artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
殿敷侃 逆流の生まれるところ
会期:2017/03/18~2017/05/21
広島市現代美術館[広島県]
今日は日帰り西日本の旅。まずは新幹線でズビーッと広島の殿敷侃展へ。1942年に広島に生まれた殿敷は、3歳のとき母とともに爆心地にいたはずの父を捜して二次被爆。20歳のときに病床で絵を描き始め、重苦しい風景画から「開いた口」を描いたポップ調の絵、身近なものを細密に描いたペン画や銅版画、シルクスクリーンへとめまぐるしく作風を展開していく。ちなみに「開いた口」とは爆死者の物言わぬ口であり、身近なものとは父の爪や母の襦袢や原爆ドームのレンガであったりする。82年にヨーロッパを旅行し、ヨゼフ・ボイスの「エコロジー」や「社会彫刻」の思想に触れ、インスタレーションに移行。それから10年足らずのあいだに、いまでいうアートプロジェクトやソーシャリー・エンゲイジド・アートの先駆けとなる仕事を残し、92年に50歳で死去。
ぼくが殿敷さんと知り合ったのは80年代後半のこと。だからぼくにとって殿敷さんはインスタレーション作家、古い言い方をすると環境芸術家であって、それ以前の絵画作品は彼が亡くなるまで見たことがなかった。でも今回の回顧展を見ると、5章立てのうち4章までが絵画・版画に占められ、インスタレーションは最後の1章だけ。しかも最終章はインスタレーションの一部やプロジェクトの写真、ビデオなどの記録で構成されているが、それまでの充実した展示と比べてなにか中途半端で尻切れトンボな印象は否めない。もちろんそれは作品として残る絵画と残らないインスタレーションの違いもあるが、それ以上に、志半ばにして中断された殿敷の「心残り感」を印象づけようとする演出だったのかもしれない。
しかし中途半端といっても、ここには恐るべき光景が広がっていることを見落としてはならない。彼は多くの人たちとともに海岸で拾い集めた流木やプラスチックを焼いて固めたり、廃棄物やタイヤを積み重ねてバリケードを築いたりしていた。それはおそらく、彼の網膜に最初に焼きついたであろう被爆地のイメージに由来するものだが、それだけでなく、彼にとっては知るよしもない20年後の大震災と大津波に見舞われた東北の被災地の光景をも思い起こさずにはおかないものだ。戦災と天災、光(核爆発)と水(津波)の違いはあっても、破滅の光景は大差がないことを教えてくれる(後者が核の脅威にもさらされたことは付け加えておかなければならない)。殿敷はあたかもカタストロフの予行演習をしていたかのようだ。
2017/05/05(金)(村田真)
2017- I コレクション・ハイライト+特集1「実験的映像」
会期:2017/03/18~2017/05/07
広島市現代美術館[広島県]
映像なのでサッと通り過ぎようとしたら、1点だけ目に止まった。首から下の男性が腰を左右に振りながら行ったり来たりするだけのビデオ作品で、作者はブルース・ナウマン、タイトルは《コントラポストによる歩行》、制作年は1968年。あまりのバカバカしさに笑うしかなかった。たまにこういう佳作があるから侮れない。
2017/05/05(金)(村田真)
広島平和記念資料館
殿敷展を見たら寄らないわけにはいかないだろう。タクシーを飛ばして平和記念資料館へ……と思ったら、今日はフラワーフェスティバルで平和大通りは通行止め。しかたなく遠回りして原爆ドーム側から行く。連休も終盤で、おまけに快晴でフラワーフェスも開かれているため、平和記念公園はけっこうな人出。資料館は本館が改修工事のため閉鎖中で、リニューアルされた東館に入る。新たに導入された広島への爆弾投下の映像が圧巻。上から広島市街の俯瞰図が映し出され、そこに爆撃機が飛来して爆弾を投とすのだが、これってどこかで見覚えがあるなと思ったら、キューブリックの『博士の異常な愛情』で将校が爆弾にまたがったまま落下していくシーンとよく似ているではないか! もちろんリトルボーイにはだれも乗ってないけどね。で、空中で核爆発を起こして市内が焼き尽くされるのを見下ろすという、かなり思い切った映像だ。これって米軍の視点? それとも神の視点?
2017/05/05(金)(村田真)
ライアン・ガンダー─この翼は飛ぶためのものではない
会期:2017/04/29~2017/07/02
国立国際美術館[大阪府]
ライアン・ガンダー、1976年イギリス生まれ。40歳そこそこの海外のアーティストに国立美術館全館を使った個展とコレクション展を任せるというのも、なかなかないことだ。さぞかしおもしろいに違いないと思って新大阪で降りて見に行ったら、本当におもしろかった。これはさっき広島市現代美術館で見たブルース・ナウマンの映像と同質のもので、出会い頭いきなりトンチクイズを出されたみたいな、いいかえれば自分の知識と想像力をフル回転させなければ先へ進めないような、そんなアートだ。
例えば、壁に埋め込まれた目玉と眉。近寄ってみるとクルクルと動く。タイトルは《最高傑作》。この作品は東京でも見たことあるが、今回新作として《あの最高傑作の女性版》もある。たしかに眉が細くてまつげもついている。タイトルはシャレでつけてるようでかなり重要だ。というかタイトルと作品を突き合わせることで効果が倍増する。汚れた台座の上に置かれた黒い小さな呪術人形は《僕の魔力はどこにいってしまったの?》、壁の下のほうに穴をあけた作品は《僕はニューヨークに戻らないだろう》、床に英語の書かれた紙クズが置かれているのは《あまりにも英国的というわけではないが、ほぼ英国的な》、床や壁に数千本の黒い矢が斜めに刺さっているインスタレーションは《ひゅん、ひゅん、ひゅうん、ひゅっ、ひゅうううん あるいは同時代的行為の発生と現代的表象と、斜線の動的様相についてのテオとピエトによる論争の物質的図解と、映画の100シーンのためのクロマキー合成の試作の3つの間に》と題されている。デタラメな番号を振られたガイドを見ながら、みんな右往左往するしかない。
2017/05/05(金)(村田真)
ライアン・ガンダーによる所蔵作品展─かつてない素晴らしい物語
会期:2017/04/29~2017/07/02
国立国際美術館[大阪府]
今回はコレクション展のほうもライアン・ガンダーにもてあそばれている。厖大なコレクションから似たもの同士を選び、38組のペアで展示しているのだ。例えば、パブロ・ピカソの《道化役者と子供》とマルレーネ・デュマスの《おじいさんと孫娘》の組み合わせは、タイトルからも察しがつくだろう。ヨーゼフ・ボイスの《カプリ・バッテリー》と島袋道浩の《柿とトマト》は、いずれも野菜と果物を素材とした作品で、菅井汲の《S.14 & S.15》とベルナール・フリズの《51%の真実、48%の虚偽》は、どちらもグネグネ曲がる形態の抽象絵画。高松次郎の《大理石の単体》と草間彌生の《道徳の部屋》は、外側は箱状で中身はグシャグシャ、モーリス・ルイスの《Nun》と榎倉康二の《干渉(STORY-No.46》は「にじみ」がキーワードだ。おおむね色やかたち、素材が似ている作品同士を組み合わせているが、例えば、ルーチョ・フォンタナの《空間概念、期待》と深見陶治の《景》のような離れ技もある。前者は例の切り裂かれたキャンバスで、後者は陶剣なのだ。たしかにペア。
2017/05/05(金)(村田真)