2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

紙カンパニーproject『悪霊』

会期:2020/06/13~2020/06/14

無人(島)プロダクション[東京都]

紙カンパニーprojectという団体がドストエフスキーの『悪霊』を上演していたことを知ったのはその公演期間が終わったあとだった。Twitterで見かけた知人の感想に興味を惹かれ、今回の公演を見逃したことを残念に思いつつ、次回は見逃すまいと紙カンパニーprojectのTwitterアカウントをフォローした。その後に公開された舞台写真やティーザーも次回公演への期待を高めるのに十分な役割を果たした。『悪霊』が実際には上演されていなかったことを私が知るのはそれからおよそ1カ月後のことになる。

紙カンパニーprojectは「実際にはやっていない演劇公演の周辺情報の偽造」を「事業内容」とするプロジェクト。「やってもいない公演と、やりはしたが観られないままもう終わってしまった公演はアーカイブだけ見比べたら同じことになってしまうのかそうでもないのか」という問いを掲げ「作品をロックダウンし、中身を想像する状況を作り出すことで新しい舞台鑑賞の形態を探り出す」ことを基本方針としている。

急いで付け加えておくならば、このような「事業内容」はあらかじめ公式サイトのトップページに記されていた。つまり、本当に公演が行なわれたのだと誤認させることはこのプロジェクトの第一義ではない。私の勘違いは、すでに公演が終わったものと詳細を確認しなかったために生じたものだ。

基本方針に含まれる「ロックダウン」という言葉が示唆するように、紙カンパニーprojectはコロナ禍における舞台芸術のあり方を考えるなかから生まれてきたものだろう。だが、コロナ禍でなくとも、それを劇場で見ることが叶わなかった観客にとって、ある公演の「実在」は周辺情報によって間接的に保証されるものでしかない。

この数カ月、無観客の劇場で舞台を上演し、その映像を配信する試みがいくつも行なわれてきた。では、映像さえあればその舞台の「実在」は保証されるだろうか。だが、映画で使われるCGの精度はいまや現実と見分けのつかないレベルに達している。現実世界においてさえ、「ディープフェイク」と呼ばれる高度なCG技術を用いたフェイクニュースが登場してきている。もはや映像は「実在」の保証とはなりがたい。

いや、高度なCG技術などなくとも、断片的で不確かな情報が拡散することでも「不在の中心」は簡単に「実体」をまとう。『悪霊』が実際に上演されたものと私が思い込んでしまったのもTwitterのタイムラインに並んだいくつかの情報だけを見ていたからだった。紙カンパニーprojectのTwitterアカウントに「事業内容」の記載はなく、その意味では私の「誤認」もプロジェクトメンバーの目論見のうちだろう。

『悪霊』は「架空の政治団体の代表を名乗る男が、自ら組織した秘密結社の中で引き起こした」実際の事件を元に書かれた小説なのだという。フィクションが現実に働きかけ、その現実が新たなフィクションを生むこと。

紙カンパニーprojectのTwitterアカウントには長谷川厄之助なる人物による新聞評までアップされている。「空っぽの中心の周囲で、登場人物たちが汗をかきながら狂奔する様を見ていると、ないはずの中心からなんとも言えない不思議な色気が匂いたってくる」。それは『悪霊』への評であると同時に、紙カンパニーprojectの活動そのものへの評でもある。評は「色気の正体は、ただの虚空であることを私たちは改めて認識すべきなのだ」と締められる。だがもちろん、演劇とはそういうものなのだ。

演劇を「そこにはないものをある/いることにする」営みだとするならば、紙カンパニーprojectの企みは、『悪霊』が上演されていなかったとしても/だからこそ、十分に演劇の要件を満たしている。それが上演などされていないことを知りながらTwitterに『悪霊』の感想を書き込んでいた私の知人たちも「俳優」として自主的に観客の役割を演じていたのだ。では私は?

『悪霊』が実際に上演され(それを見逃し)たと思い込んでいた私にとって、『悪霊』の公演は現実以外の何物でもなかった。『悪霊』の上演を見逃した(と思い込んでいた)私は「実在しない公演を実在したことにする」という紙カンパニーprojectの本来の「上演」もまた見逃していた。私は二重の意味で「観客」たり得なかったというわけだ。


公式サイト:https://kamicompanyproject.tumblr.com/
『悪霊』の記録(完全版):https://kami-akuryo.tumblr.com/

2020/07/28(火)(山﨑健太)

屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』

会期:2020/07/23~2020/08/02

こまばアゴラ劇場[東京都]

屋根裏ハイツ『とおくはちかい』(作・演出:中村大地)が「reprise」と冠しての全編改訂版として再演された。『とおくはちかい』は仙台を中心に活動してきた屋根裏ハイツが首都圏で上演した最初の作品。この作品で注目を集めた屋根裏ハイツがその評価を確かなものにした『ここは出口ではない』とともにカンパニーの代表作と呼ぶべき作品で、今回はその『ここは出口ではない』と合わせての再演・二都市ツアーとなる。

二幕構成の本作が描き出すのは「大きな地震から半年後と10年後」。一幕では仮設住宅に住む男・ショウくん(渡邉悠生)を友人のハマヤ(三浦碧至)が訪れ、二幕では同じくショウくんが住む復興住宅をハマヤが訪れなんということのない会話を交わす。初演時には地震ではなく大きな火事という設定だったらしいが、今回の再演にあたって、初演版の執筆時から念頭にあったという地震の話へと書き換えての上演となった。

[撮影:本藤太郎]

地震があっても同じ土地に住み続け、仕事も変えていないショウくんに対し、ハマヤは地震以前に地元を離れており、二人の会話は久しぶりに地元に戻ったハマヤとショウくんとのあいだの近況報告が中心となる。それらを通して浮かび上がるのは特別な出来事ではなく、互いのなかに蓄積された記憶のあり方そのものだ。

作品のほとんど終わりに至ってショウくんは「揺れて、家がなくなって、避難して、(仮設に)引っ越しして、(ここに)引越ししてっていうのはもうずっとある」「忘れる忘れないとかじゃなくて、ある」と自らの記憶のあり方を言語化しようとする。そこに至るまでに配された何気ないエピソードが呼応し合い記憶の複雑なあり様を浮かび上がらせる中村の筆致は巧みだ。

例えば、一幕に登場する箸と二幕に登場する鍋つかみの対比。仮設住宅への入居とともに支給されたはずの箸は1カ月も経たずに行方不明になってしまうが、高校のときにプレゼントでもらった、しかし思い入れがあるわけではない鍋つかみは震災でも失われず、仮設住宅を経て引っ越した復興住宅で発見される。あるいは駅前の銅像。地震以前に地元を離れたハマヤは失われたそれを震災によるものだと勘違いするが、ショウくんによればそれは地震以前に撤去されていたらしい。

「地元」に関するハマヤの記憶は断続的だが、そもそも人生自体が連続性があるようでなく、ないようであるものだ。ハマヤは自身が料理を始めたのは昔の友人がすえた臭いをまとっていたからだと説明する。その臭いが禁煙を決意させ、それが料理を始めたことにつながっているのだと。しかし説明を始めてみれば本人にもそのつながりははっきりとしない。だが、それでもそれらはどこかでつながっている。つながりははっきりせずとも人生は、時間は流れていく。

過ごした場所と時間の異なる二人の会話からは、それぞれに別様に流れ蓄積してきた時間と記憶が浮かび上がる。地震から半年後と10年後という区切りこそ示されているものの、地震とは関係なく時は流れている。大きなイオンモールができるという巨大な空き地にはかつてスーパー銭湯が建っていたというが、それは震災によって失われたわけではなく、震災後に建てられそして潰れたらしい。ある大きな出来事を振り返るとき、振り返るそのときまでに流れた時間もまた確かにそこにあるのだということを忘れることはできない。

[撮影:本藤太郎]

コロナ禍の最中の上演となった今回、二幕に登場するハマヤはマスク姿で現われた。物語的には大きな意味を持つとは思えないそれは、東日本大震災から10年が経とうとする現在を二幕の現在に重ね合わせるためのちょっとした小道具のように思えた。だが、このレビューを書くために読んだ上演台本には次のような文言が記されていた。「未知の疫病が世界を取り巻いている。(略)地域により再建のありようはさまざまで、いまようやく新しい街の着工にとりかかるようなところもあれば、ようやく人が住めるようになったところもある。行政の判断によって、もう人が住むことができなくなった土地もある」。影響の範囲ということで言えば、地震よりもよほど広い範囲で深刻な疫病の被害があったらしきことがこの記述からは窺える。しかし、上演からこの設定を読み取ることは不可能だろう。観客に彼らの事情を知ることはできない。そしてそれはいつもそうなのだ。自らのものでない記憶を私たちは十全に知ることはできない。それでもそこに、寄り添おうとすることはできる。互いの話を聞くというだけのシンプルな作劇の本作には、そのような倫理的な厳しさと温かさが滲んでいる。

9月18日からは『ここは出口ではない』とともに本作の仙台公演が予定されている。また、映像作家の小森はるかが映像編集を担当した東京公演の映像が有料配信されている。『ここは出口ではない』の映像(映像編集:宮﨑玲奈)とともにチェックされたい。


公式サイト:https://yaneuraheights.net/
中村大地インタビュー(passket):https://magazine.passket.net/interview/2020/07/22/yaneura-heights-interview/

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2020/07/25(土)(山﨑健太)

ドナルカ・パッカーン『野獣降臨』

会期:2020/07/22~2020/07/26

萬劇場[東京都]

コロナ禍の最中、いかなる戯曲を上演するか。戯曲を上演するという演劇の「方法」は、過去のアーカイブに現在を照らし合わせることで歴史から反省を(あるいは無反省を)引き出すことに優れている。演出家の仕事が上演の結構を整えることにあることは確かだが、その前段階として上演する戯曲を選択することもまた演出家の仕事であり、その腕の見せ所であると言えるだろう。

演出家・川口典成の個人企画「ドナルカ・パッカーン」が今回「緊急上演」したのは野田秀樹が1983年に第27回岸田國士戯曲賞を受賞した『野獣降臨』。伝染病を描いた本作は「野獣降臨」と書いて「ノケモノキタリテ」と読むことからも明らかなように差別を描いた作品でもある。コロナ禍の日本においては残念ながらさまざまな差別の問題が顕在化/激化しており、伝染病と差別を描いた本作の上演はきわめてアクチュアルなものとして現在に立ち上がってくる。

[撮影:三浦麻旅子]

ほかの多くの野田戯曲と同じように、本作もまた複数の筋と場面が混線し時空間も行きつ戻りつしながら進行していくため、ひと口にあらすじを紹介することは難しいのだが、大まかに言えば二つの物語がDNAの二重螺旋のように絡み合いながら進行し(あるいは退行し?)ていく。ひとつはあばら骨を一本失ってしまったボクサー・アポロ獣一(鎌内聡)の物語。それは地球と人の物語だ。もう一方は月と獣の物語。アポロ11という音をよすがに舞台は月へとジャンプする。獣を人のように変えてしまう伝染病を媒介するという月の兎(那須野恵/人形遣い:海老沢栄)を追う伝染病研究所の所長(丸尾聡)をはじめとする人々。しかし同じように地球では、人を獣のように変えてしまう伝染病が広がっているのだった。獣一が「獣のハジメ」と名乗るように人は獣へ獣は人へ、しりとりがごとく互いの尻にかじりつく。

たとえとしてDNAの二重螺旋をわざわざ持ち出したのは、それこそがこの戯曲の核となる構造だからだ。24本ある人間の肋骨を獣一は一本失い、残ったのは23本。それは人間が持つ46本の染色体のちょうど半分にあたる。人間は両親から23本ずつの染色体を受け継いで一人前のヒトとなる。だからこそ獣一と月の兎はそれぞれ半人前でしかなく、半人+半獣=地球+月でようやく一人前の物語が紡がれることになるのだ。

[撮影:三浦麻旅子]

戯曲の核に置かれたDNAの構造は伝染病や差別のモチーフとも呼応する。いずれもしばしばその「起源」が問題とされるが(「武漢ウイルス」なるWHOのガイドラインを無視した呼称を思い起こされたい)それはしばしば正統性への執着と裏表の関係にある(管見の範囲では「武漢ウイルス」という呼称を用いた人々とネトウヨと呼ばれる人々は重なっていた)。「宇宙家族アポロは、原始家族と背中合わせの双なりでございます」というセリフは過去(=原始家族)=起源と未来(=宇宙家族)=その結末とが切り離せないものであることを示している。野田はこの作品を「被差別民族」の物語だと明言したそうだが、しかし獣一たち宇宙家族=原始家族はときに聖家族と呼ばれ、物語の結末に至ってその「起源」がイザナギとイザナミの間に生まれた水蛭子にあったらしきことが示唆される。かつて現人神と呼ばれた天皇に一般的な意味での基本的人権は認められていない。差別と正統(性への執着)は表裏一体であり、この戯曲がもっともアクチュアルなのはその点だろう。『野獣降臨』は日本(人)の宿痾を鋭く抉り出す。

[撮影:三浦麻旅子]

川口は萬劇場がいち早く新型コロナウイルスへの対策を明示したことを受けて公演会場に選んだという。会場の入り口では検温、手洗い、手指靴底の消毒が行なわれ、一席おきに指定された客席はビニールシートで仕切られていた。宇宙飛行士/伝染病研究所所員を演じる俳優たちはフェイスシールドを装着し、観客たる私の「日常」はそのまま舞台上と地続きになる。煩雑であるはずの諸々でさえ劇世界への気分を盛り上げる道具立てになっていたという点においてもこの戯曲の上演は成功していたと言えるだろう。観劇前後の観客への情報提供も徹底していた。フェイスシールド越しの言葉が聞き取りづらい(しかしそれは観客たる私の側の問題でもあったのだろう。上演が進むにつれ耳がチューニングされたのかそれほどは気にならなくなった)など、上演上の課題こそいくつか見られたものの、この状況下でこそ上演すべき戯曲を「緊急上演」した川口の「目」は確かだ。前作『女の一生』初稿版完全上演でも川口は、戦後上演され続けている改訂版ではなく、戦時中に上演された初稿版のドラマツルギーこそが現代日本に通じているのだと示してみせた。日本人作家の手による戯曲に、いまこそ上演すべきは何かという観点から継続的に取り組み、過去の戯曲のなかに現代を照射するドラマツルギーを見出し上演し続けているドナルカ・パッカーン/川口の仕事に引き続き注目したい。

[撮影:三浦麻旅子]

[撮影:三浦麻旅子]


公式サイト:https://donalcapackhan.wordpress.com/

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ドナルカ・パッカーン『女の一生』| 山﨑健太:artscapeレビュー(2020年03月01日号)

2020/07/23(木・祝)(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『一角の角(すみ)』

会期:2020/07/15~2020/07/19

吉祥寺シアター[東京都]

『一角の角』(作・演出:本橋龍)はウンゲツィーファによる「連ドラ演劇」。新型コロナウイルスの影響で休館していた吉祥寺シアターの再開後、最初の企画として7月15日から19日まで1日1シーンずつ制作、その成果を毎日20時からライブ配信したものだ。

劇場に観客を入れないという条件を逆手に取り、吉祥寺シアターのさまざまな場所に配置された舞台美術が劇場内部に「街」をつくり出す。俳優たち自ら撮影者となりひとつのカメラを手渡していくことで、1日1カット1シーンの映像作品は紡がれていく(映像:和久井幸一)。登場するのはコウモリ(豊島晴香)、タヌキ(畦道きてれつ)、イヌ(石指拓朗)、ネコ(近藤強、黒澤多生、星美里)、ハト(松井文)、そしてヒト(西留翼)。各話の冒頭とラストには宇宙人(?)らしきものも映し出され、1カットのなかにさまざまな生物の視点が混在する。それは自らとは異なる複数の視点から世界を捉え直す試みであり、そうできたらいいのにという願いのようでもある。他者の視点は誰か/何かを「演じる」ために必要な能力でもあるだろう。

[撮影:上原愛]

[撮影:上原愛]

劇場のなかに出現した、動物たちの生きる「街」。それを構成する舞台美術は作品参加メンバーが持ち寄ったモノらしい。劇場に「外」が持ち込まれ、内と外とが反転する。劇場は宇宙の缶詰か。しかし考えてみれば「街」も「劇場」もヒトの設けた勝手な区分に過ぎない。動物たちは「森」と同じように「街」や「劇場」にテリトリーを広げもするだろう。ヒトにとって舞台の上はどこにでもな(れ)る空間だが、動物にとってのそこはほかの空間とことさらに区別されるような場所ではない。棲みやすさの程度の差だけがそこにはあり、ある種の動物にとって劇場は比較的棲みやすい場所ですらあるかもしれない。だから、ヒトがいなくなった後の劇場に動物が棲みつくというのは十分にあり得る話だ。『一角の角』で映し出される吉祥寺シアターはヒト不在の劇場の、現実にあり得る姿なのだ。

[撮影:上原愛]

『一角の角』の配信と同じ時期、無観客の劇場そのものを「舞台」とした上演の映像がほかにもいくつか配信されていた。それらを観た私が改めて感じたのは劇場という場所の特別さと、そこで演劇ができる/観られることへの悦びや感謝だった。『一角の角』の感触はそれらと異なっている。この作品でもっとも長く映し出されるのは劇場のロビーだ。舞台や客席といった劇場らしい場所は僅かな時間しか映し出されない。『一角の角』は劇場を劇場という機能を持つ場所としてではなく、単にそのようなかたちの、あるいは劇場としての機能を失ってしまった空間として映し出しているようですらある。今回のコロナ禍で多くの演劇関係者は劇場という場所の抱える脆弱性を痛感することになった。だが、そもそもウンゲツィーファ/本橋はこれまでもほとんどの作品をギャラリーや自宅などの非劇場空間で上演してきたのだった。だから、たとえすべての「劇場」という場所がなくなってしまったとしても、「劇場」に集まるという演劇の「かたち」が失われてしまったとしても「野生の演劇」は強かに生き残るだろう。

『一角の角』は和久井による編集と映像の追加を経た有料版が8月7日から配信される予定だ。

[撮影:上原愛]

[撮影:上原愛]

公式サイト:https://ungeziefer.site/


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2020/07/15(水)(山﨑健太)

TOHO MUSICAL LAB.『CALL』

会期:2020/07/11~2020/07/12

シアタークリエ[東京都]

東宝が新たに立ち上げたTOHO MUSICAL LAB.は「30分程度の短編オリジナル・ミュージカル」「今回が初演であること」「内容・テーマは自由」「スタッフ・俳優・ミュージシャンは感染症対策に細心の注意を払い制作すること」を条件にクリエイターに新作を依頼し上演する企画。第一弾となる今回は三浦直之(ロロ)の作詞・脚本・演出による『CALL』と根本宗子(劇団月刊「根本宗子」)の脚本・演出による『Happily Ever After』が二本立てで配信された。

いずれも完成度の高い作品だったが、特に『CALL』は「劇場で演劇を見ることの楽しみを思い出していただけるような そして初めて演劇をご覧いただくお客様にも楽しんでいただけるような前向きな“実験”」であるというこの企画の1本目にふさわしい作品となった。

[撮影:桜井隆幸]

人のいないところで「聴衆のいない音楽会」を開く旅をしてきたガールズバンド「テルマ&ルイーズ」。彼女たちがあるとき迷い込んだのはかつて劇場と呼ばれた廃墟だった。たまたま発見した演劇の衣装に夢中になる長女・シーナ(森本華)と次女・オドリバ(妃海風)。一方、三女・ミナモ(田村芽実)が舞台で歌っていると、誰もいないはずの客席から拍手の音が聞こえてくる。それはかつてその劇場で働いていたドローンのヒダリメ(木村達成)だった。当惑するミナモは「誰?」「どうして拍手しているの?」「観客って何?」と続けざまに問いを投げかける。その世界では劇場や演劇という文化はしばらく前に失われてしまい、彼女はそういうものに触れたことがないらしい。

[撮影:桜井隆幸]

[撮影:桜井隆幸]

ヒダリメは劇場の記憶を語り出す。数々の名舞台。それを見る観客たち。いつも同じ席に座っていたフジワラさんとミズハシさん。しかしいつしかふたりの距離は徐々に近づいていき、ついには間にたったひとつの席を挟むのみ。だがヒダリメがふたりのその後を見届けることはない。観客は劇場の外の世界を生きているからだ。劇場専属ドローンであるヒダリメにとって劇場は世界のすべてだが、それ以外の人々にとっては劇場は世界の一部でしかない。観客は必ず外の世界に戻っていく。だがそれでも、観客は何かと出会うために劇場に足を運ぶだろう。

出会いの場としての劇場への愛にあふれたこの作品には同時に、たとえ観客がいなかったとしても失われない表現することの悦びも描かれている。なんせ「テルマ&ルイーズ」はわざわざ人のいないところを探して音楽会を開いているのだ。「誰かに届けたくて歌ってるわけじゃない」という言葉には歌うことの悦びが刻まれている。「景色に聞いてほしいって思って歌ってるよ」というオドリバの「景色にあたしの歌が映えるんじゃなくて、あたしの歌に、景色が映えるの」という言葉はふざけても聞こえるが、自ら表現することで世界がより輝いて見えることは確かにあるのだ。

[撮影:桜井隆幸]

発した声がたまたまどこかの誰かに届いてしまったとき、客席にいたヒダリメがミナモに誘われ舞台に上がったように、その声を聞いた誰かもまた自らの声を発してみたくなるかもしれない。演劇は、歌は、小説は、マンガは、あらゆる芸術と人間の営みはそのようにして反響しあっている。だから、いずれにせよ演劇は続いていくのだという力強い希望。

タイトルの『CALL』は一義的には観客から俳優たちへと向けられるカーテンコールを意味するが、それは同時に劇場=表現者から観客への呼び声でもある。会場となったシアタークリエは新型コロナウイルス感染拡大防止のため休館期間を経て、このTOHO MUSICAL LAB.で数カ月ぶりの再開を果たした。それは未だ無観客での上演だったが、配信された映像を観た観客はかつて通った劇場への、あるいは未だ足を運んだことのない劇場への思いをかき立てられただろう。

[撮影:桜井隆幸]


公式サイト:https://www.tohostage.com/tohomusicallab/index.html

2020/07/11(土)(山﨑健太)

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