2019年11月01日号
次回11月15日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

福井裕孝『インテリア』

会期:2018/05/17~2018/05/20

trace[京都府]

ひとり暮らしの男(向坂達矢)の日常が多少の差異を伴いつつ三度繰り返され、家事代行らしき女(金子実怜奈)が部屋を片付けると男の日常がもう一度繰り返される。本作で起きる出来事はまとめてしまえばこれだけなのだが、そのなかで空間とそれを統御する規則は豊かに変容していく。

福井裕孝は2017年の全国学生演劇祭で上演した劇団西一風『ピントフ™』で脚本・演出を担当し審査員賞を受賞。同作は東アジア文化都市2017京都文化交流事業の招聘を受け、第2回大韓民国演劇祭in大邱で再演された。同年にはマレビトの会『福島を上演する』に演出部として参加もしている。

現実としての上演空間とそこで俳優が生成するフィクション。本作で福井はそこに第三項として家具や家電、日用雑貨といった「モノ」を持ち込んでみせた。確かな現実としてありつつ、現実の空間、たとえばtraceというギャラリーに本来は属さない、フィクションのために持ち込まれた存在。フィクションを構成しながら、俳優とは異なり自らの意思で演じることのない存在。だがその存在はフィクションの空間を物理的に規定している。例えばテーブルの向きは同じ部屋に存在することになっているテレビや流しの位置を自動的に決定する。ゆえにその向きの変更は現実の空間とフィクションの空間とが結ぶ関係それ自体の変更を意味することになる。繰り返される日常のなかでモノたちは移動され、その配置が新たなフィクションを生成する。

一方、繰り返される日常のなかで堆積していくペットボトルや缶、靴下といったモノたちは空間に痕跡を刻む。それらは男によって日々部屋へと持ち込まれるのだが、空間の変容に伴って移動することはない。それらは変容以前の気配を湛えてそこにある。

上演を支える物理的基盤としての上演空間は容易には変更が効かないが、同じく物理的基盤であるところのモノは容易に「ズラす」ことができる。そのズレから覗く現実とフィクションとの新たな関係には、まだまだ可能性がありそうだ。

公式サイト:https://fukuihrtk.wixsite.com/theater

2018/05/20(山﨑健太)

いいへんじ『夏眠』/『過眠』

会期:2018/05/11~2018/05/14/2018/05/15〜2018/05/17

早稲田小劇場どらま館/シアターグリーン BASE THEATER[東京都]

いいへんじは2017年6月旗揚げの演劇ユニット。シアターグリーン学生芸術祭vol.11で優秀賞を受賞、下北沢演劇祭の若手支援企画・下北ウェーブ2018に選出されるなど注目を集めつつある。

ナツミ(松浦みる)は17歳のある日、幼馴染のスギタ(内田倭史/萩原涼太)が空を見上げて「意味、な」とつぶやく夢を見る。その様子に死の予感を感じたナツミはスギタを守ろうと22歳までの時間を共に過ごす──。そんな物語を『夏眠』は17歳と22歳の二人を描いた二つのバージョンで上演した。ほとんど同じ上演台本で描かれる、予感された未来と変えられない過去。舞台上に時おり投影される台本が、あらかじめ決められた運命を思わせる。

ところで、舞台上のスギタはナツミが頭のなかで想像するスギタらしい。ナツミはスギタのすべてを知っているわけではなく、自分の知っている範囲のスギタを思い浮かべることしかできない。ナツミの思いをスギタが汲み取れなかったように、スギタの思いをナツミは知らない。

[撮影:月館森]

[撮影:月館森]

一方の『過眠』は17歳のスギタ(内田倭史)と22歳のスギタ(萩原涼太)の会話、のはずなのだが、内田はなかなか17歳のスギタの役を引き受けようとしない。舞台上に物語のさまざまな設定、ナツミや作者である中島梓織の言葉が投影されていき、そうこうするうちようやく二人のスギタとしての会話が始まるが、17歳のスギタは22歳のスギタの示す物語をやはり受け入れようとしない。やがて二人は舞台上に散らばる小道具や設定を拒絶し、与えられたスギタという役も放り出してしまう。役を脱ぎ捨て、舞台上で走り回る二人は軽やかだ。

スギタを守ろうとするナツミの思いは本心かもしれないが、そこには他人に自分の物語を押しつけ組み込もうとする傲慢さが潜んでいる。中島はそれが作者である自分の営為に重なることを自覚しながら、それでもなお物語を通して他人とかかわろうとする。『夏眠』の最後でスギタのもとへと走り出すナツミが体現するのは、そんな真摯な覚悟だ。

[撮影:八杉美月]

公式サイト:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/

2018/05/12/2018/05/17(山﨑健太)

武本拓也ソロ公演『象を撫でる』

会期:2018/05/05~2018/05/06

SCOOL[東京都]

ほとんど何もない空間に男がひとり立っている。静止と見紛うばかりのゆるやかな動き。張りつめた空気は観客にも感染する。悪魔のしるしや生西康典の作品に俳優として出演してきた俳優・武本拓也によるソロ公演は、舞踏を思わせる緊張感のあるパフォーマンスで始まった。そのさまは自らの内部、あるいは周囲で生じる微細な出来事に集中し、その一つひとつに応答するかのようだ。

実際、終演後に配布された覚書には「舞台空間に向き合う」「建物の外の音を聞く」「空間の思い出」などのタスクを伴った八つのシーンから作品が構成されていたことが記されている。しかしもちろん、それらが観客に正確に知覚されることはない。見えるのは、極度に集中した武本の身体それだけである。

だが、小駒豪による照明がそこにもうひとつのレイヤーを追加する。舞台奥の壁に向き合い、ゆっくりと歩み寄る武本。白い壁に映し出された複数の影は歩むにつれて武本自身へと凝集していき、壁への到達と時を同じくしてその身体と重なりあう。すると次の瞬間、照明が転じ、武本自身もまた影と化す。

武本はSCOOLの真っ白な空間で、周囲の音や気配、自らの内部で生じる感覚を探り当てようとする。その試みから生まれる身体の動きが状況を変化させ、新たな知覚を生じさせる。それらはすぐそばにありながら容易にはつかめないという意味で影に似ている。つかもうと伸ばす手の動きは、影の形を変えてしまう。武本と影との関係も時々刻々と変わっていく。足元に控えめに存在していた影は、気づけば武本以上の存在感を主張している。武本自身が影へと転じる瞬間には内と外とがひっくり返るような感覚があった。知覚と動作を往復し、両者が渾然一体となるところに武本の身体があり、その輪郭を揺らしている。知覚=イメージ=像の探求は、武本自身を半ばイメージの側へと引きずりこむ。見ること、いること、感じること。観客もまたその分かちがたさを身をもって体感する。

[撮影:研壁秀俊]

公式サイト:http://scool.jp/event/20180505/

2018/05/05(山﨑健太)

Vaca35『大女優になるのに必要なのは偉大な台本と成功する意志だけ』

会期:2018/05/04~2018/05/06

レストラン・フランセ 3F[静岡県]

ビルの一室に入ると、太りすぎの女と痩せすぎの女が身じろぎもせず立っている。部屋は狭い。そう多くはない観客がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、演技空間はさらに狭い。観客がなんとか入りきると、二人の女がけたたましく喚きながら動き回り始める。

メキシコの劇団Vaca35による本作は、ふじのくに⇄せかい演劇祭2018のプログラムのひとつとして招聘された。作品の前半はおおよそジャン・ジュネ『女中たち』に基づき、二人による「奥様と女中ごっこ」が演じられる。「ごっこ」(あるいはタイトルから推察するならば女優になるための稽古と言うべきだろうか)が終わると二人は互いを褒め合うが、やがて罵り合いとなる。罵り合いながらも料理、洗濯、掃除や水浴びをこなす二人はときに互いへのいたわりを見せもする。すべてを終えた二人は寄り添って横になり、童話らしきものが語られて作品は終わる。

童話は二人に慰めを与えているように見える。王女たちの密かな楽しみを見抜いた王子が王女のひとりをもらいうけるという物語は、二人の稽古が報われて女優となることを暗示しているようでもある。だが、もらわれるのが「1番若くて美しいお姫様」だというのは皮肉に過ぎる。この童話が二人にとってどのような意味を持つのかを、私は知ることができない。

至近距離で暴れ回る肉体、流しから飛び散る水滴、洗濯板から立ち上る石鹸の、あるいは調理されるスクランブルエッグの匂いは、二人がそこに存在することを主張してあまりある。標準から外れた二人の体型も観客の目を引きつけ、言わば見世物のようにして存在している。しかし二人について観客が知れることはほとんどない。貧困層に置かれているのだろうということが推察できるくらいだ。観客は二人の生活の一部をまさに目の前にしながら、そこに立ち入ることは許されない。舞台なのだからそれは当然だ。だが、二人の強烈な存在感は、こちら側と向こう側との間にある壁をも強く感じさせた。

©Paula PRIETO

©Paula PRIETO

公式サイト(ふじのくに⇄せかい演劇祭):http://festival-shizuoka.jp/

2018/05/04(山﨑健太)

渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉

会期:2018/04/28~2018/06/17

熊本市現代美術館[熊本県]

〈映像演劇〉の鑑賞者は劇場に足を運ぶように美術館に足を運び、舞台上の俳優を見るように等身大の俳優の映像と対峙する。背景が欠落した映像は、それゆえどこか別の場所にいる俳優を映したものとしてではなく、俳優の分身を観賞者のいるその場所に存在させるものとして機能する。鑑賞者は厚みを持たない映像としての俳優の分身と、しかし確かに空間を共有することになる。この両義性が〈映像演劇〉の特徴のひとつだろう。

《第四の壁》はそのタイトルからして象徴的だ。「第四の壁」という言葉は大まかには演劇において舞台上と客席との間に存在すると仮定される壁を指す。観客はその壁を透かすかたちで舞台上で展開する物語を覗き見ているというわけだ。

《第四の壁》はアーチ状の枠の中に投影される映像演劇作品。男が登場すると、ここは門で、侵入者がやってくるのを阻止しようとする芝居をこれから上演するのだと言う。さらに二人の男が登場し三人は門を塞ぐかたちで土嚢を積み始める。無駄口やそれに対する叱責を挟みつつ、ところどころでこれがどのような芝居であるかが改めて説明されるが、あるときスタスタと女が登場すると、ハート型に切り抜かれた紙や風船でアーチを飾り付け始める。土嚢の作業と並行して進む飾り付け。やがてアーチの上部にはwelcomeの文字が──。

《第四の壁》
[撮影:宮井正樹/提供:熊本市現代美術館]

土嚢と風船は一見したところ拒絶と歓待の両極を示しているように思えるが、事態はそう単純ではない。向こう側とこちら側を隔てるはずの第四の壁は男の観客への呼びかけによってはじめから壊されており、一方で「そこ」が土嚢を積み上げるまでもなく壁であることは自明だ。観客だろうが侵入者だろうが、壁の中へと入っていくことはできない。にもかかわらず、そこは門だと宣言され、向こう側への一歩が可能性として示される。

作品ごとに形を変える問いを通して、観客は自らの立ち位置を測り続けることになる。その移動がやがて、境界のあり方を変えていく。


《働き者ではないっぽい3人のポートレート》
[撮影:宮井正樹/提供:熊本市現代美術館]

《The Fiction Over the Curtains》
[撮影:宮井正樹/提供:熊本市現代美術館]

《A Man on the Door》
[撮影:宮井正樹/提供:熊本市現代美術館]



公式サイト:https://www.camk.jp/exhibition/chelfitsch/

2018/05/01(山﨑健太)

artscapeレビュー /relation/e_00044056.json s 10146346

文字の大きさ