2019年11月15日号
次回12月2日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

木村悠介/サミュエル・ベケット『わたしじゃない』

会期:2019/06/20~2019/06/24

SCOOL[東京都]

『わたしじゃない』はサミュエル・ベケットの後期戯曲作品のなかでも特に奇妙な作品である。登場するのはひたすらにしゃべり続ける「口」と、それに対峙し無言のままに言葉の奔流を浴びる「聴き手」だけ。「口」は文字どおり口だけが宙に浮かぶよう指定されていて、一方の「聴き手」は黒い布に全身が覆われその正体は杳(よう)として知れない。「口」の断片的な語りに耳を澄ませば、ひと言も口をきくことのできなかったある人物が、ある日、突如として言葉の奔流に襲われたという物語が辛うじて聞き取れる。観客は目の前の「口」こそがその人物なのではと思うのだが、「違う! 彼女よ!」という「口」の激烈な言葉は、それが自らの物語であることを否定しようとする。

『わたしじゃない』の上演では、「口」だけを舞台上に登場させるために、俳優の口以外の部分を布などで覆う方法が採られることが多い。だが、今回の演出を手がけた木村悠介は、自身が独自に発見した技術だという「箱なしカメラ・オブスキュラ」を用い、言葉を発する俳優の口元だけを映像として壁面に投影する方法を採用した。結果、セリフを発する俳優は自らの口の映像と対峙するかたちとなり、あたかも「口」と「聴き手」の一人二役を演じているかのような状況が出現していた。戯曲にも「口」と「聴き手」は同一人物なのではと思わせるような記述があり、木村の演出はそれを文字通りに成立させるものとしても興味深かった。

今回の公演には4人の俳優による四つのバージョンがあり、私はそのうち増田美佳と三田村啓示による上演を見たのだが、特に興味深かったのが三田村による上演だ。男性による上演は『わたしじゃない』という作品に対しいままでに思いもよらなかった解釈を可能にした。「口」の語りが、Male to Femaleのトランスジェンダーによる切実な存在証明として響いたのだ。

Male to Femaleというのは身体的な性は男でありつつ女の性自認を持つ人を指す言葉である。「口」の語りに登場するかつて言葉を持たなかった人物というのは、男性の身体に抑圧された内なる女性だったのではないか。周囲に認知してもらえなかったからこそ自らが、しかし「彼女」という三人称の下で=外からの名指しとしてその存在を語るしかなかったのではないか。「口」しか存在しないのは、身体こそが「彼女」の存在を覆い隠してきたからではないか。「違う! 彼女よ!」という激烈な否定はむしろ、自身の存在を肯定するための悲痛な叫びだったのではなかったか。

なぜ「口」は語り続けるのか。なぜ「彼女」の物語であることにこだわるのか。なぜ「口」だけなのか。なぜ「彼女よ!」と否定するのか。語る身体が女性である限りにおいて、これらの疑問に対する答は得られない。だが語る身体が男性に置き換えられた途端、すべてがあまりに腑に落ちはしないだろうか。この解釈が唯一の正解であるというつもりはないが、これまでに見た『わたしじゃない』のなかでもっとも胸に迫る上演となった。


公式サイト:http://scool.jp/event/20190620/


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木村悠介演出作品 サミュエル・ベケット『わたしじゃない』|高島慈(artscapeレビュー 2019年8月1日号)

2019/06/24(山﨑健太)

屋根裏ハイツ B2F 演劇公演『寝床』

会期:2019/06/14~2019/06/16

SCOOL[東京都]

屋根裏ハイツは中村大地が演出を務める演劇カンパニー。2013年の設立以降、仙台を拠点に活動してきたが、現在は活動の中心を東京に移している。利賀演劇人コンクール2019では『桜の園』の上演で中村が優秀演出家賞一席を受賞しており、名実ともに若手注目カンパニーのひとつとなっている。

『寝床』は同性カップルの内見、引きこもりがちらしい娘とその母の朝のやりとり、孤独死したらしき人物の部屋を清掃する業者、部屋を退去する直前の老夫婦の様子を描いた四つの場面で構成されている。

© 本藤太郎

© 本藤太郎

物語上は直接の関係はないと思われる四つの場面だが、いくつかの仕掛けによってゆるやかにつながってはいる。ひとつはすべての場面が同じ3人ないし2人の俳優(村岡佳奈、渡邉時生、安藤歩)によって演じられるということ。場面の切り替わりも明示されないため、観客の多くは場面が切り替わってからしばらくしてようやく、演じられているのが先ほどまでとは異なる場面であることに気づいたのではないだろうか。異なる場面で演じられる異なるはずの人物は、しかし地続きに演じられる。

地続きなのは俳優だけではない。会場であるSCOOLという雑居ビルの一室もまた、舞台美術などで覆われることなく、むき出しのまま(当然のことだが)つねにそこにある。いずれの場面も俳優と公演会場という同じ現実をベースとしてつくられている。

© 本藤太郎

各場面の設定にも共通点を見出すことができるだろう。同性カップル、引きこもり、孤独死した人物と特殊清掃業者、記憶の覚束ない老人。彼らはいずれも、現在の日本においては残念ながら周縁的な地位に置かれている人々だということができる。そしてタイトルが暗示する孤独死のモチーフ。カップルを案内する不動産管理会社の人間はそこが事故物件であることを告げ、体液の流れ出す夢を見た娘はそのまま孤独死した人物として業者によって搬出されていく。最後の場面にこそ死のモチーフは登場しないものの、老人がもっとも死に近いことは確かであり、彼らが去った舞台は空っぽのまま幕を閉じる。通底する孤独と死の気配。

だがもちろん、屋根裏ハイツは周縁に置かれた人々をひとまとめに扱っているわけではない。彼らはそれぞれに違った個人であり、それぞれに異なる悩みや希望を抱えているだろう。その違いを踏まえてなお、そこにないはずの/あるかもしれないつながりを仮構してみせるのは、彼らがそこにこそ演劇的想像力の可能性を見ているからなのではないだろうか。あるいはそれは単に、ここで描かれる世界もまた、私が生きるそれと同じ世界なのだという身も蓋もない事実を突きつけているだけのことなのかもしれないが。屋根裏ハイツの次回公演『私有地』は11月28日(木)から、同じくSCOOLで上演される。

© 本藤太郎


屋根裏ハイツ:https://yaneuraheights.wixsite.com/home

2019/06/16(山﨑健太)

The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源・拡張版』

会期:2019/05/29~2019/06/09

こまばアゴラ劇場[東京都]

本作は同タイトル・同モチーフ・同設定のもと、2018年12月の「基本公演」と2019年5月の「拡張公演」の二つのバージョンが上演された。こちらは拡張公演のレビューとなる(基本公演のレビューはこちら)。

家族、あるいは男女の関係の新たなあり方を模索しつつも異性愛男性中心の価値観の強固な支配から逃れられなかった基本公演。拡張公演では「その後」、あるボードゲームカフェの開店が断念されるまでの時間と周囲に集う人々の関係の変化が、錯綜した時間軸のなかで描かれる。

© 刑部準也

結論から言えば、異性愛男性中心の価値観は本作においても温存されている。男性の登場人物が3人に増えたため「ギャルゲー」の印象はなくなったものの、本作においても女性の登場人物が男性の物語を担保するための駒として配置されている印象は拭えなかった。支配的な価値観を転覆することはかくも難しい。

そんななかにあって、新たにコミュニティに参加しようとしながら、ゲームに誘われるたびに「できません」と繰り返す女・そつある(湯口光穂)の存在は際立っている。彼女の発言や行動は一見したところ場の空気を読まない「迷惑な」ものだが、場を規定するそもそものルールが理不尽であるとき、その土俵(この言葉自体、男性原理に支配されたフィールドを指すものであった)で勝負すること自体に異を唱えるのは真っ当なふるまいだろう。

おそらく、作者の山本健介は自らに巣食う男性原理に気づいているのだ。基本公演同様、本作でも劇中にはオリジナルのゲームが登場する。『魔女の村に棲む』と題されたそれはインディアンポーカーと人狼を組み合わせたようなゲームで、二つの陣営に分かれたプレイヤーは、自らがどちらの陣営に属しているかわからないままに、自分たちが「多数派」となるよう「相手」を排除していくことを要求される。

ゲームの作者・中大兄(寺内淳志)は「このゲームで何がしたいっていうのが見えてこない」と言われ「話し合いがしたい」と答える。ゲームに民主主義を導入する試みにも思えるが、話し合いを目的に据えている時点で転倒しているのは明白だ。そこで話し合われるのは「誰が死んだ方がいいか」であり、「自分とは違う人」をあぶり出し排除するのは民主主義ではない。

しかも、プレイヤーは自らがどちらの陣営に属しているかを知らない。ジエン社の作品の多くで東京は何らかの災害に襲われており、本作でも舞台となる街の川向こうに見える東京では火の手が上がっている。登場人物たちは時おりぼんやりとその煙を眺めるが、いつしか炎は我が身に迫り、ラストでは中大兄の家も燃えてしまう。対岸の火事は果たして本当に対岸のものか。

© 刑部準也

© 刑部準也


インディアンポーカー(Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC#%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC

人狼(汝は人狼なりや?/Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9D%E3%81%AF%E4%BA%BA%E7%8B%BC%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%82%84%3F

公式サイト:https://elegirl.net/jiensha/

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The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源』|山﨑健太(2019年07月01日号artscapeレビュー)

2019/06/09(山﨑健太)

ひとり芝居ショーケース公演『ひとり多ずもう』

会期:2019/06/07~2019/06/10

早稲田小劇場どらま館[東京都]

『ひとり多ずもう』は企画監修も務めるサンプル・松井周のワークショップに参加していた俳優と演出家がタッグを組み、素舞台・ひとり15分・俳優×演出家による台本というルールのもとに短編を上演するショーケース公演。秋本ふせん×山下恵実(ひとごと。)「怒りを吸う」、佐藤岳×柳生二千翔(女の子には内緒)「目尻がとろける」、的場裕美×中島梓織(いいへんじ)「アブラ」、深澤しほ×福名理穂(ぱぷりか)「蒼く戦ぐ」、雪深山福子×升味加耀(果てとチーク)「寒煙」、矢野昌幸「ギニョル」(矢野のみ自作自演)の6組6作品が上演された。

いずれもそれなりに面白くは見られたが、それだけにひとり芝居の難しさもまたむき出しとなった。ひとり芝居の相手役として観客には見えないがそこにいる(ことになっている)人物を登場させたのが4組、観客に語りかける方法を採用したのが2組。いずれにせよ、なぜそのように演じるのかという根拠がつくり手の側になければ、それは観客の想像力への信頼というよりは甘えとなってしまう。それを踏まえて面白かったのは以下の3本。

的場×中島「アブラ」はまずは電話というアイテムを導入することで姿の見えない会話の相手を違和感なく登場させる。的場演じる女は去年の夏に別れた元カレのいまの気持ちを知りたいと「電話占い」に相談の電話を繰り返しかけている。18人目(!)の相談相手だという今回の占い師は元カレの生き霊を降ろすことでその気持ちを教えてくれるらしい。元カレへの執着や自分に都合のいい言葉しか聞かない態度、占い師の指示通りに体中にごま油を塗りたくる女の行動ににじむ狂気は、スピーカーフォンにした電話からも占い師の声が聞こえてこないことによってさらに加速する。占い師は本当に電話の向こうに存在しているのか? 相手役の声が聞こえないことを利用した巧みな演出だ。

深澤×福名「蒼く戦ぐ」は映画撮影に臨む女優の話。観客には見えない複数の相手との会話を巧みに演じ分ける深澤の技量も見事だが、「相手が見えない」ことは作品のモチーフと響き合い、さらなる効果をあげている。撮影されているのは深澤演じる女が社長のセクハラを告発する場面。やがて現実においても深澤演じる女優がさまざまなレベルのセクハラにさらされていることが明らかになっていく。複数の会話相手のいずれもが舞台上に存在しないことで、悪意の主体としての個々の男のみならず、総体としての彼らがつくり出し女優を脅かす業界の、いや、日本の「空気」までもが抉り出される。

矢野「ギニョル」はフィクションとしての言葉を用いつつ、俳優として舞台に立つことを正面から引き受けてみせた。矢野は客席を通っての登場場面から一貫して、目の前にいる観客を無視しない。語られる言葉もまた(その虚実は不明ながらも)俳優である自身についてのものであり、観客もまた俳優として目の前に立つ男と対峙することを要請される力強いパフォーマンスだった。


公式サイト:https://www.waseda.jp/culture/dramakan/news/992

2019/06/08(山﨑健太)

関田育子『浜梨』

会期:2019/06/07~2019/06/10

SCOOL[東京都]

関田育子は立教大学現代心理学部映像身体学科卒出身。2016年に同学科教授の松田正隆が主宰するマレビトの会のプロジェクト・メンバーとなって以降、マレビトの会での活動と並行して自身の名義での作品を継続して発表している。2017年にはフェスティバル/トーキョー'17の「実験と対話の劇場」に参加し『驟雨』を上演した。

『浜梨』ではある親子の物語と集団登校する小学生たちの様子がおおよそ交互に描かれる。親子の物語では父が再婚し、娘が昇進して上京するまでのそれぞれの葛藤が描かれ、つまりそこにはベタな物語がある一方、小学生たちについては作品の終盤に至っても逆上がりができるようになるという程度の変化しか描かれず、そこには物語らしき物語はない。5人の俳優はいずれの「物語」にも登場し、作品内でそれぞれが二つ以上の役を担うことになるのだが、面白いのは、二つの「物語」が完全に独立しているわけではなく、両者がときに交錯しながら作品が進んでいく点だ。場面間の「つなぎ」がときにグラデーションのように曖昧なかたちをとっていることもあり、観客はしばしば俳優がいまこの瞬間に演じている役を誤解し、あるいは決定不可能な状態に置かれることになる。このような観客の認識の混乱がもたらすダイナミズムが関田作品の面白さのひとつだろう。

[撮影:小島早貴]

役の混同や取り違えはさらに、単なる演劇的趣向を越えて物語、あるいはそこで描かれる感情の受容にも大きな影響を与えているように思われる。たとえば娘が亡き母の仏壇に手を合わせ涙を流す場面。極度に記号化された「涙を拭う」仕草と、嗚咽しているさまを表わすと思われる寸断された「お……かあ……さ……ん」という言葉は、その記号化ゆえに「泣く」という行為そのものをむき出しに提示してみせる。だがその涙の無防備さはむしろ、同じ俳優が演じる小学1年生の女の子の方にこそ似つかわしいものに思われる。あるいは、娘に潜在する子ども時代がふいに顔を出したような印象がそこにはあった。

親子の物語と小学生たちの様子はともに「現在」の、そして基本的には無関係なものとして描かれつつ、並置され交錯する両者はそれぞれの見方に影響を与え合う。設定上の整合性は取れずとも、小学生たちはときにまるで大人たちの子ども時代であるかのようにも見える。大人たちの向こうにふと透けて見える「子ども」の顔。それはホームドラマを補強し、生の感情を表出させるための回路だ。「大人」である娘は同時に父と母の「子ども」でもあり、そのことは彼女の土台となっている。父を置いて上京し、また、父の再婚相手として新たな母を迎え入れることに対して娘が抱く複雑な感情は、まさに「娘」としての立場から生じるものだ。彼女の向こうに二重写しとなる「子ども」の姿は、彼女の率直な思いを伝えることになる。そうして「子ども」の自分を認めることでようやく、新しい家族のかたちはその最初の一歩を踏み出すことになるだろう。

[撮影:小島早貴]

[撮影:小島早貴]


公式サイト:http://scool.jp/event/20190607/

2019/06/08(山﨑健太)

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