2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ロロ『ロマンティックコメディ』

会期:2022/04/15~2022/04/24

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

ロロ『ロマンティックコメディ』(脚本・演出:三浦直之)が5月29日(日)までの期間限定でアーカイブ配信されている(このレビューでは同作の結末に触れているので注意)。4月に上演されたばかりの本作はロロ/三浦の新境地を示す作品だ。

舞台は丘の上に建つ本屋ブレックファストブッククラブ。店主のヒカリ(森本華)とあさって(望月綾乃)はその店でかつて働いていたあさっての姉・詩歌が遺した小説の読書会を不定期に開いている。詩歌のオンラインゲーム仲間だったとなり(大場みなみ)、店の常連で詩歌とも親しかった遠足(篠崎大悟)と瞼(新名基浩)、ある事情で店を訪れる寧(大石将弘)と麦之介(亀島一徳)。彼女たちは小説の話を、詩歌の話を、そして関係があったりなかったりするさまざまな話をする。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


これまでのロロの本公演ではときに非現実的な設定も導入しつつ、舞台美術や衣装、俳優の言葉と身体によって跳躍するイメージが物語を紡いでいくタイプの作品が多かった。本作では舞台を書店のワンシチュエーションに限定し、劇中ではそれなりの時間が経過するものの基本的には淡々とした会話を通して物語は進行していく。テイストとしては本公演と並行して取り組んできた「いつ高」シリーズに近く、ロロとしての活動の幅の広さが本公演へと還元され、劇団としての成熟を見せたかたちだ。

一方、扱われているテーマは初期の作品から一貫してもいる。本作の中心にいるのは不在の詩歌であり彼女の遺した小説だが、詩歌との関係も小説との向き合い方も登場人物によってそれぞれ異なっており、詩歌や彼女の小説がひとつの像を結ぶことはない。初期の作品では主に男女間の片想いとして表現されていたこのような想像力は、本作ではより一般的な他者への思いへと拡張されている。


[撮影:伊原正美]


2021年10月に上演された前作『Every Body feat. フランケンシュタイン』でロロ/三浦は、タイトルの通りフランケンシュタイン博士と彼が生み出した怪物をモチーフに、他者の存在を自分勝手に解釈することの暴力性とその罪を描いてみせた。それは先行する作品を糧に、俳優の身体を媒介として演劇を創作すること(=怪物を創り出すこと)の暴力性と罪でもあっただろう。そう考えると、タイトルは演劇そのものを指すものとしても解釈できるだろう。フランケンシュタインは三浦自身だ。三浦は当日パンフレットに「死骸のような言葉しか書けなくなった」とさえ記していたのだった。

だが、それまでのロロのイメージを一新するダークファンタジーへの挑戦と創り手としての三浦の真摯な姿勢には感服しつつ、それでも私は『Every Body feat. フランケンシュタイン』という作品がこのタイミングで上演されたことにいまいち釈然としなかったのだ。なるほど、そこにはたしかに暴力と罪があるかもしれない。その自覚は重要だ。しかし、これまでのロロ/三浦の作品は、すでにその先を描いてはいなかっただろうか。創り手だけがそこにある思いを名指すことができると思うこともまた傲慢だ。それはいつだって受け手によって思い思いに受け取られ名づけられる。創り手であるよりも先にさまざまなカルチャーのよき受け手であった、そしていまもそうである三浦はそのことをよく知っているはずだ。


[撮影:伊原正美]


だから、『ロマンティックコメディ』の視点は受け手へと再び折り返している。小説の作者である詩歌は不在だが、読書会を通して生み出されたつぎはぎの詩歌像をヒカリやあさってが怪物と呼ぶことはないだろう。むしろ、そうして自分たちの知らなかった詩歌の一面を知ることで、ほかの人が詩歌の小説をどう読んでいたかを知ることで、彼女たちは詩歌とその小説に何度だって出会い直せるのだ。

物語の最後、偶然に店を訪れた白色(堀春菜)によって、詩歌が自身の小説をインターネット上の小説投稿サイトに投稿していたことが明らかになる。中学生の頃その読者だったという白色が店に置いてあった私家版の小説を買おうとすると、それまで求められるままに無償で詩歌の小説を譲っていたヒカリは、そのとき初めてその小説に値段をつけて売るのだった。おそらくその瞬間、ヒカリにとってはずっと詩歌の小説でしかなかったそれは独立した作品となり、同時に、ヒカリの知らない詩歌が存在していて、そのすべてを知ることが叶わないことが受け入れられたのだろう。それは少しだけ寂しく、しかしどこまでも前向きなことだ。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


7月の末には早くも次回作『ここは居心地がいいけど、もう行く』の上演が予定されている。同作は昨年完結した連作「いつ高」シリーズのキャラクターが再び登場する作品。高校演劇のフォーマットに則った60分以内の上演時間などいくつかの制約のなかでつくられてきた同シリーズだが、今回は制約を取り払ったフルサイズの新作になるという。スケールアップした「いつ高」ワールドとの再会を楽しみに待ちたい。


ロロ:http://loloweb.jp/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『四角い2つのさみしい窓』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年03月15日号)

2022/04/24(日)(山﨑健太)

大道寺超実験倶楽部『Quando d'estate mi dimentico dell'inverno/夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』

会期:2022/04/09~2022/04/10

SCOOL[東京都]

大道寺梨乃による日記映画の第二弾『Quando d'estate mi dimentico dell'inverno/夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』(作・撮影・出演・編集:大道寺梨乃)が三鷹のSCOOLで上映された。快快の創立メンバーとして国内外でのほぼすべての作品に俳優として出演してきた大道寺は2014年からソロでのパフォーマンス活動を開始。2015年に北イタリアのチェゼーナに移住して以降は日本とイタリアを拠点に活動しており、本作が映し出すのも大道寺と夫のエウジェニオ(エウジー)、4歳の娘の朝と猫のポンズが過ごすコロナ禍のチェゼーナでの日々だ。



大道寺のソロパフォーマンスはもともと、私小説ならぬ私演劇的な色合いが強い。『ソーシャルストリップ』(2014初演)にせよ『これはすごいすごい秋』(2016)にせよ、大道寺自身の体験をベースにした語りの親密さと、そうして提示されるいくつものイメージが結びつくことでふいに生まれる魔法のような瞬間が魅力の作品だった。大道寺自身も「記憶を整理し並べていくことで」できていく『ソーシャルストリップ』を目で見ることのできないネックレスに喩えている。だから、日記映画という手法は、メディアこそ違えど、大道寺のソロパフォーマンスの延長線上にあるものとしてしっくりくるものだ。映画は大道寺の私的な時間を映し出し、並べられたイメージは互いに結びつくことで新たなイメージを生み出していく。




だが、2020年の3月にイタリアではじまったquarantena=隔離期間=ロックダウンからの1年を映した前作『La mia quarantena/わたしの隔離期間』を観た私がまず感じたのは息苦しさだった。大道寺は『わたしの隔離期間』の上映に際し、日記映画のスタートに「パフォーマンス作品を主に作っている自分がこの状況下でできる創作活動とはなんだろう?」「毎日少しずつ、娘と過ごしたり生活費のための仕事をしたりする合間に、生活の中で『こうありたい自分』も『こうなってしまう自分』も分け隔てなく受け入れることができるような、そんな創作活動とは?」という問いがあったことを記している。私が感じた息苦しさはもちろんコロナ禍に由来するものでもあるのだが、それと同じくらい、大道寺自身の感じていた閉塞感を反映したものでもあっただろう。母語である日本語を使う機会のほとんどない、日本の友人や観客からも遠く離れたイタリアで、夫や娘と過ごし、ラーメン屋で働く。『わたしの隔離期間』はまず第一に(たくさんのチャーミングな瞬間がありつつも)、そんな「パートタイムアーティスト」としての大道寺が、それでも何とか創作に取り組むことで自身の輪郭を保とうとする奮闘の記録としてあったように思う。

一方、続く1年に撮影された映像を中心とした素材で構成された新作『夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』は引き続き奮闘の記録としてありつつも、前作にはなかった世界の広がり、あるいはその予感を映し出していた。新型コロナウイルスをめぐる状況の変化や大道寺の映像スキルの向上など、いくつか理由はあるのだろう。いずれにせよたしかなのは、大道寺が撮り続けた日々そのものがその先の日々(それはつまり未来ということだ)を呼び込んだということだ。



映画の冒頭。コート姿で砂浜に立つ大道寺が腕を振るとカットが切り替わり、そこに映し出されているのは(おそらく)夏の海で遊ぶエウジーと朝の姿だ。マスク姿でドライブスルーのPCR検査を受ける大道寺とエウジーは楽しげなノーマスクのサングラス姿へ。ダウンジャケットで雪玉を持って駆けてきた朝はノースリーブの後ろ姿へ。タイトルをなぞるように繰り返される冬から夏へのジャンプ。忘れてしまった(ように思われる)過去の時間は、しかしたしかに現在につながっている。映画の最後には「約10年にわたって録音した」音に映像をつけた『火星にもっていく(ための地球の音のプレイリスト)』という作品も置かれている。現在はそうして未来へと送り出される。

もちろん、大道寺の孤独は今作でもそこここに顔を出している。だが、そもそも大道寺のソロパフォーマンスに私が親密さを感じたのも、彼女が自身の孤独をさらけ出していたからだった。孤独を受け入れ、孤独のままでいることでようやく可能になるつながりもあるのだ。

エンドクレジットの背後には、工場の敷地らしき広い場所で歌い踊る大道寺の姿が映し出されている。カメラから遠く、顔が判別できないほどに離れた彼女はぽつんと独りきりで、しかし活き活きとして見えた。切断された時空間を別のかたちに並べ変え、新たな宇宙を生み出すこと。『夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』のなかに、人が映画と呼ぶその魔法はたしかにあった。

本作は6月にチェゼーナ、9月に香港での上映が予定されている。





『Quando d'estate mi dimentico dell'inverno/夏には冬のことをすっかり忘れてしまう』:https://estateinverno2022.tumblr.com/
『La mia quarantena/わたしの隔離期間』:https://lamiaquarantena202.wixsite.com/diaryfilm/

2022/04/09(土)(山﨑健太)

劇団印象-indian elephant-『藤田嗣治〜白い暗闇〜』

会期:2022/03/26~2022/04/10(アンコール配信)

小劇場B1[東京都]

劇団印象-indian elephant-『藤田嗣治〜白い暗闇〜』(作・演出:鈴木アツト)が「国家と芸術家」シリーズの一作として2021年10月から11月にかけて上演された。劇団のTwitterによれば「国家と芸術家」シリーズは「第二次世界大戦時に国家という枠組みに翻弄された芸術家に注目。国家や国民により彼らの“自由”が縛られる姿を描く」もの。二度の映像配信も行なわれ(筆者は二度目の配信で視聴)、同作の戯曲は「令和3年度希望の大地の戯曲賞『北海道戯曲賞』の最終候補にもノミネートされた。

画家・藤田嗣治(間瀬英正)を描いた本作は藤田の渡仏前夜の1913年から1945年に至るまでの全10場で構成されている。フランスでの苦労と成功、「乳白色の肌」の技法を発見したことによる独自の画風の確立、帰国、戦争画の依頼、再びの渡仏と帰国、そして敗戦と戦争画家としての責任の追及。こうして場面を並べてみると一見したところ藤田の評伝のようだが、それにしてはあまりに欠落が多い。例えば、藤田の5人の妻のうち舞台に登場するのは5人目の妻となった君代(山村茉梨乃)だけ。「国家と芸術家」というテーマに関連するところでは従軍画家として過ごした1年のことも描かれない。一方、パリでのエピソードは渡航直後に出会った娼婦・ナタリア(廣田明代)や弟分の画家・村中青次(泉正太郎)との関係を中心に創作を交えて膨らませられている。このような選択は、無名の画家が異国の地で名声を得る過程と、日本を代表する画家が戦争画を描くことで自国に居場所をなくす過程とを対比させるためのものだろう。絵画という芸術によって居場所を獲得した画家は同じ絵画によって居場所を失うことになる。



だが、この作品のユニークさはほかにある。そのひとつは、舞台上に突如として数人の日本兵が登場する二度の場面だ。一度目は藤田が初めて戦争画を描かないかと打診されたとき。二度目は敗戦後、戦争画を描いた責任を追及されるかもしれないこと、そして弟子の画学生・山田(片村仁彦)が戦死していたことを告げられたとき。登場する日本兵の姿はいずれも藤田が幻視したものとして解釈することはできるものの、リアリズムを基調とする本作においてこの場面は異彩を放っている。

もうひとつは村中という人物を設定したこと。パリ時代の藤田の弟分として登場した村中は、藤田の帰国後もことあるごとに現われ、藤田との対話によってその内面の葛藤を表わす役割を果たす。藤田自身が「俺の影」と呼ぶように、村中はつまるところもうひとりの藤田なのだが、ではなぜ単なる分身ではなく村中という人物が造形される必要があったのだろうか。




そもそも村中がもうひとりの藤田となったのは、パリでくすぶっていた村中が、藤田の名前を利用して娼婦と懇ろになるために、おかっぱ頭にロイド眼鏡という藤田の出で立ちを真似たことがきっかけだった。しかしその特徴的な外見もまた、藤田が「絵を売るための、絵になる顔」として思いつき、自ら作り上げたイメージでしかない。その意味で「俺自身は、実体がないんだ」という村中の自嘲の言葉はどこまでも正しい。

だが、もうひとりの藤田としての村中の登場は予兆に過ぎない。つくり上げられたイメージはやがて作者の手を離れ、その制作意図とも離れたところで流通しはじめるだろう。そうして独り歩きをはじめたイメージはもはや実体のない影などではなく、現実に影響を及ぼす「リアル」となっていく。そういえば、一度目の日本兵たちはカンバスを通って現われたが、二度目の出現にカンバスは必要とされていなかった。絵画を通して、演劇を通して「観客」の眼前にリアライズされたイメージは、そのときすでに現実となっている。

最後に登場する場面で村中は、戦争犯罪人にされないためには焼いてしまった方がいいと藤田の戦争画を焼こうとする。「人に言われて描いた絵なんて、本物じゃないだろう?」「兄貴の戦争画は偽物の絵だ。兄貴は偽物の画家だったんだ」という言葉に激昂した藤田は思わず村中を刺すが、村中は死なない。生み出されたイメージは殺すことができない。村中は言う。「お前の戦争画は大衆の自画像だ。見ると、自分たちが戦争に酔っていたことに気づかされる」。だから戦争画は燃やされなければならないのだと。一方で村中はこうも言う。「描くことで、人類に見せつけるんだ。噴き出す血と共に蠢く歴史を」と。村中は藤田の眼前に日本兵たちを呼び出してみせる。絵の中の兵士は永遠に生き、あるいは殺され続ける。煉獄のようなその光景は戦後と呼ばれる、そしていつか戦前と呼ばれるかもしれない時間に宙づりになっている。



「国家と芸術家」シリーズの次作『ジョージ・オーウェル 沈黙の声』は6月8日(水)から12日(日)まで下北沢・駅前劇場での上演が予定されている。


劇団印象-indian elephant-:http://www.inzou.com/

2022/04/04(月)(山﨑健太)

libido:Fシリーズ episode:03『船の挨拶』

会期:2022/04/01~2022/04/10

せんぱく工舎1階 F号室[千葉県]

libido:の所属俳優によるひとり芝居シリーズ「libido:F」が鈴木正也出演のepisode:03『船の挨拶』をもって完結した。古典落語をもとにした『たちぎれ線香』、筒井康隆の短編小説を演劇として立ち上げた『最後の喫煙者』と続いた同シリーズのラストを飾ったのは、1956年に三島由紀夫自身の演出によって文学座で初演された短編戯曲の上演だ。

舞台はある小さな島に立つ灯台の足もと、崖の上に立つ見張り小屋。そこに詰める灯台守の青年は、独り窓から海を眺め、船の通過を報告することを業務としている。船とのあいだに交わされるのは信号旗による儀礼的な挨拶のみ。そんな我が身を「若い身空をこの小さな島にとぢこもって」「俺は一体何なんだ?」と省みる青年は「船が、まつたく船がよ、ほんのちょつと、俺に感情を見せてくれたらなあ。ほんのちょっと、でいいんだ。好意ぢやなくたつていい。悪意だつて、はつきりした敵意だつて……。さうしたら! 俺と船とは、俺と太平洋とは、俺と世界とは、いつぺんにつながるんだが……」と夢想する。と、海峡の真ん中に停泊する見慣れぬ黒い船。甲板に出てきた水夫はどうやら見張り小屋に向けて銃を構えているらしい。それを見た青年は「狙へ」「射つんだ」と身を晒してみせる。応じるように放たれる銃弾。暗転した舞台から「待つてゐたものが、たうとう来たんだ」と途切れ途切れの声が聞こえ、やがて静寂が訪れる。


[撮影:畠山美樹]


演出の岩澤哲野は上演にあたってこの戯曲に二つのレイヤーを加えている。ひとつ目は、青年のモデルとなった灯台守に三島が宛てた手紙や回想録などに記された言葉。もうひとつは、もとは社員寮の一室であるせんぱく工舎F号室という場所でこの戯曲を上演しているという現実それ自体だ。言い換えれば、libido:版『船の挨拶』の上演には、戯曲というフィクションの前後にある取材/執筆と上演という二つの現実が折り込まれているのである。

冒頭、舞台奥の掃き出し窓から鈴木が入ってくる。どこからか飛んできた紙飛行機を開くとそれは手紙のようで、そこには「あの島は忘れがたい島である」からはじまる言葉が連ねられている。手紙を読み上げた鈴木はそれを再び紙飛行機のかたちに折り客席へと放るが、紙飛行機は舞台と客席とを仕切るアクリル板にバツンと音を立てて衝突する。その瞬間、窓の外にガラガラとシャッターが降り舞台は闇に閉ざされる。上演はこのようにしてはじまる。


[撮影:畠山美樹]


舞台奥に窓があるのは戯曲の指定であり、青年は本来、ここから海を見張ることになっているのだが、岩澤はその窓を冒頭で閉ざしてみせることで外界との隔絶を強調する。鈴木の衣装は戯曲が指定するワイシャツではなく部屋着のようなゆったりとしたものであり、室内のところどころには白い紙で折られた船が置かれている。libido:版の上演はその全体が自室で過ごす青年の夢想のようにも見えるのだ。

その夢想を中断するように時折「外」から舞い込んでくるのが紙飛行機だ。そこに記された三島の言葉は「島」の暮らしとそこに住む人々を称賛するようでいて、しかし無意識に「島」を下に見ているようなニュアンスも滲む。「僕の今一番ほしいのは時間で、君の時間をわけてもらへたら、今みたいにコセコセした仕事でなく」云々。灯台守の青年の外の世界への憧れと三島の「島」へのまなざしはすれ違っている。


[撮影:畠山美樹]


[撮影:畠山美樹]


見張り小屋に流れる弛緩した時間と灯台守の倦怠を立ち上げる鈴木の演技は巧みだ。そこにはインターネットを通じて世界の情報を仕入れながらコロナ禍を自室で過ごす人々の姿が、そして島国・日本の姿が重なってみえる。そしてそれは何より、青年を演じる鈴木の、演出の岩澤の、この作品を上演するlibido:の似姿でもあるだろう。

再び明かりがつくと、銃弾に倒れたはずの青年がそこに立っており、シャッターを開けて窓の外の世界へと出ていく。私と世界との交流はしばしばすれ違い、それはときに傷となる。戯曲に描かれた灯台守は世界からの反応があったことに満足して死んでいくが、libido:版の青年は傷を受けながらも再び外の世界へと出ていく。コロナ禍においてlibido:が選択したのは、拠点とするせんぱく工舎F号室で所属する俳優と演出家とが一対一で向き合う「libido:F」シリーズを展開し、自分たちの活動を見つめ直すことだった。そのシリーズの締めくくりとしてこれ以上ふさわしいラストシーンはない。窓の外には神戸船舶装備の工場が見えている。せんぱく工舎の名前の由来にもなったそこは船の内装などを手掛ける会社であり、libido:のロゴにも外界へと漕ぎ出す船の姿が描かれている。外に出ていく鈴木の姿に、それができる世界への願いと、社会のなかで、松戸という街に拠点を置いて活動をしていくのだというlibido:の改めての決意表明を見た。


[撮影:畠山美樹]



[撮影:畠山美樹]



libido::https://www.tac-libido.com/


関連レビュー

libido:Fシリーズ episode:01『たちぎれ線香』/episode:02『最後の喫煙者』プレビュー|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年12月01日号)

2022/04/03(土)(山﨑健太)

劇団スポーツ『怖え劇』

会期:2022/03/18~2022/03/21

王子小劇場[東京都]

パワハラはなぜいけないのか。改めて問う必要すらない(はずなのに一部からはいまだに必要悪論が聞こえてくる)ようにも思えるこの問いを愚直に正面から引き受け、演劇ならではのかたちで自分たちなりの応答をしてみせる。劇団スポーツ『怖え劇』はそんな作品だった。

劇団スポーツは法政大学文学部の同期である内田倭史と田島実紘によって2016年に結成された劇団。2017年からは早稲田演劇倶楽部を拠点に活動し、2018年には俳優の竹内蓮が加わり現在の3人体制となっている。今作はもともと、佐藤佐吉演劇祭2020参加作品として2020年3月に上演が予定されていたものだったが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため演劇祭自体が中止となり、それに伴い公演も中止に。今回、佐藤佐吉演劇祭2022参加作品として2年越しの上演実現となった。

これまでの劇団スポーツの多くの作品では内田と田島が共同で作・演出を担当していたが、今作では内田が単独で作・演出を担当。俳優それぞれの持ち味を活かす台本と演出はそのままに、コメディ色は残しつつもパワハラというテーマと正面から向き合った今作は劇団としても新たな挑戦と言える作品になっていた。なお、『怖え劇』は4月5日(火)まで映像配信もされている。以下では結末まで含めた作品の内容に触れるため注意されたい。


[撮影:月館森]


公演を控え、新人劇団員の真隈(竹内)は稽古場とバイト先であるゴーストレストランの往復生活を送っている。入団して初めての新作公演を楽しみにしつつ、演出の尾上(甲野萌絵)のこれまでとは異なる様子に戸惑う真隈。先輩劇団員の工藤(タナカエミ)と矢野(てっぺい右利き)によれば、新作に臨む尾上の厳しさは再演のときの比ではないらしい。今回、演出助手として参加する金丸(三宅もめん)がしばらく休団していたのも、尾上の演出に耐えられず俳優を続けられなくなったからなのだという。真隈と同期の結木(高久瑛理子)も萎縮気味でうまく演技ができない。苛立つ尾上の「指導」はさらにエスカレートしていく。


[撮影:月館森]


一方、真隈はバイト先でも店長(タナカ)からパワハラを受けていた。稽古場とバイト先の往復、そして双方で受けるパワハラに疲れ切った真隈はやがてバイト先=現実と新作公演の舞台としてのゴーストレストラン=虚構の区別がつかなくなってしまう。電車に乗り、家に帰り着き、布団に入る(マイムをする)真隈。だがそこはいつまでも舞台の上のままだ。


[撮影:月館森]


どんな場所にでもなれる稽古場とさまざまな顔を持つゴーストレストラン(ウーバーイーツなどの配達に特化した、複数の「専門店」[たとえば作中ではエスニック、豚丼、唐揚げ、お好み焼き、ラーメンなど]のキッチンを兼ねる形態の店舗)を重ね合わせる設定が秀逸だ。どんな場所にでもなれるはずの稽古場=ゴーストレストラン=舞台はしかし俳優を閉じ込める檻となり、真隈はどこにも行けなくなってしまう。それは演劇という枠組みを使ったメタなギャグであると同時に、小劇場というフィールドで活動する俳優の置かれた苦しい状況を直球で表わしたものでもあるだろう。

俳優を「閉じ込める」のは金銭的、時間的(≒体力的)問題だけではない。尾上のパワハラに対して見て見ぬフリをするべきではないという真隈の主張に対し、それでは公演が中止になってしまうと劇団員たちは微妙な反応をする。公演を打つこと、あるいは劇団として活動をすることそれ自体が、他者との約束というかたちで俳優に対するある種の束縛となっているのだ。


[撮影:月館森]


尾上のパワハラ問題は解決しないまま公演本番がやってくる。だが、真隈はその舞台上で突然、バイト先から退勤し、電車に乗り、家に帰るマイムをやりだす。台本にない、作品をぶち壊しにする行為を尾上は止めようとするが、ますますエスカレートしていく真隈。やがてほかの俳優やスタッフ(舞台監督:水澤桃花、照明:緒方稔記、音響:大嵜逸生)も真隈の「芝居」に乗っかり、桜が舞い、蛍の光が流れる祝祭的な空気のなかで、店長と真隈は和解し、尾上は金丸とともに劇団をはじめた頃のことを思い出しetcetc、怒涛の大団円。一同は花見をするために劇場を出ていくのであった。


[撮影:月館森]


勢いと感動に任せてすべてをうやむやにするエンディングにも思えるがそうではない(いや、尾上のパワハラについて何の決着もついていないという意味でそれは正しくもあるのだが……)。結木の台本にはお守りのようにしてスーパーマンの絵が書き込まれていた。結木は先輩から言われた「役者はスーパーマンだって思えば、何でもできる」という言葉の意味を忍耐と捉えているフシがあり、また、真隈はそれをアンパンマンと取り違えてしまうのだが、エンディングに至ってその意味は自己犠牲から可能性としての「何でもできる」へと読み替えられていく。パワハラはいけない。なぜなら、何でもできるはずの俳優の、演劇の可能性を潰してしまうからだ。ラストで爆発する演劇のエネルギーは軽やかに、しかし力強くそう主張していた。

現実と虚構の区別がつかなくなり演劇に閉じ込められてしまった真隈は、その区別のつかなさを反転することで「現実」を改変してみせた。だがそもそも演劇は最初から虚構であると同時に複数の意味で現実でもある。一方、現実もまた、習慣や法律など、複数の「虚構」によって構築されたものだ。だから、『怖え劇』のエンディングが示しているのは演劇の可能性だけではない。強固と思える現実だってきっと、書き換えることは可能なはずだ。


[撮影:月館森]



劇団スポーツ:https://gekidansport.com/
劇団スポーツTwitter:https://twitter.com/gekidansport
『怖え劇』配信映像:https://twitcasting.tv/gekidansport/shopcart/144514

2022/03/20(日)(山﨑健太)

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