artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

Connections─海を越える憧れ、日本とフランスの150年

会期:2020/11/14~2021/04/04

ポーラ美術館[神奈川県]

久々に足を伸ばして(といっても神奈川県だが)箱根のポーラ美術館へ。着いたのは3時過ぎ、いまは1年でいちばん日が短い時期なので、まずは森の遊歩道をぐるっと散策してみる。あー都会とは空気が違う。なにしろ活火山が近いからな。千年後、ポーラ美術館がポンペイみたいに発掘されないことを願うばかりだ。

「コネクションズ」はサブタイトルにもあるように、日仏の150年にわたる美術交流の一端を見せるもの。美術交流といっても、フランスからの一方的な影響を思いがちだが、150年前の発端は逆で、フランスが日本美術を熱烈に受け入れる「ジャポニスム」から始まった。展覧会は第1章を「ジャポニスム―伝播する浮世絵イメージ」とし、浮世絵と印象派やエミール・ガレの花器などを対置させている。例えば、ジヴェルニーの太鼓橋を描いたモネの《睡蓮の池》と、北斎の《冨嶽三十六景 深川万年橋下》はジャポニスム(ジャポネズリーというべきか)のわかりやすい例だが、ゴッホの《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》と、広重の《高田姿見のはし俤の橋砂利場》の対比は苦しい。ゴッホが浮世絵の熱烈なファンだったのは周知の事実だが、この頃はすでに外面的な模倣を超えて内面化していたはずだから、比較展示しても一目瞭然というわけではない。その印象派と浮世絵の合間に山口晃が割り込んできたり、荒木悠の映像が流れたりして、東西だけでなく今昔の対比も目論まれている。

もっとも興味深かったのは、第2章の「1900年パリ万博―日本のヌード、その誕生と展開」だ。日本に本格的にヌード画をもたらそうとしたのは、パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝だが、その彼が1900年のパリ万博に出品されていたコランの《眠り》に触発されて描いたのが、ポーラ所蔵の《野辺》。第2章ではこの2点を軸に、日本のヌード画の展開を追っている。黒田はそれ以前にも全裸のヌード像を描いているが受け入れられず、コランに倣って半身ヌードの《野辺》を制作。師弟のこの2点はよく似ているだけに、違いの持つ意味は大きい。まず目立つのが肌の違い。コランの白くて柔らかそうな官能的な肌に比べて、黒田のモデルは黄色っぽくて中性的だ。また、コランの女性は眠っているのか、無防備に腕を上げているのに対し、黒田の女性は目を開き、片手で腹部を隠している。さらに、コランの女性の腹部には毛皮がかかっているのに対し、黒田の女性にかかっているのは布という違いもある。こうした違いは、黒田が裸体表現から官能性を排して日本社会にヌード画を根づかせようと工夫したものだという。実際その後の岡田三郎助にしろ満谷国四郎にしろ、ヌード画の多くは腰を布で覆っているし、その影響は、本展には出ていないが、萬鉄五郎の革新的な《裸体美人》にまで及んでいるというのだ。なるほど、納得。

第3章の「大正の輝き」、第4章の「『フォーヴ』と『シュール』」では、印象派からシュルレアリスムまでめまぐるしく変わるフランス絵画の動きを、日本の画家が数年遅れで取り込んでいったことがわかる。ルノワールそっくりの中村彝、セザンヌそっくりの安井曾太郎、ユトリロそっくりの佐伯祐三といった具合に、一方的な影響が暴かれている。そこに森村泰昌を忍ばせることで、日本人の抱く西洋コンプレックスを決定づける。けっこうシビアな展示構成だな。

エピローグはフランスと対等に戦った画家としてレオナール・フジタが取り上げられている。このフジタ作品もそうだが、大半の作品をポーラ・コレクションで賄っているのはさすがだ。しかし「150年」とはいうものの、出品作品は明治から第2次大戦までの前半に集中し、戦後がすっぽり抜け落ちて、現代の森村や山口が唐突に登場するといういささかバランスの悪い配分になっている。もっとも戦後は相対的にフランスの影響力が落ちたから仕方ないけどね。

2020/12/20(日)(村田真)

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大山エンリコイサム展 夜光雲

会期:2020/12/14~2021/01/23

神奈川県民ホールギャラリー[神奈川県]

最近、立て続けに作品発表と著書の出版を行なっている大山の最大規模の個展。大山は主に、グラフィティ(彼の用語によればエアロゾル・ライティング)特有の勢いあるジグザグの線を抽出した「クイックターン・ストラクチャー(QTS)」を用いて、壁画やペインティングなどを制作している。こうした絵画作品のタイトルはすべて「FFIGURATI」に統一され、作品ごとにナンバーが振られている。

最初の部屋は「レタースケープ」シリーズの2点。長さ6メートルほどの台紙に、漢字やアルファベットなどさまざまな言語で書かれた手紙をツギハギしたもので、片隅に「QTS」モチーフが小さく描かれている。どこか絵巻やパピルス文書を思わせるそれは、グラフィティの起源が文字と絵の融合にあることを証しているようだ。これも「FFIGURATI」の比較的初期の作品。次の部屋には2メートルを越す縦長の画面に、少しずつ異なる「QTS」を書いた「FFIGURATI」の新作9点が並ぶ。もっとも大山らしい作品だろう。逆によくわからないのは、黒い板状のスタイロフォームを斜めに天井まで積み上げた3点の立体。タイトルは「Cross Section/Noctilucent Cloud」で、訳せば「断面/夜光雲」となる。展覧会名にもなっている「夜光雲」は、噴霧状のエアロゾルからの連想だろうか。映像を見ると、黒いスタイロフォームを使っているのではなく、明るい色のスタイロフォームを積み上げて黒いエアロゾルを吹きつけているのがわかる。なにもない宇宙空間を切り取った暗黒の断片のようにも見える。

広大なメインギャラリーには、1点の《無題》と5点の「FFIGURATI」(うち2点は1枚の表裏に描かれている)が宙吊りになったり、壁にかけられたりして、スポットライトが当てられている。これこそ「夜光雲」か? 作品の下の床には塗料の滴りが認められるので、その場で制作し(または仕上げ)たのだろう。最後の部屋は真っ白で作品らしきものは見当たらない。よく見るとスピーカーがあり、エアロゾルの噴出音が流れているだけ……。ほかのアーティストなら笑ってしまうところだが、ここは大山だから納得する。あれこれ出している割にテーマも作品も絞れており、統一感のある展示に仕上がっている。が、裏を返せば、会場の広さに比して作品量が少なく、しかも色彩がないこともあって寂しい印象を受けたのも事実だ。

2020/12/19(土)(村田真)

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海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~

会期:2020/11/03~2021/01/11(会期変更)

大倉集古館[東京都]

陶磁器にはまったく興味ないが、この展覧会は興味深く見ることができた。なにが興味深いかって、美術品の破壊と再生を目の当たりにできたからだ。展示は「日本磁器誕生の地─有田」「海を渡った古伊万里の悲劇─ウィーン、ロースドルフ城」の2部構成。1部は古伊万里の紹介だから素通りして、2部へ。ここでウィーン郊外にあるロースドルフ城の陶磁器コレクションの歴史が明かされる。城主のピアッティ家は代々中国や日本の陶磁器をコレクションし、19世紀にこの城を入手してからもコレクションを拡張。ところが第2次大戦後に旧ソ連軍の兵士たちが城を接収し、これらの陶磁器をことごとく破壊して去っていったのだ。まさに蛮行というほかないが、ピアッティ家はこの戦争の悲劇を記憶に留めるため、破片を捨てずに保存公開しているという。

これを知った日本人が古伊万里再生プロジェクトを立ち上げ、破片を調査研究し、一部を復元。西洋では一般に破損した陶磁器は廃棄されるので、日本のように高度な修復技術はないらしい。今回は部分的に修復したもの(足りない部分はそのままにして破片を組み上げる「組み上げ修復」)、足りない部分は補ってオリジナルのとおり修復したもの、および無傷のものを並べて見せている。陶磁器は同じ器を何点もセットでつくることが多いので(もちろん厳密には同じでないが)、修復前と修復後を比較展示することができるのだ。日本で修復された器は、どこが割れたのかわからないほど完璧に復元されていることに驚くが、欠けた部分を空白のまま残した組み上げ修復にも新鮮な驚きと危うい美しさがある。しかしいちばん驚いたのは、破片をそのまま床に並べた展示だ。これはまるで現代美術のインスタレーションではないか。

2020/12/18(金)(村田真)

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PUBLIC DEVICE──彫刻の象徴性と恒久性

会期:2020/12/11~2020/12/25

東京藝術大学大学美術館陳列館、絵画棟大石膏室[東京都]

これはおもしろい。2020年のベスト3に入るかも。公共彫刻をめぐる問題に焦点を当てた展覧会で、企画は小谷元彦と森淳一、共同キュレーターに小田原のどかが入っている。小田原は「展覧会に寄せて」のなかで、出品作家のひとり会田誠の「モニュメントには何らかの罪深さがある」「美術家としてモニュメントを作りたくなる誘惑への自制、自戒」という言葉を引き、「公共彫刻」における「自制、自戒」が本展に通底しているという。出品作家は20組。うち北村西望、本郷新、菊池一雄の3人は戦前・戦後を通じてモニュメントを手掛けてきた「旧世代」だ。北村はモニュメントの親分ともいうべき長崎の《平和祈念像》に関連するデッサン、本郷は旭川にある《風雪の群像》のプランドローイング、菊池はもともと軍人像が鎮座していた台座に3人の女性ヌードを載せた《平和の群像》のマケットなどを展示。菊池の作品は芸大所蔵だが、あとの2人はアウェーなのによく借りてこれたなあ。

戸谷成雄は日本の現代彫刻の転換点ともいうべきデビュー作《POMPEI・・79》など、森淳一は近代日本の問題が凝縮したいわゆる軍艦島をモチーフとする「Hashima Island」、小谷元彦はミケランジェロ作のダヴィデ像を模した高さ5メートルの女子高生モニュメント、青木野枝は未公開だったインスタレーションのマケットや作品解体中の映像、会田は「モニュメント・フォー・ナッシング」シリーズの写真や資料、および同シリーズの一環として兵庫県立美術館で発表した巨大ハリボテ彫刻の一部を展示。ある意味、自虐的ともいえそうな「自制、自戒」に満ちた作品群だ。

会場は絵画棟の大石膏室に続く。いまではほとんど無用の長物と化した大石膏室だが、同展には絶好の舞台だ。まず目に入るのが、騎馬像のあいだに挟まったブヨブヨの生命体みたいな椿昇のバルーン彫刻《Mammalian》。等身大の騎馬像が飲み込まれそうなほどデカイ。井田大介の《欲望の台座》は、彫刻に近くて遠いマネキンの「皮を剥ぐ」ことで近代彫刻を逆照射する。作品配置図にはロダンの《青銅時代》の石膏像も含まれ、(2020修復)と記されている。はてどういうことかとよく見ると、台座の欠けた部分が新しい石膏で補われていることに気づく。これか? その前には、サイドコアが「東京藝術大学」の文字をコピーした石膏の看板を台座に据えている。石膏に支えられてきた日本の美術教育のモニュメント。いや、墓碑か。

2020/12/16(水)(村田真)

桑久保徹「A Calendar for Painters without Time Sense. 12/12」

会期:2020/12/12~2021/02/07

茅ヶ崎市美術館[神奈川県]

コロナ禍で企画展の自粛や延期が重なったせいか、ようやく年末になって見応えのある展覧会が増えてきた。これもそのひとつ。桑久保が2014年から、12人の画家のスタジオをカレンダー仕立てで描いてきたシリーズが完成、全12点およびLPレコード付きドローイングを公開している(1点は海外にあるため映像を出品)。なぜカレンダーかといえば、日本で西洋名画を身近に親しむメディアがカレンダーだったからではないか。画集のようにわざわざ開く必要がなく、毎日のように眺めるし、月替わりで異なる作品が鑑賞できるのだから。

桑久保が取り上げた画家は、1月のピカソから、ムンク、フェルメール、アンソール、セザンヌ 、ボナール、スーラ、ゴッホ、ホックニー、マグリット、モディリアーニ、そして12月のマティスまで、フェルメールを除いて近現代の巨匠たちばかり。おそらく作者が影響を受けた画家たちなのだろう。おもしろいのは、彼らのスタジオを描くという設定なのに、背景はマティス以外すべてオープンエアの浜辺であること。さらに瞠目すべきは、それぞれの代表作がことごとく描き込まれていることだ。つまり1枚の画面のなかに、巨匠たちの絵が「画中画」として何十点も模写されているのだ。痛快なのは、もともと画中画を描いているフェルメールやホックニーやマティスには「画中画中画」まであること(笑)。細密というほどではないけれど、1点1点どの作品か特定できるくらい忠実に再現されていて、画中画ファン(少数ながらいる)にとっては垂涎のシリーズというほかない。

それだけではない。例えば、1月のピカソは《ゲルニカ》に合わせてか全体がモノクロで描かれ、3月のフェルメールには全作品だけでなくヴァージナルやカメラオブスクーラまで並べられ、5月のセザンヌは遠景にサント=ヴィクトワール山らしき山塊を望み、8月のゴッホは星月夜の見事な夜景で、10月のマグリットは作品の半分以上が空に浮き、12月のマティスは眼下に海岸を見渡せる赤い室内風景になっている、といったように、それぞれの画家のアトリビュートを画面のどこかに忍ばせているのだ。これは何時間でも見ていられるなあ。ところで、タイトルの最後に「12/12」とあるけど、会期が12/12からなのは偶然か?

2020/12/13(日)(村田真)

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