入ってくる。どこからか飛んできた紙飛行機を開くとそれは手紙のようで、そこには「あの島は忘れがたい島である」からはじまる言葉が連ねられている。手紙を読み上げた鈴木はそれを再び紙飛行機のかたちに折り客席へと放るが、紙飛行機は舞台と客席とを仕切るアクリル板にバツンと音を立てて衝突する。その瞬間、窓の外にガラガラとシャッターが降り舞台は闇に閉ざされる。上演はこのようにしてはじまる。


[撮影:畠山美樹]


舞台奥に窓があるのは戯曲の指定であり、青年は本来、ここから海を見張ることになっているのだが、岩澤はその窓を冒頭で閉ざしてみせることで外界との隔絶を強調する。鈴木の衣装は戯曲が指定するワイシャツではなく部屋着のようなゆったりとしたものであり、室内のところどころには白い紙で折られた船が置かれている。libido:版の上演はその全体が自室で過ごす青年の夢想のようにも見えるのだ。

その夢想を中断するように時折「外」から舞い込んでくるのが紙飛行機だ。そこに記された三島の言葉は「島」の暮らしとそこに住む人々を称賛するようでいて、しかし無意識に「島」を下に見ているようなニュアンスも滲む。「僕の今一番ほしいのは時間で、君の時間をわけてもらへたら、今みたいにコセコセした仕事でなく」云々。灯台守の青年の外の世界への憧れと三島の「島」へのまなざしはすれ違っている。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]


見張り小屋に流れる弛緩した時間と灯台守の倦怠を立ち上げる鈴木の演技は巧みだ。そこにはインターネットを通じて世界の情報を仕入れながらコロナ禍を自室で過ごす人々の姿が、そして島国・日本の姿が重なってみえる。そしてそれは何より、青年を演じる鈴木の、演出の岩澤の、この作品を上演するlibido:の似姿でもあるだろう。

再び明かりがつくと、銃弾に倒れたはずの青年がそこに立っており、シャッターを開けて窓の外の世界へと出ていく。私と世界との交流はしばしばすれ違い、それはときに傷となる。戯曲に描かれた灯台守は世界からの反応があったことに満足して死んでいくが、libido:版の青年は傷を受けながらも再び外の世界へと出ていく。コロナ禍においてlibido:が選択したのは、拠点とするせんぱく工舎F号室で所属する俳優と演出家とが一対一で向き合う「libido:F」シリーズを展開し、自分たちの活動を見つめ直すことだった。そのシリーズの締めくくりとしてこれ以上ふさわしいラストシーンはない。窓の外には神戸船舶装備の工場が見えている。せんぱく工舎の名前の由来にもなったそこは船の内装などを手掛ける会社であり、libido:のロゴにも外界へと漕ぎ出す船の姿が描かれている。外に出ていく鈴木の姿に、それができる世界への願いと、社会のなかで、松戸という街に拠点を置いて活動をしていくのだというlibido:の改めての決意表明を見た。


[撮影:畠山美樹]



[撮影:畠山美樹]



libido::https://www.tac-libido.com/


関連レビュー

libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)

2022/04/03(土)(山﨑健太)

劇団スポーツ『怖え劇』

会期:2022/03/18~2022/03/21

王子小劇場[東京都]

パワハラはなぜいけないのか。改めて問う必要すらない(はずなのに一部からはいまだに必要悪論が聞こえてくる)ようにも思えるこの問いを愚直に正面から引き受け、演劇ならではのかたちで自分たちなりの応答をしてみせる。劇団スポーツ『怖え劇』はそんな作品だった。

劇団スポーツは法政大学文学部の同期である内田倭史と田島実紘によって2016年に結成された劇団。2017年からは早稲田演劇倶楽部を拠点に活動し、2018年には俳優の竹内蓮が加わり現在の3人体制となっている。今作はもともと、佐藤佐吉演劇祭2020参加作品として2020年3月に上演が予定されていたものだったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため演劇祭自体が中止となり、それに伴い公演も中止に。今回、佐藤佐吉演劇祭2022参加作品として2年越しの上演実現となった。

これまでの劇団スポーツの多くの作品では内田と田島が共同で作・演出を担当していたが、今作では内田が単独で作・演出を担当。俳優それぞれの持ち味を活かす台本と演出はそのままに、コメディ色は残しつつもパワハラというテーマと正面から向き合った今作は劇団としても新たな挑戦と言える作品になっていた。なお、『怖え劇』は4月5日(火)まで映像配信もされている。以下では結末まで含めた作品の内容に触れるため注意されたい。


[撮影:月館森]


公演を控え、新人劇団員の真隈(竹内)は稽古場とバイト先であるゴーストレストランの往復生活を送っている。入団して初めての新作公演を楽しみにしつつ、演出の尾上(甲野萌絵)のこれまでとは異なる様子に戸惑う真隈。先輩劇団員の工藤(タナカエミ)と矢野(てっぺい右利き)によれば、新作に臨む尾上の厳しさは再演のときの比ではないらしい。今回、演出助手として参加する金丸(三宅もめん)がしばらく休団していたのも、尾上の演出に耐えられず俳優を続けられなくなったからなのだという。真隈と同期の結木(高久瑛理子)も萎縮気味でうまく演技ができない。苛立つ尾上の「指導」はさらにエスカレートしていく。


[撮影:月館森]


一方、真隈はバイト先でも店長(タナカ)からパワハラを受けていた。稽古場とバイト先の往復、そして双方で受けるパワハラに疲れ切った真隈はやがてバイト先=現実と新作公演の舞台としてのゴーストレストラン=虚構の区別がつかなくなってしまう。電車に乗り、家に帰り着き、布団に入る(マイムをする)真隈。だがそこはいつまでも舞台の上のままだ。


[撮影:月館森]


どんな場所にでもなれる稽古場とさまざまな顔を持つゴーストレストラン(ウーバーイーツなどの配達に特化した、複数の「専門店」[たとえば作中ではエスニック、豚丼、唐揚げ、お好み焼き、ラーメンなど]のキッチンを兼ねる形態の店舗)を重ね合わせる設定が秀逸だ。どんな場所にでもなれるはずの稽古場=ゴーストレストラン=舞台はしかし俳優を閉じ込める檻となり、真隈はどこにも行けなくなってしまう。それは演劇という枠組みを使ったメタなギャグであると同時に、小劇場というフィールドで活動する俳優の置かれた苦しい状況を直球で表わしたものでもあるだろう。

俳優を「閉じ込める」のは金銭的、時間的(≒体力的)問題だけではない。尾上のパワハラに対して見て見ぬフリをするべきではないという真隈の主張に対し、それでは公演が中止になってしまうと劇団員たちは微妙な反応をする。公演を打つこと、あるいは劇団として活動をすることそれ自体が、他者との約束というかたちで俳優に対するある種の束縛となっているのだ。


[撮影:月館森]


尾上のパワハラ問題は解決しないまま公演本番がやってくる。だが、真隈はその舞台上で突然、バイト先から退勤し、電車に乗り、家に帰るマイムをやりだす。台本にない、作品をぶち壊しにする行為を尾上は止めようとするが、ますますエスカレートしていく真隈。やがてほかの俳優やスタッフ(舞台監督:水澤桃花、照明:緒方稔記、音響:大嵜逸生)も真隈の「芝居」に乗っかり、桜が舞い、蛍の光が流れる祝祭的な空気のなかで、店長と真隈は和解し、尾上は金丸とともに劇団をはじめた頃のことを思い出しetcetc、怒涛の大団円。一同は花見をするために劇場を出ていくのであった。


[撮影:月館森]


勢いと感動に任せてすべてをうやむやにするエンディングにも思えるがそうではない(いや、尾上のパワハラについて何の決着もついていないという意味でそれは正しくもあるのだが……)。結木の台本にはお守りのようにしてスーパーマンの絵が書き込まれていた。結木は先輩から言われた「役者はスーパーマンだって思えば、何でもできる」という言葉の意味を忍耐と捉えているフシがあり、また、真隈はそれをアンパンマンと取り違えてしまうのだが、エンディングに至ってその意味は自己犠牲から可能性としての「何でもできる」へと読み替えられていく。パワハラはいけない。なぜなら、何でもできるはずの俳優の、演劇の可能性を潰してしまうからだ。ラストで爆発する演劇のエネルギーは軽やかに、しかし力強くそう主張していた。

現実と虚構の区別がつかなくなり演劇に閉じ込められてしまった真隈は、その区別のつかなさを反転することで「現実」を改変してみせた。だがそもそも演劇は最初から虚構であると同時に複数の意味で現実でもある。一方、現実もまた、習慣や法律など、複数の「虚構」によって構築されたものだ。だから、『怖え劇』のエンディングが示しているのは演劇の可能性だけではない。強固と思える現実だってきっと、書き換えることは可能なはずだ。


[撮影:月館森]



劇団スポーツ:https://gekidansport.com/
劇団スポーツTwitter:https://twitter.com/gekidansport
『怖え劇』配信映像:https://twitcasting.tv/gekidansport/shopcart/144514

2022/03/20(日)(山﨑健太)

鳥公園『昼の街を歩く』

会期:2022/02/27~2022/03/06

PARA[東京都]

2019年の『終わりにする、一人と一人が丘』を最後に西尾佳織が作・演出・主宰を兼ねる体制を終え、和田ながら(したため) 、蜂巣もも(グループ・野原)、三浦雨林(隣屋)の三人の演出家をアソシエイトアーティストとして迎えた鳥公園。体制変更の直後からワークショップや読書会など劇団としての活動は旺盛に展開していたものの、新型コロナウイルス感染症の影響もあり、首都圏での公演は今回が初めてとなった。

鳥公園として初の蜂巣演出作品でもある本作は被差別部落問題に関するリサーチからスタートしたもの。当初は蜂巣の希望で「リサーチから戯曲を書く西尾の劇作のプロセスに、演出家として帯同」し「様々な土地でのフィールドワークから創作を始める予定」だったプロジェクトだが「新型コロナウイルスの蔓延により計画変更を余儀なくされ、今回は書籍やオンラインでのリサーチが主と」なり、2020年12月に森下スタジオで実施された10日間のワークインプログレス(非公開)を経て今回の公演が実現した。


[撮影:三浦雨林]


戯曲からひとまず物語のみを抽出するならば『昼の街を歩く』は次のような話である。同棲中の清太郎(松本一歩)と絹子(大道朋奈)。絹子からどうやら妊娠したらしいと聞いた清太郎は一晩のあいだ失踪してしまう。帰ってきた清太郎に絹子は「昨日、なにしてた?」と問うが、謝罪ばかりで答えは得られない。清太郎は「言ってないことがある」と絹子を大阪の実家に誘い、その週末、大学で東京に出て以来の実家へと戻る。そこには姉の初美(伊藤彩里)がひとりで暮らしている。初美には、子供を堕ろし、パートナーと別れた過去があるらしい。初美は絹子を喫茶店に誘い、家のことなどを話す。帰りの新幹線で今回の帰省を振り返る清太郎と絹子。絹子に生理が来て妊娠は勘違いだったことが明らかになる。


[撮影:三浦雨林]


筋としてはシンプルだが、戯曲は帰りの新幹線の場面からはじまり、複数の時間が行きつ戻りつしながら徐々に全体像が明らかになっていく構成となっている。これまでのほとんどの西尾戯曲に組み込まれていたような非現実的な場面はなく、基本的には(現実でもありそうなという意味で)リアルな設定でのリアルな会話のみで進行していくという点で、劇作家としての西尾の新たな(個人的には意外とも思える)展開を見た。

「被差別部落問題を扱った作品」として見るならば、この戯曲は社会的な問題を個人の問題へと矮小化してしまっているようにも思える。だがこの戯曲はむしろ、被差別部落問題について考えることからスタートして、個人対個人の関係が家族、地域、社会のなかでいかに(不)可能かということを描こうとしたのだと考えるべきなのだろう。それらは別々の問題でありながら互いに絡み合い、ときに身動きが取れないほどに個人を雁字搦めにしてしまう。西尾戯曲は食事、繁茂する多肉植物、隣人との関係などのディテールを通してそのさまを描き出し、描くことによって解きほぐそうともするのだが、それについては戯曲を読んでいただきたい。ここでは蜂巣演出が何をしていたかを見ていこう。


[撮影:三浦雨林]


会場のPARAは民家をそのまま使ったイベントスペース。受付を済ませた観客は玄関を入らず、縁側と塀との間のささやかな庭で開演を待つ。時間になると雨戸が開けられ、庭から縁側越しに見える和室には、体の正面をこちらに向けた状態で横たわり積み重なる清太郎と絹子の姿がある。隣あって立つ二人がそのまま横倒しになったようなかたちだ。奇妙な状況だが、二人はどうやら新幹線の座席に並んで座っているらしい。そういえば、奥のテレビの画面には車窓の風景が映っている。やがて絹子がトイレに立つと入れ違いに初美がやってきて「半端なことして」と清太郎に苦言を呈す。 時系列的には初美の苦言は前日の実家での出来事であり、ここではそれを清太郎が回想している(と戯曲では読める)のだが、蜂巣演出では清太郎が寝そべっているところに初美がごく普通に登場することで、あたかも初美の声で清太郎が目を覚ました、とでもいうように、ここまで非現実的な体勢で交わされてきた清太郎と絹子の会話の方に夢のような手触りが与えられることになる。戯曲上では新幹線の現在から実家での出来事を回想する場面が、蜂巣演出では同時に、実家での現在から未来を夢想する場面としても成立しているのだ。過去と同じように、未来もまた現在の裡にある。個人と家との関係を描いたこの作品において、このことはとりわけ重要であると思われる。


[撮影:三浦雨林]


ここまで観ると観客は家の中へと招き入れられ、清太郎が寝そべるまさにその和室で続く場面を鑑賞する。その場面の終わり、夜中に大きな地震が起き、しかし清太郎は同棲する絹子に声をかけることなく、離れて住む姉に電話をかけながら2階への階段を上がっていってしまう。その姿は絹子のいる家と初美のいる家とが交わることを忌避するかのようだ。絹子とともに取り残された観客は清太郎を追い、家のさらに内部、2階へと上がり込むことになる。だが、たどり着いた2階は窓が開け放たれ予想外に明るい。そうして踏み込むことでしか開けない未来もあるのだとでもいうように。

本作のクリエイションは今後も継続され、2023年度には八王子のいちょうホールでの再演が予告されている。今回の蜂巣演出は「家」という空間を巧みに使い観客にその磁場を体感させるものだったが、ホールでの上演はどのようなものになるのだろうか。今後の展開も楽しみに待ちたい。


[撮影:三浦雨林]


[撮影:三浦雨林]



鳥公園:https://www.bird-park.com/
『昼の街を歩く』戯曲:https://birdpark.stores.jp/items/621034c01dca324ba5b2bae0

関連レビュー

鳥公園「鳥公園のアタマの中」展|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年04月01日号)

2022/03/06(日)(山﨑健太)

キュンチョメ『女たちの黙示録』

会期:2022/02/19~2022/02/27

※配布型作品

シアターコモンズ'22の演目のひとつであるキュンチョメ『女たちの黙示録』は「キュンチョメが異なる立場や背景を持つ女性たちの声に耳を澄ませ、そこから生み出された予言」が鑑賞者に送り届けられる配布型の作品。観客は郵送あるいはシアターコモンズ会場での受け取りを指定し、受け取った作品を自宅などさまざまな場所で「鑑賞」することになる。なお、本作は3月末まで鑑賞可能だが、以下では内容に触れているため注意されたい。

郵送方式を選択すると、やがて黒い段ボール箱が送られてくる。箱を開けると中には銀のリボンで口を閉じられた濃紺の袋。2月中旬という季節柄、バレンタインのプレゼントを連想しつつ袋を開けるとフォーチュンクッキーが7つ入っていた。ひとつ割ってみると中の紙片には電話番号が記されている。電話をかけるとコール音の後、女声を思わせる合成音声が物語を語り出す。

私が最初に聞いた物語は「女たちの黙示録その13 宇宙介護支援センター」と題されていた。「人生の最後を宇宙で過ごしてみませんか」とはじまるこの物語では、宇宙で余生を過ごそうとする富裕層の老人と、その世話をするために宇宙放射線で命を削って働く貧困層の姿が描かれる。宇宙には介護士たちを弔うための天使像が建てられ、やがてそれらの天使像が降り注ぎ地球は滅亡することになる。

「黙示録」のタイトルの通り、語られるのはいずれも「終わりの物語」となっているのだが、「女たちの」という冠にふさわしいのは「その3 クジラと呼ばれた女」だろう。ロシアではヤギ、フランスではウサギ、ポーランドではウシ等々、世界各国で侮蔑の意味を込めて動物の名で呼ばれてきた女たちは本物の動物となり去っていき、そして世界は滅びることになる。

抑圧され発することのできなかった声が体内で石となり人を殺す「その4 声が石になるとき」、人工知能が世界の終わりをもたらす「その7 完璧な宗教」と「その23 0.0001秒のいたずら」、眠りを求める地球が人間を排除しようとする「その17 不眠症の地球」、実験用マウスと人間の立場が逆転する「その26 ネズミの演説」。電話をかける私はそのたびに異なる世界へと接続し、異なる声が語る異なる世界の終わりの物語を聞く。物語の終わりとともに通話は途絶し、「プー、プー」という終話音はまるで電話の向こうの世界が消滅してしまったかのような寒々しさを感じさせる。

ところで、この黙示録はなぜフォーチュンクッキーの形式で届けられたのだろうか。「黙示録」的なものを有する宗教の多くにおいて、そこで描かれる世界の終わりは唯一絶対のものとしてあるだろう。あるいは、実際に世界が終わることがあるならば、その終わり方は結果としてひとつに収斂するのかもしれない。だが、まだ終わっていないこの世界において、そのあり得る終焉はひとつではない。複数形の黙示録は、宗教の権威性を担保するための唯一の真実、逃れられぬ未来としてではなく、あり得る終わりを回避するための、外れるべき予言として届けられているのだ。

ランダムに封入された(と思しき)予言はランダムに開封され、電話を通して個々の鑑賞者の耳に届く。ごく個人的な体験となる予言の聴取はしかし、いつかどこかでほかの誰かと共有される体験でもあるだろう。予言に無限のバリエーションがあるとは思えず、ならば同じ番号の予言を共有する誰かがいるはずだからだ。一方、ランダムな数字の並びは、私には知ることのできない世界の終わりがあることも告げている。そこには誰にも知ることのできない世界の終わり、欠番の予言さえも含まれているかもしれない。

『女たちの黙示録』の意義はむしろ、このようなかたちで起動する想像力の方にこそあるように思われる。フォーチュンクッキーが入っていた袋には「これは終わりの物語です。同時に、はじまりでもあります。」と記されたタグが付されていた。語られる世界の終わりは多様だが、いずれも現代社会の問題をほとんどあからさまに映した寓話となっており、そこに託されているものは明らかだ。私という個人が抱え、あるいは関わることができる問題は現代社会で起きているさまざまな問題のごく一部に過ぎない。だが、その問題を共有する誰かはきっとどこかにいる。そしてまた、目の前にいる誰かは私とは別の問題を抱えているだろう。それを知ること、そのような想像力を起動させること、そして何より、予言を語る者の声に耳を傾けること。それこそが世界の終わりを回避するための第一歩となるはずなのだ。


キュンチョメ『女たちの黙示録』:https://theatercommons.tokyo/program/kyun-chome/

2022/02/20(日)(山﨑健太)

ほろびて『苗をうえる』

会期:2022/02/16~2022/02/23

下北沢OFF・OFFシアター[東京都]

なるべくならば人を傷つけずに生きていきたい。だがそんなことは不可能だ。それでも「生きていく以上、人を傷つけてしまうことは仕方がない」と開き直ることはしたくない。自分が人を傷つける可能性に誠実に向き合い生きていくことは、どのように可能だろうか。

家を分断する境界線に人を操るコントローラー。ほろびての作品は現実世界にひとつだけSF的な設定を導入するところから始まることが多い。だがそれは決して非現実的な物語を意味するものではなく、むしろ、現実のある側面に具体的なかたちが与えられ可視化されたものとしてある。

『苗をうえる』(作・演出:細川洋平)は卒業を間近に控えた高校生・鞘子(辻凪子)の左手がある朝、刃物になってしまうところから物語が始まる。それでも何事もなかったかのように高校に行こうとする鞘子に母・間々(和田瑠子)は絶対に家から出ないよう言い置いて介護の仕事へと出かけていく。仕方なく鞘子がひとり留守番をしていると母の恋人である青伊知(阿部輝)が金の無心にやってくるが、鞘子は左手の刃物で誤って青伊知を傷つけてしまう。一方、間々が介護に通う家には認知症のまどか(三森麻美)とその孫・宇L(藤代太一)が暮らしている。平均的な大人よりも大きいくらいの体を持つ宇Lはまだ小学5年生なのだが、どうやら学校には行っておらず、まどかとともに日々を過ごしているらしい。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


さて、鞘子は青伊知やコンビニの店員、そして宇Lをうっかり傷つけてはしまうものの、この物語のなかではそれ以上の大事には至らない。事件を起こすのは青伊知であり宇Lの方だ。金に困った青伊知はたまたま出会ったまどかから金のありかを聞き出し、家に忍び込む。だが、金を盗み出そうとしたところを宇Lに見つかった青伊知はそれでも金を返そうとせず、激昂した宇Lは青伊知の腕の骨を折ってしまう。ところが、青伊知を自分の夫だと思い込んでいるまどかは宇Lを「悪魔!」と罵り、平手打ちをくらわせるのだった。鞘子は偶然その場に居合わせ一連の出来事を目撃する。


[撮影:渡邊綾人]


この物語において「悪」はどこにあるのだろうか。もちろん、金を盗もうとした青伊知は「悪」いのだが、青伊知はまどかの前で半ば独白のように「俺、、、まともに働けない」「俺、健康に見える?」とこぼしていた。青伊知が働くことに何らかの困難を抱える人間なのであれば、鞘子の「働いてください」という言葉も青伊知には辛く響いただろう。鞘子は知らず知らず青伊知を傷つけていたことになる。しかし、金をせびる青伊知の存在が間々と鞘子の生活を脅かすこともまた事実なのだ。

一方、間々は鞘子が生まれたことをきっかけに更生したと語るが、母子家庭の生活は厳しく、鞘子は大学の費用を自分で工面しなければならない。宇Lもまた、かつては庇護者だったはずのまどかの存在に縛りつけられているといえるだろう。では誰が「悪」いのか。「悪」が存在するとすればそれは社会的な支援の不十分さのはずだが、家族として結びついた人々が悪意なく互いを損なってしまう現状がここにはある。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


登場人物のなかでは鞘子と宇Lだけが自分が他人を傷つける力を持っているのだということを自覚している。左手が刃物になってしまった鞘子は言うまでもないが、宇Lもまた、容易に他人を傷つけてしまう恵まれすぎた体格の持ち主だ。しかも、宇Lのなかには生まれてくるときに死んでしまった双子の兄弟・宇Rがいて、極度の乱暴者だという彼が表に出てこないように努力をしているらしい。一方、大人たちもまた、誰もが誰かを傷つけているが、それは鞘子と宇Lのように身体的な力によるものではない。社会に組み込まれた大人たちはより複雑な、ときに自覚のないかたちで他人を損なっている。

この物語は、鞘子が刃物となった左手とともに、それでも社会に出て生きていくことを間々に宣言する場面で終わる。一連の出来事を経て、鞘子は刃物の左手を持つことの意味を受け入れる。冒頭の場面で鞘子は、間々に指摘されながらも自身の左手が刃物になっていることになかなか気づけなかった。自分の存在が他人を傷つける可能性を直視することは難しい。だからこそ、自身の左手に宿る刃物を、自らの手が無垢ではないことを受け入れ前を向こうとする鞘子の強さは胸を打つ。


[撮影:渡邊綾人]


芸術の道を志す鞘子の姿には、『苗をうえる』のつくり手である細川たちの姿も反映されているだろう。宇Rの名前がウランに由来するものだということを考えれば、この物語で描かれている「他人を傷つける可能性」が人間に限定されたものでないことも明らかだ。芸術やあらゆる技術もまた、つねに誰かを傷つける可能性を孕んでいる。それは避けられない、一回一回誠実に向き合っていくことしかない問題なのだ。苗を育てるという鞘子の宣言には、それでもその手で未来を紡ぐのだという意志が込められている。舞台の手前に目を向ければ、そこに植えられたいくつもの植物は、白い紙を切ることでかたちづくられたものだった。刃物の使い道は人を傷つけることだけではない。


ほろびて:https://horobite.com/


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2022/02/19(土)(山﨑健太)

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