2024年02月15日号
次回3月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

川口龍一人芝居『あの少女の隣に』

会期:2023/02/04~2023/02/05

下高井戸HTSスタジオ[東京都]

川口龍による一人芝居『あの少女の隣に』(作・演出:くるみざわしん、2021年初演)のメインビジュアルには、並んで置かれた2脚のイスと、その一方に腰掛ける女性らしき人物が描かれている。もう一方は空席だ。思い出されるのはあいちトリエンナーレ2019内の「表現の不自由展・その後」で展示されていたキム・ソギョンとキム・ウンソンによる《平和の少女像》(2011)だが、《平和の少女像》とは異なり、ここに描かれた人物は向かって左側のイスに座り、チマチョゴリではなく白いワンピースのような服を身に着けている。この作品は「あの少女の隣に」座るべき存在として、戦後の日本で米軍を相手にした日本人慰安婦に焦点をあて、男の一人語りを通してその背後にある構造を暴き出す。


「あの少女の隣に」初演時舞台写真(2021年11月、西荻シネマ準備室)[撮影:横田敦史]


舞台上には客席と向かい合うように置かれた2脚のイス。そこに男がやってくるとこう言い放つ。「両方ともからっぽだよ。お前の国には置くものがないだろう。あったら出してみろ。いや、お前の国じゃない、私達の国だ。私達の国には置くものがない」。語りはのっけから分裂している。男は「あのイスの片方に少女を座らせてみたいんだよ。でもそのためには遠回りでもここから始めないと」と続け、戦争の道具として必要なのは「銃。ヘルメット。迷彩服。食べ物」に加えて女だというその語りは「それを我が国がいつ頃からどんなふうに実現したのか」へと遡る。


「あの少女の隣に」初演時舞台写真(2021年11月、西荻シネマ準備室)[撮影:横田敦史]


男によれば「ことの起こりはナポレオン時代のフランス」。性病の蔓延による戦力低下に悩まされたフランス政府が「売春婦に性病検査を強制して管理を始めた」のに各国がならい、日本もまた1872(明治5)年に警察組織をつくるためのヨーロッパ視察が行なわれたのをきっかけに、国による性病検査の強制と売春の取り締まりが制度化されたのだという。

時間は飛んで1945年。敗戦後、米軍の駐留が決まるとすぐさま、国の主導でRAA=レクリエーションアンドアミューズメントアソシエーション(作中では出てこないが日本語での名称は「特殊慰安施設協会」)という慰安施設が設置された。米兵から「我が国の女を守る」ためということだが、そこで働くのはもちろん女性である。米側はさらに売春街も米軍用に提供するよう要求するが、翌年にはアメリカ本国にいる米兵の家族からの抗議によってRAAは廃止。国の主導で設けられたはずの職を失い、いわゆる「パンパン」となった女性たちは警察の取り締まり対象となってしまう。


「あの少女の隣に」初演時舞台写真(2021年11月、西荻シネマ準備室)[撮影:横田敦史]


この作品の大部分は、男が上司である警視総監や進駐軍保健局局長ジェームス大佐から指令を受け、それを遂行するために部下や女たちに働きかけるというパターンの繰り返しで構成されている。「我が国の女を守る」という大義を掲げての施策はどれも矛盾に満ちており、それを自覚している男は指令を受けるたびに抗議をする。しかしもちろんそれが受け入れられることはない。結局のところ男は「いやいや、考えるな。とにかくこれが仕事なんだ」「お国のためだ」とそれらの命令を部下や女たちへと伝え実行に移すことになる。


「あの少女の隣に」初演時舞台写真(2021年11月、西荻シネマ準備室)[撮影:横田敦史]


この一人芝居では川口が演じるのは男一人であり(厳密にはその男にはいくつかの異なる名前が与えられてはいるのだが)、ほかの登場人物の姿は舞台上には現われない。警視総監やジェームス大佐の言葉は、例えば「え、女を使う」といった具合に、相手の言葉を聞き返し反復する男の口を介して観客に届くことになる。このような聞き返しは一人芝居の常套手段ではあるのだが、「上」からの命令が男自身の言葉として発せられてしまうつくりは巧妙だ。しかも、それらの言葉は改めて、男自身から部下や女たちへの命令として繰り返されるのだ。「上」から押し付けられたはずの言葉や価値観は繰り返しのうちに内面化され、やがては「上」からの声が実際には発せられていないときでも聞こえてくることになるだろう。

男は「徹底的に無責任なんだから、アメリカは」と責めながら、直後に自らも「私たちが生きていく道は、徹底的な無責任だよ」と言い、「上」の無責任な態度をも反復する。無責任の連鎖。ツケは弱い立場の者へと回される。作中で示されることはなかったが、無責任の体系が戦争責任の問題にも連なっていることは言うまでもない。


「あの少女の隣に」初演時舞台写真(2021年11月、西荻シネマ準備室)[撮影:横田敦史]


最後の場面は現代だ。いまだに生き続ける男は「女子大の先生」として国家管理買春や構造的な女性差別に関する講義をしている。「この仕組みを作り上げた私がどんな人間かをここでさらして、皆さんに考えてもらいたい」という男はなるほど真摯に見える。しかし、ならばなぜ、そこは女子大なのだろうか。男が一個人であるならばそのような責任の引き受け方もあり得たかもしれない。だが、男が特定の個人ではなく、文明開花以来、いやおそらくはそれ以前から生き続ける総体としての男とそれがつくり出す構造を象徴する存在であることは明らかだ。それらと向き合うべきなのはむしろ男の方だろう。無意識の無責任は現在に至るまで隠然と引き継がれている。

『あの少女の隣に』は「上」からの声を内面化し自らの価値観としていくプロセスを巧みに抉り出す。だが、その構造のみを撃つのでは、個人としての男は責任から逃れ続けてしまうだろう。だから、観客である私は、そして舞台上の男は改めて思い出さなければならない。そもそもはじめから男以外の声など聞こえていなかったということを。舞台の上で言葉を発したのは、そうすることを選んだのはどこまでいっても男自身でしかないのだ。


「あの少女の隣に」初演時舞台写真(2021年11月、西荻シネマ準備室)[撮影:横田敦史]


『あの少女の隣に』は2月25日にアトリエ銘苅ベースでの沖縄公演を、7月にはアンコール上演vol.3(会場未発表)を予定。くるみざわ作品としては俳協演劇研究所『振って、振られて』(2023年3月9〜12日、新宿)、エイチエムピー・シアターカンパニー『リチャード三世 馬とホモサケル』(2023年3月11〜12日、大阪市)の上演も控えている。



『あの少女の隣に』:http://www.myrtle.co.jp/arts/#anosyoujyo/
くるみざわしんTwitter:https://twitter.com/kurumizawashin/

2023/02/05(日)(山﨑健太)

ほろびて『あでな//いある』

会期:2023/01/21~2023/01/29

こまばアゴラ劇場[東京都]

『あでな//いある』(作・演出:細川洋平)というタイトルはdenialに由来する。つまり作品に「否定」という単語が冠されているのだが、一見して「明らかでない」ように、そのことはタイトルを見てすぐさま了解されるわけではない。アルファベットは(不定冠詞のaを付されたうえで)ひらがなへと変換され、中央に置かれたスラッシュが単語を分断しているからだ。そもそもdenialという英単語を知らなければその意味はわかりようもないだろう。そこに「否定」があることは容易には認識され得ない。そういえば、denialには精神分析の用語で「受け入れがたい現実を認識することそれ自体を拒むこと」を意味する「否認」という意味もあったのだった。見えないものに目を向けるにはまずはそれが見えていないことを、見えていないものがあることを認識することが必要で、だからそれは途方もなく困難な道のりだ。


[撮影:渡邊綾人]


舞台は美容師(伊東沙保)と客であるいべ(内田健司)のやりとりで幕を開ける。「塀があるでしょ、このお店の向こう側、わかります?(略)ここからだと見えないと思うんですけど、あるんですよ塀が向こうが見えない塀が」。美容師はそこにバンクシーが来たのだなどと、ほとんどいべを無視するような勢いで延々と話し続け、いつまで経っても髪を切ろうとする気配がない。ようやく切ろうとしたところでアシスタントのリンなる人物が紹介されるのだが、いべには、そして観客にもその姿は見えない。「本当にいます?」と戸惑いながら問ういべに、美容師は「え、本当に見えないんですか?」「見えないわけないんですけど」と答えるが、いべは結局、本当はそんな人物などいないのだと結論づける。

ところが、である。次の場面ではリンは実体を持った人間として、というのはつまり、吉岡あきこという俳優によって演じられる人物として舞台の上に登場するのだ。それでもいべにその姿は見えていないらしい。これは一体どういうことなのか──?


[撮影:渡邊綾人]


一方、高層マンションの地下の一室では雨音(生越千晴)、花束(中澤陽)、油田(鈴木将一朗)が暮らしている。家族ではないながらも身を寄せ合って暮らしている三人はどうやら「この国」の人間ではないらしい。雨音と花束は油田の誕生日を祝ってスケッチブックをプレゼントするが、うまく喜ぶことができない油田は何か事情を抱えているようだ。

物語は主にこの二つの場面を行き来しながら進み、やがて雨音が美容室を訪れるに至ってようやく、いべには「この国の人間」以外の人間が見えていないのだということが明らかになる。雨音は「ここに私たちいるんですけど、この場所に、私たちはいるんですけど!」と自らの存在を訴えるが、その声はいべには届かない。いべは決してわざと雨音たちを無視しているわけではなく、本当にその存在を認識できない様子なのだ。美容師はそこにリンと雨音がいるのだということを繰り返し告げるが、いべはそのことを認めようとはしない。とはいえ、もちろんリンたちは確かに存在しているので、物理的な接触が生じればいべはよろめいたりもする。姿の見えない誰かが存在する気配はいべを不安にさせ、否定はますます激烈な調子を帯びていくことになる。


[撮影:渡邊綾人]


劇中で「この国」がどこであるかが具体的に示されることはない。舞台奥の崩れかけた壁とバンクシーのエピソードはウクライナを思わせ、油田の発する仮放免という言葉は例えば日本の入管施設の収容者や技能実習生への非人道的扱いの数々を想起させる。

あるいは、劇中でたびたび言及されるカトマジャペニールがクルド料理だということを知っていれば、私はこれをクルド人の(いる場所の)話として見ていたかもしれない。「この国」と「それ以外」という分断は世界共通だが、現状「自らの国を持たない民族」であるクルド人はどこにいっても「それ以外」の側に置かれてしまう。

いや、たとえカトマジャペニールをクルド料理だと知らなかったとしても、それは何だと調べてみれば、そこからクルド人が置かれている現在の状況を知ることだってできたはずなのだ。雨音たちの郷愁や団結、希望の象徴のような役割を果たしているカトマジャペニールは、見えていない(かもしれない)ものに観客が手を伸ばすための回路のひとつとしても存在している。


[撮影:渡邊綾人]


では、どうすればいべは雨音たちを認識することができるのだろうか。相手が抽象的な概念としての存在に留まり続けるかぎり、その姿が目に見えるようになることはない。結末はここには書かないが、美容師のささやかな、しかし強い思いに裏づけられた提案は、目の前の、現実に存在する人間の具体性にいべを向き合わせるための一歩となるだろう。


[撮影:渡邊綾人]


さて、いべのそれのように抽象的な存在へと向けられた否定は具体的な現実によってその呪いを解くことができるかもしれない。だが、具体的な現実によって生まれてしまった否定はどうすればよいのだろうか。許せないことはある。それはどうしようもないのかもしれない。それでも。最後の場面で示されるのは答えではなく、そうして逡巡しながらも進もうとする意志だ。

本作は3月上旬から配信が予定されている。『あでな//いある』にはここには書ききれなかった一人ひとりの物語があり、何より、この作品は具体的な顔を持つ人間が演じる姿と向き合ってこそ意味を持つものだ。公演を見逃した方はぜひ配信をチェックしていただければと思う。


[撮影:渡邊綾人]



ほろびて:https://horobite.com/

2023/01/25(水)(山﨑健太)

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』

会期:2023/01/19~2023/01/22

アトリエ春風舎[東京都]

見えないものは存在しないものではない。スーパーカジュアル公演と銘打たれた果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』(作・演出:升味加耀)は、カジュアルな地獄をカジュアルに描き出そうとする、いや、それがカジュアルに存在しているからこそこの世は地獄なのだという現実を抉り出してみせる作品だ。

果てとチークは青年団演出部に所属する升味が主宰する演劇ユニット。2019年には升味作の『害悪』が北海道戯曲賞の最終候補に選出されている。今回の「スーパーカジュアル公演」は一義的には「シンプルな作品をお安くご覧いただける機会になれば」と生まれた企画とのことで、前売り2500円で登場人物6人、60分ワンシチュエーションの会話劇が上演された。だがそこで描かれる現実は重い。


[撮影:木村恵美子]


ある中高一貫の女子校。夏休みの前日、終業式を終えた放課後の教室。ミスコン実行委員のユミ(中島有紀乃)が、実はすでに投票まで終えたミス・ミスターコンが中止になったのだと言い出す。「外見に順位をつけるのはよくない」「性自認が揺らぐ」が理由らしい。アキ(井澤佳奈)とユミが「セージニン」「なんなんそれ?」「わからん」などと話しているとノザワ(升味)は職員室に行かなきゃだったと教室を出ていく。作品の(一応の)中心に置かれているのはこのミスコンをめぐる騒動に端を発する一連の出来事だ。実行委員長のソノ(川村瑞樹)は、だったら女がロミオを演じるクラス演劇はどうなんだ、レズビアンの設定にしたらどうなるんだと改めてサキちゃん先生(Q本かよ)に抗議に行く。まーちゃん(名古屋愛)はソノの案は乱暴で当事者のことを考えているとは思えないと諌めるが、ユミは「そういう人たち」がそんな割合でいるのか、言ってくれなきゃわからないし言ってくる人はいなかったと言い募り、挙句にノザワがユッキーと付き合っていることを暴露してしまう。まーちゃんと二人きりになったノザワは自分は自分を女とも男とも思えない、性別で判断されたくないと吐露し──。


[撮影:木村恵美子]


[撮影:木村恵美子]


性的マイノリティ(作中で明示されるのはアセクシャル、アロマンティック、レズビアン、ノンバイナリー)の透明化とその存在への無理解はこの作品のテーマのひとつだが、作中にはほかにも無数の「問題」が顔を出し、生徒たちのおしゃべりは次々と話題を変えていく。ミスコンの中止、専業主婦になること、出産への嫌悪感、ロミジュリ、校内に出た不審者、盗撮、ルッキズム(痩せたいと思うことと好きで痩せているわけではないこと)、演劇部の都大会での「知らないおじさん」からのコメント、大学進学、女装した露出狂(女装している人間がすべて犯罪者なわけではないということ、女もズボンを履くということ)、靴下は白でなければならないという校則(それを守っていない生徒に新しい白靴下を買ってきてまで履き替えさせる副校長)、有名な芸大の先生によるギャラリーストーカー、勤務中に生け花の時間がある銀行、隣接するビルから丸見えの屋上プール、帰国子女へのマイクロアグレッション、付き合いたいと思う気持ちがないことetc etc…。なんとここまででまだ作品の半分でしかない。


[撮影:木村恵美子]


これだけのトピックを60分のおしゃべりにまとめ上げた升味の筆と、それを上演として成立させた俳優陣の演技は特筆に値する。だが、作中にはジェンダーやセクシュアリティに関わるものを中心にあまりにも多くのトピックが詰め込まれ、それぞれの問題について丁寧に描き、あるいは深く掘り下げることはされていない。たとえばミスコンの話に物語の焦点を絞って書くという選択肢もあったはずだが、升味はそれを選ばなかった。おそらくそれは、特定の問題を選び出すという行為自体がある種の特権だからであり、現実はそういうわけにはいかないからだろう。無数の「問題」は「関ジャニで誰が好きか」といった雑談と同じ日常のレベルに存在している。ソノは性加害に否応なく直面させられる自分たちを「キモキモ変態キモリアルを日々プレイしてるJK」と表現していたのだった。男性向け恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』とは異なり、「攻略対象」を選ぶ権利はプレイヤーに与えられていない。それどころか、プレイを拒絶する権利すら与えられていない地獄こそが現実なのだ。


[撮影:木村恵美子]


作中の時間は2012年に設定されており、ガラケーが使用されていることや言及される固有名詞などから観客にもおおよその年代は把握できるようになっている。だがこの設定は作中で描かれる現実が過去のものであることを示すよりはむしろ、10年を経て変わらぬ、それどころか悪化している部分さえある現実を示すためにこそ導入されたものだろう。なぜ変わらないのか。変える以前にそもそも見えていないものがあまりに多いからだ。私に見えていない地獄はそこら中に存在し、いまこの瞬間にもその地獄を生きている人間が無数にいる。ならばせめて、可視化された地獄くらいはそのまま受け止めることからはじめたい。


果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek

2023/01/21(土)(山﨑健太)

兼桝綾『フェアな関係』

発行所:タバブックス

発行日:2022年11月24日


兼桝綾は屈託を書くのが巧い。思い悩む本人には申し訳ないが、あちらに行っては引き返し、そちらに行っては立ち止まり、ときに思い悩んでいること自体を思い悩むようなくよくよにはある種のグルーヴさえ感じてしまう。思い悩んでも仕方ないとわかっていても思い悩まないではいられない(そして時々爆発してしまう)登場人物の姿は切実だからこそ滑稽で愛おしい。

雑誌「仕事文脈」に掲載された短編をまとめた兼桝の第一小説集『フェアな関係』には「友情結婚からのセックスレスなのである」というキャッチーな一文からはじまる表題作とそのⅡ、Ⅲを含む9編が収録されている。

お互いに一番居心地がいいからという理由で(ほぼ)セックスなしのままに結婚した「私」と夫は結婚2年目。しないと決めて結婚したわけでもないのだしと「私」は夫を何度か誘ってみるもののあっさりと断られ、ほかに彼氏をつくることにも難色を示される。「権利だけ奪っておいて何もくれないって、フェアじゃなくない?」とブチ切れた翌朝、セックスする代わりに運動して痩せてほしいと「等価交換」を持ち出された「私」は「解き放った『フェア』が威力をまして攻撃してきたのに面食らって、そこまでしてセックスしてくれなくていい」と言うことしかできない。セックスをしたくない夫は子供は欲しいと思っていて、セックスをしたい「私」は子供は欲しくない(しかし夫はそれを知らない)というのだから事態はさらにややこしい。思い余った「私」は家族を続けるために夫には内緒で風俗まがいの「セラピー」を受けるのだが、そこでも「ただでさえこんな搾取行為をするのだから」年上で長身の自分が敵わないくらいのセラピストが相手でないと「金でケアを買うってことに、抵抗がありすぎる」と屈託は止まらないのだった。

恋愛とセックスと居心地のよさと結婚と関係を維持することは関係しつつもそれぞれに異なる問題で、本当はそれらが持つ意味合いもそれらに対する重みづけも人それぞれに違っているはずである。とどのつまり「フェアな関係」などというのはほとんど不可能なのだ。それどころか「フェア」の概念が持ち込まれた途端に親密さが損なわれかねないことは「私」が身をもって体験した通りだ。多くの人はそこをなあなあにすることで、あるいはなあなあにしていることを意識しないことで日々をやり過ごしている。だがセックスレスという大問題に直面している「私」にはそれをやり過ごすことができない。だからくよくよするしかない。

屈託とはああでもないこうでもないと思い悩むことであり、それを書くのが巧いということは一筋縄ではいかず割り切れない(つまりはああでもなくこうでもない)人間の面倒臭さを書くのが巧いということだ。「私とぬったんは親しいが、非常時に私より先に逃げることが出来るという点において、私はぬったんを憎んでいる」という、こちらもインパクトのある一文ではじまる「避難訓練」の「私」は事務センターの同僚であるぬったんの鈍さに苛々しっぱなしなのだが、それは同じ派遣社員として働く自分自身の立場の弱さへの苛立ちでもあり、だからこそ自分への叱咤=ぬったんへの連帯に転じる可能性を秘めている。「魔女の孫娘たち」で描かれる「あなた」と「彼女」の関係もこれに通じてグッとくる。

「総合出版社鶏頭社労働組合の庶務係、丸本萌香は憤った」と「走れメロス」を思わせる書き出しではじまる「冬闘紛糾」はバラエティに富んだこの短編集のなかでもやや異色。しかし表題作と並んで私がもっとも好きな作品だ。冬闘の描写の合間に挟み込まれる登場人物の紹介とそれぞれのエピソードがおかしい。たとえば、今期初めて委員長になった営業部主任の松葉は東大卒の元野球部主将。顔も良く仕事もできたがこの春に離婚してシングルファーザーになったばかり。自身が社会的少数者になったことでこれまで知らなかったことの多さを反省し云々。20ページの短編で冬闘の交渉を展開させつつ、この調子で5人分だ。組合運動の大義と(あるいは会社側の事情と)それぞれのごく個人的な事情や思惑が交渉の場に並んで混ざり合う。そこに居並ぶ人々の、なかでも組合員最年長〈ミスター組合〉亀田のなんと面倒臭くチャーミングなことか。

「東京より速く遠く」では東京への、「私より運命の人」では元カレへの、「スイミング・スクール」では父への屈託を軸に人間の面倒臭さが描かれる(いやもちろんそれだけではないのだが)。だが、作品ごとに凝らされた趣向は異なっており、違った読み味が楽しめるのもこの短編集の魅力だ。


『フェアな関係』:http://tababooks.com/books/fairnakankei

2023/01/20(金)(山﨑健太)

文学座『文、分、異聞』

会期:2022/12/03~2022/12/15

文学座アトリエ[東京都]

芸術か思想か。しかしそれだけが問題か。三島由紀夫『喜びの琴』上演の是非をめぐって文学座が多くの脱退者を出した1968年の事件に取材した文学座『文、分、異聞』(作:原田ゆう、演出:所奏)が描くのは、芸術か思想かという問いに揺れながら、しかし一方で現実のさまざまな問題にどうしようもなく囚われ、悩み足掻く俳優たちの姿だ。

舞台は『喜びの琴』の上演をめぐり喧々諤々の議論が交わされる文学座の総会の場面からはじまる。主たる争点は『喜びの琴』の上演が文学座の掲げる「芸術至上主義」や「思想的に中道であること」と対立するのではないかということ。『喜びの琴』で描かれる列車転覆事件が1949年に起きた松川事件を想起させ、しかも現実の裁判では犯人と疑われた20人の労働組合員全員に無罪判決が下されたばかりであるにもかかわらず、作中では列車転覆が左翼分子による犯行とされていたためだ。上演賛成派も反対派も一歩も譲らず総会は紛糾。結論は翌日に持ち越され──。


[撮影:宮川舞子]


と、「今日の総会はこんな感じだった」というシン(松浦慎太郎)の言葉で場の雰囲気は一変する。実は冒頭のこの場面は「芝居」である。テレビドラマの撮影で総会に参加できなかったマユミ(鈴木結里)のために、研究生の仲間が総会の様子を再現して見せていたのだ。『文、分、異聞』は『喜びの琴』事件を題材としつつもその顛末を追うのではなく、その渦中にありながら研究生という立場ゆえに意思決定からは疎外され、「宙ぶらりんな立ち位置」に置かれた若き俳優たちの一夜を描き出していく。

「再現」を終えた俳優たちは互いの出来を評し合うが、それも長くは続かない。それぞれに事情を抱えた若者たちには『喜びの琴』事件などよりほかに関心を寄せるべき問題がいくらでもあるからだ。アトリエを片づけながら各々好き勝手な話題に興じるうちになんとなく解散の雰囲気となるのだが、出ていった数人を無理矢理に連れ戻してきたケイスケ(相川春樹)が「皆さんにはこの文学座への思いがまったくないじゃありませんか!」「皆さんは何も感じていないんですか?」と問いを投げかけたことから事態は思わぬ方向へと転がっていくことになる。


[撮影:宮川舞子]


「研究生も意見を持っていた方がよくないかな?」とタダヒコ(奥田一平)が応じたのを皮切りに、しばしば脱線しながらもそれぞれに意見を表明しはじめる研究生たち。『喜びの琴』を上演すべきか否か。上演するのとしないのとどちらが文学座の理念に叶うのか。そもそも自分は座員に上がれるのか。文学座の俳優が目指すべき演技とは何か。上演中止で賛成派が抜けるならそれは研究生にはチャンスなのでは……? 研究生の意見なんてどうせ聞いてもらえない。議論するより実践あるのみ。そうだ、上演が決定するまでアトリエを封鎖しよう!

悪ふざけからはじまったアトリエ封鎖は全員での「三島を守れ! 上演賛成!」のシュプレヒコールに至るが、ひとりそこに加わることができないでいる者がいた。尊敬する杉村春子を裏切ることはできないというキョウコ(梅村綾子)に対し、ただの悪ふざけだから、いや、演技だから一緒に声を上げようと迫る面々。それでもキョウコは頑なだ。険悪な雰囲気になるなか、やがてそれぞれが抱える恋情や嫉妬、鬱屈した思いが露わになっていく。


[撮影:宮川舞子]


『喜びの琴』事件をめぐる物語を期待して劇場に足を運んだ観客としては、青春群像劇のような筋運びにはぐらかされたような気分にもなるのだが、しかし実のところ研究生たちのやりとりには事件の本質が映し出されてもいる。たとえ嘘だろうと上演賛成とは言えないというキョウコの態度には、たとえ芝居だろうと左翼批判の作品は上演できないという上演反対派のそれにたしかに通じる部分があるからだ。

いや、そもそも『喜びの琴』上演の可否がこれほど問題となったのも、芸術か思想かという二項対立にさまざまな現実的問題が絡みついていたからだった。年初めに劇団雲との分裂騒動で多くの座員を失っている文学座としては、これ以上の座員を失うわけには、ましてや看板作家である三島を失うわけにはいかない。一方で、集客のために労演(勤労者演劇協議会)に頼らざるを得ない現状を考えれば、労働者から反発を食らうような作品の上演は避けたい。演劇は現実と無関係ではいられず、それはつまり思想と、政治と無関係ではいられないということだ。

結局、研究生たちの思いとは無関係に上演は中止となる。だがそれでももちろん現実は、生活は続く。夜が明け、再び開いたアトリエの扉から出て行こうとするケイスケが不意に歌い出す『ホンダラ行進曲』は苦く切実に、しかしどこか明るくも響くのだった。「一つ山越しゃホンダラダホイホイ」「越しても越してもホンダラホダラダホイホイ」「だからみんなでホンダラダホイホイ」。


『文、分、異聞』:http://www.bungakuza.com/bunbun/
文学座:http://www.bungakuza.com/


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