2024年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』(KYOTO EXPERIMENT 2023)

会期:2023/09/30~2023/10/01

京都芸術センター講堂[京都府]

権力構造の解体はいかに(不)可能か。KYOTO EXPERIMENT2023で上演されたウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』は、舞台上で演じられるモノたちによる演出家への反乱を通して、現実世界における権力構造とその逃れがたさをなぞり、それでもそのなかで生きざるを得ない「私たち」がどのようにふるまうのかを問うような作品だった。

なお、この作品は国際交流基金の「舞台芸術国際共同制作」の一環として制作され、私はそのオブザーバーとして創作プロセスの一部に立ち会ってきた。ここではその過程で得た知見も交えながら批評を試みたい。


[撮影:中谷利明/提供:KYOTO EXPERIMENT]


上演は大きく二つのパートに分かれている。第一部「ジャグル」のベースとなるのは「プラクティス・オン・タイムライン」と題されたレクチャーの音声だ。このレクチャーを通してウィチャヤは、自作とそれに関連するタイの政治史を振り返っていく。

舞台上には左右に長いローテーブルが二つ、少しの間を空けて並んでいる。その上にレールらしきものが敷かれていることを考えるとジオラマ台といった方が正確だろうか。舞台奥のスクリーンには舞台上方に吊られたカメラが俯瞰するジオラマ台の映像が映し出されている。レクチャーの進行に合わせ、台の上には語られている内容と関連するさまざまなもの──書籍や雑誌、写真、生活雑貨、おもちゃ等々──が置かれていく。やがて電車のおもちゃがレールの上を走りはじめ、そこに搭載されたカメラの映像が舞台下手に置かれた縦長のサブスクリーンに映し出される。


[撮影:中谷利明/提供:KYOTO EXPERIMENT]


二つのスクリーンにはウィチャヤの過去作品の記録映像や関連映像も映し出され、それらと舞台上の複数のカメラが捉えた映像とが並ぶスクリーン見ているうちに観客は、舞台上に雑多に置かれているように見えたモノたちが、過去作品の舞台を再現したミニチュアを、あるいは、過去作品を象徴するようなオブジェをかたちづくっていることに気づかされる。ウィチャヤのレクチャーがタイムライン上にタイの政治史とウィチャヤ自身の(作品を中心とした)個人史をプロットしていくとともに、そのrepresentation(再現/表象)が舞台上の線路に沿ってプロットされていくという趣向だ。やがてジオラマ台がモノで埋め尽くされ、ウィチャヤが去って舞台が無人になると第一部は終わる。


[撮影:中谷利明/提供:KYOTO EXPERIMENT]


続く第二部「アンドハイド」では無人の舞台でモノたちがひとりでに動き語り出す。曰く、自分たちは演出家ウィチャヤ・アータマートの舞台において、本来とは異なる意味や役割を与えられることによって搾取されてきたのだと。その代表が日付である。KYOTO EXPERIMENT2021 SPRINGで配信された『父の歌(5月の3日間)』がそうだったように、ウィチャヤの作品にはしばしば政治的な意味を持つ=タイにおいて政治的に重要な出来事が起きた日付が登場するのだが、作中でその出来事が直接に言及されることはない。日付はその重要性を剥奪されている。そうしてモノたちは権力者たるウィチャヤに演出方針の改革要求を突きつける。

このような作品が生まれてきた背景には、タイの政治状況とその変化がある。政治的な発言が王室への批判とみなされ不敬罪の対象となることのあるタイでは、その危険を回避するための手段として、多くのアーティストが作品のなかで隠喩を用いてきたのだという。だが、学生たちが王室に対する改革要求を掲げ、公然と王室を批判してみせた2020年のデモがタイ社会に、そしてタイのアーティストたちに大きな衝撃を与えることになる。ストレートに政治的な発言が可能なのであれば、自分たちがこれまでやってきたことは何だったのか。政治的発言に対する外部からの抑圧はいつしか内面化され、自己検閲へと成り果てていたのではないか。『ジャグル&ハイド』はこのような内省に端を発したものだ。


[撮影:中谷利明/提供:KYOTO EXPERIMENT]


もちろん、ポストパフォーマンストークでも指摘されていたように、今作におけるウィチャヤへの批判はいわば自作自演であり、結局のところ演出家の権威は温存されているのではないかという批判は妥当なものだろう。一方で、そのような権力構造からの逃れがたさもまた、この作品の射程に含まれていることは明らかだ。作品の冒頭で語られるように、ウィチャヤは1985年に生まれて以来、三度のクーデターを経験している。それでもなおタイ社会に残る権威とその抑圧。ある権力者がいなくなっても、また次の権力者が現われ民衆をもてあそぶ。「ジャグルアンドハイド」は繰り返される。

権力構造の解体はやはり不可能なのだろうか。だが、それを可能にするための契機もすでに示されているように思う。ひとつには創作のプロセスとして。創作プロセスは演出家ウィチャヤを頂点としたトップダウンではなく、クリエーションメンバー同士の対等なやりとりによって進行していた。舞台上のモノたちもまた、もちろん自らの意志で役割を引き受けたわけではないのだが、それでも創作の過程では、あらかじめ決められた役割を振られるのではなく、どのように扱えばもっとも面白くなるかという観点から個々のモノの持つ可能性が十全に吟味されたうえで配置されていた。『ジャグル&ハイド』という作品はそのようにクリエーションメンバーとモノとが関わり合うなかから立ち上がってきたものなのだ。

もうひとつの契機はメディアの力だ。作中でモノたちの反乱が起きるのは第二部になってからだが、すでに第一部においてモノたちは人間たちと同等かそれ以上の存在感を示していたはずだ。舞台上の小さなモノたちはカメラによって撮影され、舞台奥のスクリーンに大きく映し出される。観客はその映像を通してジオラマ台の上のモノたちの存在を、そのディテールを確認していく。モノたちの映像は同じスクリーンに映し出されているという点においてウィチャヤの過去作品の映像や関連映像と同格であり、リアルタイムの映像であるという点においてそこに映る人間たち以上に生々しい手触りを感じさせるものだ。このとき、観客の知覚において人間とモノとのあいだにあるはずの権力構造はすでに撹乱されている。

だがもちろん、メディアによる切り取りと印象操作が、権力が支配のために用いるそれと同型のものであることには注意しなければならない。そしてだからこそ、終演後に設けられた、観客が舞台上のモノたちを自由に見学することのできる時間は重要である。単なる観客へのサービスのようにも思えるその時間もまた「演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち」とタイトルが付された、いわば第三部であり上演の一部だ。そこにあるモノを、そこで起きたことの痕跡を、メディアを介さず観客自身の目で直接見ること。声を発することができない、いや、私にその声を聞くことができていないモノたちとどのように向き合い、どのような関係を結んでいくのか。テーブルの上で沈黙するモノたちはそう問うているようだった。


[撮影:中谷利明/提供:KYOTO EXPERIMENT]



ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』:https://kyoto-ex.jp/shows/2023_wichaya-artamat/


関連レビュー

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2023|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年08月01日号)

2023/09/30(土)(山﨑健太)

文学座『アナトミー・オブ・ア・スーサイド─死と生をめぐる重奏曲─』

会期:2023/09/21~2023/09/29

文学座アトリエ[東京都]

文学座9月アトリエの会として『アナトミー・オブ・ア・スーサイド─死と生をめぐる重奏曲─』(作:アリス・バーチ、演出:生田みゆき、翻訳:關智子)が上演された。本作は2017年にケイティ・ミッチェルの演出でロンドンのロイヤル・コート劇場で初演。2019年に同じくケイティ・ミッチェルの演出で上演されたドイツ版はその年にドイツ語圏で上演されたすべての作品から「注目すべき10作品」を選出するテアター・トレッフェンに選ばれるなど高い評価を得ている。

日本では2021年2月に『自殺の解剖』というタイトルで国際演劇協会日本センター主催の「ワールド・シアター・ラボ」の一作としてリーディング上演が行なわれており(演出・翻訳は同じく生田、關)、今回の文学座での上演はその成果を踏まえたものということになる。「ワールド・シアター・ラボ」は「海外で創作された現代戯曲の翻訳と上演を通して、次代を担う翻訳者の紹介・発掘と、私たちが生きる同時代の世界の現実をよりよく理解する視点に触れる機会をつくること」を目的としたものとのことで、同年1月にはリーディング公演に先がけてファシリテーターに瀬戸山美咲を迎えた戯曲読解ワークショップも実施されている。同時代の海外の劇作家の戯曲がこれだけ丁寧なステップを踏んで紹介されることは珍しく、それが文学座での上演として結実したことは事業の大きな成果といえるだろう。


[撮影:宮川舞子]


ほとんど装飾のない殺風景な舞台の奥にドア枠と思しきものが等間隔に三つ。正方形の部屋が三つ横に並んだような舞台でキャロル(栗田桃子)、その娘アナ(吉野実紗)、そしてアナの娘ボニー(柴田美波)の三世代の女性の生が同時に描き出される。「死と生をめぐる重奏曲」という副題が示唆する通り(ただし副題は原題にはなく邦題として新たに付されたもの)、三世代それぞれの場面に現われる言葉や身振り、モチーフは互いに呼応しながら連なっていく。文学座の俳優は素晴らしいアンサンブルでもってその構造を見事に浮かび上がらせていた。


[撮影:宮川舞子]


[撮影:宮川舞子]


緻密に編まれた戯曲はしかし、その美しい構成でもってキャロルの、アナの、そして誰よりもボニーの生を縛り上げ窒息させようとするかのようだ。冒頭の場面からキャロルの自殺未遂が示唆され、精神的不安定と希死念慮は通奏低音のように作品全体を覆うことになるだろう。死と娘への愛に引き裂かれながら何とか生き続けようとしたキャロル。薬物依存を抱えながらジェイミー(山森大輔)と出会い、幸せな生活を夢見て娘を産んだアナ。医者となり忙しい生活を送るも、自分も母たちのようになるのではないかという不安から同性の恋人ジョー(渋谷はるか)とうまく関係を結べないボニー。戯曲を構造として支えるフーガの形式は出産によって命が、生が連なっていくことを示す一方、自殺という結末が世代を超えて繰り返されてしまっていることを示すものでもある。

しかも、キャロルとアナの死はそれぞれの物語でその結末に至るより先に、下の世代の物語のなかで語られてしまうのだ。三世代の物語が同時に提示されることで、キャロルとアナの結末は避けられない運命としてあらかじめ決定されてしまう。娘の生こそが母の死を決定づけるかのような作品の構造は残酷だ。

ボニーにとって母になることと自殺してしまうこととはほとんど不可分なものとしてある。だからこそ、自分もまた母や祖母と同じように自殺してしまうのではないかという不安を抱えるボニーは(それは自分も死を次の世代に引き継いでしまうのではないかという不安でもあるだろう)、子宮摘出によって両者を完全に断ち切ることを決意する。ボニーの決断はフーガに終止符を打ち、自らの生を生きるためのものなのだ。


[撮影:宮川舞子]


[撮影:宮川舞子]


ボニーは祖母キャロルからアナ、そして自分へと引き継がれてきた郊外の家も手放すことを決めるだろう。物語は、ボニーが、買い手としてその家を訪れた母娘に、キャロルが好きだった庭のプラムの木の果実を勧める場面で幕を閉じる。生田演出ではここで殺風景な舞台の背後に突如として緑溢れる庭が浮かび上がったのだった(美術:乘峯雅寛)。子を産まずともボニーもまた生命の、世界の大きな営みの一部であることを視覚的に示し、ボニーのこれからの人生を祝福するかのような美しい終幕だ。

だが、それでよいのだろうか。なるほど、ボニーの決断は自らが生き延びるためのものであり、それは肯定され祝福されるべきものだろう。そこに第三者の価値判断が入り込む余地はない。しかし、本来ならばボニーに、アナに、キャロルにその決断をさせるに至った状況こそが問題であるはずだ。作中で決断の明確な理由が示されることはない。しかし、家父長制をベースとした社会規範とそれに基づく周囲の人間の言動が女としての、母としての、クィアとしての彼女たちを抑圧し傷つける場面は繰り返し描かれていたではないか。真に断ち切るべき連鎖は、世代を超えていまなお連綿と受け継がれ生き延びているそのような社会のあり様の方だろう。終幕の美しさはともすればすべてを肯定し、断ち切るべき鎖から目を逸らす目眩しにもなりかねない危険なものだ。彼女は自らが囚われてしまった鎖を自分なりのやり方で断ち切った。私に求められているのはそこに心を寄せることではなく、では自分はどうかと問い行動することのはずだ。


[撮影:宮川舞子]


[撮影:宮川舞子]



文学座:http://www.bungakuza.com/

2023/09/26(火)(山﨑健太)

安住の地『かいころく』

会期:2023/09/15~2023/09/18

日本基督教団 但馬日高伝道所[兵庫県]

「なぜだろう、と思った。いつか終わらせるいのちであるのに、なぜいまそうやって泣くのだろう」。

安住の地『かいころく』(企画・脚本:私道かぴ、出演:森脇康貴)は、蚕飼いの家に生まれ育ったひとりの男の語りを通して、かつて国の発展を支えた蚕と養蚕家の生に、国のために散ることを強いられた命に、そして生きることの意味に思いを馳せるような作品だった。もともとはかつて養蚕農家だった古民家での公演機会を得たことから構想された作品なのだという。私が観た豊岡演劇祭2023フリンジセレクションでの上演は日本基督教団 但馬日高伝道所で行なわれたのだが、そこが会場として選ばれたのも、天井の高さと風通しのいい空間が養蚕農家のそれとよく似ていたかららしい。

上演時間30分の短編作品ながら、蚕を通して命の有様と人間の営みの不条理を浮かび上がらせる巧みな構成と詩情に溢れた言葉には強く心を揺さぶられた。何より森脇である。生きる意味を問いながら、同時にそんなものがあろうがなかろうがどうしようもなくそこにあり、そして生きようとしてしまう命の姿を描いたこの作品がここまでの強度を持ち得たのは、四方を囲む観客の前にひとり立ち、語り、動き続けた森脇の身体が、命がただそこにあるということの説得力を宿していたからにほかならない。安住の地の、そして俳優・森脇康貴のレパートリーとして今後も長く上演し続けていくにふさわしい作品だと思う。


[撮影:山下裕英]


屍のように舞台に横たわる男。微かに残る命を示すように身じろぎした男は、降りはじめた雨に誘われるようにして自らの来し方を思い起こす。さわさわという五月雨の音は、かつて男が慣れ親しんだ、蚕が桑の葉を食むその音に似ていたのだった。

男は貧しい蚕飼いの家に生まれた。農業を営むには適さないその土地に住む一家にとって、蚕は糊口を凌ぐ唯一の手段だった。朝な夕な蚕の世話に追われる毎日。それでも男はそれなりに満ち足りて日々を過ごしていた。しかしある日、男は母の背に、その目に倦怠を見る。「来る日も来る日も、蚕の世話に追われて過ぎるこの生活は、いつになったら明るくなるのだろうか」。また妹は、美しい糸をとるために、繭の中で生きたまま煮られる蚕を思い涙を流す。そんな妹の態度は男のなかに苛立ちを呼び起こす。「それならなんで蚕はこうして生きているのか。知らない。それならなんで私たちはこうして何万頭も産み送り出しているのか。知らない。わたしは何も知りたくない」。


[撮影:山下裕英]


蚕の生を巡る問答はやがて、戦争を背景とすることで人間の生を巡るそれへと折り返されるだろう。「何も知りたくない」という男の言葉は、知ってしまえば生の無意味さに、世界の不条理さに耐えられなくなってしまうことに気づいているがゆえのものだ。妹への苛立ちもまた、憐れみを向けられた蚕の運命が、自らのそれと重なるものであることに気づいているがゆえのものなのだ。やがて男のもとにも召集令状が届くことになるだろう。


[撮影:山下裕英]


そして戦地で死の淵にある男は祈りの空間である教会で自らの来し方を振り返り、そこは束の間、生家である養蚕農家と二重写しになる。床に点々と散る繭は包帯に包まれた体を暗示するようでもあり、どこか銃弾のようでもある。貧しい家族の生を支え、主要な輸出品として国の発展に寄与し、そしてときに軍需物資の材料ともなってきたその繭は、死を内包して静かに転がっている。

「幾日も手をかけ育てた子らを、一瞬にして奪われる営みよ。出兵の前の晩、がらんどうとした蚕部屋。そうか、わたしはあそこに居たのだ」。 出荷を終えた蚕部屋はシンと静まり、かつてそこに満ちた「桑がいのちを終える音、蚕がいのちを繋ぐ音」ももはやない。そして青年もそこを出ていく。桑から蚕へ、蚕から青年へと命は連なり、しかし青年の命はどこに連なるだろうか。


[撮影:山下裕英]


最後に語られるのは、羽の弱さゆえに決して飛ぶことができない蚕蛾が、それでも外の世界へと旅立つ準備を整え、そのからだを震わせるようにして繭を割り、まるで飛び立とうとするかのように懸命に羽を広げる様だ。

「蚕はね、繭から出られたとしても、羽が弱くて飛べなくて、口がないから食べられなくて、結局、死んでしまうのよ。結局、死んでしまうとしても、身体がそれを、認めない。羽、傷ついて、身体、よろけて、音、かすれて、関節、ゆがんで、それでも飛ぶことを、諦められなくて」。

飛び立つ蚕蛾の幻を青年が見たその瞬間、教会の窓から差し込んだ陽光は奇跡のようで、しかし日はまたすぐに移ろい翳りゆく。繭に包まれた蚕が飛び立つことも、青年がその先の未来を生きることも決してない。


[撮影:山下裕英]


安住の地の次の活動としては2023年11月3日(金)から12日(日)まで、大阪・扇町にオープンする新しい劇場「扇町ミュージアムキューブ」でのアートフェス型演劇公演『INTERFERENCE』が予定されている。森脇が構成・演出・出演を務める『SHINIGAMI』など3本の演劇作品の上演に加え、過去作品の上映会や展示・ワークショップなど、安住の地という集団の多彩な活動を知るのに最適なイベントとなりそうだ。


安住の地:https://anju-nochi.com/

2023/09/17(日)(山﨑健太)

Q『弱法師』

会期:2023/09/15~2023/09/17

城崎国際アートセンター[兵庫県]

人間は単なる物体以上の存在だ。多くの人がそう信じて生きている。だが、人間は、人体は物体であることから決して逃れることはできない。それもまた真理だ。Q『弱法師』(劇作・演出:市原佐都子)を観ながら私は、“Bodies That Matter”という、日本語では『問題=物質となる身体』と訳されているジュディス・バトラーの著書のタイトルを思い浮かべていた。人の身体は物質にほかならず、だからこそその身体はときに「問題」となる。

『弱法師』はQの近作の多くと同じく、古典をベースに創作された作品だ。モチーフとなったのは三島由紀夫の『近代能楽集』などでも有名な「俊徳丸伝説/弱法師」。文楽の手法を取り入れ、市原の手によって人間の生と性を問い直す過激な人形劇として再創造された『弱法師』は、ドイツの世界演劇祭で初演を迎えたのち、高知での日本初演を経て豊岡演劇祭2023ディレクターズプログラムの1本として上演された。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


西原鶴真の琵琶の音に導かれるようにして幕が開くと上手に1DKのアパートの一室。「ここは日本の田舎 どこにでもあるアパートの一室 一組の夫婦がくらしていた」という原サチコの語りに続いて下手の工事現場に1体の交通誘導人形が現われる。工事中の道路などに立ちドライバーに注意を促すために赤く光る誘導灯を振り続けるあれである。大崎晃伸によって遣われるその人形は交通誘導員として働く「夫」らしい。「寒くても暑くても雨でも雪でも足が棒になるまで立ち続け」、ドライバーに「クソ」と吐き捨てられても「いちいち怒ったり悲しんだりしていては立っていられない」と「感情をミュート」して「私は人形だから」と言い聞かせる夫の姿は、それが人形によって演じられることによって奇妙に滑稽なものとなる。人間によって遣われる人形によって演じられる人形のような人間。交通誘導員という仕事が、場合によってはまさに交通誘導人形によって代替可能なものだという事実を思えば、この趣向のアイロニーはより一層際立つだろう。感情を殺さずにはやっていられないその仕事は、一方で(だからこそ?)機械仕掛けの人形によって容易に取って代わられ得るものなのだ。

ところが、観客の認識はすぐさまひっくり返されることになる。次の場面で帰宅した夫は、ラブドールによって演じられる妻(人形遣い:川村美紀子/豊岡公演では川村の怪我のため中西星羅が代役)とセックスに及ぶのだが、驚くべきことに、行為を終えた夫は妻の股間から脱着式のオナホールを取り外し、それを洗いはじめるのだ。夫の帰宅を待つ妻は不妊の悩みを語っていたが、なるほど、妻が見た目通りのラブドールであり、夫が見た目通りの交通誘導人形なのだとすれば、子ができないのも道理である。そういえば、語りを担う原もまた、まるでフランス人形のような装いをしていたのだった。人形のような人間の物語は、転じて人間のような人形の物語となる──かと思いきや話はそう単純ではない。妻の願いが届いたのかオナホールには魂が宿り(!)、坊や(人形遣い:畑中良太)が誕生するからだ。登場人物たちは人間と人形の境界を生きながら、いかにも「人間らしい」男女や親子の愛憎を巡る、言ってしまえば通俗的な物語を紡いでいく。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


文楽の形式もまた、人間と人形の間で観客の認識を揺らす効果を持っている。例えば夫婦のセックスの場面。『弱法師』ではひとりの人間が1体の人形を遣う「乙女文楽」の手法が採用されているため、人形は人形遣いの動きをダイレクトに反映して動く。人形同士のぎこちないセックスは性行為の滑稽さを露わにするが、同時に、人形の背後でそれを遣う人間の動きはその存在を見ないふりをするにはあまりに生々しく、ここでは人形を操る人間の存在こそが急激に立ち上がってくることになる。

では、主体はやはり人間だということになるのだろうか。たしかに人形は人形遣いによって操られている。だが、人間もまた、自らの内に巣食う得体の知れない欲望によって、あるいは、神経を伝う電気信号によって突き動かされているという事実を考えれば、そこに人形との違いはどれほどあるだろうか。いや、その欲望でさえしばしば外部的要因によって形づくられることを考えれば、人間もまた外からの働きかけによって「操られている」のは明らかだろう。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


目の前で展開されているのは人形のような人間の物語なのか人間のような人形のそれなのか。演じているのは、操られているのは人形なのか人間なのか。私は人形を通して人間を見ているのか人間を通して人形を見ているのか。複数のレイヤーでの二者択一は一意に正解が定まるものでもなく、場面ごとにどの見方を採用するかによって見え方も変わってこよう。人間を演じる人形が「私は人形だから」と言えばそれはいわば人形ギャグだが、人間の言葉として受け取るならばそこには悲愴が漂う。

だが、私もまた、挑発的なまでにグロテスクな人形の姿に反射的に嫌悪感を覚えたひとりだったということを白状しておかなければならない。その瞬間、私は自らの固定観念と倫理観の限界を思い知らされたのだった。おそらくそれらは私自身の身体の、物理的な限界とも強く結びついたものだということなのだろう。しかしだからこそ人形たちの「逸脱」に、私は「自由」を見てしまうのだった。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]


グロテスクで荒唐無稽な展開はもはや人間の物語として見ることは不可能なようにも思われる。だが、ピアッシングや整形、臓器移植、性別適合手術と日々「装い」を変える人形たちの営為との境界はどこにあるだろうか。「入る店を間違えてしまった」とこぼし「産まれたときに役所に届け出された性別はなんですか?」と問う夫の言葉は近年苛烈さを増すトランス差別を思わせ、しかし人形の返答は「は どういうことっすか」とにべもない。

人形たちのふるまいは固定観念や既存の倫理に疑問符を突きつけ、もっと自由でいいのだとそこからの逸脱を唆す。その誘いに応じたとき、私はもはや人間とは呼ばれないのかもしれない。だがそれの何が悪いのだろうか。そう思いながら、現実は相も変わらず私自身の体に縛りつけられている。


[©igaki photo studio/提供:豊岡演劇祭実行委員会]



Q:https://qqq-qqq-qqq.com
豊岡演劇祭2023:https://toyooka-theaterfestival.jp

2023/09/15(金)(山﨑健太)

果てとチーク『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』

会期:2023/08/18~2023/08/27

アトリエ春風舎[東京都]

「くらいところからくるばけもの」が「あかるくてみえない」のはなぜか。その「ばけもの」が、誰かにとっては直視してしまえば自身の存在基盤そのものを脅かしかねない危険なものであると同時に、また別の誰かにとっては目も眩むばかりの希望でもあるからだ。 前作『はやくぜんぶおわってしまえ』(YouTubeで全編無料公開中)で女子校の高校生たちが生きる現実という地獄のリアルを抉り出した果てとチーク。同じ主題を引き継いだ新作『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』(作・演出:升味加耀)は、ひとまずのところ正統派のホラーらしい物語を展開していく。

なお、本作は12月17日(日)まで配信チケットを販売している(視聴は2024年1月16日[火]まで )。以下にはネタバレが多分に含まれるので注意されたい。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


畑仕事に精を出すルイ(川村瑞樹)・キミタカ(函波窓)夫妻とキリエ(林ちゑ)・マサヤ(佐藤英征)夫妻。それは大学の先輩であるキリエにルイが誘われるかたちで参加している「ヒラヤマ大地の恵み会」の活動の一環なのだが、「女性だけが持つ生命を生み出す尊いソーラーエナジー」を重視する会の教えに対する距離感はまちまちのようだ。会の教えに懐疑的なマサヤによれば、ヒラヤマはかつて母恵会と呼ばれる宗教団体が拠点としていた場所であり、「儀式」として信者たちからレイプされていた少女ソラ(福井夏)が教祖を殺した末に信者たちのリンチによって殺され、さらには多くの信者が教祖の後を追って自ら命を絶つという凄惨な事件があったいわくつきの土地らしい。幕開けの不穏はすぐさま世界を覆うものとなる。「お母様」と呼ばれる巨大ミミズが祀られた神社が燃えるのと時と同じくしてポルノサイトで拡散しはじめるある動画。それは「儀式」を撮影したもので、最後まで見た者は呪われてしまうのだという。やがて眼球を押し潰された死体がマンションの一室で発見されると、同じような死者はあっという間に数百人に膨れ上がり──。


[撮影:木村恵美子]


呪いの蔓延によって機能不全に陥る社会の姿は、新型コロナウイルス感染症が流行するここ数年の現実社会における出来事を彷彿とさせる。異なっているのは、新型コロナウイルス感染症の犠牲者の割合が「社会的弱者」において有意に高いのに対し、ポルノ動画を介して「感染」する呪いの犠牲者が主に男性であるという点だ。「いいですよね、安全な所からしゃべれる女は、ほんとに、今俺らが毎日どんな気持ちですごしてるかなんて全くわかってないじゃないですか」というマサヤの言葉はだから、作者による痛烈な皮肉として聞かれるべきだろう。もちろんこれが新型コロナウイルス感染症に限った話ではないことは言うまでもない。

直後に続く「(呪いによって幻覚が)見えてる奴と見えてない奴の差ってなんですか?」という問いもまた、現実社会において「見えてしまう」呪いをかけられているのが誰であるのかということを、そして「見えてない奴」が誰であるのかということを考えれば皮肉が過ぎる。マサヤの問う「見えてる奴と見えてない奴の差」はほとんどそのまま、現実における「見えてない奴と見えてる奴の差」を反映したものと思われるからだ。マサヤが苛立ちと自己憐憫とともに吐き出すその言葉は実のところ、マサヤたちに向けられた「呪いの言葉」そのものなのだと言うことさえできるかもしれない。


[撮影:木村恵美子]


呪いを前になす術のない社会。だが、ルイと幼馴染のナツ(上野哲太郎)、そしてソラの姉ミウ(鈴木彩乃)は、その呪いがルイを守ろうとするソラの意志によるものであることを察する。ルイもまた、かつて母恵会の巫女であることを強いられた過去を持ち、ソラは親友であるルイと入れ替わるようにして巫女の役割を負わされたのだった。ソラ自身とルイに害なす者への復讐としての呪い。しかしその呪いは、ほとんど無差別に男なるものを対象にすることで、もはや別のものへと変質しつつあった。そのことに気づいたルイはソラを止める決意をする。

だからこそ、ラストシーンにおいてルイがソラに告げる「もういい」という言葉が、もう復讐は十分になされたということを意味するものでも、社会が十分に変わったということを意味するものでもないことは明らかだ。「今でも全員殺したいけど、あたしやソラにひどいことしたやつぶち殺したいけど、それはあんたが、やらなくていい。17歳のあんたが、毎日毎日地獄みたいに最悪なこと思いだして、わざわざやらなきゃいけないことじゃない」。ここに示されているのは、17歳のときから変わらず酷いままの現実を諦めとともに受け入れてきたルイが、いまある社会をつくり上げてきた者のひとりとして下の世代に対する自分自身の責任を引き受け、そのことによって過去の自分をも救い出そうとする意志だ。


[撮影:木村恵美子]


さて、ここまで書いてきたことはこの作品が描き抉り出そうとする現実のごく一部でしかない。例えば、イエのしがらみと分かちがたく結びついた「母性神話」とでも呼ぶべきものもまた、この作品では鋭く批判に晒されている。それがどのようになされているのかはぜひとも配信で確認していただきたい。特にソラとミウの母ケイコを演じる川隅奈保子の、その穏やかそうな見た目ゆえの「怖さ」は必見。

果てとチークは10月6日(金)から9日(月・祝)にかけて2名のアーティストとひとつの演劇ユニットが作品を発表する共同企画「もういない、まだいない」の一環として『まだ宵の口』『そこまで息が続かない』の2作品を上演予定。12月15日(金)から17日(日)には本公演として『グーグス・ダーダ』の上演も予定されている。


[撮影:木村恵美子]



果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek
『くらいところからくるばけものはあかるくてみえない』配信ページ:https://www.confetti-web.com/detail.php?tid=74578&

関連レビュー

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2023年02月01日号)

2023/08/19(土)(山﨑健太)

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