2019年06月15日号
次回7月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

砂岡事務所プロデュース 音楽劇『Love's Labour's Lost』

会期:2018/11/17~2018/11/25

CBGKシブゲキ!![東京都]

『恋の骨折り損』として翻訳されているシェイクスピアの喜劇がFUKAI PRODUCE羽衣の糸井幸之介の演出・音楽で音楽劇として上演された。今作は糸井にとっての初の商業演劇演出作品となる。

学問に打ち込むため女人禁制の誓いを立てた王ファーディナンドとその友人の3人の貴族。しかしそこにフランス王女と3人の侍女が訪れ、4人の男はそれぞれに恋に落ちてしまう。抜けがけとその発覚、そして女性陣との恋の駆け引きがドタバタと展開する。

[砂岡事務所提供/撮影:中村彰]

バカバカしい戯曲だ。率直に言って退屈(失礼!)ですらある。似たような場面の繰り返しも多く、そのまま上演するのでは間がもたないだろう。しかし今回の上演では、物語としては退屈な繰り返しは音楽によって構造的必然性を与えられ、俳優たちに順に見せ場をつくる装置としてうまく機能していた。セリフが音楽に乗せて発せられる場面も多いためテンポもいい。「音楽劇」という枠組があるところにこの戯曲が適当な作品として選ばれたのだろうと推測するが、「音楽劇」は『恋の骨折り損』を上演するのに最適な解のひとつであると思わされた。

俳優たちのコミカルな演技も(序盤こそ美男美女にこんなことさせて!と思ったものの)彼らの新たな魅力を引き出していたのではないだろうか。國立幸(WキャストのB)が演じた王女の嫌味ない意地悪さと、道化役のアーマードーをバカバカしい芝居のなかでも一際バカバカしく演じた谷山知宏の過剰さは特によかった。

しかし、ひとりの羽衣ファンとしては大いに物足りなかったのも確かだ。糸井と羽衣の妙〜ジカルは人生のバカバカしさと苦さを表裏一体に抉り出す。だからこそ笑えて泣ける。『恋の骨折り損』にあるのはバカバカしさだけだ。苦味が足りない。次に古典を上演する機会があれば(改作でもいい)ぜひそのポテンシャルを最大限に引き出す(あるいは糸井のまったく別の顔を引き出す)戯曲を選んでほしい。

[砂岡事務所提供/撮影:中村彰]

公式ページ:http://sunaoka.com/stage/LLL/

2018/11/21(山﨑健太)

我妻直弥『最終回』

会期:2018/11/17~2018/11/18

立教大学新座キャンパス ロフト1[埼玉県]

我妻直弥『最終回』は立教大学現代心理学部映像身体学科松田正隆ゼミの卒業制作作品として上演された。作品の発表時点でまだ学生であった我妻はしかし、2017年にはフェスティバル/トーキョーの若手ピックアップ企画「実験と対話の劇場」に演劇計画・ふらっとの劇作担当として参加、2018年には『すごい機械』で第18回AAF戯曲賞最終審査にノミネートされるなど、すでに一部では注目を集めつつある。

松田正隆/マレビトの会の周辺で活動する(していた)他の若い作り手と同様、我妻もまた、演出の基本的な技法をマレビトの会『上演する』シリーズ(『長崎を上演する』『福島を上演する』)のそれと共有している。ほとんど何もない空間と大雑把なマイム、そして感情の起伏に乏しい発話。それらは現実の空間の中に不意に虚構が立ち上がる、あるいは物語世界からふと劇場へと引き戻される、その瞬間を生み出すための手法であり、松田はそのような演劇を「出来事の演劇」と名指す。

『最終回』は「出来事の演劇」の時間への適用の試みとしてある。作中ではある連ドラ(昼ドラ?)の最終回放映日の朝から昼、最終回が放映されるまさにそのときまでの約4時間が描かれるのだが、これはそのままこの作品の上演時間とも重なっている。つまり、『最終回』の上演において4時間という時間の枠組みは物語の内外で一致しているのだ。だが、物語の内と外の4時間は決して同質ではない。我妻はいくつかの仕掛けによって劇場空間に流れる複数の時間を観客に知覚させ、それらの間を行き来させる。



[撮影:松本誠舟]

ひとつめの仕掛けは物語の内と外における時間帯の不一致だ。昼にかけての4時間を描く本作の開演時間は15時に設定されている。しかも、公演会場の客席正面の壁は取り払われ、大きな開口部となったそこは外の空間にそのまま通じている。19時の終演に向けて日は暮れていき、やがて夜が訪れる。現実の夜と、虚構の昼。

二つめの仕掛けは上演の形式にある。『最終回』は6編の短編からなり、おおよそ1編ごとに休憩が挟まれる。観客はその度に現実の時間に引き戻される。『最終回』の観劇体験は虚構の時間と現実の時間の混合物としてしかあり得ない。

現実の時間が入り込んでくるのは休憩時間だけではない。開口部から見える外部の空間は、演劇を見る観客に背景としての現実の時間をつねに意識させることになる。それは夜に向かう天体の運行であり、立教大学新座キャンパスという具体的な空間に流れる時間でもある。「背景」をときおり通り過ぎていく学生らしき人々の姿は、観客に虚構への没頭を許さない。しかも、 3編目の「とある地獄」では、作品とは無関係な通行人と思われた人々の行為がそのまま「上演」へと移行していく。「現実」が「虚構」へと陥入する。それとも逆だろうか。いずれにせよ、そこには極めて豊か、かつ、奇妙な現実と虚構との関わりの可能性が提示されていた。



[撮影:松本誠舟]

2018/11/17(土)(山﨑健太)

地点『だれか、来る』

会期:2018/10/11~2018/10/14

アンダースロー[京都府]

半ば世を捨てるようにして海辺の古い家へと越してくる「彼」と「彼女」。そこに現われる家の売主だという「男」。描かれるのは家に着いてからその晩までの短い間。「男」の訪問と「彼女」の態度が「彼」の心をかき乱す。波のように寄せては返す言葉の繰り返しがミニマムな三角関係のドラマに劇的な効果を与え、緊張は徐々に高まっていく。

ノルウェーの作家ヨン・フォッセの戯曲はもともと詩的なリズムを持っているが、今回の地点の上演ではそこに新たなリズムが加えられている。二人一役を基本として、同じセリフがエコーのように二度(あるいはそれ以上)繰り返されるのだ。「だれか来る?」「だれか来る」。自問自答のように繰り返されそのたびに異なるニュアンスを響かせる言葉。彼らは引き裂かれている。「彼」は「彼女」を愛しているが信じきれない。「彼女」は「彼」を試すようでも裏切っているようでもある。親切めかした「男」の態度には欲望が透けて見え、しかし決定的な行為は描かれない。

空間もまた複数の領域の間で引き裂かれ宙吊りになる(美術:杉山至、照明:藤原康弘)。氷柱のようにいくつも連なるLEDライトの光は家の明かりのようにも瞬く星のようにも見え、ときに青く輝くそれは海面のようでもある。うちと外、空と海。二つの領域は容易に溶け合いあるいは反転する。生と死さえも例外ではない。

[撮影:松見拓也]

「彼」(安部聡子/小河原康二)と「彼女」(窪田史恵/田中祐気)が「二人きり」だと言うその瞬間、「男」(石田 大/小林洋平)はしばしばすでにそこにいる。だが「男」はその存在に気づかれない。観客と同じように。亡霊のような彼ら/私たち。白い布で覆われた椅子はそこが過去の場所であることを暗示していた。

執拗に繰り返される「だれか来る」という言葉には不安と期待が共存する。ドラマを起動するのは来訪者だ。戯曲に書き込まれた悲劇の予感は、「そこ」に来訪者があるたび、亡霊として繰り返されることになるだろう。


[撮影:松見拓也]

地点:http://chiten.org/

2018/10/13(山﨑健太)

福留麻里×村社祐太朗『塒出』

会期:2018/09/28~2018/09/30

STスポット[神奈川県]

新聞家を主宰する演劇作家の村社祐太朗とダンサーの福留麻里との共同作業の2作目。

開場すると村社が観客から参加希望者を募ってオリジナル盆踊りのレクチャーを始める。開演して初めてわかることだが、その振付は本編で福留が踊るのと同じものだ。村社いわく、本作では盆踊りのような人と場のあり方を目指したのだという。

村社は発話のたびにテキストの一つひとつのフレーズの意味とつながりを厳密に(そして改めて)取ることを俳優に要求する。結果として俳優の発話はゆっくりとした、ときにたどたどしいものになりがちで、対峙する観客もまた、辛抱強く言葉と向き合うような態度を要請されることになる。極度の集中はおのずと体のあり方にも影響を与え、新聞家の近作では俳優はごくわずかな身動きしかしないようになっていた。

ところが、本作では福留が踊りながら発話する。「俳優」たる福留にもそうだろうが、動きの有無は観客のあり方に大きな差をもたらす。もともと、村社のテキストは相当に集中しないと耳だけで内容を理解することが難しい複雑さを持っていて、その複雑さこそが魅力でもある。いつもと同じように言葉に集中しようとするのだが、当然、福留の動きも目に入る。語られるのは踊りの稽古の風景のようで、ならば福留の動きも「意味」を持つのだろうかなどと考えてしまった時点で私はテキストの行方を見失っている。そうでなくとも私の体は繰り返される「盆踊り」の振付とリズムに自然と反応してしまう(開演前のレクチャーの影響もあるだろう)。注意は分散し、ふとした瞬間に言葉は単なる音として通り過ぎていく。あるいはその瞬間にこそ、言葉は踊りと同等のものとして受け取られている、のだろうか。動きは意味を越えて共有されうる。だがこれらは演劇の側からの思考でしかない。ダンスにとって言葉は、意味はどのような存在としてありえるのか。切り詰められた要素が原理的な問いを改めて突きつける。

[撮影:金子愛帆]

福留麻里:https://marifukutome.tumblr.com/
新聞家:http://sinbunka.com/

2018/09/28(山﨑健太)

TalkingKidsHi5『BABY BABY, THIS UNBELIEVABLE LOVE!』

会期:2018/09/14~2018/09/16

The CAVE[神奈川県]

TalkingKidsHi5はダンサー・aokidと彼の呼びかけで集まった俳優・福原冠、ミュージシャン・よだまりえ、タップダンサー・米澤一平、演出家・額田大志のチーム。ひとまずそれぞれにひとつずつ肩書きを付してみたものの、aokidはグラフィック「1_wall」でグランプリを受賞、福原はBlondeLongHair名義でDJとしての活動もしていて、額田はそもそも演出家となる以前からミュージシャンとして人力ミニマルミュージック楽団・東京塩麹を主宰し注目されてきた。よだと米澤もそれぞれ他ジャンルのアーティストとの交流に積極的な活動を展開している。今回のイベントもそんな彼らのオープンさを反映し、複数のジャンルがゆるやかに交流するようなものとなった。

同じくaokidが開催するクロスジャンルなイベントに「どうぶつえん」がある。TalkingKidsHi5がどうぶつえんと大きく異なるのは、パフォーマンスのなかでチーム全員が自らの専門はもちろん、専門外のこともやる点だ。ギターを弾いたりタップを踊ったりするにはそれなりの技術が必要だが、技術はなくとも人は言葉を発し、歌い、手を打ち鳴らし、踊ることができ、その根っこには共通する悦びがある。

ときに失笑を招きつつも全体が(楽しもうと思えば?)楽しめるものになっているのはもちろんチームに各ジャンルのプロフェッショナルがいるおかげだが、専門外のパフォーマンスが含まれているがゆえに必ずしも全体の完成度は高いとは言えない。内輪向けのイベントと受け取られかねない危うさもある。だが、音楽もダンスも同じように楽しむ彼らの姿は、ときにはにかみつつも軽やかで力みがない。ジャンルの間の、演者と観客との間の(あるいはもっとさまざまな?)壁がない世界がありえることのリアライズ。自然であることこそが自然となることを誘いやがて未来を変える。先日発売された東京塩麹の2ndアルバムのタイトルは『You Can Dance』というのだった。

[撮影:ShinichiroIshihara]

TalkingKidsHi5:https://talkingkidshifive.tumblr.com/
どうぶつえん:https://doubutsuenzoo.tumblr.com/

2018/09/16(山﨑健太)

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