2023年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

libido:Fシリーズ episode:02『最後の喫煙者』

会期:2021/12/10~2021/12/26

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

libido:所属俳優によるひとり芝居シリーズ「libido:F」のepisode:02が上演された。今回、俳優の緒方壮哉が題材として選んだのは筒井康隆の「最後の喫煙者」。嫌煙権運動が過激化し喫煙者が排除されていく世界で「最後の喫煙者」となった小説家が、そこに至るまでを振り返る体裁の短編小説だ。筒井を思わせる作家の独白として書かれたこの短編を緒方はほとんどそのまま舞台に載せ、ひとり芝居として上演してみせた。

木ノ下歌舞伎やロロ、FUKAI PRODUCE羽衣の作品でも活躍する緒方の魅力のひとつはその身体能力の高さにある。舞台で跳ね回るような大きな動きから指先だけで行なわれるミニマムな演技まで、よくコントロールされた身体はどの舞台でもパッと目を引く。本作でも緒方は狭い会場で縦横無尽の暴れっぷりを見せる、のみならず、ラップやモノマネなどの「芸」も披露し、上演はさながら緒方壮哉ショーの様相を呈していた……のだが、50分の上演時間のほとんど最初から最後まで全力投球を(しかも間近で!)見せられるので、終わる頃にはこちらも少々疲れてしまった。もちろんそれは原作の作家の語り、筒井の文体が持つ勢いを体現したものではあるのだが、緒方のよさを活かすという意味ではもう少し緩急があってもよかったかもしれない。終始見せ場では見せ場がないのと同じである。


[撮影:畠山美樹]


さて、俳優が自ら持ち込んだ企画を演出家の岩澤哲野とともに練り上げていくこのシリーズだが、アフタートークによれば、今回の演出上のアイデアの多くは緒方が持ち込んだもので、岩澤の主な役割はともすれば詰め込みすぎになるアイデアを上演を成立させるために整理していくことにあったという。アフタートークでは作品選定や演出の意図についても緒方が自らの言葉で語っており、自立したつくり手としての頼もしさを感じた。

会場である元社員寮を改装したアトリエはアパートの一室といった趣。そこに緒方が「帰ってくる」ところから芝居ははじまる。ドアを開け靴を脱ぎ、手にしたコンビニのレジ袋をちゃぶ台に置いた緒方はマスクを外すと一旦下手に消える。どうやら手洗いうがいをしているようだ。戻ってきた緒方はおもむろにタバコに火をつけると部屋の奥の神棚らしきものを拝む。よく見るとそれはタバコのパッケージが積み上げられたものだ。レジ袋から取り出した缶チューハイとタバコを手に、緒方は『最後の喫煙者』の文庫本を読みはじめる。

実はこの冒頭部はlibido:Fシリーズepisode:01『たちぎれ線香』を反復している。舞台側の出入り口が玄関の一箇所しかないことを逆手にとってか、男が帰ってきて手洗いうがいをし、部屋の奥に向かって拝んでみせるまでの一連の流れが『たちぎれ線香』と『最後の喫煙者』でまったく同じなのだ。シリーズを追う観客にとっては楽しいくすぐりだがそれだけではない。『たちぎれ線香』で拝まれていたのは主人公の若旦那が入れ上げていた芸者・小糸の位牌。『最後の喫煙者』でその位置をタバコが占めているのはブラックユーモア以外の何物でもない。小糸は恋煩いの末に亡くなってしまうが、タバコに執着した作家が結局は「最後の喫煙者」として(強制的に)保護されようとする結末を考えればなおさらだ。『たちぎれ線香』は線香が消えて終わるが、タバコに火をつけるところからはじまる『最後の喫煙者』のタバコの火は最後まで消えないのである。


[撮影:畠山美樹]


続く物語世界への導入部分も秀逸だ。緒方が文庫本を読んでいると蠅の羽音らしきものが聞こえてくる。読書に集中できず追い払おうとするが、蠅はしつこく飛び回る。やがて緒方がちゃぶ台の上で蝿を踏み潰さんとしたその瞬間、蠅の羽音はヘリコプターのローター音へと切り替わり、一転して緒方は追われる側となる。BGMはモーリス・ラヴェルの『ボレロ』。部屋の奥に設置されたモニターには逃げ惑う緒方の姿が映し出され、隠れる場所はどこにもない。観念したのかちゃぶ台の上に丸椅子を置き、その上にどっかと座りタバコを吸う緒方。そこは国会議事堂の頂だ。

小説「最後の喫煙者」は国会議事堂の頂に追い詰められ「最後の喫煙者」となった語り手が「地上からのサーチライトで夜空を背景に照らし出され」「蠅の如きヘリからのテレビ・カメラで全国に中継されている」場面ではじまる。『ボレロ』が終わると同時に明かりは消え、再び明るくなると緒方は何事もなかったかのようにちゃぶ台で文庫本を読んでいるが、そこはすでに物語世界のなかだ。


[撮影:畠山美樹]


原作の短編小説が発表されたのは1987年。しかしここで描かれた「禁煙ファシズム」は2021年の日本においてはすでにほとんど完成されてしまっている。優れたSF小説がしばしばそうであるように「最後の喫煙者」もまた未来を先取りしていた。小説「最後の喫煙者」を上演するということは俳優の身体でもって小説世界を現実化するということだが、「最後の喫煙者」の世界はすでに「現実化」されてしまっているのであり、だからこそ喫煙者である緒方が2021年の日本で演じる『最後の喫煙者』にはどこか哀愁が漂う。

蠅の羽音は直接的には「蠅の如きヘリ」の比喩から導かれたものであろうが、追う側であったはずの緒方が突如として追われる側に転じる導入も効いている。『ボレロ』の旋律は繰り返されるなかで異なる楽器に引き継がれていく。排除の旋律もまたその対象を変え繰り返されるだろう。たとえばマスクの着用をめぐる諍いが殺人にまで発展する現実を見れば、30年以上前の筒井のブラック・ユーモアはますますアクチュアルなものになっていると言えるだろう。それがもはや笑えないものになっているとしても。

2月には緒方個人としてK-FARCEプロデュース公演『#スクワッド』への出演が予定されている。libido:Fシリーズとしては鈴木正也によるepisode:03が4月に上演予定だ。


[撮影:畠山美樹]



libido::https://www.tac-libido.com/


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libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)

2021/12/10(金)(山﨑健太)

libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー

会期:2021/12/10~2021/12/26

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

theater apartment complex libido:は岩澤哲野、大蔵麻月、大橋悠太、緒方壮哉、鈴木正也による「演劇の拠り所」。「libido:Fシリーズ」はlibido:が拠点とする千葉県松戸市のクリエイティブ・スペース「せんぱく工舎」F号室を舞台に、所属する三人の俳優それぞれが持ち込んだ企画を演出家の岩澤が演出するひとり芝居のシリーズだ。

会場となるせんぱく工舎はもともと神戸船舶装備株式会社の社宅だった建物を改装したスペース。共有部のウッドデッキと芝生が開放的な1階にはカフェや本屋やバルが並び、室内すべてがDIY可能な2階のアトリエにはさまざまなアーティストが入居している。libido:が入居するF号室は1階の一番奥。今回の「libido:Fシリーズ」は2020年にF号室前の芝生を使って上演した『libido:AESOP 0』(原本:『イソップ寓話集』、構成・演出:岩澤哲野)に続く本拠地での公演となる。

episode:02として12月に上演されるのは緒方の企画による『最後の喫煙者』。ロロやKUNIOの作品でも俳優として活躍してきた緒方が筒井康隆による同タイトルの短編小説を演劇として立ち上げることを試みるという。『最後の喫煙者』の公演期間には5月にepisode:01として大橋の企画で上演された『たちぎれ線香』の再演もあわせて行なわれる。今回は両公演のプレビューとして5月の『たちぎれ線香』初演版を振り返る。


[撮影:畠山美樹]


『たちぎれ線香』は同タイトルの古典落語をもとにしたひとり芝居。『たちぎれ線香』というタイトルはかつて花街で芸者と過ごす時間、ひいてはその代金を線香の燃える長さで計っていたことに由来する。筋立ては以下の通り。ある商家の若旦那が小糸という芸者に惚れ、店の金に手をつけるほどに入れ上げてしまう。親族と店の者による会議が開かれ若旦那を懲らしめるためのさまざまな案が出るが、結局、番頭の案で若旦那は100日のあいだ蔵で暮らすことになる。その間、毎日のように小糸から旦那への手紙が送られてくるが、番頭はそれを自分のところで止めてしまう。80日目には「この手紙を読んだらすぐ来てください そうでなければもうこの世では会えないでしょう」という文面の手紙が届き、それを最後に小糸からの連絡は途絶える。100日を終えた若旦那はすぐに花街へ向かうが、小糸はすでに亡くなっている。小糸にあつらえた三味線と位牌を仏前に供えた若旦那が手を合わせると、三味線は若旦那の好きな「雪」という地唄を奏ではじめる。それを見た若旦那は小糸に許しを請うが、すると三味線の音は止まってしまう。小糸はもう三味線を弾けないと言う女将に若旦那が理由を問うと彼女はこう答える。「仏壇の線香がたちぎれでございます」。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]


もともとは上方落語で演じられていた『たちぎれ線香』の舞台となる花街は、上方では船場、東京では本所あるいは日本橋に設定されているという。今回のlibido:版ではかつて松戸にあった平潟遊郭に舞台をローカライズ。のみならず、芝居の導入として枕がわりに流れる映像にもせんぱく工舎周辺のさまざまな松戸情報が盛り込まれ、松戸での上演ということを強く意識させる演出となっていた。

せんぱく工舎は地元の人々の憩いの場となっており、『たちぎれ線香』の親密な客席の雰囲気も、libido:という団体が場所や地域に受け入れられているからこそだろう。娯楽として完成されている古典落語の演目をベースにしつつ地元の要素を入れ込んだ作品を上演するという選択も場所の性格に馴染んだものだ。「地元ネタ」には松戸駅からせんぱく工舎に至るまでに通りかかる場所も含まれており、松戸の外から訪れた私も興味深く聴いた。


[撮影:畠山美樹]


落語原作のひとり芝居らしく、大橋のひとり複数役は見どころのひとつ。元社員寮の一室という狭い空間をしかし巧みに活かし、観客を飽きさせない。照明による場面転換も効いている。悲恋にアイロニカルな結末をつける原作のサゲ(オチ)に対し自分たちなりのサゲを提示しようとする意欲にも好感をもった。

落語を現在形の演劇として立ち上げるためと思われる工夫のなかには効果的なものもあれば首を傾げたものもあり、全体としてはまだまだブラッシュアップの余地があるようにも思われたが、それが比較的容易なのもひとり芝居の強みだろう。俳優にとっては自分だけの武器ができることも大きい。俳優自身が企画を持ち込み、演出家と一対一で作品をつくる「libido:F」シリーズは、俳優・演出家双方にとって自らの役割や創作の方法を見直す契機となるはずだ。

『最後の喫煙者』は12月10日(金)から、『たちぎれ線香』は17日(金)から26日(日)までの各週末に上演される。詳しいスケジュールは公式サイトで確認を。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]



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2021/11/30(火)[2021/05/30鑑賞](山﨑健太)

お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス

会期:2021/11/12~2021/11/14

アトリエ春風舎[東京都]

お布団の長期制作プロジェクト「CCS/SC」が、2022年2月に予定している本公演に先がけて1st expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレスを上演した。

Crowds continuum shift / Suicidal characterのイニシャルをとった「CCS/SC」は「『病:制御不可能な/望まない/望まれない性質』というテーマについて考え、創作」するためのプロジェクト。お布団のメンバー(作・演出の得地弘基、俳優の緒沢麻友、音響の櫻内憧海)に加え、プロジェクトに賛同して集まった劇作家、演出家、俳優、制作、美術家など総勢38名もの「研究員」が参加している。2019年12月に研究員の募集が行なわれ、当初は2020年4月からの2年間をかけて「複数人で考えて、複数の作品を作っていく」ことを掲げてスタートしたが、コロナ禍の影響もあってか今回のワーク・イン・プログレスが初めて公開での活動となった。

お布団の作品はこれまでそのほぼすべてが古典作品の翻案であり、本作では『ハムレット』が物語のベースとなっている。そこにさらに「《吸血鬼》、《人狼》、《幽霊》、《人造人間》、そして《人間》」という「五つの病を寓意化した種族」を設定として導入。さまざまな噂や疑惑が渦巻く世界で王子/ハムレット(宇都有里紗)が周囲の人間の「正体」を暴こうとする筋立ては、例えば人狼ゲームのような犯人当てゲームを思わせる。


[撮影:三浦雨林]


登場人物にはそれぞれ院長/クローディアス(永瀬安美)、医師/ホレイショー(谷川清夏)、娘/オフィーリア(大関愛)、兄/レアティーズ(黒木龍世)、幽霊/ガートルード(大関、谷川)と『ハムレット』に由来する名前が割り当てられているのだが、幽霊の名が先王ではなくハムレットの母であるガートルードになっていることからもわかるように、いくつかの設定は原作からずらされている。その最たるものがオフィーリアだろう。原作では狂気に陥った末に水死してしまうオフィーリアだが、本作ではほとんど唯一、一貫して「正気」の側にいる人間として描かれているのだ。


[撮影:三浦雨林]


本作のキャッチコピーに「治ると治す、病と健康の境界を巡る『現代』への箱庭治療」とあることからもわかるように、ここでは「狂気」=病と「正気」=健康、そしてその境界の問い直しが目指されている(本作にはもうひとつ大きな反転も用意されているのだが、本公演も控えているのでここではそれについては触れない)。また、モチーフである「病を寓意化した種族」が五つあり、しかもそこに《人間》までもが含まれているのは、病と健康という二項対立を脱臼し、複数の視点からそれらを捉え直そうという意図によるものだろう。「病」を名指すことそれ自体もまた、治癒を目的にそれが「病」であることを確定するという点において両義的な行為だ。

だが、今回のワーク・イン・プログレスでは、この「五つの種族」という設定については設定のままに終わってしまっているような印象を受けた。それぞれの種族についての設定は単に個人の性質として回収されてしまい、それらを並べることによって新たな視点が立ち上がるということもなかったように思う。あるいはもちろん、そのように物語や作品、ひいては社会に「望まれない性質」だからこそ病と呼ばれるのだということかもしれないが……。


[撮影:三浦雨林]


[撮影:三浦雨林]

また、今回はワーク・イン・プログレスということもあってかプロジェクトからの参加メンバーが少数に限定されており、これまでのお布団の作品との差異がさほど感じられなかったのも少々残念だった。永瀬以外の俳優陣については得地の作・演出作品への出演は初めてであり、これまでのお布団作品とは異なる演技体が持ち込まれているという新味はあった。しかし、出自も活動するフィールドもバラバラな俳優たちの演技はほかの俳優の演技とも得地の台本の言葉とも十全には噛み合っていないように感じられたのだった。

今回、俳優以外の「研究員」からは美術家の中谷優希が参加し美術を担当。ビジュアル面のクオリティの向上に一役買っていた一方、中谷は自身の作品でも「病」や「ケア」と関連するテーマを扱っており、その意味では本作にもより深くコミットする余地が残されているようにも思われた。せっかく多様な「研究員」を抱えるプロジェクトなのだから、そのようなかたちで互いの思考が影響を与え合う様子を見たい気もする。

「NOW LOADING.../PLAY START」とはじまり「SAVEを完了しました」と終わる本作は、ひとまずは紛れもないバッドエンドを迎えている。だが、初回のプレイは言わばチュートリアル、あるいはテストプレイの段階だろう。次のプレイ、つまりは2022年2月の本公演でベターエンドに到達するための「別ルート」をプロジェクトは見出せるだろうか。


[撮影:三浦雨林]



お布団 CCS/SC:https://offton.wixsite.com/ccssc
お布団:https://offton.wixsite.com/offton
お布団 CCS/SC 1st Expansion『夜を治める者《ナイトドミナント》』ワーク・イン・プログレス:http://www.komaba-agora.com/play/12846


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2021/11/14(日)(山﨑健太)

阿佐ヶ谷スパイダース『老いと建築』

会期:2021/11/07~2021/11/15

吉祥寺シアター[東京都]

『老いと建築』(作・演出:長塚圭史)はもともと、2020年12月から2021年5月にかけて開催された「謳う建築」展からの依頼を受けた長塚が、建築家・能作文徳の自宅兼事務所である「西大井のあな」という建築物から受けたインスピレーションをもとに立ち上げた科白からスタートしたものだという。描かれるのは変わりゆく「家」とそこで生きる人々の姿だ。

夫(中村まこと)を亡くし、二人の子が独立した後、3階建て中庭付きの大きな家にひとり住み続けている「わたし」(村岡希美)。足を悪くしてからは長女の仁子(志甫まゆ子)が時折様子を見に通い、週に2回はヘルパーの朝岡(森一生)も来ている。仁子の息子の基督(坂本慶介)も金をせびりがてらちょくちょく顔を出しているらしい。長男の一郎(富岡晃一郎)は母の今後のことを仁子と相談するが、そこには年の離れた恋人であるりぼん(木村美月)とともにその家に住みたいという思惑もあるようだ。使っていない上階の整理を手伝うために訪れていた仁子の娘の喜子(藤間爽子)は母と祖母の不仲の原因が父と祖母との関係にあると疑っていて──。


[撮影:宮本雅通]


ひとり過ごす時間の長い「わたし」はさまざまなことを思い出し、現実と記憶は混濁する。そこにないはずのものを見ることもしばしばだ。家の建築に携わった建築家(伊達暁)はまるで家の化身のように「わたし」の前に姿を現わし、ときに話し相手にさえなっている。大きな机が設られたリビングダイニングのような空間(美術:片平圭衣子)に現在と過去、あるいは記憶が重なり合う。それらはどれも舞台上にある現在という意味では観客にとって同等であり、そうして観客は「わたし」と世界を共有する。

一郎は母がボケてきているのではないかと疑っていて、ある意味でそれは正しいのかもしれないが、しかし母の家=舞台上に入り込んだ一郎たちもそこから逃れることはできない。過去と現在が入り混じるのみならず、1階と2階が重なり合い、部屋同士はばらばらになり、「家」だったはずの空間自体もまた奇妙に歪んでいく。だがその歪みは突如として現われたのではない。気づかなかったり見て見ぬふりをしていたり、それはいつからかそこにあったものだ。

「わたし」は夫と不倫していた今津美智子(李千鶴)のことを不意に思い出す。それは記憶から消し去り、なかったことにしていた過去だ。不倫が露見し今津と別れてすぐに他界してしまった夫。やがて画家だった夫のアトリエは改装され、その部屋には留学生が住むようになる。仁子が好きだった父のアトリエはなくなってしまった。そうして「家」のかたちは変わっていく。

あるいは仁子との関係もそうだ。基督が生まれる直前、仁子の夫である英二(長塚圭史)によるDVを疑った「わたし」は二人を別れさせようとする。だが仁子はそれを拒絶。一計を案じた「わたし」は英二と「わたし」が関係を持ったと仁子に思い込ませ、二人を別れさせることに成功する。しかしそれは仁子と「わたし」との関係に取り返しのつかない溝を生む結果となる。


[撮影:宮本雅通]


DVにせよ性的な関係にせよ、本当にそれがあったのかどうかは当人たちにしかわからない。気持ちについてはなおさらだ。英二の横暴も「わたし」の選択も、傍から見れば歪んだものだろう。しかしそれもまた「家」のかたちだ。

老いた「わたし」の住む家にはあちこちに手すりが取り付けられ、美意識の高い「わたし」はそれに我慢がならない。理想の「家」はもはやない。それでも、やはりそこは「わたし」の「家」なのだ。

中庭をつくると外観的には要塞のようなつくりになると言う建築家に「わたし」は応じる。「要塞、いい響きじゃない。家は家族を守るものなんですから。(中略)いつでも家族を守れる城。中には穏やかな空気が流れるといい」。「わたし」が望んだ「穏やかな空気」は「家族を守る」というもうひとつの思いと引き換えになってしまった。「わたし」が理想の家を語る最後の場面はだからこそ苦く、しかしそこには「わたし」の強さも滲む。


[撮影:宮本雅通]


それぞれが身勝手にふるまう家族たちの物語はともすればギスギスとした重たいものになりそうなものだが、登場人物たちは「わたし」を筆頭にみなどこかチャーミングで憎めない(長塚演じる英二だけは本物のDV夫にしか見えないが……)。そう言えば、この作品は独りテーブルにつく「わたし」に紙吹雪が降り注ぐ、まるでクライマックスのような場面からはじまったのだった。舞台上の出来事が「わたし」の記憶が溢れ出した走馬灯のようなものなのだとしたら、そのチャーミングさこそが、彼女の愛情の証なのかもしれない。


[撮影:宮本雅通]



阿佐ヶ谷スパイダース:https://asagayaspiders.com

2021/11/08(月)(山﨑健太)

ほろびて『ポロポロ、に』

会期:2021/10/27~2021/11/01

BUoY[東京都]

何もしなければ現状が維持されるなどということはない。ほろびて『ポロポロ、に』(作・演出:細川洋平)は気づかないほどゆっくりと、はっきりとした理由もわからないままに取り返しのつかない状況へと落ち込んでいく人々と、その先でかろうじて結ばれる連帯を描く。

『ポロポロ、に』は大まかに二つの筋が交互に語られるかたちで進んでいく。上手にテントの置かれた舞台手前の空間ではジュンパ(浅井浩介)・エスミ(齊藤由衣)の兄妹とその友人のアクニ(藤代太一)がキャンプをしている様子が、舞台奥の洗濯機が並ぶ空間ではコインランドリーに居合わせた利用者のかか(はぎわら水雨子)とふあな(高野ゆらこ)、清掃バイトのいちき(和田華子)らの会話が描かれる。途中、ジュンパとエスミの住む家にアクニとふあなが結婚の挨拶をしに訪れる場面が挿入され、ふあながジュンパたちの姉だということは明らかになるのだが、それ以上のことはわからないままに話は進んでいく。


[撮影:渡邊綾人]


かかたちが利用するコインランドリーでは洗濯をするたびに何かがなくなるらしく、それを知っているいちきは「他行った方がいいんじゃないですか」と言ったりもするのだが、かかもふあなもいろいろなものを失くしながら利用をやめない。かかは携帯の向こうの男の言うことに逆らえず、いちきは誰かに暴行を受けている様子だ。一方、キャンプをするジュンパたちは装備が足りず、雨のせいで薪もうまく集められない。誰だってこの状況は怖いというアクニにジュンパは「考えるのよそう」と応じる。「姉を捨てた」とアクニを責めたエスミはテントの中で自殺を図るが、そのアクニに助けられ未遂に終わる。だが、直後にアクニはエスミを暴行しようとし、ジュンパが(一度は見過ごそうとするものの)アクニを殴りそれをやめさせる。こうして、見えないところで進行していた不穏な何かが観客の前にその姿を現わしはじめる。


[撮影:渡邊綾人]


直後のアクニの独白によって明らかになるのは、そこがキャンプ場などではなくただの路上だという事実だ。アクニたちは現実から目を背け、路上生活のことをキャンプと呼んでいたのだ。「生きていく場所がなくなっただけ」で「誰にも助けを求めることが出来ないだけ」、「ここにいるだけ」の自分たちには「見る価値なんてないと思いますけど」とアクニは観客に語りかけるが、再びアクニを殴ったジュンパは「寝言言ってたぞ」とアクニの行為も告白もなかったことにし、現実から目を背け続けようとする。

アクニの告白が衝撃的に響くのは、観客もまた、目の前の空間をキャンプ場としてそれまで認識していたからだ。だが、もちろんそこはキャンプ場ではない。公演会場のBUoYの地下はかつて銭湯として使われていた場所で、浴室だった部分には湯船や鏡、蛇口など設備の名残がある。公演会場として使うための最低限の整備はされているものの、ほとんど廃墟と言ってもいいような空間だ。観客は目の前の廃墟を見ないふりをすることで、そこがキャンプ場であるという「嘘」をアクニと共有していたのだ。では、そこはいつからキャンプ場ではなかったのか。原理的に、観客がそれを知ることはできない。たしかにキャンプ場であったはずのそこは、気づかぬうちに路上にすり替わっている。そしてその背後には、最初から廃墟が広がっていた。

私が立つこの場所がすでに「廃墟」であるという可能性。そこには倫理的な荒廃も含まれている。あるとき、ふあなは何者かに連れ去られ、しかしジュンパたち三人はそれを見ていることしかできなかった。ジュンパたちはそのことを抱えて生きていくしかない。悪を見過ごした事実はそれ以降の生を蝕む。あるいはアクニが独白のなかで語る、この国で広く浸透していると思われる女性観。そこに拠って立つ社会は「廃墟」ではないと言えるだろうか。舞台上の人々のふるまいに近未来の、いや、それどころか現在の日本の姿が重なって見える。見て見ぬふりが降り積もり、気づけば取り返しのつかない世界がそこにある。

ジュンパたちはどこに行くこともできず、そうするうちに悲劇的な結末を迎える。一方、かかといちきもどこにも行けないでいるが、やがてふあなが二人を自宅に誘う。そこで提示されるのは、行き場のなさゆえに出会った人々による、かろうじての連帯だ。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


完璧な作品ではない。例えば、女性の登場人物、特にかかについてはほとんどステレオタイプな被害者としての姿しか描かれていないように見える点には引っかかりを覚える。それがステレオタイプな加害者の存在ゆえのものであったとしても、被害者を被害者としてしか扱わないことは二次的な加害にもなりかねないからだ。加えて、ラストにおける「ケア」を担うのもまた女性であるという点も気になった。作品と作家の性別とは切り離して考えるべきだが、男女平等からは程遠い現実がある以上、どうしても男性作家が書いた戯曲だということも考えざるを得ない。なぜ女性がすべてを背負わ(され)なければならないのか、という問いはしかし、本来は現実に向けられるべきものだろう。

いわゆる社会派と呼ばれるタイプの作品のなかには、あらかじめつくり手と観客との間で共有されている問題を、改めて問題だと指摘するに留まっているものが多々ある。単なる娯楽ならばそれでもいい。だが、自分たちは社会的な問題について考えているのだという自負は、簡単に驕りへとすり替わってしまう。それもまた「廃墟」から目を背けさせる甘い毒だ。それでもふあなの言うように「どれだけ気をつけてもなくなるけど、洗わないとダメなものはダメ」であり「なくなることを覚悟しながら洗」わなければならないのだろう。もちろんそれは作家だけに課せられたタスクではない。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]



ほろびて:https://horobite.com/


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2021/11/01(月)(山﨑健太)

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