2019年11月15日号
次回12月2日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

Penelope Skinner『Angry Alan』

会期:2019/03/05~2019/03/30

SOHO THEATRE[ロンドン]

Angry white male(怒れる白人男性)という言葉がある。差別され抑圧されてきた女性や非白人による権利回復のための運動に対して異議を唱える男性を指す言葉で、逆ギレする男たち、というニュアンスで使われる。whiteという単語が含まれてはいるものの、このような現象はもちろん欧米に限られたものではない。

Angry Alanはこのangry white maleを主題としたひとり芝居。作・演出のPenelope Skinnerは1978年生まれのイギリスの劇作家で、本作は2018年にエディンバラ・フェスティバルのフリンジに参加しFringe First Awardを獲得した後、現在も各地で上演が行なわれている。

Donald Sage Mackay演じるロジャーは人生のあらゆることが「うまくいっていない」。妻とは別れ息子とも疎遠。仕事も好きではなく、いまのガールフレンドはあろうことかフェミニズムに目覚めつつある。そんな折、ロジャーはAngry Alanなるサイトとその運営者と出会い、「男性の権利」を主張する思想に傾倒していく。

作中に登場する「男性の権利」運動をめぐる言説(使われているYouTubeなどの素材は実在のものらしい)はまさに「逆ギレ」としか言いようのない代物だが、ロジャー自身はどこか憎めない人物としても描かれている。Angry white maleは単に糾弾の、あるいはブラックな笑いの対象としてあるのではない。思想の偏向は彼を取り巻く寄る辺なさが招いたものだ。巧みに演じられる中年男性の悲哀、笑えない滑稽さに付き合ううち、やがて悲劇的な結末が訪れる。

息子・ジョーから久々に「会って話したい」と言われたロジャーは、あらためて理想の「父と息子」となるべく、ふたりでハイキングに出かける。だがそこでジョーが打ち明けたのは彼が自身を男と自認しておらず、ジェンダーに縛られない生活をしたいと思っているということだった。ロジャーはそれを受け入れられず、ジョーを拒絶し置き去りにしてしまう。そして響き渡る一発の銃声──。

後味の悪い結末だ。自業自得、なのだろうか。あるいは因果応報か。戯曲はここで終わっているのだが、私が見た上演ではこのあとにロジャーが前妻とともにジョーの手術の結果を待つ場面が追加されていた。いずれにせよ、ロジャーは「反省」することになるのだろう。しかしその「反省」をもたらすのが親子の絆というきわめて保守的な価値観である/でしかなかったことに釈然としないものを感じもしたのであった。物語の構造上、ジョーの死はロジャーの「反省」の契機として「利用」されていると言ってよい。ならばジョーは、そのような価値観に二度殺されたことになりはしないだろうか?

公式サイト:https://sohotheatre.com/shows/angry-alan/

2019/03/05(山﨑健太)

中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』

会期:2019/03/02~2019/03/10

慶應義塾大学三田キャンパス 旧ノグチ・ルーム[東京都]

シアターコモンズ'19では三つの「リーディング・パフォーマンス」が上演された。個々の演出家による演出=セッティングのもと、その回ごとに集った参加者=観客たちで戯曲を読み合わせるという試みだ。私は映画監督・エッセイストの中村佑子演出による『アリス・イン・ベッド』のリーディング・パフォーマンスに参加した。

『アリス・イン・ベッド』は批評家スーザン・ソンタグの戯曲で実在の女性、アリス・ジェイムズをモデルにしている。哲学者ウィリアム・ジェイムズ、小説家ヘンリー・ジェイムズのふたりの兄と同様、アリスもまた才能溢れる人物だったが、若くして精神を病み、その後は長らく病床にあった。戯曲はアリスの日記をもとにした彼女の人生の断片らしき場面と、さまざまな女性、アリスの母、詩人エミリー・ディキンソン、女性活動家マーガレット・フラー、オペラ『パルジファル』の魔女クンドリ、バレエ『ジゼル』の精霊の女王ミルタらが登場する空想的な「ティーパーティー」の場面によって構成されている。

リーディング・パフォーマンスの参加者は座った順に役と場面を指定され、ほぼ全員が何らかの台詞を読み上げることになる。指定は機械的に行なわれるため、「役」と「役者」の性別・年齢は一致せず、また、場面ごとに「役者」が交代するので「役」の一貫性も薄い。

抑圧された女性の声をときに男性が読み上げることになるのも狙いのひとつではあるのだろう。だが、それ以上に興味深かったのは、複数の人間がひとつの戯曲を同時に読むことによって私のなかに複数の異なる声が立ち上がることだった。誰かが読み上げる言葉を自らも同時に「読む」ことによって、そこには戯曲の=「役」の声とそれを読み上げる「役者」の声、そして黙読する「私」の声が同時に存在する。それは例えば「私だったらそのようには読まない」という差異として浮かび上がるだろう。「役者」の交代もまたそこに別の声を加えることになる。

©佐藤駿/シアターコモンズ実行委員会

登場人物の多くは抑圧された女性という点で共通しているが、しかし互いに意見が一致しているわけではない。ときに共感を示しつつ、彼女たちの言葉はほとんど独り言のようにすれ違い続ける。それは「抑圧された女性」としてカテゴライズされ、個人が再び抑圧されることへの抵抗のようでもある。

戯曲という共有地=コモンズの上に差異を浮かび上がらせること。手法が主題を鮮やかに切り出す中村演出の『アリス・イン・ベッド』は、シアターコモンズの名を冠するにふさわしい新たな取り組みとなっていた。

©佐藤駿/シアターコモンズ実行委員会

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/

2019/03/02(山﨑健太)

ファーミ・ファジール+山下残『GE14』

会期:2019/02/16~2019/02/17(Kosha33)

Kosha33/こまばアゴラ劇場[神奈川県/東京都]

2018年5月9日、マレーシアでは1957年にイギリスから独立して以来初めての政権交代が起きた。そしてアーティストであるファーミ・ファジールは国会議員となった。タイトルはこの第14回総選挙(general election)を指すものだ。本作は振付家・演出家の山下残が友人であるファジールの選挙活動に「オブザーバー」として付き添った日々の記録映像の上映と、ファジール自身による生の政治演説の二つのパートで構成されている。

記録映像は山下の弁士めいた(しかしゆるい)語りとともに上映されるのだが、マレーシアの選挙に関しては部外者の山下の「無責任さ」も手伝って(なにせ盛り上がらない選挙戦に退屈した山下は敵陣に遊びに行きさえするのだ)、観客に野次馬的スタンスで楽しむことを許していたように思う。一方、アーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」(日本でも『Baling』『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』などが上演されている)のメンバーでもあるファジールは芸術を通して政治に関わり続け、ついには国会議員となった。この対比はファジールの演説によってより鮮明となる。

©Miki Kanai

横浜公演では映像上映のあと、路上に設置されたテントを囲む「集会」のかたちでファジール(とゲストの灰野敬二)の演説が行なわれた。ファジールの演説の熱とは裏腹に、私がそこで感じたのはある種のうつろさだった。そこにいるのは私の国の政治家ではない。いまここでマレーシアの政治家の演説を聞いている私はなぜ、たとえ選挙期間中であっても日本の政治家の路上演説を聞くことを(おそらく決して)しないのだろうか。

本作に限らずレクチャー・パフォーマンスと呼ばれる作品は史実をはじめ政治的題材を扱っていることが多く、それゆえか(というのもおかしな話だが)つくり手の立ち位置が見えないことがままある。政治的態度を明確にせよということではない。だが内容と同等かそれ以上に、どんな人物がどのようにそれを語っているのかは作品/観客にとって重要なはずだ。そこにこそ「政治」がある。そうでなければ文字情報として「勉強」すればよい(もちろんいずれにせよ発信源は重要なのだが)。山下はマレーシアにおける自らの傍観者的な立ち位置をはっきりと示したうえで、自身の体験した状況そのものを日本に移植してみせる。日本でマレーシアの政治家の演説に耳を傾ける観客ははたして何者か。

(こまばアゴラ劇場での東京公演では演説→映像上映と順序が変更されていた。劇場内での演説では後半は担えないという判断だったのではないかと推測するが、背景が十分にわからない状態であの演説を聞く観客はなかなかしんどかったのではないだろうか。作品全体の導入として初当選を果たしたマック赤坂をめぐるやりとりなどがあり(統一地方選直後の上演だったのだ)、それはそれで彼我の差を意識させるには効果的だったが、それでも残念ながら私には横浜での上演ほどクリティカルなものとしては響かなかった。)

©前澤秀登

横浜公演(TPAM2019):https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=ge14
東京公演(こまばアゴラ劇場):http://www.komaba-agora.com/play/7967

2019/02/17[横浜]/2019/04/28[東京](山﨑健太)

スペースノットブランク『原風景』

会期:2018/12/18~2018/12/22

高松市美術館 講堂[香川県]

『原風景』は高松市の開催する高松アーティスト・イン・レジデンス2018に選出されたスペースノットブランク(小野彩加と中澤陽、以下スペノ)と俳優の西井裕美が高松市に49日間滞在して制作した「作品」。「作品」とカッコに括ったのは『原風景』が展示と上演のふたつのパートからなり、しかも展示の大部分を占めるのは高松市で絵を描き、写真を撮り、立体物を作る活動をしている「市民」の作品だったからだ。

スペノの作品は、おそらくそのほとんどがドキュメンタリー的手法によって作られている。上演において語られるのは、作品に参加した人々のそれまでの体験を言語化し編集することによって生まれた言葉だ(少なくともそのように聞こえる)。ここにおいてドキュメンタリー的という言葉は、演劇的、あるいは舞台芸術的というのとほとんど同義である。上演は、多くは稽古という名で呼ばれる時間の先にしかない。現在は過去の集積の上にあり、あるいは現在のなかに過去は折りたたまれている。

そうであったということはそうでしかなかったということではあっても、必然だったということではない(展示されていたワークショップの成果物、参加者の各々が家から会場までの経路を一枚の巨大な模造紙に書き込んだものはそのことを端的に示しているとも解釈できる)。だから、スペノの言葉はわかりやすい物語を紡がない。わかりやすい物語は複雑な時間のあり方を縮減してしまう。彼らが語る、易しいはずの言葉(なぜならそれらは生活のなかにあったものだから)は謎めいた魅力を称え、同時に幾分かとっつきづらい。

その点において、滞在制作という形式はスペノに向いている。上演において語られる言葉のバックグラウンドが、観客と作り手とのあいだで大なり小なり共有される可能性が高まるからだ。わからなければならないというわけではもちろんない。だが「わかる」ことから広がる未知の世界は大きい。



[© Kenta Yamazaki]



[© Yuka Kunihiro]

今作で西井によって語られる言葉は彼女自身のものでもスペノのふたりのものでもなく、今回の展示に参加した高松のアーティスト=「市民」から引き出され、編まれたものだ。彼らの名前は「原作」としてクレジットされ、その言葉の一部は作品とともに展示=上演会場に展示されてもいる。つまり、上演への入り口はさまざまなレベルで用意されている。作品を出展した者、その周囲の人々、出展者とは関係のない高松市周辺の人々、あるいは私のように「外」から訪れた者。いずれも展示を入り口に西井によって語られる言葉=世界に触れ、あるいは上演後に展示に触れることでその先に広がる世界を見ることができる。

アーティスト・イン・レジデンスへのスペノの選出は慧眼というほかない。これまでにもぺピン結構設計やブルーエゴナクなどを選出してきた高松アーティスト・イン・レジデンスは、今後も注目すべき枠組みと言えるだろう。



[© Yuka Kunihiro]

スペースノットブランク:https://spacenotblank.com/

2018/12/21(金)(山﨑健太)

The end of company ジエン社『ボードゲームと種の起源』

会期:2018/12/11~2018/12/16

アーツ千代田3331 B104[東京都]

The end of company ジエン社の第13回公演『ボードゲームと種の起源』は同タイトル・同モチーフ・同設定のもと、2018年12月の「基本公演」と2019年5月の「拡張公演」の二つのバージョンが上演された。こちらは「基本公演」のレビューとなる。

物語は新作ゲームの開発にいそしむボードゲーム作家の男・中大兄(寺内淳志)と、彼の(近親相姦的愛情を寄せ合っているらしい)妹・個子(名古屋愛)、同棲している(しかし恋人ではない?)女・ニホエヨ(沈ゆうこ)、そして新たにやってきたボードゲーム妖精を自称する女・チロル(高橋ルネ)の4人の関係の(ほとんど停滞と見紛うばかりの)変化を描くものだ。

本作では家族、あるいはそれ未満の男女の関係を舞台=フィールドとし、それを成立させているルールの再検討が行なわれる。新作ゲームのブラッシュアップとコミュニティ(男女の関係)のあり方の問い直しが劇中で並行して進んでいく趣向だ。舞台美術もボードゲームの盤面を模している。中央に置かれたテーブルの周囲の床には四つの長方形に区切られたスペースがあり、それぞれがひとつの部屋を意味しているらしい。劇中に登場する『魔女の森に座る』が正しい椅子に座ることを目指すゲームであったことを考えれば、登場人物たちは自分たちの「正しい場所」を探して試行錯誤しているのだと言うことができるだろう。ただし、『魔女の森に座る』には後から来た者に場所を明け渡さなければならないという理不尽な、しかし現実を映したものでもあるルールがある。全員が「正しい場所」に収まることは果たして可能なのか。

© 刑部準也

© 刑部準也

場所の占有というモチーフは前作『物の所有を学ぶ庭』から引き継がれたものであり、同時に、ジエン社が一貫して描いている震災後の世界において(いや、もちろんそれらの問題は震災以前からあり、多くの闘争がなされてきたことは言うまでもないが、改めて)避けては通れない問題系である。

ところで、私はこの作品を観ながら、また別のゲームを思い浮かべていた。複数の女性キャラクターの中から意中のひとりを落とすことを目指す、いわゆるギャルゲーだ。設定の異なる複数の女性が選択肢として用意されているところなどそっくりである。なるほど、たしかに本作には既存の家族のあり方への問いが含まれている。だがそれは、どこまでいっても中大兄に都合のいいものに過ぎない。椅子取りゲームに参加するのは女たちだけだ。男の居場所は保証されている。

劇中で「ホモ」という(基本的には蔑称として機能してきた)言葉が特に回収されることなく使われていたことも気になった。ルールの再検討が異性愛男性を中心とした価値観のもとに行なわれるならばそんなものに意義はない。基本公演は現代日本の宿痾をそのまま映し出していた。だからブラッシュアップされたゲームは『魔女の森を出る』と名づけられ、ニホエヨは出ていく。さて、本作はどのように「拡張」されるのだろうか。

© 刑部準也


公式サイト:https://elegirl.net/jiensha/

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