2022年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

きりとりめでるのレビュー/プレビュー

景聴園ラジオ 第1回『何故絵を描いているのか?』

会期:2022/06/05〜

ポッドキャスト

チャンチャチャチャーンチャチャ……穏やかなギターの音で始まる「景聴園ラジオ」は「日本画」の勉強会と鑑賞の手引きを行なうポッドキャストだ。

「景聴園」は2012年に発足した日本画のグループ。メンバーは、作家である上坂秀明、合田徹郎、服部しほり、松平莉奈、三橋卓、企画の乃村拓郎、そしてアーカイブとテキストの古田理子。1980年代から90年代生まれの彼らは、京都市立芸術大学での結成当時から、合作を行なうタイプのグループではなく、グループ展を幾度となく開催してきた。かなり雑な言い方で恐縮だが、私から見た「景聴園」は、具象日本画の再考を軸としたグループだ。彼らの企画展に行くと、「日本画」が「物語」を描くとしたら、何を扱うべきか、どう描くべきかが5人ともまったく違うということにいつも驚かされる。でも、私は「日本画」に詳しくないので、そこで思考も眼も立ち止まってしまっていた。そんなときにこのポッドキャスト、渡りに船である。

第1回の冒頭では、「横山大観についての話をしよう」と前振りが来て身構えていたが、初回ということで、まずは「なぜ絵を描いているのか?」という問いからスタートした。「好きだから」という言葉を景聴園はいくつも切り分けていく。どの瞬間によろこびを感じるのか、絵を通して自分の認識が他者にとってどうなのかがわかるよろこび、生きていく手立てとしての絵、絵を描くときの「手癖」をよろこびと捉えるか否か。そこに研究はどう関連するか。

松平が途中で指摘した通り、景聴園の話はすべてが日本画についてのものなのだが、彼らが立ち返るときのエピソードは人間が人間として生きている限りにおいて、誰もが「何か」を「日本画」に代入することが可能という、不思議な体験であった。同時代としての日本画に向き合う彼らだからこそのなせる技だ、と唸ったり笑ったりのポッドキャスト。景聴園の結成10周年特別企画は耳も眼も離せない。


景聴園ラジオ(Anchor):https://anchor.fm/keichoen/

2022/06/05(日)(きりとりめでる)

二人(宇田川直寛、横田大輔)「石が降る」

会期:2022/05/14~2022/06/12

TALION GALLERY[東京都]


本展は、ライトノベルやアニメに見られるフォーマットを踏まえて、「八王子隕石」「錬金術」「新東京ダイヤモンドボウル」という3章立ての物語に基づいて構成される。

(プレスリリースより抜粋)


え? そうだった?

2019年に結成された二人(宇田川直寛、横田大輔)による展覧会。多くの平面や立体作品は、バライタ印画紙で作成されていて、会場の隅には使い古された写真乳剤とシリコンオイルがガラス瓶に入って並ぶ。「フィルム写真の現像についての解釈のバリエーションの模索?」と思いながらも会場を見回す。窯で火にかけられたテラコッタの映像とその出来上がったもの。印画紙に焼き付けられた平面作品の名は「壺」「石」「人」。印画紙を折ってつくられた人形たち。人形は音に反応してカタカタ動く。「人」「不老長寿」を生成せんとする錬金術と、人の「似せ絵」を生成する写真術の目的と技術が重なる可能性が軽やかに示唆されている。動く人形たちは生きているか死んでいるか、魂があるかないか。蘇生や延命というより、新たなものの生成としての写真と錬金術★1


二人(宇田川直寛、横田大輔)《パーティータイム(石が降る)》(2022)テラコッタ、接着剤、石膏、映像
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


横田大輔《Untitled(写真)》(2022)ガラス瓶、写真乳剤、シリコンオイル
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


左から
二人(宇田川直寛、横田大輔)《壺(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
二人(宇田川直寛、横田大輔)《石(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
二人(宇田川直寛、横田大輔)《人(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY



会場で入手できたテキスト「石が降る」を読んでみる。


我々は〔…〕物語が始まるのを辛抱強く待っていた。ラノベやアニメの世界では物語は向こうからやってきて主人公を巻き込みながら事件を繰り広げる〔…〕いい写真が撮れない〔…〕我々は主人公ではなく〔…〕中年男性〔…〕八王子市役所のホームページで200年前に落ちた隕石をまだ探している〔…〕「我々は隕石を探しているのです」と人に話しかけ始めた。


「いい写真が撮れない」という苦悩が、ロードムービーの導入のように書かれていた。いい写真。テキストでそれは「事件があるかないか」という暫定的な基準が仄めかされている。中年男性には事件がないという己の幸運さと、それを悲しむ後ろめたさが、突拍子もない問いで動き出す。「我々は隕石を探しているのです」。

立体や平面を一式見てからやっと注意が行ったのだが、会場には声が流れている。二人の写真についての語りが、違う人物によって棒読みされた声。隕石の行方から飛躍して、どこかで聞いたことのあるような怪奇現象について話す人の声。物語が動き出したかと思えば、収集した出来事は類型的なものだった。これも「事件」にはたどり着かない。

ライトノベルの筋書きだったら、ある日、主人公の住む場所に隕石が落ちて、自分だけ助かり、愛する人々を失い、錬金術に没頭して、すべてを元通りにしようとするが、それは叶わず。しかし、驚くべきことに隕石は天災ではなく、実は存在した黒幕を打倒して、新しい場所で喪失を回復する物語になるかもしれない。でも、二人は隕石が落ちてこなくても、写真術=錬金術に平素から取り組んできた。


二人 (宇田川直寛、横田大輔)《ダイオウイカ》(2022)バライタ印画紙、箱(PET板、ボンド)12×34×77cm
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY



過剰な高温現象〔…〕毎日そんな作業を続けているとしまいに肌まで爛れてめくれてきた〔…〕まるでフィルムみたいで〔…〕逆に〔…〕フィルムは自分の身体なのだ〔…〕良い錬金術師は良い性格でなくてはならない。心的内容は物質に投影されるからだ。


爛れた自分の手にフィルムと連続する物質性を見出すと同時に、フィルム現像の環境負荷に思いを馳せた人物は、錬金術師であったら、手が石になるなんてことは「悪い」錬金術師の証明になってしまうと考える。でも、それはどうなのと写真家はつぶやく。「それはそれは失礼な話じゃないの」。こうして錬金術から写真家は袂を分かつ。写真を拡張するため過去に無理に遡及する必要なんかないと。二人が次に向かうのは、ラッセンのポスターが貼られた喫茶店のある、昔ながらのボーリング場、「新東京ダイヤモンドボウル」。


それで物語は始まる。という事で、ここがその場所に違いないと思ったのだ。


このようにして、何にも声をかけず、また二人は待つことにしたようだ。本展はかくして、写真になる瞬間を待つこと自体が造形された、主人公じゃない二人の何も起こらないロードムービーに終着した。

さて、ここで終わってもいいのだが、「声かけと写真」を考えるうえで、例えば、2016年の開催から批判を受けてきた「声かけ写真展」という公募グループ展がある。その応募規約には「こども (学齢期以下の人物) に声をかけて、承諾を得て撮影した、未発表の写真作品。被写体に声をかけ、本人の同意を得て撮影したものにかぎります。親権は同意を意味しません」と書かれ、子どもと撮影者の関係が友達のようにフラットであるなかでの許諾に重きを置くがゆえに、保護者への許諾を主催者は一蹴し続けている。

しかし、ウェブサイトや投稿写真(Twitterのハッシュタグで辿ることができる)の言葉や写真から、子どもというのが「少女」に限定され、撮影者は「おじさん」だと自己規定をし、「おじさん」が未就学者の無知に付け込むという状態自体への快楽、あるいは直接的な性的消費が目的なのではないかと強く批判されてきた。2022年も「声かけ写真展」は作品を募集しているが、①声かけ写真と②リミナルスペースの2部門になっている★2

「リミナルスペース」とは、英語圏中心の画像投稿サイト「4chan」を中心に起こった写真文化のひとつだ。普段は人で賑わうショッピングモールや駅や街といった場所に誰も人がいないことで引き起こされるサスペンス、異化効果が起きた風景への愛好、またはそれを撮影した写真のことであり、ひいてはゲームキャラクターのいないワールドのキャプチャーも包含する、風景写真のジャンルでもある。近年はCOVID-19で静まり返る都市が撮影された際、多くのものが「リミナルスペース」「#liminalspace」としてSNS上でタグ付けされた。

その一方、「声かけ展」で銘打たれた「リミナルスペース」は、より狭く再定義されている。「声かけ写真がしあわせに行なわれていた(はずと心象に刻まれる)空間」。その写真に人はいないが、幼い子どもの痕跡を辿ろうとするがゆえに、ハッシュタグで紐づけられた写真の多くは、広域な風景写真ではなく、身長が100cm程度の子どもの移動範囲をおさめる、カメラは地平に対して見下ろす角度のきつい、奥行きの浅い写真になっている。多くの「リミナルスペース」は風景の異化効果を増大させようと、より広い領域の人間の不在を求めるため、構図上の消失点はどこまでも深くとるのがセオリーであるから、「リミナルスペース」のSNSタグの海のなかで数点だけアップロードされている、「#声かけ写真展」の「#リミナルスペース」はそういう異質性がある。

本展の写真も人は不在である。だが、リミナルスペース写真と違って、いつも人が閑散としてそうな、うらびれた場所が被写体であったり、走る車の速度のままのブレた写真であるから、撮影されているのはむしろ「移動」で、それを行なっている「二人」の肖像であると言えるだろう。水が入ったグラスも二人のものだろうし、二人の痕跡しかない。地面に対して垂直に視線が向けられた写真も、ノーファインダーで撮影されたような二人の移動する足である。風景写真であるが、それよりも二人の存在へ折り返される写真。「声かけ展」の風景写真はもちろん、子どもの不在を通して子どもの姿を求めているのだが、ゆえに存在を求める撮影者だけが撮影の場に存在する。鑑賞者は痕跡に何も求めるものがないので、撮影者の存在をより強烈に感じる。二つのリミナルスペースも、二人の写真のいずれの風景写真も、そこにいるのは撮影者だけだ。

二人は事件が起きるのを待っている。しかし、二人は、事件は起きちゃいけないし、事件を撮っていいと言えるのかと思いつつ、待つことを考えるのだ。本展はそれを「待つふり」と言ったりはせず、事件を待ち続ける写真家の自写像の展覧会と言えるだろう。



横田大輔《Untitled (石が降る) 》(2022)ラムダプリント 17.4×25cm
宇田川直寛《Untitled (石が降る) 》(2022)ラムダプリント 17.4×26.1cm
左から1、3、7、9、10番目の写真が横田大輔作品、それ以外の5点が宇田川直寛作品
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


二人 (宇田川直寛、横田大輔)《相模原、若葉 (二人のショー) 》(2020)映像 37分40秒(相模原)、37分58秒(若葉)
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY





★1──本展では錬金術師と写真家が対比的だと言えるが、例えば、打林俊は不老不死や物質の変化を求める錬金術師と写真を発明するに至る科学者ニエプスの違いを、硝酸銀と塩が日光で黒化する事象から、画像の定着に向かったか否かにひとつの分水嶺があるのではないかと提起している(打林俊「錬金術と空想科学からみる写真」/『写真の物語──イメージ・メイキングの400年史』森話社、2019、pp.201-206)。
★2──「声かけ写真展」のウェブサイトは以下の通り。https://www.koekakephoto.net/(2022.6.23閲覧)

2022/06/05(日)(きりとりめでる)

抗走の系譜 The Yagi Family: Rebels Against Convention

会期:2022/05/20~2022/06/04

中長小西[東京都]

中長小西で開催されていた「抗走の系譜 The Yagi Family: Rebels Against Convention」は、前衛陶芸家の八木一夫、その父である一艸、弟である純夫、妻である高木敏子、息子の明と正の作品による展覧会だ。行く前にウェブサイトで開廊情報を確認しようとしたら、写真などのメインビジュアルはなく、以下の文字だけが載っていた。強烈だった。


八木一艸(1894-1973)
八木一夫(1918-1979)
八木純夫(1921-1944)
高木敏子(1924-1987)
八木 明(1955-)
八木 正(1956-1983)


没年を見て愕然とする。明以外はみな故人だ。立て続けの出来事。明からしたら、戦時下で叔父以外、1973年から87年にかけてみな亡くなったということが伝えられる。展覧会のキャプションには、過去の文献から、純夫の才能について言及する一夫の様子、一艸と一夫の二人展などについて触れられているが、たったいまの言葉としてあるのは明のものだ。作品とインタビュー記事と先行の研究成果と明の言葉が端的に示されるなかで、圧倒的に明の言葉が生々しい。それを押してなんとか作品を見なければと思いながら、会場をくるくる回る。本展で扱われているのは、社会や自身が慣習化してきたものを批判し創造していく一夫の「抗争」が、それぞれの芸術領域や社会での実践だけでなく、家族間にも見出せるのかという問い。その一方で、敏子の染織作品が壁に斜め掛けされることで2.5次元となることは正に、そのユニット性は明に引き継がれたのだろうかといったことを思いながら、ふと思い至る。一艸の妻である松江はどのように彼らを見て生きたのだろうか。例えば、すでに八木家の蔵書に関しても、松江が購入したとみられる書籍についても調査は進んでいるようだ。展覧会は無限の世界をくぎる装置であり、本展の「芸術一家」は見事に機能している。そこから飛躍して、松江からの視点もまたどこまでも抗争的かもしれないと妄想して帰路に就いた。



★──孫引きで申し訳ないが、以下を参考のこと(高田瑠美「八木家所蔵書籍について」:大長智広・島崎慶子・花里麻理・高田瑠美[調査・編集・発行]『八木家所蔵八木一艸関連資料調査報告書』、2020)。
筆者が参照したのは以下の論考。
花里麻理「知られざる八木和夫──一九六〇年代中ごろのスナップショットについて」(『茨城県陶芸美術館研究紀要1』茨城県陶芸美術館、2021、pp.32-49)



公式サイト:http://www.nakachokonishi.com/jp/exhibitions/yagi2022/yagi2022.html

2022/06/01(水)(きりとりめでる)

佐々木友輔『映画愛の現在』スクリーニング:第14回恵比寿映像祭「スペクタクル後」

会期:2022/02/12(上映日)

東京都写真美術館[東京都]

この作品は佐々木友輔が鳥取大学に着任することに端を発している。「日々、浴びるように映画を観なければ、優れた作品はつくれない。優れた文章を書くことはできない」と考えていたら、鳥取には映画館が3館しかなかった。

しかしながら、鳥取にもシネフィルがいた。佐々木はたくさんの映画を愛する人たちに車で会いに行く。何人もの言葉を聞いていくと、地域によって映画との向き合い方の傾向が見えてくる。東部は自主上映に注力していて、中部は制作者が多く、西部はコミュニティづくりといったように。上映のために動き回って映画が観れなくなって「映画を観るだけでいれたら」と愚痴をこぼしたり、「気付いたらこうなってた」と映画祭の運営の代表になった人、人の顔と言葉。映画愛は人をここまで奮い立たせる。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分


第2部は、佐々木が映画とどのように向き合ってきたのかというモノローグが挟まる。自分がどのように映画を観ようとしてきたか。そして、本作の編集が誰によって行なわれているのかが言及されていく。本作の編集は、佐々木の鳥取大学のゼミ生だった井田遥だ。佐々木が自作の粋とも考えていた編集を、ソフトを覚えたての井田がめきめきと上達し、仕上げていく。佐々木はそれに衝撃と感慨を覚える。その感情は観客も同じだっただろう。映画を愛する人はいた。それを来鳥した佐々木がひとり奮闘して仕上げたのが《映画愛の現在》なのかというと、まったくそうではなかったのだ。ふいにバトンが渡された瞬間を目撃する。音楽が鳴る。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


作中、シネフィルたちへのインタビューに必要な移動と比例するように、頻繁にドライブシーンが挿入されている。その風景の連続は、鳥取ではないどこかを思い起こさせるのに十分なほど、私が住んでいた土地に似ていた。でも、鳥取のように、こんな風に映画を愛する人が、あそこにもいたんだろうか。佐々木の『映画愛の現在』は作品であると同時に、任意の形式を考えるうえでの方法論の極みだ。観賞したら、鳥取とどこかを思い比べて、思考をドライブすることになるだろう。このとき、鳥取は世界の中心となるのだ。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分



第14回恵比寿映像祭 『映画愛の現在』上映詳細:https://www.yebizo.com/jp/program/57370

2022/06/01(水)(きりとりめでる)

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高尾俊介「Tiny Sketches」(高尾俊介を中心に考えられること[1])

会期:2022/05/13~2022/06/12

NEORT++[東京都]

高尾俊介による初個展「Tiny Sketches」は、2019年3月から高尾が始めた「デイリーコーディング」で制作された作品1500点以上のなかから200点を選出しプリントした展覧会。デイリーコーディングとは、高尾が1日ひとつ、少しでも何かコードを書いて、それをTwitterにアップロードするという修練でもあり日記のようでもある活動だ。紙に出力された作品にはプロジェクターの光が照明として投げかけられ、その輝度に眼が揺らされて、モニターを見ているような心地になる。

連動企画のトーク「NFT, コーディングの観点から考えるメディア・アート」[★]では、畠中実は高尾のオルタナティブ性を、ジェネラティブ・アートは出力物ではなくコーディングに力点があったこと、そしてNFTアートはNFTを使っているという意味ではないはずであり、NFTによってジェネラティブ・アートの成果が作品にできたのではないかと指摘した。いわば、高尾は二重の宙づりのなかでその特異性が成立したということだ。これは慧眼だと思った。続く久保田晃弘はより形式の次元での検討を進める。メディア・アートの定義のうち「作品が流通・受容・再生産される媒体過程そのものを作品の本質としてとらえるアートの呼称」(中井悠『アメリカ文化辞典』)という点に着目し、コーディングとNFTとメディア・アートの位相を考える。NFTが希少性=作家性を人工的につくり上げる一方で、その対極にあるクリエイティブ・コモンズ0(著作権フリー)とNFTは「オーナーシップ」(Braian L. Frye)でつながるというのだ。つまり、NFT(アート)は所有が目的ではなく、所有の表明によるコミュニティへの影響が重要であるため、その公開自体はフリーでも構わないという作品とのかかわり方だ。ここで久保田はNFT(アート)を著作権をなくす行動、著作権がなくても経済が回る可能性であり、メディア・アートを考えるひとつの視点なのではないかと示した。

いまは高尾の取り組みはたくさんの既存の文脈との比喩で語られることを積み重ねて、一体これが何であるのかと切り分けている最中でもあるわけだが、ここで、トークの途中で高尾がポロっと言った、NFTにおける「絶え間ない作品と作家との関係」に戻ってみたい。つまり、久保田の図式に「作家」のレイヤーを追加する必要性自体の検討であり、作家が存命であるときの時間幅での作品について考えることだ。NFTや美術作品全般は所有ではなく「影響」を買うものだとして、そのときの作品はどのようなコードをバックグラウンドに走らせているかではなく、高尾俊介のNFT上に紐づく作品だけでなく、ログ、プロジェクト、Twitterでの高尾の発言、時価を参照し続けているということだ。これもまた既存の作品の在り方との連続性のなかで語りうることでもあるだろう。しかし、NFTにおける「影響」の矛先、あるいは、高尾のデイリーコーディングのコミュニティを含めて考えるなら、それは外せないのだろう。

次回は、「継続性と高尾俊介とSNS」について考えたい。

展覧会は無料でした。作品のほとんどはウェブサイトで鑑賞可能です。


高尾俊介《220219a_Community Statement on "NFT art"》(2022)


★──久保田晃弘、畠中実、高尾俊介、NIINOMI「NFT, コーディングの観点から考えるメディア・アート[Tiny Sketches Shunsuke Takawo's 1st solo Exhibition]」(2022年5月21日)
https://youtu.be/S5aZ1RIUyHQ



公式サイト:https://tinysketches.neort.io/ja/dailycoding

2022/05/15(日)(きりとりめでる)

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