artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』

会期:2023/01/19~2023/01/22

アトリエ春風舎[東京都]

見えないものは存在しないものではない。スーパーカジュアル公演と銘打たれた果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』(作・演出:升味加耀)は、カジュアルな地獄をカジュアルに描き出そうとする、いや、それがカジュアルに存在しているからこそこの世は地獄なのだという現実を抉り出してみせる作品だ。

果てとチークは青年団演出部に所属する升味が主宰する演劇ユニット。2019年には升味作の『害悪』が北海道戯曲賞の最終候補に選出されている。今回の「スーパーカジュアル公演」は一義的には「シンプルな作品をお安くご覧いただける機会になれば」と生まれた企画とのことで、前売り2500円で登場人物6人、60分ワンシチュエーションの会話劇が上演された。だがそこで描かれる現実は重い。


[撮影:木村恵美子]


ある中高一貫の女子校。夏休みの前日、終業式を終えた放課後の教室。ミスコン実行委員のユミ(中島有紀乃)が、実はすでに投票まで終えたミス・ミスターコンが中止になったのだと言い出す。「外見に順位をつけるのはよくない」「性自認が揺らぐ」が理由らしい。アキ(井澤佳奈)とユミが「セージニン」「なんなんそれ?」「わからん」などと話しているとノザワ(升味)は職員室に行かなきゃだったと教室を出ていく。作品の(一応の)中心に置かれているのはこのミスコンをめぐる騒動に端を発する一連の出来事だ。実行委員長のソノ(川村瑞樹)は、だったら女がロミオを演じるクラス演劇はどうなんだ、レズビアンの設定にしたらどうなるんだと改めてサキちゃん先生(Q本かよ)に抗議に行く。まーちゃん(名古屋愛)はソノの案は乱暴で当事者のことを考えているとは思えないと諌めるが、ユミは「そういう人たち」がそんな割合でいるのか、言ってくれなきゃわからないし言ってくる人はいなかったと言い募り、挙句にノザワがユッキーと付き合っていることを暴露してしまう。まーちゃんと二人きりになったノザワは自分は自分を女とも男とも思えない、性別で判断されたくないと吐露し──。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


性的マイノリティ(作中で明示されるのはアセクシャル、アロマンティック、レズビアン、ノンバイナリー)の透明化とその存在への無理解はこの作品のテーマのひとつだが、作中にはほかにも無数の「問題」が顔を出し、生徒たちのおしゃべりは次々と話題を変えていく。ミスコンの中止、専業主婦になること、出産への嫌悪感、ロミジュリ、校内に出た不審者、盗撮、ルッキズム(痩せたいと思うことと好きで痩せているわけではないこと)、演劇部の都大会での「知らないおじさん」からのコメント、大学進学、女装した露出狂(女装している人間がすべて犯罪者なわけではないということ、女もズボンを履くということ)、靴下は白でなければならないという校則(それを守っていない生徒に新しい白靴下を買ってきてまで履き替えさせる副校長)、有名な芸大の先生によるギャラリーストーカー、勤務中に生け花の時間がある銀行、隣接するビルから丸見えの屋上プール、帰国子女へのマイクロアグレッション、付き合いたいと思う気持ちがないことetc etc…。なんとここまででまだ作品の半分でしかない。


[撮影:木村恵美子]


これだけのトピックを60分のおしゃべりにまとめ上げた升味の筆と、それを上演として成立させた俳優陣の演技は特筆に値する。だが、作中にはジェンダーやセクシュアリティに関わるものを中心にあまりにも多くのトピックが詰め込まれ、それぞれの問題について丁寧に描き、あるいは深く掘り下げることはされていない。たとえばミスコンの話に物語の焦点を絞って書くという選択肢もあったはずだが、升味はそれを選ばなかった。おそらくそれは、特定の問題を選び出すという行為自体がある種の特権だからであり、現実はそういうわけにはいかないからだろう。無数の「問題」は「関ジャニで誰が好きか」といった雑談と同じ日常のレベルに存在している。ソノは性加害に否応なく直面させられる自分たちを「キモキモ変態キモリアルを日々プレイしてるJK」と表現していたのだった。男性向け恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』とは異なり、「攻略対象」を選ぶ権利はプレイヤーに与えられていない。それどころか、プレイを拒絶する権利すら与えられていない地獄こそが現実なのだ。


[撮影:木村恵美子]


作中の時間は2012年に設定されており、ガラケーが使用されていることや言及される固有名詞などから観客にもおおよその年代は把握できるようになっている。だがこの設定は作中で描かれる現実が過去のものであることを示すよりはむしろ、10年を経て変わらぬ、それどころか悪化している部分さえある現実を示すためにこそ導入されたものだろう。なぜ変わらないのか。変える以前にそもそも見えていないものがあまりに多いからだ。私に見えていない地獄はそこら中に存在し、いまこの瞬間にもその地獄を生きている人間が無数にいる。ならばせめて、可視化された地獄くらいはそのまま受け止めることからはじめたい。


果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek

2023/01/21(土)(山﨑健太)

兼桝綾『フェアな関係』

発行所:タバブックス

発行日:2022年11月24日


兼桝綾は屈託を書くのが巧い。思い悩む本人には申し訳ないが、あちらに行っては引き返し、そちらに行っては立ち止まり、ときに思い悩んでいること自体を思い悩むようなくよくよにはある種のグルーヴさえ感じてしまう。思い悩んでも仕方ないとわかっていても思い悩まないではいられない(そして時々爆発してしまう)登場人物の姿は切実だからこそ滑稽で愛おしい。

雑誌「仕事文脈」に掲載された短編をまとめた兼桝の第一小説集『フェアな関係』には「友情結婚からのセックスレスなのである」というキャッチーな一文からはじまる表題作とそのⅡ、Ⅲを含む9編が収録されている。

お互いに一番居心地がいいからという理由で(ほぼ)セックスなしのままに結婚した「私」と夫は結婚2年目。しないと決めて結婚したわけでもないのだしと「私」は夫を何度か誘ってみるもののあっさりと断られ、ほかに彼氏をつくることにも難色を示される。「権利だけ奪っておいて何もくれないって、フェアじゃなくない?」とブチ切れた翌朝、セックスする代わりに運動して痩せてほしいと「等価交換」を持ち出された「私」は「解き放った『フェア』が威力をまして攻撃してきたのに面食らって、そこまでしてセックスしてくれなくていい」と言うことしかできない。セックスをしたくない夫は子供は欲しいと思っていて、セックスをしたい「私」は子供は欲しくない(しかし夫はそれを知らない)というのだから事態はさらにややこしい。思い余った「私」は家族を続けるために夫には内緒で風俗まがいの「セラピー」を受けるのだが、そこでも「ただでさえこんな搾取行為をするのだから」年上で長身の自分が敵わないくらいのセラピストが相手でないと「金でケアを買うってことに、抵抗がありすぎる」と屈託は止まらないのだった。

恋愛とセックスと居心地のよさと結婚と関係を維持することは関係しつつもそれぞれに異なる問題で、本当はそれらが持つ意味合いもそれらに対する重みづけも人それぞれに違っているはずである。とどのつまり「フェアな関係」などというのはほとんど不可能なのだ。それどころか「フェア」の概念が持ち込まれた途端に親密さが損なわれかねないことは「私」が身をもって体験した通りだ。多くの人はそこをなあなあにすることで、あるいはなあなあにしていることを意識しないことで日々をやり過ごしている。だがセックスレスという大問題に直面している「私」にはそれをやり過ごすことができない。だからくよくよするしかない。

屈託とはああでもないこうでもないと思い悩むことであり、それを書くのが巧いということは一筋縄ではいかず割り切れない(つまりはああでもなくこうでもない)人間の面倒臭さを書くのが巧いということだ。「私とぬったんは親しいが、非常時に私より先に逃げることが出来るという点において、私はぬったんを憎んでいる」という、こちらもインパクトのある一文ではじまる「避難訓練」の「私」は事務センターの同僚であるぬったんの鈍さに苛々しっぱなしなのだが、それは同じ派遣社員として働く自分自身の立場の弱さへの苛立ちでもあり、だからこそ自分への叱咤=ぬったんへの連帯に転じる可能性を秘めている。「魔女の孫娘たち」で描かれる「あなた」と「彼女」の関係もこれに通じてグッとくる。

「総合出版社鶏頭社労働組合の庶務係、丸本萌香は憤った」と「走れメロス」を思わせる書き出しではじまる「冬闘紛糾」はバラエティに富んだこの短編集のなかでもやや異色。しかし表題作と並んで私がもっとも好きな作品だ。冬闘の描写の合間に挟み込まれる登場人物の紹介とそれぞれのエピソードがおかしい。たとえば、今期初めて委員長になった営業部主任の松葉は東大卒の元野球部主将。顔も良く仕事もできたがこの春に離婚してシングルファーザーになったばかり。自身が社会的少数者になったことでこれまで知らなかったことの多さを反省し云々。20ページの短編で冬闘の交渉を展開させつつ、この調子で5人分だ。組合運動の大義と(あるいは会社側の事情と)それぞれのごく個人的な事情や思惑が交渉の場に並んで混ざり合う。そこに居並ぶ人々の、なかでも組合員最年長〈ミスター組合〉亀田のなんと面倒臭くチャーミングなことか。

「東京より速く遠く」では東京への、「私より運命の人」では元カレへの、「スイミング・スクール」では父への屈託を軸に人間の面倒臭さが描かれる(いやもちろんそれだけではないのだが)。だが、作品ごとに凝らされた趣向は異なっており、違った読み味が楽しめるのもこの短編集の魅力だ。


『フェアな関係』:http://tababooks.com/books/fairnakankei

2023/01/20(金)(山﨑健太)

文学座『文、分、異聞』

会期:2022/12/03~2022/12/15

文学座アトリエ[東京都]

芸術か思想か。しかしそれだけが問題か。三島由紀夫『喜びの琴』上演の是非をめぐって文学座が多くの脱退者を出した1968年の事件に取材した文学座『文、分、異聞』(作:原田ゆう、演出:所奏)が描くのは、芸術か思想かという問いに揺れながら、しかし一方で現実のさまざまな問題にどうしようもなく囚われ、悩み足掻く俳優たちの姿だ。

舞台は『喜びの琴』の上演をめぐり喧々諤々の議論が交わされる文学座の総会の場面からはじまる。主たる争点は『喜びの琴』の上演が文学座の掲げる「芸術至上主義」や「思想的に中道であること」と対立するのではないかということ。『喜びの琴』で描かれる列車転覆事件が1949年に起きた松川事件を想起させ、しかも現実の裁判では犯人と疑われた20人の労働組合員全員に無罪判決が下されたばかりであるにもかかわらず、作中では列車転覆が左翼分子による犯行とされていたためだ。上演賛成派も反対派も一歩も譲らず総会は紛糾。結論は翌日に持ち越され──。


[撮影:宮川舞子]


と、「今日の総会はこんな感じだった」というシン(松浦慎太郎)の言葉で場の雰囲気は一変する。実は冒頭のこの場面は「芝居」である。テレビドラマの撮影で総会に参加できなかったマユミ(鈴木結里)のために、研究生の仲間が総会の様子を再現して見せていたのだ。『文、分、異聞』は『喜びの琴』事件を題材としつつもその顛末を追うのではなく、その渦中にありながら研究生という立場ゆえに意思決定からは疎外され、「宙ぶらりんな立ち位置」に置かれた若き俳優たちの一夜を描き出していく。

「再現」を終えた俳優たちは互いの出来を評し合うが、それも長くは続かない。それぞれに事情を抱えた若者たちには『喜びの琴』事件などよりほかに関心を寄せるべき問題がいくらでもあるからだ。アトリエを片づけながら各々好き勝手な話題に興じるうちになんとなく解散の雰囲気となるのだが、出ていった数人を無理矢理に連れ戻してきたケイスケ(相川春樹)が「皆さんにはこの文学座への思いがまったくないじゃありませんか!」「皆さんは何も感じていないんですか?」と問いを投げかけたことから事態は思わぬ方向へと転がっていくことになる。


[撮影:宮川舞子]


「研究生も意見を持っていた方がよくないかな?」とタダヒコ(奥田一平)が応じたのを皮切りに、しばしば脱線しながらもそれぞれに意見を表明しはじめる研究生たち。『喜びの琴』を上演すべきか否か。上演するのとしないのとどちらが文学座の理念に叶うのか。そもそも自分は座員に上がれるのか。文学座の俳優が目指すべき演技とは何か。上演中止で賛成派が抜けるならそれは研究生にはチャンスなのでは……? 研究生の意見なんてどうせ聞いてもらえない。議論するより実践あるのみ。そうだ、上演が決定するまでアトリエを封鎖しよう!

悪ふざけからはじまったアトリエ封鎖は全員での「三島を守れ! 上演賛成!」のシュプレヒコールに至るが、ひとりそこに加わることができないでいる者がいた。尊敬する杉村春子を裏切ることはできないというキョウコ(梅村綾子)に対し、ただの悪ふざけだから、いや、演技だから一緒に声を上げようと迫る面々。それでもキョウコは頑なだ。険悪な雰囲気になるなか、やがてそれぞれが抱える恋情や嫉妬、鬱屈した思いが露わになっていく。


[撮影:宮川舞子]


『喜びの琴』事件をめぐる物語を期待して劇場に足を運んだ観客としては、青春群像劇のような筋運びにはぐらかされたような気分にもなるのだが、しかし実のところ研究生たちのやりとりには事件の本質が映し出されてもいる。たとえ嘘だろうと上演賛成とは言えないというキョウコの態度には、たとえ芝居だろうと左翼批判の作品は上演できないという上演反対派のそれにたしかに通じる部分があるからだ。

いや、そもそも『喜びの琴』上演の可否がこれほど問題となったのも、芸術か思想かという二項対立にさまざまな現実的問題が絡みついていたからだった。年初めに劇団雲との分裂騒動で多くの座員を失っている文学座としては、これ以上の座員を失うわけには、ましてや看板作家である三島を失うわけにはいかない。一方で、集客のために労演(勤労者演劇協議会)に頼らざるを得ない現状を考えれば、労働者から反発を食らうような作品の上演は避けたい。演劇は現実と無関係ではいられず、それはつまり思想と、政治と無関係ではいられないということだ。

結局、研究生たちの思いとは無関係に上演は中止となる。だがそれでももちろん現実は、生活は続く。夜が明け、再び開いたアトリエの扉から出て行こうとするケイスケが不意に歌い出す『ホンダラ行進曲』は苦く切実に、しかしどこか明るくも響くのだった。「一つ山越しゃホンダラダホイホイ」「越しても越してもホンダラホダラダホイホイ」「だからみんなでホンダラダホイホイ」。


『文、分、異聞』:http://www.bungakuza.com/bunbun/
文学座:http://www.bungakuza.com/


関連レビュー

温泉ドラゴン『悼、灯、斉藤』プレ企画リーディング公演|山﨑健太:artscapeレビュー(2022年11月15日号)

2022/12/13(火)(山﨑健太)

チーム・チープロ『京都イマジナリー・ワルツ』

会期:2022/12/01~2022/12/05

STスポット[神奈川県]

「触れることが過剰に制限されていた不思議な時間に、わたしたちは、想像の上で誰かと踊る『ワルツ』をイマジナリー・ワルツと呼び、この踊りの型をもちいたリサーチをはじめました」。

2021年にKYOTO EXPERIMENTで初演され、YPAMフリンジのプログラムのひとつとして今回横浜で再演された『京都イマジナリー・ワルツ』(振付・構成:松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ)の当日パンフレットにはこんな言葉が記されていた。舞台に登場した松本が観客の一人ひとりと目を合わせ、誘うように手を差し伸べると、舞台奥に「みなさんはわたしと向かい合って立っていることを想像してみてください」とテキストが投影され、機械音声でそれが読み上げられる。「わたしは今日 この劇場に集まった皆さん一人ひとりとワルツを踊りたいと思っています」。


[撮影:岡はるか]


作品は投影されるテキストとその機械音声による読み上げ、そして松本のステップによって進行していく。京都での松本の体験。西洋化と近代化の象徴としての社交ダンス。かつてあった東山ダンスホールとそこで踊ったダンス芸妓と呼ばれる人々。身体の接触は不道徳であるという理由で社交ダンスが禁止されたこと。バレエに励み、しかし身体をまなざし鍛え続けることへの恐れから逃げ出した記憶。ワルツの起源に関する物語。テキストが語るワルツをめぐる歴史的なエピソードと個人的な記憶は舞台上でステップを踏み続ける松本の身体に束ねられていく。


[撮影:岡はるか]


[撮影:岡はるか]


語られる身体の多くは外部からもたらされた、さらに言えば男性から女性へと向けられた規範によって形づくられたものだ。「いったいそのような理想は誰にとっての理想だったのか」。

ステップを踏み続けていた松本が舞台からいなくなり、祖母と踊った想像上のワルツは「とてもプライベートなもの」なので「お見せすることはできません」と観客の視線が拒絶されたとき、私がともに踊っていた想像上の松本は本人から遊離したイメージでしかなかったのだというあまりに当然のことが改めて突きつけられる。言葉が引き起こす想像を松本の身体に投影すればするほど、松本自身とその身体は私の視線から逃れていく。


[撮影:岡はるか]


テキストは「わたしたちは想像します」と繰り返すが、「わたしたち」の想像が完全に一致することは決してない。それでも気づかぬふりで互いに自分の想像を相手に押しつけ合うことは明白な暴力である。ただそれがあまりに日常的な行為であるがゆえに、普段は等閑視されているに過ぎない。

だがもちろん、ダンスは他者の視線や欲望、想像によって一方的に規定され立ち上がるものではない。そこには「芸を磨くことの喜び」が、「自分の身体が見られていることの喜び」が、踊ることそれ自体の喜びがあったはずだ。

『京都イマジナリー・ワルツ』はだから、我が身にべったりと張りついた他者の想像を一度引き剥がし、そこにギャップがあることを承知で改めてそれを引き受け直そうとする試みだ。「想像の上で誰かと踊る」ことはむしろ、生身同士で触れ合って踊るときでさえ二人の間に想像の皮膜が存在していることを確認するためのトレーニングなのだ。「わたしたちは目の前にたぬきが立っていることを想像します」。「わたしたちが望む誰かにそのたぬきが化けてくれることを想像します」。私は向かい合う二匹のたぬきが互いを化かし合う様を想像する。だがそうするうちに「やがて自分が自分ならざるものに変身している」こともあるだろう。もちろんその意味合いは両義的だ。そう言えば、この作品の冒頭で語られていたのは鴨川の情景だった。川を挟んでその両岸で踊ることを想像すること。「川はこちらの世界とそちらの世界のあいだを流れています」。「川の中に仮想の重心があると想像してみてください」。そうしてワルツの基本として「ふたりの間に重心を意識」すること。


[撮影:岡はるか]


上演のラストに置かれた一連の言葉は冒頭のフレーズを反復するかのようでありながら、しかしその響きを決定的に変えている。「こちらの舞台でわたしが立っているのが見えますか?」という冒頭の問いかけが単なる形だけの確認ではなかったことはいまとなっては明らかだ。1時間にわたって松本を見続けていたはずの観客は「わたしを見てください」と改めて呼びかけられることになる。観客にその呼びかけの重みを引き受ける覚悟ができたとき、ようやくワルツを踊る準備が整うことになるだろう。舞台の上では「わたしはあなたたち一人ひとりの重さと踊っていることを想像しています」と松本が待っている。


[撮影:岡はるか]



チーム・チープロ:https://www.chiipro.net/

2022/12/05(月)(山﨑健太)

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ライカムで待っとく』

会期:2022/11/30~2022/12/04

KAAT神奈川芸術劇場[東京都]

沖縄についての物語、と言われたとき、どのような物語を思い浮かべるだろうか。『ライカムで待っとく』の登場人物のひとりはこう言う。「アメリカに支配されて、差別されて、隷属されて、その怒りや鬱憤が吹き出した末の犯行。必要なのは、そういう物語だよ」。「その方が読者の共感も狙える」し「沖縄の人たちに寄り添った記事になると思わないか」と。

沖縄本土復帰50年となる今年、「忘」をシーズンテーマに掲げたKAAT神奈川芸術劇場のプロデュース作品として、沖縄在住の劇作家・兼島拓也が書き下ろした『ライカムで待っとく』が田中麻衣子の演出で上演された。この作品は1964年、アメリカ占領下で起きた米兵殺傷事件を基に書かれた伊佐千尋によるノンフィクション『逆転』に着想を得たものだという。


[撮影:引地信彦]


雑誌記者の浅野(亀田佳明)は、妻・知華(魏涼子)の祖父の葬儀で沖縄へ向かうため、仕事を切り上げようとしていた。そこに上司の藤井(前田一世)が沖縄出身の伊礼(蔵下穂波)を連れてやって来る。見せられた写真に写る自分そっくりの人物に驚く浅野。それは伊礼の祖父なのだという。伊礼は、祖父の手記に記されていた、かつて沖縄で起きた米兵殺傷事件のことを取材してもらえないかと浅野に依頼する。半ば押し切られるようにして浅野は取材を引き受けるが、その写真には知華の祖父・佐久本寛二(南里双六)も写っていたこと、そして佐久本が米兵殺傷事件の容疑者のひとりだったことがわかり──。


[撮影:引地信彦]


物語は2022年と1964年を行き来し、舞台上では浅野の取材内容を再現するかのようにして過去が立ち上がっていく。あるいはそれは伊礼の祖父の手記に、伊佐の『逆転』に記された過去であるのかもしれず、何より兼島の戯曲に書き込まれた物語であることは間違いない。いずれにせよそこでは記された言葉が先にあり、因果は逆転している。再生産される物語。やがて取材を進める浅野の現在もまた、自らにそっくりだという伊礼の祖父のそれと重なり合うようにしてウロボロスの環のように閉じた因果に、あらかじめ定められた「沖縄の物語」に飲み込まれていく。現在と過去は混じり合い、そして浅野たちはある選択を迫られる。


[撮影:引地信彦]


廃藩置県に沖縄戦。浅野に向けられた「忘れたんですか? あなたが沖縄をこんなふうにしたんですよ」という言葉が示すように、「沖縄の物語」は本土の人間が書いてきたものだ。舞台上ではそうして沖縄に与えられた物語が手際よく展開されていく。なぜだかそこに巻き込まれ戸惑う藤井に沖縄の男が放つ「こういうふうになるよって、なってるから」という言葉は痛烈だ。男は辺野古と思われる場所に座り込む人々に対しても「もうこの後どうなるか決まってるんですけど」「そのうち立ち上がって、どっか行っちゃうと思うので、それまで待っとくしかないですね」と容赦がない。しかしその視線が向けられた先にあるのは辺野古ではなく観客が座る客席なのだ。私もまた「そのうち立ち上がって、どっか行っちゃう」観客のひとりでしかない。


[撮影:引地信彦]


[撮影:引地信彦]


物語の案内人のようにふるまうタクシー運転手(南里)は、沖縄は日本のバックヤードなのだと言う。そういえば、舞台裏から持ち出された箱には核兵器や毒ガスが詰め込まれていたのだった。表舞台が美しく平和であるためには、そんなものはバックヤードに押し込めておかなければならない。バックヤードという言葉はまた、物語を紡ぐことそれ自体の限界を示すものでもあるだろう。言うまでもなく、舞台の上に乗るのは物語として描かれた人々だけだからだ。その背後には無数の描かれなかった人々がいる。回り舞台がいくら回転しようと舞台裏が、そこにいる人々が見えてくることは決してない(美術:原田愛)。

兼島の戯曲は軽やかなユーモアで観客を引き込んでいく。演劇の構造を利用する手つきも巧みだ。だが、その先に待ち受けている物語はあまりに重い。田中の演出と俳優陣(上記に加え小川ゲン、神田青、あめくみちこ)の演技はそれらを舞台上に見事に立ち上げており、特に南里は飄々とユーモアを、悲哀を、怒りを、諦念を演じて素晴らしかった。演劇の上演は戯曲というあらかじめ書かれた言葉によって定められたものだが、舞台上にはそれ以上のものがあるのだ。そこに僅かな希望を見出すことくらいは許されるだろうか。


[撮影:引地信彦]


『ライカムで待っとく』の物語がどのような顛末を迎えるのか、その詳細はここには書かない。この作品はこれからも再演されていくべき作品であり、観客がその客席に居合わせることにこそ大きな意味がある作品だからだ。あるいはせめて戯曲を読むのでもいい(戯曲は雑誌『悲劇喜劇』2023年1月号に掲載)。そうして多くの人が、兼島拓也という沖縄在住の劇作家が書いたこの物語に立ち会うことを願っている。


『ライカムで待っとく』:https://www.kaat.jp/d/raikamu/

2022/11/30(水)(山﨑健太)