2022年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

いいへんじ『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)

会期:2021/07/22~2021/07/25

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』は東京芸術劇場が「若手の才能を紹介」するショーケースの8年ぶりの第三弾。「演劇にあらわれた時代の潮流をすくい取」ることもねらいだというこの企画で今回取り上げられたのが、企画コーディネーターも務める演劇ジャーナリスト・徳永京子の命名による「弱いい派」である。「弱いい派」という言葉にはかなり微妙なニュアンスが込められており、それをネーミングのそのままに「弱さの肯定」とだけまとめてしまうと誤解を招きかねないのだが、徳永は「諦念や絶望の手前で、冷静に、飄々と、あるいは自覚なき誇りを持って、とりあえず生きていく態度」や「登場人物の言葉を借りた糾弾や啓蒙ではなく、小さいけれども聴くべき当事者の声達」を描くつくり手たちを「弱いい派」と呼んでいる(いずれも当日パンフレットからの引用)。今回は「弱いい派」からいいへんじ、ウンゲツィーファ、コトリ会議の三組がそれぞれ40分程度の短編を上演した。


いいへんじは劇作・演出を担当する中島梓織と俳優の松浦みるを中心に2017年に旗揚げされた演劇団体。『薬をもらいにいく薬(序章)』(作・演出:中島梓織)は今後上演が予定されている長編『薬をもらいにいく薬』の冒頭部分となる。今回上演された3作品のなかでは「弱いい派」というキーワードをもっともストレートに引き受けた作品だと言えるかもしれない。

ある日、ハヤマ(タナカエミ)は出かけようとして薬を切らしてしまっていることに気づく。その日は同居している恋人・マサアキ(小見朋生)の誕生日、かつ出張から帰ってくる日で、ハヤマは空港に向かおうとしたところだった。パニック障害と思われる持病のある彼女が出かけるためにはお守り代わりの薬が必要で、しかし薬をもらいに病院に行くにもそのための薬がない。諦めてタオルケットにくるまっているところに、バイト先の同僚・ワタナベ(遠藤雄斗)が、バイトを長く休んでいるハヤマに店長の指示でシフト用紙を届けに来る。ハヤマはワタナベに事情を説明し、一緒に空港に向かってくれるよう頼む。ワタナベもそれを了解するが、ハヤマはそれでも家を出られない。そんなハヤマにワタナベは、家から空港までの道のりを「一回やってみましょう」とシミュレーションしてみることを提案するのだった。


[撮影:引地信彦]


ハヤマに接するワタナベが持つある種の軽さ、遠藤の飄々とした演技には、「弱さ」に向き合おうとして強ばる心をほぐしてくれるようなしなやかさを感じた。ハヤマと同じ重さや深刻さを引き受けるのでなく、かと言って突き放すのでもなく、仕方ないなと言わんばかりのルーズさで他人の困りごとに付き合うこと。実際のところ、シフト用紙を届けにきたワタナベは当初、「でもこれ、書いたらどうしたらいいんだろう」と言いつつも「まいいや、渡すとこまでなんで、俺の仕事」と帰ろうとしていたのであった。

後半では、ワタナベもまた、同性パートナーのソウタ(マサアキと同じく小見が演じる)と一緒に住む家がなかなか見つからず、ふたりの仲がぎくしゃくしはじめているという自らの悩みを吐露する。ハヤマに対するワタナベの態度は彼の性格に起因するものだと思われるが、一方で、後半の展開を踏まえると、彼がゲイという「社会的弱者」であるがゆえに、あるいはパートナーであるソウタもまた心の病を抱えているがゆえにハヤマにも優しいのだという解釈も成り立つかもしれない。だが、それでは優しさは弱さの共感のなかに閉じてしまう。その意味で、後半の展開は前半で示されるワタナベのようなあり方の可能性を減じているようにも思われた。


[撮影:引地信彦]


今回は長編の冒頭部分のみの上演という事情もあってか、基本的にはタイトルが示す状況とそこからの一歩目が示されるに留まった印象だ。大事なことのほとんどが言葉で説明されてしまっていたという点でも、今回の上演はあまりに素朴だったと言わざるを得ない。ここから長編としてどのように展開していくのだろうか。作中には「Cross Voice Tokyo」というラジオ番組(声:松浦みる、野木青依)がたびたび挟み込まれる。番組のキャッチコピーは「東京に住む人々の、声と声とが交差する場所」。ハヤマとワタナベのパートナーがいずれも小見というひとりの俳優によって演じられていることも合わせて考えると、「交差」というのはこの作品のひとつのポイントになっていくのかもしれない。自分の悩みに溺れてしまうのではなく、他者と言葉を交わしてみること。『薬をもらいにいく薬』完全版は『器』との二本立てでの上演が来年に予定されている。


いいへんじ:https://ii-hen-ji.amebaownd.com/
芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』:https://www.geigeki.jp/performance/theater276/


関連レビュー

ウンゲツィーファ『Uber Boyz』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
コトリ会議『おみかんの明かり』(芸劇eyes番外編vol.3.『もしもしこちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年08月01日号)
いいへんじ『夏眠』/『過眠』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)

2021/07/22(木・祝)(山﨑健太)

中野成樹+フランケンズ『Part of it all』

会期:2021/07/18

えこてん 廃墟スタジオ、屋上スタジオ[東京都]

中野成樹+フランケンズ、略してナカフラ2年半ぶりの(東京ではなんと5年ぶりの!)公演が行なわれた。演出ノートによれば、しばらく公演がなかったのは中野が「鬱をわずらったり、複数のメンバーが育児に追われはじめたり、新型コロナがやってきたり、なかなかその機会が整」わなかったから、とのことで、そのような状況でも演劇をやるために今回の公演は「現状のメンバー全員が、 ①日常生活を維持しながら無理なく参加できる ②あるいは、積極的に不参加できる」という二つの指針に基づいて準備が進められてきたそうだ。日曜日1日のみ、午前午後1回ずつの2回公演。すべての役に複数の俳優が割り当てられているのも公演を「無理なく」行なうための構えだろう。

今回上演されたのはエドワード・オールビー『動物園物語』を原作に中野が誤意訳・演出を手がけた『Part of it all』。ナカフラはもともと「時代・文化風習等が現代日本と大きく異なる、いわゆる『翻訳劇』をとりあげ、『いまの自分たちの価値観と身体』で理解し体現する」ことを掲げ、「逐語訳にとらわれない翻訳、あらすじのみを死守する自由な構成、従来のイメージやマナーにとらわれぬ私たちの物語としての作品解釈、その方法・表現を『誤意訳』と名付け」て実践してきた。今回の『Part of it all』は会場となった廃墟スタジオでまずは第一部として「原作の紹介上演」が行なわれた後、同じ会場で第二部として「その誤意訳上演」、そして屋上へ移動しての第三部「+メンバーの日常」という三部構成での上演となった。手練ぞろいのナカフラ俳優陣による上演は期待に違わず抜群の面白さだった。



原作の『動物園物語』は男二人の会話劇。ピーター(洪雄大/福田毅)が公園のベンチで本を読んでいると見知らぬ男が「動物園へ行ってきたんです」と話しかけてくる。適当にあしらって会話を早く切り上げようとするピーターだったが男はしつこく話しかけてくる。ジェリー(田中佑弥/竹田英司)と名乗るその男はどうやら動物園で何かニュースになるようなことをしてきたらしい。出版社に勤め妻子もいるピーターと酷いアパートの一室に独り住むジェリー。不均衡な二人のあいだで交わされる会話は不穏さを増していき、やがて悲劇的な結末を迎える……のだが、今回の上演はおおよそ前半部のみ。不穏さが急激に高まっていく直前で上演は途絶し、第二部の誤意訳がはじまる。

第二部ではピーターが三人になっており(A:佐々木愛/北川麗、B:福田毅/洪雄大、C:新藤みなみ/[中野成樹])、どうやら彼女たちは会社の同僚らしい。休憩中だろうか、コーヒーや財布を手に心霊写真の話で盛り上がる三人。そこに缶酎ハイとコンビニのチキンを手にした男(=ジェリー、配役は第三部まで同じ)がやってくると、「一人、百円ずつもらっていいですか?」と言い出し──。ジェリーの不条理さは原作と同様だが、第二部では構図が三対一になったことでピーターの側にある数の優位とその感じの悪さが際立つ。Cのパートナーが電通に勤めているという設定は、数の優位が資本の力とも結びつき得ることを示唆するものだろう。金を払えばいいのだろうと言わんばかりの態度も鼻につく。

第三部は基本的には第二部と同じ内容なのだが(ただしピーターはA:石橋志保[佐々木愛、北川麗]、B:小泉まき[福田毅、洪雄大]、C:野島真理/斎藤淳子[新藤みなみ])、上演のシチュエーションが変わることでその見え方は再び大きく変わることになる。舞台は屋上。アウトドア用のテーブルや椅子、パラソルやビニールプールなどが置かれた空間で、ナカフラのメンバーとその子供たちが遊んでいる。そこにやってくるジェリーは子供たちに危害を加えかねない不穏さを孕んでいるように見え、ピーターたちはジェリーを子供たちに近づけないように立ち回る。ジェリーはいわゆる「無敵の人」のようでもあり、数では勝るピーターたちは、必ずしも優位な立場にあるわけではない。



ところで、今回の上演では一貫してピーターたちは白、ジェリーは赤の衣装を身にまとっていて、そのことが対立の構図をより鮮明に見せている。だが、上演の核は分断よりはむしろ「見えないもの」に想像を広げていくことにあるだろう。誤意訳で書き込まれた心霊写真(過去、死者)やお腹の子(未来)といったモチーフがそのことを示している。第二部では女性が、第三部では子供が登場し、舞台の上の人数とその多様性は増していく。それはつまり、それ以前には舞台上に彼女たちはいなかったということだ。だがそれでも、それ以前の上演の背後にも彼女たちは存在していたことは言うまでもない。演劇は、芸術は、社会と生活から切り離された営みではない。

動物園で何が起きたかをはじめ、ピーターと観客はジェリーの背景を十全に知ることができない。今回の上演は途中までなので、戯曲を読まなければ戯曲に書かれているはずのことすらすべてを知ることはできない。そこにあるのは全体の一部に過ぎず、しかしたしかに全体の一部ではある。そのことを改めてきちんと想像してみること。

屋上で上演される第三部には無言のまま舞台をゆっくりと通り過ぎる人物がいて、その衣装は鮮やかな青だ。赤と白の衣装は日本国旗を連想させるが、世界は紅白のなかで完結するわけではない。国旗は空にはためくものであり、日本の外側には海も広がっている。海の向こうにはまた別の国々もある。青空と街並みを背景に屋上で上演され、俳優たちの日常までもが垣間見える第三部は、私の見えないところにも世界は広がっているのだというごく当たり前のことを、しかし鮮やかに体感させてくれた。


公式サイト:http://frankens.net/
『Part of it all』中野成樹・野島真理インタビュー:http://frankens.net/part-of-it-all-interview/

2021/07/18(日)(山﨑健太)

ロロ『とぶ』

会期:2021/06/26~2021/07/04

吉祥寺シアター[東京都]

「いつ高」シリーズのラストを飾るvol.10『とぶ』はなにもない空間からはじまる。上演前の10分間を使った舞台美術の仕込みも全国高等学校演劇コンクールの出場ルールに則ってつくられた「いつ高」シリーズの特徴のひとつだが、vol.9と2本立て上演されたvol.10の上演前の時間に仕込みは行なわれず、やがてそのなにもない空間が体育館のステージらしいことがわかってくる。客席側に広がっていると思しき運動エリアではバスケ部が練習をしているようだ。群青(板橋駿谷)がそれを眺めていると、そこに将門(亀島一徳)が机を運んでくる。それはどうやら映画の撮影の準備で、少しずつ運ばれてくる机によって舞台は教室へと姿を変えていく。「いつ高」という架空の高校を舞台にした青春群像劇連作演劇シリーズのおしまいは、演劇のはじまりをなぞるようにしてはじまる。


[撮影:伊原正美]


机を運んできた将門も一緒になってバスケ部の練習を眺めていると、二人の友人のシューマイがフリースローを決める。のみならず、将門が思いもしないほど飛んだりもしているらしい。それを見て「あんな飛ぶ人だっておもわなかった」と言う将門は「勝手に飛ばない人だって決めつけてた自分がすごい、やだ」とちょっと落ち込んでしまう。『とぶ』はそんな誰かの想像の外を象徴するようなタイトルで、群青が初めて舞台に登場し将門やシューマイらと過ごす時間を描いたvol.4『いつだって窓際でぼくたち』でも実はすでにキーワード(?)になっていた。シューマイの姿は舞台上にないが、将門が想像もしなかったその姿を観客はたしかに想像することになるだろう。

なりゆきから撮影の準備を手伝っていた群青は、将門からこのあと太郎(篠崎大悟)が来ると聞いて動揺してしまう。実は群青と太郎は中学時代、同じ「サイキック運動部」の部員同士だったのだ。いまもサイキック運動部に唯一の部員として所属する群青とは異なり、かつてのエースだった太郎は今はもうサイキック運動はやっておらず、一方的に気まずさを感じている群青は逃げるように去っていく。


[撮影:伊原正美]


やってきた太郎と将門は撮影に備えてセリフ合わせをはじめるもののなかなかしっくり来ない。「二人でおんなじ景色、想像できたらいいのかな」という将門の言葉をきっかけに、脚本に書かれた人物たちのことを想像しはじめる二人。しかしまだあと一歩、というところに不意に戻ってきた群青は「それでもサイキック運動部の元エース、テレパスの太郎かよ!」と太郎を挑発し、「ちょっと、みてろ」とサイキック運動をしはじめる。サイキック運動とは「存在しないものを念の力で具現化させて闘う競技」、らしい。やがてサイキック運動は太郎、将門を巻き込み、三人のあいだで想像の共有が果たされるのだった。


[撮影:伊原正美]


ところで、vol.1『いつだって窓際であたしたち』では将門が太郎にはじめて声をかける瞬間が(舞台の外/観客の想像のなかで)描かれていたのだが、太郎に好意を寄せる将門にとっては嬉しく驚くべきことに、太郎はそれ以前から将門のことを認識していたらしい。それどころか、太郎も将門自身も知らなかった、運命的と言ってもよいつながりが二人のあいだにはあった。

話は中学時代に遡る。生徒たちの希望によって給食のメニューが決まるリクエスト給食の日、大人しくて声の小さい国語教師の通称「淳二先生」は校庭で「回鍋肉」と書かれたアドバルーンを打ち上げていた。その出来事は将門に強い印象を残し、教師を目指すきっかけにさえなったのだが、強い風に一瞬で飛ばされてしまったアドバルーンを目撃したのは将門しかいなかったと思われた。だが同じ日、太郎の中学では卒業アルバムの集合写真の撮影が行なわれており、そこにはなんとアドバルーンの姿がしっかり映り込んでいた。しかも、アドバルーンの「回鍋肉」の文字に刺激された二人はその夜、同じバーミヤンで回鍋肉を食べていた── 。

くだらないと言えばくだらないエピソードだが、想像を共有するまでもなく、すでに太郎と世界を共有していたのだという事実は将門にとって運命以外のなにものでもないだろう。見える範囲、知れる範囲、想像の及ぶ範囲は限られているが、世界はその外側にも広がっている。見えなくとも、知ることができなくとも、想像できなくとも世界はつながっている。だから、そのことさえ忘れなければ世界はあらかじめ共有されているのだ。演劇は、人の集う劇場は、そのことを繰り返し思い出させてくれる。


[撮影:伊原正美]


「いつ高」シリーズはこれでひと区切りとなるが、作・演出の三浦直之は高校演劇の枠組みに縛られない番外編の制作を予告している。また、この10月には東京芸術祭の一環として『フランケンシュタイン』を翻案したロロの新作公演『Every Body feat. フランケンシュタイン』も控えている。オンライン配信もあるとのことなので劇場公演と合わせて楽しみに待ちたい。


いつ高:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
ロロ:http://loloweb.jp/


関連レビュー

ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』(いつ高シリーズ9作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
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ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』(いつ高シリーズ7作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2021/06/26(土)(山﨑健太)

ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』

会期:2021/06/26~2021/07/04

吉祥寺シアター[東京都]

「ロロが高校生に捧げる新シリーズ」として2015年にスタートした「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズ」、通称「いつ高シリーズ」がついにファイナルを迎えた。作・演出の三浦直之が審査員として立ち会った高校演劇の上演に感銘を受けたことをきっかけにはじまったこのシリーズは、全作品が全国高等学校演劇コンクールの出場ルール(上演時間60分以内、舞台美術の仕込みは上演前の10分間、などなど)に基づいて創作されており、そのままコンクールで上演することも可能なフォーマットとなっている。今回のファイナルではvol.9『ほつれる水面で縫われたぐるみ』とvol.10『とぶ』が2本立てで上演された。

「いつ高」は当初から戯曲の無料公開を掲げており(2021年8月末時点でvol.7まで公開)、そうして高校生に戯曲の上演機会を提供するのみならず、過去作を観ていない観客も遡ってその世界に触れることができるようになっている。今回はそれに加えvol.1『いつだって窓際であたしたち』とvol.2『校舎、ナイトクルージング』の記録映像も期間限定で無料公開され、さらに、ファイナルの前売りチケットを購入した観客にはvol.8までのすべての作品の記録映像が期間限定で公開された。長い間続いてきたシリーズに新たに触れようとする観客のハードルを下げるのみならず、ファイナルで初めて「いつ高」に触れた観客にもその世界の広がりを体感できる嬉しい特典だ。

『ほつれる水面で縫われたぐるみ』の舞台はプール開き前日で水が抜かれたプール。泥が溜まり、さまざまなゴミが落ちているそこでは瑠璃色(森本華)が何かを探しており、プールサイドにはなぜかモツ(重岡漠)が横たわっている。そこに茉莉(多賀麻美)がやってくるが、プールの脇に掘られていた穴に落ちてしまう。どうやらモツも同じようにその穴に落ちたらしい。ラブレターで呼び出されたのだというモツの話を聞き、茉莉はドッキリ(?)を仕掛けた犯人を探し出そうとするが捕まえた将門(亀島一徳)は犯人ではなくて──。


[撮影:伊原正美]


タイトルの「ぐるみ」はモツが持ち歩いている「やきそば」という名のぬいぐるみに由来する。小さい頃から持ち歩いていて、辛いときにはいつも話を聞いてもらっているというそのぬいぐるみはボロボロでつぎはぎだらけなのだが、そのつぎはぎの一つひとつ、たとえば紙やすりや崎陽軒のシウマイ弁当の包み紙はどれもが思い出の品で、モツはそんなやきそばを自分のメモリーカードなのだという。一方、瑠璃色もまた、水着にさまざまな思い出を縫いつけ、それを自らの「戦闘服」として制服のシャツの下に着込んでいたのだった。

モツたちの「現在」はたくさんの「過去」から成り立っていて、しかし「現在」がどのような「未来」につながっているかは誰にもわからない。やがてほつれた「現在」は思いもしない「未来」の一部になる。vol.8までは高校2年生だった登場人物たちもvol.9では高校3年生になっていて、そこには高校時代という「現在」がやがて「過去」になっていくのだという予感が忍び込んでいる。セブンティーンアイスの「皮」のように脱ぎ捨てられた17歳も、やがて18歳の一部になるだろう。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


結局、校庭の穴は落とし穴ではなく、群青(板橋駿谷)がタイムカプセルを埋めるために掘ったものだったということが明らかになる。高校生活にあまり楽しい思い出がなかったという群青は「だったら作っちゃえ」と楽しい思い出を偽造し、「未来の誰かを誤解させるため」にタイムカプセルを埋めようとしていたのだった。そもそも、モツが持っていたラブレターも、群青がタイムカプセルに入れるつもりで恋人と文通をしている設定で自ら書いたもので、モツはそれをたまたま拾った、ということだったらしい。

それを聞いた茉莉たちも未来人を誤解させようと、プールの底に落ちているものを拾っては「楽しい思い出」を妄想し、そして群青とともにタイムカプセルを埋めることにする。プールの底に沈んでいた「過去」は茉莉たちによって「誤読」され、さらに「未来」へと送り出されることになる。それは同時に、ともにタイムカプセルを埋めるという現在を思い出として未来へ送り込むことでもあるだろう。いまこの瞬間、その「現在」だけはたしかなものとして共有されている。だが、それぞれの未来に思い出がどう届くかは誰にもわからない。観客である私はそのことを知っているからこそ、なんでもないラストシーンをかけがえのない瞬間として胸に刻むのだ。


[撮影:伊原正美]



いつ高:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
ロロ:http://loloweb.jp/


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2021/06/26(土)(山﨑健太)

ほろびて『あるこくはく [extra track]』

会期:2021/06/19~2021/06/22

SCOOL[東京都]

5月の第11回せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリ、劇作家賞(細川洋平)、俳優賞(吉増裕士)を受賞したほろびての短編『あるこくはく』が、新作短編『[extra track]』を加えた二本立て公演『あるこくはく [extra track]』としてSCOOLで上演された。

第11回せんがわ劇場演劇コンクールは新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、劇場での一般観覧を中止。私は配信でコンクールの様子を視聴したが、解像度も十分とは言えない引きの固定カメラを通しての映像は大いに物足りないものだった。また、日本では短編演劇作品を上演する機会はきわめて限られており、このようなコンクールで上演された短編はしばしばその後、二度と日の目を見ないままに終わってしまう。グランプリ受賞作の生での観劇の機会を提供するという意味でも、短編作品の上演機会を創出するという意味でも、今回のほろびての公演には大きな意義があったと言えるだろう。


[撮影:渡邊綾人]


『あるこくはく』は愛海(鈴政ゲン)が恋人(藤代太一)を連れて実家の父(吉増)を訪ねる話。ところがその恋人というのは石で──。家の中に突如として線が出現する『ぼうだあ』、人を操るコントローラーが日常を狂わせていく『コンとロール』と同じく、ひとつの奇妙な設定を起点に物語は極めてシリアスな主題を展開していく。

定石通り、父は娘の結婚を認めようとしない。恋人が石であるということに最初は戸惑う父だったが、やがて怒り出し、「日本の憲法では石に人権は与えられてないし日本国民にもなってない」と言い放ったうえ「石蹴り」と称して石を蹴りつける。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


藤代演ずる石は石の被りものをすることで石であることを表現しているが、しかし見た目はもちろん人間である(これはどうやら物語の設定上もそうらしい)。ゆえに、父の行動は暴力を伴なう直球の差別に見える。だが、恋人が石であるというあまりに奇妙な設定は、私にそれを差別だと断じることを僅かにためらわせる。石だったらそれはまあ蹴ってもよいのでは……?

ここに、人間が石を演じるという企みのねらいがあるだろう。「差別をしてはいけない」という当然のことをお題目として反復するだけではそれを演劇としてやる意味はない。実際に差別をしていてもそれを差別と認識していない人、「差別をしてはいけない」と思っている人は多くいるはずだ。むしろ、だからこそ差別はなくならない。おそらく、ただの石を蹴ることに抵抗を覚える人はほとんどいない。だがこれが虫だったら? 人形だったら? あるいは、舞台上で蹴られているのが本物の石だったら私はそこで起きていることを差別だと断じることができただろうか?

結局、父は付き合いを認めず、愛海も一度距離を置こうと言い出す。彼女は「先に進むための考え」として「石が人間になる」ことを提案しもするが、それが石にとってはアイデンティティの放棄を意味することには無頓着だ。ここにも無意識の差別があり、石は深く傷ついてしまう。一方、石が人間になるといういかにも荒唐無稽な提案は、ではどのようなアイデンティティならば自らの意思で変えることができるのかという問いを私に突きつける。

ところで、この物語には登場人物がもうひとりいる。三者の対面の場に同席しながら、しかしその存在を無視され続ける女(橋本つむぎ)は、実は愛海にしか見えていないらしい。終盤になってようやく、四葉と呼ばれるその女が愛海の(あるいは父の?)祖母の妹であること、関東大震災のときに避難した先で石を投げつけられて亡くなっていたことが明らかになる。「わたしはそこで、日本人じゃなかったみたいで」という言葉からは彼女が朝鮮人だと思われて(事実そうだった可能性もある)石を投げられたらしきことが推察される。その意識はなくとも、石もまたかつて差別に「加担」し、愛海の血縁の命を奪っていたのだ。

石と四葉が愛海を介して手を伸ばし合い、「はじめまして」と自己紹介を交わすところでこの作品は終わる。父の態度は過去の経緯に起因するものだろうか。だが、死者の姿をきちんと見ているのは父ではなく愛海の方だ。最後に手を伸ばし合う二人とその手探りを仲介する愛海の姿には、そこに未だ困難があるとしても、希望を見たい。


[撮影:渡邊綾人]


『[extra track]』は『あるこくはく』と同じ4人の俳優が順にモノローグを語っていく構成の作品。マチュピチュ、バンコク、阿佐ヶ谷と異なる場所について語る人物はそれぞれの場所で「石」を拾い、次の語り手となる俳優に手渡していく。語り手となる俳優は代わっていくが、そこで語られているのは連続した「私」であるようにも思われる。

最後のひとりは「残した記録を消すことを命じられ」「もうこのような仕事を続けられないために、命を終える」と語る。だが、それは「語り手とは違う、文字としての『私』」なのだと。2番目の語り手は、自殺した大学時代の同級生の葬式に出向きながら、線香も上げずに帰ってきてしまったと語っていた。3番目に語られる、阿佐ヶ谷で石を拾ったという「私」は「あるこくはく」の愛海のようでもある。世界を構成する無数の「私」は異なっていて、しかしどこかでつながっている。そのそれぞれが無意識に積み重ね手渡したイシが、投擲された石のごとくひとりの「私」の命を奪う。だが同じように、言葉に宿るイシは、俳優を介して観客である私にも届けられてもいる。財務省の決裁文書改竄に関与させられ自殺した近畿財務局の赤木俊夫氏が遺した「赤木ファイル」が開示され遺族のもとに届けられたのはこの公演の最終日、2021年6月22日のことだった。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


10月27日(水)からはほろびての新作『ポロポロ、に(仮)』がBUoYで、8月5日からは細川が戯曲を書き下ろしたさいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』が彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演される。


ほろびて:https://horobite.com/
第11回せんがわ劇場コンクール:https://www.chofu-culture-community.org/events/archives/456


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ほろびて『コンとロール』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年02月01日号)

2021/06/22(火)(山﨑健太)

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