2022年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

プレビュー:東日本大震災と向き合う舞台作品4本──『福島三部作』『消しゴム山』『光のない。─エピローグ?』『是でいいのだ』

会期:2021/02~2021/03

[神奈川県/東京都]

東日本大震災から10年。関連する舞台作品が相次いで上演される。

TPAM2021でTPAMディレクションとして上演されるDULL-COLORED POP『福島三部作』(作・演出:谷賢一)は2018年に第一部が先行上演され、2019年に三部作として初演、2020年には第二部が第23回鶴屋南北戯曲賞を、三部作として第64回岸田國士戯曲賞を受賞した作品。福島県双葉町を舞台に住民たちが原発誘致を決定するまでを描く第一部『1961年:夜に昇る太陽』、かつて原発反対派だった男が賛成派として町長となり、そしてチェルノブイリの原発事故に直面する第二部『1986年:メビウスの輪』、被災者への取材で語られる無数の言葉とテレビスタッフの葛藤が観客をも揺さぶる第三部『2011年:語られたがる言葉たち』。三つの時代、半世紀にわたる物語はひとつの視点からの断罪を許さない。科学技術への期待と人間の欲望、職業倫理とひとりの人間としての意志、積み上げてきた時間と来るべき未来。善悪では割り切れない人間の葛藤がそこにはある。

『福島三部作』は2月12日から14日、KAAT神奈川芸術劇場で上演。劇場上演に先がけて9日から12日にはオンライン配信も予定されている。膨大な注釈が付された『戯曲 福島三部作』(而立書房)も併せて読みたい。

同じTPAMのフリンジプログラムではチェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』が上演される。『消しゴム山』は、作・演出の岡田利規が岩手県陸前高田市で津波被害を防ぐための高台の造成工事によって人工的に造りかえられていく風景を目撃したことをきっかけに構想されたのだという。津波という自然災害で壊滅した街並みと、人間の都合で書き換えられる風景。岡田は『現在地』(2012年初演)、『地面と床』(2013年初演)、『部屋に流れる時間の旅』(2016年初演)と東日本大震災をきっかけに顕在化した価値観の相違や対立を描いてきた。『消しゴム山』はさらに、人間中心の世界観の外側へと目を向けようとする。瓦礫の山にも似た舞台美術は美術家・金氏徹平の手によるもの。モノに埋もれ、なかばそれらと一体になりながらそこに立つ俳優の姿は、不可解なこの世界に生きるしかない私の似姿かもしれない。あうるすぽっとで2月11日から14日まで。ライブ配信とアーカイブ配信も予定されている。

シアターコモンズ'21では高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』が上演される。今回の上演はフェスティバル/トーキョー12でPort B『光のないⅡ』として上演された作品のリクリエーション。高山はオーストリアのノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と福島第一原発事故への応答として発表した『光のない。』の続編として執筆した戯曲(白水社から刊行されている戯曲集『光のない。』[林立騎訳]には「エピローグ?[光のないⅡ]」として収録)を、東京電力本社ビルの立つ新橋駅周辺を舞台とするツアーパフォーマンスとして構成した。スタート地点は福島第一原子力発電所と同じ1971年に開業したニュー新橋ビル。12枚のポストカードとラジオを手に新橋駅周辺を巡る観客は、新橋と福島との距離に対峙することになる。今回のリクリエーションは10年という「距離」とも否応なく向き合うものになるだろう。

「距離」というテーマはVR作品や鍼を用いたセラピーパフォーマンスなど、シアターコモンズ'21のほかのプログラムとも共振する。フェスティバル/トーキョー12当時の、そして現在はシアターコモンズのディレクターである相馬千秋によるキュレーション・コンセプト「孵化/潜伏するからだ」は観客に個々のプログラムを超えた更なる思考を促すものだ。シアターコモンズ'21は2月11日から3月11日まで開催。高山明/Port B『光のない。—エピローグ?』 は3月4日から3月11日まで。すでに満席となっているようだが増席の可能性も検討されているとのこと。

3月11日から15日にかけては三鷹SCOOLで小田尚稔の演劇『是でいいのだ』が上演される。『是でいいのだ』は2016年初演、2018年以降は毎年3月に再演されている小田の代表作。東京で被災したと思われる5人の登場人物が自らの体験をときに自虐的なユーモアを交えながら淡々と語る。劇的なことは起こらない。「自らの人生の境遇や環境を受け入れて前に進むこと」を描いたというこの作品はしかし、等身大であるからこそ観客に10年前の自身の体験を思い出させ、現在の自らを省みる契機となり得る。

それぞれに異なるやり方で東日本大震災や福島第一原発事故と向き合う四つの作品。いずれも再演だが、そこに舞台芸術のひとつの意義がある。作品に刻印された初演当時の記憶。時を経て作品と向き合う自分の、社会の変化。あるいは作品自体の変化。繰り返し上演される舞台芸術は、そのたびにつくり手と観客の現在地を問い続ける。


DULL-COLORED POP『福島三部作』:https://www.tpam.or.jp/program/2021/?filter=.tag--fukushima-trilogy
チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』:https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=53
高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』:https://theatercommons.tokyo/program/akira_takayama/
小田尚稔の演劇『是でいいのだ』:http://odanaotoshi.blogspot.com/2021/01/20213.html


関連レビュー

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2021/02/01(月)(山﨑健太)

ほろびて『コンとロール』

会期:2021/01/19~2021/01/21

下北沢OFF・OFFシアター[東京都]

ほろびては劇作家・演出家・俳優の細川洋平が主宰するカンパニー。2020年2月・3月に上演された『ぼうだあ』は大きな注目を集め、その後、期間限定で同作の映像と戯曲も公開されていた。4月には俳優の三浦俊輔がメンバーに加入。本作は細川のソロ・カンパニーから体制変更後、初の公演となる。

テレビゲームをしているうるい(藤井千帆)と永端(三浦俊輔)。うまくプレイできないうるいに永端は横からああしろこうしろと口を出すが、うるいは聞く耳を持たず気ままにゲームを楽しんでいる。プレイヤー交代。今度は永端が(腕前を自画自賛するような蘊蓄を垂れながら)プレイするが、うるいは退屈そうだ。しかしある瞬間、永端が握るコントローラーによって操作されるキャラクターの動きに連動し、うるいの体が彼女の意思とは無関係に動き出してしまう。どうやらそのコントローラーには近くにいる人間の体を自在に操作する力があるらしい──。

[撮影:渡邊綾人]

[撮影:渡邊綾人]

一方、カフェにいる男女。スーパーの店長であるイマミチ(松浦祐也)はアルバイトのしすく(鈴政ゲン)に契約の打ち切りを告げる。どうやら経営が思わしくないらしい。笑顔で話を聞いていたしすくだったが、突然泣き崩れてしまう。「生きていけない」「アンタが私と妹を路頭に迷わせるんだ」と責め立てるしすくに「いつも楽しそうだから、ほんとはお小遣い稼ぎくらいに思ってた」「うっかり」「知らなかったから」と言うことしかできないイマミチ。やがて「うちに来るのがいいと思う」としすくを抱きしめ──。

[撮影:渡邊綾人]

男たちが他人の生殺与奪の権利を図らずも得てしまうところからはじまる二つの物語はある日、イマミチとその弟カワハギ(細井じゅん)、しすくとその妹カコ(宮城茉帆)が同居するマンションの一室に、隣室に住む永端がコントローラーを持って闖入してきたことによって陰惨な監禁暴行事件へと展開していく。コントローラーを使ってイマミチたちを操り、自分自身やお互いを傷つけ合わせる永端。爪を剥がれ、腱を切られ、電気ショックを与えられ、指を折られ。痛みは抵抗する気力を削ぎ、イマミチたちはやがてコントローラーなしでも永端の指令に従うようになっていく。カワハギは片手片足が動かなくなり、カコは4本の指を折られ、しすくは永端に弄ばれ、そしてイマミチは息を引き取る。いつまでも続くかと思われた暴力の時間は、隣の部屋で同じように監禁されていたらしいうるいが外の世界へと出て行く決意をすることでようやく終わりを迎えるのだった。

[撮影:渡邊綾人]

[撮影:渡邊綾人]

陰惨な事件を起こした「犯人」は間違いなく永端だが、彼は自らの手を一度も汚していない。暴力を振るったのは監禁されていたイマミチたち自身であり、その意味では被害者は残らず加害者でもある。目を背けたくなるような暴力は事件を特別な、私とは無関係なもののようにも見せる。しかし、強者は自ら手を汚さず、立場の弱いもの同士が互いを攻撃し合う構図は、程度の差こそあれ、現代日本を含め古今東西あらゆるところで見られるものだ。

ところで、「犯人」たる永端さえいなければこのような事件は起きなかったのだろうか。永端の言葉はそれを否定する。「他でもないコントローラーに操られていただけなんだからなにひとつ俺に責任はない」。イマミチたちに対する絶対的な支配を可能としたコントローラーの存在は、それを使う側であるはずの永端をも操っていたというのだ。もちろんこれは卑劣な言い逃れだが、同時に、力というものの本質を表わしている。そう言えば、永端はコントローラーの力に気づいた当初、自らの体を進んでうるいの操作に委ね、「楽しかった」「すごい充実感」と言っていたのだった。それがどちらの側であれ、力に身を委ねることの快楽というものはたしかに存在する。

この行動は自らの意思によるものではない、という言い訳が人間を残虐にすることは心理学的実験によっても歴史的な事実によっても証明されている。大義名分を掲げることにも同じような効果があるだろう。あなたのため、国のため、あるいは作品のため、芸術のため。支配をめぐる構造は演劇という形式とも不可分に結びついている。演出家と俳優、俳優と役、俳優の意思と体。苛烈な暴力を舞台上に出現させているのは誰の意志か。

[撮影:渡邊綾人]

永端と暮らす部屋から逃げ出したうるいは裸足で走り続ける。透明なロープ状のものがうるいの体に絡みつき、その場に縛りつけようとするが、彼女はそれを振りほどき、やがて舞台と客席とを仕切る枠組みを越える(美術:西廣奏)。自分を縛る環境から逃れ出ることは容易ではなく、そもそも自分が環境に縛られていること自体を認識できない場合も多い。客席を正面から見据える彼女の目はこう問うているようだ。暴力を許していたのはほかならぬお前ではなかったかと。

本作は春ごろに配信が予定されている。

公式サイト:https://horobite.com/

2021/01/20(水)(山﨑健太)

篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演『5×5×5本足の椅子』

会期:2020/11/22~2020/11/23

オンライン

篠田千明『5×5×5本足の椅子』は「ダンサーであるアンナ・ハルプリンの『5本足の椅子』(1962年)のダンススコアをもとに、篠田が2014年に制作/発表したパフォーマンス作品『5×5 Legged Stool』をオンラインで展開するもの」(YCAMホームページより)。5×5×……と5が累乗されていくタイトルからは、『5本足の椅子』を原典に、自らの創作が2次創作、3次創作としてあるのだという篠田の意識が読み取れる。興味深いのは、2次創作にあたる『5×5 Legged Stool』がオンサイト=3次元で上演されたのに対し、3次創作にあたる今作がオンライン=2次元の画面上で上演されている点だ。

『5×5 Legged Stool』はダンススコアをもとにはしているものの、もともと「戯曲ではないものから演劇を起こすシリーズ『四つの機劇』のひとつとして」上演された「演劇作品」であり、今作の冒頭でも篠田はこの取り組みが「演劇」としてあるという主旨の発言をしている。ここで「演劇」という言葉は広義での「戯曲」の「上演」、2次元に記録された情報の3次元への展開プロセスを指している。オンライン演劇は演劇か、という問いに答えるためにはまず演劇を定義する必要があるが、この定義に則るならば今作は紛うことなき演劇であると言えよう。

上演は篠田による導入に続き、実際にスコアからダンスを起こすプロセスへと進む。まずは福留麻里がスコアに記された5人のダンサーのうちひとりの動きを舞台上で「再現」。画面上には福留のダンス映像に加えて、ハルプリンのスコアとそれに対する福留の解釈を言語化した字幕が表示されているのだが、これは福留のダンスが「戯曲」の「上演」であることを改めて可視化し、観客と共有するためだろう。あらゆる戯曲がそうであるように、ハルプリンのスコアもまた「上演」のすべてを厳密に規定しているわけではなく、演出家や俳優・ダンサーの解釈が入り込むことで「上演」は立ち上がる。

画面上にはスコア、字幕、ダンス映像が並び、観客は結果としての上演(=ダンス)だけでなくスタート地点(=スコア)から結果に至る過程(=字幕)までをも同時に見渡すことになる。……というのはあくまで概念的な解釈に過ぎない。実際の上演において、観客がこれらの情報のすべてを同時に把握することはほとんど不可能だ。情報量が多すぎる。にもかかわらず、画面上の情報量はますます過剰になっていく。さらに2人のダンサー(ちびがっつ!とryohei)が「再現」に加わるからだ。しかも彼らは福留とは別の空間で踊っており、それぞれのダンス映像は画面上の異なる三つのウインドウに示されている。このとき、「上演」の場たる二次元の画面は、上演の構成要素がさまざまな記号として配置し記述されるダンススコアの平面とほとんど見分けがつかないものとなっている。

こうして、二次元のダンススコアは三次元の時空間へと展開し、再び二次元の画面上へと圧縮される。上演台本という言葉があることからもわかるように、戯曲と上演の関係は必ずしも一方通行なわけではない。広義での「二次創作」は新たな原典となり、さらなる二次創作の契機となる。

上演はさらに、ハルプリンの研究者やハルプリンのワークショップを体験したダンサーへのインタビュー映像を交えた、篠田によるレクチャー・パフォーマンスへと移行する。インタビューで語られる上演の様子は別ウインドウで「再現」映像としても流される。楽屋のモニターで舞台の様子を見ていた、という証言に合わせて映し出されるモニターを見上げるダンサーの後頭部。だが、その顔が映し出された瞬間、私は時空が歪んだような感覚を覚えることになる。そのダンサーが、先ほどまで別ウインドウでパフォーマンスを進行していた篠田その人だったからだ。

もちろんそれは、あらかじめ録画されていた映像に過ぎない。だが、あらかじめ録画されていたのはどちらの映像なのか。司会進行の篠田か、それともダンサーとしてパフォーマンスをする篠田か。私が現在だと思い込んでいたものは、篠田の分裂とともにずるりと画面の中に引き込まれる。過去と現在は画面上で等価なものとなり、「戯曲」と「上演」はメビウスの輪のように絡みあう。

最後のパートでは、観客がバーチャルな上演空間に集い、スコアの指示を自ら実践する。観客は「Hubs」というサービス上のVR空間に自らのアバターをつくり出し、ワームホールのような球体(時空の歪み!)を通ってバーチャルな舞台に上がる。スコアの指示を再解釈した、観客が実践すべきインストラクションは「写真を撮る」こと。撮られた「写真」は空間に浮かぶようなかたちですぐさまその場に表示される。二次元の画面上に仮構された三次元の空間は、こうして再び二次元へと圧縮されていく。画面=空間に並ぶ無数の写真。だがそれは決して空間を埋め尽くすことはない。二次元と三次元の往復運動が生み出す無限の余白。演劇はそこに広がっている。


篠田千明『5×5×5本足の椅子』トレーラー


公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2020/the-5-by-5-by-5-legged-stool/
篠田千明Twitter:https://twitter.com/shinchanfutene
広報用ビジュアルデザイン:植田正


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篠田千明 新作オンライン・パフォーマンス公演『5×5×5本足の椅子』|高島慈:artscapeレビュー(2020年12月15日号)

2020/11/22(日)(山﨑健太)

小田尚稔の演劇『罪と愛』

会期:2020/11/19~2020/11/23

こまばアゴラ劇場[東京都]

ひとりの男がアパートの家賃を払えず大家に怒られている場面からはじまる小田尚稔の演劇『罪と愛』には、全部で4人の、同じような境遇にあるらしい男たちが登場する。パソコンに向かい演劇の脚本を書く男1(加賀田玲)。自由の女神像を燃やしてしまおうと目論む男3(藤家矢麻刀)。何か罪の意識を抱えているらしい男4(串尾一輝)。そして家賃を払えずアパートを追い出されそうになった挙句に大家を逆恨みする男2(細井じゅん)。彼らは舞台上に入れ替わり立ち替わり現われて自分の話をしては去っていく。それぞれ別の俳優によって演じられる男たちの話にはしかし、ところどころで微妙に重なる部分があり、何より彼らは舞台上に設えられたアパートの一室を「共有」しているため、観客には彼らが同一人物であるようにも見える。

男のひとりが演劇の脚本を書いていることを考えれば、いずれにせよ恵まれた状況にあるとは言えない男たちは、この作品の脚本・演出を務める小田尚稔自身の分身である、と言ってしまいたくもなるのだが、男たちが実は同一人物なのであれ、似てはいるが別々の人物なのであれ、なぜそのように描かれなければならなかったのか、という点に問題はある。

たとえば、男たちはあり得る別の可能性としての小田なのだ、と考えることはできる。だが、それにしては男たちの状況は絶望的なまでに似通っている。状況は停滞し、緩やかに悪化していきさえする。男2はついには大家を殺害し、男4は同居していた女に別れを告げられやはり殺してしまう。自由の女神像を燃やした男3は警官に囲まれた挙句に射殺される。あるいは、悲劇的な結末はすべて脚本のなかの出来事だろうか。男1はそれらの可能性を、悲劇的な未来を必死に呑み込むようにして机に向かい続ける。

[撮影:小田尚稔]

もちろん、小田は小田でしかなく、舞台上の4人の男たちは小田ではあり得ない。それでも、彼らは同一人物なのかもしれないと観客は想像するだろう。これまでの作品でも小田は複数の登場人物のあいだにいくつかの共通点を設定することで同一人物である可能性を示唆し、「別人」への想像力の回路を駆動する手法を用いてきた。今作では私小説的な設定を導入し、作者である小田自身の姿をもそこに重ねることで、観客の想像を現実にも向けさせている。

小田の作品ではしばしば、その作品に影響を与えた哲学書や小説などの一部が登場人物によって読み上げられる。今作でもドストエフスキー『罪と罰』やシェイクスピア『リチャードⅡ世』などが読み上げられるのだが、参考文献のなかには市橋達也『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』と中島岳志『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』という二冊の書籍も含まれている。登場する男たちの何人かが犯罪者として描かれていることを考えれば、その意図するところは明らかだろう。劇中で直接言及されるわけではないが、参考文献として挙げられた書名を通して観客は二人の名前に触れることになる。どこまでいっても「別人」でしかない彼らの、それでも「隣人」として想像の回路をつなごうとすること。

あるいはそれは、同一人物のなかにもさまざまな面があることにも通じているかもしれない。尋常でない剣幕で男2に家賃の支払いを迫る大家と、男1の東京での暮らしを心配する母。男に対して対照的な態度を取る二人の女性はしかし、どちらも新田佑梨というひとりの俳優によって演じられている。男(たち)に対する彼女の態度の落差に観客である私は居心地の悪い思いをするが、しかしそのような二面性はごくありふれたものだろう。

[撮影:小田尚稔]

「愛している証のようなものが欲しかった」と語る男(たち)の示す情もまた、酷薄さとほとんど表裏一体のように見える。男の部屋には蜘蛛が棲みついている。男は「彼女」をうっかり殺してしまわないように気をつけながら生活しており、どうやら同居人としてそれなりの愛情さえ感じているようだ。だが、渡邊まな実によって演じられるその「蜘蛛」は、男と同居し、やがて殺されることになる女の姿と重なっていく。蜘蛛に愛情を注ぐ優しさは反転し、女の存在に虫けらと同等の重みしか見出さない酷薄さとなる。

男3と一時の交流を持つ女(宮本彩花)も含め、『罪と愛』に登場する女たちは一貫して、男(たち)の物語を成立させるためのキャラクターとしてのみ描かれている。そこにある断絶、そこから生まれる息苦しさは現在の日本社会を覆うそれと同質であり、「別人」への想像の回路は、だからこそ切実に要請されている。

[撮影:小田尚稔]

今作は、これまでギャラリー的な空間で公演を行なってきた小田尚稔の演劇の劇場進出作品でもある。俳優の語りと同等の存在感で舞台上に存在し世界を生成する土屋光の音響や鼠役として出演する冷牟田敬のギターは、ともすれば鬱屈し閉塞してしまいかねない劇世界にユーモアとフィクションならではのイメージの飛躍をもたらし、小田作品の可能性を広げていた。小田の劇場への「挑戦」は大きな成果として結実したと言えるだろう。

小田尚稔の演劇の次回公演は3月。毎年3月11日の前後に再演し続けている『是でいいのだ』の再びの再演となる。

[撮影:小田尚稔]

[撮影:小田尚稔]


公式サイト:http://odanaotoshi.blogspot.com/


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小田尚稔の演劇『是でいいのだ』/小田尚稔「是でいいのだ」|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年04月15日号)

2020/11/19(木)(山﨑健太)

円盤に乗る派『ウォーターフォールを追いかけて』

会期:2020/10/23~2020/11/2

オンライン上映

『ウォーターフォールを追いかけて』は「同名の戯曲に取り組みながら分断の時代におけるドラマの意義の再発見を目指す、1年間のプロジェクト」。円盤に乗る派は2018年の活動開始以来、上演と併せてシンポジウムや雑誌の発行などを行ない、その総体を公演として人の集う場所をつくり出してきた。今回もオンライン上演と合わせて読書会、上映会、シンポジウムが実施され、オンラインにおいても一貫して人が集う場を問い続ける姿勢が見える。

『ウォーターフォールを追いかけて』のオンライン上演にはいくつかのユニークな特徴がある。まず第一に「上演」がオンラインで収集された無数の声によって構成されていること。『ウォーターフォールを追いかけて』の特設サイトには上演に先がけて、誰でも参加できる「録音」のコーナーが設けられた。「録音に参加する」をクリックすると画面には戯曲の断片が表示され、参加者は「誰もいない室内で、壁の向こうにいるかもしれない誰かに聞かれないように注意しながら」録音に臨むことになる。収集された声は脚本・演出を担当するカゲヤマ気象台によって編集され、江口智之の映像とAOTQの音楽と合わせて「上演」を構成する。

そもそも、『ウォーターフォールを追いかけて』という戯曲はその成り立ちからして複数の声を孕んでいる。この戯曲は早稲田小劇場どらま館で早稲田大学の学生を対象に実施された「ドラマゼミ」の最終成果物である「部品(パーツ)」を原案(ドラマゼミメンバー:カゲヤマ気象台、片山さなみ、中西空立、マツモトタクロウ)として執筆されたものなのだ。

さらに、開演はいずれも23時に設定され、上演時間は50分程度。観客は一日の終わりを『ウォータフォールを追いかけて』過ごす。作品自体はあらかじめ編集され完成されたものだが、配信はその都度リアルタイムで行なわれていたようだ。回線が不安定なのかときおり画面が止まったり音声が途切れたりもする。画面上部にはリアルタイムの視聴人数が表示され、同じ時間、違う場所で同じ声に耳を傾けるほかの人々の存在を微かに伝える。それはラジオとリスナーの関係に似ている。だが、同じ時間に届けられるそれらの声は、夜空に瞬く星の光のように、それぞれに異なる時間、異なる場所で密やかに発せられたものだ。

私も録音に参加したのだが、録音から上演までに1カ月以上の時間が経過していたため、自分がどのような言葉を発したかはすっかり忘れてしまっていた。他人の言葉を発する自分の声は半ば他人のもののようでもあり、上演を聞けば確かにそのような言葉を発した記憶もあるそれは、しかし私の知らない文脈のなかで発せられていた。他人の言葉が私の言葉となり、そして再び見知らぬ言葉となり広がっていく。

今回の『ウォーターフォールを追いかけて』のオンライン上演では、密やかに発せられた言葉が密やかに聴取され、同時にゆるやかな場を形成していた。そのようなあり方自体、プロジェクトのひとつの成果であり目指したところではあるだろう。では、上演が立ち上げたものはなんだったのだろうか。

戯曲に登場する7人の人物は100以上の声によって演じられるため、聞こえてくる声だけを頼りに観客が一貫した人物像を構築することは難しい。画面には台詞とそれを発する人物の名前も字幕として表示されるものの、そうして示される一貫性を裏切るようにして声は次々と移り変わっていく。室内を漂うような映像(それは物語を表象するものではない)と音楽も相まって、主体はむしろ空間へと溶け出していくかのようですらある。今回のオンライン上演を通じて観客が戯曲で描かれた物語の全体像を把握することは困難だったのではないだろうか。おそらくそれでよいのだ。物語の全体像はわからずとも、観客のうちに言葉の断片は残るだろう。観客は戯曲のデータにアクセスすることだってできる。それに、プロジェクトはまだはじまったばかりだ。

創造主と名づけられた人物の長い長い台詞からはじまる物語に登場する人々にはどこか「間違った」世界にいるような感触がある。最後に発せられる言葉は「この世界」を生きる私にとっても切実だが、ここにはそれは記さない。プロジェクトのなかで再び戯曲の言葉と出会うとき、また改めて考えることにしたい。


公式サイト:https://noruha.net/

2020/11/02(月)(山﨑健太)

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