2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

映画美学校アクターズ・コース『シティキラー』

会期:2020/03/05~2020/03/10(公演中止)

アトリエ春風舎[東京都]

『シティキラー』(作・演出:本橋龍)は映画美学校アクターズ・コース2019年度公演として2020年3月5日から10日にかけて上演される、はずだった。私は上演されなかったこの作品の関係者として、「無観客」で行なわれたゲネプロの現場に立ち会った。

会場入口の螺旋階段を下りると、多くの人が集まった空間が映し出された古いテレビが受付に続くドアの上方に据えられている。それは劇場の内部、舞台と客席の様子を中継した映像なのだが、そのことに気づいたのは会場に入ってからだった。ドア付近からは劇場の内部は見渡せず、ゲストハウス風に設えられたアトリエ春風舎の様子も普段とはまったく違っていたので、それが劇場内部を映したものだとは気がつかなかったのだ。だから、それが中継ではなく録画だったとしても私にはわからない。私は私のいる「今ここ」からしかものごとを見ることができない。

舞台は東京から離れたどこかのゲストハウス。ヤマミ(近藤強)が脱サラして始めたそこヤマミ荘には若者を中心にさまざまな人が集い、長期滞在する者や繰り返し訪れる者、はては移住してきた者までいる。ライブや演劇もできるスペースを備えるそこは地元の人々の交流の場にもなっているようだ。

©︎かまたきえ

「シティキラー」というのはもし地球に落ちればひとつの都市を破壊してしまうほどの大きさの隕石のことで、2019年7月頃に地球はそのシティキラーとすれ違っていた、と上演版映像の冒頭で本橋は説明する。同じような説明は劇中でもなされ、「私たちはそのことを知らなかった」と語られる一方で「遠い向こうの島」に流れ星が落ちるのが目撃される場面もある。ヤマミ荘の近くにあるクレーターは比較的最近(およそ300年前)の隕石によってできたらしい。

私がいる「今ここ」とは別の、私がいない、ことによると人間さえいない「今ここ」がある、あった、あるだろうということ。隕石や万年雪の存在が示すその事実。テーブルの上では上演が始まる前からずっと、惑星をかたどったオブジェが運動を続けていた。冒頭でヤマミ荘にやってくるコイシ(綾音)と入れ違うようにネムリ(井上みなみ)は東京に戻るが、それでもヤマミ荘の時間は続き、東京に戻ったネムリの時間も続く。彼女は東京に戻ることを冗談めかして「死ぬ」というが、もちろん彼女が死んだあとも、『シティキラー』が終わったあとも時間は続く。

©︎かまたきえ

2時間の舞台作品を15分×8回の連続ドラマへと構成し直した『シティキラーの環』(編集:和久井幸一、以下『環』)には『シティキラー』本編の映像だけでなくそのオフショット、美学校で学び公演に向けて準備を進める俳優たちの姿を捉えたドキュメンタリーパートが挿入されている。映画美学校のある渋谷のスクランブル交差点にネムリの格好で立つ井上は、果たしてどちらとしてそこに立っているのだろうか。街頭ビジョンには「新型コロナウイルス」の文字が見える。

本橋はしばしば、異なるはずの二つの時空間をひとつの同じ時空間に重ね合わせて観客に提示する手法を用いる。演劇の制約を逆手に取り、「ひとつの世界で、それぞれに異なるモノを見て生きている」人間の姿を浮き彫りにする巧みな演出だ。一方で映画は、ばらばらの時空間で撮影された素材を巧みに組み合わせることで一貫したひとつの世界をつくり出す。ところが、『環』ではむしろ、それが完結したひとつの物語世界などではないことが積極的に示されている。画面にはしばしば、画面の外の客席に座る本橋や、撮影しているカメラマンの姿までもが映り込んでいるのだ。

つまり、『環』は全体が『シティキラー』上演の(あるいは映像制作の)ドキュメンタリーとしてつくられているということだろうか。だが、カメラマンなど「余計なもの」が映り込んでいないショットも同じくらいあるのだから話は一筋縄ではいかない。切り返した先にいるはずのカメラマンがいない場面もあり、それはつまり、その部分はカメラマンが映っていない別撮りのカットにわざわざ差し替えられているということだ。

©︎かまたきえ

演劇における本橋の手法は裏返しで映像へと適用されている。例えば第2環でマコト(中島晃紀)がモリコ(宇都有里紗)に告白する場面。二人の背中越しに夜景を思わせる幻想的な光が見えるのだが、カットが切り替わると二人は座卓の上に立っていて、その周囲にはヤマミ荘の仲間たちが座り込んでいる。ひとつの世界に見えるものは、バラバラの視点を持つ者が集まることで紡がれていく。

鳥によって結ばれる二つのエピソードが印象的だ。森(?)で鳥に遭遇したオヤカタ(廣田彩)は「ここってどこですかね」と問いかける。その先にいるのはしかし、ウズベキスタンからヤマミ荘にやってきたシトラ(淺村カミーラ)の姿だ。彼女は何か言葉を返すが、それは日本語でも英語でもなく(ロシア語らしい)、オヤカタは「鳥語だからわかんねえ」とぼやく。

続く場面ではヤマミ荘で飼育されている鶏がシメられる。ワルというその鶏の名前は、ほかの鶏をいじめることから付けられたものらしい。母親(山田薫)と共に移住してきてヤマミ荘の近くに住んでいるアサト(秋村和希)は初めて鶏をシメる。その夜、実は中学のときにいじめられていたのだと彼は母親に告げる。鳥との遭遇から鳥をシメるまでの一連の流れはその後、夢のなかでの出来事のようにかたちを変えてもう一度繰り返される。だが、そこで吊るされシメられるのはワルではなく「誰か2」(百瀬葉)と呼ばれる存在だ。『環』にはその瞬間を彼女の視点から見た、首すじをカッターナイフで切りつけるアサトの姿を正面から捉えた映像も差し込まれている。

オヤカタと鳥=シトラの、ワルとアサトの、あるいは私と誰かの世界は違っている。それでもネムリの言葉を借りれば「いろんな者たちがすれ違って、すれ違って、すれ違って、かろうじてこうしてある」。学校は、劇場は、そのことを学ぶ場所だ。この作品は、映画美学校アクターズ・コースという俳優養成講座の修了公演として上演が予定されていた。

©︎かまたきえ


映画美学校:http://eigabigakkou.com/
『シティキラー』上演版映像:https://youtu.be/_aHAiDaLFBI
『シティキラーの環』第1環:https://youtu.be/eNWh038oOoU


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2020/03/04(水)(山﨑健太)

キュンチョメ『いちばんやわらかい場所』

会期:2020/03/01~2020/03/02

ゆりかもめ台場駅周辺[東京都]

「参加者のみなさまには、子供の頃いちばん大切にしていたぬいぐるみをお持ちいただきます。もし探してもみつからない場合、もう捨ててしまっている場合は、今たいせつにしているぬいぐるみがあればそれをお持ちください。なにもない場合、自分が子供のころに一番大切にしていた『やわらかいもの』に関する記憶を思い出しながら、会場にお越しください」。

シアターコモンズ'20で開催されたキュンチョメによるワークショップ『いちばんやわらかい場所』の参加者に事前に送られてきたメールにはこう記されていた。

ゆりかもめ台場駅前に集合した20名ほどの参加者は二人一組となり、互いのぬいぐるみを紹介し合いながら歩くよう促される。私が子供の頃に大切にしていたネコのぬいぐるみは探しても見つからず、代わりにかつて高校の同級生からオーストラリア土産としてもらったコアラのぬいぐるみを持参した。私はほかにもうひとつしかぬいぐるみと呼べるものを持っておらず、ごく最近手元に来たそれはこのワークショップの趣旨に合っているとは思えなかった。一時期クレーンゲームにハマっていたこともあり、部屋にそれなりの量のぬいぐるみがあったこともあるのだが、それらはいまはない。記憶にないがおそらく捨ててしまったのだろう。

というようなことを話しながらしばらく歩いたところでペアをシャッフル。次の会話テーマはそのぬいぐるみを発見した(と出会った?)ときのこと。しばらくするともう一度シャッフルがあり、最後のテーマは「あなたを縛るもの」だ。私はコロナウイルスや花粉、金(のなさ)といったことをとりとめもなくしゃべった。

15分ほど歩いた先の会場にはウサギ、トラ、パンダ、ゾウ、カッパ、ライオン、リスなどの着ぐるみが用意されていた。参加者は今度はそれを着たうえで持参したぬいぐるみを持ってお台場の街を歩くのだという。初めて着た着ぐるみのなかは想像以上に暑く、私が選んだライオンは口のメッシュから外を覗くタイプだったので視界は極端に狭かった。心細くよろよろと歩き出すが、20人弱の着ぐるみ集団が小雨降るお台場の街に繰り出すさまは、一人ひとりはファンシーでも全体としては異様な迫力がある。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

雨の平日、しかも昼間ということで人出はさほど多くはないものの、商業施設の集まるそのエリアにはそれなりに人がいる。着ぐるみを着た私に手を振る子供に手を振り返し、そうでなくともガラス越しに着ぐるみの集団を発見して驚く人々には自ら手を振ってみたくもなる。外国人観光客と思しき人々と記念撮影もした。

広場で集合写真を撮ると20分の自由時間だと言われ、私はショッピングモールの中に入ってみる。ギョッとする人。手を振ってくる人。話しかけてくる人。視界が狭いのでいまいちどこを歩いているのかわからない。気づけばシネマコンプレックスの入り口らしきところで、危うく係員に追いかけられそうになる。再び外に出るとリスとパンダが音楽をかけて踊っており、私はそこに合流する。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

着ぐるみは相当に無敵である。常ならざる大胆な行動ができてしまう。子供にも人気だ。小雨も気にならない。しかしそれらの行動は私の意思によるものだっただろうか。着ぐるみならば手を振るべしと思っていたところは確実にある。外見が私の行動を、他者の反応を規定する。子供も外国人観光客も係員も、着ぐるみの内側の36歳男性を見てはいない。無敵は孤独とセットなのだ。「やわらかい場所」は守られていて、守られているから「やわらかい」。

時間が来て着ぐるみを脱いだ私たちは改めて「集合写真」を撮る。それは参加者が持参したぬいぐるみたちだけが並ぶ集合写真だ。ワークショップはここで終わる。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

後日、ワークショップの様子を記録した写真が送られてきた。だがそこに記録されていたのはワークショップの後半、つまり着ぐるみを着てからの参加者の姿だけだった。そこに写っているのが「私」であることを保証するのは私自身の記憶と、ライオンが手に持つコアラのぬいぐるみだけである。私のアイデンティティはコアラのぬいぐるみとして示される。昔の写真を見ても当時のことが思い出せないというのはよくあることだ。記録は残っても記憶は薄れていく。友人に確認すれば、コアラのぬいぐるみは高校ではなく中学のときの土産だったらしい。過去と現在の私をつなぐ曖昧な記憶。その頼りないよすがとしてのぬいぐるみも既製品に過ぎず、写真に写るそれが本当に私のものであるという保証はない。コアラのぬいぐるみの記憶もほかの多くのぬいぐるみの記憶と同じように忘れられるかもしれない。そのとき、写真に写る「私」は私でなくなるだろうか。「いちばんやわらかい場所」は目には見えない。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]


シアターコモンズ'20:https://theatercommons.tokyo/program/kyun-chome/
キュンチョメ:https://www.kyunchome.com/

2020/03/02(月)(山﨑健太)

地点『罪と罰』

会期:2020/02/29~2020/03/01

神奈川県立青少年センター 紅葉坂ホール[神奈川県]

「あ」。驚愕、感嘆、絶望、嘆息、あるいは啓示。「知ってます」。傲慢、反感、糾弾、諦念、あるいは全知。繰り返される言葉はそのたびに響きを変える。それらはいったい誰の言葉、誰の感情か。一義的にはもちろん『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフ(小林洋平)のそれだろう。彼の心、信念の揺れが同じ言葉に異なる意味を持たせ、その移ろいこそがドラマとなる。だが、そもそもこれらの言葉が舞台上で初めて発せられる瞬間、それは開幕直後のことなのだが、このとき観客の多くはそれをラスコーリニコフの言葉としては受け取らないだろう。舞台上を行き交う多くの人。散発的に発せられる言葉から登場人物を特定することは難しい。自らを「選民」であると考え金持ちの老婆を殺すラスコーリニコフは匿名の群集に埋もれている。いや、群集に埋もれているからこそ彼は自らが「選民」であることを証立てるようにしてその手を血に染めるのだ。

[撮影:松見拓也]

杉山至の舞台美術もまたラスコーリニコフの心理を鮮烈に視覚化する。高さのある広い舞台の前面に迫るように設えられた壁面にはいくつかの開口部とそれらをつなぐ階段。壁面下段を横一直線に走るのは街路だろう。忙しなく階段を上り下りし、街路を左右に行き来する人々。蟻の観察キットのような世界はしかし、物語が進行していくにつれて奥行きを獲得していく。高くそびえる壁がそのまま舞台奥へと下がっていくのだ。世界の真理を「知ってます」と嘯いたラスコーリニコフだったが、皮肉にも彼は殺人を犯したことで自分には見えていなかった世界を突きつけられることになる。それは彼の「世界」の崩壊でもある。書き割りめいた壁が後退した隙間を埋めるものはなく、世界は断片と化す。ラスコーリニコフは舞台手前の足場に孤独に取り残される。世界から切り離されることによってのみ、神の視点は手に入る。ついには舞台奥に到達した壁にも亀裂が入り、しかしそこで開示される世界の真実は味気ない鉄パイプで組み立てられた工事用の足場に過ぎない。

[撮影:松見拓也]

「あ」「あ」「あ」と街中でラスコーリニコフを指差し罪を糾弾する群衆の姿と声はラスコーリニコフの罪の意識が見せる妄想・幻聴の類だろうが、一方でそれは遍在する神の声でもある。ラスコーリニコフに下された第一の罰は、それゆえ彼を「特別な人間」にするのだ。「あなたがいてくださらなかったら、私、どうなっていたでしょう」。並べ替えられ、繰り返される言葉のなかで、「私」や「あなた」の宛先もまた交換可能なものとなる。「私が何者かですって? ご存じじゃありませんか」「私はもう終わってしまった人間でしてね。それ以上のなんでもありません。あなたなんですよ」。「私」や「あなた」は群衆であり、ラスコーリニコフであり、神であり、誰でもよい。裁きの座から引きずり下ろされた神は罪人として裁かれることで再び神になり得るか。私はすでに答えを知っている。

[撮影:松見拓也]


公式サイト:http://chiten.org/


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地点『罪と罰』 │ artscapeレビュー(2020年04月15日号) | 高嶋慈

2020/02/29(土)(山﨑健太)

烏丸ストロークロック『まほろばの景2020』

会期:2020/02/16~2020/02/23

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

深い山。障がい者介助施設「太陽の家」で職員として働く福村洋輔(小濱昭博)は立ち込める霧のなか、盛山和義(澤雅展)を探していた。自閉症で足に麻痺があるという和義は半年前に施設からいなくなってしまったらしい。物語は福村が山で出会う人々とのやりとりと福村の過去の断片とを行き来しながら進んでいく。浮かび上がるのは業と弱さを抱えながらそれでも生きるしかない人々の姿だ。

東日本大震災で家をなくし、「夢みたいだな」「なんにもね」と呆けてしまう福村の父(小菅紘史)。福村は「想い出見ようや」とかつてそこで起きた大切な、あるいはささいな出来事を思い出すよう父に促す。やがて神楽を舞い始める父。だが習うのを途中でやめてしまっていた福村は最後まで踊ることができない。「親父、これ、どうだったっけ?」と福村が問うた先に父の姿はない。

[撮影:東直子]

山で出会う人は気づけば福村に縁ある人に姿を変え、そしてまたふいにいなくなる。それは現実だろうか幻だろうか。実際には、福村は父に声をかけることはできなかった。「怖かったんです、親父の悲しさにやるせなさ、さわんのが怖いんだな」。

和義の失踪に「何か前触れがなかったか振り返ります」と後悔を見せる福村だが、実は「この手に繋いでいた和義の手を離して、目を離した隙に、和義は山に入っていなくなったんです」と後に自らの罪を懺悔する。しかしそれすらも嘘だ。福村は「雨に濡れる和義を置いて、神社の前から去り」「振り返りもしなかった」。直視できない弱さとごまかし、後悔と贖罪。それすらもまた弱さのうちだ。

被災して風呂を借りに来たかつての不倫相手・ナナエ(あべゆう)に福村はよりを戻そうと提案し「後ろめたいことは今はいいから」と言われてしまう。そこにあったのは性欲か寂しさか優しさか。

大阪で働きながら仙台の父母に仕送りをする同級生・セージ(澤)は老人介護の仕事を辞め熊本に復興のボランティアに行くという福村に「それ、お前がやることなんかな」「生きようや」と説教をする。福村のやっていることは善意か偽善かそれとも逃げか。

[撮影:東直子]

和義の姉・橙子(阪本麻紀)は、両親亡き後、和義の世話をひとりでせねばならず、満足に仕事に就くことも難しい。やがて橙子は「洋輔さん、ウチに来て?」と福村に想いを告げるが、福村は和義を理由に決断を先延ばしにしようとする。「優しい顔で見てばっかり、なんも、なんも手くださへん」「仏さんみたいな洋輔さん、うち、好きや」という橙子の言葉は痛烈だ。結局、福村は三人で暮らすことを選ぶ。

だが、そこにある弱さは福村だけのものではない。彼らは福村の半身でもあり、互いに理解し合うことはできずとも弱さを、欲望を、優しさを分かち合っている。掴もうとすればするりと逃げる霧のように、複雑に絡み合った感情を切り分けることはできない。人はそれに耐えられず惑う。

作品の中心的なモチーフに据えられた神楽はひとりの人間のそれを越えた時間的スケールを舞台に呼び込む。延々と巡る営みと世界。劇中の祭文でも言及のあるように、世界の始まりには「みどのまぐはひ」があったとされる。聖なることと生きること、性の営みはなかなかに分かち難い。舞台にしばしば濃厚な性の気配が立ち上るのは必然だろう。

[撮影:東直子]

[撮影:東直子]

舞台上舞台とそこに垂れる幾筋もの白布(舞台美術:杉山至)はときに霧深い山中の風景となり、ときに福村の心中となり、ときに神楽の舞台となる。それを囲む俳優たちの祝詞や朗唱は観客の現実と舞台の上の現実とを接続し、音楽と音を融通無碍に行き来する中川裕貴のチェロもまた不定形の霧のように漂う。舞台の上で水飛沫をあげる不格好な神楽はそのまま、のたうちあがく福村の現実だ。

福村は山で出会う人々をきっかけに自身の過去を想起していくようであり、福山の過去が化身して彼の前に現われているようであり、そして彼らは福村自身の鏡像のようでもある。クライマックスの神楽のなかでそれらは渾然一体となり、頂に立った福村の「……俺がいる……山がある、」という最後の言葉に結実する。登る山は福村の人生そのものだが、同時にそれはもっとずっと大きい。烏丸ストロークロックと作・演出の柳沼昭徳は茫漠とした世界に生きる卑小な存在を描き続けてきた。峻厳たる孤独を引き受けるのは自分しかいない。傲慢になるでもなく卑屈になるでもなく、あるいは屈服するのでもなく、そのことをただ受け入れて生きることはかくも難しい。


公式サイト:https://www.karasuma69.org/

2020/02/17(月)(山﨑健太)

イエデイヌ企画『イマジナリーピーポー イン トーキョー』

会期:2020/02/14~2020/02/16

新宿眼科画廊スペースO[東京都]

イエデイヌ企画は2014年に発足した演出の福井歩による演劇プロジェクト。福井は立教大学映像身体学科に学び、2016年にはマレビトの会『福島を上演する』に演出部として、2017年にはフェスティバル/トーキョー17の「実験と対話の劇場」に演劇計画・ふらっとの演出として参加している(劇作は我妻直弥が担当)ほか、イエデイヌ企画としては2019年3月にピーター・ハントケの小説/映画『左ききの女』を舞台化している。

『イマジナリーピーポー イン トーキョー』は偶然に出会った家出人(米倉若葉)、作家(平山瑠璃)、会社員(野中知樹)の三人が深夜のトーキョーをひと晩中歩き回る話だ。家出人はひとり暮らしの「部屋に帰ると、誰かがいたような雰囲気を感じる」と2カ月も帰っておらず、チェーン店で時間を潰したり野宿をしたりして過ごしている。作家の役名は「便宜上作家と呼ぶが、劇中にそれらしい描写はない」らしい。彼はトマソン的なものを探し回り写真に撮っている。会社員は中学の同級生の葬式からの帰り道、酔い潰れて寝てしまう。そこがたまたま家出人が野宿していたすぐ近くで、二人が倒れている(寝ている)ところに作家が通りがかり、三人は出会う。

[撮影:瀬崎元嵩]

上演台本には皇居、旧築地市場近くの空き地、東京駅などと地名が書き込まれているのだが、上演から三人のいる場所をはっきりと特定することは難しい。むしろ、タイトルが示唆する「想像上の人々」と同じように、舞台となる(ことがタイトルによって示唆される)「トーキョー」もまた、架空の、どこでもない都市であるかのような手触りがある。場所を表わすものが何もない舞台空間と公演会場となった新宿眼科画廊スペースOの真っ白な壁もそのバーチャル感を強化する。

三人が歩く深夜のトーキョーに人影はほとんどなく、それは確かに非現実的な風景だろう。「みえてないだけで、実は人、たくさんいたりして」というセリフはある意味では真実だ。昼と夜、現実と虚構。三人は異なるレイヤーを生きている。いや、三人も普段はそれぞれに異なるレイヤーを生きていて、たまたまそれが交わったのがその夜だったのだ。

[撮影:瀬崎元嵩]

実は、この作品では三人が出会うまでの時間も描かれている。開演すると三人はさまざまな言葉を発しながら舞台上を不規則に足早に歩き回る。それはトーキョーの匿名的な人々を表わしているかのようだ。しばらく見ていると、言葉の発し方が奇妙なことに気づく。どうやら三人の俳優は自らが演じる役(それも一貫したものではないようだが)に聞こえている音を口にしているらしい。そこでは音源との距離や集中の度合いによる音の聞こえ方の変化も再現されている。

それはまるで音を介したキュビズムのようだった。確かに、知覚の主体たる私にとって音はそのようにして存在している。だがそのような音のあり方はあくまで唯一の「私」の内側に生じるものであるはずだ。それが外部化され、複数化されて舞台上に提示されることで、私にあるはずの世界の焦点が(いやそれは確かに私にまだあるのだが)取り出され、世界が裏返ったかのような感覚を覚えたのだった。言い換えればそれは、私が世界の側に裏返されたということでもある。

東京の人々の場面はやがて家出人・作家・会社員それぞれのエピソードへと収束していき、それとともに「キュビズム的」手法はほとんど用いられなくなっていく。深夜になり三人の周囲に人がいなくなったという以上に、無関係であった三人が互いの存在に焦点を合わせたことでそれ以外の人々が背景に退いたということだろう。顔のない人々に囲まれたトーキョーのなかで三人は「出会った」のだ。

[撮影:瀬崎元嵩]

「感じることで初めて存在が証明されるんじゃないですかね」とは作家の言葉だが、「トーキョー」で暮らす私はすぐそこにいる他人を、どれだけ人格のある他者としてきちんと見ることができているだろうか。例えば満員電車。私は自分の心身を守るために彼らを「イマジナリーピーポー」とみなしてはいないか。だが私が意識しようがしまいが、もちろん私以外の人々もまた生きる主体として、世界の焦点として日々を過ごしている。イエデイヌ企画は当たり前のその事実を演劇ならではの新鮮さで体験させてくれた。

立教大学映像身体学科とマレビトの会の演出部は福井歩のほかにも我妻直弥や関田育子、福井裕孝と極めて独自性が高く、しかし実直な思考と実践に基づいた作品を展開する若手の演劇作家を何人も輩出してきている。彼女たちは、立教大学教授でありマレビトの会代表でもある松田正隆が提唱する「出来事の演劇」の手法にベースを置き、あるいはそこから影響を受けつつも決して二番煎じには陥らず、師の先を行かんとばかりに演劇の原理を探究している。真に学ぶとはいかなることか。その最良の成果がここには表われている。

[撮影:瀬崎元嵩]


公式サイト:http://imaginary-people-in-tokyo-ideinu.mystrikingly.com/


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2020/02/16(日)(山﨑健太)

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