2023年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

Transfield Studio『Lines and Around Lines』

会期:2022/09/01~2022/09/04

元映画館[東京都]

私の足下にあるこの土地を規定しているものは何か。建築家の山川陸とパフォーミングアーツマネージャーの武田侑子によるユニットTransfield Studioの『Lines and Around Lines』(企画・構成:Transfield Studio[山川陸+武田侑子])は、「水の流れ」をキーワードに観客の土地への視線と想像力を更新する試みだ。パフォーマンスはレクチャーパフォーマンスとツアーパフォーマンスの二部構成。観客は会場となった元映画館でシンガポールの水の流れに取材したレクチャーパフォーマンスを鑑賞した後、簡易な地図とそこに付されたQRコードからアクセスできるオーディオガイドを頼りに隅田川へと向かうツアーパフォーマンスに旅立つことになる。


[写真:金田幸三]


[写真:金田幸三]


ところで、なぜシンガポールなのだろうか。実はTransfield Studioはシンガポールの劇場Esplanadeが主催するレジデンスプログラムContemporary Performing Arts Research Residencyの参加アーティストとして2022年の4月から6月までシンガポールに滞在しており、『Lines and Around Lines』はそのときのリサーチをもとにした作品となっている。公演期間中には関連イベントとしてシンガポールでの滞在制作の報告会も実施され、滞在制作の様子とシンガポールのパフォーミング・アーツ事情を知ることのできる貴重な機会となった。なぜシンガポールなのか、という問いに対するひとまずの答えは、たまたまTransfield Studioがそこに滞在する機会があったから、という身も蓋もないものになるだろう。

Transfield Studio​はこれまでもフェスティバル/トーキョー19公式プログラムの『Sand (a)isles(サンド・アイル)』では池袋を、豊岡演劇祭2020フリンジに参加した『三度、参る』では豊岡を舞台に、その場所に関するリサーチからツアーパフォーマンスを立ち上げることを試みてきた(いずれも発表時は別名義)。そもそも特定の場所を歩くことが作品の根幹をなすツアーパフォーマンスにおいて、その場所に関するリサーチから創作が出発することはあまりにも当然のことであるようにも思えるが、しかしここにはある種の二重性がある。ツアーパフォーマンスはまず創り手がそこを歩き、次に観客が歩くことで成立するものだからだ。ならばそこにはズレを導入することもできるはずだ。未知の土地を訪れた者は、無意識のうちに自分の知る土地とその場所とを比較し、そこにある共通点と差異からその土地のありようを測るだろう。『Lines and Around Lines』は日暮里/荒川エリアを歩く観客に、シンガポールを歩いたTransfield Studioの視点をインストールする。


[写真:金田幸三]


[写真:金田幸三]


前半のレクチャーパフォーマンスではスクリーンに映し出される画像や映像に山川の声が重なり、シンガポールにおける水の流れを追っていく。やがて明らかになってくるのは、水資源の貴重なシンガポールにおいては、その流れのあり方こそがある面において国を「定義」しているということだ。山川の語りのなかに繰り返し登場する「定義」という言葉。シンガポールでは湾の出口は水門で塞がれ、そこはreservoir=貯水池として定義される。湾を堰き止めた水門はそのまま、国の輪郭を定める線の一部となるだろう。山川はスクリーンの手前に置かれたポールにロープを巻きつけていくことでその輪郭線を示す。線の内側、国土の9割はcatchment、雨水を集める場所と定義されているのだという。そして水が流れるための傾きの存在。 レクチャーパフォーマンスを聴き終えた観客は会場を出て、方位磁針を手に隅田川を目指す。地図には目的地である隅田川へと真っ直ぐに伸びるラインと、それと交差するJR常磐線、明治通り、都電荒川線、そして隅田川の4つのライン。その交差地点につく度に再生を促されるオーディオガイドは、ときおりシンガポールについての語りとも響き合いながら、東京という土地の来し方とそこに流れる水へと観客の意識を向かわせる。


[写真:金田幸三]


ところで、今回のツアーパフォーマンスに詳細なルートの設定はない。あるのは隅田川という目的地と北北東という大まかな方向だけ。レクチャーパフォーマンスを終え、おおよそ同時に街へと出た観客は、最初のうちこそ同じようなルートを辿るものの、住宅地の入り組んだ路地を進むうち、徐々に異なるルートへとバラけていく。それでも時おり、曲がり角を曲がった先にほかの観客の背中が見え、同じ方向へと向かっていることが確認されるのだった。複数の流れはときに合流し、ときに分かれ、そしていずれにせよ川へと至る。観客の歩みは水の流れと重なり合う。自らの身体をもって、目には見えぬ東京の水の流れを体感すること──。


[写真:金田幸三]



Transfield Studio:https://www.transfieldstudio.com/


関連レビュー

JK・アニコチェ×山川 陸『Sand (a)isles(サンド・アイル)』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年03月15日号)

2022/09/02(金)(山﨑健太)

鳥公園の『abさんご』2022/蜂巣ももチーム・ワークインプログレス

会期:2022/08/27~2022/08/28

おぐセンター2階[東京都]

黒田夏子の小説『abさんご』を上演として立ち上げる。どう上演するのかまったく予想のつかない状態で、そもそもそんなことが可能なのかといぶかりながら向かった会場では、驚くべきことに相応の説得力を持ったかたちで『abさんご』の一部が上演されていた。だが、この企みはそれで成功だとはならないところが一筋縄ではいかない。

そもそも今回のワークインプログレスは研究プロジェクト「近代的な個の輪郭をほどく演技体──『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる──」の一環として実施されたものだ。鳥公園は2021年から黒田夏子の小説『abさんご』に取り組んでおり、2021年度には読書会とワークショップを実施。2022年度は「『abさんご』の文体をいかに演技体に立ち上げることができるのか?」という問いのもと、鳥公園のアソシエイトアーティストである三浦雨林・和田ながら・蜂巣ももの三人の演出家が「それぞれに稽古場で方法を模索し、その取り組みを観察・記述しながら、劇作家の立場から西尾が劇作論を書く」ことが試みられている。西尾は戯曲の文体と上演における俳優の演技体を「『卵が先か、ニワトリが先か』というような相補的な関係」と捉えており、このプロジェクトを通して「テキストの文体と上演の演技体との間にどのような相互作用があるかを検討し」「ゆくゆく新しい戯曲の文体を開発する」ことを目指しているのだという。私は残念ながら立ち会うことができなかったが、すでに4月に三浦チームの、7月に和田チームのワークインプログレスが実施され、今回の蜂巣チームのワークインプログレスをもってひとまず演出家サイドの取り組みは出揃ったということになる。

『abさんご』はきわめて特異な文体をもった小説だ。例えば冒頭の一文。「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと, 会うおとなたちのくちぐちにきいた百日ほどがあったが, きかれた小児はちょうどその町をはなれていくところだったから, aにもbにもついにむえんだった」。ひらがながやたらと多く、固有名詞が排除された文の連なりは慣れるまではひどく読みづらい。物語を抽出してそれを演じることはできるだろうが、それでは小説としての表われ、特異な文体が捨象されてしまう。いや、それはしかしあらゆる小説に言えることではないのだろうか。


[撮影:西尾佳織]


[撮影:西尾佳織]


プロジェクトそれ自体に対する疑問(なぜ『abさんご』か)はひとまず措いて、蜂巣チームのワークインプログレスがどのような上演だったかを見てみよう。蜂巣チームは研究協力者=俳優(?)の二人(鈴木正也、藤善麻夕帆)が『abさんご』のテキストを発話するための仕掛けとして、閻魔さま(の絵)に話しかけるという設定を採用していた。というのも、『abさんご』はある人物が過去を回想するかたちで書かれており、しかもそこには自らの意志というよりは周囲の状況によってこうなってしまったのだというような調子がそこはかとなく漂っているのだ。過去を振り返りながらも自らの(あるいはあらゆる人間主体の?)責任を回避しようとするように響く『abさんご』の文体はなるほど、人の善悪を裁く閻魔大王の御前で発せられるにふさわしい。蜂巣演出による上演は『abさんご』とはたしかにそういう話であったと思わされるに十分な説得力があった。


[撮影:西尾佳織]


だが、これは演技体というよりは演出の範疇の問題だろう。今回のワークインプログレスでは基本的に二人の俳優がいくつかの断片的な場面をそれぞれに上演するかたちをとっており、つまりテキストはモノローグとして発話されていた。もともとが一人称小説とは言えないまでも一人称的な視点から語られた小説である以上、それを発話するための生理さえ整えられれば発話は可能なのだ。ここには演技体の問題は入り込む余地がないように思える。


[撮影:西尾佳織]


ところで、演技体という言葉から私は例えば鈴木忠志のSCOTが持つような集団的な身体性を想定していたのだが、終演後の西尾の話によればそれは体よりはむしろ態、話しかける対象や話す内容によって変わってくるモードのことを指しているのだという。問題とされているのは西尾がこれまで取り組んできた「現代口語の『自然』な会話をベースとする劇作」であり、「自然な会話」以外の発話を誘発するような文体こそが目指されるものだということらしい。例として樋口一葉『たけくらべ』が挙げられ、三人で百人を演じるような演劇、人ではないものを演じる(出来事を立ち上げる?)演劇という話も出ていた。

であるならば、『abさんご』(の一部)をモノローグとして成立させてしまった蜂巣の上演はプロジェクトとしては失敗ということにはなるまいか。いや、閻魔大王に言い訳をするというのはひとつのモードではあるかもしれない。だが、ここで相手取るべきはやはり特異な記述のあり方であり、そこにあるものごとへの「態度」をどのように演技体へと変換するかということこそが取り組むべき課題だったのではないだろうか。すると、『abさんご』のテキストをそのまま発話するというアプローチ自体がすでに設定された課題と噛み合っていなかったのではないかとも思われる。しかし、だとすると小説をもとに上演のためのテキストをつくる必要があるわけで、それは果たして演出家の仕事だろうか──。


[撮影:西尾佳織]


疑問や検討すべき点は尽きないが、いずれにせよプロジェクトは継続中だ。予告されているスケジュールでは西尾による蜂巣試演会のレポートの締切が9月28日に設定され、2023年度末までには劇作論が執筆されることになっている。今後の展開にも注目したい。


鳥公園:https://bird-park.com/
鳥公園の『abさんご』2022/研究 「近代的な個の輪郭をほどく演技体──『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる──」:https://bird-park.com/works/ab-sango2022/?pid=project

2022/08/27(土)(山﨑健太)

NT Live『プライマ・フェイシィ』

会期:2022/08/05〜

TOHOシネマズ日本橋ほか[東京都ほか]

直視すべき現実に目を向けさせ、聞かれるべき声に耳を傾けさせる。イギリスのナショナル・シアターが厳選した傑作舞台をスクリーンに届けるナショナル・シアター・ライブ(NT Live)で8月5日に日本公開された『プライマ・フェイシィ』は演劇にその力があるのだということを、そしてその力によって社会を変えようとするつくり手たちの強い意志を、まざまざと感じさせる傑作だ。

被告人弁護を専門とする弁護士のテッサ。彼女は裁判の場における駆け引きに長け、ときに証人の証言の信憑性に疑問符をつけることで依頼人の勝利を勝ち取ってきた。疑わしきは罰せず。それが法律上の正義であり、彼女の正義だった。大手事務所から移籍を打診され、同僚のダミアンとは「いい感じ」になり、公私ともに順風満帆に思えた日々。しかしある日、性的暴行の被害者となった彼女は自らが信じていた法制度の矛盾に直面することになる──。

作者のスージー・ミラーはオーストラリア出身で現在はイギリスでも活動する劇作家。もともとは人権や子供の権利に携わる活動をする弁護士として活動していたミラーは、『プライマ・フェイシィ』はロー・スクールに通っていた頃の考えから生まれた作品だと戯曲の前書きで書いている。執筆する勇気と、届けるにふさわしい社会的環境を待っていた作品が#MeTooの光のもとで実現したのだと。2019年にシドニーで初演されたこのひとり芝居は数々の賞を受賞し2021年に再演。2022年には今回ナショナル・シアター・ライブの1本として上映されたジャスティン・マーティン演出/ジョディ・カマー出演によるプロダクションがロンドンのハロルド・ピンター劇場で上演され、同プロダクションは2023年にブロードウェイでの上演も決まっている。

性的暴行にあって動揺するテッサは職場での人間関係や自身のキャリア、そして何より性的暴行事件で被害者が勝訴することの難しさ(それは彼女自身が誰よりもよく知るところだ)を考えて警察に駆け込むべきか苦悩する。弁護士として考えれば今回のケースを性的暴行として立証することはきわめて困難だ。相手は同僚のダミアンであり、彼女がダミアンと「いい感じ」になりつつあったことは彼女の友人も知っている。当日は仲良くデートをしているところを複数の場面で複数の人に目撃されてもいる。ダミアンとは以前にもセックスをしていて、それどころか当日も一度、合意の上で行為に及んでいる。その後、酩酊し気持ちが悪くなったテッサは二度目の行為を拒絶するが、ダミアンはそれを無視して無理矢理に行為に及んだのだった。それまでの関係がどうであれ、同意なき性行為はすべて性的暴行である。だが、それを証明するのは当事者二人の証言だけだ。おそらく裁判には勝てない。そう知りながら、彼女は裁きの場に臨む決断をする。

タイトルの『プライマ・フェイシィ』はもともとはラテン語で「一見して」というような意味を持つ。法律用語としては例えば「prima facie evidence=(反証がないかぎり十分とされる)一応の証拠」というようなかたちで使われる言葉だが、日本語では「明白な(ひと目見てわかる)」とも「一見したところでの」とも訳されうる言葉だ。テッサと彼女の視点に寄り添う観客には「明白な」真実も、裁判の場においては反証可能性の残る仮の真実でしかない。作者自身の言い換えでは“on the face of it”。直訳すれば「それに直面して」というところだろうか。この言葉はテッサの置かれた状況を示しているようでも、彼女の物語に向き合う観客に向けられているようでもある。

ひとまず予定された自身の証言を終えるテッサ。だが、ダミアンの弁護士は彼女の証言や記憶の曖昧さを責め立てる。それはテッサ自身も弁護士として用いる戦法であり、ゆえに予想されたものでもあったのだが、彼女はうまく応じることができない。裁判の場においては論理的に整合した証言が求められるが、それを可能にする理性や意志を踏みにじり破壊する行為こそが性暴力だからだ。

この作品のクライマックスでテッサは、長年にわたる男性中心の社会のなかで築き上げられてきた現行の制度が、いかに女性の体験を反映していない理不尽なものであるかを訴える。ともすれば演劇のセリフとしてはあまりに直球の社会批判の言葉はしかし、彼女自身に起きた出来事に照らしたものであるがゆえに、強く聴衆に訴えかける力を持つ。裁判の聴衆と重なりあった劇場の観客は彼女の言葉に耳を傾けざるを得ない。ほとんどこの言葉を聞かせるためだけに、この作品は書かれたのだと言ってもよいだろう。

テッサは裁判に負ける。だが、テッサの母親や付き添いの婦人警官らは彼女に連帯の意志を示す。テッサの言葉は、そして『プライマ・フェイシィ』という作品は、男性原理の支配する裁判所という法の場の外側で人々に働きかけ世界を変えようとしている。法律の専門家であるカレン・オコネルがCurrency Press版の戯曲に寄せた前書きは ‘Making law from women's lives’ と題されていた。女性の生に根ざした法をつくること。テッサの裁判記録が仕舞い込まれると、同じ棚に並ぶ無数のファイルが光り出す。それは現在までの戦いの記録だ。livesを人生の意味に取るならば、その意味するところはあまりに重い。

『プライマ・フェイシィ』の東京での上映はひとまず終了したが、これまでナショナル・シアター・ライブの作品のほとんどは再上映されている。重いテーマを扱いつつ、観客を掴む力を持った作品だ。機会があればぜひ鑑賞していただければと思う。英語が読める方には優れた前書きがついた戯曲もおすすめしたい。ジョディ・カマーが出演する映画『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督、2021)も近いテーマを扱った作品だ。合わせて観るのもいいだろう。




NT Live:https://www.ntlive.jp/primafacie

2022/08/23(火)(山﨑健太)

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』

会期:2022/07/22~2022/07/31

吉祥寺シアター[東京都]

学校という空間の時間は螺旋状に流れている。授業や毎年の行事は繰り返しのようでいながら少しずつ違っていて、その担い手となる生徒たちもたとえば3年という定められた期間とともにその場所を通過していく。教師だけが例外だ。

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』は2021年に全10話をもって完結したいつ高シリーズのキャラクターが再び登場する新作。吉祥寺シアターでの公演は7月31日で終了したが、8月28日まではアーカイブ配信が視聴できる。以下の文章には重大なネタバレが含まれるので注意されたい。また、いつ高シリーズ未見でも十分に楽しめる作品ではあるが、作中にはシリーズを知っていることでより楽しめる仕掛けもいくつか用意されている。いつ高シリーズの戯曲は多くがWEBで無料公開されているのでそれらを(特にvol.6とvol.2を)読んでから配信を観るのもいいかもしれない。vol.6『グッド・モーニング』については映像も8月28日まで無料公開されている。


[撮影:鈴木竜一朗]


舞台は文化祭当日。旧校舎の屋上に続く階段の踊り場ではダブチ(新名基浩)と机田(大石将弘)が本番の迫ったコントの練習をしている。しかし何やら屋上に出入りする悠(島田桃子)が行き来し、白子先生(大場みなみ)がやってきては茶々を入れとなかなか練習は進まない。悠は旧校舎の屋上から旧々校舎の屋上へとこっそり何かを移動させようとしているらしいが、旧々校舎の屋上に続く踊り場では息子のコントを見に来て校舎を間違えた(逆)おとめ(望月綾乃)と鉢合わせてしまう。物語はダブチと机田のコント、悠の隠し事、そしてかつてこの高校の生徒だった白子と(逆)おとめの再会という三つの筋が絡み合いながら進んでいく。


[撮影:鈴木竜一朗]


高校生が演じることを念頭に、高校生だけが登場する作品として書かれたいつ高シリーズは、高校生のスケールの世界を立ち上げながらその少しだけ外側を指し示すような物語だった。対して、かつて高校生だった大人とこれから大人になる高校生を描いた『ここは居心地がいいけど、もう行く』は、螺旋状の時間の異なる2点を並べることで、自分がいない/いなかった時空間への想像力をより強く喚起する作品になっている。あるいはそれは、この作品とも深い関係のあるいつ高シリーズvol.2『校舎、ナイトクルージング』で描いたものをさらに大きなスケールで描いているのだとも言えるかもしれない。

いつ高シリーズでは高校生だった白子と(逆)おとめは大人になり、片や教師に、片や生徒の親になっている。そこにあるのはシリーズを追ってきた私が知るいつ高でありながら、しかし同時にもはやまったく別の場所だ。ダブチ、机田、悠の向こうには同じ俳優によって演じられたかつてのいつ高の生徒たち(シューマイ、楽/水星、朝)の姿が透けて見えるが、それもまたシリーズを追ってきた私の勝手な感傷でしかない。


[撮影:鈴木竜一朗]


時間の経過は否応なく人を変えていく。かつてはおどおどとして学校にもほとんど通っていなかった(逆)おとめはローカルラジオのディレクターとして働くようになった。一方の白子はあまり変わっていないようにも見えるが、最近は同居する親の視線が気になって家出をし、学校に寝泊まりしているらしい。だが、(逆)おとめと再会した白子は突然、家を買うことを決意する。大きく変わった(逆)おとめと、その変化に触れて変わろうとする白子。生徒たちと同じように大人もまた悩み、変わっていく。

(逆)おとめの存在は生徒たちにも、いや世界にも影響を与えている。(逆)おとめが担当するラジオ番組「グッドモーニングレディオ」のヘビーリスナーである悠は、同じく番組のファンだという「友達」が、20年以上前に(逆)おとめが深夜の校舎に忍び込んで発信していた誰にも届かないかもしれないラジオ番組を好きでずっと探していたのだと言い出す。悠とともに先々週、地球を救った(!)というこの「友達」の正体は実はエイリアンなのだが、遠くから電波の波形を見ていたというエイリアンが20年以上前の(逆)おとめのラジオ番組を探していたということを踏まえれば、エイリアンが地球にやってきたのは(逆)おとめのおかげだということになる。ならば誰にも届かないかもしれなかったラジオが遠く宇宙に届き、時間を超えて地球を救ったのだ。のみならず、エイリアンはダブチと机田のコントにも3人目のメンバーとして参加することになる。


[撮影:鈴木竜一朗]


[撮影:鈴木竜一朗]


ここでは学校に通えず中退することになったかつての(逆)おとめが、そして彼女の誰に届かずとも何かを発信しようとする気持ちが強く肯定されている。もちろん、誰にも届かないことは苦しいかもしれない。ダブチと机田のコントの1回目の上演にはひとりの観客も現われず、ダブチはくじけそうになる。だが、ダブチの書いた台本は(不本意ではあるかもしれないが)母親である(逆)おとめに、そしてエイリアンに読まれ演じられることになるだろう。そして2回目の上演には何人かの観客が現われるかもしれない。自分の存在がいつ、誰に、どのように影響を与えるかは誰にもわからない。それでも、発せられた電波の波形は地球を救うかもしれない。そう思ったっていいのだ。


[撮影:鈴木竜一朗]



ロロ:http://loloweb.jp/
いつ高シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
いつ高シリーズvol.7『本がまくらじゃ冬眠できない』映像(STAGE BEYOND BORDERS):https://stagebb.jpf.go.jp/stage/itsukou-series-vol-7-i-cant-hibernate-with-books-as-a-pillow/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』(いつ高シリーズ9作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『心置きなく屋上で』(いつ高シリーズ8作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年10月01日号)
ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』(いつ高シリーズ7作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2022/07/25(月)(山﨑健太)

PLAY/GROUND Creation #3『The Pride』

会期:2022/07/23~2022/07/31

赤坂RED/THEATER[東京都]

俳優主体の創作活動のために井上裕朗が立ち上げたPLAY/GROUND Creationの#3として『The Pride』が上演された。2008年にロンドンで初演された『The Pride』は俳優として長く活動したアレクシ・ケイ・キャンベルが劇作家に転身しての第1作。日本では2011年にTPTが小川絵梨子の演出で『プライド』というタイトルのもと初演している。今回は日本初演時にも翻訳を手がけた広田敦郎を翻訳・ドラマターグに迎え、井上の演出での上演となった。なお、公演はダブルキャストとなっており、キャストはA/Bの順で併記している。


[舞台写真:保坂萌]


物語はオリヴァー(井上裕朗/岩男海史)とフィリップ(池田努/池岡亮介)の出会いの場面からはじまる。児童文学作家のオリヴァーは本の挿絵を担当するシルヴィア(陽月華/福田麻由子)の計らいで彼女の夫・フィリップと三人で食事をするために二人の家を訪れる。出迎えたフィリップと挨拶を交わすオリヴァー。初対面ゆえかのぎこちなさもありながら会話は和やかに進み、やがて着替えを終えたシルヴィアも合流する。しばしの歓談の後、予約したレストランへと出かけていくところでこの場面は終わる。

暖色の照明が白々とした明かりへと変わり、次の場面になると舞台の中央でナチスの制服を着た男(鍛治本大樹/山﨑将平)が「お前は何だ」「この変態のメスブタ」とオリヴァーを責め立てている。いまいち乗りきれずプレイを中断したオリヴァーが男と話していると、3日前に別れて家を出ていったフィリップが荷物を取りに戻ってきてしまう。慌てたオリヴァーは男を追い出し自らの行ないを弁明するが、フィリップは再び出ていく。


[舞台写真:保坂萌]


[舞台写真:保坂萌]


パラレルワールドのような二つの場面は(上演中に明示されることこそないものの)それぞれ1958年と2008年の出来事であり、この作品では同じ名前を持つ三人の人物が生きる二つの時代が交互に描かれていくことになる。

1958年のフィリップはオリヴァーと惹かれ合い関係を持つ。以前からフィリップの苦悩に気づいていたシルヴィアは二人が関係を持ったことを知り、傷つきながらも二人の幸せを気にかける。だが、二人の間にあるものを愛だと言うオリヴァーの説得も虚しくフィリップは同性愛を「倒錯」と退け(それは当時の「常識」である)、「治療」のために医者(鍛治本/山﨑)にかかることを選ぶのだった。

一方、2008年のフィリップはオリヴァーが見知らぬ男と頻繁に関係を持ってしまうこと(本人曰く「中毒」)に耐えられず別れを選択する。フィリップと共通の友人でもあるシルヴィアはオリヴァーを慰め諭すが、イタリア人のマリオという恋人がありながらオリヴァーに振り回される現状に思うところもあるらしい。フィリップとオリヴァーはシルヴィアに誘われたプライドパレードで再び出会い、和解する。それは50年越しの二人の和解でもあった──。


[舞台写真:保坂萌]


二つの時代の三人はそれぞれに異なる人物のはずだがどこか響き合うようでもあり、互いに因果の糸で結ばれているようにも思える。あるいはそこにある差異を、同じ人物が異なる時代に生まれたがゆえに生じてしまった性格や人生の違いと解釈することもできるだろう。その差異と共通性をどう演じるかが俳優の見せどころにもなっている。ダブルキャストによる上演はさらに異なるバージョンの三人への想像を促す。ひとの人生はわずかな環境の違いでも大きく変わってしまう。「正直な人生を生きること」が困難な状況であればなおさらだ。

2008年の三人は1958年のそれと比べれば幸せな関係を築けているように見えるが、それでもなお偏見や困難があることは作品のそこここで示されている。では、2022年の日本はどうだろうか。そのような想像力を喚起する点において、この戯曲は初演よりもむしろそれ以降の上演の方がより一層意義のあるものになっていると言えるかもしれない。三人が「いまここ」に生きていたらどのような人生を送っているかを想像すること。「いまここ」の向こうに2008年を、1958年を、いくつもの時代の人々の人生を透かし見ること。


[舞台写真:保坂萌]


[舞台写真:保坂萌]


side-Bでは若い俳優陣が傷つきながらも自分が何者かを探し続ける登場人物たちの姿を繊細に立ち上げていた。特に岩男海史のオリヴァーは好演。ただ、登場人物のフラジャイルな懸命さが際立った分、シルヴィアひとりが犠牲になっているようにも見えてしまう点は気になった。ゲイ男性二人が中心の物語だけに、唯一の女性であるシルヴィアの存在をどう見せるかは重要だろう。これは個々の演技ではなく上演全体のバランスの問題だ。一方、side-Bと比べるとやや年上の俳優たちによって演じられたside-Aでは、自身の人生を探求する切実さは抑制された演技によって胸の裡に秘められたものとなったが、その分、自ら立とうとする登場人物たちの強さが感じられる上演となっていたように思う。二つの時代を生きる三人の姿を、そして彼らを演じる二組の俳優陣の姿を通して『The Pride』が描き出したのは、いまなお続く、そして個々人においては一生をかけて向き合わざるを得ない、人間の尊厳をめぐる闘いだった。


[舞台写真:保坂萌]



PLAY/GROUND Creation:https://www.playground-creation.com/

2022/07/24(日)(山﨑健太)

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