2021年09月15日号
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artscapeレビュー

Connections─海を越える憧れ、日本とフランスの150年

2021年02月01日号

会期:2020/11/14~2021/04/04

ポーラ美術館[神奈川県]

久々に足を伸ばして(といっても神奈川県だが)箱根のポーラ美術館へ。着いたのは3時過ぎ、いまは1年でいちばん日が短い時期なので、まずは森の遊歩道をぐるっと散策してみる。あー都会とは空気が違う。なにしろ活火山が近いからな。千年後、ポーラ美術館がポンペイみたいに発掘されないことを願うばかりだ。

「コネクションズ」はサブタイトルにもあるように、日仏の150年にわたる美術交流の一端を見せるもの。美術交流といっても、フランスからの一方的な影響を思いがちだが、150年前の発端は逆で、フランスが日本美術を熱烈に受け入れる「ジャポニスム」から始まった。展覧会は第1章を「ジャポニスム―伝播する浮世絵イメージ」とし、浮世絵と印象派やエミール・ガレの花器などを対置させている。例えば、ジヴェルニーの太鼓橋を描いたモネの《睡蓮の池》と、北斎の《冨嶽三十六景 深川万年橋下》はジャポニスム(ジャポネズリーというべきか)のわかりやすい例だが、ゴッホの《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》と、広重の《高田姿見のはし俤の橋砂利場》の対比は苦しい。ゴッホが浮世絵の熱烈なファンだったのは周知の事実だが、この頃はすでに外面的な模倣を超えて内面化していたはずだから、比較展示しても一目瞭然というわけではない。その印象派と浮世絵の合間に山口晃が割り込んできたり、荒木悠の映像が流れたりして、東西だけでなく今昔の対比も目論まれている。

もっとも興味深かったのは、第2章の「1900年パリ万博―日本のヌード、その誕生と展開」だ。日本に本格的にヌード画をもたらそうとしたのは、パリでラファエル・コランに学んだ黒田清輝だが、その彼が1900年のパリ万博に出品されていたコランの《眠り》に触発されて描いたのが、ポーラ所蔵の《野辺》。第2章ではこの2点を軸に、日本のヌード画の展開を追っている。黒田はそれ以前にも全裸のヌード像を描いているが受け入れられず、コランに倣って半身ヌードの《野辺》を制作。師弟のこの2点はよく似ているだけに、違いの持つ意味は大きい。まず目立つのが肌の違い。コランの白くて柔らかそうな官能的な肌に比べて、黒田のモデルは黄色っぽくて中性的だ。また、コランの女性は眠っているのか、無防備に腕を上げているのに対し、黒田の女性は目を開き、片手で腹部を隠している。さらに、コランの女性の腹部には毛皮がかかっているのに対し、黒田の女性にかかっているのは布という違いもある。こうした違いは、黒田が裸体表現から官能性を排して日本社会にヌード画を根づかせようと工夫したものだという。実際その後の岡田三郎助にしろ満谷国四郎にしろ、ヌード画の多くは腰を布で覆っているし、その影響は、本展には出ていないが、萬鉄五郎の革新的な《裸体美人》にまで及んでいるというのだ。なるほど、納得。

第3章の「大正の輝き」、第4章の「『フォーヴ』と『シュール』」では、印象派からシュルレアリスムまでめまぐるしく変わるフランス絵画の動きを、日本の画家が数年遅れで取り込んでいったことがわかる。ルノワールそっくりの中村彝、セザンヌそっくりの安井曾太郎、ユトリロそっくりの佐伯祐三といった具合に、一方的な影響が暴かれている。そこに森村泰昌を忍ばせることで、日本人の抱く西洋コンプレックスを決定づける。けっこうシビアな展示構成だな。

エピローグはフランスと対等に戦った画家としてレオナール・フジタが取り上げられている。このフジタ作品もそうだが、大半の作品をポーラ・コレクションで賄っているのはさすがだ。しかし「150年」とはいうものの、出品作品は明治から第2次大戦までの前半に集中し、戦後がすっぽり抜け落ちて、現代の森村や山口が唐突に登場するといういささかバランスの悪い配分になっている。もっとも戦後は相対的にフランスの影響力が落ちたから仕方ないけどね。

2020/12/20(日)(村田真)

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