2019年11月15日号
次回12月2日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

会期:2019/04/27~2019/04/28

グランシップ 映像ホール[静岡県]

本作はコンゴ東部紛争についての「裁判」をめぐるドキュメンタリー映画である。「裁判」とカッコで括ったのは、それが本物の、つまり法的拘束力を持った公的なものではなく、ミロ・ラウらによって立ち上げられた模擬法廷におけるものだからだ。「演劇だから語り得た真実」という原題にはない副題はこの事実を指す。複雑に入り組んだ利害関係を背景に、語られることも裁かれることもされてこなかった紛争の現実。ラウは関係者に「演劇作品への参加」を呼びかけることで「真実」を明らかにする機会をつくり出した、らしい。

不勉強な私には大変勉強になる映画だった。紛争がレアメタル資源をめぐって引き起こされたものである以上、それは日本に住む私とも決して無関係ではない。この映画を見た程度で紛争の複雑な背景のすべてを理解することはできないが、たとえばスマートフォンの普及の裏でこのような事態が引き起こされていることは広く知られるべきであり、その意味で今後も上映が望まれる作品である。

映画『コンゴ裁判』より

しかし、本作を観終えた直後の私は物足りなさを感じてもいた。ラウの演劇作品の多くは過激とも言えるかたちで現実と虚構=舞台上の「現実」を突き合わせることで、観客にあらためて現実と向き合うことを迫る。たとえばこの8月にあいちトリエンナーレで上演される『5つのやさしい小品』はベルギー・ゲントの劇場CAMPOによる委嘱作品で、オーディションによって選ばれた地元の子どもたちが、90年代に起きた少女監禁殺害事件を「再演」するという作品だ。それと対峙する観客の内部に強烈な感情、あるいは倫理的な問いが喚起されるであろうことは想像に難くない。だが、『コンゴ裁判』という映画からは、そのような演劇の力を感じることができなかったのだ。

この物足りなさは、映画内である謎が解消されていないことと通じている。そもそも彼らはなぜ、加害者の自覚があるにもかかわらずノコノコと「法廷」に現われたのか。演劇だと思っていたから? たしかにそういうことになっている。だが、それはほとんど何も説明していないのと同じである。関係者たちが出廷を承諾するまでの過程がスクリーンに映し出されることはない。ラウの手練手管は伏せられている。結果として、この映画から演劇という嘘のありようはほとんど消去されていたように思われる。

たしかに、当事者にとって法的拘束力の有無は大きな違いだろう。そのような条件においてしか動かすことのできなかった現実があることもわかる。だが実のところ、法廷が本物であるか否かは、少なくともこの映画にとっては重要ではなかったのではないか。それを開くことさえできたならば、法廷が本物であったとしても、映画としての『コンゴ裁判』はほとんど変わらなかったのではないか。

考えてみればそれも当然だろう。ラウの目的は、まずはコンゴの現実を動かすことにあり、そして映画を見た人間を動かすことにあったはずだ。演劇はあくまでそのための道具でしかない。だから、物足りないという感想は、持てる者の側にいる私の傲慢だ。見るべきものをはき違えてはならない。

映画『コンゴ裁判』より


公式サイト:http://festival-shizuoka.jp/program/the-congo-tribunal/
『コンゴ裁判』アーカイヴサイト:http://www.the-congo-tribunal.com/


参考

コンゴ動乱:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E5%8B%95%E4%B9%B1
第一次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
第二次コンゴ戦争:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

2019/04/27(山﨑健太)

新聞家『屋上庭園』

会期:2019/04/26~2019/04/30

つつじヶ丘アトリエ[東京都]

新聞家はこれまで、村社祐太朗自らが戯曲を執筆・演出し上演してきた。既存の戯曲を用いて一般に開かれた公演を行なうのは今回が初めてだ。「一般に開かれた」とわざわざ断ったのは、そもそも村社演出による『屋上庭園』(作:岸田國士)は利賀演劇人コンクール2018で上演され奨励賞を受賞した作品であり、今回の上演はその改定再演だからだ。利賀演劇人コンクールで上演された作品がほかの場所で「再演」されることはそれほど多くないのだが、コンクールの成果を広く問う意味でもこのような「再演」には大きな意義があるだろう。

村社の「戯曲」はほぼ散文といってよい形式をとり、その上演に一般的な意味での会話はない。言葉は決して難解なわけではないが容易には意味が取りづらく、しかしそこが魅力でもある。上演においては俳優が他者としての言葉と対峙する様がクローズアップされ、それを観る私もまた、そのような態度を要請される。一方、『屋上庭園』は(およそ100年前に書かれた戯曲ではあるが)平易な言葉で紡がれる会話劇だ。同じ新聞家名義での公演とはいえ、両者の上演は相当に異なるものになるだろう、と思っていた。

だが考えてみれば、他者としての言葉に対峙するという意味では俳優の営為に違いはない。戯曲自体の言葉の質の違いを別にすれば、『屋上庭園』の上演から受けた印象は、新聞家のこれまでの作品のそれと驚くほど変わらなかった。『屋上庭園』という戯曲とそこに書き込まれた人々のことがこれまでにないほど「よくわかる」とさえ思わされたのは、新聞家が「他者」と徹底して向き合ってきたことを考えれば至極当然だったのかもしれない。

人の出入りや金の受け渡しなど、戯曲に書き込まれた必要最低限の動きこそ実行されるものの、演技はいわゆる「リアリズム」からはほど遠く、4人が寄り添い同じ方向を向いて立ち尽くす(記念写真を撮るかのような)状態が基本となる。その視線の先には透明のアクリルボードのようなものがあり(美術:山川陸)、そこには俳優たちの姿もうっすらと映り込んでいただろう。この配置自体、2組の夫婦が/夫と妻とが、互いに己を映し合う『屋上庭園』の構造、そして新聞家の実践それ自体を可視化するようでもある。

横田僚平、那木慧、菊地敦子、近藤千紘の4人の俳優の演技はきわめて解像度の高い「リアル」な情感を私のうちに呼び起こした。男女の配役はそれぞれダブルキャストになっており、2×2で4パターンの配役があったらしい。自身が見た回の配役こそが最適解であると思わされたが、おそらくいずれのパターンも等しく精度の高い、しかしそれぞれに異なった「リアル」を感知させる上演だったのだろう。一見したところ抑制されているように見える俳優の発話や挙動が、それゆえむしろ微細な差異を際立たせる。観客はそうしてそこにある「テクスト」とそれぞれに対峙する。新聞家の実践が決して特殊なものではなく、むしろ演劇原理主義的な側面を持つものであることをあらためて確認できたという点においても(それはつまり演劇の原理(のひとつ)をあらためて確認することでもある)有意義な体験だった。

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©三野新

©三野新

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

©村社祐太朗

公式サイト:https://sinbunka.com/

2019/04/26(山﨑健太)

ホエイ『喫茶ティファニー』

会期:2019/04/11~2019/04/21

こまばアゴラ劇場[東京都]

2018年に上演した『郷愁の丘ロマントピア』が第63回岸田國士戯曲賞最終候補作に選出されたホエイ。新作の舞台はレトロなアーケードゲームの卓が残る古びた喫茶店だ。初めて店を訪れたらしい男(尾倉ケント)は連れの女(中村真沙海)からマルチ商法まがいの「ビジネス」に誘われている。女の上司(斉藤祐一)、男の友人(吉田庸)らも合流し、「ビジネス」の話を進めようとするうち、男女がともに在日コリアンであることが明らかになり──。

「正義」や「常識」は相対的なものであり、多くの人がそれを「正しい」と信じているという程度のことでしかない。茶碗をめぐるマナーひとつとっても韓国と日本とでは違いがあり、それがときに摩擦やイジメを生む。物語の主軸をなすのは在日コリアンの置かれた困難な状況とその抜け出しがたさだが、それらを生み出す構造は世のあちこちに見出すことができる。

「詐欺してますよね」「だまされてますよ」とマルチ商法であることを指摘し「人助け」をしようとした女性客(赤刎千久子)が逆に店から追い出されてしまう場面が印象的だ。そこでは彼女の言動は「正義」とは見なされない。直前に彼女がいかに自らが「正当な」日本人であるかを説明していたことも影響したのかもしれない。「ビジネス」に望みをかけ、何とか現状を打破しようとする人々にとって、彼女の言葉は邪魔なものでしかない。

©三浦雨林

ところで、これまでのホエイのほとんどの作品では、ある意味で「学芸会」的ともいえる簡素な舞台美術が採用されてきた。そこにはないものを「見る」ための想像力を刺激する戦略としてだろう。しかし今作では「リアルな」喫茶店のセットが組まれている。しかも、照明こそ換わるものの、喫茶店以外の場面もそのセットのままで演じられるのだ。このことは何を意味しているのだろうか。

見えていないものを想像することはもちろん重要だ。だがそのためには、そもそも自分には見えていないものがあるのだという自覚がなければならない。友人の出自、異性の抱える困難、あるいは自国の歴史。それが遠い外国のことであれば「知らない」と自覚することは比較的容易、かもしれない。だが、目の前に「見えているもの」があればその分だけ、その向こうに「見えていないもの」があることは想像しづらい。喫茶店のかたちで観客の目の前にはっきりと存在する「今ここ」とは異なる位相で語られるエピソードは登場人物には「見えていないもの」として、観客にのみ開示される。

作品のほとんど最後に至ってさりげなく、物語上は特に意味のないかたちで「クノレド」という単語が登場するのも示唆的だ。なるほど、本作は在日コリアンを中心とした物語だったかもしれない。だがその向こうには無数の同型の、同時にまったく違った問題がある。そもそも在日コリアンについてだって私はロクに知ってはいないのだろう。「知っている」ことの安全圏の外側を、私は想像し続けることができるだろうか。

©三浦雨林

公式サイト:https://whey-theater.tumblr.com/
ホエイ『郷愁の丘ロマントピア』レビュー:https://artscape.jp/report/review/10142986_1735.html

2019/04/21(山﨑健太)

福井裕孝『舞台と水』

会期:2019/03/21~2019/03/24

スパイラル・ガーデン[東京都]

学生クリエイターを支援するクマ財団クリエイター奨学金の給付を受けた奨学生たちによるショーケース「KUMA EXHIBITION2019」の一環として上演された本作は「デスクトップシアター」の「ワークインプログレス」と冠されている。デスクトップシアターとはその名の通り、机上を舞台に見立てた演劇である。俳優は指。人差し指と中指を交互に前に出すことでヒトが歩く様子を表現するようなものを思い浮かべればおおよそのところは正解である。机上にはほかに盆栽や灰皿、掌サイズの石などが置かれ、「舞台美術」の役割を果たす。観客は机の前に三脚並んだ椅子に腰かけ、あるいはその後ろに立ってそれを「観劇」する。

そこだけ切り出して見るならば単なる手遊びと言えなくもないのだが、指の「本体」たる俳優もまたその存在を主張してくるところがこの作品の面白さだ。机の向こうの黒子であるはずの「本体」は隠れる様子もなく、過剰に目につくと言ってもよいくらいである。観客の知覚は机上の指による「演劇」とその背後の俳優(?)たちとの間を行き来することになる。

いや、この言い方は正確ではない。指は手と、手は腕と、腕は俳優の胴とつながっているのだから、そもそも観客はそれらを一体のものとして知覚しているはずだ。手遊びの部分だけが切り出され「演劇」として認識されるのは、つくり手が用意したフレームに観客が「ノって」いるからだ。

用意されているフレームは指=机上とその背後の「黒子」だけではない。福井は演劇が上演されている空間、あるいは上演の外側の環境をもフレームとして利用する。あるいはそれこそがデスクトップシアターの意義であると言ってもよい。開かれた空間の只中に「劇場」を置くこと。

イベントの性質上、上演は展覧会の会場内で行なわれた。展覧会の会場自体もまたオープンスペースであり、隣接する空間には展示と無関係な人々が行き来する。舞台となる机の向こうにはカフェとその客が見える。上演が始まるとすぐに、椅子に座って「観劇」している私の目の前にアイスコーヒーが置かれた。「舞台美術」であろうそれは、いま目の前にあるのが舞台であると同時にカフェとひと続きの空間に置かれた単なる机であることを強く意識させた。

さらに「外」を意識させられる場面もあった。上演中、視界の端にコンビニ袋が入ってきたかと思えばそれを提げているのは出演者のひとりで、彼はそこからペットボトルを無造作に取り出すと机上に置いたのである。商品から舞台美術へ。何食わぬ顔で行なわれる「侵犯」がフレームの恣意性を暴く。コンビニ袋を下げた男は私の視界に入ってきた瞬間には間違いなく「出演者」だったが、ではその前、私を含めた「観客」に認識される前の彼はどうか。私は机上を動き回る指を「俳優」として見ていたが、そこにつながる掌は、腕はどうか。そう考え始めると、何か奇妙に落ち着かないモノを見せられているような、そんな気分にもなるのであった。

KUMA EXHIBITION2019:https://kuma-foundation.org/exhibition2019/
公式サイト:https://fukuihrtk.wixsite.com/theater

2019/03/23(山﨑健太)

Jamie Lloyd Company『Betrayal』

会期:2019/03/05~2019/06/08

Harold Pinter Theatre[ロンドン]

結末の見えた物語は味気ないものだろうか。いや、行き着く先を知っているからこそより大きく心揺さぶられる、そんなこともあるはずだ。ハロルド・ピンターの戯曲『背信』はエマとロバート、ジェリーとジューディスの二組の友人夫婦の9年間を、しかし時を遡るかたちで描く。それはエマとジェリーが出会い、不倫をし、そして決別するまでの9年間だ。観客は彼らの「未来」を知りながら「今」に立ち会うことになるだろう。目の前で交わされる約束が実現されないことを、かけがえのないように思えるその出来事がやがて忘れられ、あるいは誤った記憶に置き換えられてしまうことを知っている観客は、だからこそより一層、そこにある「今」の儚さに思いを馳せる。未来への約束も過去の記憶も不確かだ。その儚さを舞台上の彼らが知ることはない。

ハロルド・ピンター劇場でのジェイミー・ロイド演出による『背信』はエマ役にゾウイ・アシュトン、ジェリー役にチャーリー・コックス、そしてロバート役に日本でも『マイティ・ソー』『アベンジャーズ』のロキ役などで人気のあるトム・ヒドルストンを迎え、実力派俳優たちの演技を際立たせるシンプルな演出で上演された。

戯曲『背信』においてジェリーの妻であるはずのジューディスは名前しか登場せず、それゆえエマ、ジェリー、ロバートの三角関係が強調される。しかもそこには男同士の強い友情も関わっている。「実を言うと、昔から君よりもやつの方が好きな位なんだよ。そう、僕があいつと関係した方がよかったんじゃないかな、この僕が」(喜志哲雄訳、ハヤカワ演劇文庫『ハロルド・ピンターⅠ』より)というロバートの言葉からも読み取れるように、それは幾分か同性愛的な要素を含んでさえいるものだ。『背信』のほとんどの場面は三人のうち二人だけの会話による。愛情であれ友情であれ、そこには残るひとりへの「背信」の気配が濃厚に漂う。

この三角関係の複雑さ、微妙さを、ロイド演出は三人をつねに舞台上に置くことでよりはっきりと可視化してみせる。二人を見守る壁際のひとり。それは逢瀬を楽しむ二人の頭を過ぎる姿か、あるいはそこにいる二人こそが壁際のひとりの妄想か。壁に映る二人の影は、不在ゆえの存在感を強調する。舞台上につねに三人目の視線があることで、展開される出来事はむしろ客観的事実であることをやめ、各々の記憶という不確かなものへと結晶していくのだ。

しかしだからこそ、終盤に採用されたある演出には疑問が残る。劇中、ジェリーがエマの娘シャーロットを「高い高い」したというエピソードが二度語られる。それがエマの家の台所でのことだったと言うジェリーに対し、エマはその都度、「あなたの家の台所」だったとそれを訂正する。記憶の不確かさを象徴するエピソードだが、ロイド演出では二度目のこの会話のあと、舞台上にシャーロットと思しき子どもが登場し、ジェリーが彼女を「高い高い」してみせるのだ。もちろんそのようなト書きはない。シャーロットの登場は(それが唯一の「正解」を与えるものでないにせよ)、この戯曲と上演の「儚さ」を損なってはいないだろうか?

公式サイト:https://www.pinteratthepinter.com/

2019/03/07(山﨑健太)

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