2023年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

寺田健人「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」

会期:2022/05/20~2022/06/05

BankART KAIKO[神奈川県]

家族とは、父親とは何か。写真作家・寺田健人による「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」は、寺田自身が「『普通』の『規範的』な家族を持つ父親を演じ、一人で」撮った家族写真を中心に構成されている。なるほど、あたかも誰かと手をつないでいるかのような立ち姿でシンデレラ城の前にひとり立つ寺田を写した《夢の国》と題された写真ではじまるこの展示において、寺田は確かに一見したところ「『普通』の『規範的』な」父親を演じているように見える。そこに「家族」の姿はないが、《夢の国》の隣に幼少の頃の寺田自身と家族を写したと思われる一連の写真が置かれていることもあり、鑑賞者は寺田ひとりを写した写真の空白部分に、まずは自然と「『普通』の『規範的』な家族」の姿を想像するだろう。そうして想像される家族像は寺田の演じる「『普通』の『規範的』な」父親像と互いを補完し合うものだ。しかし、その想像の妥当性は展示を観進めるうちに揺らいでいくことになる。


[撮影:寺田健人]


(間に絵画作品を挟んで)寺田自身の家族写真に続くのは《泡風呂、やんちゃな娘》《公園、娘》《ピクニック、妻、娘》の3枚。《泡風呂、やんちゃな娘》の隣に《父とあたしのバスタイム》と題された寺田と父の入浴を写したらしい写真が並んでいることもあり、「『普通』の『規範的』な家族」像はここでさらに補強される。だが、それらが展示された壁面の手前に置かれた映像作品《パパごと、ママごと、むすめごと》を見た後で再び《泡風呂、やんちゃな娘》に目を向けてみれば、そこに「父親」の枠内に収まりきらない何かが写ってしまっていることはほとんど明らかなように思える。

タイトルも秀逸な《パパごと、ママごと、むすめごと》。そこに映し出される寺田もまた、写真作品と同じように父親を演じているように最初は見える。だが、やがて寺田が口紅やマニキュアを塗っている場面が映し出され(しかもその周囲には女児向けの玩具らしきものが転がっていたりもする)、鑑賞者は自身の想像に修正を迫られる。寺田はタイトルの通り母親と娘も演じているのだろうか。しかし口紅を塗る寺田は男物のスーツを着てもいる。ならば父親や母親の真似をしている娘を演じているということか。などと考えてみるが、もちろん父親が口紅を塗ってもいいし母親が男物のスーツを着ていてもいい。女児向けとされている玩具で男児が遊んだっていいのである。多様に開かれているべきなのは映像の解釈ではなく、現実を生きる人間のあり方のはずなのだ。映像が映し出されているのがブラウン管テレビだというのも批評的だ。そこではリビングの中心に置かれステレオタイプの形成に大きく寄与してきたメディアを通してステレオタイプを揺さぶることが目論まれている。


[撮影:寺田健人]


さて、《パパごと、ママごと、むすめごと》から再び《泡風呂、やんちゃな娘》に目を向けると、そこに写っているのは泡だらけの浴槽に入り、飛沫を避けるようなポーズで目をつぶった寺田の裸体だ。その表情や頭に乗せた泡、浴槽の縁に置かれたアヒルのおもちゃはいささか、いや、かなり「あざとい」。一旦それに気づいてしまえば、タイトルにある「やんちゃな娘」は寺田自身のことのように思えてくる。そういえば、作品タイトルに含まれる一人称には「僕」と「あたし」で揺れがあるのだった。


[撮影:寺田健人]


その向かいの壁面に置かれた《パパのお祈り》《パパのプロレス》《パパはトランクス派》の3枚も奇妙な写真だ。いずれも顔が写っていない盗撮風の写真で《お祈り》は男が便器に座る姿を、《プロレス》はベッドの上で上半身裸の背中が何かにのしかかっているような姿を、《トランクス派》は脱衣所で下着姿でいるところを捉えている。顔がないのはそれらが父親から逸脱した瞬間だからだろうか。写真自体には「父親」を示す記号はどこにもない。どこかゲイ向けのポルノのような趣もある、と思ったら、これらの写真のフレームにはまるでこびりついた欲望のように無数の目玉のシールが貼り付けられていた。


[撮影:寺田健人]


その隣には展示タイトルにもなっている、ケーキを買って帰宅した父親を演じる寺田を写した《ただいま》シリーズの3枚(とその絵画版とでも言うべき《くまさんのただいま》)が並ぶ。だが、ここまで展示を見れば、そのステレオタイプな父親像がほとんど何も意味してはいないことが明らかだ。ケーキを掲げた寺田が笑顔を向ける先にいるのは妻と娘であるとは限らない。たとえそこに写っているのが実在の「規範的な父親」だったとて、家族が規範的であるとも限らないしその必要もない。むしろ、現実の「父親」が無批判に「規範的な父親」をなぞるならば、その家族は形骸化の危機にさらされているとさえ言えるだろう。そこにある批評的なまなざしはもちろん、家族かくあるべしという規範を個々人の生き方に押しつけようとする社会の制度にも向けられている。

今回の個展は「BankART Under 35 2022」の一環としてBankART KAIKOで6月5日(日)まで開催されている(熊谷卓哉の個展と同時開催)。


BankART Under35 2022:http://www.bankart1929.com/bank2022/pdf/u35_2022.pdf

2022/05/26(木)(山﨑健太)

ストレンジシード静岡2022

会期:2022/05/03~2022/05/05

駿府城公園、静岡市役所ほか[静岡県]

静岡市にある駿府城公園を中心に毎年ゴールデンウィークに開催されているストリートシアターフェスティバル「ストレンジシード静岡」(2020年のみ新型コロナウイルス感染症の影響でシルバーウィークに開催)。2016年にはじまり7年目を迎えたこの演劇祭は目の肥えた舞台芸術ファンの期待に応えつつ、同時により多くの人々に舞台芸術の門戸を開く優れた取り組みだ。

舞台芸術は鑑賞に至るまでのハードルが非常に高い。そもそもチケット代が高い(割に作品のクオリティは担保されていない)し、わざわざ劇場まで足を運ぶ労力もバカにならない。ようやく劇場に着いたと思ったら例えば2時間の上演時間のあいだ客席でじっとしていなければならず、つまらなくとも途中で席を立つことは躊躇われる(なにせ高いチケット代を払っていることだし)。最初に観た舞台作品がつまらなければ継続的に劇場に通おうという気にはならないだろう(繰り返しになるが、複数回のチャンスを与えるにはチケット代はあまりに高い)。これらの障害をクリアし、晴れて舞台芸術の観客となるためには、そもそも相当に恵まれた条件をあらかじめ備えている必要があるのだ。

ではストレンジシード静岡はどうか。チケット代は無料(投げ銭制)。市民の憩いの場となっている駿府城公園や大通りに面した市役所の大階段などが会場となっているため、公園をふらりと訪れた、あるいは街中を歩いていた市民がたまたま上演を目にする機会も多いはずだ。フェスティバルは3日間開催されているので、気になったら日を改めてじっくり訪れることもできる。上演時間は20分から45分ほど。感染症対策で鑑賞ゾーンこそ区切られているものの、上演の最中でも出入りはしやすく、鑑賞ゾーンの外から見える演目も多い。たまたま見かけて少しだけ足を止めるというかたちでも十分に鑑賞は可能だ。たいていは同時にいくつかの作品が上演されているので、これは自分には合わないなと思えばほかの作品に移動することもできる。今年の参加アーティストは19組(フェスティバルによってディレクションされた15組と公募で選ばれた4組)。演劇にダンス、サーカス、バンド、体験型など作品のジャンルも幅広く、自分の好きなジャンルをチェックすることはもちろん、普段は触れないジャンルに手を伸ばしてみることもしやすい。フェスティバルディレクターのウォーリー木下がホストを務め、参加アーティストらをゲストに招いたトークも複数回開催されていて、どういう人物が何を考えてイベントをつくっているのかを知る機会が用意されているのも大事なことだろう。公園内ではSHIZUOKA PICNIC GARDENというイベントも同時開催されていて、疲れたら休憩がてら屋台の食べ物を楽しむこともできる。五月初旬の気候も相まって、多くの人が気持ちよく舞台芸術を楽しめるイベントなのだ。

ここからは特に印象に残った作品を紹介したい。contact Gonzo『枝アンドピープル』(出演・スタッフ:contact Gonzo)はタイトルの通り参加者を枝でつないでいく体験型の作品。例えば私の左の手のひらと誰かの右肩の背中側で落下しないように枝を挟む、ということを繰り返していき、最終的にはその場にいる全員が枝でつながることになる。といっても一直線につながっていくわけではなく、ネットワーク状のつながりのなかでひとりが複数本の枝を担当することもしばしばだ。体のあちこちに枝が押しつけられ、身じろぎすればその揺れは枝を伝って全体へと伝播してしまう。枝を落とさないためにはつながった先の見知らぬ人ともコミュニケーションが必要だ。普段は使わない箇所の筋肉が疲れはじめ、30分が経つ頃には参加者に奇妙な一体感が生まれている。たまたま見て「何をやっているんだろう」と思った人が途中参加しやすいところも含めてストレンジシード静岡にぴったりの作品だった。


contact Gonzo『枝アンドピープル』


contact Gonzo『枝アンドピープル』


ままごと ソロ・ワークスによる演劇という名の展示『マイ・クローゼット・シアター』(創作・構成・空間演出:宮永琢生、創作:石倉来輝、衣装演出:瀧澤日以、空間設計:菅野信介)は展示されている衣装のなかから一着を選び、それを着てその持ち主として街を歩く作品。衣装を選ぶと目的地が記された地図とそこで読むための手紙が手渡されるが、指定された時間までに衣装を返却すればそのまま街中を歩き回ることもできる。私は81歳の老女のものであるとされるガウンのような衣装を選び、この日射しの下を歩き回るのは81歳にはきついだろうな、などと思いながらいくつかの演目を観て回った。普段の自分なら絶対に着ないであろう服で街を歩くのはそれだけでも楽しい。目的地として指定された小学校について手紙を開くと、意外なことにそれはいまは亡き老女から孫へと宛てられたものだった。老女を想像しながら街を歩いた私の時間が亡き祖母に思いを馳せる孫のそれと重なる。演劇的にも優れた一編だ。


ままごと ソロ・ワークス『マイ・クローゼット・シアター』


ままごと ソロ・ワークス『マイ・クローゼット・シアター』


夕暮れ社 弱男ユニット『トゥーウィメンオンザ土嚢』(脚本・演出:村上慎太郎、出演:稲森明日香・向井咲絵、スタッフ:小澤風馬)は発展途上国で土嚢袋を使って道路を修復するボランティアに従事する女性と、彼女の仕事からアイデアを得てアート作品をつくろうとするちょっと軽薄なアーティストの二人による関西弁の掛け合い。大量の土嚢袋が空中を飛び交うなかでいまここから遠く離れた世界の問題や二人のいる世界の違い、価値観の違いなどが浮かび上がる。ボランティアが扱う現実の土嚢の重さとアーティストの扱う想像上の土嚢の軽さ。最終的にアーティストの彼女は現地を訪れボランティアを体験し、現実の土嚢の重さを知る。だが、その土嚢に重さを与えているのが私たち観客の想像力であることは言うまでもない。初めて見た劇団だったが、宙を舞う無数の土嚢袋というキャッチーなビジュアルを入り口に観客の意識を社会的な問題へと接続する手つきが見事。


夕暮れ社 弱男ユニット『トゥーウィメンオンザ土嚢』


夕暮れ社 弱男ユニット『トゥーウィメンオンザ土嚢』


ほかにも子供向けの体裁を取りつつ直球の新作を見せてくれた範宙遊泳〈シリーズ おとなもこどもも〉『かぐや姫のつづき』や、市役所の建物をダイナミックに(?)使ったコトリ会議『そして誰もいなくなったから風と共に去りぬ』もよかった。この規模での開催はどこでもできることではないだろうが、ストレンジシード静岡は間違いなく、舞台芸術を社会とどのように接続するのかということについてひとつの際立ったモデルケースを示している。来年度以降の開催も楽しみに待ちたい。


範宙遊泳〈シリーズ おとなもこどもも〉『かぐや姫のつづき』


コトリ会議『そして誰もいなくなったから風と共に去りぬ』



ストレンジシード静岡2022:https://www.strangeseed.info/

2022/05/05(木・祝)(山﨑健太)

ロロ『ロマンティックコメディ』

会期:2022/04/15~2022/04/24

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

ロロ『ロマンティックコメディ』(脚本・演出:三浦直之)が5月29日(日)までの期間限定でアーカイブ配信されている(このレビューでは同作の結末に触れているので注意)。4月に上演されたばかりの本作はロロ/三浦の新境地を示す作品だ。

舞台は丘の上に建つ本屋ブレックファストブッククラブ。店主のヒカリ(森本華)とあさって(望月綾乃)はその店でかつて働いていたあさっての姉・詩歌が遺した小説の読書会を不定期に開いている。詩歌のオンラインゲーム仲間だったとなり(大場みなみ)、店の常連で詩歌とも親しかった遠足(篠崎大悟)と瞼(新名基浩)、ある事情で店を訪れる寧(大石将弘)と麦之介(亀島一徳)。彼女たちは小説の話を、詩歌の話を、そして関係があったりなかったりするさまざまな話をする。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


これまでのロロの本公演ではときに非現実的な設定も導入しつつ、舞台美術や衣装、俳優の言葉と身体によって跳躍するイメージが物語を紡いでいくタイプの作品が多かった。本作では舞台を書店のワンシチュエーションに限定し、劇中ではそれなりの時間が経過するものの基本的には淡々とした会話を通して物語は進行していく。テイストとしては本公演と並行して取り組んできた「いつ高」シリーズに近く、ロロとしての活動の幅の広さが本公演へと還元され、劇団としての成熟を見せたかたちだ。

一方、扱われているテーマは初期の作品から一貫してもいる。本作の中心にいるのは不在の詩歌であり彼女の遺した小説だが、詩歌との関係も小説との向き合い方も登場人物によってそれぞれ異なっており、詩歌や彼女の小説がひとつの像を結ぶことはない。初期の作品では主に男女間の片想いとして表現されていたこのような想像力は、本作ではより一般的な他者への思いへと拡張されている。


[撮影:伊原正美]


2021年10月に上演された前作『Every Body feat. フランケンシュタイン』でロロ/三浦は、タイトルの通りフランケンシュタイン博士と彼が生み出した怪物をモチーフに、他者の存在を自分勝手に解釈することの暴力性とその罪を描いてみせた。それは先行する作品を糧に、俳優の身体を媒介として演劇を創作すること(=怪物を創り出すこと)の暴力性と罪でもあっただろう。そう考えると、タイトルは演劇そのものを指すものとしても解釈できるだろう。フランケンシュタインは三浦自身だ。三浦は当日パンフレットに「死骸のような言葉しか書けなくなった」とさえ記していたのだった。

だが、それまでのロロのイメージを一新するダークファンタジーへの挑戦と創り手としての三浦の真摯な姿勢には感服しつつ、それでも私は『Every Body feat. フランケンシュタイン』という作品がこのタイミングで上演されたことにいまいち釈然としなかったのだ。なるほど、そこにはたしかに暴力と罪があるかもしれない。その自覚は重要だ。しかし、これまでのロロ/三浦の作品は、すでにその先を描いてはいなかっただろうか。創り手だけがそこにある思いを名指すことができると思うこともまた傲慢だ。それはいつだって受け手によって思い思いに受け取られ名づけられる。創り手であるよりも先にさまざまなカルチャーのよき受け手であった、そしていまもそうである三浦はそのことをよく知っているはずだ。


[撮影:伊原正美]


だから、『ロマンティックコメディ』の視点は受け手へと再び折り返している。小説の作者である詩歌は不在だが、読書会を通して生み出されたつぎはぎの詩歌像をヒカリやあさってが怪物と呼ぶことはないだろう。むしろ、そうして自分たちの知らなかった詩歌の一面を知ることで、ほかの人が詩歌の小説をどう読んでいたかを知ることで、彼女たちは詩歌とその小説に何度だって出会い直せるのだ。

物語の最後、偶然に店を訪れた白色(堀春菜)によって、詩歌が自身の小説をインターネット上の小説投稿サイトに投稿していたことが明らかになる。中学生の頃その読者だったという白色が店に置いてあった私家版の小説を買おうとすると、それまで求められるままに無償で詩歌の小説を譲っていたヒカリは、そのとき初めてその小説に値段をつけて売るのだった。おそらくその瞬間、ヒカリにとってはずっと詩歌の小説でしかなかったそれは独立した作品となり、同時に、ヒカリの知らない詩歌が存在していて、そのすべてを知ることが叶わないことが受け入れられたのだろう。それは少しだけ寂しく、しかしどこまでも前向きなことだ。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


7月の末には早くも次回作『ここは居心地がいいけど、もう行く』の上演が予定されている。同作は昨年完結した連作「いつ高」シリーズのキャラクターが再び登場する作品。高校演劇のフォーマットに則った60分以内の上演時間などいくつかの制約のなかでつくられてきた同シリーズだが、今回は制約を取り払ったフルサイズの新作になるという。スケールアップした「いつ高」ワールドとの再会を楽しみに待ちたい。


ロロ:http://loloweb.jp/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
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2022/04/24(日)(山﨑健太)

大道寺超実験倶楽部『Quando d'estate mi dimentico dell'inverno/夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』

会期:2022/04/09~2022/04/10

SCOOL[東京都]

大道寺梨乃による日記映画の第二弾『Quando d'estate mi dimentico dell'inverno/夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』(作・撮影・出演・編集:大道寺梨乃)が三鷹のSCOOLで上映された。快快の創立メンバーとして国内外でのほぼすべての作品に俳優として出演してきた大道寺は2014年からソロでのパフォーマンス活動を開始。2015年に北イタリアのチェゼーナに移住して以降は日本とイタリアを拠点に活動しており、本作が映し出すのも大道寺と夫のエウジェニオ(エウジー)、4歳の娘の朝と猫のポンズが過ごすコロナ禍のチェゼーナでの日々だ。



大道寺のソロパフォーマンスはもともと、私小説ならぬ私演劇的な色合いが強い。『ソーシャルストリップ』(2014初演)にせよ『これはすごいすごい秋』(2016)にせよ、大道寺自身の体験をベースにした語りの親密さと、そうして提示されるいくつものイメージが結びつくことでふいに生まれる魔法のような瞬間が魅力の作品だった。大道寺自身も「記憶を整理し並べていくことで」できていく『ソーシャルストリップ』を目で見ることのできないネックレスに喩えている。だから、日記映画という手法は、メディアこそ違えど、大道寺のソロパフォーマンスの延長線上にあるものとしてしっくりくるものだ。映画は大道寺の私的な時間を映し出し、並べられたイメージは互いに結びつくことで新たなイメージを生み出していく。




だが、2020年の3月にイタリアではじまったquarantena=隔離期間=ロックダウンからの1年を映した前作『La mia quarantena/わたしの隔離期間』を観た私がまず感じたのは息苦しさだった。大道寺は『わたしの隔離期間』の上映に際し、日記映画のスタートに「パフォーマンス作品を主に作っている自分がこの状況下でできる創作活動とはなんだろう?」「毎日少しずつ、娘と過ごしたり生活費のための仕事をしたりする合間に、生活の中で『こうありたい自分』も『こうなってしまう自分』も分け隔てなく受け入れることができるような、そんな創作活動とは?」という問いがあったことを記している。私が感じた息苦しさはもちろんコロナ禍に由来するものでもあるのだが、それと同じくらい、大道寺自身の感じていた閉塞感を反映したものでもあっただろう。母語である日本語を使う機会のほとんどない、日本の友人や観客からも遠く離れたイタリアで、夫や娘と過ごし、ラーメン屋で働く。『わたしの隔離期間』はまず第一に(たくさんのチャーミングな瞬間がありつつも)、そんな「パートタイムアーティスト」としての大道寺が、それでも何とか創作に取り組むことで自身の輪郭を保とうとする奮闘の記録としてあったように思う。

一方、続く1年に撮影された映像を中心とした素材で構成された新作『夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』は引き続き奮闘の記録としてありつつも、前作にはなかった世界の広がり、あるいはその予感を映し出していた。新型コロナウイルスをめぐる状況の変化や大道寺の映像スキルの向上など、いくつか理由はあるのだろう。いずれにせよたしかなのは、大道寺が撮り続けた日々そのものがその先の日々(それはつまり未来ということだ)を呼び込んだということだ。



映画の冒頭。コート姿で砂浜に立つ大道寺が腕を振るとカットが切り替わり、そこに映し出されているのは(おそらく)夏の海で遊ぶエウジーと朝の姿だ。マスク姿でドライブスルーのPCR検査を受ける大道寺とエウジーは楽しげなノーマスクのサングラス姿へ。ダウンジャケットで雪玉を持って駆けてきた朝はノースリーブの後ろ姿へ。タイトルをなぞるように繰り返される冬から夏へのジャンプ。忘れてしまった(ように思われる)過去の時間は、しかしたしかに現在につながっている。映画の最後には「約10年にわたって録音した」音に映像をつけた『火星にもっていく(ための地球の音のプレイリスト)』という作品も置かれている。現在はそうして未来へと送り出される。

もちろん、大道寺の孤独は今作でもそこここに顔を出している。だが、そもそも大道寺のソロパフォーマンスに私が親密さを感じたのも、彼女が自身の孤独をさらけ出していたからだった。孤独を受け入れ、孤独のままでいることでようやく可能になるつながりもあるのだ。

エンドクレジットの背後には、工場の敷地らしき広い場所で歌い踊る大道寺の姿が映し出されている。カメラから遠く、顔が判別できないほどに離れた彼女はぽつんと独りきりで、しかし活き活きとして見えた。切断された時空間を別のかたちに並べ変え、新たな宇宙を生み出すこと。『夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』のなかに、人が映画と呼ぶその魔法はたしかにあった。

本作は6月にチェゼーナ、9月に香港での上映が予定されている。





『Quando d'estate mi dimentico dell'inverno/夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』:https://estateinverno2022.tumblr.com/
『La mia quarantena/わたしの隔離期間』:https://lamiaquarantena202.wixsite.com/diaryfilm/

2022/04/09(土)(山﨑健太)

劇団印象-indian elephant-『藤田嗣治〜白い暗闇〜』

会期:2022/03/26~2022/04/10(アンコール配信)

小劇場B1[東京都]

劇団印象-indian elephant-『藤田嗣治〜白い暗闇〜』(作・演出:鈴木アツト)が「国家と芸術家」シリーズの一作として2021年10月から11月にかけて上演された。劇団のTwitterによれば「国家と芸術家」シリーズは「第二次世界大戦時に国家という枠組みに翻弄された芸術家に注目。国家や国民により彼らの“自由”が縛られる姿を描く」もの。二度の映像配信も行なわれ(筆者は二度目の配信で視聴)、同作の戯曲は「令和3年度希望の大地の戯曲賞『北海道戯曲賞』の最終候補にもノミネートされた。

画家・藤田嗣治(間瀬英正)を描いた本作は藤田の渡仏前夜の1913年から1945年に至るまでの全10場で構成されている。フランスでの苦労と成功、「乳白色の肌」の技法を発見したことによる独自の画風の確立、帰国、戦争画の依頼、再びの渡仏と帰国、そして敗戦と戦争画家としての責任の追及。こうして場面を並べてみると一見したところ藤田の評伝のようだが、それにしてはあまりに欠落が多い。例えば、藤田の5人の妻のうち舞台に登場するのは5人目の妻となった君代(山村茉梨乃)だけ。「国家と芸術家」というテーマに関連するところでは従軍画家として過ごした1年のことも描かれない。一方、パリでのエピソードは渡航直後に出会った娼婦・ナタリア(廣田明代)や弟分の画家・村中青次(泉正太郎)との関係を中心に創作を交えて膨らませられている。このような選択は、無名の画家が異国の地で名声を得る過程と、日本を代表する画家が戦争画を描くことで自国に居場所をなくす過程とを対比させるためのものだろう。絵画という芸術によって居場所を獲得した画家は同じ絵画によって居場所を失うことになる。



だが、この作品のユニークさはほかにある。そのひとつは、舞台上に突如として数人の日本兵が登場する二度の場面だ。一度目は藤田が初めて戦争画を描かないかと打診されたとき。二度目は敗戦後、戦争画を描いた責任を追及されるかもしれないこと、そして弟子の画学生・山田(片村仁彦)が戦死していたことを告げられたとき。登場する日本兵の姿はいずれも藤田が幻視したものとして解釈することはできるものの、リアリズムを基調とする本作においてこの場面は異彩を放っている。

もうひとつは村中という人物を設定したこと。パリ時代の藤田の弟分として登場した村中は、藤田の帰国後もことあるごとに現われ、藤田との対話によってその内面の葛藤を表わす役割を果たす。藤田自身が「俺の影」と呼ぶように、村中はつまるところもうひとりの藤田なのだが、ではなぜ単なる分身ではなく村中という人物が造形される必要があったのだろうか。




そもそも村中がもうひとりの藤田となったのは、パリでくすぶっていた村中が、藤田の名前を利用して娼婦と懇ろになるために、おかっぱ頭にロイド眼鏡という藤田の出で立ちを真似たことがきっかけだった。しかしその特徴的な外見もまた、藤田が「絵を売るための、絵になる顔」として思いつき、自ら作り上げたイメージでしかない。その意味で「俺自身は、実体がないんだ」という村中の自嘲の言葉はどこまでも正しい。

だが、もうひとりの藤田としての村中の登場は予兆に過ぎない。つくり上げられたイメージはやがて作者の手を離れ、その制作意図とも離れたところで流通しはじめるだろう。そうして独り歩きをはじめたイメージはもはや実体のない影などではなく、現実に影響を及ぼす「リアル」となっていく。そういえば、一度目の日本兵たちはカンバスを通って現われたが、二度目の出現にカンバスは必要とされていなかった。絵画を通して、演劇を通して「観客」の眼前にリアライズされたイメージは、そのときすでに現実となっている。

最後に登場する場面で村中は、戦争犯罪人にされないためには焼いてしまった方がいいと藤田の戦争画を焼こうとする。「人に言われて描いた絵なんて、本物じゃないだろう?」「兄貴の戦争画は偽物の絵だ。兄貴は偽物の画家だったんだ」という言葉に激昂した藤田は思わず村中を刺すが、村中は死なない。生み出されたイメージは殺すことができない。村中は言う。「お前の戦争画は大衆の自画像だ。見ると、自分たちが戦争に酔っていたことに気づかされる」。だから戦争画は燃やされなければならないのだと。一方で村中はこうも言う。「描くことで、人類に見せつけるんだ。噴き出す血と共に蠢く歴史を」と。村中は藤田の眼前に日本兵たちを呼び出してみせる。絵の中の兵士は永遠に生き、あるいは殺され続ける。煉獄のようなその光景は戦後と呼ばれる、そしていつか戦前と呼ばれるかもしれない時間に宙づりになっている。



「国家と芸術家」シリーズの次作『ジョージ・オーウェル 沈黙の声』は6月8日(水)から12日(日)まで下北沢・駅前劇場での上演が予定されている。


劇団印象-indian elephant-:http://www.inzou.com/

2022/04/04(月)(山﨑健太)

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