2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演『5×5×5本足の椅子』

会期:2020/11/22~2020/11/23

オンライン

篠田千明『5×5×5本足の椅子』は「ダンサーであるアンナ・ハルプリンの『5本足の椅子』(1962年)のダンススコアをもとに、篠田が2014年に制作/発表したパフォーマンス作品『5×5 Legged Stool』をオンラインで展開するもの」(YCAMホームページより)。5×5×……と5が累乗されていくタイトルからは、『5本足の椅子』を原典に、自らの創作が2次創作、3次創作としてあるのだという篠田の意識が読み取れる。興味深いのは、2次創作にあたる『5×5 Legged Stool』がオンサイト=3次元で上演されたのに対し、3次創作にあたる今作がオンライン=2次元の画面上で上演されている点だ。

『5×5 Legged Stool』はダンススコアをもとにはしているものの、もともと「戯曲ではないものから演劇を起こすシリーズ『四つの機劇』のひとつとして」上演された「演劇作品」であり、今作の冒頭でも篠田はこの取り組みが「演劇」としてあるという主旨の発言をしている。ここで「演劇」という言葉は広義での「戯曲」の「上演」、2次元に記録された情報の3次元への展開プロセスを指している。オンライン演劇は演劇か、という問いに答えるためにはまず演劇を定義する必要があるが、この定義に則るならば今作は紛うことなき演劇であると言えよう。

上演は篠田による導入に続き、実際にスコアからダンスを起こすプロセスへと進む。まずは福留麻里がスコアに記された5人のダンサーのうちひとりの動きを舞台上で「再現」。画面上には福留のダンス映像に加えて、ハルプリンのスコアとそれに対する福留の解釈を言語化した字幕が表示されているのだが、これは福留のダンスが「戯曲」の「上演」であることを改めて可視化し、観客と共有するためだろう。あらゆる戯曲がそうであるように、ハルプリンのスコアもまた「上演」のすべてを厳密に規定しているわけではなく、演出家や俳優・ダンサーの解釈が入り込むことで「上演」は立ち上がる。

画面上にはスコア、字幕、ダンス映像が並び、観客は結果としての上演(=ダンス)だけでなくスタート地点(=スコア)から結果に至る過程(=字幕)までをも同時に見渡すことになる。……というのはあくまで概念的な解釈に過ぎない。実際の上演において、観客がこれらの情報のすべてを同時に把握することはほとんど不可能だ。情報量が多すぎる。にもかかわらず、画面上の情報量はますます過剰になっていく。さらに2人のダンサー(ちびがっつ!とryohei)が「再現」に加わるからだ。しかも彼らは福留とは別の空間で踊っており、それぞれのダンス映像は画面上の異なる三つのウインドウに示されている。このとき、「上演」の場たる二次元の画面は、上演の構成要素がさまざまな記号として配置し記述されるダンススコアの平面とほとんど見分けがつかないものとなっている。

こうして、二次元のダンススコアは三次元の時空間へと展開し、再び二次元の画面上へと圧縮される。上演台本という言葉があることからもわかるように、戯曲と上演の関係は必ずしも一方通行なわけではない。広義での「二次創作」は新たな原典となり、さらなる二次創作の契機となる。

上演はさらに、ハルプリンの研究者やハルプリンのワークショップを体験したダンサーへのインタビュー映像を交えた、篠田によるレクチャー・パフォーマンスへと移行する。インタビューで語られる上演の様子は別ウインドウで「再現」映像としても流される。楽屋のモニターで舞台の様子を見ていた、という証言に合わせて映し出されるモニターを見上げるダンサーの後頭部。だが、その顔が映し出された瞬間、私は時空が歪んだような感覚を覚えることになる。そのダンサーが、先ほどまで別ウインドウでパフォーマンスを進行していた篠田その人だったからだ。

もちろんそれは、あらかじめ録画されていた映像に過ぎない。だが、あらかじめ録画されていたのはどちらの映像なのか。司会進行の篠田か、それともダンサーとしてパフォーマンスをする篠田か。私が現在だと思い込んでいたものは、篠田の分裂とともにずるりと画面の中に引き込まれる。過去と現在は画面上で等価なものとなり、「戯曲」と「上演」はメビウスの輪のように絡みあう。

最後のパートでは、観客がバーチャルな上演空間に集い、スコアの指示を自ら実践する。観客は「Hubs」というサービス上のVR空間に自らのアバターをつくり出し、ワームホールのような球体(時空の歪み!)を通ってバーチャルな舞台に上がる。スコアの指示を再解釈した、観客が実践すべきインストラクションは「写真を撮る」こと。撮られた「写真」は空間に浮かぶようなかたちですぐさまその場に表示される。二次元の画面上に仮構された三次元の空間は、こうして再び二次元へと圧縮されていく。画面=空間に並ぶ無数の写真。だがそれは決して空間を埋め尽くすことはない。二次元と三次元の往復運動が生み出す無限の余白。演劇はそこに広がっている。


篠田千明『5×5×5本足の椅子』トレーラー


公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2020/the-5-by-5-by-5-legged-stool/
篠田千明Twitter:https://twitter.com/shinchanfutene
広報用ビジュアルデザイン:植田正


関連レビュー

篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演『5×5×5本足の椅子』|高島慈:artscapeレビュー(2020年12月15日号)

2020/11/22(日)(山﨑健太)

小田尚稔の演劇『罪と愛』

会期:2020/11/19~2020/11/23

こまばアゴラ劇場[東京都]

ひとりの男がアパートの家賃を払えず大家に怒られている場面からはじまる小田尚稔の演劇『罪と愛』には、全部で4人の、同じような境遇にあるらしい男たちが登場する。パソコンに向かい演劇の脚本を書く男1(加賀田玲)。自由の女神像を燃やしてしまおうと目論む男3(藤家矢麻刀)。何か罪の意識を抱えているらしい男4(串尾一輝)。そして家賃を払えずアパートを追い出されそうになった挙句に大家を逆恨みする男2(細井じゅん)。彼らは舞台上に入れ替わり立ち替わり現われて自分の話をしては去っていく。それぞれ別の俳優によって演じられる男たちの話にはしかし、ところどころで微妙に重なる部分があり、何より彼らは舞台上に設えられたアパートの一室を「共有」しているため、観客には彼らが同一人物であるようにも見える。

男のひとりが演劇の脚本を書いていることを考えれば、いずれにせよ恵まれた状況にあるとは言えない男たちは、この作品の脚本・演出を務める小田尚稔自身の分身である、と言ってしまいたくもなるのだが、男たちが実は同一人物なのであれ、似てはいるが別々の人物なのであれ、なぜそのように描かれなければならなかったのか、という点に問題はある。

たとえば、男たちはあり得る別の可能性としての小田なのだ、と考えることはできる。だが、それにしては男たちの状況は絶望的なまでに似通っている。状況は停滞し、緩やかに悪化していきさえする。男2はついには大家を殺害し、男4は同居していた女に別れを告げられやはり殺してしまう。自由の女神像を燃やした男3は警官に囲まれた挙句に射殺される。あるいは、悲劇的な結末はすべて脚本のなかの出来事だろうか。男1はそれらの可能性を、悲劇的な未来を必死に呑み込むようにして机に向かい続ける。

[撮影:小田尚稔]

もちろん、小田は小田でしかなく、舞台上の4人の男たちは小田ではあり得ない。それでも、彼らは同一人物なのかもしれないと観客は想像するだろう。これまでの作品でも小田は複数の登場人物のあいだにいくつかの共通点を設定することで同一人物である可能性を示唆し、「別人」への想像力の回路を駆動する手法を用いてきた。今作では私小説的な設定を導入し、作者である小田自身の姿をもそこに重ねることで、観客の想像を現実にも向けさせている。

小田の作品ではしばしば、その作品に影響を与えた哲学書や小説などの一部が登場人物によって読み上げられる。今作でもドストエフスキー『罪と罰』やシェイクスピア『リチャードⅡ世』などが読み上げられるのだが、参考文献のなかには市橋達也『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』と中島岳志『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』という二冊の書籍も含まれている。登場する男たちの何人かが犯罪者として描かれていることを考えれば、その意図するところは明らかだろう。劇中で直接言及されるわけではないが、参考文献として挙げられた書名を通して観客は二人の名前に触れることになる。どこまでいっても「別人」でしかない彼らの、それでも「隣人」として想像の回路をつなごうとすること。

あるいはそれは、同一人物のなかにもさまざまな面があることにも通じているかもしれない。尋常でない剣幕で男2に家賃の支払いを迫る大家と、男1の東京での暮らしを心配する母。男に対して対照的な態度を取る二人の女性はしかし、どちらも新田佑梨というひとりの俳優によって演じられている。男(たち)に対する彼女の態度の落差に観客である私は居心地の悪い思いをするが、しかしそのような二面性はごくありふれたものだろう。

[撮影:小田尚稔]

「愛している証のようなものが欲しかった」と語る男(たち)の示す情もまた、酷薄さとほとんど表裏一体のように見える。男の部屋には蜘蛛が棲みついている。男は「彼女」をうっかり殺してしまわないように気をつけながら生活しており、どうやら同居人としてそれなりの愛情さえ感じているようだ。だが、渡邊まな実によって演じられるその「蜘蛛」は、男と同居し、やがて殺されることになる女の姿と重なっていく。蜘蛛に愛情を注ぐ優しさは反転し、女の存在に虫けらと同等の重みしか見出さない酷薄さとなる。

男3と一時の交流を持つ女(宮本彩花)も含め、『罪と愛』に登場する女たちは一貫して、男(たち)の物語を成立させるためのキャラクターとしてのみ描かれている。そこにある断絶、そこから生まれる息苦しさは現在の日本社会を覆うそれと同質であり、「別人」への想像の回路は、だからこそ切実に要請されている。

[撮影:小田尚稔]

今作は、これまでギャラリー的な空間で公演を行なってきた小田尚稔の演劇の劇場進出作品でもある。俳優の語りと同等の存在感で舞台上に存在し世界を生成する土屋光の音響や鼠役として出演する冷牟田敬のギターは、ともすれば鬱屈し閉塞してしまいかねない劇世界にユーモアとフィクションならではのイメージの飛躍をもたらし、小田作品の可能性を広げていた。小田の劇場への「挑戦」は大きな成果として結実したと言えるだろう。

小田尚稔の演劇の次回公演は3月。毎年3月11日の前後に再演し続けている『是でいいのだ』の再びの再演となる。

[撮影:小田尚稔]

[撮影:小田尚稔]


公式サイト:http://odanaotoshi.blogspot.com/


関連レビュー

小田尚稔の演劇『是でいいのだ』/小田尚稔「是でいいのだ」|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年04月15日号)

2020/11/19(木)(山﨑健太)

円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』

会期:2020/10/23~2020/11/2

オンライン上映

『ウォーターフォールを追いかけて』は「同名の戯曲に取り組みながら分断の時代におけるドラマの意義の再発見を目指す、1年間のプロジェクト」。円盤に乗る派は2018年の活動開始以来、上演と併せてシンポジウムや雑誌の発行などを行ない、その総体を公演として人の集う場所をつくり出してきた。今回もオンライン上演と合わせて読書会、上映会、シンポジウムが実施され、オンラインにおいても一貫して人が集う場を問い続ける姿勢が見える。

『ウォーターフォールを追いかけて』のオンライン上演にはいくつかのユニークな特徴がある。まず第一に「上演」がオンラインで収集された無数の声によって構成されていること。『ウォーターフォールを追いかけて』の特設サイトには上演に先がけて、誰でも参加できる「録音」のコーナーが設けられた。「録音に参加する」をクリックすると画面には戯曲の断片が表示され、参加者は「誰もいない室内で、壁の向こうにいるかもしれない誰かに聞かれないように注意しながら」録音に臨むことになる。収集された声は脚本・演出を担当するカゲヤマ気象台によって編集され、江口智之の映像とAOTQの音楽と合わせて「上演」を構成する。

そもそも、『ウォーターフォールを追いかけて』という戯曲はその成り立ちからして複数の声を孕んでいる。この戯曲は早稲田小劇場どらま館で早稲田大学の学生を対象に実施された「ドラマゼミ」の最終成果物である「部品(パーツ)」を原案(ドラマゼミメンバー:カゲヤマ気象台、片山さなみ、中西空立、マツモトタクロウ)として執筆されたものなのだ。

さらに、開演はいずれも23時に設定され、上演時間は50分程度。観客は一日の終わりを『ウォータフォールを追いかけて』過ごす。作品自体はあらかじめ編集され完成されたものだが、配信はその都度リアルタイムで行なわれていたようだ。回線が不安定なのかときおり画面が止まったり音声が途切れたりもする。画面上部にはリアルタイムの視聴人数が表示され、同じ時間、違う場所で同じ声に耳を傾けるほかの人々の存在を微かに伝える。それはラジオとリスナーの関係に似ている。だが、同じ時間に届けられるそれらの声は、夜空に瞬く星の光のように、それぞれに異なる時間、異なる場所で密やかに発せられたものだ。

私も録音に参加したのだが、録音から上演までに1カ月以上の時間が経過していたため、自分がどのような言葉を発したかはすっかり忘れてしまっていた。他人の言葉を発する自分の声は半ば他人のもののようでもあり、上演を聞けば確かにそのような言葉を発した記憶もあるそれは、しかし私の知らない文脈のなかで発せられていた。他人の言葉が私の言葉となり、そして再び見知らぬ言葉となり広がっていく。

今回の『ウォーターフォールを追いかけて』のオンライン上演では、密やかに発せられた言葉が密やかに聴取され、同時にゆるやかな場を形成していた。そのようなあり方自体、プロジェクトのひとつの成果であり目指したところではあるだろう。では、上演が立ち上げたものはなんだったのだろうか。

戯曲に登場する7人の人物は100以上の声によって演じられるため、聞こえてくる声だけを頼りに観客が一貫した人物像を構築することは難しい。画面には台詞とそれを発する人物の名前も字幕として表示されるものの、そうして示される一貫性を裏切るようにして声は次々と移り変わっていく。室内を漂うような映像(それは物語を表象するものではない)と音楽も相まって、主体はむしろ空間へと溶け出していくかのようですらある。今回のオンライン上演を通じて観客が戯曲で描かれた物語の全体像を把握することは困難だったのではないだろうか。おそらくそれでよいのだ。物語の全体像はわからずとも、観客のうちに言葉の断片は残るだろう。観客は戯曲のデータにアクセスすることだってできる。それに、プロジェクトはまだはじまったばかりだ。

創造主と名づけられた人物の長い長い台詞からはじまる物語に登場する人々にはどこか「間違った」世界にいるような感触がある。最後に発せられる言葉は「この世界」を生きる私にとっても切実だが、ここにはそれは記さない。プロジェクトのなかで再び戯曲の言葉と出会うとき、また改めて考えることにしたい。


公式サイト:https://noruha.net/

2020/11/02(月)(山﨑健太)

ファビアン・プリオヴィル・ダンス・カンパニー『Rendez-Vous Otsuka South & North』

会期:2020/10/17~2020/11/12

星野リゾート OMO5東京大塚 4階 OMOベース/トランパル大塚[東京都]

『Rendez-Vous Otsuka South & North』(コンセプト・振付:ファビアン・プリオヴィル)はVRセットを使って鑑賞するダンス作品。これまでに五つのフェスティバルに招聘され、その土地ごとに異なるバージョンの『Rendez-Vous』が制作されてきた。今回はフェスティバル/トーキョー20のプログラムとして大塚駅の南口と北口を舞台に二つのバージョンが発表された。

北口バージョンの会場は星野リゾート OMO5東京大塚 4階 OMOベース。大塚駅徒歩1分の立地にあるホテルのフロントに併設されたカフェの一角で観客は作品を鑑賞する。VRセットを装着し映像がはじまると、そこに映し出されるのは先ほどまで私がいたカフェ。だが、そこで本を読み、あるいは談笑していたほかの客の姿は消え、窓の外の夕空も青空へと変わっている。誰もいない世界。それを眺める私自身の身体も見えない。気づけば白い衣装に身を包んだ4人のダンサー(近藤みどり、田中朝子、中川賢、吉﨑裕哉)が踊りはじめている——。

5分ほどのVR体験は白昼夢のようだった。現実とほとんど同じ、しかし明らかに現実ではない世界。映像が終わりVRセットを外すと窓の外は再び夕空。ほかの客も変わらず本を読み、会話を続けている。確かな現実への帰還。だが、本当に?

VRセットを介してパラレルワールドにダイブするような体験はたしかに面白かったが、北口バージョンのみを体験した時点ではやや物足りなさも感じた。カフェのテーブルや椅子を利用したダンスは日常的な空間に非日常感を持ち込む効果を上げてはいたものの、作品の主眼はダンスを見せることよりもむしろパラレルワールドを体験することに置かれているように思えたからだ。実際、当日パンフレットによれば、最初のアイディアは「大勢の人が行きかう賑やかな場所にVRブースを設置し、観客にヘッドセットを付けてもらって、そこが完全に無人になった状態を見せ」るというものだったらしい。この作品に果たしてダンスは必要か。だが、南口バージョンではダンスの存在が大きな効果を上げていた。

南口バージョンの会場はトランパル大塚。JR大塚駅と都電荒川線の線路に挟まれるようにしてある広場で、点在する植木を囲うようにベンチが設置されている。私が訪れた日曜の午後には多くの人のくつろぎの場となっていた。

北口バージョンと同じくVRセットを装着し「パラレルワールド」へと入っていく、のだが、南口バージョンほどのパラレルワールド感がないのは、そこにも駅前を行き来し、あるいは広場でくつろぐ人々の姿があるからだ。私が鑑賞した時刻やそのときの天候が映像内のそれと大きくは違っていなかったということもある。公共の場で踊るダンサーたちにチラリと目をやる通行人がいる一方、広場のベンチにはすぐ近くで踊っている人間にほとんど関心を示さないままに多くの老人が座っている。そういう周りの「感じ」も屋外でパフォーマンスが行なわれる際にはよくあるものだ。音楽によって環境音が聴覚から遮断されているという点以外は生で屋外パフォーマンスを鑑賞するのとさほど変わりがない印象を受けた。

だが、そろそろ作品も終わりだろうかという頃、何人かの老人がベンチから立ち上がり、あろうことかダンサーたちが踊っているあたりに近づきはじめる。ハプニングか(映像なのに?)とも思ったが、ベンチの老人たちはぞくぞくと立ち上がり、整然と並ぶとなんとラジオ体操をはじめたのだった。その隙間でなおも踊り続けるダンサーたち。もともと流れていた音楽に被さるようにラジオ体操の音楽が流れ、広場いっぱいに並んだ老人たちがラジオ体操をしている様子を映したまま映像はフェイドアウトしていった。

観賞後に改めて読んだ当日パンフレットによれば、老人たちは毎朝そこでラジオ体操をしていて、約20年前から広場の手入れもしているグループらしい。ダンスという非日常の時間に侵入してくる「現実」としてのラジオ体操。ロボットのようにギクシャクとベンチから立ち上がり、おもむろにラジオ体操をはじめる老人たち。ダンス作品を鑑賞しているつもりでいた私にとって、ベンチに座る老人たちの姿は背景に過ぎなかった。だからこそ、突然の老人たちの介入は私にとって非現実的な、秩序を逸脱するもののように感じられた。それこそがトランパル大塚の「現実」であるにもかかわらず。

現実には、都市には無数のレイヤーがあり、私はその一部を生きているに過ぎない。観光客向けの洒落たホテルと地元の人々の生活に根付いた広場とでは、そこから見える景色は大きく違っている。特定の場所に足を運び、しかしVRで鑑賞するという一見したところ捻れた形式が持つ意味はここにある。VRセットが映し出すのはその場にはない風景だが、その場にあっても私には見えていない風景があるのだ。


公式サイト:https://www.festival-tokyo.jp/20/program/fabien-prioville.html
星野リゾート OMO5東京大塚:https://www.hoshinoresorts.com/resortsandhotels/omobeb/omo/5tokyootsuka.html

2020/11/01(日)(山﨑健太)

犬飼勝哉『給付金』

会期:2020/10/24

SCOOL/オンライン配信

犬飼勝哉の短編演劇『給付金』がSCOOL Live Streaming Seriesとしてライブ配信された。2019年9月に三鷹市芸術文化センター 星のホールで「MITAKA “Next” Selection 20th」参加作品として上演された『ノーマル』以来およそ1年ぶりとなる犬飼の新作はそのタイトルの通り給付金をめぐるやりとりからはじまる。

自転車、コート、旅行、猫、ルンバ。給付される十万円を何に使おうかと盛り上がるカナ(石渡愛)とユウト(矢野昌幸)。いかにも2020年の日本を反映した会話だが、それが「でもなんでカナたちってさ、十万もらえるんだろうね」「さあ。わかんない。政治家が決めたことでしょ」と着地するあたりから雲行きが怪しくなってくる。続く場面の「まずね、ニッポンって国があるのね」「あ、それ国の名前だったんだ」というユウトが見た夢に関するやりとりから判断するに、どうやらそこは「ニッポン」ではないらしい。

木星のおおよその大きさ』(2018)、『ノーマル』(2019)と近年の犬飼は演劇を使って「普通」を相対化することを試みている。『木星のおおよその大きさ』には「観察者」たる宇宙人(?)が登場し地球人の生態を揶揄してみせ、『ノーマル』では無数の「普通」をめぐる会話が交わされた挙句に登場人物が観客席を見ながら「まあでもこれは架空の世界だからね」「現実世界ではそうは言ってらんないんじゃないの」と言って芝居が終わっていく。いずれも演劇という枠組みを通して自らの現実とは異なる「現実」を眺める観客の立場を強く意識させる趣向だ。複数のカメラによるライブ配信(とそのアーカイブ)という『給付金』の形式もまた(もしかしたらライブ配信であるにもかかわらず昼夜二公演分のアーカイブが残されていることも含めて)、「別の視点」=「別の現実」の存在を露わにする。

給付金で何を買おうかと夢が膨らむ二人だが、ユウトはカナに「電車のなかとかでさ、十万の話するのやめようよ」「俺らはさ、たまたまもらえる人だからいいけどさ、もらえない人が隣に立ってたり前に座ってたりして、十万の話聞いたら嫌な気分になるでしょ」と言う。やはりニッポンの話ではなかったのだと一瞬思いかけるが、給付金をもらえない人はもちろんニッポンにもいる。「こういう時にもらえない人の気持ちを考えないこと」が「幸せになるコツ」なのだから「他の人のことなんて考えなくていいんだよ」というカナの言葉も他人事ではない。「別の現実」を見ないことによって成立する「幸せ」はいまのニッポンを覆っている。

しかし結局、カナは他人のために自らの分の給付金を手放すことになる。カナとユウトは帰り道で夜空を横切る発光体を目撃し、その正体を探るべく向かった落下地点でユウトは異世界人(?)に憑依されてしまう。ユウトの口を借りて語る異世界人(?)曰く、カナたちに給付された十万は、本来は異世界人(?)の世界に振り込まれるもので、それが手違いでこちら側の世界に給付されてしまったため、彼らの世界は危機に瀕しているらしい。「あなたがたの十万を、私たちに譲っていただけないでしょうか」という異世界人(?)の申し出に最初は半信半疑のカナだったが、最終的に「いろいろ大変な世の中ですけど、私たちの十万で、なんとかその危機を乗り越えてください」と自らのキャッシュカードを差し出すのであった。

「他の人のことなんて考えなくていい」と言っていたカナが「別の現実」を認識しそこに手を差し伸べたように見えるこの結末が、しかしどこかしら不気味にも感じられるのは、異世界人(?)の荒唐無稽な話をカナがあまりにもあっさりと信じてしまうからだろう。その姿は陰謀論やフェイクニュースに踊らされる人々の姿を思わせる。あるいは、異世界人(?)がユウトの姿を借りていたからこそ、彼の話をカナは信じたのかもしれない。だとしたら、結局のところカナに見えているのはユウトとの二人の世界でしかない。給付金を独り占めするためにユウトがひと芝居打ったのだという可能性にも思い至らないカナの無邪気さ、そしてそれと表裏一体の残酷さは、現在の日本にとって「別の現実」と呼べるだろうか。


SCOOL Live Streaming Series 犬飼勝哉 短編演劇『給付金』2020年10月24日 15:00〜の回


公式サイト:https://inukai-katsuya.com/
犬飼勝哉『給付金』:http://scool.jp/event/20201024/


関連レビュー

犬飼勝哉『木星のおおよその大きさ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2020/10/24(土)(山﨑健太)

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