2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ウンゲツィーファ『ハウスダストピア』

会期:2020/07/01〜

『ハウスダストピア』はウンゲツィーファのウェブショップで購入することができる「郵送演劇」。郵送されてくる「チケット」には九つのQRコードが記載されており、観客はそれをスマートフォンで読み込むことでウェブ上の音声にアクセスし演劇を「鑑賞」する仕組みだ。QRコードには「ベッド(布団)」「洗面所」「キッチン」など、それぞれの音声を再生すべき場所が指定されており、観客は自宅のなかを移動しながら、それぞれに「その場所」を舞台とした音声を聞くことになる。

「その場所」といってももちろん、観客たる私の家で実際に何かが起きるわけではない。私はあくまで音声を聞いているだけなのだが、その「何もしてなさ」がむしろこの作品に奇妙な生々しさを与えている。たとえば1とナンバリングされ「ベッド(布団)」での再生が指定されている音声。添えられたイラスト(たからだゆうき)に布団の中でスマホの画面を眺める人物が描かれていることもあり、なんとなく寝転がって音声を再生してみる。聞こえてくるのは寝息らしき呼吸音。しばらくするとスマホのアラームとバイブ音が鳴り、起床した寝息の主は足音から推察するにベッド(布団)から離れていったようだ。一方の私はまだ自分の布団に寝転がったままだ。

『ハウスダストピア』の音声はYouTubeの限定公開動画のかたちで配信されており、「チケット」にはわざわざ「静止画ですので画面を見る必要はありません」と注意書きがある。しかし音声は最大でも5分程度なので、画面を見なくてもよいと言われても、何かほかのことをやりながら視聴するには少々短い。スマホでYouTubeを視聴する場合、有料会員に登録していないとバックグラウンド再生ができないため、私のスマホではながら視聴もできない。ぼんやりと音声を聞くことしかできない、それ以外何もしていない私のすぐそばで、何かが起きているような音がする。

続く2の場所は洗面所。歯磨きを終えると男が語り出す。「この部屋は僕の部屋だ。何故なら僕が住んでいるからだ。でも、そのことは、僕の前に住んでいた人も、さらにその前に住んでいた人も思っていただろう。そして僕の後に住む人も思うのだろう」。私の部屋に漂う幽霊のような声と、部屋に蓄積された記憶。しかしそれは存在しない記憶だ。私のいるこの部屋に、私より前に住んでいた人はいない。

耳を澄ませると聞こえてくるというおじさんの声に関するエピソード(都市伝説?)。身に覚えのない届け物。ここにある/ここにはない、もうひとつの家。やがて声の主は荷物をまとめ、その/この家から引っ越していく。「さよなら」。私はその声を自宅の玄関で聞き、そして取り残される。幽霊のように。

『ハウスダストピア』の最後のパートには「あなたが読むべき台詞が記されて」いる。このことは購入ページの説明書きで前もって告げられている。「あなた」は手紙を待つように自らが読むべき台詞が届けられるのを待ち、そしてそれを読むことになるだろう。手紙=戯曲の言葉が読み上げられることで、そこに書かれた言葉があなたの声で立ち上がる。

『ハウスダストピア』にはHomestay at Home vol.1とシリーズ名が付されている。ウンゲツィーファはこれまでの劇場での公演でも、異なる複数の時空間を劇場という「いまここ」へと巧みに重ね合わせることで、「私たち」が生きる世界のバラバラさと、それでもそれらがひとつの世界であることを描いてきた。自宅でのホームステイと名付けられたこのシリーズは、観客各々の家に、それとは異なる時空間を送り込む試みと言えるだろう。

『ハウスダストピア』は作・演出の本橋龍の戯曲集(『青年(ヤング)童話脚本集①②』)とともにウンゲツィーファのウェブショップで販売中。7月15日(水)からはウンゲツィーファの新作として吉祥寺シアターを舞台とした無観客の演劇公演/連ドラ演劇『一角の角(すみ)』が上演/配信予定だ。


公式サイト:https://ungeziefer.site/
ウェブショップ:https://unge.thebase.in/


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2020/07/07(火)(山﨑健太)

ロロ×いわきアリオス共同企画 オンライン演劇部『オンステージ』

会期:2020/06/27~2020/06/28

ロロ×いわきアリオス共同企画 オンライン演劇部「家で劇場を考える」は福島県いわき市にある文化交流施設「いわきアリオス」が「新型コロナウイルス感染症の影響で世界的に苦しい状況が続くなか、(略)“創造的な日常”を応援するべく、芸術文化を通したコンテンツを無料配信する『#おうちでアリオス』」の一企画。『オンステージ』はそこでつくり上げられた作品のタイトルだ。2017年7月から毎年開講されているいわきアリオス演劇部でも講師を務めるロロ・三浦直之を脚本・演出に、セノグラファーで舞台美術家の杉山至をワークショップ講師に迎え、アリオス演劇部のOB・OG(白土和奏、原田菜楠、齋藤永遠、門馬亜姫、秋葉ゆか、森﨑陽)にロロの俳優陣(望月綾乃、森本華、島田桃子)を加えた出演者9名によるオンライン演劇が上演・配信された。

「Zoomをつかって作品をつくってみてもなかなか演劇になってくれない。作品をつくるだけだとそれはやっぱり映像作品で、これを演劇にするためにはきっと観客についてもっと考えなくちゃいけない。演劇はみるだけじゃなくて過ごすものだ」と言う三浦が書いたのは「オンライン演劇を鑑賞する『ホームシアター』開演までの10分間の物語」。八つに分割されたZoomの画面の中央にはミニチュアの舞台らしきものが映っている。残りの七つのウインドウにはそれぞれイヤフォンで音楽(?)を聞きながら思い思いに過ごす人々。ミニチュア舞台の枠に現われた人物の「いらっしゃいませ。みなさま、会場BGMを流しながら、お席にておまちください」という言葉に対し「開演ってあとどれくらいですか」と質問が投げかけられ、もうすぐ演劇が始まるところだということがわかる。どうやら周囲の七つのウインドウに映る人々は観客で、「それぞれのやり方で、各々の気持ち高めていって」いるところらしい。遅れてさらにひとつウインドウが現われ、九つのウインドウが開演のときを待つ。

演劇を観るという体験には、作品を観るまでの、そして観たあとの一連の出来事も組み込まれている。チケットを確保し、劇場の場所を調べ、電車に乗り、劇場に着き、席に座って当日パンフレットを読み、開演を待つ。上演が終われば劇場の近くのラーメン屋に寄り、作品を反芻しながら帰途につく。オンライン演劇をはじめとする、新型コロナウイルスの影響下にある「演劇」あるいはその代替物が、作品の完成度とは別のところで物足りないものになってしまうのは、自宅での鑑賞では、劇場に足を運ぶという体験が、それによって生じるはずの環境の変化が失われているからだ。

だからこそ、三浦は演劇の上演前の時間にフォーカスをあて、開演を待つ観客の姿を描き出す。「お客様には、開演まで、それぞれが用意した音楽を聴きながら過ごしてもらっている」という設定も、それこそ「気持ち高め」るための、自宅にいながらにして劇場気分をつくり出すための工夫だろう。

もちろん、劇場に足を運ぶことは気分だけの問題ではない。環境の変化は出会いの可能性を呼ぶものだ。出会うのは人とは限らない。それはコンビニに並ぶ新商品かもしれないし、いままで通ったことのない路地、そこに見える風景かもしれない。現実のオンライン演劇では、おそらくは運営上のリスク管理の観点から、観客同士の「出会い=接触」は避けられる傾向にある。だが、三浦はあえてオンライン演劇の「客席」を描き、そこで生まれるささやかな交流を描いた。それは「出会い」を描き続けたきた三浦の願いの表われのようにも思えたのだった。

『オンステージ』は脚本と映像のアーカイブが公開されている。9名の出演者のうち台詞のある役は3名のみ。共通の脚本で配役をシャッフルした3チームのバリエーションも見どころだ。


『オンステージ』アーカイブ配信:https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01989
『オンステージ』台本:https://iwaki-alios.jp/cd/sites/files/2006online_engeki_daihon_3.pdf
『オンステージ』当日パンフレット:https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01984

2020/06/28(日)(山﨑健太)

ロロ「窓辺」 第3話『ポートレート』

会期:2020/06/26~2020/06/28

ロロによる連作短編通話劇「窓辺」の第3話は『ポートレート』。「今後も継続予定」だが「一旦一区切り」となるという第3話は、物語を完結させるのではなく、描かれる世界の余白とそれが存在する手触りとを感じさせる作品となった。

「ビデオ電話しながら肖像画を描かせてくれる人がいたらDMください」というツイートを見て興味本位で応募した松田青太郎(板橋駿谷)。青太郎は画家の遠山栗美(望月綾乃)とビデオ通話を介して実際にモデルを務めることになり——。

ビデオ通話をしながら栗美のスケッチブックに描かれる青太郎の肖像画は最後まで観客に示されることはなく、最終的には消しゴムで消されてしまう。タイトルにもなっているポートレート=肖像画というのは、自分には見ることのできない、他人から見た自分の像を可視化するものだ。見ること、見られること、見えていないこと。見ることをめぐるモチーフはこの短い作品のなかに繰り返し現われている。

例えば、描く側=見る側の栗美はビデオ通話の画面で自分のウインドウを非表示にしてみせ、通話が切れたのだと思った青太郎を焦らせる。しばらくそのままの状態で絵を描き続ける栗美に対し青太郎は「見てる人が見えないってなんか恥ずかしいですね」と言う。「誰にも見られてない気もするし、みんなに見られてる気もするし」というその言葉はそのまま演劇における俳優と観客との関係を指すものとして受け取ることもできるだろう。もちろんそれは「窓辺」を見る観客にも当てはまることだ。

あるいは、1話でも登場していた『魔法使いミント』。最終話でミントは思いを寄せる相手に自分が魔法使いであることを明かし、その結果として姿の見えない、声だけの存在になってしまう。このエピソードは栗美に元彼とビデオ電話で別れ話をしたときのことを思い出させる。別れようと言った瞬間、元彼の画面がフリーズし、声だけが聞こえる状態になってしまったのだと語る栗美。固まった画面を見ながら話し続けるうち、栗美は肖像画を描くことを思いついたのだった。栗美にしか見えない元彼の姿と、栗美には見えない元彼の姿。「ビデオ電話って見つめ合えないからいいよね」という栗美の言葉にはそこにあるさみしさも透けて見える。

ところで、2話までに登場した4人には高校の同級生という共通点があり、2話のラストはそこからさらに物語が展開することを予感させるものだったが、3話の2人は意外なことにこれまでの4人とは基本的には無関係な人物として設定されている。だが、青太郎の話に登場する『魔法使いミント』が好きだという東京のレコード屋の店員は1話の風太(篠崎大悟)を思わせるし、3話の後半では栗美の隣に住んでいるのが同じく1話に登場していた秋乃(亀島一徳)らしいことも明らかになる。2話で紺(島田桃子)が秋乃に返してほしいと夕(森本華)に託した消しゴムは、偶然にも栗美の手を経由して秋乃に手渡される。赤の他人同士でたまたまつながった青太郎と栗美は、知らぬ間に風太と秋乃を、秋乃と夕、そして紺とをつなげつながっている。

せっかく書いた青太郎の肖像画を、元彼の肖像画ともども消してしまった栗美は、その消しカスを元彼の破片と青太郎の破片と呼び、混ぜ合わせた挙句に窓の外に投げ捨ててしまう。「風に乗って青太郎のところに届くといいね」と栗美は言うが、栗美が青太郎の肖像画を描いているその状況自体、元彼との別れのビデオ通話がもたらしたものだった。元彼の破片はある意味ですでに青太郎に届いているのだ。人は出会い、ときに別れ、混ざり合いながら生きていく。ロロらしさ全開でありながら新たな展開を見せた「窓辺」の再始動を楽しみに待ちたい。


公式サイト:http://loloweb.jp/
ロロ『窓辺』:https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5


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2020/06/26(金)(山﨑健太)

ヌトミック『Our play from our home』

リリース:2020年6月12日


演劇カンパニー・ヌトミックが音楽作品『Our play from our home』をリリースした。バンド・東京塩麹の作曲・キーボード担当としても活動している主宰の額田大志は、実質的な演劇デビュー作である『それからの街』で演劇にミニマルミュージックの手法を用いて注目を集め、その後も「ヌトミックのコンサート」と題したパフォーマンスを不定期に開催するなど、上演と演奏の境界を問いながら自在に行き来するような活動を展開してきた。とはいえ、演劇カンパニーであるヌトミックの名義での楽曲配信はさすがに今回が初めてである。

『Our play from our home』はタイトルが示唆する通り、ヌトミックのメンバー4人(河野遥、長沼航、原田つむぎ、深澤しほ)の日常生活を録音した作品。それぞれの起床から就寝までがほぼノーカットで収録されている、らしい。「らしい」というのは、リスナーであるところの私にはそれを確認する術がないからだ。聞こえてくるささやかな生活音や環境音だけでは、そこに複数の人間の日常生活が重なり合って存在していることはほとんどわからない。

全60曲、およそ20時間にもおよぶこの作品を、私はパソコンでの作業中のBGMとして断続的に「プレイ」した。私が作業に集中していたこともあり、メンバーの生活音は私のそれと馴染み、実際のところ私は何度か楽曲を再生していることを忘れて席を外してしまったほどである。編集による効果もあるだろうが、考えてみれば私が日常生活で無意識のうちに耳にしている音は、そもそも多くの人間の生活から生じた無数の音の集合体なのであった。

Openingと題された冒頭のトラックでは20時間のあいだに19個の「プレイ」が潜んでいるということも宣言される。「プレイ」の内実はさまざま、かつ、それが「プレイ」であるとはっきりと示されることもない。音楽らしきものの演奏であったり、あるいは戯曲の読み合わせであったりと音楽/演劇の範疇に収まっているものもあれば、おそらくこれが「プレイ」なのだろうと推測するしかないもの(たとえば化粧講座など)もある。リスナーは作品を聴きながら日常生活のなかに「プレイ」を自ら発見していく。ヌトミックのメンバーによってプレイされた『Our play from our home』をそうしてリスナーもまたプレイするのだ。

新型コロナウイルスの影響により劇場での公演が困難な状況で、多くの劇団や作家が一時的な代替手段として、あるいは新たな展開として劇場公演ではない「演劇」のかたちを模索している。それは演劇そのものの問い直しでもある。もちろん答えはひとつではない。だが、たとえば演劇とは「いまここ」にそれとは別の時空間を呼び込むことなのだと考えるならば、『Our play from our home』はきわめて演劇的な作品だということになるだろう。

私の生活音に紛れ重なり合う他人の生活音。しかし宣言される時刻が、あるいはふいに聞こえてくる防災無線の声が、そこにある時空間が私のいる「いまここ」とは異なるそれであることをふいに際立たせる。プレイヤー側はどうだろうか。「一部のplayを除き、メンバーもお互いの状況を確認することができない中で録音が進められた」とのことだが、しかし「いまここ」の私の音を異なる時間・場所に属する誰かが聴くだろうことは意識されていたはずだ。プレイヤー側にもリスナーの「いまここ」は流れ込んでいる。

ヌトミックは5月から「ヌトミックのメルマガ」の配信を始めた。「少なくとも劇場に通うことが日常の一部になるまでは、定期的に配信を続ける予定だ」というそれは、「私たちは直接会うことはできない。しかし、書かれた言葉を辿った先の『誰か』を想像することはできる」という思いからスタートしたのだという。ヌトミックのほかの活動と同じように、メールマガジンにはメンバー全員が参加し、それぞれに言葉を紡いでいる。このような姿勢は『Our play from our home』とも共通している。演劇は、生きた個人の生活のなかから生まれてくるものだ。常ならざる状況で自らの足場を改めてしっかりと確認するようなヌトミックの営みは好ましくも頼もしい。

『Our play from our home』はbandcampで900円で配信(ダウンロード&ストリーミング)中。冒頭およそ80分の試聴(!)も可能だ。


公式サイト:https://nuthmique.com/
『Our play from our home』配信ページ:https://nuthmique.bandcamp.com/album/our-play-from-our-home


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ヌトミック『それからの街』 │ artscapeレビュー(2020年03月01日号) | 山﨑健太

2020/06/21(日)(山﨑健太)

佐々木敦『小さな演劇の大きさについて』

発行所:Pヴァイン
発行日:2020/06/20

批評家・佐々木敦による初の演劇論集『小さな演劇の大きさについて』がPヴァインから刊行された。これまで、テン年代以降(2000年代以降と言ってもいいかもしれない)の小劇場演劇を広く扱った書籍は徳永京子・藤原ちから『演劇最強論』くらいしかなく、それも2013年と7年も前の出版であることを考えると(ユリイカの「この小劇場を観よ!」特集も2005年と2013年に発行されたきりである)、本書は現在の小劇場で何が起きているかを知るためのいまのところ唯一の手段であり、演劇関係者必携の書となるだろう。

『小さな演劇の大きさについて』は三部構成。「『現代口語演劇』のアップデート」と題された第一部の目次に並ぶのは岡田利規/チェルフィッチュ、平田オリザ/青年団、松田正隆/マレビトの会、三浦基/地点といった名前だ。佐々木は『即興の解体/懐胎』(青土社、2011)の第二部でチェルフィッチュと青年団の演劇について論じており、章題の「アップデート」が示す通り、まずは彼らのその後の展開が論じられる。「即興」の問題系を論じるのに演劇が召喚されたのは、それが「現前性/一回性」と「再現性/反復性」の双方を本質とする芸術だからだった。いかにして相矛盾するそれらは可能となっているのか。マレビトの会や地点もまたそのような演劇の原理との関わりのなかで論じられ、読者は演劇作家たちの、そして佐々木の思考を通して複数の方向から演劇の原理へアプローチすることになる。

第二部は「アングラ・不条理・笑い」。第一部が原理論だとするならば対をなす第二部は存在論とでも呼ぶべきだろうか。ケラリーノ・サンドロヴィッチ/ナイロン100℃、松井周/サンプル、宮沢章夫/遊園地再生事業団、飴屋法水、古川日出男。彼らの作品の分析を通じ、人間と世界とがどのように存在しているか/し得るか、それをいかに語り得るか/語り得ぬかが論じられる。一般的に、不条理といえばアングラ演劇、アングラ演劇といえば60年代だが、不条理は決して過去のものとなったわけではない。それは通奏低音のようにいまもそこにあるのだ。

第三部には前二部とは異なり一貫したテーマはなく、また、コアな舞台ファン以外には名前も知られていないであろう作家/劇団も多数登場する。多くが30代以下の若手作家だ。

佐々木は前書きにあたる「小さな演劇の小ささについて」で「小さな演劇」の「『小ささ』には、大きなものをも含む、さまざまなことを考えさせてくれる、たくさんのヒントが潜んでいる」と書いている。だが、ほとんどの演劇はモノとしては残らない。ほかの多くの芸術と比べて、それらの演劇の「大きさ」が事後的に「発見」される機会と可能性は圧倒的に少ない。だからこそ、リアルタイムでそこにある「大きさ」を、その可能性を読み取り記述する伴走者が(おそらくほかのジャンル以上に)必要となる。第三部には伴走者としての佐々木の仕事が結実している。

一部二部で取り上げられた作家/劇団たちはすでに一定以上の評価を得ている。優れた作品に触発され書かれた優れた批評には当然読み応えがある。だが、佐々木はそれらの作品に向けるのと同じ、あるいはそれ以上の熱量をまだ若い作家/劇団の可能性を見出し記述することにも振り分けている。佐々木は半ば自虐的に自らを「生まれつきの、無類のマイナー好き、マージナル好きなのだ」と書いてみせたりもするが、私はここにこそ批評家の誠実と見識を見る。批評家とは未知に可能性と悦びを見出す者だ。第三部のタイトルは「新しい演劇はどこにあるのか?」。本書は小劇場演劇のシーンを網羅的に取り上げたものでは決してないが、多くの「新しい演劇」の可能性が記されている。本書を読み、ぜひとも「新しい演劇」のある場所に足を運んでいただきたい。


公式サイト:http://www.ele-king.net/books/007589/

2020/06/08(月)(山﨑健太)

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