2022年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

小泉明郎『解放されたプロメテウス』

会期:2021/02/17~2021/02/21

SHIBAURA HOUSE 5F[東京都]

あいちトリエンナーレ2019で初演されシアターコモンズ'20でも上演された『縛られたプロメテウス』の「続編とも言える新たなVR作品」、小泉明郎の『解放されたプロメテウス』がシアターコモンズ'21で上演された。

会場は三方をガラス窓に囲まれた開放感のある空間。床の中央には人間がひとり横たわっている。「開演後しばらくすると、ヘッドセット内に現われるアバターが地上面まで浮上します。それ以降は、それぞれのアバターに近づくと、アバターたちの見ている夢に入ることができます。夢から出る際はアバターから大きく一歩離れてください」などの説明をひと通り受けてヘッドセットを装着すると、床下に横たわる5体のアバターの姿が見える。合成音声が「私たち人間は、そのシステムを、こよなく愛していた」と語り出すとゆっくりと浮上するアバターたち。以降、鑑賞者は会場内を歩き回り、アバターに近づいたり離れたりしながらその夢を覗き見ていくことになる。

[撮影:佐藤駿]

合成音声は語る。「ある謎の病の流行を機に、システムに突然変異が起きた。システムが、夢を毎晩見るようになったのである。しかも、多くの夢が、悪い夢であった」。では、鑑賞者である私の目の前に横たわり夢を見ているこのアバターこそが「そのシステム」なのだろうか。しかし「そのシステムは、おとなしく、優しい性格をしてい」て、「よく働」き、「私たちが家に帰ると、必ず笑顔で迎えてくれた」のだともいう。ならば「そのシステム」とはつまり人間のことなのではないか? では、「私たち人間」を自称する合成音声は?

アバターに近づくと周囲の景色は消え、鑑賞者である私はアバターの夢の中らしき空間に入り込む。CGによって描写されたそこはしんしんと降る雪に、流れ落ちる砂に、あるいは高層ビルに囲まれた無機質な空間で、横たわったまま宙に浮かぶアバター以外に人の姿はない。東南アジア系のアクセントだろうか、悪夢は辿々しい日本語で囁くように語られる。不思議な生き物に見つめられ怖くて動けない夢。駅のような場所に自分以外誰もいない夢。雪の夜に橋の下で一夜を明かす夢。王様のような暮らしがアラームの音で崩壊し、遅刻したことを責められる夢。魔女の鞭で体を真っ二つにされ、それでも死なない夢。語りはループしていて、悪夢が終わることはない。私はしかし悪夢に囚われることなく、ひと区切りがついたところで次の悪夢を「鑑賞」するために移動する。

[撮影:佐藤駿]

[撮影:佐藤駿]

開演前、夢から出られなくなってしまった場合は手を挙げてスタッフに知らせてくださいというアナウンスを聞いた私は、それはぞっとしない状況だなと思ったのだった。だが私は「アバターから大きく一歩離れ」距離を取ることで悪夢から簡単に離脱し、それを見ないで済ますことができる。対してアバターたちは、悪夢から逃れることはおろか距離を取ることすら許されていない。その残酷さ。終演後、帰り際に手渡された紙には「作中の夢は、日本で働くベトナム人の若者達が、コロナ禍中に実際に見た夢です」との文言が記されていた。技能実習生の名のもとに奴隷のように働かされる人々を、入管収容所で不当に長期収容されている人々を思う。

5体のアバターのうち1体はなぜか丸太の姿をしていて、それは私に旧日本軍の研究機関である731部隊が人体実験の被検体のことをマルタと呼んでいたという話を連想させた。人間を労働力としてしか見ず、あまつさえそれをシステムと呼んでしまうのであれば、その思考は731部隊のそれとも遠くない。

合成音声の語る「私たちは、システムを観察し続けた」という言葉は、私が傲慢な鑑賞者の位置に立っていることを暴き立てる。「私たち人間」は「悲しみと恐れに満ちていた」という「システムの夢」を「美しいと感じるように」なり、「システムと同じように、夢を見たいと願うように」なったというのだからそれは傲慢以外の何物でもないだろう。だが、最後に至り、合成音声の語りはやや調子を変える。「私たち人間も、かつての人間のように、悪夢を見たいと祈るようになった」。その言葉が示唆するのは、人間が現在ある姿からは「解放」された未来だ。だがその「未来」は単純な時間の経過によって訪れるものではなく、経済と技術の発展の先、格差の上にある。「私たち人間」と「かつての人間」は同じ現在に存在している。ならば、「かつての人間のように、悪夢を見たい」という一見したところ傲慢にも思える願いは、痛みを共有するための「祈り」へと転じ得るのかもしれない。

終演後にアクセス可能な「もう一つの夢」のモノクロームの画面には、ヘッドマウントディスプレイを装着し「夢」に没頭する鑑賞者たちの姿が映し出されていた。現実は何重にも階層化され、「私たち人間」もまたシステムに組み込まれている。だが、床に横たわっていた人間だけはヘッドマウントディスプレイを装着していなかった。あの人間だけは夢から醒め、いや、現実という悪夢にアバターたちとともに対峙していたのかもしれない。ヘッドマウントディスプレイを外した私は夢から醒めているだろうか。

[撮影:佐藤駿]


シアターコモンズ'21作品ページ:https://theatercommons.tokyo/program/meiro_koizumi/
小泉明郎公式サイト:https://www.meirokoizumi.com/


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2021/02/18(木)(山﨑健太)

中村佑子『サスペンデッド』

会期:2021/02/11~2021/02/28

ゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センター[東京都]

『サスペンデッド』はシアターコモンズ'21の一環として発表された中村佑子によるAR映画。中村のシアターコモンズへの参加は2019年のリーディング・パフォーマンス『アリス・イン・ベッド』(作:スーザン・ソンタグ)の演出を担当して以来二度目となる。

会場はゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センターにある、おそらくはゲストの滞在用に設えられたものだと思われる一画。ひとつながりになったリビングダイニングキッチンに洋室が二間、和室が一間あり、中に入ってしまえばそこはほとんど一般的な住宅と変わらない。『サスペンデッド』の鑑賞者は、10分ごとにひとりずつその「居住空間」へと導かれ、ヘッドマウントディスプレイを装着した状態で各部屋を順に巡っていく。ヘッドマウントディスプレイを介してモノクロームになった室内で鑑賞者が対峙するのは宙に現われる鮮やかな映画のスクリーン。そこに映し出されるのは精神的な病を抱える母を持つ子の視点から振り返られる物語であり、その大部分は鑑賞者が立つ「居住空間」で撮影されたものだ。

[撮影:佐藤駿]

かつてあったものを映し出す映画というメディアが、それが撮影された当の空間で体験されるとき、それがかつてそこにあったのだという感覚はより一層の強いものとなる。「そこ」はまさにその場所として目の前にあり、しかしそこにいたはずの人物もそこで起きたはずの出来事も目の前にはない。鑑賞者のいる室内には食器の置かれたダイニングテーブルやソファ、勉強机といくつかのぬいぐるみ、ベッドなど、「彼女たち」が過ごす空間と同じものも置かれているが、現実の室内に置かれているのは映画のなかで映し出されるもののごく一部でしかなく、ガランとして生活感のないそこはすでに抜け殻のようだ。置かれているというよりはかろうじて残された痕跡。ヘッドマウントディスプレイ越しの視界はモノクロームに色を失い、そこにあるはずの現実が遠い。宙に浮くスクリーンだけが、「彼女」の記憶だけが鮮やかだ。

[撮影:佐藤駿]

ところで、「彼女」とは誰か。鑑賞者が最初に導かれた部屋でまず目にするのは、この映画が作者自身を含めた3人の女性の幼少期の体験をもとにしたものであり「いまも世界のどこかで病の親と暮らしている子供たちの家庭のなかで体験する宙吊りの感覚を映像化したもの」だという言葉だ。母が起きるのを待ち、友達と遊ぶことなく家に帰り、母の「目の前の霧」が晴れるのを待ち、あるいは入院した母の帰りを待つ。「宙吊りの感覚」というのはこのようなすべてが待機状態に置かれた時間を指す言葉だろう。しかしそれでも時間は流れ、いつか状況は変わっていく。秒針の音が耳を打つ。

「あなたの痛みがどんなものか、私は想像することしかできない」と「彼女」の声は語る。「あなた」と呼ばれているのはもちろん「彼女」の母親なのだが、それは映画の鑑賞者への呼びかけのようにも響く。ヘッドマウントディスプレイ越しのモノクロームの視界、世界の遠さは鬱の症状のそれに通じているようにも感じられる。「目の前の霧」。映画は子である「彼女」の視点で語られる記憶だ。ではこのモノクロームの視界は誰のものか。室内を歩くほかの鑑賞者たちが私に注意を向けることはなく、同じ部屋にいながら自らの世界に入り込んでいるように見える。

鑑賞者たる私は室内を漂う光の粒子に導かれて部屋から部屋へと移動していく。窓際の椅子、ソファ、ダイニングテーブル、子供部屋にベッドの置かれた和室。記憶の場所を巡るように漂う光の粒子は「彼女」の記憶の残滓か、それとも母親のそれか。「ひとつの心が壊れるのを止められるなら」「ひとつの命の痛みを軽くできるなら、ひとつの苦しみを鎮められるなら、1羽の弱っているコマドリを、もう一度巣に戻せるなら、私が生きることは無駄ではない」。「ただいま」と告げる母から切り返して子の顔のアップ。「おかえり」の声が画面に重なる。子でありながら母のような立場に置かれた「彼女」。かつて子であり、現在は母となった中村がこの映画を撮ることは、二重化された「彼女」に現在から手を差し伸べることだ。それは祈りにも似ている。

エンドロールのあと、映画の最後に示されるのは、日本国内では精神疾患を患う親と子供はその人数すら把握されておらず、「支援の穴」と言われているという現実だ。ヘッドマウントディスプレイを外し、色彩を取り戻した私の現実に「彼女」の姿は見えていない。

[撮影:佐藤駿]

[撮影:佐藤駿]


シアターコモンズ作品ページ:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/
中村佑子Twitter:https://twitter.com/yukonakamura108


関連レビュー

中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2021/02/17(水)(山﨑健太)

チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』(エクストラ音声「山がつぶやいている」/配信版『消しゴム山は見ている』)

会期:2021/02/11~2021/02/14

あうるすぽっと[東京都]

チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』東京公演では、通常の上演に重ねて音声によるもうひとつの「上演」が行なわれていた。「エクストラ音声」と呼ばれ「山がつぶやいている」とタイトルが付されたそれは、公演会場のあうるすぽっとのホワイエで音声を聴くための機器(受信機とイヤフォン)を借り受けることで聴取可能になる。作・演出の岡田利規が書き下ろし、俳優の太田信吾が読み上げるテキストは舞台上の出来事に新たなレイヤーを付加し、舞台上のそれとは異なる光景を私の脳裏に描き出した。

演劇公演における音声ガイドは一般的に、視覚障害者などへの情報保障として舞台上の出来事を音声で描写し伝達するものとして導入される。「山がつぶやいている」もまた(貸出の受付で情報保障のための音声でないことはアナウンスされてはいるものの)、開演前から冒頭にかけては舞台上の情景の描写のように聞こえる。「舞台は 一面 剥き出しの 更地」。「モノたちで 埋め尽くされている」。「舞台には 巨大な直方体が 三角形が 筒が (中略) 粘土が 透明な液体で満ちた 透明なボトルが などなどが」。なるほど、舞台上には金氏徹平の手による無数のオブジェが並んでいる。やがて「登場しました ヒトたちが 舞台に 六人」。

だが、次のテキストはどうだろうか。「舞台上を 眺め回しつつ うろうろ モノたちを 検討しています 材質 形 大きさ」「これだという ひとつ定めて その モノと 佇まいの波長を 照らし合わせている それを グループの残りの ヒトたちは 見ている」。たしかにそれは俳優たちのふるまいを描写したものではあるのだが、テキストは舞台上で起きている出来事=外面の描写というラインを越え、行為の意図の記述にまで踏み込んでいる。それが可能なのは誰か。もちろん作者である。「エクストラ音声」はまず第一に『消しゴム山』の「解説」として機能し、観客に作品の「理解」を促す。

[撮影:高野ユリカ]

[撮影:高野ユリカ]

そう考えると、冒頭で聞こえてきた「更地」という言葉にも舞台面という以上の意味を読み込むことができるだろう。『消しゴム山』はもともと、岡田が岩手県陸前高田市で津波被害を防ぐための高台の造成工事を目撃したことからスタートしている。周囲の山を削った土で地面の嵩上げが行なわれ、驚異的な速度で人工的につくり替えられていく風景を目にした岡田は「人間的尺度」を疑う作品を構想し始めたのだという。「更地」という言葉は津波によって一変した風景を、さらに工事によって再び一変する風景を舞台上に呼び込む。

「舞台の地面 その上を 撫でる風 土埃」「舞台は 工事現場」。もちろん舞台上に「地面」はなく「土埃」もない。そこは「工事現場」ではない。つるりと黒い舞台面には無数の色鮮やかなオブジェが置かれているばかりだ。しかし無数のオブジェに囲まれ壊れた洗濯機をめぐって会話する人々は、同時に工事現場にも立っている。それは例えば、首都圏に住む私の生活が、福島の原子力発電所から来る電気によって支えられていたということと重なってはいないだろうか。

「空がひろがっている」。「雲が浮かんでいる」。「地平線がひろがっている」。もちろん舞台上には空も雲も地平線も、あるいはそれらを表象する何かさえない。だがそれでも「そこに向かって ヒトは せりふを言っている」と声は語る。私が劇場で目撃しているものとは異なる景色が「そこ」には広がっている。声はそうして、私の意識を私には見えていないものへと向けさせる。

[撮影:高野ユリカ]

『消しゴム山』は配信版がオンライン型劇場「THEATRE for ALL」で2021年4月30日まで配信されている。「エクストラ音声」と同じように別途付されたタイトルは『消しゴム山は見ている』。もともと、映像の収録に使われるカメラやマイクは人間の視聴覚が捉えきれない情報も拾い上げる非人間的なデバイスであり、その意味で『消しゴム山』のコンセプトを体現する存在でもある。『消しゴム山は見ている』ではさらに、舞台を真上から捉えるカメラやモノの視点を体現するカメラなどによって撮影された映像を組み合わせることで、劇場の客席からヒトの観客が観るそれとは異なる『消しゴム山』を立ち上げている。『消しゴム山は見ている』はコンセプトを理解するという意味では劇場版『消しゴム山』よりもわかりやすくさえあり、劇場版を見た観客にとっては自分のそれとは異なる視点を体感できる映像作品となっている。

[撮影:高野ユリカ]

[撮影:高野ユリカ]

[撮影:高野ユリカ]


『消しゴム山』:https://www.keshigomu.online/
チェルフィッチュ:https://chelfitsch.net/


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非力さを再考する|田中みゆき(キュレーター):キュレーターズノート(2020年01月15日号)

没入するモノたち──チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』|池田剛介(美術作家):フォーカス(2019年10月15日号)

2021/02/12(木)(山﨑健太)

屋根裏ハイツ『パラダイス』

会期:2021/02/05~2021/02/09

STスポット[神奈川県]

『パラダイス』(作・演出・音響:中村大地)は『私有地』(2019)に続く屋根裏ハイツの「シリーズ:加害について」の第二弾。人口減少と高齢化の結果、老人ホームのような機能も担うようになった郊外の団地を舞台に描かれる日常の風景から浮かび上がるのは、分かちがたく触れ合い溶け合うケアと加害の境界領域だ。

住民の憩いの場となっているらしき集会室。職員の高知(村岡佳奈)がいるところに住民の沢崎(瀧腰教寛)がやってくる。二人のやりとりから沢崎には認知症のような症状があるらしいことが窺われる。さらに住民の清水(和田華子)がやってくる。どうやらその朝、清水の部屋の隣に住む遠藤さんという寝たきりだった住民が入院していったらしい。遠藤の世話をしていた子の「ケイさん」は2日前から行方不明のようだ。清水が出て行ってしばらくすると高知は、昼食を食べ損ねているので食べに行きたい、その間、沢崎がここにいるつもりなら鍵をかけさせてもらいたいと言い出す。ケイのことがあったので、一部の住民には安全のため、集会室の利用の際に職員の送り迎えをつけることになった、そのことはまだ決まったばかりで周知はされていないのだが、ひとまずの暫定的な措置として、万が一のことがあるといけないので、自分がいまここを離れるにあたって鍵をかけておきたいのだ、と。沢崎は了承し、高知は昼食のために出て行く。沢崎がひとりでいる間に住民の日高(村上京央子)が集会室を訪れ、鍵がかかっていることに驚く。沢崎は事情を説明しようとするがうまく伝えられず、日高は高知を呼びに行く。戻ってきた高知の説明で日高は一応は納得するが、沢崎に改めて確認すると沢崎は鍵を閉められていたこと自体忘れてしまっている。沢崎は煙草を吸いに出ようとするが、ふと「ひとりで、行っていいの?」と高知に問いかけ、高知とともに出て行く。

集会室に鍵をかけた高知の行為はケアか加害か。日高はそれを一旦は加害だと判断し、事情を聞いてケアであったことを了解しつつ、同時に釈然としない様子でもある。事情の有無にかかわらず、行為の内実は変わらない。自由を奪う行為は加害であり、同時にケアともなり得るという現実があるだけだ。では、高知が昼食を抜けばよかったのか。しかしそれは高知に対する束縛、加害ではないだろうか。鍵をかけて昼食にいくという選択は、自他のケアを秤にかけた高知の落としどころだったはずだ。

作品の冒頭、外で遊ぶ子供たちを見た沢崎と日高は「学校無いのかな」「保育園の子かも」「先生とかいないっぽいですけど」と言葉を交わす。ふたりの「心配」もケアの一種だが、それは束縛や禁止へとエスカレートする種ともなり得る。どこまでが妥当なケアか。高知は保育園で使われる散歩用の子供を載せる台車を見る度に「ドナドナ」の歌を思い出し、運ばれる子供たちが「自由がない動物みたいに見える」のだと言う。小学校の塀と刑務所の塀の違いは何か。無用心だからと鍵のかかっていない部屋から財布と携帯を勝手に持ち出すことは犯罪か。「健康に悪いから」と煙草を禁止することはできるか。散りばめられたエピソードがケアと加害の違いを問う。その問いは老人ホームや病院といった場所をも射程に収めるものだろう。

鍵をかけて出て行った高知と鍵もかけずに出てったケイさん。果たしてどちらが「正しかった」のか。鍵がかかっていたら遠藤さんは人知れず亡くなっていたかもしれない。鍵のかかった集会室で沢崎は突然倒れてしまったかもしれない。沢崎が高知とのやりとりを忘れてしまったせいで、高知は何らかの責任を問われることになったかもしれない。無数の「かもしれない」と折り合いをつけ続ける作業としてしかケアはなし得ず、しかしそこにどのような「かもしれない」があり得たかを第三者が推し量ることは難しい。断罪はなおのことだ。

『とおくはちかい(reprise)』とも共通する、他者の事情を十分には知り得ないというテーゼは、本作では上演の構造としても採用され、観客にも体感されるものとなっていた。沢崎がひとりになると、集会室に保管されていたケイさんの電話に着信があり、沢崎はそれに出てしまう。沢崎はその後、およそ20分にわたりケイさんの友人の久保田(宮川紗絵)と電話越しに会話をし続けるのだが、久保田の言葉は劇場にいる観客には聞こえない部分も多い。実は、この電話越しの会話は音声のみのオンラインパフォーマンスとしてリアルタイムで公開もされており、それを聞くと(あるいは公開されている上演台本を読むと)久保田がどのような言葉を発していたかを知ることができる仕組みになっている。しかしそこにも、通話中に久保田に話しかけたはずの「同居人」の声は入っていない。「観客」が全てを知ることはできない。

『パラダイス』の最後の場面はこうだ。清水と日高が集会室で話し込んでいると沢崎が外を通りかかる。「どこいくんだろう」と気にする日高は「わたしも行ってみようかな」と言う。「沢崎さん見がてら」「何処もいかないなら、戻ってくればいいし」と二人は出て行く。


公式サイト:https://yaneuraheights.net/
『パラダイス』上演台本:https://yaneura-heights.blogspot.com/2021/02/blog-post.html


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2021/02/09(火)(山﨑健太)

円盤に乗る派『流刑地エウロパ』

会期:2021/02/06~2021/02/08

BUoY[東京都]

『流刑地エウロパ』は円盤に乗る派の前身にあたるsons wo:が「最後の公演」として2018年に上演した作品。今回は初演のキャストから山村麻由美が小山薫子へと変わり、それ以外はキャスト(キヨスヨネスク、佐藤駿、田上碧、畠山峻、日和下駄)も戯曲も会場(BUoY)も変わらず、しかし3年の時を経ての再演となった。

戯曲には「正気を保つ」、「全ては明るい、全ては清潔だ」、そしてTLC“Waterfalls”と、円盤に乗る派として上演することになる作品のタイトル(『正気を保つために』『清潔でとても明るい場所を』『ウォーターフォールを追いかけて』)を示唆し、あるいは「僕は目の前に、空飛ぶ円盤があったら迷わず乗りたい」と団体名を予告するようなキーワードも散りばめられている。その意味で「sons wo: 最後の公演」にはすでに「未来」としての円盤に乗る派の可能性が埋め込まれていた。2018年の私にとって知るはずのない未来であったそれは2021年の私にとっては既知の過去となった。しかしもちろんまだ見ぬ未来も埋め込まれているかもしれない。

「演劇をやっていていつも思うんだけど、本番がいちばん演劇ではない、通り過ぎてしまった記憶、まだ見ない何かの方が演劇みたいに見える」。『流刑地エウロパ』で唯一明確な名前を与えられた登場人物であるハレヤマ天文台は言う。私にとって『流刑地エウロパ』の再演は初演の記憶とともにあり、目の前で上演されつつある演劇へのまなざしは同時に過去へも向かう。舞台の三方を囲む配置の客席で、私はちょうど初演のときに座った席と向かい合う位置に座ることになった。記憶のなかで『流刑地エウロパ』を観る過去の私は未来=現在の私に視線を向けている。再演を観ることで思い出される初演の記憶は捏造され、過去と未来に挟まれるようにして立ち上がる上演が演劇としてそこにある。

[撮影:濱田晋]

ハレヤマ天文台という、明らかに作・演出を担当するカゲヤマ気象台のもじりである登場人物名が示唆するように、『流刑地エウロパ』はある種のパラレルワールドを扱っている。冒頭、オという記号めいた名前を与えられた登場人物のひとりは「地球を平面だと本気で思っている人たち」の集う「地球平面協会」の存在に触れ「なんというか本気になれば何でも信じられるんだなと思いました」と言う。どこからか聞こえてくる声(それは舞台上に登場する俳優たちの声のようだ)の語りによれば、木星の衛星エウロパに流刑された大犯罪者ケニー・G(ゴジマ)の生死を確認するため、探査隊タイタニックゴウが地球から木星へと旅立ってから2年が経つらしい。作品の中盤でまず明らかになるのは、その世界では「人間が二つの場所に同時に存在できる」テクノロジーが開発されており、登場人物たちは「あるいはエウロパへ向かい、あるいはこうして地球に残っている」ということ。だが、ピクニックに出かけた登場人物たちは土中からエウロパに流刑されたはずのケニー・G(ゴジマ)の日記を掘り出してしまう。そこには「俺はいくつもの森を抜け、沼を渡り、星の見えない暗い空間を何年間も進んで、(上演の日付)まで到達して戻ってきた」と記されていた。

[撮影:濱田晋]

[撮影:濱田晋]

結末に至り、冒頭で地球平面協会のことを話していたオは、ケニー・G(ゴジマ)と思しき男と邂逅したときのことを語る。ケニーによれば「やつら」によって1993年の9月にエウロパに地球がインストールされ、「その日にこの世界は始まった」のだという。「ここはずっとエウロパだった」。「真実」が露わになり、二つの世界が重なり合う。だがもちろん、ここがエウロパならば「本当の地球」がどこかにあるということになる。「きっと今ごろ、もう一人の私たちは、地球に帰り着いて、家族か、友達かに会って、ゆっくりお茶でも飲んでいるのかもしれない」。

「あの世界」「この世界」と分かたれた世界の足元は案外脆く、科学に裏打ちされた「たしからしい」世界も暫定的なものでしかない。科学とはその定義からしてそういうものだ。土中から見つかった日記のように、新たな発見は世界の「真実」を書き換える。

ハレヤマ天文台は言う。「だからと言って何かが変わるわけじゃなくって、僕たちは僕たちで、なんとか家に帰って、僕はちょうど演劇をやりたくなっているので、またみんなを集めて、まず話し合いからやろうと思います」。

既知となり過ぎ去った過去と未知としてこれから来る未来。テクノロジーの進歩をまたずとも人間はすでに二つの世界を生きていて、二つの世界を生きるしかない。

[撮影:濱田晋]


公式サイト:https://noruha.net/


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2021/02/08(月)(山﨑健太)

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