2019年06月15日号
次回7月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

Penelope Skinner『Angry Alan』

会期:2019/03/05~2019/03/30

SOHO THEATRE[ロンドン]

Angry white male(怒れる白人男性)という言葉がある。差別され抑圧されてきた女性や非白人による権利回復のための運動に対して異議を唱える男性を指す言葉で、逆ギレする男たち、というニュアンスで使われる。whiteという単語が含まれてはいるものの、このような現象はもちろん欧米に限られたものではない。

Angry Alanはこのangry white maleを主題としたひとり芝居。作・演出のPenelope Skinnerは1978年生まれのイギリスの劇作家で、本作は2018年にエディンバラ・フェスティバルのフリンジに参加しFringe First Awardを獲得した後、現在も各地で上演が行なわれている。

Donald Sage Mackay演じるロジャーは人生のあらゆることが「うまくいっていない」。妻とは別れ息子とも疎遠。仕事も好きではなく、いまのガールフレンドはあろうことかフェミニズムに目覚めつつある。そんな折、ロジャーはAngry Alanなるサイトとその運営者と出会い、「男性の権利」を主張する思想に傾倒していく。

作中に登場する「男性の権利」運動をめぐる言説(使われているYouTubeなどの素材は実在のものらしい)はまさに「逆ギレ」としか言いようのない代物だが、ロジャー自身はどこか憎めない人物としても描かれている。Angry white maleは単に糾弾の、あるいはブラックな笑いの対象としてあるのではない。思想の偏向は彼を取り巻く寄る辺なさが招いたものだ。巧みに演じられる中年男性の悲哀、笑えない滑稽さに付き合ううち、やがて悲劇的な結末が訪れる。

息子・ジョーから久々に「会って話したい」と言われたロジャーは、あらためて理想の「父と息子」となるべく、ふたりでハイキングに出かける。だがそこでジョーが打ち明けたのは彼が自身を男と自認しておらず、ジェンダーに縛られない生活をしたいと思っているということだった。ロジャーはそれを受け入れられず、ジョーを拒絶し置き去りにしてしまう。そして響き渡る一発の銃声──。

後味の悪い結末だ。自業自得、なのだろうか。あるいは因果応報か。戯曲はここで終わっているのだが、私が見た上演ではこのあとにロジャーが前妻とともにジョーの手術の結果を待つ場面が追加されていた。いずれにせよ、ロジャーは「反省」することになるのだろう。しかしその「反省」をもたらすのが親子の絆というきわめて保守的な価値観である/でしかなかったことに釈然としないものを感じもしたのであった。物語の構造上、ジョーの死はロジャーの「反省」の契機として「利用」されていると言ってよい。ならばジョーは、そのような価値観に二度殺されたことになりはしないだろうか?

公式サイト:https://sohotheatre.com/shows/angry-alan/

2019/03/05(山﨑健太)

中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』

会期:2019/03/02~2019/03/10

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチ・ルーム[東京都]

シアターコモンズ'19では三つの「リーディング・パフォーマンス」が上演された。個々の演出家による演出=セッティングのもと、その回ごとに集った参加者=観客たちで戯曲を読み合わせるという試みだ。私は映画監督・エッセイストの中村佑子演出による『アリス・イン・ベッド』のリーディング・パフォーマンスに参加した。

『アリス・イン・ベッド』は批評家スーザン・ソンタグの戯曲で実在の女性、アリス・ジェイムズをモデルにしている。哲学者ウィリアム・ジェイムズ、小説家ヘンリー・ジェイムズのふたりの兄と同様、アリスもまた才能溢れる人物だったが、若くして精神を病み、その後は長らく病床にあった。戯曲はアリスの日記をもとにした彼女の人生の断片らしき場面と、さまざまな女性、アリスの母、詩人エミリー・ディキンソン、女性活動家マーガレット・フラー、オペラ『パルジファル』の魔女クンドリ、バレエ『ジゼル』の精霊の女王ミルタらが登場する空想的な「ティーパーティー」の場面によって構成されている。

リーディング・パフォーマンスの参加者は座った順に役と場面を指定され、ほぼ全員が何らかの台詞を読み上げることになる。指定は機械的に行なわれるため、「役」と「役者」の性別・年齢は一致せず、また、場面ごとに「役者」が交代するので「役」の一貫性も薄い。

抑圧された女性の声をときに男性が読み上げることになるのも狙いのひとつではあるのだろう。だが、それ以上に興味深かったのは、複数の人間がひとつの戯曲を同時に読むことによって私のなかに複数の異なる声が立ち上がることだった。誰かが読み上げる言葉を自らも同時に「読む」ことによって、そこには戯曲の=「役」の声とそれを読み上げる「役者」の声、そして黙読する「私」の声が同時に存在する。それは例えば「私だったらそのようには読まない」という差異として浮かび上がるだろう。「役者」の交代もまたそこに別の声を加えることになる。

©佐藤駿/シアターコモンズ実行委員会

登場人物の多くは抑圧された女性という点で共通しているが、しかし互いに意見が一致しているわけではない。ときに共感を示しつつ、彼女たちの言葉はほとんど独り言のようにすれ違い続ける。それは「抑圧された女性」としてカテゴライズされ、個人が再び抑圧されることへの抵抗のようでもある。

戯曲という共有地=コモンズの上に差異を浮かび上がらせること。手法が主題を鮮やかに切り出す中村演出の『アリス・イン・ベッド』は、シアターコモンズの名を冠するにふさわしい新たな取り組みとなっていた。

©佐藤駿/シアターコモンズ実行委員会

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/

2019/03/02(山﨑健太)

ファーミ・ファジール+山下残『GE14』

会期:2019/02/16~2019/02/17(Kosha33)

Kosha33/こまばアゴラ劇場[神奈川県/東京都]

2018年5月9日、マレーシアでは1957年にイギリスから独立して以来初めての政権交代が起きた。そしてアーティストであるファーミ・ファジールは国会議員となった。タイトルはこの第14回総選挙(general election)を指すものだ。本作は振付家・演出家の山下残が友人であるファジールの選挙活動に「オブザーバー」として付き添った日々の記録映像の上映と、ファジール自身による生の政治演説の二つのパートで構成されている。

記録映像は山下の弁士めいた(しかしゆるい)語りとともに上映されるのだが、マレーシアの選挙に関しては部外者の山下の「無責任さ」も手伝って(なにせ盛り上がらない選挙戦に退屈した山下は敵陣に遊びに行きさえするのだ)、観客に野次馬的スタンスで楽しむことを許していたように思う。一方、アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」(日本でも『Baling』『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』などが上演されている)のメンバーでもあるファジールは芸術を通して政治に関わり続け、ついには国会議員となった。この対比はファジールの演説によってより鮮明となる。

©Miki Kanai

横浜公演では映像上映のあと、路上に設置されたテントを囲む「集会」のかたちでファジール(とゲストの灰野敬二)の演説が行なわれた。ファジールの演説の熱とは裏腹に、私がそこで感じたのはある種のうつろさだった。そこにいるのは私の国の政治家ではない。いまここでマレーシアの政治家の演説を聞いている私はなぜ、たとえ選挙期間中であっても日本の政治家の路上演説を聞くことを(おそらく決して)しないのだろうか。

本作に限らずレクチャー・パフォーマンスと呼ばれる作品は史実をはじめ政治的題材を扱っていることが多く、それゆえか(というのもおかしな話だが)つくり手の立ち位置が見えないことがままある。政治的態度を明確にせよということではない。だが内容と同等かそれ以上に、どんな人物がどのようにそれを語っているのかは作品/観客にとって重要なはずだ。そこにこそ「政治」がある。そうでなければ文字情報として「勉強」すればよい(もちろんいずれにせよ発信源は重要なのだが)。山下はマレーシアにおける自らの傍観者的な立ち位置をはっきりと示したうえで、自身の体験した状況そのものを日本に移植してみせる。日本でマレーシアの政治家の演説に耳を傾ける観客ははたして何者か。

(こまばアゴラ劇場での東京公演では演説→映像上映と順序が変更されていた。劇場内での演説では後半は担えないという判断だったのではないかと推測するが、背景が十分にわからない状態であの演説を聞く観客はなかなかしんどかったのではないだろうか。作品全体の導入として初当選を果たしたマック赤坂をめぐるやりとりなどがあり(統一地方選直後の上演だったのだ)、それはそれで彼我の差を意識させるには効果的だったが、それでも残念ながら私には横浜での上演ほどクリティカルなものとしては響かなかった。)

©前澤秀登

横浜公演(TPAM2019):https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=ge14
東京公演(こまばアゴラ劇場):http://www.komaba-agora.com/play/7967

2019/02/17[横浜]/2019/04/28[東京](山﨑健太)

スペースノットブランク『原風景』

会期:2018/12/18~2018/12/22

高松市美術館 講堂[香川県]

『原風景』は高松市の開催する高松アーティスト・イン・レジデンス2018に選出されたスペースノットブランク(小野彩加と中澤陽、以下スペノ)と俳優の西井裕美が高松市に49日間滞在して制作した「作品」。「作品」とカッコに括ったのは『原風景』が展示と上演のふたつのパートからなり、しかも展示の大部分を占めるのは高松市で絵を描き、写真を撮り、立体物を作る活動をしている「市民」の作品だったからだ。

スペノの作品は、おそらくそのほとんどがドキュメンタリー的手法によって作られている。上演において語られるのは、作品に参加した人々のそれまでの体験を言語化し編集することによって生まれた言葉だ(少なくともそのように聞こえる)。ここにおいてドキュメンタリー的という言葉は、演劇的、あるいは舞台芸術的というのとほとんど同義である。上演は、多くは稽古という名で呼ばれる時間の先にしかない。現在は過去の集積の上にあり、あるいは現在のなかに過去は折りたたまれている。

そうであったということはそうでしかなかったということではあっても、必然だったということではない(展示されていたワークショップの成果物、参加者の各々が家から会場までの経路を一枚の巨大な模造紙に書き込んだものはそのことを端的に示しているとも解釈できる)。だから、スペノの言葉はわかりやすい物語を紡がない。わかりやすい物語は複雑な時間のあり方を縮減してしまう。彼らが語る、易しいはずの言葉(なぜならそれらは生活のなかにあったものだから)は謎めいた魅力を称え、同時に幾分かとっつきづらい。

その点において、滞在制作という形式はスペノに向いている。上演において語られる言葉のバックグラウンドが、観客と作り手とのあいだで大なり小なり共有される可能性が高まるからだ。わからなければならないというわけではもちろんない。だが「わかる」ことから広がる未知の世界は大きい。



[© Kenta Yamazaki]



[© Yuka Kunihiro]

今作で西井によって語られる言葉は彼女自身のものでもスペノのふたりのものでもなく、今回の展示に参加した高松のアーティスト=「市民」から引き出され、編まれたものだ。彼らの名前は「原作」としてクレジットされ、その言葉の一部は作品とともに展示=上演会場に展示されてもいる。つまり、上演への入り口はさまざまなレベルで用意されている。作品を出展した者、その周囲の人々、出展者とは関係のない高松市周辺の人々、あるいは私のように「外」から訪れた者。いずれも展示を入り口に西井によって語られる言葉=世界に触れ、あるいは上演後に展示に触れることでその先に広がる世界を見ることができる。

アーティスト・イン・レジデンスへのスペノの選出は慧眼というほかない。これまでにもぺピン結構設計やブルーエゴナクなどを選出してきた高松アーティスト・イン・レジデンスは、今後も注目すべき枠組みと言えるだろう。



[© Yuka Kunihiro]

スペースノットブランク:https://spacenotblank.com/

2018/12/21(金)(山﨑健太)

ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』

会期:2018/11/17~2018/11/26

早稲田小劇場どらま館[東京都]

高校演劇のフォーマットにのっとった「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」シリーズ7作目。冬休みの図書室。ビーチ(端田新菜)は「好きな人ができたとき用のためのラブレター」を書くため、愛の言葉を収集している。それに付き合う親友の水星(大石将弘)は彼女に思いを寄せているようだ。ふらりと入ってきた太郎(篠崎大悟)はビーチの姉・海荷のかつての恋人で、まだ失恋を引きずっている。太郎は映画を撮るからと水星の兄・楽(本作には姿を見せないが過去作では同じく大石が演じていた)に呼び出されたのだが彼はなかなかやって来ない。楽の恋人・朝(島田桃子)は「イブなのに」と腹を立てつつ楽しそうだ。まだ来ぬ恋、過ぎ去りし恋。現在形の片思い両思い。

[撮影:三上ナツコ]

「まなざし」というシリーズのテーマは、しばしば恋愛というかたちで作中に表われる。だがそこに同性異性の区別はなく、それが自然なこととして描かれている。たとえば1作目では、将門という人物が太郎のことを好きかもしれないということがサラリと語られていた。本作で大石将弘が演じる水星は楽の「妹」だ。彼女はスカートこそ着用しているもののカツラを被っていたりはせず、見た目としてはほぼ「男性」である。彼女は「男性的な」見た目の女性なのかあるいはトランスジェンダーなのか。だが作中にそのあたりの言及は特にない。つまり、戯曲としては水星を「女性」が演じる選択肢もあるところに、三浦はあえて大石をキャスティングしたことになる。もちろん、男女どちらが演じてもいいし、見た目が「男性的」であっても「女性的」であってもいいのだ。説明もいらない。本当は、必要なのは理屈ではない。

何かしら望ましくない状況があったとき、その解決には二つの方法がある。ひとつは問題提起。もうひとつは、あるべき姿を当たり前の「空気」としてつくり上げてしまうこと。「いつ高」シリーズが高校生に捧げられている意味は大きい。

[撮影:三上ナツコ]

「いつ高」シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/

2018/11/22(山﨑健太)

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