artscapeレビュー
山﨑健太のレビュー/プレビュー
青年団リンク やしゃご『きゃんと、すたんどみー、なう。』
会期:2022/07/07~2022/07/17
東京芸術劇場シアターイースト[東京都]
東京芸術劇場が若手劇団に上演の機会を提供する提携公演「芸劇eyes」の1本として青年団リンク やしゃご『きゃんと、すたんどみー、なう。』(作・演出:伊藤毅)が7月17日(日)まで東京芸術劇場シアターイーストで上演されている。2017年にやしゃごの前身である青年団若手自主企画 伊藤企画の名義で初演された戯曲を加筆修正しての上演となった本作で描かれるのは、伊藤が「目に見えないマイノリティ」と呼ぶ「きょうだい児」(=病気や障害を抱える兄弟姉妹を持つ人)の姿だ。
舞台は関東郊外の日本家屋。母亡きあとの高木家には、軽度の知的障がいを持つ長女・雪乃(豊田可奈子)、次女・月遥(とみやまあゆみ)と助教として大学で生物学の研究をする夫の大越(辻響平)、そして三女の花澄(緑川史絵)が暮らしていた。次女夫妻の結婚に伴う引っ越しの日、知らない男性が苦手な雪乃は引っ越し業者の綿引(海老根理)に驚いてパニックを起こしてしまう。なんとか雪乃を落ち着かせ、引っ越しの作業を進めようとする面々だったが、電話の子機が行方不明になったり綿引が腰をやってしまったりとトラブルが続く。そこに雪乃と同じ授産施設に通う正志(岡野康弘)がやってくると、雪乃と二人で「お世話になりました」と家から出て行こうとする。どうやら二人は結婚するつもりらしく──。
[撮影:石澤知絵子]
思いとどまらせようとする妹たちに対する二人の反応は痛切だ。「大人になったら何になりたい? ユキは聞かれませんでした」という雪乃。「お母さんはダメって言います。女の子のこと好きになっちゃダメって」「付き合っちゃダメって」「セックスしちゃダメって」「結婚しちゃダメって言います」という正志。二人を見た引っ越し業者の由香里(清水緑)の「純粋だなあ」という言葉は素朴に過ぎるが、「この二人、普通じゃないから」と言い放つ月遥に大越が返す「なに、普通って」という問いはあまりに重い。
だが、未来の可能性を閉ざされたと感じているのは雪乃だけではない。花澄は母亡きあとの高木家を切り盛りし、そのためにかつて描いていた漫画も描かなくなってしまったのだった。「自分のこと考えていいんだよ」という母(の幻覚)(藤谷みき)に対しても花澄は「もう遅い。見て、私、歳取っちゃった」と答えることしかできない。
本作に限らず、伊藤の戯曲にはそれなりの数の人物が登場し(本作では12人)、濃淡こそあれどほとんどその一人ひとりが抱える「事情」が作中でそれぞれきっちりと描かれる。それらは作品の中心的なテーマに関わり、あるいはそこから派生したものであることもあれば、まったくそれとは関係のない(ように思える)こともある。例えば高木家に頼りにされている授産施設職員の小篠(井上みなみ)は実は雪乃に嫌われていて、給料が安いこの仕事を辞めようかと思っている。花澄の友人で漫画家の幸子(赤刎千久子)は花澄にすべてを任せ家を出ようとする月遥に思うところがある様子。自分の連載もなかなか決まらないらしい。由香里の義理の兄で引っ越し業者の社長でもある康介(佐藤滋)はどうやら由香里に思いを寄せているようだ。大越の助手の笠島(藤尾勘太郎)が生物学の道に進んだのは父親が若年性認知症になったからだという。伊藤の筆は少々律儀に過ぎるようにも思えるが、そのような姿勢自体、かつて自らも「目に見えないマイノリティ」であったという伊藤の倫理を示しているようにも思える。全員の「事情」を詳細に描くことは不可能だが、それでも、それぞれが「事情」を抱えた、つまりは生きた人間であることを示すこと。人はそれぞれに異なる事情を抱え、その事情を抱えたまま、ほかの人の事情に関わることしかできない。
[撮影:石澤知絵子]
上演の終わり近く、花澄が卵を机に落とそうとし、寸前でそれを月遥が止める場面がある。卵が今年で20歳になる年経たニワトリ・ピー助が産んだものだということを考えれば、卵は花澄の未来を象徴するもののように思える。あるいはピー助が大越の手によって恐竜の尻尾を取りつけられた「普通じゃない」ニワトリだということを考えれば、それは雪乃の未来だっただろうか。尻尾という「重荷」が取れた直後にピー助が卵を産んだことを考えれば、それは高木家を去り新しい生活をはじめようとしていた月遥の未来を示すものだったかもしれない。雪乃の結婚はもちろん、大越との関係に問題を抱える月遥の未来も、花澄のこれからの生活も先は見えない。花澄が捨てようとして考え直し、月遥が救おうとしたものはなんだったのか。二人はそこに何を見ていたのか。観客は何を見るのか。彼女たちの人生がこれからも続くことを強く示すかのように、終演のアナウンスの後も舞台の上の芝居は続いていた。
青年団リンク やしゃご:https://itokikaku.jimdofree.com/
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2022/07/10(日)(山﨑健太)
範宙遊泳『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』
会期:2022/06/25~2022/07/03
東京芸術劇場シアターイースト[東京都]
『バナナの花は食べられる』で第66回岸田國士戯曲賞を受賞した範宙遊泳/山本卓卓の新作『ディグ・ディグ・フレイミング!〜私はロボットではありません〜』が7月15日(金)18:00から8月14日(日)23:59までオンデマンド配信されている。
炎上を意味する「フレイミング」をタイトルに掲げた本作は、インフルエンサー集団「MenBose−男坊主−」のメンバーである藤壺インセクト(埜本幸良)、キング塚村(小濱昭博)、根津バッハロー根津(福原冠)、そしてエキセントリック与太郎(百瀬朔)が謝罪の準備をしているところからはじまる。いや、正確には、謝罪の準備をしていてふと、何を謝らなければならないのかがわからないということに気づくところからはじまる。謝らなければならないのは与太郎が飼っていたスズメが死んでしまい、それを焼き鳥にして食べてしまったことか。動画のネタで「商店街の看板いくつ蹴って倒せるか大会」を開催したことか。あるいはホームレス美大生のアラレ・ビヨンド(李そじん)をゲストに迎えた企画をバラエティ調に撮ってしまったことか。過去の出来事を舞台上に召喚しながら検証は進むが、どれもこれも違っているようで謝らなければならない理由はなかなか見つからない。
[撮影:鈴木竜一朗]
すると突然「オデのせいだ」と言い出す与太郎。どうやら与太郎には「文字が聞こえる」らしく、その文字は与太郎を責め立て「命をもって謝れ」とまで言っているらしい。「心ない声なんて全部ゴミ」と言い放つアラレに対しディスプレイに映し出される文字は「文字の奥に心がある!」と反論し、二人は「心があるならこんなにひとりの人間を追い詰めない。あなたは人間じゃない」「私は人間だ!!!!!」と激しくやり合う。そしてMenBoseのメンバーは炎上する画面の向こう側から文字の本体を引きずり出すが、そこにあったのはかつて企画でコラボしたインフルエンサー・ロクちゃん(亀上空花)のママ(村岡希美)の姿だった。
[撮影:鈴木竜一朗]
さて、この物語は一体どこに向かうのだろうか。謝らなければならない理由、つまりは「罪」を探し求めることがこの物語を推進するが、ようやく辿り着いたかのように思われた罪もまた、探していたそれではない。ママはMenBoseとの収録の際に起きた出来事がきっかけでロクちゃんが部屋から出てこなくなってしまったと思っているが、そもそもママとMenBoseとでは「起きた出来事」に対する認識が大幅に食い違っている。部屋を訪れ、引きこもりの理由を直接ロクちゃんに尋ねたママとMenBoseは結局、MenBoseには非がなかったことを知るのであった。だがそれでも文字による糾弾は止まらない。それどころかその苛烈さは増し、やがて画面の向こうから「死」が現われ、オレンジ色の浮き輪のようなオブジェとして登場するその巨大な文字にメンバーは捕らわれていく。
[撮影:鈴木竜一朗]
[撮影:鈴木竜一朗]
ある時期以降の範宙遊泳は、プロジェクターで舞台上に文字を投影する演出を取り入れ、その文字をときに登場人物のようにも扱ってきた。『ディグ・ディグ・フレイミング!』もその延長線上にあることは確かだが、決定的に異なっているのは、この作品においては文字が単にディスプレイに映し出される文字として扱われているということだろう。範宙遊泳/山本の視線は文字の向こうにいる人間に向けられている。MenBoseはしょうもなくモラルも低い集団かもしれないが、ディスプレイに映る文字の向こうにいる人間を相手にしようとする点においては誠実だ。与太郎が看板を蹴ってしまったスナックで一日バーテンをやってみたらそこのママに気に入られてしまったように、顔を突き合わせることでよい方向に向かうこともあるだろう。匿名の文字を相手にした格闘はほとんど何も生み出さない。そういえば、『バナナの花は食べられる』もまた、マッチングアプリの客とサクラとして画面越しに出会った二人の男がリアルで顔を合わせるところから物語が動き出すのだった。
[撮影:鈴木竜一朗]
スタート地点が間違っているのだから「罪」の追及がどこにも行きつかないのは必然だ。物語はほとんど消化不良のまま唐突な幕切れを迎える。文字によって犯罪歴を含む秘密を暴露され力尽き倒れる登場人物たち。その様子は生配信されていて、舞台上にもその映像が映し出されている。やがて聞こえてくるサイレンの音。どうやら視聴者が通報したらしい。逮捕されると怯える彼らだったがそれはパトカーではなく救急車のサイレンで──。
劇中の言葉の繰り返しにはなるが、最後の最後で罪の追及は傷ついたもののケアへと転じる。そこにあるのは劇作家・山本卓卓が物語に込めたあるべき世界への願いであり、同時に、「そこにいるあなたは物語の結末と世界の行方を委ねるに足る人物のはずだ」という、配信の視聴者=客席の観客に向けられたほとんど攻撃的と言っていいほどの信頼でもあるだろう。世界を、人間を変えるには、まずはそれらを信じるところからはじめなければならない。範宙遊泳はそれを実践してみせたのだ。
範宙遊泳:https://www.hanchuyuei2017.com/
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範宙遊泳『バナナの花』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年09月15日号)
2022/07/03(日)(山﨑健太)
いいへんじ『器』
会期:2022/06/08~2022/06/18
こまばアゴラ劇場[東京都]
「死にたみ」とともに生きるとは、あるいは「死にたみ」とともにある人とともに生きるとはどういうことか。いいへんじ『器』(作・演出:中島梓織)は擬人化された「死にたみ」の存在を通して、「死にたみ」とともにあることになんとか折り合いをつけようとする作品だ。なお、公式のウェブショップでは戯曲も販売されている。以下では作品の結末にも触れているので、興味を持たれた方は先に戯曲を読んでいただく方がいいかもしれない。
冒頭、ピエロのような服(衣装:カワグチコウ)を着た人物が「みんなー! おれっちの声、聞こえるー?」と観客に向かって大声で語りかける。すぐさま「聞こえてないよねー? おっけおっけー!」と言う、もうすぐ生まれるところらしいその人物(?)こそがこの作品に登場する「死にたみ」のひとり・メラン(小澤南穂子)だ。
続く場面では就職し二人での新生活をはじめるカズキ(宮地洸成)とカナ(松浦みる)の引っ越しを友人のショウ(藤家矢麻刀)とその兄・ハル(竹内蓮)が手伝っている。ハルには「死にたみ」・ドンク(箕西祥樹)がついているが、ほかの人間には見えていないようだ。また別の場所ではカズキの高校の同級生・サキ(波多野伶奈)が配信をしていて、その側にも「死にたみ」・クラン(飯尾朋花)がいる。再び場面が転換すると新生活がスタートしていてカナコは出勤していくのだが、どうやらカズキは働いていない様子。夕方になって二度寝から目覚めたカズキは頼まれていた買い物のために訪れたスーパーでメランと出会い──。
アニメやゲームなどメディアミックスで展開する『妖怪ウォッチ』という作品がある。『妖怪ウォッチ』では世の中の困った問題や不思議な現象はすべて「妖怪のしわざ」だとされ、主人公たちは妖怪と友達になることでそれらの問題を解決していく。例えば子供がいたずらをするのもその子が悪いのではなく取り憑いた「妖怪のしわざ」なのだというわけだ。「死にたみ」を感じるのも当人に原因があるのではなく取り憑いた「死にたみ」のせいなのだ、という考えはそれ自体、当人や周囲の人間の気持ちを軽くし「問題解決」への第一歩となり得るものだろう。心理療法でいうところの認知療法の実践に近いところもあるかもしれない。
完治が難しいとされるうつ病では、「普通の」生活ができる程度に症状が改善した状態を寛解と呼ぶ。「持病」としてのうつ病とどう付き合っていくか。ドンクの機嫌の取り方を覚え、何とか日々を過ごしているハル。クランの言葉を聞かないふりでやり過ごそうとするサキ。そして何なのかわからないままに生まれたばかりのクランと暮らしはじめるカズキ。「死にたみ」との距離感は付き合いの長さによって三者三様だ。
「死にたみ」が俳優という生身の人間によって演じられるこの作品では、観客にとって「死にたみ」がそこに存在していること、そしてそれが取り憑いている当人とは別個の存在であることは最初から自明のことだ。だが、登場人物にとってはそうではない。メランがカズキのことをずっと見ていたと言うのに対し、カズキはメランの存在に気づいてなお、「それ」がなんなのかわからずメランの言葉を聞き取ることもできない。メランを「見つけた」カズキはなぜか就職活動に精を出しはじめるのだが、その行動はカズキが自らの抱える感情を見極められていないがゆえのものでもあるだろう(その点では、急に就職活動をはじめたカズキを心配するカナの方がまだカズキの状態に敏感であると言えるかもしれない)。状態が悪化し引きこもり、やがて「死にたい」とつぶやくようになってようやく、カズキはメランの言葉を理解できるようになる。それはつまり自分のなかに「死にたみ」があることを認めることだ。時を同じくしてメランは、自分たちが生まれたのは「このままじゃ死んじゃう」ことに「気づいてもらいたかった」からじゃないかという話を先輩であるところのドンクから聞いていた。当然といえば当然だが、カズキとメランの変化は連動しているのだ。そうしてカズキとメランはともに「生きる」ためのスタート地点に立つ。登場人物の微細な心の揺れを丁寧に掬い上げた俳優陣に拍手を送りたい。
ひとりの女性の脳内会議の様子を描いた『つまり』や自分のなかにある他人のイメージを具現化した『夏眠』『過眠』など、いいへんじには演劇的な仕掛けを巧く使って心の動きを視覚化した作品が多い。一方、作品ごとに描きたいことがあまりに明確であるがゆえか、メイン以外の登場人物に作品内で与えられた役割以上の広がりが感じられず、テーマや物語を描くためだけに存在しているように見えてしまうきらいもある。今回『器』と二本立てで上演された『薬をもらいにいく薬』では演劇的な仕掛けが控えめだったこともあり、特にその点が気になった。どの作品でも中心となるテーマや登場人物へのまなざしとそれを扱う手つきは繊細であるだけに「もっといけるはずだ」と思ってしまうのは高望みだろうか。
いいへんじ:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/
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いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
いいへんじ『夏眠』/『過眠』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)
2022/06/16(木)(山﨑健太)
円盤に乗る派『仮想的な失調』
会期:2022/06/03~2022/06/05
吉祥寺シアター[東京都]
円盤に乗る派『仮想的な失調』は「何もないはずのところにおれは立っていた」と暗闇に響く幽霊(辻村優子)の声ではじまる。明かりが点き、幽霊の姿とともにそこに立つ男(日和下駄)の姿が見えるようになると幽霊はすぐさま「お前は驚いただろう。自分の体がそこにあるということ」と男に向かって話しかけるのだが、「お前はまだ呼吸もできないかもしれない」と言われるその男はどうやらこの世界に生まれ出たばかり、あるいはいまにもこの世界に生まれようとしているようでもある。そうしてはじまるACT Ⅰは狂言「名取川」を下敷きにしたものだ。
「名取川」は物覚えの悪い僧が授けられた二つの名を忘れないように袖に書きつけておくものの、川を渡る際に袖に書かれた名前が消えてしまい、その川が名取川という名だったことから名前をとられたと思い込み──という話。『仮想的な失調』では名取川が「ハッピーマートなとり店」に置き換えられるなど諸々の設定こそアレンジが加えられているものの、大まかな筋は原作を踏まえており、狂言版と同じく男が自らの名を思い出したところで終わる……のだが、その直後、男はシズチャン(畠山峻)に「お、9太郎じゃん。こんなとこにいたの」と声をかけられ、舞台上の世界は能「船弁慶」を下敷きにしたACT Ⅱ(および休憩を挟んでのⅢ)へとスライドしていく。
[撮影:濱田晋]
9太郎と呼びかけられつつも記憶の戻らない男だったが、自らが9太郎であることを引き受け、シズチャンとムサシ丸(橋本清)と行動を共にすることにする。どうやら9太郎は虚言癖のあるインフルエンサーの兄によってツイッターで拡散された情報が元で追われる立場にあるらしい。犬のシズチャンを連れたまま逃避行を続けることはできないと判断した一行はゲストハウスのOwner(鶴田理紗)とともに別れのパーティーを開き、シズチャンのダンスが終わるとACT Ⅱは幕となる。
登場人物の名前からもほとんど明らかだが、「船弁慶」は源九郎義経の都落ちをベースにした物語で、『仮想的な失調』では義経・武蔵坊弁慶・静御前がそれぞれ9太郎・ムサシ丸・シズチャンに置き換えられている。前半で静御前を演じるシテ方が後半では平知盛の怨霊を演じる「船弁慶」と同じように、『仮想的な失調』のACT Ⅱでシズチャンを演じた畠山はACT Ⅲでヒラオカクンとして登場し、特急電車の中で9太郎に暴行を加えることになる(ただしその場面は舞台上では描かれない)。
病院で目覚めた9太郎は、自分は豪雨のために川を渡ったところで緊急停止した電車のトイレで怪我をして倒れているところを発見されたのだと付き添っていたムサシ丸から告げられる。ムサシ丸が去り、9太郎ひとりになった病室に幽霊が現われると「お前はすでに罪を背負っている。そろそろそれに向き合わなくてはならない」と9太郎の罪を思い出させる。ヒラオカクンは、かつて9太郎がつくり出し兄によって拡散されたイメージが原因で自らの命をその川で絶ったのだった。いつしか幽霊の語りの主語は「お前」から「おれ」へと移行しており、そうして忘れ去られていた罪は回帰する。
[撮影:濱田晋]
『仮想的な失調』は「名取川」と「船弁慶」の間に二つの名という共通点を見出し、そのモチーフをしつこいまでに反復している。俳優は辻村を除いた全員が二役を演じ、最後にはその辻村が演じる幽霊でさえ9太郎の分身とでも呼ぶべき存在であったことが明らかになる。なかでもシズチャンとヒラオカクンがひとり二役であることは重要だ。そこでは愛憎の両面がひとりの俳優のなかに同居している。そういえば、ACT Ⅰでも男とハッピーマートの店員なとり(橋本)との間でこれ見よがしな(狂言版には存在しない)役割交換が行なわれていたではないか。それらはすべて、9太郎が暴行の被害者になると同時に自らも加害者であったことを思い出す最後の場面へとつながっている。9太郎の罪は彼を追い詰める兄のふるまいと同型でさえあるのだ。ならば、最後の場面で発せられる「除霊の水」で霊を「退治しちゃえば、もう何も心配いらないよ」というムサシ丸の言葉が何の解決にもならないであろうことは明らかだ。川の此岸と彼岸の区別は、思うほど容易ではない。
[撮影:濱田晋]
本作では戯曲を担当したカゲヤマ気象台とともに蜂巣ももが共同演出を担当している。具体的なプロセスはカゲヤマが書いた「ありふれた演劇について」29に詳しいが、今回の共同演出は「現場ではカゲヤマが演出を行うが、蜂巣氏はカゲヤマに対して演出を施す」ようなものだったという。「自我に対して超自我があるように、演出に対する『超演出』を行う」とも記されるこのプロセス自体、『仮想的な失調』と共振するものだ。残念ながら演劇の創作現場における加害が頻繁に問題になる現在においては、このようなプロセスのあり方自体が重要な意味を持つだろう。そしてそれは優れたクリエイション成果としても結実することになった。円盤に乗る派としては過去最多の集客を記録した『仮想的な失調』の戯曲は円盤に乗る派のオンラインショップで購入することができる。
円盤に乗る派:https://noruha.net/
「ありふれた演劇について」29:https://note.com/noruha/n/nd713f8a362d0?magazine_key=m1c104069f174
円盤に乗る派オンラインショップ:https://noruha.stores.jp/
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2022/06/05(日)(山﨑健太)
ホエイ『ふすまとぐち』
会期:2022/05/27~2022/06/05
こまばアゴラ劇場[東京都]
嫁 v.s. 姑を中心とした地獄のようなバトル&ディスコミュニケーションに笑いながら、ふとした瞬間にそれが私自身の周囲の状況に重なって見えてゾッとする。「怒涛の津軽弁エンターテイメント」を掲げるホエイ『ふすまとぐち』はそんな作品だった。
舞台は津軽地方に居を構える小山内家。夫に先立たれたキヨ(山田百次)は長男のトモノリ(中田麦平)とその嫁・桜子(三上晴佳)と同居している。その家には離婚した長女・幸子(成田沙織)が小6の娘・小幸(井上みなみ)とともに出戻ってきたばかりだ。キヨとうまくいっていない桜子は、最近はもっぱら押入れに篭って過ごしているらしい。一方のキヨは「早起きの会」を名乗る千久子(赤刎千久子)と沢目(森谷ふみ)という怪しい二人組を家に呼び込んでいて──。
ホエイにとって3年ぶりの東京公演となった本作は、作・演出の山田が青森から上京してきて立ち上げた「劇団野の上」で2010年に初演され、その後2012年には5都市をツアーで回った作品の再演。プロデューサー/ドラマターグの河村竜也とともに企画から立ち上げるというホエイ(およびその前身としての青年団若手自主企画河村企画)名義の作品には、岸田國士戯曲賞の最終候補作にも選出された『郷愁の丘ロマントピア』に代表される北海道三部作をはじめ、かなりはっきりと社会的なテーマを打ち出したものが多い。ホエイ以前の作品であり、嫁姑バトルに焦点を当てた「エンターテイメント」である本作には一見したところそのような社会的なテーマ性は薄いようにも思えるが、しかしもちろん、小山内家の置かれている状況の背後にはさまざまなレベルでの格差が横たわっている。
小山内家で家事を引き受ける桜子に個人としての収入はおそらくない。夫のトモノリは働きに出ているものの、仕事は時給払いの非正規雇用しかなく、それさえしばしば休みになってしまう。経済的背景がキヨとの同居の一因となっていることは否めないだろう。シングルマザーとしてスナックで働く幸子の事情も似たり寄ったりだ。一方のキヨには、近所の怪しげな集まりで勧められた15万円もするトルマリン入りの布団をぽんと買えてしまう程度には貯えがある(それが財布にどの程度のダメージを与えるものなのかはともかく)。桜子の置かれている状況は都市部と地方の、世代間の、そして男女の格差が生み出したどんづまりなのだ。その意味では、小山内家の居間ほどに現代日本の諸問題が表われている場所はほかにないとさえ言うこともできるかもしれない。10年ぶりの再演だが、作品のアクチュアリティはますます高まっている。
キヨのキャラクターの強烈さも手伝って、小山内家の嫁姑バトルは苛烈をきわめたものとなっている。だが、そこにある対立は見かけ通りのものではない。例えば、冒頭の場面でキヨは桜子の朝食の味つけがしょっぱいと文句を言うが、その日の味つけは前日の「味がしない」というキヨのコメントを受けて桜子が調整した結果であり、そもそも魚を毎日出すこと自体、キヨのリクエストによるものだった。桜子からキヨへの嫌がらせのように思えた虫のバラバラ死体も、虫を嫌がるキヨのために桜子が殺したものでそこに悪意はない。一方、キヨが家に招き入れた「早起きの会」の二人は怪しげな新興宗教の信者のようにも見えるものの、会のメンバーは「辛い思い」をしてきた女性で構成されており、キヨが二人を呼んだのもどうにかして桜子を押入れから外を出そうとしてのことらしい。二人が対立しているのは確かだが、同時に、そこにいるひとりの人間として相手のことを気にかけていることもまたたしかなのだ。その意味では、キヨとの対話を半ば放棄しコミュニケーションの断絶が起きているトモノリや幸子との関係の方が深刻であるとさえ言える。キヨが脳卒中で倒れたときの両者の対応の差にもその違いは表われている。
このようなすれ違いやディスコミュニケーションは小山内家だけでなく日本中のあらゆるコミュニティで起きていて、しかししばしば見て見ぬふりをされ、あるいは気づかれずにきたものだ。小山内家の親戚の小学1年生・幸太郎(中田)が小幸にキスを迫る場面はそのグロテスクさを観客に突きつける。そこにあるのは相手の意思を無視して性的な行為を迫る暴力そのものだからだ。小学生の衣装を身につけた成人男性の姿は子供を表わすよりむしろ、日本社会に生きる男性の幼稚さを暴き立てるものだろう。
さて、本作はキヨにかけられた優しい言葉を思い出した桜子が小山内家に戻り、「ただいま」「おかえり」と作中で初めてまともにトモノリと言葉を交わす場面で終わる。家族というコミュニティの再生に向けた一筋の希望を感じさせるラストだが、これがDV被害者の陥りがちなパターンであることを考えると素直に感動してもいられない。これは家族というコミュニティに限った話ではないだろう。そういえば「早起きの会」のメンバーもまた、お互いの関係を「親族」と称していたのだった。「ワだぢ家族だべ」という言葉は呪いにもなり得る。そのことを知ったうえでなお、鈍感さに閉じこもることもなく、自分の所属するコミュニティと、そこにいる人々とどのような関係を結ぶことができるのか。『ふすまとぐち』はそんな問いを投げかけている。
ホエイ:https://whey-theater.tumblr.com/
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2022/05/29(日)(山﨑健太)